☯23〕─1─明王朝の中国は西洋より豊かで経済力で世界を席巻していた。明の滅亡。〜No.63No.64 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・   
 明王朝の遺臣は、満洲族清王朝に滅ぼされた漢族王朝の再興する為に敵国日本に援軍派遣を懇願したが、徳川幕府は大陸戦争に巻き込まれる事を怖れて拒否した。
 日本・ヤマト王建は、百済への恩義から、滅ぼされた百済を復興させる為に百済の遺臣の要請に従い、朝鮮半島に軍隊を派兵したが、唐・新羅連合軍に大敗した白村江の戦いに大敗した事を教訓としていた。
 歴史を知る日本人は、中国大陸や朝鮮半島に積極的に深入りすると不幸になる事を知っていた。
 現代日本人は、昔の日本人と違って、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力を持っていない。
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 属国であった朝鮮王国は、事大主義から強い者・大国に媚び諂い弱い者・小国を攻撃し、主家の漢族明王朝を裏切り蛮族である満洲族清王朝の臣下となって明王家を攻撃していた。
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 中国と朝鮮は、日本とは違って歴史を繰り返している。
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 2024年4月21日 YAHOO!JAPANニュース みんなのライフバック @DIME「西洋が中国の豊かさを上回ったのはいつ?経済力で世界を席巻した明王朝の功績
 はじめに―中国・明とは―
 中国の「明」王朝は1368年から1644年まで続き、中国史上でも非常に影響力のある時期とされています。明王朝は、元王朝の滅亡後に朱元璋(しゅげんしょう)によって建国されました。朱元璋は農民出身で、紅巾の乱という大規模な反乱を経て皇帝となり、洪武帝としても知られています。
 明王朝の初期には、中央集権体制を強化し、科挙試験システムを復活させて官僚の質を向上させました。また、法律や軍事、経済政策が整備されました。
 特に注目されるのは、永楽帝(えいらくてい)の時代です。永楽帝洪武帝の子で、彼の治世中に首都を南京から北京に移し、故宮紫禁城)の建設を命じました。また、永楽帝の時代には、鄭和が指揮する海外遠征(鄭和の七回航海)が行われ、アフリカ東岸やアラビア半島に至るまでの広範な地域との交流が行われました。
 しかし、明王朝後期には、政治の腐敗、天災、農民の負担増大などが重なり、国内は次第に不安定になっていきました。1644年には李自成(りじせい)の率いる農民反乱軍によって北京が陥落し、明王朝は滅亡しました。その後、清王朝が中国を統一することになります。
 文化的には、明時代は印刷技術の発展により、文学や学問が広く普及しました。また、磁器や絵画、建築などの芸術も大いに発展し、今日でもその遺産は高く評価されています。
 中国が西洋よりも豊かな時代が続いた
 実は18世紀まで中国は西洋よりも豊かな時代が続いたと推測されています。
 たとえば明の時代には新たな税制である「一条鞭法」が導入されました。この税制は、以前の複雑で非効率な税制を一新し、農民が支払う税を金銭のみに一本化することで、徴税の透明性を高め、政府の収入を安定させる目的がありました。これにより、明王朝は経済的に安定し、豊かさを増すことができました。
 この改革の主な目的は、税制を単純化し、徴税の効率を向上させることにありました。
【改革の背景と目的】
 明王朝の税制は、従来、農民が稲米や布などの物品を納める物納制であり、また別に労役を要求する制度がありました。これらのシステムは地域によって大きく異なり、管理が難しい状況でした。さらに、物納や労役の要求は農民にとって大きな負担となり、しばしば不公平感を引き起こしていました。
 一条鞭法は、これらの物納や労役を金銭納税に一本化することで、税の徴収を効率化し、公平性を高めることを目指しました。税金はすべて銀で代納するようになり、政府の収入が安定し、経済政策の透明性が向上しました。
【経済への影響】
 一条鞭法の導入は、明王朝の経済に複数の面で影響を与えました。金銭納税の普及は市場経済の発展を促進し、銀の流通が増加しました。この結果、商業活動が活発になり、都市部での経済活動が拡大しました。

 明王朝の貿易の歴史
 明王朝海禁政策についての話はやや複雑です。
 実際には、明王朝はその長い歴史の間に何度も海禁政策の採用と撤廃を繰り返しています。
海禁政策の導入】
 明王朝の創設者である洪武帝朱元璋)は、王朝の安定を図るために、外国との接触を制限する海禁政策を導入しました。この政策は、海外との交易を厳しく制限し、私的な海外貿易を禁止しました。その目的は、海賊行為の抑制と国内の経済力の強化、さらには政治的な安定を保つことにありました。
鄭和の遠征と一時的な撤廃】
 洪武帝の孫である永楽帝の時代になると、この政策は一時的に緩和され、特に鄭和の遠征(1405年から1433年)は国家が主導する大規模な海外交流の一例です。鄭和の航海は、公式に承認された国家事業として行われ、多くの国々との外交関係を築いたり、貿易を行ったりしています。鄭和の遠征は、中国明王朝の最も有名な海外探索活動で、1405年から1433年までの間に7回にわたり実施されました。鄭和明王朝の宦官であり、船団を率いてアジア、アフリカ、アラビア半島のさまざまな地域へ航海しました。これらの遠征は、明王朝の海外への影響力を拡大し、国際貿易を促進することを目的としていました。
【航海の技術と影響】
 鄭和の遠征船団は、大型の宝船を含む数百隻の船で構成されており、それぞれが高度な航海技術と詳細な航海図を用いて運航されました。これにより、当時の中国が持つ航海技術の高さが示されました。
 これらの遠征は、中国の製品と文化を広範囲に広めるとともに、多くの国々との外交関係を築きました。さらに、シルクロード海上版とも言える新たな貿易ルートの確立に寄与し、絹や磁器などの中国製品が欧州市場にも流通するきっかけとなりました。
【経済的影響】
 鄭和の遠征により確立された貿易ルートは、中国の経済にとって大きな利益をもたらしました。豊富な外国貨幣の流入により、地方経済も活性化し、商業の発展が促進されました。これは明王朝の経済繁栄に寄与する重要な要素となりました。
【再びの海禁政策
 しかし、鄭和の遠征が終了すると、明王朝は再び海禁政策を強化しました。特に、外交的な失敗や内政の不安、海賊行為の増加などがこの政策の再強化の背景にあります。この海禁政策は、16世紀を通じて基本的に維持され、中国人による海外移住や海外との私的な貿易を厳しく制限しました。
【緩和と最終的な撤廃】
 明末期には、実際の貿易需要と海賊行為への対応から、海禁政策が実質的に緩和されることもありました。そして、明王朝の滅亡後に成立した清王朝がこの政策を正式に撤廃し、広範な国際貿易を奨励する方向に転換しました。
 したがって、鄭和の遠征時に一時的に海禁政策が撤廃されたとはいえ、その後明王朝は何度もこの政策を復活させており、完全な撤廃は明王朝が滅びた後のことです。
【銀の流入と経済活性化】
 新大陸からの銀の流入中国経済の繁栄に寄与しました。16世紀以降、アメリカ大陸からの銀が中国に大量に流入し、中国は世界の銀市場で中心的な地位を占めるようになります。この銀は中国での通貨として流通し、商業活動や市場経済の活性化を促進しました。
【明滅亡への道】
 明王朝が豊かであった一方で、その富は徐々に政治の腐敗を生み出しました。高官や宦官たちが権力を私物化し、貪欲に富を蓄えることで政府の効率が低下し、民衆の不満が高まりました。さらに天災や疫病が頻発し、それに対する政府の対応が不十分であったため、農民の負担は増大しました。
 1644年には、これらの不満が高まり李自成の率いる農民反乱軍が北京を攻略。政府の弱体化とともに清の勢力がこれを好機と捉え、明王朝は滅亡へと向かいます。
 西洋が東アジアの豊かさを上回ったのは18世紀末
 歴史学のイアン・モリス教授が過去の歴史における国のGDPを正確に測ることが難しいという課題を解決するために、世界銀行が作成・発表する人間関係指数(HDI)を活用した社会発展指数(SPI)というものを開発しました。
 これによると東アジアが西洋に追い越されたのは18世紀末のことです。
 つまり、中国・明の時代は西洋よりも豊かということになります。それにも関わらず17世紀に明が清にあえなく倒されたのはなぜなのか疑問が残ります。少なくとも明の軍事力が劣っていなかったことから、滅亡の原因は明の国内問題によるところが大きいと見られます。
 実際、明が滅んだのは大規模な農民の反乱が原因といわれ、統治能力の欠如が結果的に国の崩壊へとつながったのです。
 まとめ
 明王朝はその経済政策と国際貿易の拡大により、一時は西洋を凌ぐ豊かさを誇りましたが、内政の腐敗などが原因で崩壊に至りました。その栄枯盛衰は、国家が直面する経済と政治のバランスがいかに重要かを物語っているのではないでしょうか。
 以上、金融経済アルキ帖「中国・明が西洋以上に豊かだった時代」でした。
 次回も宜しくお願いいたします!
 文/鈴木林太郎
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 2023年10月17日 時事ドットコムニュース「歴史書「亡国の王」、販売禁止に 明最後の皇帝、習氏連想か―中国
 中国の習近平国家主席=9月28日、北京(AFP時事)
 【上海時事】中国で9月に出版された明王朝の最後の皇帝、崇禎帝に関する歴史書が17日までに回収処分となり、事実上の販売禁止となった。出版取次業者は「印刷の問題のため」と説明しているが、書名の「勤政的亡国君(勤勉な亡国の王)」が習近平国家主席を連想させかねないと判断し、禁書扱いにした可能性がある。インターネット上でも書名を検索できなくなった。
 中国、陸上選手の写真検閲 番号の並びが「64」、天安門想起か―アジア大会
 著者は明時代を専門とする歴史家の陳梧桐氏(今年5月に死去)。同書は崇禎帝に焦点を当て、17世紀の明の滅亡に至る過程を描いた。香港紙・明報によれば、同書は2016年に「崇禎往事」の書名で既に出版されていたという。当時は禁書に指定されておらず、再販に当たり変更した書名などが問題視されたようだ。
 崇禎帝は崩壊の危機に直面した王朝の立て直しに熱心に取り組んだが、部下への疑念が強い上に命令や方針が一貫せず、明が滅びる要因をつくったとも言われる。同書は9月の再販に当たり、「愚策に次ぐ愚策、勤勉な王ほど国は滅びる」の宣伝文が付け加えられており、これも当局を刺激したとみられる。
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 10月23日 日本経済新聞 NIKKEI FT the World「中国当局、明朝滅亡させた皇帝の書籍を異例排除
 中国で約400年前に王朝を滅亡させ、自殺した皇帝を扱った書籍の改訂版が突如、同国内の書店から消え、ネット検索が検閲されるようになっている。
この書籍は9月に出版された1368〜1644年の明朝で最後の皇帝となった崇禎帝に関する「勤政的亡国君(勤勉な亡国の王)」だ。どのように崇禎帝が高官らを粛正して国の統治に失敗し、その後、反乱軍が北京に迫る中で紫禁城の外の木で首つり自殺をしたかを詳しく描いている...
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<出典: 日本大百科全書小学館) >
 明 滅亡
 宦官の横暴や党派闘争による政治の乱れ、増税などで明の国内では反乱が続発するようになる。その代表が李自成の乱です。1630年代以降、流賊と呼ばれる反乱集団がたくさん生まれるのですが、李自成の反乱軍もそのひとつでした。流賊は都市を攻略して、略奪する。明の正規軍が出てくると、さっと退却して今度は全然別の地方にあらわれて都市の略奪を繰り返す。馬で移動して行動範囲がひろいので、流賊と呼ばれました。
 李自成の反乱軍は、最初の頃は略奪集団とかわらないのですが、集団が大きくなると儒学者のブレーンがついて、李自成に新しい王朝を建てるようにすすめるようになる。李自成もその気になった。
 明朝が、全力で李自成軍を鎮圧しようとすれば、多分できた。ところが、明朝は李自成軍鎮圧に全兵力を投入できなかった。理由は、北の清軍に備えて国境を防衛するのに必死だったからです。明の精鋭部隊は万里の長城の最東端、山海関に貼りついて離れることができなかった。
 このすきに勢力を増した李自成軍は、1644年、40万の大軍で北京を占領してしまった。明朝最後の皇帝崇禎帝は宮殿の裏山に登って首をつって死んでしまった。あっけない明の滅亡でした。  李自成は、明にかわって新しい王朝を建国し、皇帝になります。まだ混乱の中ですが、、明の行政機構を掌握して、即位式の準備もはじめた。
 山海関を守っていた明軍の司令官が呉三桂という将軍でした。清軍と戦っていたら、北京からニュースが来て、明が滅んだという。呉三桂、びっくりします。かれは明に仕える将軍ですから、身の振り方に困ってしまう。引きつづき、李自成からの手紙も来た。明は滅んだが、李自成の新王朝の将軍として引きつづき山海関を守れ、と。  呉三桂は、成り上がり者で流賊出身の李自成に仕える気にはなれなかった。そこで、なんと清側に寝返ってしまったのです。清朝のもとでの高位高官を交換条件にしたのでしょう。山海関を開いて、清軍を中国本土に導き入れた。清軍は呉三桂を先導役にして北京に向かって進撃します。
 李自成は清軍を迎え撃ちますが、簡単に撃破されてしまった。かなわないと悟った李自成は、あわただしく皇帝の即位式だけ済まして北京を脱出。かわりに、清軍が入城して北京の新しい支配者となりました。李自成が北京を占領したのが3月19日、清軍の北京入城が5月2日。わずか、一月半の李自成の天下でした。  このあと、李自成は西安に逃れ、翌年、さらに落ちのびる途中、山の中で地元の武装勢力に殺されてしまった。
 明から清への王朝交替というのは、単なる皇帝家の交替ではない。清は満州族の国ですから、漢民族が異民族の支配を受けることになったわけです。だから、この事件のキーパーソンである呉三桂の行動というのはいろいろ論議をよんだ。なぜ、かれが李自成ではなくて、清に味方したのか。いろいろな話があります。  俗に言われているのが「女性問題」説。呉三桂将軍には陳円円という滅茶苦茶に美しい愛人がいた。彼女は北京の呉三桂邸に住んでいて、山海関を守っている呉三桂とは離ればなれなわけです。  李自成が北京を占領したときに、呉三桂が一番気にしたのが、陳円円の安否。部下を北京に派遣して様子を探らせたら、李自成は評判の美女陳円円をすでに自分の宮殿に連れ込んでいた。怒り狂って呉三桂は、清側についたというのです。講談などでおもしろおかしく話された作り話でしょうね。
 この前年にホンタイジは死んで、6歳の息子が清の皇帝になった。順治帝という。実権を握っているのは摂政のドルゴン。ホンタイジの弟です。  ドルゴンの指揮のもとで、清軍は各地の抵抗勢力を平定して中国全土を支配しました。ただし、当時の満州族の人口は60万、兵力は15万。これだけの軍事力で中国全土を支配するのは、物理的に無理があったので、清朝は投降してきた明の漢民族の将軍たちを積極的に利用します。呉三桂がその代表です。  統一後は、漢民族の将軍たちを藩王として中国南部地方の支配をまかせました。呉三桂雲南地方の藩王となりました。
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 世界史の窓
 明
 1368年、朱元璋が建国した漢民族の王朝。靖難の役で実権を握り、1402年に皇帝となった永楽帝の時代、都を南京から北京に遷し、紫禁城を造営し、全盛期となる。皇帝専制体制を作り上げ、経済も発展し、漢民族の文化が隆盛期を迎え、広大な朝貢世界を支配した。15世紀後半からモンゴル人の侵攻を受け、16世紀には北虜南倭に苦しみ、次第に衰退。17世紀には北東から清の侵攻を受け、1644年に李自成の反乱によって滅亡する。
 元末の紅巾の乱の混乱の中から台頭した朱元璋が1368年に南京(金陵)で即位(太祖洪武帝)して建国した、漢民族の王朝。征服王朝である元のモンゴル色を一掃し、漢民族による中国大陸の統一支配を回復した。また、江南に起こった勢力が中国を統一し、江南に統一中国の都がおかれたのも初めてである。1368年8月に明軍は元の大都を攻略し、元の勢力をモンゴル高原に後退させ(北元として残る)、さらに四川地方、雲南地方にも遠征軍を送り、中国本土すべてを服属させ、広大な領土を支配した。 → 元の滅亡
・ページ内の見だしリスト
(1)皇帝専制政治体制(2)明の時期区分(2)明の滅亡
 明の皇帝専制政治
 明を建国した洪武帝朱元璋、太祖)は、あらゆることを皇帝が決裁する皇帝独裁体制を作り上げ、それに批判的な勢力は次々と排除した。その結果、明代の皇帝には行政・軍事・外交などあらゆる権限が集中する統治機構が確立した。明代の皇帝の絶対的立場や次のように説明されることがある。
 (引用)漢や唐の時代には、大臣たちが皇帝と政務を処理するばあい、互いに椅子に腰かけ、膝つき合わせて話し合ったが、宋代になると、大臣は腰かけることを許されず、直立した姿勢でたたねばならなかった。ところが、明代になると、立っていることすら許されず、皇帝の面前では、すべてひざまづかねばならなくなった。<愛宕松男/寺田隆信『モンゴルと大明帝国講談社学術文庫 p.291>
 明の皇帝の圧倒的な権力の大きさは、北京郊外に残る永楽帝以降の皇帝の陵墓である明の十三陵や、同じく永楽帝以降の宮殿紫禁城の豪勢さに現れている。
皇帝専制政治を支える明の政治機構 明の皇帝専制政治を支えた機構は完成期には次のようになる。
       中央    ─ 地方
  ┌(行政)六部①   ─ 布政使
  │
皇帝┼(軍事)五軍都督府②─ 都指揮使
 ││
 │└(監察)都察院③  ─ 按察使
 │
 補佐 内閣(内閣大学士)
①六部:吏部(官吏の任免)、戸部(戸口・租税)、礼部(典儀・科挙・外務)、兵部(武官の任免・軍政)、刑部(司法)、工部(林野・建設)。六部それぞれが皇帝に直属した。地方の布政使は里甲制によって農民を統治した。
五軍都督府:中軍、左軍、右軍、前軍、後軍の五軍にわけ皇帝に直属。地方の都指揮使は各省ごとに置かれ、衛所制の衛ごとに軍戸を指揮した。
③都察院:律令制度の御史台に相当する監察機関。皇帝に直属し、官吏を監視し重要刑事事件を裁判した。
 内閣:永楽帝の時からの皇帝補佐、秘書役。複数の内閣大学士が置かれ、首席内閣大学士が事実上の宰相(首相)となった。
 明の対外・貿易政策
 海禁策 明では、1371年の洪武帝以来、たびたび海禁令を出し、「海禁」を王朝の対外・貿易政策の基本とした。海禁とは、民間の貿易と、民間人の海外渡航を禁止する政策であり、ねらいは主として倭寇などの海賊行為の取り締まりにあったが、同時に貿易の利益を独占することでもあった。また海禁を厳しく守らせた一方で、外国との朝貢貿易は積極的に進められた。海禁と朝貢とは矛盾することではなく、明朝の対外・貿易政策の二本柱であり表裏の関係をなすせいさくであった。
 朝貢貿易 朝貢貿易の方は明朝政府が管理し、利益を独占することであり、皇帝の権威を高めるために必要とされ、特に永楽帝の時には鄭和のインド洋方面の諸国への派遣も朝貢貿易の拡大をめざすものであった。また永楽帝の時には明と日本の間の勘合貿易が始まるが、これも朝貢貿易の一種であった。
 倭寇 洪武帝以来、海禁令を度々出したということは、海禁にもかかわらず私貿易・密貿易が盛んに行われていたことを示しており、厳しい取り締まりにもかかわらず倭寇が活動する余地があったことがわかる。
 対モンゴル戦争 明にとって大きな脅威は北方のモンゴルであった。洪武帝永楽帝は積極的に対モンゴル遠征を行い、ほぼその動きを封じることに成功したが、15世紀にはモンゴルの中からオイラトといわれる部族が成長し、エセンに北京を攻撃される事態となった。土木の変では明朝の皇帝がオイラトの捕虜となるという敗北を喫した。16世紀にはタタール(従来のモンゴル)のアルタンが北京を攻撃し、明朝にとっては海岸部での倭寇とともに「北虜南倭」といわれる脅威であった。
 海禁の停止  16世紀にはポルトガル人の来航というまったく新しい問題が出てきた。1557年にポルトガル人のマカオ居住を許し、貿易が始まると、従来の全面的な民間貿易禁止策である海禁は緩和せざるを得なくなり、1567年からの張居正の改革の一環として海関は停止された。
 7章1節 用語リストへ

 明王朝系図
 明の時期区分
 14世紀後半
 洪武帝は、南京を都とし、基盤である江南を中心に農村の回復に努め、1381年、賦役黄冊・魚鱗図冊による徴税システムと里甲制を作り上げ、六諭を示して農民支配の安定化に努めた。そして中書省を廃止して六部を皇帝直属にするなど、皇帝独裁体制を作り上げた。また、軍事体制では衛所制を設け、軍戸から一定数の兵士を徴発し、都指揮使に統率させた。外交・貿易政策では倭寇対策に力を入れ、民間人の交易や渡航を制限する海禁を厳しくした。
 靖難の役 洪武帝はモンゴルに備えて北辺の守りを固め、子たちを諸王として北辺の守りに当たらせたが、その中の燕王朱棣(しゅてい)は北平(かつての燕京、現在の北京)にあって良く北方を治め、有力であったが、洪武帝の死後、第二代となったのは孫の建文帝であった。建文帝は叔父の諸王の力をそぐために努めたが、燕王朱棣は不満を募らせ、ついに1399年に靖難の役を起こし、建文帝を倒して1402年に即位して永楽帝となった。
 15世紀前半
 靖難の役をへて実権を握った永楽帝の時、明の国力は全盛期を迎えた。永楽帝は1421年に正式に北京に遷都して中華帝国の建設を進め、北方のモンゴルへの遠征、南方のベトナムの支配を行って領土を拡張するとともに、鄭和をインド洋方面派遣したのはじめ、明中心の朝貢貿易の世界を出現させた。日本との間でも勘合貿易を開始し、東アジア秩序の中に組み入れた。その結果、倭寇の活動は下火となった。
 永楽帝の時代 また永楽帝は北京の宮殿紫禁城の建造に着手し、皇帝の補佐役として内閣大学士を置いた。しかし、皇帝の独裁政治は依然として強く、そのために皇帝の側近に仕える宦官の発言力が次第に強まった。永楽帝は文化統制にも努め、『永楽大典』、『四書大全』、『五経大全』を編纂させた。
 15世紀後半
 永楽帝の死後、北方のモンゴル人の活動が活発になり、その中のオイラトのエセン=ハンはたびたび北方を侵すと共に明との交易を求めてきた。しかし明の正統帝は交易の要求を拒否し、1449年に軍事制圧を策して出兵したが敗北し、皇帝自らが捕虜となるという土木の変がおこった。その前年には、重税に苦しむ農民が立ち上がった鄧茂七の乱が起き、明の支配体制は大きく揺るぐこととなった。土木の変の後、モンゴルの侵攻は下火となったが、次の憲宗(成化帝)は1474年に長城の改修に着手し、現在の「万里の長城」が出現した。
 銀の流通の増大 この頃、政治は宦官の介入が激しく、不安定な状況が続いていたが、中国社会は大きく変動しようとしていた。特に江南地方では綿織物業・絹織物業・塩業・陶磁器業などの手工業の発達が著しく、新しい商業都市である鎮や市が出現し、商取り引きには銀が用いられるようになった。そのため日本銀が盛んに輸入されるようになった。長江下流域の江浙地方はそれまで穀物生産の中心であったが、手工業の発達を背景に農民は水田での稲作を止め、畑にして綿花や鍬の生産を行うようになった。そのため、穀物生産は長江中流域に移り、このころから「湖広熟すれば天下足る」と言われるようになった。
 16世紀前半
 銀の流通に対応して、明朝政府は税制の改正に乗りだし、唐中期以来の両税法を改め、銀納を認める一条鞭法に転換した(1540年頃から始まり16世紀後半に普及)。商業はますます発展し、山西商人や新安商人(徽州商人)といわれる商人たちが広く活動し、都市に会館・公所を設けていった。しかし一方で農村への銀の流入は、貧富の差を拡大し、農村の矛盾が深刻となり、抗租運動が激しく起こるようになった。またこの時期には科挙に合格した官僚で、地方に戻り、知識人・地主として地方政治や文化を担った人びとを郷紳といった。またこのような社会の変化は、思想界に大きな変化をもたらし、従来の中国を支配していた朱子学に対する批判の動きが起こり、陽明学が生まれた。
 北虜南倭 この時期の明を最も悩ましたことが北虜南倭であった。北虜とはモンゴル人の北方からの侵攻であり、南倭とは後期倭寇の活動であった。このうち15世紀後半から再び活発になったものを後期倭寇と言っている。嘉靖帝の1550年にはモンゴルのアルタンが北京を包囲攻撃、1553年には王直による嘉靖の大倭寇が始まるなど、「北虜南倭」が最も明を苦しめることとなった。これらの外敵の除去のために明朝政府は多大な財政出費を強いられ、国力を次第に消耗していった。
 16世紀後半
 北虜南倭に悩まされながら、宮廷では宦官政治が横行し、政治は停滞した。それに加え、この頃、大航海時代に突入したヨーロッパ人が中国にも盛んに渡来するようになり、まず1557年ごろにはポルトガルマカオ居住を認めた。また、それに伴ってキリスト教宣教師の来訪が相次ぐようになり、特にマテオ=リッチらによって西欧の技術がもたらされることになった。
 張居正の改革 穆宗隆慶帝のもとで1567年に内閣大学士となった張居正は、一条鞭法を効率よく施行するため前提となる土地調査などを実施し、財政収入を回復させることに成功し、また海禁政策を停止して交易を認めたため倭寇の活動の意味が無くなり、またアルタンとの和議を結んでモンゴルとの交易も開始した。次の万暦帝のもとでも実権を握った張居正の改革によって、北虜南倭後の財政危機は回避することができた。
 しかし、16世紀の末、豊臣秀吉朝鮮侵略が起こると、明は宗主国として朝鮮への援軍を派遣、それは明にとっても重い負担となった。
 17世紀前半
 万暦帝の治世の後半、張居正が死去した後は、魏忠賢という宦官が政治の実権を握り、それに反対する科挙官僚の集団である東林派(東林党)との間で激しい党争が繰り広げられるようになった。民衆が重い負担に反発して、都市では民変が、農村では奴変などの暴動が起こった。明がこのような民衆不在の政争に明け暮れている間に、遼東地方(後の満州、現在の東北地方)では女真を統一したヌルハチが、1616年に後金(アイシン)を建国し、明からの独立を宣言、さらに中国本土をうかがう勢いを示し始めた。さらに1636年にはホンタイジが国号を中国風の清に改め、たびたび北京を脅かした。
 李自成の反乱 明は清の侵攻に備える軍備を整えるために重税を課したが、それは民衆の反発を強め、各地に反明の農民蜂起が起こるようになった。その中から、最も有力になった李自成の乱が、ついに1644年、首都の北京を占領し、最後の皇帝崇禎帝が同年に自殺して、明朝は崩壊した。
 その時、明から清に降った武将呉三桂が清軍を先導して山海関を越え、順治帝が北京に入城、清の全中国支配が開始された。それに対して明の遺臣の抵抗が散発的に続いたが、台湾を根拠とした鄭成功が1683年に康煕帝によって平定され、明の遺臣の戦いも完全に終わった。

 明の滅亡
 1644年、李自成の乱で反乱軍が北京を占領、最後の皇帝崇禎帝が自殺して明は滅亡した。明の遺臣がしばらく抵抗を続けたが、1683年に鄭氏台湾が清に降り、抵抗は終わった。
 女真の台頭
 16世紀末から17世紀初めの万暦帝時代は、表面は明の繁栄は続いていたが、内には東林派と非東林派の党争、抗租運動などが起こり、外に日本の豊臣秀吉朝鮮侵略があって動揺は隠せなくなってきた。17世紀にはいると東北方面の女真族がにわかに勢力を増し、1616年にはヌルハチが後金を建国して明を脅かし、さらに次のホンタイジは1636年、国号を清と改めた。
 李自成の反乱で明滅亡
 明は山海関の守りを固めて防戦し、宣教師から学んだ大砲の利用などもあって防戦していたが、その戦費調達のための増税は農民を苦しめ、1627年の大飢饉をきっかけに各地で反乱が勃発した。その中の最大の勢力が李自成の乱であり、李自成は1644年、首都の北京を包囲、明朝の最後の皇帝崇禎帝(毅宗)は自殺して滅亡した。明朝成立以来、277年目のことであった。李自成は一時は皇帝を称したが統制を取ることが出来ず、山海関を超えて侵攻した清に鎮圧され、清の中国支配が成立した。
 明朝最後の皇帝毅宗の自殺
 1644年、李自成軍に北京をかこまれた毅宗の最後はつぎのようなものであった。「最後の時をむかえた毅宗は、皇子を城外へ退去させたのち、皇后と別れの杯をくみかわした。皇后はほどなくみずから首をくくって世を去り、毅宗は十五歳になったばかりの皇女をよんで、自分の手で彼女を斬った。「そちはなんの因果で皇帝の家などに生まれたのであるか」これが最愛の娘に刃を向けたさいの毅宗の言葉であったと伝えられる。十九日未明、毅宗は、みずから非常鐘をうちならして召集をかけたが、かけつけるもはひとりもいなかった。やむなく、毅宗は紫禁城の北、景山に登り、寿皇亭で縊死して果てた。帝に従ったものは太監の王承恩ただひとりだけであった。」<愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国講談社学術文庫 p.479>
 明の遺臣の抵抗
 1644年に崇禎帝が自殺した後も、華南ではなおも明王朝の一族を担いだ地方政権が、清朝に抵抗した。それらを総称して、南明という。特に南京には、福王が弘光帝を称し、その部将の史可法が揚州を拠点に清軍と戦っていた。史可法の戦いを舞台とした史劇が清代につくられた『桃花扇伝奇』である。他にも鄭芝竜・鄭成功親子に擁立された福州の唐王(隆武帝)、紹興の魯王、広州の紹武帝、肇慶の永暦帝などがあった。そのうち史可法は1645年に清軍にとらえられて殺され、最も永らえた永暦帝もビルマまで逃げたが1661年に捕らえられて、南明の抵抗は終わった。
 鄭氏台湾の抵抗
 鄭成功はその後も抵抗を続け、1661年に台湾を攻略して、独自政権を樹立した。それに対して清朝は遷界令を出して大陸沿岸の住民を内陸に移住させて台湾との交易を禁止して圧力を加えた。この鄭氏台湾はその後、三代にわたって続いたが内紛から衰え、1683年、康煕帝によって征服された。三藩の乱と鄭氏台湾の制圧をもって清朝の中国全土統一は完成した。
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