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日本を侵略した蒙古軍の主力は高麗軍兵士と投降高麗人兵士で、蒙古兵は少なかった。
日本人を無慈悲に猟奇的に虐殺したのは、蒙古兵ではなく、高麗軍兵士と投降高麗人兵士であった。
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2022年10月22日 MicrosoftNews 婦人公論.jp「『ブラタモリ』で対馬特集!「通説」4万人で襲来した蒙古兵は鎌倉武士団にとってそこまで強大な敵ではなかった?両軍の真の戦力差と「対馬海流」というハンディ
播田 安弘
2022年10月22日の『ブラタモリ』は対馬特集。「国境の島・対馬 〜日本史最前線!国境の島が果たした役割とは?」 というテーマで、蒙古襲来の謎をタモリさんがブラブラ歩いて解き明かす、という内容が放映されます。そこで今回元寇の謎をサイエンス的な視点で解き明かして反響を得た、東海大学海洋工学部で非常勤講師を務めた播田安弘さんの記事を再配信いたします。
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ピラミッドの内部構造を素粒子によって画像観測したというニュースが話題になりましたが、進歩した科学技術は、いまや考古学の分野にまで及び始めています。一方で従来の歴史学では、科学や物理に明らかに反しているにもかかわらず、「結論」あるいは「通説」としてまかり通っているものが少なからずあると話すのが長年、船の設計にかかわった播田さんです。特に文永の役についてよく聞く「迎え撃つ鎌倉武士団に対し、蒙古軍は圧倒的に強大だった」という話には疑問に思うところが多いそうで――。
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【絵】蒙古軍を迎え撃つ日本側の騎馬武者たち
蒙古軍を迎え撃った日本の戦力
では、蒙古軍を迎え撃った日本の戦力はどれほどのものだったのでしょうか。これについては、さまざまな二次資料があり、近年になって刊行された歴史研究家や軍事研究家の著作などもかなりの数にのぼります。
そのなかで信頼がおけると思われる軍事研究によれば、博多で蒙古軍と戦った、御家人たちで編制された鎌倉武士団は、騎馬兵が約5300騎、郎党・歩兵が約5000名であったといわれています。
江戸時代の儒学者・大橋訥庵が1853(嘉永6)年に著した『元寇紀略』によれば、御家人たちの兵力は小弐景資(かげすけ)勢3000騎、菊池・赤星勢800騎、松浦党1000騎、山田・詫磨(たくま)勢230騎、粟屋・日田勢200〜300騎で合計5300騎ほどであったとのことです(前出・北岡正敏『モンゴル襲来と国土防衛戦』)。
これらから、ここでは鎌倉武士団の総勢は騎馬兵が約5000騎、歩兵郎党が約5000人、ほかに物資や食料の補給などにあたる兵站郎党が約5000人と仮定し、戦う兵士としては合計約1万人で蒙古兵約2万6000人に対抗したと想定することにします。
ただし、騎馬兵を揃えるには相当にお金がかかりますので、九州の御家人たちが騎馬武者を合計で5000騎も動員することが本当にできたのかは、疑問も残ります。この点は、今後の地域別の御家人の荘園の広さや禄高などの研究が必要でしょう。
日本に騎馬軍団が存在したことは確実
ところで、日本の騎馬については近年、「ポニーのように小型だったので、甲冑武者を乗せての突撃などは不可能で、軍記物で伝えられるような騎馬軍団は存在しなかった」とする説をよく目にします。
しかし日本の伝統的な木曾馬の先祖は蒙古馬で、中型馬ですから、ポニーほど小さくはありませんでした。
馬の体重は馬の背の高さの3乗に比例するので、馬の背の高さが1.2メートルのポニーと1.3〜1.4メートルの蒙古馬では体重が(1.35/1.2)の3乗 ≒1.42倍も違います。また、戦いに用いられたのは雄馬ですが、日本には去勢の習慣がなかったので、体力も十分にありました。
そのほか、蹄鉄がなかったので騎乗は無理だったという説もありますが、日本は地質的に硬い道路がほとんどなく、畑や田んぼなどの軟らかい道が多いので、問題はなかったと思われます。木曾馬はひづめが張っていて、山道でも滑らない形状をしています。
日本馬と同じサイズの蒙古馬は大陸を駆け、最強騎馬軍団を生みだしました。日本でも『蒙古襲来絵詞(えことば)』などの絵画には、騎馬武者が多数突進しているさまが描かれています。
これらがすべてフィクションであったとは考えにくいので、騎馬軍団が存在したことは確実と思われます。
襲来した蒙古はそこまで圧倒的に強大な敵ではなかった
日本馬の問題は、前述のように去勢していない雄馬だったため、馴らすのが大変で、なかなかいうことを聞かなかったことです。発情した雌馬が近くにいようものなら大騒ぎだったようです。
しかし、現在の競走馬にも去勢しない雄馬が多く、制御できなかったらレースになりませんが、そういう事態になることはありません。
たしかに西欧のような整然とした騎馬隊の隊列は組めなかったとしても、日本の武士は日常的に訓練して、雄馬を馴らしていました。
戦場での突撃はせいぜい200メートル程度の走行であり、集団的な突撃は十分に可能だったと考えられます。
こうして見ると、通説と比べて、蒙古軍の実際の兵力が4万ではなく2万6000ほどと考えられるうえ、その実体は蒙古自慢の騎馬軍団ではなく寄せ集めの歩兵集団だった一方で、日本側は騎馬武者を5000以上も揃えていたと考えられ、ここでも両者の差は縮まります。襲来してきた蒙古は日本にとって、決して圧倒的に強大な敵ではなかったのです。
「対馬海流」という蒙古側のハンディ
しかも、蒙古側はさらなるハンディを背負っていました。
『日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る』(著:播田安弘/講談社ブルーバックス)© 婦人公論.jp 『日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る』(著:播田安弘/講談社ブルーバックス)
高麗を発した蒙古軍が対馬・壱岐を経由して博多に上陸するには、まず朝鮮半島から対馬海峡の西水道(朝鮮半島と対馬の間)を越えて対馬に着き、次に対馬海峡の東水道(対馬と壱岐の間)を越えて壱岐に着き、そのあと玄界灘を越えて博多湾に入る必要があります。
しかし、対馬海峡を流れる対馬海流の速い流れと、玄界灘の荒海を越えての大軍の移動には、大変な困難をともないました。当時の気象や潮流のデータと、蒙古軍船の性能や航海状況をもとに、蒙古軍の航海がどのようなものだったかを考えてみます。
対馬海流は北上する流れが1〜1.5ノットあります(1ノットは秒速約0.5メートル)。
これは海流としてはかなり速く、朝鮮からの古代の手漕船や帆船などの速度の遅い船が対馬海峡を横断しきれず、山陰地方などに流れ着くことがよくありました。そのため、出雲(島根県)の製鉄は朝鮮から渡来した人々が伝えたという伝説もあります。
これを証明しようと、山陰で有志グループが丸木船を製作し、釜山から対馬までの航海を企画したことがあります。
筆者はこの丸木船の形状、重量、乾舷(海面から上甲板の舷側までの高さ)、抵抗と櫂による速力、復原力、対馬海峡の波による揺れなどを検証し、丸木船は重くて乾舷や復原力が小さく、中途半端な波にピッチング周期が同調して船首が突っ込むため波をかぶること、また、少しの風や海流で斜航(進行方向に対して斜めに進むこと)して大きな水の抵抗を受けることなどから航海は困難と考え、いくつか修正を提案しました。
しかし、さまざまな制約もあって航海は行われ、潮流と風によって斜航し、やがて波をかぶって船は転覆しました。
蒙古軍にとって対馬海峡横断は「なんとか」可能だったレベル
ほかにも、卑弥呼の時代の埴輪にみられる船の形状を再現して航海実験し、成功したともいわれていますが、実際は設計が適切ではなく、ほかの船に曳航(えいこう)されたようです。
歴史学者や冒険家が史料や文献から推定し、工学的に検討せず製作した船による航海実験はほとんどが失敗しています。実際に船がどのような寸法、形状、重さであり、復原力、漕力と速度、波浪がどうであったかを数値化して検討しておくことは非常に重要です。一般的に海峡の横断については、海流速度と船速の比からシミュレーションすることができます。
図1を見てください。船速が遅いと、出発してから下流側に大きく膨らみながら流され、航海距離も長くなるので、船速と海流速度が同じでは目的地にたどり着けません。海峡を横断するには、海流の2倍以上の速度が必要なのです。
図1:蒙古軍船による対馬海峡横断のシミュレーション。『日本史サイエンス』より© 婦人公論.jp 図1:蒙古軍船による対馬海峡横断のシミュレーション。『日本史サイエンス』より
対馬海峡を横断する場合、海流の2倍の速度ということは、2〜3ノットは必要ということになります。
これに加えて、波や風の影響も考慮しなくてはなりませんが、蒙古軍船は櫓のみの走行でも2〜3ノットくらいの船速であったと推定されるので、対馬海峡横断はなんとか可能だったと思われます。
※本稿は、『日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る』(講談社ブルーバックス)の一部を再編集したものです。
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歴史的事実として、古代から、日本は被害者であり、中国や朝鮮は加害者であった。
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日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連・コミンテルン・中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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日本民族にとって、中国人と朝鮮人は天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇・法皇は島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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親日・知日は、古朝鮮、百済、高句麗、古新羅、渤海。
反日・敵日・侮日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮、大韓帝国、韓国・北朝鮮。
韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や差別はここから始まっている。
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大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、第32代崇峻天皇を暗殺した。
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663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張の熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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672年 壬申の乱。天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社)
生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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764年 藤原仲麻呂の乱。帰化人対渡来人の攻防。
親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備や坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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811(弘仁2)年 弘仁の新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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813年 第52代嵯峨天皇。新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河・遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済系帰化人・高句麗系帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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893(寛平5年)および 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐、対馬を侵略。
894年9月 唐の将軍を加えた新羅船100隻、2,500人が、対馬を襲撃した。 対馬の文屋義友は約500人の手兵で迎え撃ち、敵の大将を含む302人を撃ち取った。 捕虜となった新羅人の自白「朝鮮半島は不作により人民は飢えに苦しみ、治安が悪化していたため〝王の命令により〟襲撃した」
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898年と899年に、大規模な反天皇の武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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906年 延喜の新羅の賊。
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935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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1019年 刀伊の入寇。満州の騎馬民族・女真族による北九州侵略。
『韓国人に不都合な半島の歴史』 著者 拳骨たくみ「太宰府が4月16日に送った報告書が『朝野群載』(巻20)に記載されている。
その記述によると、彼らは畠を食いつくし、馬や牛、犬の肉まで食べたという。年寄りから子供らはみな惨殺され、壮年の男女400~500人は船に乗せられ拉致された。
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高麗海軍による攻撃を受ける最中、賊たちは日本人捕虜たちを殺したり、す巻きにして海に投げ込んだりした。
高麗は日本人を救出し、300人余りが助かったと生存者の供述書に書かれているが、この時点で拉致された人々の80%近くが死亡していることがわかる。
……
一方の日本は、高麗に対して不信の念を強くしていた。
権大納言の藤原実資は、『賊は刀伊ということだが、捕虜を尋問したところ『高麗国が刀伊を防ぐために自分たちを派遣したが、刀伊に捕縛された』と答えている。数千もの賊がいて、なぜ捕まったのが高麗人だけなのか。賊は高麗人が嘘をついて刀伊人であるとしているのではないか』との見解を示した(『小右記』)。
この不信感には先述したように、かつて新羅による海賊行為がしばしば見受けられたことで、裏で高麗が糸をひいているのではないかと考えられたからに他ならない。
これらの事例からも、日本が韓国を古来から尊敬していたなどという話は、まったくの架空であることがわかるだろう。
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文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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虐殺から生き残った対馬・壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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1405年~1433年 明の永楽帝。イスラム教徒で宦官の鄭和は、大艦隊を率いて南海遠征を行った。
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1419年 応永の外寇。世宗大王・李氏朝鮮軍による対馬侵略。
朝鮮軍、227隻、1万7,285人。
島民114人を虐殺し、民家1,939戸を焼いた。
対馬守護代の宗貞盛は反撃し、朝鮮軍2,500人(一説では3,700人)を撃ち取り、日本側の戦死者は123人。
朝鮮軍は、台風を恐れて全軍撤退し、事実上の敗走であった。
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1428年 世宗大王は、日本からコメ作りや水車の製造など多くの事を学んだ。
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後期倭寇は、対馬・壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人・南蛮人であった。
日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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