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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
現代の日本人は武士・サムライ、武士道・士道を自慢するが、現代の日本人は武士・サムライの子孫でもなければ、武士道・士道など持っていない。
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武士といっても、平安時代、鎌倉時代、室町時代、応仁の乱、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代などの各時代で全然違うのが当たり前である。
その事が現代の日本人には理解できない。
それは何故かと言えば、現代日本人には民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がないからである。
武力を持った支配階級といっても、日本の武士と西洋の騎士とでは全然違うし、武士は西洋の貴族とも違っていた。
日本の武士は、日本民族のみの武士であった。
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2022年10月30日 MicrosoftNews 現代ビジネス「東大教授が太鼓判を押す、中世武士の愛すべき「デタラメ」 本郷和人のルサンチマン人生相談
『歴史学者という病』――そんな題名だけ聞くと、さぞかし怖い本のように思うかもしれない。しかし、実際に読んでもらえればわかるが、この本は歴史学者・本郷和人の人生を本人が語りながら、生きていくことの辛さや不可解さ、そして、面白さや可能性などについても触れている。そこで特別企画として、この本にはあまり収録できなかった話を中心に「人生相談」風にまとめてみた。題して「人生の難問は歴史学者に聞け。本郷和人のルサンチマン人生相談」です!
第十回は、「武士の規律に学べばきちんとした人間になれるか?
」です。
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今回の相談事項
自分で言うのも恥ずかしいのですが、私はいい加減で、根気が続かず、つまらないと思った仕事はすぐに飽きてしまいます。先日、苦手なオッサン上司から「滅私奉公が当たり前だった武士を少しは見習え」などと怒られてしまいました。武士の規律に学べば、私もきっちりした人間になれるでしょうか。
武士って生真面目?
前提が間違っているようだ。
一般社会における武士のイメージというのは、厳めしい、生真面目、上下関係のきっちりした超体育会系……といったものらしい。
おそらく相談者さんの上司の方も、同じように、武士に対して強く勤勉で組織に忠実なイメージを持っておられるからこそ、相談者さんにそのようなアドバイスをしたのだろう。
と・こ・ろ・が・である。
中世の武士に限っていえば、彼らは真面目のお堅い一辺倒どころか、だいぶデタラメな存在だったのだということを、私は大学に入ってから思い知った。
話は私の大学時代の初期に巻き戻る。
桑山浩然先生という方の中世史学に関するゼミに出席した私は、それまでの価値観をガラリと転換させられてしまった。
私が在学していた当時は、中世日本といえば、「天皇を頂点として一つにまとまっていた」と捉える、がっちりとした枠組みを前提とした黒田俊雄先生の学説「権門体制論」に沿う考え方が主流であった。
だから当然そうなのだろう、と思い込んでいたのだが、桑山先生は、権門体制論についてざっと説明したあとで「中世日本には、そもそも枠組みなど存在しなかったのでは?」という大胆な着想を学生に披露し、そして、ごく自然な様子で問いかけた。
「じゃあ、君たちはどう思う?」と。
これにはびっくりしてしまった。
先生いわく、「国家」という枠組みは自明のように存在したわけではない、中世は社会も混沌としていい加減だった、さまざまな痛みを伴いながら人びとが少しずつ「国家」という組織を作り上げたのではないか……などなど、目からウロコの考え方が飛び出してきた。
幕府はキッチリしてるだろう、と思いきや
与えられた情報を鵜呑みにせず、自分の頭で「そもそも」から考えること――その大切さを私は学んだのだが、同時に「なんだ。中世の社会って、ざっくばらんで、いい加減なんだな」ということを知り、逆に、非常に好ましい感銘を受けたのである。
学びを深めていくと、さらに分かった。
中世を生きる武士たちも、忠義や規律どころか、けっこう行き当たりばったりな生き方をしていた。言ってしまえば弱肉強食、強い者勝ちの世界なのだった。
いやいや、個々の武士の中にはいい加減な者もいたかもしれないが、武士の最高意思決定機関とも言える幕府という組織はキッチリしていたのでは? と思うとそれも違った。
たとえば中世、とある土地の権利を確定すべきシーンにおいては、幕府の発行した権利書の価値よりも、無理やり力づくでその地を奪った当事者の権利の方が優先されていた。幕府のお触れより、個人の武力。なんとデタラメで面白い世界なんだ、と興奮してしまったものだ。
そう、武士の社会はまこと、自由でデタラメなところが面白いののである(同じ時代に生きていたら、非常に迷惑な存在だったろうが)。
というわけで、冒頭の質問に対しては、「武士だってそこそこ適当だったのだから、ビジネスパーソンだってそこそこ適当でもいいじゃないか」というのが私の回答である。
(そして、上司にも適当にペコペコして適当なことを言っておこう!)
構成:森田幸江
© 現代ビジネス 本郷和人さん(撮影:森清)
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日本とくに日本民族では、マルクス主義・共産主義・無政府主義による人民革命は起きない。
もし人民革命が起きるとすれば、日本人から日本民族が消滅もしくは少数派となり外国移民の日本国民に入れ替わるもしくは多数派になったときである。
何故なら、マルクス主義・共産主義・無政府主義とは反天皇反民族反日本だからである。
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庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
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戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
一説によると、ポルトガル商人による日本人奴隷の被害者は5万人以上。
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現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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日本人は、悪人、悪党、罪人である。
故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏(阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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