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歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
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2024年5月15日 YAHOO!JAPANニュース ハンギョレ新聞「教科書にはない加害の歴史、「旅行ガイドブック」に書いた日本の大学生たち
一橋大学「加藤ゼミ」の力
一橋大学社会学部の加藤圭木教授(写真左から)と4年生の藤田千咲子さん、根岸花子さんの姿。彼らは最近『大学生が推す 深掘りソウルガイド』という本を出版した=東京/キム・ソヨン特派員
「南山公園の一角にある安重根(アン・ジュングン)義士祈念館。朝鮮の独立運動家・安重根の生涯を紹介する博物館です。安重根といえば、初代内閣総理大臣の伊藤博文を射殺した人物として、歴史の授業で習った人もいるでしょう。しかし、日本の教育のなかでは、なぜかれが伊藤博文を射殺したのか、その背景について深く学ぶことはあまりありません」
3月に日本で出版された本『大学生が推す 深掘りソウルガイド』の一節だ。日本でこのような内容が書かれた韓国旅行ガイドブックは極めて異例だ。日本では安重根義士のことを、明治時代の尊敬される人物・伊藤博文首相を射殺した「テロリスト」として学ぶ。このガイドブックには、ソウルの人気スポットである「Nソウルタワー」の様々な見どころや食べ物なども紹介されるが、日本人には不都合に思われかもしれない内容、例えば安重根とは誰なのか、彼が主張した「東洋平和論」とは何なのかまで、分かりやすくまとめられている。
この変わったガイドブックは、日本の大学生6人がソウルのあちこちを直に巡りながら書いたもの。先月30日、東京都国立市にある一橋大学で、社会学部の加藤圭木教授(40)と、この本を作った根岸花子さん(22)、藤田千咲子さん(22)に会った。
「ドラマ、K-POPなど韓国が好きで旅行に行く日本の人々に、何か役に立ちながら歴史問題にも触れる機会になるのではないかと思い、ガイドブックを作りました」。社会学部4年生の根岸さんは「2022年秋に韓国に初めて旅行に行った時、いわゆる日本人観光客がよく行く観光地の近くに歴史的に非常に重要な場所があるということを知った」とし、これを分かち合いたかったと話した。同じく4年生の藤田さんも「この本は必ず行ってみるべき観光地、美味しい店も紹介しながら、歴史を学んだり一緒に考えられる内容が十分に含まれているというのが特徴」だとし、「こんな本は日本で初めてではないかと思う」と紹介した。
一橋大学社会学部の学生たちが「韓日の歴史にしっかり向き合おう」といって書いた本は、今回で3冊目だ。2021年『「日韓」のモヤモヤと大学生のわたし』、2023年『ひろがる「日韓」のモヤモヤとわたしたち』という本が出版された。いずれも加藤ゼミの学生たちが著者という共通点がある。
加藤教授は「2020年のゼミ中に(最初の)本を作ろうという提案が出ました。ゼミで日本と朝鮮、日本の朝鮮植民地支配問題などについて初めて率直に話をしながら、これが人権の問題だということに気づき、学生たちの学びに対する意欲が高まった」と、当時の雰囲気を伝えた。なぜ日本社会はこのような重要な人権、歴史問題について話せないのか、こうした日本社会の状況を変えなければならないのではないか、などの意見が出て、本出版につながった。「わたしをとりまくモヤモヤ」「どうして日韓はもめているの?」「日韓関係から問い直すわたしたちの社会」など、本の目次を見ても分かるように、難しい学術書ではなく、一般市民の目線に合わせた本だ。
本が出版されると、SNSを中心にK-POP好きなファンたちの間で大きな話題になった。周りの人たちとは気軽に話せなかったが、心の中で気になっていた韓日間の敏感な問題を、この本がきちんと説明してくれたからだ。これまでに1万2千部が売れた。加藤教授は「日本の植民地支配の責任を訴えるテーマの本としてこれほど売れたケースはほとんどないと思う」と強調した。
日本でこのような「新しい歴史」を書いている「加藤ゼミ」とは、一体何だろうか。一橋大学は学生の研究・指導においてゼミを重視しており、3年生になると必ず一つのゼミを選択する。「加藤ゼミ」に所属するのは、朝鮮の近現代史や日本の歴史認識問題などに関心のある3、4年生の学生7~8人。週1回、2~3時間ほどの授業だ。読みたい文献を決めて議論を行い、一緒にご飯を食べたり、研究のための旅行に行ったりもする。加藤教授が同校に着任した2015年から始まった。
「加藤ゼミでは三つを大切に考えています。第一に、歴史学の研究成果として明らかにされた事実をもとに勉強すること。第二に、人権を重要に考え、歴史の中で被害者、女性、植民地支配を受けた被害民族など、人権の視点で歴史を学ぶこと。第三に、学生たちの主体性。一方的な学びではなく、自分たちがこの社会に住みながら感じた疑問を踏まえながら、これをもとに自分たちが問題を解決していく主体的な姿勢を重視しています」。加藤教授は、「ゼミでは学生同士で話し合い、各自疑問に思うことを互いに打ち明けて話す」とし、「私は最後に少し意見を付け加える程度」と話した。
根岸さんと藤田さんは2022年、3年生の時からゼミに参加している。根岸さんは「1年生の時、加藤先生の授業で読んだ田中宏先生の『在日外国人』という本が直接的なきっかけ。自分は日本社会における差別の問題について全然知らなかったこと、自分自身が差別の加害者になっていることに気づきました」と語った。これをきっかけに朝鮮近現代史を学びたいと思い、加藤ゼミに入った。
藤田さんは「K-POPを聴きながら韓国という国自体について関心を持つようになりました。ツイッターで嫌韓や(韓国に対する)差別的な内容を発見し、文化的には交流が盛んな一方で、なぜこのようなヘイト表現が多いのか問題意識を持つと同時に、私はこれまで植民地支配の歴史について特に考えず、学ばずに生きていたことに気づきました」とし、「勉強したいと思ったけれど、どんな本を読めばいいのかよくわからなかった。こんな悩みの中で『加藤ゼミ』に行って学ぼうと思ったんです」と話した。「ゼミに参加するまで、このような話を友人や同世代の人々と話したことがなかった。ゼミでは普段感じるもやもやについて共有することで問題意識も深まり、周囲の人々から刺激も受けることができてとても良い」。藤田さんと根岸さんは昨年韓国に留学し、4年生になった今年も「加藤ゼミ」に参加している。
日本でK-POPと韓国ドラマが好きな10~20代はとても多いが、韓日を巡る歴史問題に関心がある人は少数だ。「日本では被害者として自分たちのことを考える傾向が強い。アジア太平洋戦争を学ぶ時も原爆や空襲など被害を受けた部分を学ぶ。このような被害を受けたので戦争は良くないという教育」。 根岸さんは「朝鮮侵略と植民支配という加害の歴史はよく分からないか、学ぶ努力しようとしない」歴史教育の不十分さを挙げた。
「日本はいまだに帝国主義を正当化し、その論理を内面化していると思います。過去の歴史をきちんと反省しなかったために、その精神が残存し再生産されている。日本にとって不都合な歴史は見ようとしない。政府も歴史教育をきちんと行わず、メディアもこのような問題を積極的に取り上げなかったり、むしろ隠蔽しています」と、加藤教授は声を強めた。
韓日関係の懸案についても尋ねてみた。尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権は強制動員被害者賠償問題に関して、日本の被告企業ではなく韓国の財団が肩代わりする一方的な譲歩案を進め、韓日政府間の関係は改善しつつあるが、被害者たちは謝罪と賠償を要求して闘い続けている。
加藤教授は「被害者の人権と尊厳が回復されなければならない問題です。日本は歴史的事実を認め、公式謝罪と賠償、歴史教育などの措置を取らなければならない」と強調した。根岸さんは「外交と政治の観点よりは、人権が尊重されなければならないと思います。被害者たちはなぜ声を高めているのか、その状況を見るべき」だとし、「これは私たちの問題です。私たちが声を出してこの問題を解決しなければ」と語った。藤田さんも「被害者が引き続き声をあげるしかない状況に対して申し訳ない気持ち」だと話した。
根岸さんと藤田さんは、一橋大学だけでなく他大学の学生たちと一緒にサークルを作り、日本軍「慰安婦」被害者を含め、フェミニズム問題を勉強している。二人は「このような話ができる社会を作るために対話の場を広げていきたい」と語った。
加藤教授に4冊目の本を出す予定かと聞いた。「学生たちが本を作りたいという強い考えを持って、また自分たちがそれをやっていくという責任感があればできる。最初の本を作った時、この一冊で終わりだと思っていました。学生たちが主体的に乗り出したからこそ、3冊の本が作られたんです」。 加藤教授と学生たちの情熱からみて、「加藤ゼミ」の新たな挑戦は続くと思われた。
東京/キム・ソヨン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
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最終更新:5/15(水) 22:53
ハンギョレ新聞
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2020年1月17日 産経新聞「「韓国は民主国家として未熟」親日・韓国人ユーチューバー激白! 留学中に反日洗脳から解放、「『韓国の歴史教育はウソだった』と確信した」
WWUK氏は、韓国海軍によるレーダー照射事件で、祖国のウソに激怒したという
日韓の歴史を見直し、熱烈な日本愛を語る韓国人ユーチューバーの動画が話題となっている。WWUK(ウォーク)氏は、オーストラリア留学中に、祖国の異常な「反日教育」から目覚め、現在は日本で暮らしている。文在寅(ムン・ジェイン)政権の狂気や、歴史の真実に迫った投稿に対し、同胞から「お前を殺すためにナイフを買った」「夜道に気をつけろ」などと殺害予告も受けている。「両国の未来のために、脅しには屈しない」というWWUK氏を直撃した。
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WWUK氏は中学生時代、留学先のオーストラリアで日本人と知り合い、自分が学んだ日韓の歴史に疑問を持った。
「インターネットなどで調べるうち、『日韓併合』や『竹島問題』などについて、韓国の教育とはまったく違う歴史的事実が次々に出てきた。最初は半信半疑だったが、世界の資料にも当たって、『韓国の歴史教育はウソだった』と確信した」
その後、日本の文化や価値観に魅力を感じ、両親を説得して日本の高校を卒業し、日本の専門学校で学び、ゲーム楽曲などの制作会社で働いた。
「日本で十数年暮らしたが、『理想の国』そのものだった。日本人は細かなところまで配慮が深く、『親しき仲にも礼儀あり』という考えを持つ。治安も良く、平和で、日本人の人柄と国柄に、ひかれた」
ユーチューバーとなり、最初は日本語でエンタメ分野を中心に投稿していた。だが、一昨年12月、韓国海軍駆逐艦による海上自衛隊哨戒機へのレーダー照射事件が発生した。韓国政府の対応に「自分の中でカチンときた」「まるまる目に見えるウソが、いつもよりひどかった」と怒りを覚えた。
そこで、時事問題や日韓の歴史も積極的に取り上げるようになり、日本の視聴者には大いに注目・支持された。
WWUK氏の動画(WWUK TV)には、「韓国人から炎上 レーダー照射事件」「韓国人が徴◯工真実暴きます」「徴用工 嘘またもバレる」「韓国終了? 赤化統一近いかも」「韓国国会議長 天皇陛下に謝罪要求…韓国国民の反応和訳」「Kメディアが旭日旗を批判するも K民は意外な反応!?」「放射能を理由に東京五輪をボイコット」などと、実に興味深いタイトルが並んでいる。
一方、韓国語では発信していないが、韓国の視聴者から「それでも韓国人か」「売国奴!」「(スーパーに)包丁と果物ナイフが安く売っているな」「集団でお前を刺すことを考えると、楽しみだ」「刺されるのはお前が先か、ソウルにいるお前の親が先か」「お前の住所は特定している」などと、殺害予告のコメントが書き込まれるようになった。
WWUK氏は、身に危険を感じて、日本の警察に被害届を提出した。「こうした脅迫行為を、韓国人が平気ですると思われるのは悲しい」と語る。
投稿動画をめぐっては、途中から「慰安婦」や「韓国」「文在寅」などの言葉が、「NGワード」として投稿制限に引っかかり始めたという。抗議が集中するためとみられるが、韓国人のWWUK氏に「韓国」がNGとは皮肉であり、ネットの異常さを感じる。
史上最悪とされた日韓関係は、中国・成都で昨年12月24日に行われた日韓首脳会談を経て、関係改善が期待されている。
だが、文大統領は14日に行った年頭の記者会見で、いわゆる「元徴用工」問題について、「最も重要なことは被害者の同意を得ることだ」「日本側も修正意見を出すべきだ」などと妄言を炸裂(さくれつ)させた。日韓の請求権問題は、1965年の日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決」しているのにだ。
WWUK氏は「韓国は民主国家として未熟だ。『国家間の約束は守る』という自覚がない。両班(ヤンバン)という特権階級がいた時代、奴隷扱いされた庶民はお金に対する執着が強い。日本はこれまで韓国を甘やかし、つけ上がらせてきた。今後も、安倍晋三政権のような強い姿勢を維持すべきだ」と指摘した。
卑劣な脅迫を受けながら、WWUK氏は今後も発信を続けていくという。彼を突き動かすものは何なのか。
「日本の若者にも、左派メディアや自虐教育の影響か『日本が悪いことをした』と潜在的に考える人もいる。そういう人たちに、日韓の真実の歴史を伝えたい。実は、韓国人の中にも、文政権の突出した『反日政策』に冷めている人は多い。反発も強いだろうが、いつか韓国人にも韓国語で発信したい。韓国の若い世代に正しい情報や歴史を伝えることで、日韓の未来をつくっていきたい」
■ウォーク 韓国・ソウル生まれ。中学2年生の途中でオーストラリアの中学校に留学・卒業した後、日本の高校と音楽専門学校を卒業する。日本のゲーム音楽などを手掛ける制作会社に3年間勤務。現在は、日本でユーチューバーとして、日韓の真実の歴史について発信している。「WWUK TV」のチャンネル登録数は約29万人。著書に『韓国人のボクが「反日洗脳」から解放された理由』(ワック)。
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キリスト教系朝鮮人テロリストは、日本人の共産主義者・無政府主義者テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
現代のメディアと教育を動かしているのは、敗戦利得者であるエセ保守とリベラル左派である。
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日本はもとより韓国・中国そしてアメリカやロシアなど全ての国に於ける歴史教育はウソが多く、歴史教科書もウソが多い。
何故なら、ありきたりな言い方で言えば「歴史は勝者・強者が書く」からである。
日本の歴史教育は、アメリカ・GHQ・連合国(国連)が「日本を戦犯国、日本人を戦争犯罪者」という認識を固定化する為に押し付たニセの歴史で、エセ保守やリベラル左派がウソの歴史で子供達を洗脳している。
日本を動かしている超エリート層と言われる超難関校出の高学歴な政治的エリートと進歩的インテリ達は、メディアや教育によって量産されてきた。
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自然災害時に於ける日本人・朝鮮人・中国人惨殺事件は、数万年前の日本民族の歴史・日本自然災害の歴史において関東大震災の一件しか存在しない。それ以外の自然災害では日本人だけではなく人種・民族、文化・宗教に関係なく差別せず、別け隔てなく、助け合い、励まし合い、庇い合って生きてきた。
日本人は、朝鮮人や中国人とは違うのである。
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日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連・コミンテルン・中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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日本民族にとって、中国人と朝鮮人は天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇・法皇は島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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古代の朝鮮半島は4カ国による戦国時代で、日本は朝鮮半島に領地を持ち領土を守る為に戦争を繰り返していた。
朝鮮半島の動乱を裏で暗躍していたのが、中国の歴代王朝であった。
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親日派・知日派は、古朝鮮、百済、高句麗、古新羅、渤海。
反日派・敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮、大韓帝国。
韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
渡来人の中国人や朝鮮人には、皇室に対する畏れはなく、天皇や皇族を殺す事に罪悪感はなかった。
日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や嫌悪や差別はここから始まっている。
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663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
日本の百済に対する数々の恩義は、この時精算され、これ以降日本は朝鮮に感謝する事はない。
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668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張の熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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672年 壬申の乱。天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社)
生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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764年 藤原仲麻呂の乱。帰化人対渡来人の攻防。
親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備や坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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811(弘仁2)年 弘仁の新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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813年 第52代嵯峨天皇。新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河・遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済系帰化人・高句麗系帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
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遠江・駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。 両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。 賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
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834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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866(貞観8)年 山春永らの対馬侵攻計画。
肥前基肄郡擬大領(郡司候補)山春永(やまのはるなが)、藤津郡領葛津貞津、高来郡擬大領大刀主、彼杵郡住人永岡藤津らが新羅人と共謀し、日本国の律令制式の弩の製法を漏らし、対馬を攻撃する計画が発覚したが未遂に終わった。
なお、この対馬襲撃計画に先立つ天安元年(857年)には、対馬島で島内の豪族が300人ほどの兵を率いて対馬守を襲撃する反乱が起きていた。
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869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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893(寛平5年) 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐、対馬を侵略。
894年9月 唐の将軍を加えた新羅船100隻、2,500人が、対馬を襲撃した。 対馬の文屋義友は約500人の手兵で迎え撃ち、敵の大将を含む302人を撃ち取った。 捕虜となった新羅人の自白「朝鮮半島は不作により人民は飢えに苦しみ、治安が悪化していたため〝王の命令により〟襲撃した」
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997(長徳3)年 南蛮の入寇。高麗人が、対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。これは南蛮の入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる。
898年と899年に、大規模な反天皇の武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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906年 延喜の新羅の賊。
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935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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1019年 刀伊の入寇。満州の騎馬民族・女真族による北九州侵略。
『韓国人に不都合な半島の歴史』 著者 拳骨たくみ「太宰府が4月16日に送った報告書が『朝野群載』(巻20)に記載されている。
その記述によると、彼らは畠を食いつくし、馬や牛、犬の肉まで食べたという。年寄りから子供らはみな惨殺され、壮年の男女400~500人は船に乗せられ拉致された。
……
高麗海軍による攻撃を受ける最中、賊たちは日本人捕虜たちを殺したり、す巻きにして海に投げ込んだりした。
高麗は日本人を救出し、300人余りが助かったと生存者の供述書に書かれているが、この時点で拉致された人々の80%近くが死亡していることがわかる。
……
一方の日本は、高麗に対して不信の念を強くしていた。
権大納言の藤原実資は、『賊は刀伊ということだが、捕虜を尋問したところ『高麗国が刀伊を防ぐために自分たちを派遣したが、刀伊に捕縛された』と答えている。数千もの賊がいて、なぜ捕まったのが高麗人だけなのか。賊は高麗人が嘘をついて刀伊人であるとしているのではないか』との見解を示した(『小右記』)。
この不信感には先述したように、かつて新羅による海賊行為がしばしば見受けられたことで、裏で高麗が糸をひいているのではないかと考えられたからに他ならない。
これらの事例からも、日本が韓国を古来から尊敬していたなどという話は、まったくの架空であることがわかるだろう。
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日本の朝廷は、中国同様に高麗との正式な国交を拒否した。
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ウィキペディア
刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)に、女真の一派とみられる集団を主体とした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に九州に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。
経緯
日本沿岸での海賊行為頻発
9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前、筑後、肥前、肥後、薩摩の九州沿岸である。
藤原隆家と九州武士団
藤原隆家は中関白家出身の公卿であり、眼病[注釈 3]治療のために大宰権帥を拝命して大宰府に出向していた。専門の武官ではなかったが、撃退の総指揮官として活躍したことで武名を挙げることとなった。
九州武士団および、東国から派遣された武士団のうち、討伐に活躍したと記録に見える主な者として、大蔵種材・光弘、藤原明範・助高・友近・致孝、平致行(致光?)、平為賢(為方・大掾為賢・伊佐為賢)・為忠(為宗)、財部弘近・弘延、紀重方、文屋恵光(忠光)、多治久明、源知、僧常覚らがいるが、寄せ集めに近いものであったといわれる。源知はのちの松浦党の先祖の1人とみられ、その地で賊を討って最終的に逃亡させる活躍をした。
なお、中世の大豪族菊池氏は藤原隆家の子孫と伝えているが、石井進は在地官人の大宰少弐藤原蔵規という人物が実は先祖だったろう、との見解を示している。
九州・東国武士団は鎮西平氏とも呼ばれ、このうち伊佐為賢(平為賢)が肥前国鹿島藤津荘に土着し肥前伊佐氏となった。薩摩平氏はその後裔と称している。
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一般社団法人日本戦略研究フォーラム
1300人拉致事件の顛末
―「刀伊の入寇」から学ぶ今日的教訓―
.顧問・元ベトナム・ベルギー国駐箚特命全権大使 坂場三男
日本史を勉強した人でも今から約1千年前、1019年に起こった「刀伊(とい)の入寇」を知らない人は多い。しかし、この出来事は日本史上で初めて発生した外国勢力(海賊ではあるが)による大規模な侵攻であり、日本人365人が殺害され、1300人近くが拉致されるという未曽有の大事件であった。
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長らく続いた平和の中で、多くの公卿たちに「国を守る」という防衛意識が完全に欠落していたとしか思えない。今日、私たちが置かれている状況に照らすとき、何とも教訓に満ちた話ではないか。
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世界史の窓
「刀伊の入寇」
刀伊は筑前の国にも上陸し、北九州沿岸一帯を荒らした。太宰権帥であった藤原隆家(関白藤原道隆の子であったが、道長と対立し一時出雲に流されていた。この時は自ら望んで太宰府に赴任していた)は、地方豪族の武士団を率いて撃退することに成功した。刀伊の船は帰路、高麗の水軍によって壊滅させられ、連行された日本人捕虜200余名が救出された。
(引用)当時の日本では、刀伊が旧渤海の故地に住むツングース系の女真人であることを、だれも知らなかった。政府は、襲来が高麗と無関係であるのを知ったが、高麗への警戒をゆるめなかった。また高麗が、捕虜にされた日本人を送還してくれても、なんら報いることをしなかった。公卿たちは、事件の認識と処理において、まことに鈍感で冷淡であった。<大江一道『地域からの世界史18・日本』朝日新聞社 p.83>
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世界大百科事典内の刀伊の入寇の言及
【平安時代】より
…中国からは高級織物や書籍などが輸入され,日本の貴族の間に珍重されたが,とくに大量に輸入された宋銭は全国に流通し,商業・経済の発達に大きな役割を果たした。 こうして10世紀後半以降,おおむね平穏な対外関係を保っていた間に,突発的に起きたのが,1019年(寛仁3)の刀伊(とい)の入寇である。これは遼の支配下にあった女真族の一部族が壱岐・対馬を襲い,北九州にも上陸して寇掠した事件であるが,大宰権帥藤原隆家をはじめ,在地豪族の奮戦によって,短時日の間に撃退することができた。…
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出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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1093年 「海賊船」を拿捕し真珠、水銀、硫黄、法螺などの貨物を接収し宋人と日本人の乗員を奴隷にした、と記録している。これらはすべて日宋交易における日本産の有力な交易物なので「海賊船」として拿捕したというのは単なる口実だとも考えられる。
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文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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虐殺から生き残った対馬・壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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1405年~1433年 明の永楽帝。イスラム教徒で宦官の鄭和は、大艦隊を率いて南海遠征を行い、相手が弱いと見れば侵略して財宝を強奪した。
世界の常識では、船団は海賊行為をおこない、敵対国の商船を襲撃していた。
明国大艦隊は、目の前の日本を無視して東南アジア・中東に向かった。
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1419年 応永の外寇。世宗大王・李氏朝鮮軍による対馬侵略。
朝鮮軍、227隻、1万7,285人。
島民114人を虐殺し、民家1,939戸を焼いた。
対馬守護代の宗貞盛は700騎を率いて反撃し、朝鮮軍2,500人(一説では3,700人)を撃ち取り、日本側の戦死者は123人であった。。
朝鮮軍は、台風を恐れて全軍撤退し、事実上の敗走であった。
日本武士団700騎 vs. 朝鮮軍1万7,285人。
日本の大勝利。
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ウィキペディア
応永の外寇(おうえいのがいこう)は、室町時代の応永26年(1419年)に起きた李氏朝鮮による対馬への侵攻を指す。糠岳戦争とも言う。朝鮮では己亥東征(朝: 기해동정)と言われる。
当時足利義持(室町幕府の将軍)が明使を追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では当初これを中国からの侵攻と誤解したために、伏見宮貞成親王の『看聞日記』には「大唐蜂起」と記されている。 朝鮮軍は227隻の船に1万7285人の兵士を率いて対馬に上陸したが、宗貞盛の抵抗により、朴弘信、朴茂陽、金該、金熹ら4人の将校が戦死し、百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死し、朝鮮軍は動揺して逃走したが船に火を掛けられて大敗を喫した。朝鮮側もすぐに迎撃のための再遠征を議論するほど戦果は不充分であったが結局実現しなかった。この外征以降、宗貞盛に日朝貿易の管理統制権が与えられ、対馬と朝鮮の通交関係の回復がなされた。その後、宗貞盛は李氏朝鮮と嘉吉条約を結び、朝鮮への通交権は宗氏にほぼ独占されるようになった。
対馬再征計画
7月9日(7月31日)に、対馬へ向けて出港し再攻撃することが提案されたが、兵の士気がすでに落ち、船の装備が破損し、風も強くなっていたことから得策ではないとして、台風が静まることを待ってから軍隊を整えて再遠征しても遅くはないとしたが、結局実現はしなかった
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凡人は歴史に学ぶ
応永の外寇
室町幕府の3代将軍・足利義満は甚だしく公家化しましたが、その子の4代将軍・義持は、わずか9歳で後を継いだものの、長じて将軍として活動するようになると、父とは反対のことをしました。義満が生前に望んでいた「太上法皇」の尊号が、朝廷からわざわざ下されたとき、義持はそれを辞退し、義満夫人の葬式も簡素に行い、義満の自慢だった政務中枢の北山第も、鹿苑寺(金閣)を除いてすべて取り壊しました。
また、義満が開始した明との貿易も、義持は日本にとって屈辱外交だと考え、冊封関係を否定。そのため、1411年(応永18年)にやって来た明の使者を兵庫の港から帰してしまい、入洛させなかったのです。武家の原理に戻ろうとした義持は、父の外交政策も根本的に否定し、保守的・国粋的に徹しようとしたのです。また、勢力を盛り返そうとする守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回り、比較的安定した政権を築き上げました。
そして1419年(応永26年)6月、「応永の外寇」なる事件が勃発します。朝鮮の将軍・柳廷顕(りゅうていけん)、李従茂(りじゅうも)らが、蒙古兵とともに(蒙古兵は誤認とする説が強い)、兵船1300余艘を率いて対馬に襲来したのです。九州と対馬の諸豪族たちとの間で壮絶な戦闘となりましたが、最後は日本軍が大勝利し、その後、朝鮮は日本襲撃を断念します。
この知らせを受けて驚愕したのが幕府です。日明関係がよろしくなかった時ですから、すわっ、元寇の再来かと思い慌てふためきました。義持も石清水八幡宮に参籠して無事を祈願しました。このとき、風もないのに八幡若宮の鳥居が倒れ、義持を仰天させたといいます。
しかし、実際のところは、元寇のような大層なものではありませんでした。朝鮮の太宗が、当時の倭寇による掠奪の激しさに閉口し、倭寇の本拠地と思われる対馬を攻撃したのであって、元寇のときのように日本を征服しようなどという意図は全くなかったのです。
しかし、そんなことは九州の武士にも足利将軍にも分かりません。明も預かり知らないことですから、事件の2、3週間後に国交を求めて使者を送ってきました。幕府は「ひとの国に攻撃をしかけながら、何という図々しさか」と怒り、明とは国交を断絶する旨を伝え、返事の国書を与えて帰国させたのです。その内容の一部は、次のようなものです。
「明国の使臣が両国往来の利をしきりに説いているのに、義持がこれに応じないのは、先君義満が病に倒れた時に占ったところ、諸神の祟りであるのが明らかになったからだ。わが国は古来、外国に向かって臣と称したことはないのに、義満は暦と印を受けた。わが過ちを認めた義満は、死に臨んで永く外国との通交を絶つことを誓った。自分は神明の意にしたがい、先君の命を奉ずるのみである。昔、元兵100万が攻め寄せてきたが、神兵の援けによりこれを海の藻屑とした。今わが態度を怒り、攻め寄せるなら、迎え撃って戦わん」
この返書をもらった明帝は、「いったい何のことやら」とずいぶん怪訝に思ったのではないでしょうか。
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1428年 世宗大王は、日本からコメ作りや水車の製造など多くの事を学んだ。
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後期倭寇は、対馬・壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人・南蛮人であった。
日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
後期倭寇は中世のバイキングに似たところがあった。
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豊臣秀吉の朝鮮出兵・唐入り。
1792年文禄の役、1797年~98年慶長の役。
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歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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