🗾17〕─2─縄文時代早期(約8000年前)の東アジアで最古、最大級の湿地性貝塚、東名遺跡。~No.81No.82 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 遺伝子的科学的に、日本土人の子孫である日本民族琉球民族アイヌ民族と漢族系中国人や半島人とは違うアジア人である。
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 2023年6月3日 YAHOO!JAPANニュース 毎日新聞「「全体は地味」な東名遺跡 「東高西低」縄文観を変える出土品
 巨勢川調整池に保存された第6貝塚佐賀市金立町千布で2023年5月24日午後2時13分、西脇真一撮影
 佐賀市金立町千布の国史跡、東名(ひがしみょう)遺跡。縄文時代早期(約8000年前)の東アジアで最古、最大級の湿地性貝塚で、髪飾りのくしや木製容器など出土物の多くは国内最古級だ。だが「一つ一つはすごいが全体としては地味」(考古学関係者)とも言われ、知名度は今ひとつ。市は発信力を強化しようと、隣接地に展示施設などの建設を計画する。「東高西低」の縄文観を覆すと言われた東名遺跡の魅力を追った。
 ◇地元でも課題の知名度アップ
 「きょうは本物を触って8000年前を感じてほしい。東名遺跡の名前を知っている人は?」。5月23日、市立鍋島小で開かれた「出前授業」で、市文化財課主幹の西田巌さんが尋ねると、6年4組の児童のほとんどが手を挙げた。
 土器などを手にした児童たちは「鹿の角をハンマーにして貝殻のブレスレットを作る発想がすごい」などと興味深そうだった。
 ただし、西田さんによると、普段の出前授業で「知っている」と手を挙げるのは4~5人ほどだといい、地元でも知名度アップは課題のようだ。
 長年、東名遺跡に関わる西田さんによると、出土品は土器や石器、骨、装飾品など20万点以上。特に、700を超える「編みかご」は複雑な文様のものもあり、当時の人の豊かな精神文化を感じさせる。東名の縄文人はどんな暮らしをしていたのだろうか。
 東名遺跡は8000~7400年前の約600年間に及ぶ遺跡。西田さんは「当時は日本全体で人口は10万人程度とされ、ここでは5、6世帯の30人ほどが暮らしていたのではないか」と言う。
 ゴミ捨て場である貝塚は六つ見つかり、うち二つを発掘。ヤマトシジミ、ハイガイ、アゲマキ、カキがほとんどで、美味な貝へのこだわりがうかがえる。
 深い穴を掘ってすむアゲマキは現在、生息数が激減し佐賀県では漁が見送られている。ムツゴロウや絶滅したニホンアシカも見つかっている。
 ◇進行する温暖化、ウンチの化石も
 遺跡は有明海の海岸から約15キロ離れているが、当時は地球温暖化が進行中で、その頃は川の河口付近にあったとみられている。その後も海面上昇が続き、住めなくなったらしい。
 貝塚で見つかった魚の耳石の調査で、東シナ海黄海に多い体長が1・5メートルにもなるホンニベを捕っていたことがわかった。また、東南アジア方面に多いトウカイハマギギの骨の一部もあった。
 一方、貝塚からはウンチが石化した「糞石(ふんせき)」も見つかった。この分析で、寄生虫のサナダムシの卵が検出された。サケやマス、特にサクラマスへの寄生率が高く、当時はこうした魚が温暖化とともに北へ移動する途中だと考えられるという。
 東名遺跡では墓地や貝塚から人骨も見つかった。男女とも縄文人としてはきゃしゃで、平均身長は男性で154センチ、女性は145センチだった。
 骨に含まれるたんぱく質の分析から、陸の食べ物と海の食べ物をバランス良く食べていたことがわかった。また、男女の違いや遺跡内でのばらつきも少なく、人々は協力して採集し、分け合って食べていたようだという。
 出土したイヌの骨の中には人と似た値を示すものもあり「人が残り物などの餌を与えていたのではないかと言われている」(西田さん)。また、歯を失った痕が残る頭蓋骨(ずがいこつ)もあり、獣と格闘する猟犬だった可能性が指摘されている。
 ◇技法は確立、美を求め交流も
 多数見つかった編みかごは、高さ60センチ以上の大型のものが8割以上を占める。これらは主食のドングリを入れ、中の虫を殺すために穴を掘って水につけたと考えられている。
 全国で見つかった縄文時代のかごで確認されている技法のほとんどが、既にこの頃からあったことがわかった。
 また、多数見つかった装身具の一つに貝のオオツタノハで作った腕輪の「貝輪」がある。オオツタノハは日本で南方の限られた島しょ部でしか確認されていないが「弥生時代になると位の高い人がつけるようになる」(西田さん)。ここにも人々のこだわりがみられ、他地域と交流していたと考えられている。
 こうした出土品の一部は、遺跡横の「東名縄文館」で展示されている。だが、貝塚の巨大なはぎ取り標本など、ほとんどは市文化財資料館(佐賀市本庄町本庄)のプレハブ倉庫に保管されたままだ。保存処理されているが劣化も懸念される。
 市は2028年度の供用開始を目指し、埋蔵文化財センターと一体の展示施設を計画する。西田さんは「縄文時代は人が自然と共生した時代。これからの私たちの生活を考えるような施設にできれば」と話す。【西脇真一】
 ◇東名遺跡
 佐賀市北部に位置。洪水対策の巨勢(こせ)川調整池建設に伴い1993年に調査が始まった。2003年に偶然、貝塚群が発見され04~07年に第1・2貝塚の調査が実施された。調整池の完成で第3~6貝塚はそのまま現地保存された。
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 6月3日 MicrosoftStartニュース 毎日新聞「「全体は地味」な東名遺跡 「東高西低」縄文観を変える出土品
 巨勢川調整池に保存された第6貝塚佐賀市金立町千布で2023年5月24日午後2時13分、西脇真一撮影
 © 毎日新聞 提供
 佐賀市金立町千布の国史跡、東名(ひがしみょう)遺跡。縄文時代早期(約8000年前)の東アジアで最古、最大級の湿地性貝塚で、髪飾りのくしや木製容器など出土物の多くは国内最古級だ。だが「一つ一つはすごいが全体としては地味」(考古学関係者)とも言われ、知名度は今ひとつ。市は発信力を強化しようと、隣接地に展示施設などの建設を計画する。「東高西低」の縄文観を覆すと言われた東名遺跡の魅力を追った。
 地元でも課題の知名度アップ
 「きょうは本物を触って8000年前を感じてほしい。東名遺跡の名前を知っている人は?」。5月23日、市立鍋島小で開かれた「出前授業」で、市文化財課主幹の西田巌さんが尋ねると、6年4組の児童のほとんどが手を挙げた。
 土器などを手にした児童たちは「鹿の角をハンマーにして貝殻のブレスレットを作る発想がすごい」などと興味深そうだった。
 ただし、西田さんによると、普段の出前授業で「知っている」と手を挙げるのは4~5人ほどだといい、地元でも知名度アップは課題のようだ。
 長年、東名遺跡に関わる西田さんによると、出土品は土器や石器、骨、装飾品など20万点以上。特に、700を超える「編みかご」は複雑な文様のものもあり、当時の人の豊かな精神文化を感じさせる。東名の縄文人はどんな暮らしをしていたのだろうか。
 東名遺跡は8000~7400年前の約600年間に及ぶ遺跡。西田さんは「当時は日本全体で人口は10万人程度とされ、ここでは5、6世帯の30人ほどが暮らしていたのではないか」と言う。
 ゴミ捨て場である貝塚は六つ見つかり、うち二つを発掘。ヤマトシジミ、ハイガイ、アゲマキ、カキがほとんどで、美味な貝へのこだわりがうかがえる。
 深い穴を掘ってすむアゲマキは現在、生息数が激減し佐賀県では漁が見送られている。ムツゴロウや絶滅したニホンアシカも見つかっている。
 進行する温暖化、ウンチの化石も
 遺跡は有明海の海岸から約15キロ離れているが、当時は地球温暖化が進行中で、その頃は川の河口付近にあったとみられている。その後も海面上昇が続き、住めなくなったらしい。
 貝塚で見つかった魚の耳石の調査で、東シナ海黄海に多い体長が1・5メートルにもなるホンニベを捕っていたことがわかった。また、東南アジア方面に多いトウカイハマギギの骨の一部もあった。
 一方、貝塚からはウンチが石化した「糞石(ふんせき)」も見つかった。この分析で、寄生虫のサナダムシの卵が検出された。サケやマス、特にサクラマスへの寄生率が高く、当時はこうした魚が温暖化とともに北へ移動する途中だと考えられるという。
 東名遺跡では墓地や貝塚から人骨も見つかった。男女とも縄文人としてはきゃしゃで、平均身長は男性で154センチ、女性は145センチだった。
 骨に含まれるたんぱく質の分析から、陸の食べ物と海の食べ物をバランス良く食べていたことがわかった。また、男女の違いや遺跡内でのばらつきも少なく、人々は協力して採集し、分け合って食べていたようだという。
 出土したイヌの骨の中には人と似た値を示すものもあり「人が残り物などの餌を与えていたのではないかと言われている」(西田さん)。また、歯を失った痕が残る頭蓋骨(ずがいこつ)もあり、獣と格闘する猟犬だった可能性が指摘されている。
 技法は確立、美を求め交流も
 多数見つかった編みかごは、高さ60センチ以上の大型のものが8割以上を占める。これらは主食のドングリを入れ、中の虫を殺すために穴を掘って水につけたと考えられている。
 全国で見つかった縄文時代のかごで確認されている技法のほとんどが、既にこの頃からあったことがわかった。
 また、多数見つかった装身具の一つに貝のオオツタノハで作った腕輪の「貝輪」がある。オオツタノハは日本で南方の限られた島しょ部でしか確認されていないが「弥生時代になると位の高い人がつけるようになる」(西田さん)。ここにも人々のこだわりがみられ、他地域と交流していたと考えられている。
 こうした出土品の一部は、遺跡横の「東名縄文館」で展示されている。だが、貝塚の巨大なはぎ取り標本など、ほとんどは市文化財資料館(佐賀市本庄町本庄)のプレハブ倉庫に保管されたままだ。保存処理されているが劣化も懸念される。
 市は2028年度の供用開始を目指し、埋蔵文化財センターと一体の展示施設を計画する。西田さんは「縄文時代は人が自然と共生した時代。これからの私たちの生活を考えるような施設にできれば」と話す。【西脇真一】
 東名遺跡
 佐賀市北部に位置。洪水対策の巨勢(こせ)川調整池建設に伴い1993年に調査が始まった。2003年に偶然、貝塚群が発見され04~07年に第1・2貝塚の調査が実施された。調整池の完成で第3~6貝塚はそのまま現地保存された。
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 日本民族琉球民族アイヌ民族の3民族は、数万年前から日本列島に住んでいた南方系揚子江流域の血を引く旧石器人(ヤポネシア人)・縄文人(日本土人)の直系子孫であって、漢族系中国人や半島人とは薄い血縁であり、縁もゆかりも他人と言っていいほどに限りなく遠い。
 漢族系中国人や半島人は、北方系黄河流域の子孫である。
 日本民族は日本土人である縄文人の直系子孫であったが、現代の日本人も同じ縄文人の子孫とは限らない。
 同様に、現代、アイヌ民族琉球民族を主張して日本から分離独立を主張する独立派のアイヌ人や琉球人も縄文人とは無関係である。
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