🎍37〕─1─日本密教は政治権力と結びついて国家宗教となった。〜No.117No.118 

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 日本は、仏教立国であった。
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 2022年12月13日 YAHOO!JAPANニュース「シリーズ「日本の仏教」
 第3回:国家運営の任務を帯びた日本の初期仏教
 佐々木 閑 【Profile】
 6世紀、日本は国家プロジェクトとして仏教を導入することにした。しかしその達成には、大きな困難が立ちはだかっていた。シリーズ「日本の仏教」の第3回では、中国仏教がどのような形で日本に取り入れられたのかを解説する。
 仏教は中国文化圏メンバーの証し
 6世紀、日本はすでに1つの国家としての自覚を持ち始めるようになっていた。中央政府内では、国家運営に関して、中国文化圏の一員となって生きていくのか、それとも外国からの影響を排除して日本独自のやり方で運営していくのかで争い、武力衝突が起きていた。この政争は前者が勝利を収め、以後、積極的に中国文化を取り入れ、中国に倣った国家運営を行っていくことになる。
 その際、日本が中国文化圏に加わることを外交的に示すための手段として着目されたのが仏教である。中国と同じ仏教国になることで、日本は中国文化圏の正当なるメンバーだと示すことができると国家の要人たちは考えた。そこで、国家プロジェクトとして仏教を導入することにしたのである。
 ここで、当時の中国における仏教の状況を説明しておく。1、2世紀以来、さまざまな仏教の教義がシルクロードを通って中国に入ってきており、それらのうちのどの教義を「真のブッダの教え」として選択するかによって、大乗仏教系の多種多様な宗派が生まれていた。そして6世紀頃になると、そういった異なる複数の教えを連結して1つにまとめる動きが顕著になってくる。それぞれの仏教の教義を全て受け入れながら、それらの教えに説かれた論理を整理して、広大な仏教世界を総括的に理解しようとしたのである。その代表が大乗仏教の宗派の一つ「天台宗」だった。この教えは最澄(767〜822)によって9世紀に日本に伝えられ、日本仏教のさまざまな宗派を生み出すことになるのだが、その話は別の機会に解説する。
 日本が仏教導入を決定した時点で、中国生まれの新式仏教である「禅宗」はまだ目立った活動をしておらず、また、インドにおける仏教の最終形態である「密教」も本格的には中国に伝わっていなかった。禅や密教が中国で隆盛を誇るのはもう少し後のことであり、その後の日本仏教の流れに重大な影響を与えるのだが、そのことも後の回で述べる。
 困難を極めたサンガの輸入
 前述したように、6世紀、日本は国家プロジェクトとして仏教を導入することにした。では、「国家が正式に仏教を導入する」とは一体何を意味するのか。仏教は「仏法僧(ぶっぽうそう)」と呼ばれる3つの要素で構成されるのが伝統的な定則である。「仏」はブッダ、「法」はブッダの教えであるダルマ(法)、「僧」はブッダの教えに従って暮らす僧侶の組織であるサンガ。日本が仏教を導入するというのは、これら3要素を大陸から日本へ輸入することを意味する。全てが日本に入った時、日本は仏教国になったと見なされるのである。
 最初の2つ、ブッダ(仏)と、ブッダの教え(法)の輸入は簡単である。仏は仏像であり、法は経典であるから、それらを船に乗せて日本に運んでくればそれで完了である。しかし3番目のサンガの輸入は困難を極めた。サンガとは僧侶たちが作る組織である。「日本にサンガを輸入する」とは、大陸から多くの僧侶を船で日本に連れてくることを意味するからだ。
 釈迦牟尼(しゃかむに)が制定した戒律を収めた「律蔵」の規則によれば、サンガを形成するための最低人数は4人と決められている。男性4人以上で男性サンガ、女性4人以上で女性サンガとなる。しかし別の規則によって、「一般人が出家して僧侶となるためには、10人以上の僧侶の許可が必要」とされている。そのため日本でサンガを永続的に維持していくためには、律蔵に通じた10人以上の僧侶を極めて危険な船旅によって大陸から連れてこなければならない。日本が正式な仏教国にはなるための、大変に困難な課題であった。
 鑑真と弟子の到着で正式な仏教国に
 日本への仏教の導入に力を尽くした人物は聖徳太子(574〜662)であるが、彼の時代にはまだサンガを輸入することはできなかった。輸入できたのは仏像と経典だけであった。その後、日本各地に多くの寺院が建立され、国家安泰のためのさまざまな仏教儀礼も執り行われたが、正式なサンガはその後も長く導入されないままであった。この最後の難問が解決し、日本が正式な仏教国になったのは754年である。
 当時、中国において名声高かった鑑真(688〜763)が日本からの要請に応え、布教の志に燃え、日本へ渡る決心をした。戒律の研究と実践を行う「律宗」の専門家であると同時に、さまざまな仏教思想を会得した高僧でもあった彼には大勢の弟子がいたので、10人以上の僧侶を連れてくることも十分可能であった。しかし不運なことに鑑真と弟子たちの渡航計画は、難破などの災難に何度も見舞われ、5回目の試みでようやく日本に到着することができた。その時には彼は盲目となっていた。
 奈良にあった大和朝廷は、鑑真一行を国賓(こくひん)として迎えた。そして鑑真ら10人を越える僧侶たちが儀式の取り仕切り役となって、次々と日本人を仏教の僧侶にしていった。日本に正式なサンガが誕生した瞬間であり、日本が正式な仏教国になった瞬間でもあった。
 国家宗教としてスタート
 しかしこの後に続く朝廷の態度は、必ずしも鑑真の意向に沿うものではなかった。日本側が望んでいたのは、正式な仏教国になるための要件としてのサンガの輸入であり、その最初の出発点となる10人以上の僧侶の来日であった。この要件をクリアして正式な僧侶を自家生産できるようになれば、あとは仏教を国家運営の手段として利用するのが彼らの意向だったのである。
 そのため、当然ながら、仏教導入以前から日本で広く信仰されていた神々はそのまま信仰の対象として容認され、仏教に取って代わられることはなかった。日本古来の神々と、新たに大陸から入ってきた仏が共に信仰の対象として受容されたことで、やがて両者は融合した。その結果、「同じ超越的存在が異なる姿でこの世に現れている」といった日本独自の宗教観を生み出すこととなった。この「神仏習合」という宗教観は現在の日本社会においても根強く残っている。神道と仏教の双方を、違和感なく受け入れる感覚である。
 鑑真は、自分たちが礎となって日本全土に仏教が広がることを期待して来日した。しかし朝廷が望んでいたのは、国家の運営に役立つ、権力機構の一翼を担う仏教であった。こうした使命を帯びた僧侶は、国家の安泰を祈願する公式呪術師であり、大陸との文化交流を担う外交官でもあった。
 国家公務員にも似た立場の僧侶が、自分たちだけでサンガをつくり、律蔵に基づく自治組織を持つことなど許されるはずがない。つまり釈迦牟尼の説いた、「サンガの中で修行生活を送ることによって自己を変革する」という理念は全く理解されなかった。さらに僧侶の側に新たな僧侶を認定する権利はなく、その認定権は国家が持っていた。僧侶の日常は、律蔵ではなく、国家の法律によって規制されたのである。奈良に根を下ろした日本最初の仏教は、国家によって運営される、国家のための宗教であった。ここが日本仏教の出発点である。次回はこうした日本仏教がどのように変容していくのかを見ていく。
 バナー画像=中国江蘇省揚州市の大明寺(だいめいじ)鑑真記念堂に安置された鑑真像。記念堂は鑑真逝去1200年を記念して、日本の唐招提寺金堂を参照して設計された(PIXTA)」
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 2023年1月18日 シリーズ「日本の仏教」 第4回:権力と結びついた日本の密教
 佐々木 閑
 8世紀末から9世紀初頭、中国から日本に密教がもたらされた。それ以降、天台宗真言宗の二大密教が貴族社会の権力構造の下で対立しながら併存していくことになる。第4回は、日本の密教について解説する。
 仏教全体を統合する思想体系の欠如
 四国霊場71番札所「弥谷寺(いやだにじ)」の空海像(PIXTA
 8世紀中頃(奈良時代)、日本は仏像、経典、修行のための組織であるサンガという三要素、すなわち仏法僧(ぶっぽうそう)を形式上導入することに成功し、正式な仏教国になった。しかしそれは、釈迦牟尼(しゃかむに)が創成した本来の仏教が日本に取り入れられたという意味ではない。大乗仏教で生み出された多くのブッダたちは、日本の在来の神々と同じような神秘的呪力(じゅりょく)を持った崇拝の対象であり、僧侶はそういったブッダたちの威力を引き出すための呪術儀礼執行者として重んじられていたのである。そこには、自己の煩悩を断ちきるために、サンガの中で修行に励む本来の僧侶の姿は見られない。
 奈良の朝廷は、国家鎮護に効力を発揮する、仏教の呪術的な力を広く世にアピールするために、学問の場を設け、僧侶たちに仏教を学ばせた。そこでは、さまざまな仏教哲学や戒律などが6分野の宗派に分けてそれぞれ個別に教授され、それらの難解な教義を学ぶことが、僧侶としての特殊能力を保持する証しになると考えられたのである。6分野とは三論(さんろん)、成実(じょうじつ)、法相(ほっそう)、倶舎(くしゃ)、華厳(けごん)、律であり,後にこれらは「南都六宗」と総称されるようになった。
 しかしそれらはあくまで国家が認定する資格取得カリキュラムのようなものであって,仏教全体を包括的に理解できるような総合的教育システムではなかった。この時期日本には,仏教全体を俯瞰(ふかん)し,その全体を一挙に把握できるような思想体系は存在していなかったのである。
 法華経(ほけきょう)を頂点にあらゆる経典を階層化
 このような状況が続く中、8世紀末から9世紀初頭、日本の首都が奈良から京都へと移ったちょうどその時期、仏教の核心を表す(と当時受け取られた)2種類の仏教思想が同時に中国から日本にもたらされた。1つは最澄(767~822)が持ち帰った天台宗の教え、もう1つは空海(774~835)が持ち帰った真言宗の教えである。この2種類の教えが、その後の日本仏教の基盤となる。
 天台宗は中国で生まれた、当時最先端の宗派である。紀元後1世紀以来、インドから次々と中国にもたらされた多種多様な仏教思想を全て受け入れながら、それらの間に複雑な論理的関係性を設定して、広大な仏教世界を一括して理解しようとする宗派である。もちろんそういった多様な仏教思想は本来、インドで異なる時代に異なる人々が個別に生み出してきたものであるから、1つに統括すべきものではない。しかし天台宗はそれらを、さまざまな理論を駆使して1つにまとめようとするのである。そしてその頂点に『法華経』を置く。すなわち天台宗は、『法華経』を最上位に置き、あらゆる経典を階層的に位置づける作業によって生み出された中国独自の宗派なのである。
 最澄によってこの宗派が本格的に紹介されると、日本の仏教界はこれを大いに歓迎した。今まで断片的にしか見えていなかった仏教が、1つの体系として理解できるようになったからである。
 最高位の思想としての魅力
 ところがその直後、空海によって真言宗の教えがもたらされた。これは天台宗のような異なる教えの集積ではなく、インドにおける仏教の変遷過程の最終段階として現れた、「密教」と呼ばれる単一の教えであった。「先に存在している思想を踏まえた上で、それを包含する、より上位の思想を案出する」という活動の繰り返しによって発展してきた仏教史の、最終段階として生み出された密教は、それまでのあらゆる仏教思想の頂点に立つべき、最高位の神秘力を持つ仏教だという自負を持っていた。
 外部に救済者のいないこの世界で、自己の努力によって自己改革を目指した釈迦の教えは、その後の大乗仏教において次第に神秘性を帯びるようになり、最終段階の密教において、「宇宙的エネルギーとのつながりを自覚し、それと一体化することで仏陀になる」という、ほぼヒンズー教の教えと変わらないところにまで変貌したのである。この密教の奥義は、特定の限られた人にだけ伝授される神秘主義的な教えであり、宇宙エネルギーとの一体化の体験も、言葉で広く伝えることはできないとされた。
 空海はそうした密教を、確固とした一つの体系として丸ごと日本に持ち帰ってきた。仏教を神秘的な呪術宗教として取り入れていた日本の仏教界にとって、空海密教は最も深淵(しんえん)で効力のあるものであり、さまざまな教えを理論的につないで一体化して見せる天台宗よりも、強固で、揺るぎないものに見えた。最澄の弟子たちもそのことは十分理解していたので、自分たち天台宗の教義にも、最新の密教の教えを上乗せして、全体を密教的な色合いで覆っていったのである。
 こうして日本には、異なる教えの集合体を密教的感覚で薄く覆った天台宗と、仏教史の最終段階としての密教をそのまま単一で伝える真言宗の、2つの異なる密教が並び立つことになったのである。
 天台宗
 宗祖 最澄
 総本山 比叡山延暦寺京都市滋賀県大津市
 教え 法華経を最高位に置き、あらゆる経典を階層的に位置づける
 真言宗
 宗祖 空海
 総本山 高野山金剛峯寺和歌山県
 教え 仏教の変遷過程の最終段階。宇宙的エネルギーとのつながりを自覚
 崇高な少数と一般大衆の二極構造
 ここで注意しておかねばならないのは、この時代の日本人に「仏教思想は時代とともに変容してきた」という認識はなかったという点である。中国から伝えられる仏教経典は全てブッダの言葉であるから、その全てが正統なる仏教の教えであることは間違いないのだが、しかしそこには深浅の違いがあると日本人は考えた。「どれもブッダの言葉ではあるが、その中で本当にブッダがわれわれに言いたかったのはどれか」との問いに対して、天台宗は(密教的に解釈した)『法華経』であると言い、真言宗は『大日経』や『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』などの密教経典そのものであると言ったのである。「長い仏教史の最終段階で現れた、最も新しい思想が密教だ」などという歴史的視点がなかったことはくれぐれも留意しておく必要がある。
 密教が持つ特徴の一つは「権威重視の傾向」である。誰もが根源的宇宙エネルギーとの一体化によってブッダになることができるとは言っても、その「根源的宇宙エネルギーとの一体化」は、特殊な資質を持つ者や、人並み外れた修行を積んだ者だけに許される特別な活動であった。それゆえ一般民衆は、その特別な人たちにお願いして、現世的な利益(りやく)を与えてもらわねばならない。密教によれば、この世には「生き仏」とも言うべき崇高な少数の人たち=宇宙エネルギーとの一体化を果たした修行者と、その崇高な人たちにお願いして幸福を与えてもらう一般民衆の2種類の人間がいるという、階層構造の上に成り立っているのである。この独特の構造は、宗教的身分制(カースト制)を認めるヒンズー教の影響を受けて成立したことからすると当然のことである。
 その後に多様化する日本の仏教宗派も、皆多かれ少なかれ、密教の持つこうした特殊な様相の影響を受けていく。そのためどの宗派も、「特別な資質、資格を持つ人(あるいはそういう人たちの系譜)」と、「そういった人たちからの利益を期待して信奉する一般人」といった構造を含むようになった。第2次世界大戦中、日本の仏教諸派がこぞって天皇ブッダと同等の権威を認め、戦争遂行に協力した事実は、そういった仏教観が表現された典型的な例である。
 貴族社会を支えた二大密教
 8世紀以降、日本の仏教界は、天台宗真言宗の2派を中心にして動いていく。どちらも権威性を重んじるという特性を持っていたので、当然ながら天皇を中心とした国家権力とのつながりに重点を置いた。言ってみれば、天台宗真言宗が、天皇を引き込むための綱引きを続けたのである。その際,旧来の奈良仏教の多くは,京都に拠点を置く天台宗が奈良の仏教を軽視したことに反発して、真言宗側についた。
 こうして日本の仏教は、天台宗真言宗の二大密教が、天皇を中心とした貴族制社会の権力構造の下で対立しながら併存する状況になった。この段階の仏教の要点は以下のとおり。
 1.律蔵にもとづいて運営されるサンガは存在せず、僧侶の生活を厳密に規定する規則は存在しなかった。これは現代に至るまで続いている特性である。
 2.思想的には大乗仏教を継承しているが、特別な資質、資格を持つ人(あるいはそういう人たちの系譜)と、そうでない一般人との間に差別を認める、密教の構造が基本となっていた。
 3.権力との結びつきを志向した。
 300年間はこうした状況が続くが、その後、権力基盤が貴族から武士、あるいは一般民衆へと移り変わるのにつれて、この構造も次第に変化し、多様な仏教世界が生み出されていくことになる。それは次回以降に述べることにする。
 【Profile】
 佐々木 閑
 花園大学文学部特任教授。1956年福井県生まれ。京都大学工学部工業化学科・文学部哲学科を卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。博士(文学)。カリフォルニア大学留学を経て花園大学教授に。定年退職後、現職。専門はインド仏教学。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。著書に『出家とはなにか』(大蔵出版、1999年)、『インド仏教変移論』(同、2000年)、『犀の角たち』(同、2006年)、『般若心経』(NHK出版、2014年)、『大乗仏教』(同、2019年)、『仏教は宇宙をどう見たか』(化学同人、2021年)など。YouTubeチャンネルShizuka Sasakiで仏教解説の動画を配信中。
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