🗾16〕─3─縄文時代の人口27万人が8万人に激減し奈良時代には500万人に急増した。~No.78No.79 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族の歴史には二種類あって、辺境の土着的民族神話=正統史と近代科学的人類史=正当史である。
 民族史・国家史で二種類持っているのは、世界広しと言っても日本だけである。
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 縄文人には、縮れ毛の南方系と直毛系の北方系の2系統があった。
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 日本民族は、海の外から数多くの異邦人達が日本列島に流れついて雑居し、雑多の人々が乱婚して生まれた混血の雑種で、純血種などはいなかった。
 アイヌ人や琉球人が先住民なら、日本人も数万年前から日本列島に住む在来種先住民として「日本土人」である。
 外国人移民(主に中国人移民)は、約20年前から日本に移り住む外来種新住民である。
 マルクス主義のエセ保守とリベラル左派は、人口激減の回復策として外国人移民(主に中国人移民)1,000万人を受け入れようとしている。
 現代日本人には、数万年前から生きてきた日本民族(日本土人)への愛着がない。
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 人口
 縄文時代は約27万人。
 紀元前2300年から紀元前1000年までの約1000年間で8万人に落ち込み、約1000年後の弥生時代に約60万人に回復した。
 奈良時代には500万人に伸び、平安時代に700万人に増加し、日本は急速に人口を激増していった。
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 日本列島とは、春夏秋冬、季節に関係なく、広範囲に同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
 日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
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 日本民族人間性である価値観・人格・気質を作り出したのは、人間(他国・異民族・異教徒)の脅威ではなかったし、唯一絶対神(全智全能の創り主)の奇蹟と恩寵ではなく、自然の脅威と恩恵(和食)である。
 つまり、日本人と朝鮮人・中国人は違うのである。
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 Science Porfal
 縄文時代の終わりから弥生時代にかけて急激な人口減少があった DNA解析で判明
 2019.06.25
 縄文時代の終わりに急激な人口減少があった—。約2500年も前のこうした興味深い現象を東京大学の研究グループが現代の日本人男性のDNA解析から明らかにした。寒冷化により狩猟生活をしていた縄文人の食料が減ったことが原因らしいという。研究成果はこのほど英科学誌「サイエンティフィック・リポーツ」に掲載された。
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 イベントレポート
 2013年7月23日(火)19:00~21:00
 馬場 悠男(ばば ひさお) / 国立科学博物館 名誉研究員
 顔から探る日本人の起源
 ~あなたは縄文系か弥生系か~
 私たち日本人の顔はさまざまだ。「顔の違いは、単なる個体差だけでなく、過去に住んでいた地域の気候環境の違いを反映していて、そのことから現代日本人のルーツを探ることができる。」と語る馬場氏。いわゆる濃い顔は、暑いアフリカから数万年前に東アジアにやってきた人々の特徴をとどめて進化してきた縄文人の顔に近い。一方でのっぺりした目立たない顔は、東アジアにやってきた人々が、3万年ほど前から厳寒のシベリアに住み着いて独特の姿になってから、2000年以上前に日本列島にやってきた弥生人の顔に近いと考えられる。進化の過程で変わってきた顔。その顔から日本人の起源を考えてはいかがだろう。
 人骨からわかる縄文人の「顔」と生活環境
 今回のセミナーのテーマは「日本人はどういうふうにできあがったか」。人類学者であり長く解剖学に携わってきた馬場悠男氏を講師にお招きし、現代の日本人の祖先がどのような人々であったかを解剖学的見地を含む人類学の視点からお話しいただいた。
 「結論から先に申しあげると、日本人の祖先は縄文人と渡来系弥生人。もともと縄文人が住んでいた日本列島に、のちに弥生人となる北方系のアジア人が渡って来て混血し、そしてできあがったのが私たち日本人なんです。」
 詳しく分ければ、「日本列島には現在3つの民族集団が住んでいる」。縄文の影響が強く、その直系の子孫がアイヌで、渡来系弥生人の影響が強いのが本土人。そして縄文人と渡来系弥生人の影響が半々といったところなのが琉球人だ。日本列島に人類が初めてやって来たのは3~4万年前。その多くは南からやって来た「立体的で濃い顔」を持つ人々だった。縄文人や沖縄にいた港川人がこうした人々で、その顔つきは「世界標準」に近いものだった。そして日本では約1万5000年前から縄文時代が始まることとなる。縄文時代はその後1万年以上つづき、3000年前には縄文人の人口は推定10万人に達することとなる。馬場氏は国立科学博物館の研究員として、その縄文人をはじめ各年代の日本人の人骨を長く調査してきた。頭部の骨を見ればどんな顔をしていたかがわかるし、歯の状態から食生活も想像できる。身長や体形、骨折などの怪我、かかっていた病気、女性ならば子どもを産んだかも人骨から調べることができるという。縄文時代の場合、そこから浮かびあがるのは「小柄だけど手足がすんなりのびていて、走ったりするのが得意」な人々の姿だ。顔は「彫りが深く鼻が高いヨーロッパ人や、台湾の少数民族。東南アジアだとフィリピン、インドネシアなどにはかっちりした顔が多い」。乳幼児死亡率は高く生活は厳しかったが、「がんばって」生きてきたのが縄文人だった。
 そこへ2800年ほど前以降に大陸から渡って来たのが北方系の顔を持つ「渡来系弥生人」だった。こちらは「平坦でのっぺりした顔」が特徴。歯は「ショベル型」で大きめ。男性の平均身長は163センチメートルと、縄文人よりも約5センチメートル高い。目は一重瞼で細く、鼻は低く、髭は薄い。当初、北九州や瀬戸内海付近に住み着いたこうした渡来系弥生人は、やがて縄文人と混血し、古墳時代の日本人が形成されていく。現在の本土日本人は「縄文人30%、渡来系弥生人70%の混血」だという。
 酷寒の地が生んだ「渡来系弥生人の顔」
 「ではなぜ、渡来系弥生人の比率が高くなったのでしょう?」
 仮説として可能性が高いのが「渡来系弥生人が持ち込んだ感染症による縄文人の人口激減」だ。似たようなケースはアメリカでもオーストラリアでもあった。加えて、水田稲作文化を持ち栄養摂取が十分だった弥生人は子どもの死亡率が低く人口増加率が高かった。この2点が現在の比率につながったと考えられる。
 日本人にとっては馴染み深い渡来系弥生人の顔。しかし、世界的に見ればこうした平坦な顔はめずらしい。渡来系弥生人の顔がどのようにつくられていったかを知るにはそのルーツを辿るのがいちばんだ。渡来系弥生人と顔が似ているのはモンゴル人などシベリアに 住む北方アジア人。
 「つまり弥生人の故郷はシベリアだということです。」
 シベリアといえばマイナス50度にもなる酷寒の地。食料になる動物もトナカイやマンモスくらいしかいない。そんな場所で弥生人の祖先たちはどうやって生きてきたのか。その鍵となるのが後期旧石器時代(約4万年前)に発達した石刃技法だ。これによってさまざまな道具を持つに至ったホモ・サピエンスは縫い針を発明し、寒さに耐えられる密閉された衣服をつくることができるようになった。世界中に広がりつつあったホモ・サピエンスの一部はアジアの北方に住み着き、狩猟採集を糧として暮らすこととなる。寒さをしのぐには身体から熱を発散しないこと。代を重ねるうちに顔は環境に適応して鼻が低くなり、瞼の皮が厚くなった。体毛や髭は凍りつくのをさけるために薄くなっていった。凍った肉を食べたり、トナカイの皮を噛んでなめしたりするので歯や顎は丈夫になった。こんなふうに北方アジア人の「顔」はできていった。
 華奢になった現代人の顔
 このように北に住んでいた人々が南下を開始したのは約6000年前。おそらくは気候変動によってトナカイの数が減ったために移動を始めた人々は中国大陸で農耕の技術を手に入れ、漢民族の祖先となった。さらにはインドシナ半島へと下り、一部は日本列島にもやって来た。前述したように日本全体に広がった渡来系弥生人はやがて中央集権国家をつくっていく。平安時代の絵巻物などを見ると、そこで「美しい顔」とされているのはだいたいが目が細く福々しい渡来系弥生人の顔だ。これは江戸時代になっても変わらず、日本人の間では眼が細く、俗に「瓜実顔」と呼ばれる細面の顔が「美しい顔」とされてきた。顔が細くなったのは「上流階級の人たちがやわらかい物を食べるようになったから」。馬場氏が人骨から復元した徳川将軍家の妻女などは典型的な細面の顔だ。庶民はこうした顔に憧れ、そこから浮世絵の美人画などが生まれていった。だが明治になって欧米の影響が強くなるとその価値観は変わり、彫りの深い顔も魅力的とされるようになった。馬場氏はこれを「2000年ぶりの縄文顔の復権」と評している。
 それでは、今の日本人の顔はどうなっているだろうか。「現代人の顔は華奢になった」と馬場氏。主たる要因は食生活の変化だ。かたいものを食べない最近の子どもたちは顎が小さく歯並びが悪い。それによって睡眠時無呼吸症候群などを起こしやすくなっているし、そうなると活性酸素が増えるために血管が傷つき脳や心臓の病気になりやすくなる。これを防ぐためには、「やわらかいものをよしとする食文化をあらためる必要がある」。
 「学校給食を正課とし、硬いものを食べて顎の筋肉と骨を鍛える。顔の虚弱化は遺伝ではなく生活習慣の影響なので変えていくことができます。」
 馬場氏の「夢」は「やがてくる文明崩壊を食い止めること」。
 「人類学をやっていると、どうしても人類のこの先が気になるんです。化石燃料を使っての食料増産は数十年後には必ずや崩壊する時がくると思います。」
 将来の子どもたちのために我々は何ができるのか。これは社会全体の課題だ。
 講師紹介
 馬場 悠男(ばば ひさお)
 国立科学博物館 名誉研究員
 1945年東京生まれ。日本学術会議連携会員。元日本人類学会会長。東京大学生物学科卒。獨協医科大学解剖学助教授を経て、1988年から国立科学博物館主任研究官。1996年から同人類研究部長、東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻教授を兼任。2009年定年退職。専門は人類の進化と日本人の形成過程。国立科学博物館(東京上野)の特別展に数多く携わるかたわら、NHKスペシャル地球大進化」「病の起源」など多くの科学番組を企画・監修している。編著訳書も『人類の進化大図鑑』、『人間性の進化』、『人類進化大全』、『ホモ・サピエンスはどこから来たか』など多数。
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 茅野市尖石縄文考古館
 縄文時代の人々の寿命について
 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 更新日:2020年9月19日更新
 来館されるお客様からよく尋ねられる質問の一つに、縄文時代の人々の寿命があります。質問というよりは「縄文時代の平均寿命って30歳くらいなんですよね?」というような、何となく覚えている知識に対する再確認のようなものです。
 現在の日本は、世界的にもトップクラスの長寿国ですが、この長寿命は、食生活をはじめとする生活習慣や保険制度の充実などの行政システムが複合的に絡み合って達成したものだと言えると思います。
 文明化以前の太古の昔では医学が未発達であることも踏まえ、このような長寿命になったことから、「縄文人寿命30歳説」は現代の多くの人が納得できるものだったと言えるでしょう。
 縄文人寿命30歳説
 では、この「縄文人寿命30歳説」はどこから出てきたのでしょうか。一般概説書にもよく書かれてきた「縄文人寿命30歳説」は、1967年に発表された「出土人骨による日本縄文時代人の寿命の推定」に基づくものです。この研究での年齢推定は、頭がい骨の縫合線の状態(たとえば20代では縫合線が消失することはほとんどありませんが、50代では消失してしまう縫合線がかなりあります)、骨端の癒合の状態(軟骨だったものが徐々に硬い骨になります)、恥骨結合面の状態の3点で行われています。分析は、縄文時代前期から晩期までの男性133体、女性102体の合計235体について行われました。この結果、平均死亡年齢が男性で31.1歳、女性で31.3歳となり、15歳まで成長した場合の平均余命が16.2歳(=31.2歳で死亡)となりました。
 ヒトの骨格模型(1) 頭がい骨の縫合線(2)
 理科室でおなじみの人骨模型(1)の頭を見ると、蛇行した線が描かれています(2)。これが頭蓋縫合のひとつで、これが年齢とともに消失していきます。
 骨格模型の腰の部分の拡大
このほか、写真の丸で囲ったところの点線の部分(恥骨結合面)も、年齢とともに表面が変化するので、年齢を推定するときに観察します。
 この結果は、まさに「縄文人の寿命=30歳」と受け止められるのですが、1978年の脊椎骨の研究による「縄文時代の35歳=江戸時代の45歳に相当する」という指摘もあわせて考えると、現代社会よりも過酷な環境であるがゆえの短命だった、と腑に落ちる気がしたのも当然のことと思います。
 ただし、1967年の論文では、「考古学的に知られている事実から、当時の住民の寿命が本研究で見いだされた程度の短さであったことの理由を具体的に説明づけることは、きわめて困難なこと」とも指摘しています。
 「もうちょっと寿命が長かったかもしれない」という新たな研究
この「縄文人寿命30歳説」に対して、もっと長寿命だった可能性を示す研究結果が2008年に公表されました。この研究は、1967年の研究と異なり、腸骨耳状面(ちょうこつじじょうめん)の観察によるものです。腸骨耳状面(ちょうこつじじょうめん)というのは、腰の骨と背骨が接合している面で、若いうちは表面に水平方向のうねりがあり、この面の輪郭もはっきりしているのが、年齢とともに表面のうねりがなくなって大小のくぼみや穴が生じたり、輪郭が盛り上がったりする、といった変化があるようです。この年齢推定方法は、1985年にアメリカの人類学者が体系化し、2002年に別の人類学者らがより客観的な方法を提唱しました。
 腸骨耳状面(ちょうこつじじょうめん)の場所
 腸骨耳状面(ちょうこつじじょうめん)は、背骨のうちの腰の骨である仙骨(せんこつ)と接合する腸骨(ちょうこつ)の接合面です。この面を観察して年齢を推定します。
 2008年の研究では、1985年の方法と2002年の方法の両方で研究をしたところ、より客観的な2002年の方法では、死亡時年齢34歳以下が32.1%で、35歳以上64歳以下が35.4%、65歳以上が32.5%となり、15歳時点での平均余命が31.52歳という結果になりました。65歳以上という、現代でもまさに祖父母世代と言える年齢層が全体の3割以上になり、これ以前の研究で指摘されたよりもかなり長寿だった可能性が出てきたわけです。
 加えて、少なくとも江戸時代の日本よりも縄文時代の生活ぶりに近いと思われるアフリカの現生狩猟採集民を見ても、65歳を過ぎてから死亡する人の割合は40%を超えていると指摘しています。
 1967年の研究も、2008年の研究も、15歳以上と判定された人骨を対象に寿命の研究をしています。ですので、いわば「無事に大人になれた場合の寿命」を算出しているのであって、乳幼児を含んだ全体の寿命を算出しているわけではありません。乳幼児の死亡率や死亡時年齢が不明なので、厳密に寿命がどのくらいだったのかはわかりませんが、「無事に大人になれた場合の寿命」は、2008年の研究では1.5倍にまで伸びて46歳あまり、ということになります。考えてみると、「人間五十年」に近い数字だと言えるでしょう。
 参考文献
 小林和正1967年「出土人骨による日本縄文時代人の寿命の推定」(『人口問題研究』第102号)
 鈴木隆雄1978年「縄文時代より江戸時代に至る日本人脊椎骨の古病理学的研究」(『人類学雑誌』第86号)
 長岡朋人2010年「縄文時代人骨の古人口学的研究」(『考古学ジャーナル』第606号)
参考文献のうち、英文のもの [PDFファイル/151KB]
 関連リンク
 感染症と人類(考古学的な感染症の証拠)
   ・   ・   ・   
 よもやま話
 SHORT STORY
  2018.10.15
 世に飛び交う気になる言葉-日本人は減ったことがある-
 日本の出生数が減り続けるのはなぜなのか、どうすれば人口減少を抑え社会を安定させられるのか、人口減少の結果、社会はどのようなことになるのか、などたくさんの疑問が湧きます。とても難しい問題ですが、それを見通すには、社会を文明論的に視る目が必要なのだと思います。
 人口減少という国の危機は、かつて私たちの先祖が乗り越えてきた歴史でもあります。歴史人口学の鬼頭先生の著作[1][2][3]を基に、日本がこれまで三度経験した人口減少の歴史を振りかえり、かつて、なぜ人口減少が起きたか、それによって社会はどのように変質したか、人口減少が増加に転じたのはなぜか、を考える縁にしたいと思います。
 最初の人口減少
 縄文時代、紀元前2300年(4300年前)のころをピークとして、日本には26万人の縄文人が住み、高度な狩猟採集社会を営んでいました。このスタイルの社会としては世界一、人口密度の高い生活圏が形成され、当時としては、よほど豊かな生活を送ることができたようです。
 最終氷期の最寒冷期後、約19,000年前から始まった海面上昇は、完新世(およそ7,000年前から5,000年前)の最も温暖であった時期にかぶさるように、紀元前4,500年から紀元前4,000年にピークを迎え、ピーク時の海面は現在より約5m高くなりました。現在の日本では、貝塚がずいぶんと海から遠く離れたところから出土するのですが、当時はそこが、海に面した陸地の一帯だったと考えられています。東京湾は深く埼玉県まで入りこみ、現在の大宮市は内海に突き出た半島だったといわれます。この海面上昇は「縄文海進」の名で知られます。
 この時期、海岸に行けば女子供でも容易に貝が拾え、深く湾入した静かな内海で男たちが魚を捕り、森には木の実(トチ、クリ、ナラ、クルミなどの堅果、ドングリの類)が豊富で、温暖な気候のもとに獲物(イノシシ、シカ、カモシカ、鳥など)も多かったのでしょう。紀元前4000年頃の縄文前期、地球の温度は現在より平均で約5℃高かったという説[4]もあるようです。
 温暖、あるいは暑いくらいの気候のもとに縄文時代が穏やかに豊かに過ぎていったとき、次第に気候変動によって気温が下がり始めました。クルミ、ナラ、トチの実などの食料が減少したことが原因になったのかもしれません、紀元前1000年の頃には8万人まで人口が減ったというのです。
 このような昔のことですからはっきりしませんが、食料の減少が一つの原因となって人口減少を惹き起こしたようなのです。人口の極大から極小まで1,300年の時が推移していますから、現在の日本の人口減少と比較すると、とてもゆっくりした変化だったといってよいでしょう。
 日本人口の趨勢:縄文早期~2100年
 紀元前6150年~1846年の人口は鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』(講談社学術文庫・2000)、1872年は旧内閣統計局推計、1900年~2010年は総務省統計局『国勢調査報告』、2011年~2100年は国立社会保障・人口問題研究所『全国将来推計人口』に依拠/鬼頭宏:世界人口から考える日本の未来/日本が乗り越えてきた4つの人口の波 National Geographicより[1]
 二回目の人口減少
 人口の極小を迎えた縄文時代晩期に、日本に稲作文化が入ってきて、食料事情がよくなり始めました。食料が足りるようになれば子供も育ちます。出生数が増え始めたのです。狩猟採集生活という暮らし方(文化)は次第に稲作農耕文化にとって代わられ、人口は順調に増加しました。国造りが始まり、開墾が盛んになり、農地の国家管理(公地公民、班田収受)のもとに稲作が盛んになって奈良時代には500万人となりました。その勢いで平安時代は700万人まで増えました。およそ2,000年間で8万人から90倍も増えたといえそうです。稲作の恩恵を享受する国になったのでした。
 平安時代中期から私的な土地所有として荘園がどんどん増加し、国を挙げて農地を広げる努力が低調になり、国と民から意欲が失われ始めました。そこに気温上昇が起こり、特に西日本では旱魃が頻繁に起こり、水田の水の確保が十分でなくなってしまいました。
 灌漑施設などの大規模土木工事は、人手だけでなく、民の気力と国の実行意志が必要なのですが、この時代、低調になっていたらしいのです。世は末法思想が広まり、現世を逃れて極楽に往生したいというはかない望みにすがる気風が広まれば、民の活力と国の勢いは低下し、直接的には食料不足となって人口は増えなくなりました。こうした人口停滞期は鎌倉時代の終わりまで続いたそうです。
 三回目の人口減少
 室町時代になると、貴族の荘園管理を任されていた武士階級が台頭してきます。在地領主となって力をつけ、自らの手で農作物の増産を心がけるようになりました。そこから大名が生まれ、経済力をつけ領土を拡大しようと懸命に努力しました。武士という新たな土地所有者が確立し、土地経営に活力が戻って来ました。貨幣が、商業が、流通が発展し社会は活気にあふれてきました。この時期、人口が増加に転じます。
 戦国時代の頃でも、戦のために人口が減ったということはありませんでした。戦で死ぬ以上に子を産んだのでしょう。西暦1600年ころ、徳川幕府の開かれた頃ですが、人口は1500万から1600万人に達したそうです。
 江戸時代では、世の中が平和になり新田開発が盛んになって、日本人は懸命に働くようになりました。労働集約的な農業技術が発達し、単位面積あたりの取れ高が増加してきます。人手をかける農業ですから、家族の数が多いほうが有利であり、食料事情が許せば子を多く持ちたいという元気にあふれていました。江戸時代も後半になるまで人口は増え続け、3200万人となります。
 そして、18世紀後半に人口増加は止まってしまいます。天明の飢饉や浅間山噴火が起き、気温が下がりました。短期間ですが18世紀の寒冷化は世界的なもので、テームズ川や隅田川が冬に結氷したのがこの頃でしたが、日本の人口停滞の主たる原因ではありません。主たる原因はこの社会体制で、この国土で、この生産構造で、この農業技術で人口の飽和状態に至ったということのようです。新田開発できそうな未利用地はほとんど開発してしまったということでしょう。
 [1] 鬼頭宏:世界人口から考える日本の未来/日本が乗り越えてきた4つの人口の波 National Geographic
 http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20110907/283250/ 
 [2] 鬼頭宏:人口安定へ「国の形」転換を 日本記者クラブ研究会「人口減少問題」https://www.jnpc.or.jp/archive/conferences/27404/report/
 [3] 鬼頭宏:人口から読む日本の歴史 講談社学術文庫 2000年
 [4] 竹村 公太郎:「宿命の治水」は江戸時代から始まった http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53619
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