☯3〕─1─宗教地政学。朝鮮は儒教を受け入れて中国化を国是とした。〜No.5No.6 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 歴史的事実として、日本天皇・日本国・日本民族は被害者で、朝鮮・中国は加害者であった。
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 昔の日本は、現代の日本とは違い中国化を拒否した、それが民族的な国風化、国風文化であった。
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 『教養として知っておきたい「宗教」で読み解く世界史』
 宇山卓栄 著  日本実業出版社
 「序文 宗教地政学
 ………
 第1部 東アジア
 ─中華秩序の脅威─
 Chapter1
 中華の膨張に誰が屈し、誰が屈しなかったのか
 【コア地域=中国】儒教文化による中華思想
儒教が生んだ『三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼』 
 ……
Chapter2
 儒教が覆い隠した属国の哀れ
 【a地域:従属】朝鮮の儒教 
♦左手で口元を隠して飲む儒教の習慣
 ……
Chapter3
 神道天皇を中核として日本文明の独自性
 【b地域:対抗】日本の神道
神道というリアリズム
 ……
Chapter5
 受難のチベット仏教は国家の暴虐に打ち勝てるか
【d地域:対立】チベットの仏教
♦中国の宗教抹殺と大虐殺
 ……」
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 『教養として知っておきたい「宗教」で読み解く世界史』
 宇山卓栄 著  日本実業出版社
 「序文 宗教地政学
Chapter2
 儒教が覆い隠した属国の哀れ
 【a地域:従属】朝鮮の儒教 
♦左手で口元を隠して飲む儒教の習慣
 韓国では、人間関係を極端に序列化するなどの儒教的因習が根強く残っています。かつて、『両班(ヤンバン)』と呼ばれる貴族階級を頂点とする厳格な身分制が敷かれていました。朝鮮の儒教文化が生み出した悪弊でした。その名残(なごり)で、今日でも、人間関係において、常に上下の序列が意識されるのです。
 たとえば、韓国人は乾杯するとき、目上の人よりも、グラスを少し下げて合わせます。目の上の人から、お酌されたら両手で受け、飲むときは相手の視線を避け、横向きになって、左手で杯や口元を隠すようにして飲まなければなりません。これは、目上の人の前で、むやみに酒を飲むことを戒める意味があります。『本来ならば、飲ませていただける立場の者ではありませんが失礼致します』という暗黙のメッセージが、左手で口元を隠すことに含まれているのです。
 この飲み方はいわゆる『朝鮮飲み』と呼ばれます。ひところ、職場や記者会見などで水を『朝鮮飲み』している政治家がいましたが、『あいつは日本人ではない』などとバッシングされました。一概にはいえない部分もあるのですが。それにしても、日本人に、こういう飲み方をする習慣はありません。
 儒教的習慣が現代の韓国人にも受け継がれ、それは体に染み付いて、簡単には離れないのです。今日でも、かつての儒学者が尊敬されており、韓国のお札の4種類も紙幣のうち2つに、儒学者の肖像が描かれています。1000ウォン札の李滉(イファン)、5000ウォン札の李珥(イイ)です。この2人は16世紀に活躍した朱子学者で、『二大儒』と呼ばれます。
 かつての朝鮮王朝は中国の儒教的な世界観に忠実に従いました。高麗王朝は中国の儒教文化への傾斜を強め、958年に官吏登用の科挙制度が定められ、儒教の修養が問われました。儒教教育機関として、中央に国子監(こくしかん、後の成鈞館{せいきんかん})、地方に郷校(きょうこう)が設けられました。
 李氏朝鮮は1392年に成立したときから、中国の明王朝服従しました。明の元号を使用し。明の官服や制度を導入しました。朝鮮の文人官僚たちは朱子学を信奉し、漢民族明王朝こそが正統な支配者であり、明に歯向かうことは『中華』や天子の国、さらには秩序を犯すことになると考えていました。
 『小をもって大に事(つか)ふるは保国の道』ととれます。これは『孟子』の『以小事大』からとったもので、大国の中国に事(つか)えることが肝要とする考え方で、『事大主義』とも呼ばれます。
 朝鮮の文人官僚たちは朱子学の素養をもつことが文化的洗練の証しであり、野蛮な未開人と訣別する道であると信じ、自らの思想を中国化していきます。彼らの中には中国に留学した者も多くいました。
 朝鮮の文人官僚たちの権力の源泉は『中国とつながっていること』でした。中国の内部事情に精通し、ときに要人に頼み事を聞いてもらうこともできる、中国に顔が利くということが最大の武器だったのです。中国にとっては、彼らは使い勝手のよい存在でした。
 ♦『小中華思想』で日本を見下していた朝鮮
 朝鮮は自らが中華文明に最も近い存在であることを誇りにしていました。実態は中国の属国に成り下がっていたにすぎませんが、朝鮮のみが唯一、『華』を継承することに成功したと考えていました。そして、日本人を『華』に遠い『倭賊(わぞく)』と見下し、野蛮人扱いしました。こうした朝鮮の中国追随の考え方を『小中華思想』と呼びます。
 現在の韓国や北朝鮮反日で日本を執拗に敵視するのは『小中華思想』により、もともと自分たちよりも下と見下していた日本が生意気で許せないという感情が背景にあるからでしょう。
 中国は儒教的な君臣の主従関係を周辺諸国(地域)にまで拡大し、その君主や首長に王や侯などの爵位を与え(冊封{さくほう})藩属国として中国の影響下に置きました。これにより、様々な程度の差はありながら、中国中心の統治システムを冊封体制と呼びます。『華為の別』に基づく統治システムで、華夷秩序とも呼ばれます。
 李氏朝鮮3代目の太宗が、明王朝によって朝鮮王に冊封されますが、これも中国の一部としての諸侯王という扱いにすぎません。『王』は近代で使われる主権国家の国や国王とは意味が異なります。朝鮮は歴史的に独立した国家ではなく、中国の属国でした。その王は中国皇帝の配下だったのです。
 そのため、朝鮮の王は『陛下』ではなく、『殿下』と呼ばれます。その世継ぎも『太子(テジャ)』ではなく、一段格下の『世子(セジャ)』と呼ばれます。このほか、朝鮮王に『万歳(マンセー)』は使われません。『万歳』は中国皇帝にのみ使われるもので、朝鮮王には『千歳(チョンセー)』が使われました。明確な序列関係があったのです。
 ♦『貢女(コンニョ)』という性奴隷
 上位の者や国に従うことは美徳であり、儒教的な教養の証しとされました。貧弱な朝鮮人が強い者にすがりついていく哀れな媚態を儒教が『礼』という美名のもと、巧みに覆い隠したのです。朝鮮はたびたび、中国の高慢な要求に屈服させられましたが、彼らはその屈辱を屈辱とせず、美徳であると自らに言い聞かせました。
 明治時代、陸奧宗光は、朝鮮が属国でありながら、属国としての被害者意識がなく、中国や中国文化を崇めることを道徳的使命と感じているとして、『中国と朝鮮は奇妙な宗属関係にある』(陸奧宗光『蹇蹇録(けんけんろく)』より)と指摘しています。
 朝鮮は一時期を除き、約2000年間、中国の属国でした。朝鮮は属国として、中国に多額の金銭・物品を貢がねばなりませんでした。しかし、朝鮮は土地のやせた貧弱な国であったので、充分な貢ぎ物を用意することができず、代わりに美女たちを性奴隷として送りました。彼女たちを『貢女(コンニョ)』と呼ばれました。
 朝鮮の支配者層は中国に媚びへつらい、中国のために国を売ること平気で行っていました。彼らは中国と癒着することで、様々な利権を保証されたのです。支配者層は民衆を奴隷化して酷使し、中国へ貢ぐための物品を徴収しました。民衆の生活レベルは人間のものとはいえないくらい悲惨でした。民衆を搾取することが朝鮮の政治の中心課題になっていました。
 支配者層にも民衆にも、公益や公共の意識などありませんでした。支配者層が真面目に政治を行ったとしても、また、民衆が真面目に働いたとしても、結局、中国が奪っていくので、無意味でした。
 中国の朝鮮支配が長く続きましたが、1894年の日清戦争で、日本が清王朝と戦い、勝利しました。翌年、下関条約により、清が朝鮮の独立を承認します。1897年、独立した朝鮮は『大韓帝国』と国号を名乗りました。『韓』は王を意味する雅語(がご)で、古代において、三韓(1~5世紀の朝鮮半島南部に存在した馬韓{ばかん}、弁韓{べんかん}、辰韓{いんかん})にも使われていました。朝鮮王は皇帝となり、『殿下』ではなく、『陛下』と呼ばれるようになりました。
 当時、朝鮮の人々はこれを喜び、中国への隷属の象徴であった迎恩門(げいおんもん)を取り壊し(屈辱を忘れないために、2本の迎恩門柱礎だけを残し)、新しい門を同じ場所に建てました。これがソウル西大門広場にいまも残る『独立門(どくりつもん)』です。
 ♦天皇を『日王(イルワン)』と呼ぶ従属の心理
 話は前後しますが、明治維新を遂げた日本の新政府は1868年、国交と通商を求める国書を朝鮮に送りました。しかし、朝鮮はこの国書の受け取りを拒否します。国書の中に、『皇』や『勅』の文字が入っていたからです。『皇』や『勅』を使うことができるのは中国皇帝のみであり、こうした国書は日本の中国皇帝に対する挑戦であり、容認できるものではないと主張しました。
 つまり、朝鮮は儒教思想に基づいて、中華に周辺国が臣従することにより、国際秩序(前述の冊封体制)を維持すべきと考えたのです。
 朝鮮はこうした考え方を歴史的に有しており、天皇の『皇』の字から『天皇』とは決して呼ばず、『倭王(わおう)』と呼んでいました。近代以降は『日王(イルワン)』と呼びました。中国皇帝に服属する朝鮮王が中国皇帝と対等な『天皇』を認めてしまうと、朝鮮は日本よりも下位に置かれてしまうことになるため、『天皇』と呼ぶことを頑なに拒みつづけたのです。
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 『崇儒排仏』に反対した仏教王、世祖
 中国でも同様に、明王朝清王朝で『崇儒排仏』が唱えられていましたが、朝鮮よりも緩く、仏教の信仰は半ば放任されていました。ちなみに、仏教に加え、道教の信仰も民間に広がっていました。
 儒教崇拝で中国に追随した朝鮮は戦後、南北に分断され、北朝鮮社会主義体制を敷き、中国と同様に儒教文化を破壊しました。しかし、主体(チュチェ)思想などの教条主義や階級主義、中国追随など、儒教因習の悪弊をそのまま残しています。
 一方、韓国は朝鮮王朝以来の儒教文化を名実ともに継承し、今日に至ります。
 韓国では、キリスト教徒も多く、総人口の約3割を占めます。2020年の2月には、キリスト教新興宗教での新型コロナウイルスの集団感染がありました。儒教に基づく極端な階級社会が歴史的に続き、身分差別の解放を求める人たちが、キリスト教の平等理念に傾倒していました。
 韓国のキリスト教徒は、プロテスタントの信者とカトリックの信者よりも倍近く多いとされます。しかし、韓国のキリスト教は本来のキリスト教理念とは異なる亜流にすぎず、異端的なシャーマニズムを自己解釈して肥大化されたものにすぎないとの批判も多くあります。」
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 天皇が訪問してはならない国とは、韓国、北朝鮮中国共産党政府、ロシアの4ヵ国は確実である。
 何故か、日本人のマルクス主義者・共産主義者無政府主義者のテロリストが、キリスト教朝鮮人テロリストと同様に昭和天皇と皇族を惨殺するべくつけ狙っていたからである。
 昭和天皇暗殺は、ソ連・ロシア人共産主義者が示唆し、中国共産党が過激派日本人テロリストを支援していた。
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 韓国・北朝鮮は、100年、1000年でも、それこそ未来永劫、絶対に日本国と日本民族を許さない。
 つまり、日本人は、韓国人や朝鮮人が「何時かは許してくれる」という甘い考えは捨てた方が良い。
 何故なら、それはあり得ないからである。
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 朝鮮は、中国に似ていて日本とはあらゆる面において全く違う。
 何故なら、朝鮮は中国化を諸手を挙げて受け入れ、日本は国風にこだわって中国化を拒絶しているからである。
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 韓流時代劇の90%は、時代考証を無視した嘘で塗り固められた空想、作り話、法螺話で歴史的事実はない。
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 江戸時代頃の世界常識では、日本は中国と同じ7大帝国の1つで、オランダを通じて西洋世界と繋がっていた。
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 朝鮮半島の悲劇は、インドシナ半島と比べて痩せた土地で、貧弱な国で、自慢して中華帝国に貢げるほどの優れた特産品がなかった事である。
 歴代朝鮮王は、礼法の国の忠良な臣下として、中華皇に選りすぐりの妓生=貢女(コンニョ)を献上していた。
 その意味で、朝鮮半島は数多くの美女美男子を産出していた。
 統一新羅以来の歴代朝鮮王国とは、親中派媚中派、知中派が支配する儒教文化国家(民衆酷使国家)であった。
 そこが、中国化を受け入れた朝鮮と中国化を拒絶した日本との歴史的な違いだった。
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 中華文化圏で、偏見と差別で虐げられていたのは日本であって中国や朝鮮ではなかった。
 東アジア史とは中国化の歴史で、日本史とは中国化拒絶史で、朝鮮史とは中国化順応史であった。
 東アジアに於ける偏見と差別の対象は、中国化しなかった日本であった。
 それは、現代においても変わらない。
 現代において、日本の中国化は、儒教の徒というべき親中国派や媚中派、左翼・左派・ネットサハ、反天皇反民族反日的日本人らによって加速的に進んでいる。
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 儒教的中国化とは、中国がトップで、韓国・朝鮮が第2位で、日本が最下位という序列の事である。
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 朝鮮・韓国が反日・侮日・敵日を国是として貫き、親日・知日を売国奴・裏切り者として弾圧し、偏見と差別で日本国と日本人との友好を拒否するのは儒教文化・儒教価値観の中華主義小中華主義が原因である。
 日本儒教と中華儒教(中国儒教・朝鮮儒教)とは、その本質から違う。
 例えるならば、一冊の新約聖書の読み方、解釈から、ローマ・カトリックバチカン、各修道会(イエズス会フランチェスコ会、その他)、その他、プロテスタントのカルバン派、ルター派イギリス国教会、福音教会、長老教会、その他、東方正教会ギリシャ正教会ロシア正教会ウクライナ正教会、その他、そして韓国諸教会などと数多くの宗派がキリスト教に存在する。
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 日本民族には、漢族中国人や朝鮮人と分かり合う事ができない。
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 中華帝国にとって同じ属国でも、朝鮮は貧しい寄生国で、琉球は豊かな半自立国であった。
 中華帝国が持っていないモノを、琉球は持っていたが、朝鮮は持っていなかった。
 琉球は、東南アジア諸地域との南方交易で富を得て豊かであった。
 朝鮮の富は、中華帝国との朝貢貿易しかなかったが、もしその気になればアイヌ民族のように沿海州樺太などの日本海沿岸での北方交易は可能であったがその発想・構想はなかった。
 琉球民族朝鮮民族の違いは、琉球人は日本人同様の海洋民であり、朝鮮人は中国人同様の大陸民であった事である。
 大陸民にとって海・海洋とは、生きて帰れない地獄であった。
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 徳川幕府は、北前船アイヌ人を仲介者として北方交易を行っていた。
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 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
 日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
 歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇法皇島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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 親日・知日は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日・敵日・侮日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国、韓国・北朝鮮
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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 日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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 日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や差別はここから始まっている。
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 大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、第32代崇峻天皇を暗殺した。
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 663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
 愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
 天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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 672年 壬申の乱天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
 「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社
 生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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 668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
 つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
 日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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 764年 藤原仲麻呂の乱帰化人対渡来人の攻防。
 親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
 孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
 834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年)および 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
 894年9月 唐の将軍を加えた新羅船100隻、2,500人が、対馬を襲撃した。 対馬の文屋義友は約500人の手兵で迎え撃ち、敵の大将を含む302人を撃ち取った。 捕虜となった新羅人の自白「朝鮮半島は不作により人民は飢えに苦しみ、治安が悪化していたため〝王の命令により〟襲撃した」
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 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
 『韓国人に不都合な半島の歴史』 著者 拳骨たくみ「太宰府が4月16日に送った報告書が『朝野群載』(巻20)に記載されている。
 その記述によると、彼らは畠を食いつくし、馬や牛、犬の肉まで食べたという。年寄りから子供らはみな惨殺され、壮年の男女400~500人は船に乗せられ拉致された。
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 高麗海軍による攻撃を受ける最中、賊たちは日本人捕虜たちを殺したり、す巻きにして海に投げ込んだりした。
 高麗は日本人を救出し、300人余りが助かったと生存者の供述書に書かれているが、この時点で拉致された人々の80%近くが死亡していることがわかる。
 ……
 一方の日本は、高麗に対して不信の念を強くしていた。
 権大納言藤原実資は、『賊は刀伊ということだが、捕虜を尋問したところ『高麗国が刀伊を防ぐために自分たちを派遣したが、刀伊に捕縛された』と答えている。数千もの賊がいて、なぜ捕まったのが高麗人だけなのか。賊は高麗人が嘘をついて刀伊人であるとしているのではないか』との見解を示した(『小右記』)。
 この不信感には先述したように、かつて新羅による海賊行為がしばしば見受けられたことで、裏で高麗が糸をひいているのではないかと考えられたからに他ならない。
 これらの事例からも、日本が韓国を古来から尊敬していたなどという話は、まったくの架空であることがわかるだろう。
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 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
 捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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 虐殺から生き残った対馬壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
 前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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 1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
 李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
 この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
 朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
 歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
 朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
 日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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 1405年~1433年 明の永楽帝イスラム教徒で宦官の鄭和は、大艦隊を率いて南海遠征を行った。
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 1419年 応永の外寇世宗大王李氏朝鮮軍による対馬侵略。
 朝鮮軍、227隻、1万7,285人。
 島民114人を虐殺し、民家1,939戸を焼いた。
 対馬守護代宗貞盛は反撃し、朝鮮軍2,500人(一説では3,700人)を撃ち取り、日本側の戦死者は123人。
 朝鮮軍は、台風を恐れて全軍撤退し、事実上の敗走であった。
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 1428年 世宗大王は、日本からコメ作りや水車の製造など多くの事を学んだ。
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 後期倭寇は、対馬壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人南蛮人であった。
 日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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 歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
 黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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