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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
現代日本は、「災害を口にしなければ災害は起きない」という愚かな言霊信仰が蔓延っている。
言霊信仰と言っても、現代の言霊と昔の言霊は全くの別物である。
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養和大飢饉で、平清盛一門は滅んだ。
日本民族は政治体制を、外的要因である外圧・侵略ではなく内的要因である自然災害で、衣を着替えるように変化させてきた。
徳川幕府は、鎖国をおこない自然災害を受け入れ乗り越える事で265年間の平和・安定・安寧を維持してきた。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「養和の飢饉」の解説
養和の飢饉
養和年間(1181~82)におきた大飢饉。1180年(治承4)に始まる源平争乱期以降,鎌倉時代は異常気象・洪水・地震などで慢性的な飢饉に悩まされた。なかでも養和の飢饉・寛喜の飢饉(1231)・正嘉の飢饉(1258~59)は大きかった。養和の飢饉については「方丈記」に「養和のころとか(中略)二年があひだ,世の中飢渇して,あさましき事侍りき。或は春夏ひでり,或は秋大風洪水など,よからぬ事どもうちつづきて,五穀ことごとくならず云々」とその惨状が記される。被害は西日本がはなはだしかったため,平氏のうけた打撃は大きく,源平合戦の結果にも影響した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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日本の総人口。
飛鳥時代・奈良時代は約400万人。
1192年 鎌倉時代は約757万人。
1338年 室町時代は約818万人。
1603年 江戸時代は約1,227万人。
1868年 明治時代は約3,330万人。
日本民族の歴史とは、人口増加の歴史である。
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徳川幕府が自然災害を乗り切り復興を成し遂げた秘訣とは、外国人移民を排除し、子沢山を奨励する「産めよ増えよ」政策で人口を増やした事であった。
つまり、究極の人を中心とした「子供政策」である。
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日本の歴史とは、民族の歴史であり、天皇の歴史である。
民族の歴史は、数万年前の旧石器時代・縄文時代からの歴史である。
天皇の歴史は、数千年前の弥生時代・古墳時代からの歴史である。
日本文化とは、自然環境を詠む「和歌」の文化と自然災害を「観察」する文化である。
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エセ保守は日本の歴史に愛着を持たず知ろうとはしない、リベラル左派は日本の歴史を嫌悪し否定している。
現代の歴史教育は、砂漠の砂のように人生観、生命観、死生観のない味気ないモノである。
現代日本人は、民族の歴史を忘れた、のではなく無価値として切り捨てた。
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2024年6月6日17:00 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「4万人が餓死!? 平安京の「ひどい荒廃」 羅生門の鬼の正体とは?
腕を取り返しにくる『謡曲』にも描かれた羅城門の鬼『百鬼夜行』3巻拾遺3巻より国立国会図書館蔵
■再建を断念したのは鬼のせい?
鬼の生息地としては、酒呑童子(しゅてんどうじ)一党の根城・大江山(おおえやま)が、何といってもよく知られるところである。ただし、平安京の都城内に限って言えば、その正門にあたる羅城門(らじょうもん)の名を筆頭にあげるべきだろう。かつて朱雀大路(すざくおおじ)の南端にそびえていたとされる、桁行7間(9間との説も)、梁間2間の二重閣という壮大な城門である。
いつ建造されたのかは不明ながらも、建造後の弘仁7(816)年に大風が吹いて倒壊。その後再建されたものの、天元3(980)年にまた倒壊するなど、2度も災害に見舞われたことが判明している。以降、再建されることはなかった。
再建断念の理由の一つとして、ここに記す鬼伝説にまつわる悪評が加味されていたのではないかと思われるのであるが、果たして?それが、俗に羅生門(らしょうもん)の鬼と言い伝えられる伝承である。まずは、この逸話をさらに臨場感溢れる物語として描いた謡曲・羅城門から、その情景を垣間見ることにしたい。
■渡辺綱が成敗した鬼とは?
時は、藤原道長に仕えていた武将・源頼光が、大江山の鬼退治を終えた後のことというから、平安時代も後半、10世紀も末の頃か。舞台は頼光の屋敷である。そこに、配下の四天王(碓井貞光、坂田金時、卜部季武/うらべすえたけ、渡辺綱/わたなべのつな)や和泉式部の夫・平井(藤原)保昌(やすまさ)を招いて、酒宴を張っていたところから物語が始まる。
宴もたけなわとなった頃、保昌が何気なく「羅城門に鬼がいる」と言い出したことが、論争の始まりであった。これに反論したのが渡辺綱。「王地たる都城南門に鬼なぞ棲食うはずがない」と言い張るのである。ならば「確かめよ」との貞光の言に押されて、綱が一人馬に乗り、都の南端にそびえる羅城門へと向かったのだ。
雨が降りしきる夜であった。城門に近づくにつれ、風雨が激しくなる。それでも、何事もなかったかのように、来訪のしるしの札を門前に立てかけ、「いざ、帰らん」と踵を返そうとしたその時、突如、背後から綱の兜を掴み取ろうとする者がいた。それが、目を爛々と輝かせて睨みをきかす奇怪な鬼であった。
綱がすかさず太刀を振りかざすも、鬼の鉄杖とぶつかってカチリ。幾度か激しく渡り合った後、ついに綱が鬼の腕をバサリと斬り落した。痛手を負った鬼が逃げ口上として声高に叫んだのが、「時節を待ちて又取るべし」の一言であった。「覚えてろ、てめえ!近いうちに取り返しに来てやるからな」とまあ、こんな風に言うのである。
謡曲『羅城門』はここで話を終えるが、その後日談が、鎌倉時代に記された軍記『平家物語』(剣の巻)(ここでは、鬼はうら若き女に化けて登場。舞台も羅城門ではなく、一条戻橋であった)に記されているので参考にしたい。
それによれば、屋敷に戻った綱が、斬り落とした鬼の腕を櫃(ひつ)に入れて警戒し続けたという。鬼が7日目に奪いに来ることになっていたが、その最後の夜、綱の叔母と称する老婆が訪ね来て、鬼の腕を見せてくれるよう所望。綱もつい心が緩んだのか、老婆の言につられて、鬼の腕を箱から取り出して見せてしまった。と、突如老婆がそれを手に掴むや、「これは吾が手なれば取るぞよ」と叫んで、虚空へ飛び去ってしまったというのである。
この老婆と化した鬼が腕を取り返しにくるという話は、謡曲『茨木』にも登場する。ここでは、その鬼の名を酒呑童子の手下・茨木童子としているのが少々気がかり(なぜか、ここでは羅城門の鬼を茨木童子と同一視している)ではあるが、ともあれ、鬼は腕を取り戻して、忽然と姿を消してしまうのである。
■権威が失墜する都の荒廃ぶり
それにしても、綱が「王城に鬼がいることなどあり得ない」と憤慨したように、都の正門である羅城門が鬼の巣窟になっているというのは、本来ならあり得ない話である。しかし、9世紀に遣唐使が廃止になって以降、外交使節が訪れることも少なくなったこともあってか、権威の象徴としての城門の存在感も薄れたようである。
しかも、当時は疫病が蔓延。地震、火災、つむじ風などの被害も続出したようで、荒廃ぶりが凄まじかった。特にひどかったのが養和年間(1181~1182年)で、この時は2年連続の大飢饉。初年度でさえ、都だけで4万2300人が餓死したとか。鴨長明(かものちょうめい)も『方丈記』に、「飢え死ぬる者のたぐい数も知らず」と記したほどであった。
この鬼物語の時代設定はその前世紀ゆえ、さすがにそこまで状況はひどくなかったと思われるが、社会情勢が不安定だったことに変わりはなかった。特に羅城門のあるところは都のはずれ。経済的に疲弊していた朝廷としては、城門が荒れ放題となったとしても、もはや手をつける余裕さえなかったのだろう。そこに死体が放り込まれたということも、まんざらあり得ないことではなかったのだ。
この辺りの実情は、『今昔物語集』(二十九の十八)の「羅城門の上層に登りて死人を見し盗人の語」にも記されている。災難続きの京の都が荒れ果て、羅城門でさえ、死体が放置されるほどだったと記されている。そこに盗人の男が入ったところ、死体が積み上げられた中に、老婆がゴソゴソ。何と、死体の髪の毛をむしり取っているのである。男はその老婆の着物まで剥ぎ取って逃走。生きるための必死の情景が描かれている。芥川龍之介が著した『羅生門』は、この話を素材にしたものである。
ちなみに、『鬼滅の刃』に登場する鬼の巣窟といえば、言わずもがな、無惨の本拠地・無限城(むげんじょう)。こちらはむしろ、豪華絢爛(けんらん)。平安時代の鬼の巣窟のおぞましさとは、隔世の感がありそうだ。
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2023年5日12日 歴史人「「鬼」という概念はどのようにして生まれたのか?
今月の歴史人 Part.1
歴史人編集部
鬼は日本の歴史なかでも幾度となく現れてきた。その鬼はいつからそう呼ばれ、人の頭のなかに根づいたのか?
■目に見えない存在から凶悪な姿となった「鬼」
大江山酒天童子絵巻物(国立国会図書館蔵)
昨今は『鬼滅の刃』(きめつのやいば)などの漫画やアニメの影響も強いが、大半の人は、おそらく子どものころに見聞する「桃太郎」「一寸法師」といったお伽噺で、初めて「鬼」というものに触れたであろう。
想像上の鬼のもっとも一般的な形態は身の丈8尺以上。肌は赤・青のほか、黄・緑・黒の五色があるとされる。筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)、縮れ毛の頭髪にニ本の角、腰には虎皮を巻き手には重そうな金棒、目は一つか二つ。大きな口には鋭い牙を生やす、いった姿で描かれることが多い。
その基本的属性は大抵「強いもの」「悪いもの」と定義される。人間を襲い、挙句に食べてしまう妖怪。それが鬼に対する現代人の一般的な概念である。人々に幸福をもたらす「神」とは対極にいる存在でもある。たとえば東北の「なまはげ」を鬼と見る人もいるが「なまはげ」とは年に一度、災いを祓いにくる来訪神であり、その姿形から、後世に色づけられた「鬼」を連想させるに過ぎない。
では、この「鬼」という概念は、どのようにして生まれたのか。その最古の用例が和銅6年(713)に編纂が始まった『出雲国風土記(いづものくにふどき』である。「昔或人(むかしあるひと)、此処に山田を佃(たつく)りて守りき。その時目一つの鬼来りて佃る人の男を食ひき」という箇所だが、この「鬼」を「おに」と読ませたかどうかは明らかではない。ただ、その数年後の養老4年(720年)に成立した『日本書紀』の「斉明記(さいめいき)」に、朝倉山の上から「鬼」が笠を着て斉明天皇の喪の儀(よそおい)を見ていたとの記述があり、すでに「鬼」は「おに」と読まれ、一体化をみていたと考えても無理はなさそうである。
この「おに」という語だが、これは人に見えず隠れ住んでいることを意味する隠(おん/おぬ)に由来するとする説がある。平安時代の10世紀前半に成立した『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』という辞書は漢文で漢語を説明しており、「鬼」については「和名於邇(おに)。或説に云はく、於邇とは隠の音の訛(なまり)なり。鬼物隠にして形顕すを欲せず。故に以て称す」という。つまり「鬼は物に隠れ、形を顕すことを欲しない。ゆえに隠といい、それが鬼に訛った」ということだ。
当然ながら、もともと「鬼」の字は中国の漢字で、日本で「き」と音読みされた。それが「鬼気(きき)迫る」などの言葉に残っており「鬼籍(きせき)に入る」とは鬼の戸籍に入る、すなわち死者になるということでもある。いずれも目には見えないものであり、中国人が思い浮かべる鬼とは日本人の想像とは違い、死者の霊であるという。このあたりに日本における「鬼」の変質をみることができよう。
監修・文/八木透 執筆/上永哲矢
歴史人2023年6月号「鬼と呪術の日本史」より
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2021年4月12日 歴史人「鳥辺野への埋葬はまだマシ? 遺体がそのへんに捨てられていた平安時代 「人喰い鬼」のせいにされた凄惨な光景とは
鬼滅の戦史⑲
藤井勝彦
■食われた死者だけが知る人喰い鬼の実像
『百鬼夜行拾遺』鳥山石燕画/国立国会図書館蔵
鬼一口(おにひとくち)とは、何とも思わせぶりで、人を食ったような名前である。一口で人をガブリと飲み込んでしまうような、巨大な鬼を言い表しているようにも思えるが、その実、どのような姿であったのかは不明。なぜなら、誰もその姿を見たものがいなかったからである。さすがに、食われた当の本人こそは、断末魔において目にしたはずであるが、死んでしまった以上、誰にも語ることができなかった。言わずもがなである。
それにもかかわらず、こんな名前の鬼がいたと言い伝えられるのはなぜか? 今回は、これがテーマである。ただし、実のところ、これが鬼の名前であったのか、あるいは鬼に一口で飲み込まれたことを言い表す言葉なのかは不確かである。実体のないものに名前をつけようもないということなのかどうかわからないが、ここではひとまず、名前とみなして話を進めることにしたい。
■鬼に食われた!?『伊勢物語』の第六芥河の段に登場
この名前が最初に書に認められたのは、平安初期に編纂された『伊勢物語』である。その第六芥河(あくたがわ)の段に登場する。この歌物語は、いずれの段も「昔、男ありけり」で始まるのが特徴的だが、この「男」というのが、平安朝きってのプレイボーイ・在原業平(ありわらのなりひら)のことを指していることはいうまでもない。平城天皇の孫でありながらも、父・阿保(あぼ)親王が「薬子(くすこ)の変」に連座したこともあって臣籍降下。以降、在原姓を名乗った人物であった。本流を外れたことでタガが外れたのかどうか定かではないが、女癖が悪いことでは定評があった。
その男が、幾年も求婚し続けていたにもかかわらず、想いが遂げられなかった「ある女」を強引に盗み出し、芥河(淀川の支流か)のほとりまで担いでいったところから物語が始まる。雷が轟くような悪天候の中での逃走劇であった。夜も更けたので一夜を明かそうと、途中にあったあばら家の倉に女を押し込め、自身は見張り役として、戸口で見張っていたという。夜も明けたので中を覗くと、何と、もぬけの殻。それを男は、「鬼はや一口に食ひてけり」(鬼が一口で食ってしまった)というのである。鬼が食ったという証拠は何もないのだが、そう言い表すなりの事情があったのだろう。
ちなみに、盗み出された「ある女」というのは、後の二条の后(きさき)であったことも明記している。二条の后とは、清和天皇の女御で、後に陽成天皇の母となった藤原高子(ふじわらのこうし)のこと。その参内する前の、若かりし頃のことである。
天皇の后の座を狙っていた高子の親兄弟からしてみれば、平城天皇の孫とはいえ、すでに本流を外れてしまった業平など、鼻にもかけなかったことは容易に推察できそうだ。実は、「鬼が食った」というのは戯言で、その実、高子の兄の藤原国経(くにつね/大納言)と藤原基経(もとつね/堀川大臣)らが高子を奪い返したことを鬼に食われたかのごとく言い表したのだと、種を明かしている。
■平安京内に死体がゴロゴロ
この説話は、平安後期に編纂された『今昔物語集』(二七の七)にも登場するが、そこでは、この男をはっきりと右近中将在原業平と明記した上で、似たような話を繰り広げている。ただし、二人が同衾(どうきん)するなど、設定は多少異なる。
雷に驚いて太刀をひらめかしているうちに、女は頭と着物だけを残して忽然と消えてしまったとも。何者かは不明ながらも、怪しげなるものに襲われたという状況証拠だけが残るのである。ここではあくまでも鬼の仕業であったと言い張ったまま、話を終えているのだ。
『今昔物語集』が『伊勢物語』をネタ元として記事の構成を練り直していることから鑑みれば、話をより面白おかしく書き立てるために、女の首などの状況証拠を残して、さも鬼に襲われたかのように創作を加えたことは十分考えられるところである。しかし、仮にそうだったとしても、当時の社会情勢を振り返ってみれば、鬼の名を持ち出したくなるような状況であったことも見逃すべきではないのだ。
実はこの話、平安京の構造上の問題点が絡んでいたと考えられるのだ。この都には、庶民を葬るための葬地が、十分設けられていなかった。埋葬地としては東山の鳥辺野などが知られているが、それだけでは足りず、鴨川や桂川の河原にまで、平然と遺体が打ち捨てられたというのが実情であった。
平安時代、遺体が打ち捨てられていたという桂川/藤井勝彦撮影
当時は遺体を野ざらしにして葬るという風葬が当たり前で、鳥がついばみ、野良犬が貪り食う光景が日常茶飯であった。おそらく、庶民は、無残にもバラバラになった遺体を目にすることが多かったのだろう。時には遺体を食い漁って味をしめた野犬などによって、か弱い女性やお年寄り、子供たちまでもが、生きたまま襲われることがあったに違いない。これらの人々が突然のようにいなくなったわけだから、神隠しにでもあったか、さもなくば、鬼に食われたと思い込んだに違いない。
ここで名が持ち出されたのが、鬼一口だった…というわけである。業平が突如姿を消した女を鬼に食われたと言い表したのも、さもありなんと思われるのだ。これは多分に、筆者の推察が混じっているが、存外、真理を突いているのでは…という気がするのだが、果たして?
ちなみに、『鬼滅の刃』に登場する鬼たちは、いうまでもなく、すべて人間を食う鬼であるが、中でも女ばかりを狙ったという沼の鬼が、ここに紹介した鬼一口に通じるものがありそう。16歳になったばかりの娘を好んで喰ったというだけでなく、女が身につけていた髪飾りなどを収集していたというから、相当な変質者である。女好きという点では、在原業平とも通じる。十二鬼月(じゅうにきづき)の次席・童魔(どうま)も女好きだが、こちらは沼の鬼と違って超イケメン。業平もかくありなんと思いたくなるのだ。
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