☲28〕─3─ペリリューの日本軍が米軍の『日本本土進攻作戦』の決行を食い止めた。昭和19年。~No.114No.115No.116 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の捨て石になったのは沖縄であったが、日本を救ったのはペリリュー島であった。
 天皇にとって、沖縄とペリリュー島は忘れてはならない「天皇の島」である。
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 戦前の日本にいて昔の中国や朝鮮にいなかったのは、死に急がず玉砕する事なく最後の一人・一兵卒になるまで「大日本帝国の最後の勝利」を確信を持って信じてペリリュー島の生き地獄で「諦めず」戦い抜いた日本民族日本人である。
 そうした日本民族日本人は、靖国神社の軍神として祀られた。
 が、現代日本には彼らのような志・誠・気概・精神・心を持て戦った日本人はいない。
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 日本民族日本人は個人主義のリアリストとして、生死に関係なく「事に望んでの潔さ」はあっても悲観し絶望して諦めて投げ出す「滅びの美学」を持っていなかった。
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 集団主義現代日本人には、民族的な歴史力・伝統力・文化力・宗教力がないだけに、歴史の事実が見えない。
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 歴史的事実として、アヘン戦争の中国や日韓併合の朝鮮に沖縄やペリリュー島の様な事例があれば亡国になる事はなかったし、日本を恫喝し謝罪・反省や賠償金・償い金を要求する事もなかっただろう。
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 が、沖縄とペリリュー島の激戦がヒロシマナガサキの原爆の投下実験や人体実験を招いた。 
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 2023年5月26日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「日本軍『全滅必至の戦い』が米軍の『日本本土進攻作戦』の決行を食い止めた」…太平洋戦争の激戦地「ペリリュー」にいま米軍が戻ってきている理由
 活発化する米中のかけひきと「日本軍の名残り」
 撮影/牧野愛博
 G7広島サミット直後の5月22日、米国は、パプアニューギニアと防衛協力協定に署名した。この日には、インドのモディ首相もパプアニューギニアを訪れた。
 【写真】「日本本土進攻作戦」を止めるために「全滅必至」で戦った日本軍の遺したあと
 パプアニューギニアのニューブリテン島には、第二次世界大戦中、米軍の西進を長く食い止めた旧日本軍のラバウル航空基地があった。中国も最近、太平洋島しょ諸国の戦略的価値に注目し、パプアニューギニアのお隣のソロモン諸島と安全保障協定を結ぶなど、情勢が活発に動いている。
 パプアニューギニアの北西に位置するパラオペリリュー島。第2次大戦後半の1944年9月から11月まで、日米両軍が激戦を繰り広げた島だ。しかしペリリューは、米国にとっては他の激戦地とは一線を画す存在だ。
 ペリリューでの戦いは大戦中、硫黄島、沖縄と並び、米軍を苦しめた戦場だった。戦後、硫黄島と沖縄は米国の輝かしい戦史の1ページに加えられたが、ペリリューは「忘れられた戦場」になった。米軍に屈辱を味わわせた場所だったからだ。
 米軍は当時、旧日本軍の飛行場があったペリリューを、さらに西方に位置するフィリピン攻略の拠点にしようと考えた。ところが、激しい日本軍の抵抗に遭った。ペリリューを占領できないでいる44年10月、フィリピン攻略戦が始まった。ペリリューは米軍にとっての戦略的価値を失った。米側に1万人以上の戦死傷者も出した。
 ところが今、そのペリリューに再び、米軍がやってきた。中国の中距離ミサイルの脅威に対抗するため、第二次世界大戦後に放棄した飛行場の再整備に乗り出したからだ。
 一方、2015年4月のペリリューへの天皇・皇后両陛下の慰霊の旅から8年が過ぎた。地元のパラオ政府も、ペリリューにそれぞれの視線を注ぐ米中の間をうまく立ち回っている。ペリリューは最近の国際情勢の縮図になっていた。
 日米、極限の戦い
 ペリリューには、日本軍が1939年に着工し、40年までに使用を始めた飛行場があった。当時米軍はこの飛行場をフィリピン攻略の拠点にできると考えた。米軍がペリリューを攻略した最大の動機だ。
 ペリリュー島の戦いが如何に壮絶を極めたのか。ペリリュー島を案内してくれたジョエル・オカダさん(47)は「当時、降り注いだ砲弾のお陰で、緑の島影がすっかり茶色に変わり果てたと言われています」と語る。
 パラオでは、約30年にわたった日本支配時代の名残で、日本語の名前をつける人が多い。ジョエルさんもパラオ人。祖父はペリリューに住んでいたが、戦闘が始まる前にパラオ本島に疎開し、無事だった。
 ペリリュー島の戦闘では日米併せて1万2千人以上が戦死したが、パラオ人の死者はいなかった。これはパラオが依然、良好な親日感情を抱いている原因の一つでもある。そしてジョエルさんの祖父も終戦から5年後の1950年、ペリリューに戻り、ジョエルさんの名付け親になった。
 ペリリュー島の戦いは極限状態での戦いだった。戦いに第1海兵師団の兵士として参加したユージン・スレッジ氏が書いた『ペリリュー・沖縄戦記』(講談社学術文庫)をみれば、その過酷な様子がよくわかる。スレッジ氏は「ペリリュー島での両軍は、二匹のサソリが瓶に入れられたようなものだった」と書いた。極限状態での戦闘が続いたため、両軍兵士が倒した敵兵の遺体を傷つけたり、所持品を奪ったりする行為が相次いだ。
 「本土決戦」を遅らせるための「玉砕禁止」
 旧日本軍のトーチカ/写真:牧野愛博
 ペリリューで日本が開設した小学校跡の近くに、かまぼこ状の朽ちたコンクリートの施設があった。ジョエルさんは「弾薬庫か何かかと思いますが、よくわかりません」と言う。スレッジ氏の本を読んでいたので、すぐわかった。日本兵が上陸してくる米兵を迎え撃ったトーチカの跡だった。
 ただ、トーチカは道路の脇にあるものの、トンネルなど、他の場所につながるものは何もなかった。スレッジ氏の本によれば、日本兵たちはトーチカに身を潜め、スレッジ氏らを迎え撃った。最後は、火炎放射器などを浴びて全滅したという。兵士たちは最初から、トーチカを死に場所にする覚悟だったのだろう。
 ペリリュー島の守備隊を率いた中川州男大佐は玉砕を禁じた。だが、それは生存を期すものではなく、1日でもペリリューの戦闘を長引かせ、米軍のフィリピン侵攻やその後に予想される本土決戦を遅らせるためだった。
 自衛隊関係者は「もちろん、生存を最初から諦めることはありません。許す限り、撤退しながら守備を続けるという方法が望ましいと思います。かつての北海道・音威子府などで想定されていた戦術です。でも、ペリリュー島硫黄島のように逃げ場がない場所では、やむを得ない判断だったのだと思います」と語る。
 ペリリュー島硫黄島、沖縄などでの日本軍の激烈な抵抗により、米軍は予想以上の死者を出した。それが最終的に、米軍による決行が予定されていた1945年11月に九州南部に上陸する「オリンピック作戦」、46年3月に関東に上陸する「コロネット作戦」という2つの本土侵攻作戦の中止につながる要因の一つになったとされている。
 後編『「すべての訪問者は、日本軍兵士がいかに勇気があり命をささげたかを語るべきだ」…第二次大戦時、ニミッツ提督が伝えた日米の激戦地・ペリリューに「いま米軍が今戻ってきている理由」』につづく。
 牧野 愛博(朝日新聞外交専門記者)
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 「すべての訪問者は、日本軍兵士がいかに勇気があり命をささげたかを語るべきだ」…第二次大戦時、ニミッツ提督が伝えた日米の激戦地・ペリリューに「いま米軍が今戻ってきている理由」
 牧野 愛博朝日新聞外交専門記者 プロフィール
 G7広島サミット直後の5月22日、米国は、パプアニューギニアと防衛協力協定に署名した。
 パプアニューギニアのニューブリテン島には、第二次世界大戦中、米軍の西進を長く食い止めた旧日本軍のラバウル航空基地があった。中国も最近、太平洋島しょ諸国の戦略的価値に注目し、パプアニューギニアのお隣のソロモン諸島と安全保障協定を結ぶなど、情勢が活発に動いている。
 この同じ太平洋島しょ地域、パプアニューギニアの近くに、太平洋戦争の最終盤において日米両軍の激戦地となった島、ペリリューがある。現在、ここに米軍が戻ってきている。
 現地ルポを前編『「日本軍『全滅必至の戦い』が米軍の『日本本土進攻作戦』の決行を食い止めた」…米中のかけひきが激しさを増す太平洋島しょ地域に残る「激戦地・ペリリュー」の記憶』に引き続きお届けする。
 現地でよみがえる第二次世界大戦時の記憶
ペリリュー島には、旧日本軍の燃料貯蔵庫跡と飛行部隊司令部跡も残されていた。燃料貯蔵庫は米戦艦「ミシシッピ」の砲撃を受け、一部が崩落して、曲がった鉄筋が露出していた。司令部跡はほとんど崩落した状態だった。
 破壊され、放置された日本軍戦車もあった。旧日本軍の軽戦車は米軍の攻撃によって次々に撃破されたという。さびた車体の間から緑の草が顔を出していた。ペリリュー島の南端、アンガウル島が見える場所に天皇皇后両陛下が2015年4月9日に慰霊の祈りを捧げた記念碑が建っていた。
 日本軍戦車/写真:牧野愛博
 日米の最激戦地となった「ブラディノーズ・リッジ」には600ヵ所もの洞窟があり、日本軍は内部をつないで、そこでゲリラ戦を続けた。ふもとには、日本の関係者が建立した「ペリリュー神社」やペリリュー戦没者諸霊供養塔などが立つ。
 「ペリリューに戻ってきた」米軍
 少し離れて、米第1海兵師団などの戦闘記念碑もある。ペリリュー神社の脇に「この島を訪れるすべての訪問者は、日本軍兵士がこの島をまもるために命を捧げたことが、いかに勇気があり、愛国的だったかを語るべきだ」というニミッツ提督の言葉が刻まれた碑もある。
 ニミッツ提督碑/写真:牧野愛博
 日本軍の猛烈な抵抗に遭い、数日間で戦闘が終わると考えていた米軍のもくろみは外れた。日本軍は従来の「水際で米軍を全滅させる」という手法を捨て、島内の洞窟などにこもったゲリラ戦を挑んだ。ペリリューでの戦闘は2ヵ月以上続き、フィリピン攻略戦に間に合わなかった。ペリリュー島に最初に上陸した第1海兵師団も手ひどい損害を受け、後続の陸軍部隊と交代した。
 こうした厳しい記憶から、米国内ではペリリューが「忘れ去られた戦場」になった。飛行場も戦略的価値がないとされ、戦後に放棄された。戦後は長い間、ペリリュー島と最南端のアンガウル島を結ぶ軽飛行機のチャーター便が飛ぶだけだった。
 ところが、ジョエルさんらによれば、米軍の第1陣が昨年7月、ペリリューにやってきた。約60人の部隊はパラオに常駐する米軍のCAT(民生支援)チームとは別の部隊だった。州庁舎そばの道路舗装や、ペリリュー飛行場の周囲に茂るジャングルの伐採などを行った。3月初めに、第2陣も到着したという。
 台湾にグアムよりも約400キロも近いペリリュー
 飛行場は旧日本軍が造成した当時の「4の字形」ではなく、1本の滑走路があるだけだった。滑走路はあちこちに水たまりがあり、雑草が生えていた。ただ、周囲のジャングルはきれいに刈り取られていた。滑走路には2カ所だけ、舗装された場所があった。2015年4月に天皇皇后両陛下が来島したときに使った「臨時ヘリポート」だった。滑走路の端に、はショベルカーやトラックなどが置いてあった。整地用に使うグレーダーもあった。
 ペリュリュー飛行場/写真:牧野愛博
 ジョエルさんは「米軍の重機です。まもなく、これらを使って滑走路の補修を行うのだと思います」と話す。
 ペリリューは台湾まで約2400キロ。同約2800キロのグアムよりも近い。
 米軍は今、各軍種が小型化や無人化、分散化を特徴とした部隊の再編を急いでいる。中国軍の中距離弾道ミサイルや空母打撃群の脅威に対抗するためだ。米空軍は、廃棄された飛行場や民間の飛行場などをかき集めている。パラオ政府は「災害でパラオ本島の飛行場が使えなくなったときのために備え、再整備を米国にお願いした」と説明している。ただ、自由連合盟約で、米国はパラオの安全保障上の権利を独占している。
 米軍は昨年夏の軍事演習で、アラスカに配備したF35ステルス戦闘機をパラオに着陸させた。パトリオット地対空誘導弾の発射訓練も行った。パラオは、小笠原諸島からグアムを通り、パプアニューギニアまで延びる「第2列島線」上にある。
 中国軍は、九州から沖縄、台湾、フィリピンを通り、南シナ海を囲むように延びる「第1列島線」と「第2列島線」のなかで、米軍を自由に活動させず、第1列島線の中には米軍を入れない「接近阻止・領域拒否(A2/AD)」戦略を持つとされる。
 第2列島線上にあるパラオは、グアムと共に、台湾有事の際に米軍が展開する有力拠点の一つになるとみられる。
 「戦争抑止」のための軍備となるか
 パラオ政府もしたたかだ。米軍のペリリュー飛行場の再整備について、特に異議を申し立てていない。むしろ、ウィップス大統領は、パラオの安全保障のため、パトリオットなどの配備が必要だという考えを示している。
 パラオの人口は約2万2千人と言われ、うち4千人は労働ビザがいらない米国のグアムやサイパンなどに住む。一方ペリリュー島の人口は500人とも400人とも言われる。産業がほとんどないパラオでは、「労働人口の半数は公務員で、もう半数は観光業や農業などに携わる」とも言われる。自由連合盟約に基づく、米政府からの莫大な支援金はパラオの命綱でもある。
 ペリリュー州は天皇皇后両陛下の訪問を記念し、4月9日を州の祝日に制定している。今年も4月9日、ウィッブス大統領らが出席し、訪問8周年の記念式典が行われた。一方、同州は昨年、新しい祝日を設けた。米軍CATチームが、ノーズブラッド・リッジに登る階段を整備したことを受け、9月15日をベテランズ・デーの祝日に指定した。ただ、日本側の関係者は「9月15日は、米軍がペリリュー上陸を開始した日です。日本人としては少し違和感を覚えます」と語る。
 生きていくため、パラオは日米が死闘を繰り広げたペリリューで、どちらにも苦い顔をしない。
 島を離れるため、港に向かう途中、ペリリュー島の小学校のそばを通った。ペリリューの小学校は8年制。高校がないため、子どもたちは小学校を卒業すると島を後にする。グラウンドでは、日本が教え、パラオ人が一番好きだという野球に、子どもたちが興じていた。
 ペリリューの飛行場再整備などの動きについて、「戦争準備だ」「好戦的だ」という指摘が出る。しかし、米太平洋陸軍司令官や在韓米軍司令官を務めた、ビンセント・ブルックス氏は「中国に、台湾侵攻は成功しないかもしれないと思わせることが、危機の発生を遅らせることになる」と語る。
 中川州男大佐慰霊碑/写真:牧野愛博
 79年前、ペリリューで戦った日本軍兵士たちは、島から生きて帰れるという希望を捨てざるを得なかった。ペリリュー飛行場の再整備が、そのようなつらい思いを二度と繰り
 「全滅覚悟」で戦った日本軍兵士がペリュリューに遺したあと
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