🔂4〕─1─「鉄の王国」伽耶古墳群の世界遺産登録へ。〜No.7No.8No.9 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2023年5月11日9:04 YAHOO!JAPANニュース 聯合ニュース「韓国「伽耶古墳群」が世界遺産へ ユネスコ諮問機関が登録を勧告
 伽耶古墳群(文化財庁提供)=(聯合ニュース)≪転載・転用禁止≫
 【ソウル聯合ニュース朝鮮半島南部に残る古代国家・伽耶の遺跡7か所で構成する「伽耶古墳群」が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録される見通しだ。韓国の文化財庁は11日、ユネスコ諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)が伽耶古墳群を世界文化遺産に登録するよう勧告したと伝えた。
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 HANKYOREH
 「鉄の王国」伽耶古墳群の世界遺産登録、最後の峠を越えるか
 登録:2022-04-04 08:43 修正:2022-04-04 09:49
 世界遺産委員会、6月の会議で決定の予定 
 古墳群780カ所のうち主要7カ所を推進 
 一部団体「植民史観で歴史歪曲」 
 学術的な欠陥を批判して保留要求 
 専門家「任那日本府説とは無関係」
 「鉄の王国」伽耶の優れた文化水準を証明する伽耶古墳群が、価値を認められ、世界遺産に登録されるだろうか。
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 西野法律事務所
 2020年バックナンバー
 金官伽耶の古墳から大量の日本製矢尻発見
 令和2年6月10日、韓国の慶南金海大成洞古墳博物館は、博物館の北東側平地3700平方メートルに分布した古墳群(史跡・第341号)のうち、108号墳で日本製と推定される青銅矢尻30点余りが束で出土したと明らかにしました。
 博物館は、令和元年12月から、一帯の墓70余基に対する学術発掘調査を進め400点余りの遺物を発掘しました。
 今回発掘された青銅矢尻は108号墳の主人と推定される夫婦人骨の枕元に並んで置かれていました。
 紡錘車の形の石製品、勾玉などが共に埋蔵されていました。
 青銅矢尻は、紀元4世紀頃、日本の支配者階級の墓からだけ出土する遺物です。
 これまで、わずかずつ出土されたが、数十点が一度に発見されたのは今回が初めてだそうです。
 金官伽耶地区の古墳群は、前方後円墳が多く、前方後円墳には日本人(倭人)が埋葬されていると考えるのが素直です。
日本人(倭人)の墓なら、勾玉や青銅矢尻が出土するのは当然です。
 韓国の公式見解は、韓国人の先祖が支配していて、日本人(倭人)の傭兵にすぎなかった、韓国人の祖先である支配層は、傭兵である日本人(倭人)の墓をつくることを許可したということです。
 ただ、支配層の墓が小さく、傭兵の墓が大きいというのは理屈に合いません。
 常識的には、金官伽耶は、昔、任那と呼ばれているところで、日本人(倭人)が支配している土地だと考えるのが普通ですね。
 私が小中学生の時、朝鮮半島任那は日本人(倭人)が支配していて、任那には、日本府があったと習っていました。
 朝鮮半島任那は日本人(倭人)が支配していたことは、日本がオリジナルの前方後円墳朝鮮半島南部に多数あること、日本の前方後円墳から多数出土される、埴輪、ひすい製勾玉(ひすいは、当時、日本の糸魚川地方からしか産出されていません)や青銅矢尻などが出土することから、日本書紀の記載が正しいかと思われます。
 今は、そのように教えないのでしょうか。
 日本が、現在、金官伽耶任那は日本の領土だと主張するはずもないのに、韓国が、頑なに否定するのはなぜでしょうか。
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 2021年9月7日 Record China「日本書紀が根拠だからやめて」=韓国が世界遺産登録を進める「伽耶古墳群」に反対運動
 韓国が世界遺産申請を推進中の「伽耶古墳群」について、地名の表記が「日本書紀」に準じているとして反対運動が起きている。写真はユネスコ
 韓国が世界遺産申請を推進中の「伽耶古墳群」について、地名の表記が「日本書紀」に準じているとして反対運動が起きている。7日、韓国メディア・ニューシスが伝えた。
 記事によると、全羅北道・南原市、慶尚南道・陜川郡、金海市、咸安郡、固城郡、昌寧郡、慶尚北道・高霊郡など旧伽耶国に属していた7つの市・郡は、地域内にある「伽耶古墳群」をユネスコ世界文化遺産に申請する動きを進めている。しかし申請書において「日本書紀」にならい南原市の旧地名を「己汶(キムン)」、陜川郡を「多羅(タラ)」と表記しているとして、申請反対を主張する文章が韓国大統領府の国民請願掲示板に投稿されているという。
 記事は、「日本は4世紀後半に韓半島南部へ進出して伽耶に『日本府』と呼ばれる機関を置き、6世紀半ばまで約200年間、百済新羅伽耶を直接支配したという『任那(みなま)日本府説』」を主張している」と報道。「これを根拠に、朝鮮半島侵略は『古代日本の領土を取り戻すため』とする主張まである」と伝えている。
 また、「日本の『任那日本府説』は、「伽耶」を「任那」、南原を「己汶」、陜川を「多羅」と表記しており、「日本書紀」は「己汶」と「多羅」を日本が治めていた任那の小国と記述している」と説明。そのため投稿者は、「『日本書紀』に基づく表記を使用すると歪曲(わいきょく)された日本の主張を認める形になるため、やめてほしい」と訴えているという。
 この請願は「南原を『任那日本府』の『己汶』として世界遺産に登録しようとする南原市と文化財庁は売国行為を中止しろ」との題名で8月20日に投稿されており、9月7日午前までに3258人が同意しているという。
 この記事を見た韓国のネットユーザーからは、「いまだに親日派が韓国を動かしているんだね」「これが本当なら、確認もせず申請を進める職員はみんな辞職して」「文大統領のおかげで『伽耶古墳群』の内容が日本書紀を基にしていると分かったのだから、文大統領も親日派でしょ」「これ以上ユネスコに金を貢ぐのはやめて。無知な自治体の長が餌食になっている」など、反発の声が多く寄せられている。
 一方で、「『日本府』は伽耶三国時代に日本を統治するために朝鮮半島に作られた機関だよ」「文化財庁の学者たちを何だと思ってるの?勝手な解釈をして請願なんてしないで」など、投稿者に批判的なコメントも見られた。(翻訳・編集/丸山)
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 国立歴史民俗博物館 広報事務局
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 加耶―古代東アジアを生きた、ある王国の歴史―
 このページの目次
 開催概要広報用作品画像の使用について問い合わせ先
 このたび、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)(※以下歴博)では、大韓民国国立中央博物館、九州国立博物館と共同で、国際企画展示「加耶―古代東アジアを生きた、ある王国の歴史―」を2022年10月4日(火)~12月11日(日)に開催いたします。
 加耶(かや)とは、日本列島の古墳時代と同じ頃、朝鮮半島の南部に存在した、互いに協力し、時には競い合いながら活躍した国々のことです。おおむね4~6世紀に、海上交易と鉄生産を一体として運営し、東の新羅(しらぎ)や西の百済(くだら)、海をはさんだ古代日本の倭、そして遠く中国などとも交流を重ねながら、大きな成長をとげました。しかし、新羅百済という強国のはざまの中で、徐々に勢力が弱まり、562年には滅亡してしまいます。
 今回、大韓民国国立中央博物館の全面的な協力のもと、加耶の墳墓から出土した金銀のアクセサリー、整美な土器、武威をしめす武器や馬具、成長の礎となった鉄、そして対外交渉をしめす外来の品々など約220点の資料を展示することにより、加耶のなりたちから飛躍、そして滅亡までの歴史を明らかにします。日本国内で加耶の至宝が一堂に会して展示されるのは、実に30年ぶりのことです。
 今回の展示では、加耶と倭の交流の移り変わりについても考えていきます。加耶は倭が最も緊密に交流した社会の一つです。倭は、加耶との交流を通して、当時の先進の情報や技術、道具を入手し、それを自らの文化として定着させていきました。それは、須恵器と呼ばれる硬い焼き物、鉄の道具、金工、馬の飼育、灌漑、ひいては蒸し器などの炊事道具や新しい暖・厨房施設(カマド)など実に様々です。その動きが最も盛んだった5世紀を「技術革新の世紀」と呼ぶこともあります。倭の歴史を知るためには、加耶の歴史にも目を向ける必要があります。
 本展示を通して、海をはさんだ加耶の歴史を体感しながら、日韓両地域の悠久の交流が現在、そして未来へと続いていくことに思いをはせることでしょう。
 広報画像① 加耶の耳飾り 陜川玉田(ハプチョンオクチョン)M4号墳出土 6世紀前半
 耳にとりつける環の下に華麗な飾りを垂らした金製の耳飾り。山梔子(くちなし)の実のような垂れ飾りは大加耶の耳飾りの特徴である。有力者のみが装着できたものである。
 ※今回、上記資料の右側のみ展示されます。
 プロローグ 加耶とは何か
 日本列島の古墳時代と同じ頃、朝鮮半島の南部に、互いに協力し、時には競い合いながら活躍した国々がありました。この国々をあわせて加耶と呼びます。考古学的には、金官加耶(きんかんかや)、大加耶(だいかや)、小加耶(しょうかや)、阿羅加耶(あらかや)などの国々が確認できます。おおむね4~6世紀に、東の新羅(しらぎ)や西の百済(くだら)、海をはさんだ古代日本の倭、そして遠く中国などとも交流を重ねながら、成長をとげましたが、562年に滅亡してしまいます。
 4世紀には成立していた加耶諸国の中で、最初に力を誇ったのは、金官加耶でした。洛東江(らくとうこう)の河口に位置する今の慶尚南道(けいしょうなんどう)金海(キメ)市一帯に中心がありました。かつてその一帯は「古金海湾(こキメわん)」と呼ばれる湾でした。金官加耶はこの天然の良港を掌握し、東アジアの様々な社会と活発に対外交流を重ねました。また鉄を大々的に生産し、それを交易品として活用します。鉄生産と海上交易を一体として運営していくことに、金官加耶の隆盛の背景がありました。しかし5世紀を迎える頃、北の高句麗(こうくり)の攻撃を受けたことにより、徐々に弱体化していきます。
 その金官加耶と入れ替わるように加耶の盟主となったのは、今の慶尚北道(けいしょうほくどう)高霊(コリョン)郡を中心とする大加耶でした。各地の墳墓から出土する大加耶系の金銀のアクセサリーや装飾大刀は、大加耶の中央による社会統合の意図が込められています。479年には加耶諸国の中で唯一、中国への遣使を実現させるほどの勢力を誇り、倭とも密接な交流を積み重ねました。
 しかし、6世紀に入ると、新羅百済という強国のはざまで、その勢力に陰りが見えてきました。532年に金官加耶新羅の影響下にはいった後には、衰退の一途をたどり、ついに562年、大加耶新羅の軍門に下ります。ここに加耶の歴史は幕を下ろすことになりました。
 加耶の領域と王墓群
 Ⅰ 加耶を語るもの
① 重厚で華麗な武装
② 豊かな鉄
加耶土器の美
④ 壮大な王陵
 加耶が何を成長の礎とし、どのような文化を育んでいたのかを示すものは、大きく4つあります。重厚な武装を整えていたこと、鉄生産と交易を一体として運営していたこと、華麗な土器を生み出していたこと、そして加耶の諸国それぞれが特色ある王陵群を営んだことです。そのことを示す文物の美と圧倒的な存在感から、加耶独特の文化を体感することができます。
 Ⅱ 加耶への道
① 東アジアと海の道
② 墳墓からみた加耶
③ 盟主としての大加耶
④ 大加耶の飛躍
 加耶は東アジアのさまざまな社会を結びつける役割を果たしながら、多彩な墳墓文化をはぐくみました。古代東アジアの中でも、墳墓にその歴史がよく反映されている社会のひとつです。墳墓の規模や形、副葬品、その移り変わりから、加耶の歴史をひも解いていきます。
 Ⅲ 加耶人は北へ南へ―4世紀
① 東アジアとのつながり
金官加耶と倭
 4世紀の加耶の対外交渉を主導したのは、金官加耶でした。近年の調査や研究では、東アジアに広がるネットワークを活用しながら、近隣の、そして遠方の社会と関係を深める姿が明らかにされつつあります。鉄を交易品とし、大規模な港を整備しながら、国際社会にのりだす金官加耶の姿を描き、倭との関係についても紹介します。
 Ⅴ 加耶のたそがれ―6世紀前半~中葉
① 強国のはざまで
② 滅亡まで
 6世紀に入ると、新羅百済という強大な社会が、加耶の地の統合をもくろむようになります。その中で加耶諸国は巧みな外交術を駆使することで、何とか生き残りをはかりました。それは、ある時までは功を奏しましたが、徐々に苦境に立たされていきます。ついに532年に金官加耶、そして562年に大加耶が、新羅に降伏し、加耶は東アジアの表舞台から姿を消すことになりました。
 エピローグ 加耶史と現在
 最後に、加耶史と現在の関わりを考えるきっかけとして、山清生草(サンチョンセンチョ)9号墳を紹介します。この古墳は倭の儀礼に則って葬送が行われましたが、墓地の中で現地の人々の墓と混在して営まれています。倭の人々が加耶へおもむき、現地の人々と交流を積み重ね、時には「雑居」するような状況が生まれたことを示す貴重な資料です。
 加耶の歴史は、4~6世紀中頃まで東アジアを生きた、ある古代社会の歴史です。近隣、そして海を越えた様々な社会と交流を重ねたことが、その成長の礎となりました。
 その加耶との交流を通して、倭の社会や文化は大きく発展していきました。海をはさんだ加耶の歴史を紹介しながら、日韓両地域の悠久の交流を現在、そして未来へと紡いでいきます。
 【展示プロジェクト委員】
 展示代表:高田 貫太(たかた かんた)
 1975年、福島県生まれ。岡山大学文学部史学科卒業、同大学大学院文学研究科史学専攻修士課程修了。大韓民国慶北大学校考古人類学科博士課程修了。文学博士。
現在、国立歴史民俗博物館研究部教授・総合研究大学院大学文化科学研究科教授。
著書に『古墳時代の日朝関係―新羅百済・大加耶と倭の交渉史―』(2014年 吉川弘文館)、『海の向こうから見た倭国』(2017年 講談社現代新書)、『異形の古墳 ―朝鮮半島前方後円墳』(2019年 角川選書)、『アクセサリーの考古学 ―倭と古代朝鮮の交渉史』(2021年 吉川弘文館)がある。
 梁 成赫(大韓民国国立中央博物館)
 白井 克也(九州国立博物館
 上野 祥史(国立歴史民俗博物館
 仁藤 敦史(国立歴史民俗博物館
 松木 武彦(国立歴史民俗博物館
 国立歴史民俗博物館 広報事務局(株式会社ユース・プラニング センター内) 担当:大山・平野・池袋
 〒150-8551 東京都渋谷区桜丘町9-8 KN渋谷3ビル4F
 TEL:03-6826-8708 FAX:03-6821-8869 E-mail:rekihaku@ypcpr.com
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 文化庁広報誌 2023年2月24日
 文化財のトビラ
 特別展「加耶【かや】」
 九州国立博物館 学芸部文化財課 課長 白井 克也【しらい かつや】
 3~6世紀ごろ、朝鮮半島南部に「加耶」と呼ばれる小国群がありました。東の新羅、西の百済、北の高句麗という強国に囲まれていましたが、それらの国ぐにや、海を渡った倭(日本)や南西諸島、中国などとも交流しつつ独立を保ちました。
 加耶の繁栄は、豊富な鉄のおかげでした。弁韓の時代から鉄の生産と交易によって成長し、3世紀後半には慶尚南道金海市に、「金官加耶【きんかんかや】」が登場しました。このほか「阿羅加耶【あらかや】」「大加耶【だいかや】」「小加耶【しょうかや】」など加耶の諸国も成長しました。鉄による繁栄を象徴するのが有刺利器です。羽子板のような鉄板の周囲に装飾がついた形は、鉄鋌と呼ばれる鉄の延べ板を加工したものです。鉄鋌は鉄の材料であるとともに、貨幣のような使い方をしたとも考えられており、王の死に際しては大量に王陵に納め、その権威を示しました。有刺利器もまた、鉄の国の誇りを表しています。加耶では豊富な鉄を交易のほか武器や武具(よろいやかぶと)にも利用し、周囲の強国に対抗しました。
 金官加耶は5世紀初めごろ高句麗の攻撃を受けて衰退し、代わって台頭したのが、慶尚北道高霊郡を中心とした大加耶です。金銅の冠が王の権威を象徴しています。冠が出土した王陵には、新羅の土器や倭の甲冑なども納められており、周辺の国ぐにとの外交交渉も盛んでした。479年には中国の南斉王朝に単独で使者を派遣するほどでした。大加耶新羅を通じて地中海地域のガラスを、百済を通じて南朝青磁を、それぞれ輸入しました。
 しかし、6世紀には百済新羅に圧迫され、532年に金官加耶新羅に降伏、562年には大加耶新羅軍に敗れ、加耶は滅亡しました。
 有刺利器 咸安道項里(文)10号墳(阿羅加耶) 4世紀末~5世紀前半 韓国国立金海博物館蔵
 《韓国宝物》 金銅冠 高霊池山洞32号墳(大加耶) 韓国国立大邱博物館蔵(画像提供啓明大学校博物館)
 加耶と倭の交流を反映して、倭には加耶などの渡来人が訪れました。福岡県の朝倉古墳群では、倭人の首長のもと、渡来人と倭人が地域社会を共同で営んださまが知られています。日常的な交流の中で、鉄の加工、須恵器の生産、かまどによる調理方法など、新技術がもたらされました。大阪府四條畷市では、日本で唯一の仔馬形埴輪がみつかっていますが、このような埴輪の存在は、馬を子どもの段階から飼育して地域社会に貢献した人がいたことを示しています。渡来人による牧場経営のはじまりです。
 加耶に関する大規模な展覧会が日本で開催されるのはほぼ30年ぶり。この機会に、加耶と倭の交流や、倭にやってきた渡来人が日本文化の形成に果たした役割を体感していただければと思います。
 《四條畷市指定文化財》仔馬形埴輪 大阪府四條畷市忍ヶ丘駅前遺跡 6世紀 四條畷市教育委員会
 九州国立博物館
 (住所)〒818-0118
 福岡県太宰府市石坂4-7-2
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 九州国立博物館
 古代朝鮮半島倭国の交流に迫る決定版!
 加耶かやは3世紀から6世紀にかけて、朝鮮半島中南部に興おこった国々の総称です。
鉄で栄え、金で飾った加耶諸国は、古墳時代の日本にもさまざまな影響を与えました。
本展では、最新の研究成果に基づいて、加耶の前身である弁韓べんかんに始まり、562年に大加耶が滅亡するまでの、加耶の興亡の歴史をたどります。
また、加耶をはじめとするさまざまな地域から日本列島にやってきた「渡来人とらいじん」たちがもたらした文化・技術に着目し、発掘調査出土品から、日本文化の形成過程に迫ります。
 加耶かやとは
 朝鮮半島の南部では、鉄生産を背景にして3世紀ごろに各地の勢力が成長し、金で身を飾り、大きな古墳を築く王たちが登場した。加耶と総称される諸国は、ゆるやかに連携しつつ、東の新羅しらぎ、西の百済くだらや中国、北の高句麗こうくり、南の倭わ(日本)や南西諸島と交流した。本展では、加耶を代表する4つの国を紹介する。
 加耶とは
 最初の加耶
 金官加耶
 魏志倭人伝にも登場する「狗邪韓国くやかんこく」から成長し、最初に「カヤ」と呼ばれ、4世紀に栄えた。王陵は大成洞古墳群。
 個性の加耶
 阿羅加耶
 鉄のインゴットを加工した有刺利器、土器に開けた火焔かえん形のすかし、回転する車輪のある土器など、個性的な造形があふれる。王陵は末伊山古墳群。
 日本にいちばん近い加耶
 小加耶
 海に面し、倭(日本)とも関係が深い。大加耶と倭を小加耶が仲介した。王陵は松鶴洞古墳群。
 最強の加耶
 大加耶
 5世紀以降に台頭し、独自に中国に遣いを送った。ほかの加耶諸国とともに、最後まで新羅に対抗した。王陵は高霊池山洞古墳群。
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