☰47〕─2─無謀な攻城戦であった平壌の戦い。明治27(1894)年9月15日。~ No.129No.130 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日清戦争は、日本が戦う本命であるロシアとの戦争の前哨戦であった。
 日本の近代大陸戦争は、江戸時代後期からのロシアに対する積極的自衛戦争であった。
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 李氏朝鮮は、表では中立を宣言していたが、裏では清国に協力していた。
 北東アジアには、西洋の「中立」は存在せず敵か味方の2者しかいなかった、李氏朝鮮は清国の味方で日本の敵であった。
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 日清戦争は、常識で考えれば小国日本敗北・大国清国(中国)勝利であった。
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 2024年7月6日 MicrosoftStartニュース AERA dot.「「平壌の戦い」 無謀な攻城戦に兵士数も兵器も劣る日本軍があっけなく勝利した意外な理由
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 明治維新から30年足らずだった日本は、当時、侮れない存在として「眠れる獅子」と称されていた清とどのように戦ったのか。誰も予想しえなかった日本勝利で終わった日清戦争を、テレビでもおなじみの河合敦さんが8回にわたって解説する。第4回は「平壌の戦い1894年9月15日」。
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平壌の戦い1894年9月15日
 武力衝突が始まった1週間後の八月一日、日本政府は清に宣戦布告した。同日、清もまた日本に宣戦。正式に日清戦争が勃発した。
 大本営は開戦前の六月に東京の参謀本部内に設置されたが、その後、皇居へ移り、さらに九月、広島の第5司令部に移転した。明治天皇も東京から広島に移った。広島は軍港の呉や良港の宇品に近く、神戸からの山陽鉄道が開通しており、朝鮮や清へ向かう軍隊の拠点になっていた。当時は通信手段が発達していないので、国内の最前線たる広島に大本営を移したのである。また、戦争が天皇のリーダーシップのもとに戦われていることを国民に誇示する狙いもあった。大本営は、まずは制海権を掌握して大量に兵を輸送し、朝鮮半島から清軍を駆逐。秋までに北京周辺(直隷平野)で決戦を行い、短期で戦いに決着をつける計画を立てた。
 八月初旬、野津道貫中将率いる第5師団が釜山、仁川、元山に上陸、漢城に集結した。さらに八月末に桂太郎中将率いる名古屋の第3師団が渡韓。九月に両師団をあわせて第1軍が組織され、山県有朋が第1軍司令官に就いた。なお、第5師団は平壌を目指して北上、九月十五日、野津司令官が独断で攻撃を開始した。
 平壌は頑強な内郭と外郭の二重の城壁で囲まれ、郭外には多くの堡塁が備わっていた。清軍は約1万5000、日本軍は約1万2000。兵器も清軍のほうが優れ、攻城戦としては無謀な戦いであった。しかも朝鮮人の反発により軍夫の徴用がうまくいかず、食糧不足だった。
 「平壌の戦い」 無謀な攻城戦に兵士数も兵器も劣る日本軍があっけなく勝利した意外な理由
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 日本軍は緒戦で3方から平壌の外郭を攻撃するが、安山堡塁を攻めた主力軍は案の定、退却を余儀なくされた。長城理を攻撃した大島義昌率いる混成第9旅団も、130名の死者と400名の負傷者を出して撤退した。第10旅団(朔寧支隊)と歩兵第18連隊(元山支隊)が平壌の北にある堡塁と次々陥落させ、外郭の牡丹台や玄武門を占拠したとはいえ、数日では大城郭の平壌を落とせそうにない。補給がままならぬ第5師団にとっては危機的な状況だったが、士気の低い清軍が白旗を揚げて降伏、逃亡。こうして日本軍は、あっけなく平壌を手に入れた。
 監修・文 河合 敦(かわい・あつし)/1965年東京都生まれ。早稲田大学大学院博士課程満期退学(日本史)。多摩大学客員教授早稲田大学非常勤講師。主な著書に『戦争で読み解く日本近現代史 やり直し教養講座』(NHK出版新書)、『日本三大幕府を解剖する』(朝日新書)、『日本史の裏側』(扶桑社新書)など。
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 国立公文書館
 アジア歴史資料センター
 描かれた日清戦争
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 3. 戦闘の経緯:平壌陥落と黄海海戦~日本軍の清国侵入
 日本軍の作戦方針決定
 開戦時に朝鮮における清国軍の拠点であった牙山が陥落した後、かつてこの地に陣を構えていた葉志超提督率いる部隊は北方の平壌に移動しました。その後、平壌の清国軍は次第に増強されていきます。
 こうした清国軍の動きを8月上旬から感知していた日本軍は(→関係公文書①)、次の攻撃目標を平壌と定め、更なる戦闘の準備を進めていきました。牙山に駐留する清国軍の撃退を目標として掲げることによって清国との開戦に至った日本でしたが、8月中旬には、朝鮮国内のすべての清国軍を撃退する、あるいは直接的に清国自体への攻撃を行う、という選択を情勢に応じて行うとする方針を定めました(→関係公文書②)。その後、実際に日本軍は、平壌などの朝鮮内の清国軍の拠点を占領した後に、清国領内への侵入及び攻撃へと移っていくことになります。
 なお、6月に東京の参謀本部内に設置された大本営は、8月5日に宮中に移転した後、9月13日には広島城内に移され、その2日後の9月15日には明治天皇も広島大本営に入りました(→関係公文書③)。広島は宇品港(その後拡大が進み現在は広島港と呼ばれています)を備え、戦場に兵士や物資を送り出す拠点となっていましたが、この地に天皇が移ったことから、議会や国の中枢機関の多くも一時的に広島に居を移し、日清戦争中の広島はいわば臨時の首都としての機能を担うこととなりました。
 平壌の戦い
 9月1日、日本陸軍において、これまで戦闘を行ってきた大島義昌陸軍少将率いる混成第9旅団を含む第5師団に、新たに派遣される第3師団を加えることで第1軍が編制され、その司令官には山県有朋陸軍大将が任命されました(→関係公文書④)。しかし平壌への攻撃は、第3師団の本隊が朝鮮半島に到着するのを待たずに、第5師団に第3師団の先行部隊を加えた戦力によって行うことになります。
 日本軍はこの時点では未だ黄海制海権を得ていなかったために、本国から派遣される増援部隊の多くは、清国艦隊の攻撃を避けるために朝鮮半島東岸の元山や南岸の釜山に上陸しました。第5師団の主力部隊も釜山上陸の後に陸路を移動し、8月末までに漢城やその周辺に到着していました。9月1日にはこれらの部隊が平壌に向けて出発し、やがて、先行していた混成第9旅団の主力部隊、漢城北方の朔寧から出発した部隊(朔寧支隊)、元山に上陸し陸路を西進してきた部隊(元山支隊)と共に平壌の町を包囲、9月15日に総攻撃を開始します。日本軍部隊の兵力が大きなものであったのに対し、この時点で平壌に駐留していた清国軍部隊も13,000名ほどの大規模なものであり(当時の日本軍の見解)、この平壌をめぐる戦闘は最初の大規模な陸戦となりました。
 →メインページの「明治27年(1894年)9月15日 平壌が陥落」の項目を見る
 清国軍による平壌の防衛は強固であり、この日の戦いは日清両軍にとって厳しい戦闘となりました。しかし夕刻近くに、日本軍の朔寧支隊及び元山支隊と戦闘中であった部隊が攻撃を停止して降伏旗を掲げると、その後に訪れた激しい雷雨の間から深夜にかけて、清国軍は次々に平壌を脱出していきました。そして、翌日未明には日本軍が平壌への入城を開始し、間もなくこれを占領しました。
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 明治27年(1894年) 9月15日
 平壌が陥落
 平壌夜戦我兵大勝利
 【日本】
 「平壌夜戦我兵大勝利」
 タイトル: 【日本】「平壌夜戦我兵大勝利」
 大英図書館請求記号: 16126.d.2(71)
 明治27年(1894年)9月15日未明、清国軍が集結していた平壌を包囲した日本軍が総攻撃を開始しました。この戦闘は日清戦争最初の大規模な陸戦となりました。同日夕刻には清国軍が降伏を申し出て脱出していき、翌日未明にかけて日本軍が平壌への入城を進めました。ここでは夜間の戦闘の様子が描かれています。
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