🎍42〕─2─承平天慶の乱。藤原純友の乱と平将門の乱。~No.133 

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 2023年2月11日 YAHOO!JAPANニュース FUNDO「日本の海賊!?藤原純友平将門の影に隠れて、実はとんでもない反乱を起こしていた!
 日本史の教科書では反乱を起こしました、と一文だけ書かれている「藤原純友の乱」。 同時期に発生した「平将門の乱」と合せて「承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)」とも呼ばれています。
 書かれているのも名前だけで詳細を学ぶことが無いことから、この反乱は小規模な事件と思われることもあります・・・が、実はこの「藤原純友の乱」、日本史史上でも屈指のヤバい反乱だったのです!
 実はヤバい「藤原純友の乱
 「藤原純友の乱」が発生したのは939(天慶2)年、平安時代の中期にあたります。 首謀者の「藤原純友(ふじわらのすみとも)」は伊予国(現在の愛媛県)を拠点とした海賊です。
 これはヤバい、反乱の首謀者が日本屈指の名家出身
 親族は歴史的人物
 反乱を起こす「藤原純友」は名門貴族として名高い藤原氏、その一族内でも最も繁栄した藤原北家の出身です。 大叔父は日本初の関白となった「藤原基経(ふじわらのもとつね)」。曽祖父には太政大臣となり、藤原五摂家の祖と考えられることもある「藤原長良(ふじわらのながら)」です。
 出世を望めない藤原純友
 しかし、祖父は出世に恵まれず、父も若くして亡くなっていた事から、藤原純友も都での出世は早くから期待できないものとなっていました。 京の都にはいられなかった藤原純友は「伊予掾(いよのじょう)」という伊予国の役人となり、瀬戸内海に跋扈する海賊を取り締まりとしての任を果たしていました。
 海賊を取り締まっていたはずが海賊に
 海賊を取り締まる役目を務めていた藤原純友ですが、帰任の指示が出ても従わず、伊予に土着しその後は藤原純友自身が海賊になります。 海賊となった藤原純友は、936(承平6)年ごろには自分の勢力を伊予国日振島(ひぶりしま)を本拠地とした1000艘以上を率いる大集団にしていました。
 藤原純友が率いていた海賊の人員の多くは、もともと海賊を取り締まっていた中級役人たちです。 藤原純友と同じく親が亡くなったことなどを理由に出世の道が絶たれたバックボーンの無い役人たちは、武功をあげることで出世の道が開けることを期待して海賊を取り締まっていました。 その功績も他の貴族に横取りにされた彼らは、不満をつのらせて海賊に転身したと考えられています。
 反乱起こしていた場所もヤバい
 藤原純友を頭にした海賊集団が本格的な反乱勢力に変わったのは939(天慶2)年のことです。 これまでは周辺海域を荒らしていたのが一転、備前国播磨国国司を捕縛しています。 これ以降、淡路国の武器庫を襲撃、兵器を奪って逃げていますし、讃岐国長門国国府を襲っています。 更に同年10月には、九州の一大拠点『太宰府』の兵も破っています。
 藤原純友が本拠地としていたのは現在の愛媛県沖を中心とした伊予海や瀬戸内海ですし、兵器を奪った淡路国は現在の淡路島です。 実は反乱を起こした地域は京都の平安京に非常に近いことが分かります。
 実際、朝廷では藤原純友が京を襲撃してくると考えており、警備の強化を派遣しております。 一方、平安京内では藤原純友の乱に乗じて武装した盗賊集団もあらわれており、穏やかならぬ状況になっていました。
 反乱起こしていた期間がヤバい
 同時期に関東で起きた平将門の乱が鎮圧されると、朝廷は藤原純友の鎮圧に一気に動き始めます。 これまでは平将門の乱に兵を多く向けていたことから、形勢は朝廷側に分が悪い状況が続いていましたが、兵を集中できるようになったことで逆転、藤原純友を本拠地である日振島から撤退させることに成功しています。
 一方で、藤原純友も負けたままではありませんでした。 一度襲撃したことのある大宰府を再び襲撃、占拠に成功し反乱行為を続行します。
 しかし、反乱していた藤原純友の軍勢の勢いもここまででした。 この後、陸路と海路両方から官軍に責め立てられた藤原純友は占拠した大宰府を放棄、火を付けた後に博多湾で朝廷軍を迎え撃ちます。 博多湾では激戦を繰り広げるも、結果は藤原純友の敗北、800艘と自勢力の大部分を拿捕されてしまいました。
 その後は勢力拠点であった伊予に逃げ込みますが、潜伏していたところを捕らえられたとも、討ち取られたともいわれています。
 こうして藤原純友による反乱は941(天慶4)年6月鎮められましたが、最初の反乱行為とされる備前国播磨国国司の捕縛から2年が過ぎていました。 同時期に起きた平将門の乱は、平将門が新皇を名乗り謀反を起こしてからわずか2ヶ月で鎮められたのに比べると長い時間がかかっています。
 平将門の乱をはじめ、日本で起きた有名な反乱「島原の乱」や「大塩平八郎の乱」「五・一五事件」や「二・二六事件」が短期間で収束したのに比べると、圧倒的に藤原純友が反乱行為を行っていた期間が長いことが分かります。
 神として祀られている藤原純友
 同時期に反乱を起こした平将門首塚伝説などもあることから現在でも怨霊としても知られていますし、多くの研究がされています。 一方、なぜか藤原純友は隠されたかのような存在となり、あまり目立たない存在となっています。 そのためあまり神社などで祀られていることもありません。
 とはいえ、わずかながらでも藤原純友を祀る神社がありますのでご紹介します。
 純友神社
 岡山県岡山市にある鷲羽山、この山の南方に浮かぶ島「松島」にあるのが「純友神社」です。 現在では数人しか住んでいないこの島に藤原純友の居城・大丸城があったと考えられていることからこの地に建立されています。
 中野神社
 愛媛県新居浜市(にいはまし)にかつてあった中野神社は、藤原純友が最期を迎えたとされる中野山が近くにあるから建てられていた神社とされています。 現在、中野神社の社殿自体は水害で破壊されてしまっており存在しません。 しかし、御祭神などは難を逃れていたので、隣接する新高神社に奉納され、合祀されているそうです。
 まとめ
 かつて瀬戸内海や九州まで海賊行為や反乱で暴れていた藤原純友。 現在では教科書で名前が一度出て来るだけで、なにをしたかが一切触れられていませんが、実は当時の朝廷を恐れさせるほどの大反乱を起こしていた人物です。
 平安京は海からも近いので、淡路国を襲い、武器を調達した後、そのまま京都に向かっていたら歴史は大きく変わっていた・・・かもしれません。 実は大事件をおこしていたのに、これほどまで現在では影が薄いのも不思議ですね。
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