☳29〕─2・A─日本人が知らない「済州島4・3事件」の真実。~No.103 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 済州島に於ける、日本による朝鮮人女性強制連行の「従軍慰安婦」は歴史的ウソ、捏造であったが、韓国人による自国民虐殺は歴史的事実である。
 猟奇的残虐性は、中国人が最も高く、韓国人・朝鮮人は中位で、日本人は最下位である。
 歴史的事実として、朝鮮人は中国人に人間と認めて貰う為に虐殺を狂喜して実行していた。
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 縄文人(日本土人)の子孫である日本民族は、漢族中国人や半島系朝鮮人ほどの冷血漢ではなく冷酷非情・冷酷非道を持っていない。
 ただし、中国化・朝鮮化しつつある現代の日本人は日本民族ではなくなりつつある。
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 歴史的人道貢献を行った日本の軍部・陸軍は、非人道行為を繰り返す中国共産党人民解放軍(現代の中国軍)や北朝鮮軍そしてソ連軍・共産主義勢力に比べて正気で真面であった。
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 現代日本のリベラル派や革新派、左翼・左派・ネットサハ、過激派には、如何なる歴史も語る資格はない。
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 2022年9月30日 YAHOO!JAPANニュース 集英社オンライン「日本人が知らない“韓国現代史最大のタブー”「済州島4・3事件」の真実
 映画『スープとイデオロギー』のヤン ヨンヒ監督に内田樹が聞く
 3万人もの島民が虐殺され、韓国現代史最大のタブーといわれる「済州島4・3事件」。自身の母親の姿を通して、この残酷な事件を描いたドキュメンタリー映画「スープとイデオロギー」が世界中から支持を集めている。この作品を絶賛する思想家の内田樹と、ヤン ヨンヒ監督の対談をお届けする。
 ドキュメンタリー映画「スープとイデオロギー」は、「ディア・ピョンヤン」「かぞくのくに」などで、朝鮮半島と日本の悲劇的な歴史のうねりを生きる在日コリアン家族の肖像を描いてきたヤン・ヨンヒ監督が、自身の母を映したドキュメンタリー作品。
 多数の島民が犠牲者になり、韓国現代史最大のタブーといわれる「済州島4・3事件」の体験者である母の姿を通して、国家の残酷さと、運命に抗う愛の力を描いた力作だ。
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「スープとイデオロギー
1948年、当時18歳の母は「済島4・3事件」の渦中にいた。朝鮮総連の熱心な活動家だった両親は、「帰国事業」で3人の兄たちを北朝鮮へ送った。父が他界したあとも、“地上の楽園” にいるはずの息子たちに借金をしてまで仕送りを続ける母を、ヨンヒは心の中で責めてきた。心の奥底にしまっていた記憶を語った母は、アルツハイマー病を患う。消えゆく記憶をすくいとろうと、ヨンヒは母を済州島に連れていくことを決意する
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 北朝鮮に3人の息子を送ってしまった葛藤
 「ディア・ピョンヤン
 内田 僕はもともと、神戸女学院大学で社会人を対象にゼミを十年ほどやってきまして、退職した後も受講生たちが引き続きゼミを受けたいとのことで、寺子屋ゼミをそこから続けています。
 朝鮮半島近現代史については寺子屋ゼミでも取り上げていますし、僕自身も韓国で講演をする際に、『スープとイデオロギー』に出てきた済州島4・3事件の慰霊碑にお参りをしてきました。
 ヤン監督の作品はいくつか見ていますが、ドキュメンタリーの「ディア・ピョンヤン」と「スープとイデオロギー」が圧倒的に面白かったです。
 ヤン ありがとうございます。私が2005年に最初に発表したドキュメンタリー作品が「ディア・ピョンヤン」ですが、これは10年間かけて、父をはじめとした家族を中心に撮っていて、帰国事業で北朝鮮に帰っている3人の兄たちも撮影しています。
 彼らに迷惑がかからないようにとはもちろん思いましたが、気を遣い過ぎて、言いたいことを言えないような作品にする気は全くなかったです。兄たちを守りつつ、どこまで正直に描けるか。ナレーションにしても、平均台を歩くように言葉を一つ一つ選んで、たとえば金日成を呼び捨てにするか、様をつけるか、首領様まで付けるか……など何か月も悩んだりしているうちに十年以上もかかってしまいました。
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 「ディア・ピョンヤン
 日本で生まれ育ったコリアン2世の映像作家・ヤン ヨンヒが自身の家族を10年にわたって追い続けたドキュメンタリー。朝鮮総連の幹部として活動に人生を捧げた両親と娘との離別と再会、そして和解を描く。ベルリン国際映画祭フォーラム部門・最優秀アジア映画賞をダブル受賞するなど、アジアのみならずヨーロッパやアメリカで観客からの圧倒的な支持を集めた
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 それで2005年の8月に映画が完成した翌月、平壌に行って兄に映画の完成を伝えてきました。兄に映画を見てもらうことは出来ないけれども、北朝鮮を非難するわけでも告発するわけでもなく、家族の話として作っていることや、父を主人公として映すことによって、兄たちのことはサイドストーリーに出来るのでインタビューする必要もなかったということを話しました。
 タイトルが「ディア・ピョンヤン」だと伝えると、「渋いのお。やっぱりニューヨーク帰りは違うのお」「映画監督はかっこええのお。頑張りいや」と言ってくれました。同時に「お前ぐらいは、俺らの分までやりたいように生きて欲しい。何百回結婚しようが、どこの国籍に変えようが、どこに移住しようが全然構わない」とも。その言葉を聞いて、全然変わってないなと思いました。
 一方で、こんなことを言う兄があの国で三十年以上、どう気持ちに折り合いをつけて暮らして来たのかという疑問と悲しみが膨らみました。私としては一作目で、今まで自分の中で抑えてきたものを出して、表現できたらそれでいい。家族映画が一本撮れたら、あとは飲み屋かなんかして、母の北朝鮮への仕送りを手伝おうかな、くらいに思っていたんです。
 内田 北朝鮮の実態については、私たちも本当に情報がなく、どれを信じればいいのか分からないというのが大きな問題でした。ヤン監督の作品を見ると、フィクションでは描けない、演技指導では絶対に表せない複雑な現実の深さを感じます。あのお父様の存在感と北朝鮮に息子さんを3人送ってしまったことに対する葛藤の表情は劇映画では出せない。これがドキュメンタリーの底知れぬ力だな、と感じさせられました。
 「済州島には行った事がない」と話していた母だが……
 「スープとイデオロギー」ではアニメーションを駆使して、ヤン監督の母の10代までの経験を鮮やかに再現している
 ヤン 「ディア・ピョンヤン」では父に、「息子たちを北に送ったことを後悔してる?」と聞きました。実はあの質問がしたくて映画を作ったようなものです。残酷な質問だから、十年間ずっと聞けずにいました。
 おそらく無視されると思っていたので、無視されている画だけでも撮ろうと思っていたのですが、父は「後悔してなくはない。でも後悔していると言えない立場にいることも分かっている」と言いました。
 当時は、朝鮮総連の幹部として、自分たちがやっていることを間違っているとは思っていなかったのでしょう。この様子を発表すると、組織の中での父親の立場が危うくなるとも思いましたが、率直な気持ちを言わせてあげたいとも考えました。
 内田 ところが、朝鮮総連はヤン監督に「ディア・ピョンヤン」を作ったことに対して謝罪文を要求しましたよね。これを拒否すると同時に、その回答として制作したのが、「愛しきソナ」そして、今回の「スープとイデオロギー」。家族のドキュメンタリーは三部作となったわけですね。
 ヤン はい。読者の方々のために「スープとイデオロギー」に連なる済州島4・3事件についてあらためて説明をします。この事件は、半島の南半分での単独選挙に反対する済州島民が1948年4月3日に起こしたハルラ山での武装蜂起に対し、アメリカ軍政下での韓国軍と警察が「武力鎮圧」「赤狩り」の名のもと数年にわたって島民を無差別に拷問し投獄し虐殺した惨劇のことです。遺族の届けがあった犠牲者だけでも1万4千人余り。トータルでは3万人の命が犠牲になったと言われています。
 結局1948年5月に単独選挙が決行され、8月に大韓民国が(9月にDPRKが)樹立されます。済州島での虐殺は、大韓民国が建国された後に「焦土化作戦」と言われる惨劇に発展し、さらなる犠牲に拡大します。恐怖の中、島民は当然、“殺人者”たちがやってきた本土を避け、山の洞窟に逃げたり日本に密航します。
 そうして多くの人が日本に逃れて来たんです。本来なら政治難民として保護されるべきはずが、日本政府は無慈悲でした。当時18歳だった私の母は、運よく大阪に辿り着きました。
 その後、日本では1959年から在日朝鮮人の帰国事業が始まりました。金日成のスピーチに感銘を受け、北朝鮮は地上の楽園だと多くの在日が信じたんです。さらに日本のメディアも北への帰国を促したものだから、私の3人の兄も含めて、多くの人が北に渡ることになりました。
 済州島4・3事件については私自身、心の片隅に宿題のように残っていたものがありました。『ディア・ピョンヤン』を作っていたとき、この事件の本を読んでいたのですが、当時は日本生まれの母がそこまでこの事件にコミットしているとは思っていませんた。
 父は1942年に済州島から大阪に渡ってきて、それ以降、戻っていないので直接は体験していません。なので、遠い親戚は犠牲になっているかもしれない、ぐらいに思っていました。
 父は酔っぱらうと「済州が恋しい」「死んだら済州に埋めてくれ」「統一したら済州に行くんや」と言っていました。母は、「済州島には行った事がない」と言っていたんですが、たまに「ちょっと行った事がある」とか、聞く度に回答が変わるんです。
 徐々に「韓国にいい思い出はない」とか「韓国は残酷」とか、父とは対照的に半島の南に対する母の生理的な拒絶反応が凄くなりました。とにかく頭ごなしに嫌韓でした。
在日コリアンは北に行くしかなかった
 内田 今のお話の中で興味深いのは、お母さんが嫌韓だったということ。そして帰国事業において、南出身の人たちも北を選んだということです。李承晩政権時代(1948年 - 1960年)、韓国政府は在日コリアンに対して棄民政策を行っていたし、その一方で、在日コリアンは心無い日本人たちからは出て行けと言われる。
 だから押し出されるように北に行くしかなかった。在日コリアンは日本からも、祖国から見捨てられたわけです。そういう歴史的背景を、多くの日本人は知らない。だから在日コリアンが持っている韓国政府に対する不信感を、ヤン監督には描いて欲しいんです。
 ヤン そうですね。ところが、韓国を嫌いと言っていた母親が、2009年に父が亡くなった後、少しずつ私を映画監督として認め始めたのか、「オモニのことを映画にするか?」と言って、事件の話を始めたんです。4・3事件当時の恐ろしい記憶や、当時そこに婚約者がいたこと、そして弟と妹を連れて密航船に乗って逃げてきたということを、ものすごく具体的に話し始めました。
 それから証言を撮ろうとしましたが、やはり心の奥の奥に追いやった思い出を呼び起こすのが母もしんどそうで、少しずつしか聞き出せませんでした。話し出すともっと吐き出したくなるようで、そんな風に少しずつ証言を撮っていきました。最初の頃は、これは長編作品には出来ないだろうと思っていました。そこに映画にも登場する、私の婚約者の荒井が家に挨拶に来たんです。
 未だに北朝鮮の指導者の肖像画を壁に掲げている、エキセントリックな在日の家にやって来て「娘さんと結婚させてください」と言う日本人に対する母の反応を撮ろうと思いました。そのとき母は鶏のスープを作って歓迎したんです。あの鶏のスープは娘婿が来た時に作るという風習があるそうです。
 日本のこともあれだけ毛嫌いしていたのに、どういう心境の変化かと母に聞くと「関係ないやん。好きな人と一緒におったらええねん」と言うんです。はよ言うてえやそれ、みたいな(笑)。総連の婦人会の役員として組織の中で長年着ていた鎧を脱ぎ、一人の母親として、半島と日本の間で生きてきた一人の女性としての言葉が出てきたのです。それを聞いて、これは長編になるかもと思い、意識して撮るようになりました。
なぜ日本では歴史問題に関する作品が作られないのか
 内田 今、韓国を中心に、李氏朝鮮からの日韓の関係をテーマにした映像作品が数多くでています。両国の関係が段々ややこしくなって非常に描きにくいものを、エンターテインメントとして描こうとしている。
 けれど、こうしたものを日本人はほとんど作らない。だから19世紀からの日韓の歴史について、両国民の知識の量にどんどん格差が生じている。これは危機的なことです。ヤン監督のお母さんが嫌韓だったということのコンテクストを理解してもらうことは、今の日本の歴史リテラシーじゃ不可能なんですよ。そうした日本人が知るべき物語を、ヤン監督には作品にしていってほしいです。
 ヤン 在日の歴史は日本の歴史でもあり、実は済州島4・3事件も大阪の歴史と直結します。生野区だけではなく、大阪市は蓋を開けると在日が多いですから。こうした問題を自分ごととして受け止められたら、日本の作り手たちももっと面白い作品を作れると思うんです。
 帰国事業で94,000人もの人々が日本から北朝鮮に渡ったというのは、移民の歴史として世界的にも稀なわけです。それなのに、そのことについて描かれている作品があまりにも少ない。悲しい歴史ではあるけれど、コメディや心温まる物語という形で出てきても良いと思うんです。私は、アンタッチャブルに扱われている部分を打ち破っていきたいんです。
 内田 在日コリアンの歴史を数世代にわたって描いたドラマ『PACHINKO』がアメリカで大ヒットしても、日本のメディアはほとんど取り上げません。舞台は日本なのに、異常な目の逸らし方をする。これは日本人が当然知らなければならない事実ですよ。
 ヤン 日本では政治的なものを放映できないと言われているけれど、中国や朝鮮みたいに検閲があるわけではないので、作ればいいと思います。海外では日本について学ぶと、必ず在日に辿り着くんです。そこを突き詰めると日本がさらによく見えたりもする。それなのに日本人は本当に歴史を知らない。
 韓国では昨今、映画などで民主化を取り上げている作品が多いですが、民主化は80年代から始まったのではなく、それこそ済州島4・3事件の頃から脈々と続いてきたんです。何故そこまで戦えるのかと韓国の人に聞くと「国というのは、狂ったらあそこまで狂うんだ。自分の国が腐り始めた時は見過ごさず、止められるところで止めなければならない」と言い、歴史を長い「線」で見ているのだと感じました。
 また、韓国を描こうとすると、日本についても詳しくないといけないということを韓国の作り手はよく分かっています。日本人が歴史を「点」で捉えているのとは対照的です。
 様々な歴史を経て、現代に生きる私たちが互いを理解し合うためには、タブーにして語らないのではなく、本当のことを示すべきだと思います。済州島4・3事件で韓国が何をしたのか。生存者たちが生きている間に、真実を明るみに出そうという動きができたことは本当に良かったと思っています。微力ながら今後私も発信していきたいです。
 反共と旧統一教会問題
 内田 映画が公開されてからの反応はいかがですか?
 ヤン 「何か遠い国の自分とは関係無い話」ではなく、地続きと感じてくれている日本人の方が多い印象です。それは夫の荒井の存在がブリッジになってくれている部分もあるかと思います。彼は完成するまで自分がどう撮られているかとか、一切、何も聞かずに任せてくれました。私のこれまでの映画には日本人が登場しなかったのですが、彼が家族になったことで、母にも大きな学びがあったと思います。
 ただ、「スープとイデオロギー」をどういう風に受け止めるかは、観る方の自由だと思っています。観た人が想像力を広げて、何かを考えるきっかけになれば嬉しいです。私は自分の主張やメッセージを伝えるために編集することはありません。作品の中では人を描きたいと思っているので、「〇〇問題についての映画」といった風にならないように努めています。
 今作も在日についての映画ではなく、うちの母についての映画ですが、そこから母、介護、帰国事業、済州島4・3事件……。観客がそれぞれにドアを開けて迷路に迷い込み、オモニという出口から出て行く。どの入口から入るのかは、見てくれた方が決めればいい。その中でオリジナリティー、普遍性を感じ取るのだと思います。
 朝鮮半島と日本の歴史や矛盾が縮図のように詰まっている私の家族が、そういう作品を作るにあたって良き題材だと思いました。この母について見せることによって、見てくれた方が頭の中で旅をしてくれれば嬉しいです。
 「スープとイデオロギー」は長くタブーとされていた事件を可視化させただけではなく、興行的にも全国でヒットを続けている
 内田 済州島4・3事件を想起するとき、例えば今起きている自民党と旧統一教会の問題も、辿れば終戦後の半島の強烈な反共国家と直結しています。どうして嫌韓の人達が統一教会と結びつくのか。これは近現代史の闇です。日本人はこの、歴史の暗い部分から目を背けてきた。構造的な無知は日本にとって致命的です。
 これらを学術的に研究している人はいますが、エビデンスやロジックでは修正できないものがある。そこをエンターテインメントとして取り上げて、強い物語で人の心を動かすヤン監督のようなクリエイターが今後も登場することを切望しています。
 構成/木村元彦
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「済州島事件」の解説
 済州島事件 さいしゅうとうじけん
 朝鮮半島南方の済州島(さいしゅうとう/チェジュド)で、1948年から起こった反政府闘争。済州島四・三事件ともいう。
 四・三蜂起目次を見る
 1945年8月、日本の敗戦により、朝鮮は36年間にわたる植民地支配から解放された。しかし、北緯38度線を境に、南部には米軍が、北部にはソ連軍が駐留し、さらに冷戦の開始、国内での政治路線についての対立などにより、統一国家の実現は困難に直面していた。47年9月に開かれた第2回国連総会は、48年3月末までに国連委員会の監視下で総選挙を行い、「国民政府」を樹立することを決議したが、ソ連軍政当局と北朝鮮人民委員会は、駐留軍の撤退が先決であるとし、38度線以北へ国連委員会が立ち入ることを拒否した。アメリカは、南朝鮮だけでも選挙を実施するという内容の決議を国連小委員会で採択させた(48年2月)。これが実施されれば、南北分断が固定化されるのは明らかであった。
 南朝鮮では、1948年2月初旬にこの単独選挙に反対するゼネストが行われた。済州島でも、同年3月1日(三・一独立運動記念日)に大規模なデモが行われ、4月3日未明には10か所以上の警察署が襲撃された(四・三蜂起(ほうき))。これに対して、鎮圧のために本土から国防警備隊、警察隊が送られた。多数の一般島民と闘争部隊は、同島の漢拏山(かんださん/ハルラサン)に日本軍が残した塹壕(ざんごう)などに立てこもり、断続的にパルチザン闘争を繰り返した。5月10日の単独選挙(済州島の2人の議員は選出できず、翌年5月に再選挙)により、8月大韓民国(韓国)が成立したが、その2か月後の10月には、済州島の闘争を鎮圧するために移動を命ぜられた麗水(れいすい/ヨス)の国防警備隊が、南朝鮮労働党の影響を受けて命令を拒否し、反乱するという事件も発生した。しかし、政府側は一般島民とパルチザン部隊を分離させ、激しい攻撃を繰り返し、翌49年5月に闘争はいちおうの終息をみた。その間の死者は少なくとも3万以上に及んだといわれる。1950年6月、朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)すると、済州島ではふたたびパルチザン闘争が活発化し、54年9月ころまで続いた。
 [中村秀紀]
 1980年代後半から活発化する真相糾明運動目次を見る
 その後、これらの事件は、「反共」を国是とする韓国においては、「共産主義者による暴動」であると評価され、論議そのものがタブー視され続けた。1960年4月革命(四・一九革命)を契機とする真相糾明運動も、翌年の五・一六軍事クーデター勃発(ぼっぱつ)により挫折(ざせつ)してしまった。済州島出身者が多数居住する日本では、旧南朝鮮労働党関係者や小説家金石範(きんせきはん/キムソクポム)らの努力により、ある程度の事実は知られていたが、本国韓国との関係は断たれたままであった。
 しかしながら、1987年の6月抗争(大統領全斗煥(ぜんとかん/チョンドファン)、与党民正党代表委員盧泰愚(ろたいぐ/ノテウ)合作の「六・二九民主化宣言」を引き出し、金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)らが復権)を契機とする韓国の民主化の進展は、真相糾明運動の再開を促し、1988年には事件発生40周年を記念して多くの研究成果と文学作品が刊行された。翌年には現地で初めて犠牲者の追悼行事が開催された。また、『済州新聞』に「四・三の証言」という記事が連載され(1990年『済民日報』に「四・三は語る」として続編連載)、専門研究機関である「済州四・三研究所」が設立されるなど、真相糾明の動きが一気に高まった。
 1993年「歴史の立て直し」を掲げる金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)政権が発足すると、事実の検証と評価の論議が活発になった。済州道議会には真相調査や名誉回復・慰霊事業のための四・三特別委員会が設置され、国会に四・三特別法の制定と四・三真相糾明特別委員会の設置を求める請願を行った。その後も、道議会や道民、済州島選出議員などにより請願が繰り返された。また、道民らによる調査活動も盛んになった。これらの動向には、台湾の国民党政府が「二・二八蜂起」に対する名誉回復と被害補償を行ったことや、韓国各地で解放直後から朝鮮戦争期に発生した「良民虐殺事件」の真相解明を求める運動が発生したことが、大きく影響した。ただし、これに反発した保守派が、「共産主義暴動論」を展開する事例も散見された。
 1995年済州道議会は、『四・三被害調査第一次報告書』を発刊した。その一方で、97年には四・三事件を題材とするドキュメンタリー『レッド・ハント』(赤狩り)の上映者である徐俊植(じょしゅんしょく/ソジュンシク)(1948― )が国家保安法違反で検挙されるなど、事件がなおもタブーであることがあらわとなる事態も生じた。しかし、同年末真相糾明と関係者の名誉回復を公約に掲げる金大中が大統領に当選したことは、事件見直しの絶好の機会となった。1998年事件発生50周年を迎え、各地で多彩な行事が催され、慰霊祭には政府代表が初めて参加した。そして、ついに2000年1月には「済州四・三真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法」が公布された。ただし、この法律が、事件を「済州四・三」とだけ称していて、「暴動」とも「抗争」とも「蜂起」ともよんでいないことからわかるように、事件の性格をどのように評価するかについては、いまだ決着していない。
 [並木真人]
 『金奉鉉著『済州島血の歴史――「4・3」武装闘争の記録』(1978・国書刊行会)』▽『金石範著『火山島』全7巻(1983~1997・文芸春秋)』▽『ジョン・メリル著、文京洙訳『済州島四・三蜂起』(1988・新幹社)』▽『済州島四・三事件四〇周年追悼記念講演集刊行委員会編『済州島四・三事件」とは何か』(1988・新幹社)』▽『済民日報四・三取材班著、金重明他訳『済州島四・三事件』第1巻~第5巻、以下続刊(1994~・新幹社)』
 [参照項目] | 金泳三 | 金石範 | 金大中 | 済州島
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 2021年4月5日 西日本新聞「韓国・済州島「アカ狩り」の悲劇 米軍政下、3万人無差別虐殺 
 池田 郷
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 済州島の地図
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 島内には各所に「済州島4・3事件」の犠牲者を慰霊する碑がある
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 済州4・3犠牲者遺族会の金正勲副会長は父と伯父と生き別れた
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 事件をテーマにした小説を書き、軍事独裁政権の弾圧を受けた玄基栄さん
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 事件後、日本へ密入国した姜昌斗さんは2000年代に故郷の済州島へ戻った
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 済州島の地図
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 島内には各所に「済州島4・3事件」の犠牲者を慰霊する碑がある
 菜の花が咲き競う韓国南西部のリゾート地・済州島の春には、血に塗られた歴史がある。米軍政下の1948年4月3日、朝鮮半島の統一を訴える左派勢力の武装蜂起に端を発した「済州島4・3事件」。54年9月まで当局は共産主義者を一掃するため、無関係の島民を含む約3万人を虐殺。反共を旗印にした軍事独裁政権も「事件は共産主義者の暴動」と烙印(らくいん)を押したため、遺族や関係者は長く口にすることさえ許されず、なお不明点が多い。被害の実相に触れようと事件にゆかりのある人々を訪ねた。 (済州島で、池田郷)
■消息不明73年
 「ソウルの刑務所に収容された父や伯父の消息は、事件後73年の今も分からない」。済州4・3犠牲者遺族会の金正勲(キムジョンフン)副会長(75)は伏し目がちに語る。
 当時の朝鮮半島は北緯38度以北をソ連、以南を米国が分割統治していた。米軍政が48年3月、南朝鮮単独での総選挙を5月に実施することを決めると、共産主義政党の南朝鮮労働党済州島委員会は「南北分断を決定づける」と反発。翌4月に武装蜂起した。
 島では単独選挙を成功させたい米軍政の意向を受けて、共産主義者を摘発する「アカ狩り」が激烈を極めた。韓国の初代大統領となる李承晩(イスンマン)政権は大規模な取り締まりのため島外から軍や警察のほか、北朝鮮を追われた右翼団体「西北青年会」の若者らを島に送り込んだ。当局側は姿を隠した関係者をあぶり出すように集落を焼き払い、無関係の高齢者や母子の虐殺、性暴力に手を染めた。
 金さんが3歳だった48年12月、事件に無関係の父が拘束された。父は形だけの軍事裁判にかけられて懲役20年の実刑を言い渡された。翌年に伯父も捕まり、無期懲役判決を受けた。全国の刑務所で、事件に関連したとして軍事裁判を受けた約2500人の服役者が収容されたという。
 東西冷戦を背景にした事件は、南北分断を決定的にする朝鮮戦争(50~53年)の呼び水にもなった。服役者は韓国に侵攻した北朝鮮軍の捕虜になったり、殺されたりしたとされるが、多くは消息不明だ。
 「朝鮮戦争休戦後も警察などが島民を監視した。誰かが『4・3』と口にするだけで捕まり、殴られた。長く家族の中でも話題にできなかった」(金さん)。
 空気が変わったのは、革新系の金大中(キムデジュン)政権が2000年に「4・3真相究明特別法」を制定してからだ。済州島は革新系政党の地盤の一つ。盧武鉉ノムヒョン)、文在寅(ムンジェイン)両政権も事件の真相解明に取り組んだ。
 当時の軍事裁判について済州地裁は今年3月、金さんの父や伯父ら335人全員に無罪を言い渡した。金さんは「名誉回復に時間を要したが、ようやく肩の荷が下りた」と話す。
■確執抱え死別
 島内で日本風のラーメン店を営む姜昌斗(カンチャンドゥ)さん(76)も、4・3事件に人生を翻弄(ほんろう)された一人だ。
 姜さんの両親は第2次世界大戦中、日本で暮らしていた。1944年に故郷の済州島にいた祖父が体調を崩し、姜さんを身ごもっていた母は看病のため島へ帰った。だが、45年に終戦を迎えて母は日本に戻れなくなり、島で生まれた姜さんも父と生き別れになった。
 戦後の島は深刻な食糧難に陥った。母は乳飲み子の姜さんを育てるため島の男性と再婚。その男性もほどなく事件の犠牲になった。姜さんは12歳の時、実父を頼ろうと木造の密航船で日本を目指したが摘発され、長崎県大村市にある法務省の施設に収容された。
 韓国政府が密航者の強制送還の受け入れを拒んだことから、姜さんは大阪にいた父に引き取られた。父は北朝鮮と関係が深い在日本朝鮮人総連合会朝鮮総連)関係の仕事をしており、姜さんは朝鮮学校に通った。
 事件以降、難を逃れるため済州島を逃れ、日本に渡った人たちが少なくなかった。在日朝鮮人として大阪市などでコリアタウンを形成し、今に至る。
 関西で新聞配達やナイトクラブ従業員などの仕事を経て、横浜や仙台で料理人として成功した姜さん。だが、再び家族を引き裂かれる運命が待ち受けていた。朝鮮籍から韓国籍への変更を望んだ姜さんと、北朝鮮の体制を支持する父との確執だった。
 姜さんは悩んだ末、80年代後半に韓国籍を取得した。年を重ねると、ますます郷愁が募った。「最後は島で死にたい」。島に戻り、2004年にはラーメン店を構えたが、父は最後まで反対した。親子のわだかまりが解消しないまま父が他界したのが、今も心残りだ。
■拷問も発禁も
 「公権力がひた隠しにしてきた事件の歴史を闇に葬れば、作家として自分の存在はうそになるとの思いに至った」。島出身の作家、玄基栄(ヒョンキヨン)さん(80)は軍事独裁朴正熙(パクチョンヒ)政権下の1978年、韓国で初めて4・3事件をテーマにした小説「順伊(スニ)おばさん」を発表した。
 「アカ」のぬれぎぬを着せられて無念の死を遂げた島民たちの苦悩を描いた作品だった。反共を掲げる朴政権は、共産主義者の摘発という大義を揺さぶりかねない小説を警戒したとみられる。玄さんは拘束され、激しい拷問を受けた。小説も80年、発売禁止に。玄さんによると、ようやく書店に並べられるようになったのは、87年の民主化を経て90年代半ばになってからだったという。
 朝鮮王朝時代、済州島は権力闘争に敗れた支配階級たちの流刑地だった。日本統治時代の大戦末期は、旧日本軍が島に地下要塞(ようさい)を築くなど米軍との決戦に備えて軍事拠点化した。そして4・3事件では「アカい島」のレッテルを貼られ、島民の約1割が犠牲になった。
 当時、済州島以外の各地でも南北分断を案じる左派による南朝鮮単独選挙の反対運動が起きていた。だが、済州島ほどの激しい弾圧を受けた地域はなかった。朝鮮半島有数の美しい島が捨て石のように扱われたのは、韓国本土の人々にあるという島への根深い差別意識と無縁でないのだろう。
 事件から70年目の2018年4月、韓国最高峰の漢拏山(ハルラサン)(1947メートル)のふもとにある4・3平和公園で犠牲者追悼式が営まれた。「犠牲者の悲しい魂は今、春の野原に黄色い菜の花として群れをなして咲いている。3万という莫大(ばくだい)な死は私たちに『人間とはいったい何で、国家とはいったい何であるか』を深く考えさせる」。玄さんは追悼の辞でこう語りかけた。
 350人が一度に虐殺される事件最大の悲劇に見舞われた済州市北村の4・3記念館には、玄さんの小説をモチーフにしたパステル画がある。頭に銃撃を受けて息絶えた母の亡きがらにすがって乳房を吸う幼子の姿が、民族史に刻まれた悲劇を今に伝える。
 「済州島4・3事件」前史
 1945年8月、日本統治から解放後の朝鮮各地で建国準備委員会が発足し、民族統一を目指す民間自治組織・人民委員会に改編された。米軍政は人民委員会を左翼勢力とみなし、日本統治に協力した「親日派」や右翼勢力を利用して全国的に取り締まった。
 済州島では、日本統治期の「三・一独立運動」を記念した47年3月のデモで、警官が見学人らに発砲して6人が死亡した事件後、米軍政への島民の感情が著しく悪化した。抗議の大規模ゼネストが起きると、島外から警察や右翼青年団が島に送り込まれて関係者を相次ぎ摘発。約1年後に起きる済州島4・3事件の呼び水となった。
 島民を拘束して木に縛り付ける当局側の警備隊員たち。多くが銃殺されたという=済州4・3犠牲者遺族会提供」
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