🏹58〕─1─凶暴な日本人が500年前の中国で起こした嘉靖大倭寇。1551年。~No.180No.181No.182 

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 世界史を動かした、西洋のバイキングと東洋の倭寇
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 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではなかった。
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 2023年7月19日 MicrosoftStartニュース 学術文庫&選書メチエ編集部「「とにかく凶暴な日本人」が、500年前の中国で起こした「衝撃の歴史的事件」。
 『日本一鑑』が描く戦国時代のリアル
 倭寇対策の使命を帯びて、戦国時代の日本を訪れた中国人がいた。鄭舜功(ていしゅんこう)という名の「在野の志士」である。その見聞録『日本一鑑』には、自然風土から日本人の習俗、精神文化までが記録されている。隣国人の新鮮な眼で観察された、約500年前のリアルな日本とは――。『戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む』(上田信著、講談社選書メチエ)から紹介していこう。
 「倭人」の凶暴な性格は、火山のせい!?
 この時代、中国人のイメージする日本人は、とにかく「凶暴」だった。
 まず、鄭舜功訪日の30年ほど前、1523年に起きた「寧波事件」(寧波の乱)の衝撃は大きかった。日本の有力大名、大内氏細川氏がそれぞれ仕立てた遣明船の乗組員らが、中国・寧波の町で抗争を繰り広げ、一帯を騒乱に巻き込んだのである。
 そして、1550年代には、倭寇が中国沿岸部を荒らし回り、「嘉靖大倭寇」と呼ばれる。実際には、倭寇の中核には中国から日本に渡った密貿易者や犯罪者も多く含まれていたと言われるが、当時の中国から見れば総じて「倭人」だった。鄭舜功が日本へ向かった1556年はまさに、この「大倭寇」がピークを迎えていた。
 なぜ、日本人はこんなに凶暴なのか? 鄭舜功は、日本列島の自然にその原因を求める。南西諸島の硫黄島に上陸して噴煙を上げる火山を実見し、九州・豊後でおそらく温泉の噴き出すさまを目にした鄭舜功は、風水の観点から、こう論じている。
 〈この日本列島は、陰が極まったなかで生じたもので、硫黄島などを隆起させたものは、けだし陰が極まり陽が混濁し、気が鬱屈して蒸散したものである。しかし〔陰の気は〕漏れ尽きることはなく、〔日本列島で〕発現すると乾燥した「火」の性格を持つようになる。山の勢いはゴツゴツとして荒々しくなり、日本人の凶暴な気性を産みだしている。(中略)人もまた大地の気に感応して生まれるという。それゆえ日本人の性格が凶暴なのは、まさに地の気がそうさせているのである。〉(『戦国日本を見た中国人』p.118)
そして、日本人は性格が凶暴であるがゆえに、礼節と秩序を重んじている、とみているのだ。『日本一鑑』には、こうある。
 〈海寇(海賊)は〔日本では〕「破帆(バハン)」、あるいは「白波」と呼ばれており、発覚すると一族が皆殺しにされる。〔日本の風俗では〕強盗の禁令が厳しいために、夜に門にかんぬきを掛けなくても、盗みは少ない。人々は〔強盗を〕賊と罵り、恨みを忘れない。その風習は武張ってはいるものの、仏を重んじ、文を好む。〔日本人に対する〕要領を得ようとするならば、文教を用いるべきである。〉(『戦国日本を見た中国人』p.123)
 人命を軽んじる凶暴な力によって秩序が保たれ、その秩序のもとで文化が尊重される日本。そんな日本人に向かい合うときは、たんに武力に頼むのではなく、「文教」すなわち文化政策をもってせよ、というのである。
 命を軽んじ、礼節と秩序を重んじる
 日本人の文化として、『日本一鑑』で特に大きく取り上げられているものがある。それは、「日本刀」だ。
 もともと、中国には朝貢貿易で大量の日本刀が持ち込まれていた。その品質は高く評価され、日本の重要な輸出品だったのである。15~16世紀には、1回の遣明船で3000本から多い時で3万本以上が、中国にもたらされていた。
 倭寇として海を渡った日本人は、刀で多くの民を殺し、その凶暴なイメージが明代中国人の脳裏に焼き付いていた。しかし鄭舜功は、ごく普通の日本人は、必ずしも殺傷のために刀を用いていたわけではないことにも目をむけている。
 〈刀が鋭利であることを知るも、〔その刀で人を〕殺さないことをもって宝とする。(中略)そうした刀を佩いて年老いるまで人を殺さなければ、すなわち酒を供えて僚友・親戚に命じて、書を残してその刀を子に伝える。僚友や親戚もまた、酒を供えてそれを祝う。不殺の刀といい、宝となる。〉(同書p.129)
 人を殺めたことがない刀は、その持ち主の精神的な修養の深さを象徴するものであり、そうした刀を伝承することで、その精神性も継承するというわけだ。『戦国日本を見た中国人』の著者で、立教大学文学部教授の上田信氏はいう。
 「中国では、道具は道具として割り切っていて、そこに精神性を認めるということはあまりないように思います。包丁にしても、日本では食材ごとに出刃包丁や柳葉包丁などと使い分けますが、中国では中華包丁ですべてこなしてしまう。汎用性のある道具が一つあればいいという考えですね。日本人は、道具に対する強い思い入れがあることを、文化的な特性として刀の中に見出したのでしょう」
 『日本一鑑』には日本の刑罰や切腹についても詳しく記述されている。鄭舜功自身がその場に立ち会ったと思われる描写もある。
 〈口論になった人が酒の勢いで刀を抜いたら、人を傷つけなくても必ず死刑となる。姦淫・賭博・失火も死刑。盗みに対する禁令はきわめて厳しく、糸一本でも盗んだらみな死刑。〉(同書p.149-150)
 〈犯人は郊外の原っぱか海辺の浜に引き立てられる。犯人の首の縛りをほどくと、犯人はおとなしく着ていたものを脱いで、自らその髪を束ねて頸を差し出す。見物人が最前列まで押しかけている。もし下人を処刑する場合は、この機会を用いて新しい刀の切れ味の善し悪しを調べる。塵芥のように命を軽んじているのである。もし叛逆すると、一族は皆殺しとなり住まいは焼却される。〉(同書p.150)
 〈頭目や富者とみなされたものがもし極刑に当たる罪を犯すと、多くはみずから腹を断ち割って死ぬ。切腹する前に酒を堂内に置き、少しも動揺せずに飲食を摂る。観ている者は嗚咽する。もし少しでも躊躇して遅れると、衆人は手を叩いて笑い「女々しいやつだ」とはやし立てる。切腹し終わると、介錯される。〉(同書p.151)
 『日本一鑑』に描かれた500年前の日本人の姿は、「凶暴」ではあるものの、礼節によって秩序づけられ、統御されていたということになるだろう。その象徴が日本刀であると、鄭舜功の目には映っていたのである。
 ※鄭舜功とは何者か? その使命と過酷な運命については、〈荒れる倭寇をやめさせよ! 特命をおびた中国人が目撃した「意外な日本」。〉を、海から見た戦国時代については〈「関ヶ原」で大量消費の「弾薬」はどこから来た? 海から見る戦国日本の新しい姿〉も、ぜひお読みください!
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の暴動を起こした。
 が、計画的な反乱ではなかったので、敵国であった統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も暴動に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
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 遠江駿河の両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして暴動を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。 両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。新羅系渡来人の 賊は伊豆国穀物を盗み、船に乗って海上に出た。それ以降の記録がない。
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 834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
 帰化人と渡来人は別人である。
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 1019年 刀伊の入寇。北方異民族である刀伊は、対馬や北九州を侵略して1,000人以上を虐殺し数百人を強制連行した。
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 蒙古襲来。元(中国)・高麗連合軍は、日本を侵略して、対馬壱岐で日本人を虐殺し戦利品として日本人を強制連行した。
 文永の役、文永11(1274)年。弘安の役、弘安4(1281)年。
 元(中国)・高麗に虐殺され強制連行された日本人は、復讐に燃えていた。
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 蒙古軍は、従属しない敵国に対し、敵の一都市を攻略し女子供に関係なく住民全員虐殺して抵抗意欲を奪い、臣下となった住民を新たな兵力として次の国を侵略した。そして大帝国を築いた。
 それが、人類史、世界史、大陸史であった。
 モンゴル帝国ローマ帝国も、かっての敵であった異民族異教徒を統治する常套手段として、表面的に帝国民としの諸権利を与えるが、裏では帝国からの独立を目指す反乱を起こさせないようにする為に少数を見せしめとして虐殺して恐怖心を植え付けていた。それが、数百年保たれる「帝国の平和」であった。
 恐怖の統治を行っていたのが中国の中華帝国で、少数者を見せしめにするのではなく多数者を間引く為に大虐殺を行っていた。
 世界帝国は少数者が多数を統治したが、中華帝国は多数者が少数者を支配していた。
 中国における「徳による教化」とは、そういう意味である。
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 応永の外寇(おうえいのがいこう)
 応永26(1419)年 李氏朝鮮国王の世宗は、日本侵略を命じた。
 対馬に侵攻する朝鮮侵略軍、軍船227隻、兵員1万7,283人は対馬を攻撃した。
 対馬の武士団700騎以上は、朝鮮侵略軍を撃退した。
 朝鮮侵略軍は、兵糧が乏しくなり、暴風が襲ってきた為に本国に撤退したが、再度、対馬侵攻計画を企てたが兵士の士気が落ち軍船の被害が甚大であった為に中止された。
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 永楽帝侵略戦争と異民族大虐殺。
 鄭和は、大艦隊を率いて1405~33年の間に前後7回南シナ海・インド洋を侵略したが、何故か目の前の敵国日本を侵略しなかった。
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 戦国時代の日本人は、戦場で乱取りして逃げ惑う日本人を捕らえて日本人人買いに売った。
 日本人人買いは、中世キリスト教会・イエズス会伝道所群を通じて買い込んだ日本人を白人キリスト教徒商人に売った。
 白人キリスト教徒商人は、日本人を世界中に輸出していた。
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 昔の日本人には、目には目を歯には歯をの「同害報復」からして復讐する権利があった。
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 朝鮮は、古代から幾度も日本を侵略し、日本人虐殺し強制連行していた。
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 改訂新版 世界大百科事典 「嘉靖の大倭寇」の意味・わかりやすい解説
 嘉靖の大倭寇 (かせいのだいわこう) 
 16世紀中国,明の嘉靖年間(1522-66)に中国大陸沿岸をはじめ日本・朝鮮・南洋方面などを舞台にして行動した倭寇。16世紀の倭寇の構成員は,日本人は10~20%にすぎず,大部分は中国の浙江・福建地方の密貿易者で,当時東アジアに進出してきたポルトガル人もこれに加わった。密貿易者群の根拠地は,浙江の双嶼(そうしよ)(ポルトガル人はリャンポーといった)と瀝港(列港)(れつこう)であるが,この地が明の官憲の攻撃をうけて掃討されると,密貿易者たちは海寇集団に一転した。首領には王直や徐海らがいた。彼らの行動は1551年(嘉靖30)以後はげしくなり,中国沿海の人民をまきこみ,各地を荒らしまわって猛威をふるった。とくに王直は日本の五島に根拠をおき,日本人を誘いこんで東シナ海から朝鮮半島方面まで行動した。王直が誘殺されたのちには徐海が海寇団を率いたが,しだいに撃破されていった。
 執筆者:田中 健夫
 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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 海洋政策研究所
 Ocean Newsletter
 オーシャンニューズレター
 第469号(2020.02.20発行)
 ナワバリに生きる海人―日本中世の〈海の勢力〉をめぐって
 [KEYWORDS]海の勢力/倭寇海上交通
 東京大学史料編纂所准教授◆黒嶋 敏
 〈海の勢力〉は、国家的な海上インフラの整備に着手されない時代における航路をナワバリとして下支えする海の集団だったが、政治権力が津々浦々まで管理するようになったとき、そのナワバリもまた国家的な領海へと形を変えた。
 〈海の勢力〉の歴史を考えていくことで、固定的な議論に陥りがちな領海の問題に対しても、別の観点から柔軟な見方を提供できるのではないだろうか。
 海を舞台に活躍する集団
 海に囲まれた日本では、歴史の場面に「海賊」や「水軍」、あるいは「海の武士団」と呼ばれる集団が登場し、海を舞台に印象的な活躍を見せている。ところが彼らの実態は不明な点が多く、つかみどころがないため、謎多き集団として語られがちである。ただし歴史学の観点から考えていくと、「海賊」や「水軍」として現れる人物が史料の中では同一の集団である場合が多い。彼らが幕府や大名などの体制側に味方し、その海上軍事力を提供して奉公に励めば「水軍」となり、逆に体制と距離を置き、自力の世界で生きていく場合には「海賊」と呼ばれるようになる。その呼称は違っても、中身は同じ集団といえるのである。
 日本の津々浦々に存在し多様な側面を持つ彼らは、〈海の勢力〉と把握したほうが彼らの特性を考えやすい。彼らの、日常における生活基盤を踏まえて実態を見ていこう。
 海のナワバリ
 日本の中世という時代は、政治権力は分散的で脆弱なものが多く、全国規模の交通インフラを単独で整備しうるようなものではなかった。そのため維持管理が必要となる橋や港湾といった交通拠点は、地域の自助努力に委ねられており、地域の側で、通航者から通航料を徴収するのは当然のこととして認められていたのである。
 つまり、陸上の道も海上の道も、中世社会では基本的に有料で、受益者負担で運用されていたといえる。国家レベルでの海上インフラの整備・維持が地域に放任されている時代においては、各地の海賊たち、すなわち〈海の勢力〉たちが点となって、それぞれの航路という線を下支えしていたことになる。日本中世の海上交通は、津々浦々の〈海の勢力〉の存在を抜きにしては成立しないものだったのである。
 そのため各地の〈海の勢力〉は、ヨソモノから通航料を徴収しうるナワバリを持ち、それが彼らの生活基盤となる。そのような〈海の勢力〉がナワバリから離れることは、すなわち、生活基盤を失うことを意味しており、彼らは基本的に地域密着型のローカルな社会集団であったのである。
 こうした〈海の勢力〉はローカルでありながらも、自らが支えている航路がアジアの海に繋がっていることもあり、対外的な人や物・情報に接触する機会が多かった。とくに瀬戸内海という物流の大動脈にナワバリを構えていた〈海の勢力〉の場合、必然的に海外事情にも通じていたであろうことが推測される。
 〈海の勢力〉と倭寇の違い
 日本列島が戦国時代に入った16世紀になると、東アジア海上の情勢も、それまでとは大きく様子を変えつつあった。その要因は二つある。まず一点目に、日本の石見銀山で銀生産が本格化したことである。中国大陸の明は銀需要が高かったが、一般民衆の海外渡航を禁じていたため、日本銀を求めた商人たちは法を破って出航しなければならなかった。銀によって火が着いた海外交易ブームに対し、それを管理・統制しようとする明の体制側との間で軋轢が激化し、大陸沿岸部では暴動や略奪が頻発するようになった。要因の二点目は、猛威を振るった倭寇問題である。
 倭寇と呼ばれたのは非合法な交易集団で、日本からは銀を運び、大陸からは生糸や硝石を持ち込んだ。明という体制側への反逆者の意味も込めて「倭寇(異国である日本の海賊)」と呼ばれるのだが、その集団は国境を越えた交易が原動力となっており、その集団そのものは国家間を行き交う境界的な存在である。
 これに対し、日本国内の「海賊」とされる〈海の勢力〉は、そもそもナワバリとは切り離せないローカルな存在である。この時期、瀬戸内海で台頭した村上氏の場合でも、ヨソモノからの通航料徴収を経済基盤としていることが確認される。倭寇とは経済原理が全く異なる集団であり、日本の〈海の勢力〉が組織的に倭寇に参画した可能性は低い。
 もちろん、瀬戸内海という地理的条件を踏まえれば、村上氏などの〈海の勢力〉と倭寇勢力との間に物流ネットワークを介した接点は存在する。だが仮に一部の人間が組織を離れて東シナ海に飛び出したとしても、〈海の勢力〉が集団で倭寇となり飛び出していった可能性は考えにくい。明が反体制者を「倭寇(日本の海賊)」と呼んだのも事実であるが、その倭寇と、実在の日本国内でのローカルな存在である〈海の勢力〉との間には、大きなギャップがあったのである。
 『倭寇図巻』部分(東京大学史料編纂所所蔵)
 〈海の勢力〉の行方
 日本中世の〈海の勢力〉とは、ナワバリとは切っても切り離せない社会集団なのであった。通航料を徴収し、ナワバリという地域密着型の生活基盤を確保していた彼らは、国家的な海上インフラの整備に着手されない時代における航路を下支えする存在でもあった。さらには沿岸航路がアジア諸国への航路と接続していたために、とくに瀬戸内海の〈海の勢力〉はローカルにしてグローバルな側面も持ち合わせており、その時その時の国際情勢が大きく影響していたのである。
 しかしその状況は、江戸時代に入り激変する。幕府や藩によって航路の整備が進み、人々の身分も固定化することで、多様な顔を持ち合わせていた〈海の勢力〉にとっては生きにくい時代となった。なによりもナワバリからの徴収が否定され、仕組みそのものが社会から排除され、「海賊」は犯罪行為と同義語となり果てたのである。〈海の勢力〉たちは、幕府や藩の船手衆(水軍)、漁民、廻船(かいせん)商人などといった生業を得るようになり、あるいは帰農するなどして、姿を消していくことになる。
 さらに鎖国政策で政治権力が津々浦々まで管理するようになると、海のナワバリもまた国家的な領海へと変質する。その前段階にある中世の地域レベルのナワバリに目を向け、さまざまな側面を持つ〈海の勢力〉を考えていくことで、固定的な議論に陥りがちな領海の問題に対しても、別の観点から柔軟な見方を提供できるのではないだろうか。(了)
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 世界史の窓
 東アジアで活動した倭人(日本人)を主体とした海賊。13~14世紀の前期倭寇、15世紀後半~16世紀の後期倭寇に分けられる。略奪行為だけではなく、東アジア海域の私貿易・密貿易の側面も強かった。前期倭寇は朝鮮王朝の成立、後期倭寇は明の衰退と関係が深い。豊臣政権の統制によって姿を消した。
 倭寇は13~16世紀に東アジアの朝鮮、中国の海岸で活動した海賊で、主として九州沿岸の日本人であったので倭寇といわれる。広く倭寇と言うが、活動期は前期と後期に分けられ、またそれぞれ活動の主体も異なる。おおよそ13~14世紀が前期倭寇、15世紀には勘合貿易期で倭寇の活動は衰え、15世紀後半から16世紀に再び活発になって後期倭寇となる。また、倭寇は海賊行為だけではなく、明の海禁政策の中で貿易の利益をあげようという、中国商人と日本商人の私貿易、密貿易の側面もあった。また、前期倭寇はおおよそ日本人が中心であったが、後期倭寇は中国人が大部分で、日本人を含むいろいろな人びとを含んでいたというちがいがある。 → 後期倭寇

 倭寇の衰退
 王直が投降した翌年の1557年にはマカオポルトガル商人の居住が許され、倭寇ポルトガル商人(南蛮商人)とも競争することとなった。1567年には明朝政府は海禁策をやめ、貿易再開と中国人の海外渡航を認めた。またスペインは1571年にマニラ市を建設して、中国との貿易、さらに太平洋をまたいだガレオン貿易を展開するようになった。このようなポルトガル・スペインとの競合は、倭寇の活動の場を狭くすることとなった。
 豊臣秀吉の海賊停止令 日本でも戦国時代の争乱が次第におさまり、織豊政権による統一が進むと豊臣秀吉は1588年、刀狩令と同じ日に海賊停止令(海賊取締令とも言う)を出し、倭寇の取り締まりを西国大名に命じた。そのねらいは、刀狩令が農村での農民掌握と同じように、漁村での海民の調査と掌握であり、同時に海賊行為を禁止することで秀吉による「海の平和」を実現することで、「海の刀狩り」といえるものであった。これによって瀬戸内海の海賊だけでなく、九州沿岸を根拠とした倭寇の活動も取り締まりの対象とされ、彼らは姿を消していった。秀吉は「海の平和」を実現することによって、明に勘合貿易の再開を迫るという外交構想の土台としていた。<藤木久志『刀狩り―武器を封印した民衆―』2005 岩波新書 p.118>
 海賊停止令を出した豊臣秀吉が1592年、97年の二度にわたり朝鮮への出兵を強行したことは、一面では、最後にして最大の倭寇だったとも言える。事実、朝鮮にとってはそれは倭寇と捉えられる出来事だった。
 豊臣秀吉は、倭寇のような私貿易を禁止して朱印船貿易による貿易統制に乗りだし、さらに徳川家康もそれを継承したので、倭寇の活動は衰え、かわって長崎を拠点とした朱印船貿易家が活躍するようになる。17世紀の東アジア海域では、朱印船や明船、ポルトガル船が活発に交易を行い、それをオランダ船や鄭芝竜・鄭成功親子のような中国人海賊が襲撃するという状況となる。
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 2011年11月15日 nippon.com「東アジアの中の日本の歴史〜中世・近世編〜
 東シナ海倭人の世界
 村井 章介 【Profile】
 14世紀から16世紀にかけて東アジアで活動した「倭寇(わこう)」は、従来、「日本人海賊」と同義で理解されてきた。しかし、「倭寇」の国籍を特定しようとする議論は、その本質を正しくとらえているのだろうか? 
 倭寇倭人と境界人
 私は1993年、『中世倭人伝』という小さな本を書いた(東京・岩波書店刊)。版元から依頼されたテーマは「倭寇」だったが、私はそれを「倭人」に読み替えて、日朝間の国境をまたぐ空間で活動する「境界人(marginal man)」として描き出そうとした。
 従来「倭」という語は「日本」と等置され、倭寇即日本人海賊と単純に理解されていた。この常識は今もさほど変わってはいないが、私は15世紀の朝鮮の記録から、朝鮮政府が倭と日本とを別のものと認識している事例、あるいは、対馬から朝鮮を訪れる者は民族的には朝鮮人でも「倭人」と呼ばれた事例を示して、そのような理解に疑問を呈した。
 80年代後半、日本人研究者から、14~15世紀の倭寇集団の中で日本人は1、2割にすぎず、高麗人・朝鮮人が多数を占めていた、という見解が出され、日韓の学界で議論が起きた。私はその新説に蒙を啓かれつつも、「倭寇は日本人か高麗人か、その割合はどうだったか」といった問題の立て方に、提起者も批判者も捕らわれていると感じていた。そして、国家的、民族的には多様な出自を持ちながら、国家支配の限界領域である国境空間を生活の基盤とするようになった人間集団、すなわち「境界人」にこそ、倭寇倭人の本質を見いだすべきではないかと考えた。
 このような観点からは、海賊行為に重心のある「倭寇」という語は一面的で、交易や漁業や海運の民として彼らをとらえなおし、海賊行為をもその一部として位置づける必要がある。その場合は「倭人」という語がより適切である。それによって、朝鮮王朝の登場で海賊(pirates)が交易者(trader)に転身していった15世紀をも、さらには、海賊=交易者集団が多民族性を増し、中国大陸沿海部をおもな活動舞台とするようになる16世紀をも、一貫した視点で見とおすことができる。
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 倭寇とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した日本の海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人に対する中国・朝鮮側での蔑称。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)[要出典]、八幡(ばはん)とも呼ばれる。

 前期倭寇
 前期倭寇が活動していたのは14世紀、日本の時代区分では南北朝時代から室町時代初期、朝鮮では高麗から朝鮮王朝の初期にあたる。日本では北朝を奉じて室町幕府を開いた足利氏と、吉野へ逃れた南朝が全国規模で争っており、中央の統制がゆるく私掠船も活動し易かった。前期倭寇の活動地は朝鮮沿岸や中国沿岸(登州、膠州など黄海沿岸)である。

 後期倭寇
 後期倭寇の構成員の多くは私貿易を行う中国人であったとされる。後期倭寇の活動は交易と襲撃の両方、いわゆる武装海商である。主な活動地域は広く中国沿岸であり、また台湾(当時未開の地であった)や海南島の沿岸にも進出し活動拠点とした。また当時琉球王国朝貢貿易船やその版図(奄美、先島含む)も襲撃あるいは拠点化しているが、しばしば琉球王府に撃退されている。また当時、日本の石見銀山から産出された純度の高い銀も私貿易の資金源であった。
 後期倭寇
 後期倭寇は、中国人が中心であり、『明史』には、日本人の倭寇は10人の内3人であり、残り7人はこれに従ったものである(「大抵真倭十之三、從倭者十之七。」)と記されている。

 奴隷貿易
 前期倭寇朝鮮半島山東遼東半島での人狩りで捕らえた人々を手元において奴婢として使役するか、壱岐対馬、北部九州で奴隷として売却したが、琉球にまで転売された事例もあった。
 後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易を行い、中国東南部の江南、淅江、福建などを襲撃し住人を拉致、捕らえられたものは対馬、松浦、博多、薩摩、大隅などの九州地方で奴隷として売却された。
 1571年のスペイン人の調査報告によると、日本人の海賊、密貿易商人が支配する植民地はマニラ、カガヤン・バレー地方、コルディリェラ、リンガエン、バターン、カタンドゥアネスにあった。マニラの戦い (1574)、カガヤンの戦い (1582)で影響力は低下したが、倭寇の貿易ネットワークはフィリピン北部に及ぶ大規模なものだった。
 戦国時代の乱妨取りや文禄・慶長の役朝鮮出兵)により奴隷貿易はさらに拡大、東南アジアに拠点を拡張し密貿易を行う後期倭寇によりアジア各地で売却された奴隷の一部はポルトガル商人によってマカオ等で転売され、そこから東南アジア・インドに送られたものもいたという。1570年までに薩摩に来航したポルトガル船は合計18隻、倭寇のジャンク船を含めればそれ以上の数となる。イエズス会倭寇を恐れており、1555年に書かれた手紙の中で、ルイス・フロイスは、倭寇の一団から身を守るために、宣教師たちが武器に頼らざるを得なかったことを語っている。
 鄭舜功の編纂した百科事典『日本一鑑』は南九州の高洲では200-300人の中国人奴隷が家畜のように扱われていたと述べている。奴隷となっていた中国人は福州、興化、泉州、漳州の出身だったという。
 歴史家の米谷均は蘇八の事例を挙げている。蘇は浙江の漁師で、1580年に倭寇に捕らえられた。蘇は薩摩の京泊に連れて行かれ、そこで仏教僧に銀四両で買い取られた。2年後に彼は対馬の中国人商人に売られた。6年間、対馬で働き、自由を手に入れた蘇は、平戸に移り住んだ。平戸では、魚や布を売って生活していた。そして1590年、中国船でルソン島に渡り 翌年に中国に帰国することができたという。
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