🗻4〕─3・D─巨大天皇陵(古墳)=王墓は政治的「権力の象徴」ではなく宗教的祭礼の為だった。~No.13 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2024年7月21日8:34 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「クフのピラミッドや仁徳天皇陵は「権力の象徴」ではなかった…!大きな「王墓」が造られた「本当の理由」
 はるか広く知的探求の場へ
 クフのピラミッドや、仁徳天皇陵はなぜあんなに大きいのか。
 河野一隆の著作、講談社現代新書『王墓の謎』はその問題に踏み込んだ新書である。
 【写真】モノクロ戦争写真の「カラー化」で蘇る、74年前の日常と戦前の記憶
 ただそういう素朴な「なぜ昔のお墓はあんなに大きいのですか」という問いに答えただけの新書ではない。
 もちろんその問いには答えているのだが、古代の王墓の謎を探る当書は、古代史の枠を超え、はるか広く知的探求の場へと誘ってくれる。
 知的興奮をもたらす一書である。
 ちなみに、仁徳天皇陵と言われる大仙陵古墳は意外と海に近い。
 海から3キロのところにある。
 陵を、将棋のコマのように3回、ぺたんぺたんとひっくり返しつつ西へ動かしたら、海につく。それぐらいの距離だ。
 紀元400年代の人たちが、瀬戸内の海を船で難波に向かっていると、その突き当たりの先に壮大なこの墳丘が見えたのではないか。見えたら、度肝を抜かれる。
 そんな風景を想像してしまう。
 現代とは「別の理屈」で造られた
 紀元400年代というのは、いまと比べればそんなに豊かな時代ではないはずだ。それでも社会の総力を挙げて、巨大な墳丘を造ったのは、それなりのぎりぎりの判断があったのだ。クフのピラミッドはさらにその3000年前の建造である。
 そのぎりぎりの現場について、この本は迫っていく。
 巨大な墳墓は、強大な権力を握った王が、その力で強引に人を集めて、無理をさせてでも造らせたものだ、というイメージを持たれることがある。
 でもそれは違う、というのが『王墓の謎』の基本主張だ。
 巨大な建造物を造るのは、強大な権力の誇示のためである、と考えるのは、それは現代の社会の反映でしかないのだろう。
 古代の人たちは、それとは別の理屈で生きている。
 当書の素晴らしさは、リアルに古代の人たちの心情に寄り添おうとしているところにある。
 『王墓の謎』では、埋葬される「古代の王」とはどういう存在かを明らかにしていく。
 3章中ほどからの叙述がとてつもなくおもしろい。
 王は権力者ではなく「社会の生贄」?
 4章、5章あたりが、この本の白眉だろう。あまり勧めないが、もしお急ぎの方は4章と5章だけ読んでもとても価値があるとおもわれる。
 そもそも、巨大な墓に埋葬され始めたのは、強い権力者ではなかっただろう、というのが当書の考察のもとにある。
 もともとの王とは、権力者ではなく、宗教祭司ではなかったか。
 そう問いかけられる。
 そう聞かれると、日本国でそこそこ生きてきた者として、いきなり、合点がいきはじめる。
 「王」とは、その社会の生け贄ではなかったのかという問いかけにつながっていく。
 社会構成員が合意して、神に捧げる存在とするのが「墳丘に埋められる王」だったのではないかというのである。
 巨大な墓が造られる時代は、神の存在が大きかった。
 世界は、自分たちの力ではどうしようもない。
 自然の変化も、大災害も、見知らぬ部族の襲撃も、人の力では避けることはできない。
 ただ、神に頼むしかない。
 その交渉材料としては、自分たちのもっとも大事なものを捧げる。
 生きるために死ぬ。死ぬから生きられる
 大事なものとは、その共同体の大事な構成員である。それを供する。
 生きるためには、一部は死ぬしかない。
 それがこの時代の基本的なテーゼである。
 生きるために死ぬ。死ぬから生きられる。
 ここからは逃れられない。
 生け贄は、共同体内から選ばれた者であるが、でも同時に、共同体構成員がみな生け贄だと考えるしかないだろう。
 「王殺し」とは、王ダンカンを殺して王位を簒奪したマクベスのような行為のことではない。
 王は、もともと殺される存在だったという話だ。
 そして、殺された王の神聖性を高めるために、巨大な墓地が建設される。
 巨大な墓地は、人のためではなく、神に向けて造られている。
 巨大な墓地の造営は、祝祭性がとても高い。
 いまも続く古い祭は、そもそも災厄を祓うためであり、それは荒ぶる神を慰めるためであることが多い。
 そのため、とんでもない無駄遣いが祭の本質にある。
 金も命も蕩尽される。
 それが祝祭だ。
 墳墓の造営は「祭そのもの」
 神の見ている前で、何かを惜しむと神の怒りを買う。ケチはだいたい酷い目に遭う。「お話」世界はそうなっている。
 祭での蕩尽とは「犠牲」の代わりである。
 そこで何かを差し出すことを惜しむという行為は、共同体の危機に自己保身に走る利己的な行為とみなされていることになる。
 巨大な墳墓の造営は、祭そのものなのだ。
 5章で贈与経済について語られる。
 モースの贈与論から「ポトラッチ経済」へと話が進む。
 このへんがたまらなくおもしろい。
 お祭りの蕩尽は、人を不幸にしないために大事なことだ、という話になる。
 巨大な王墓には、たくさんの財宝が埋められる。
 死んだ王の来世でのお供であったり、来世での装飾のためであるが、現実として見れば、莫大な財宝をただ土に埋めているばかりだ。地上世界から消される。
 豊かではなかった時代に、財宝を墓に埋めることには、また重大な意味があった。
 もし現実世界に財宝が残り、生きている者が保持したら、そこに富が集中することになる。誰かが突出してしまう。
 このころの共同体では、それをとても嫌っていたようだ。
 特定の存在に、あまりにも富と権力が集中したら、共同体そのものが壊れてしまう、という感覚があったのだろう。それがこの巨大墳墓時代の知恵もある。
 古墳は「全国のコンビニ数の倍」もある
 大変な価値のある財産は、社会そのものから捨てる。
 王の来世のためという体で、埋めてしまう。
 そういう社会だったのだ。
 全国のコンビニ数の倍ほど古墳の数があるというこの列島では、宝物を埋めて「なかったことにする」作業がさかんに行われていたことになる。
 王墓を造る力は、やがて「都市」への建設へ向かう。大きな墓を造らなくなる。
 そして共同体そのものの性格が変わっていく。
 王を生け贄とする古代から、王を執政者とする時代へと変わっていく。マクベスが登場するのはこの時代である。
 生と死が隣合わせで同価値と見なされていた「循環的時間の世界」から、人は死をもって終わる「直線的時間の世界」になる。
 それが果たして幸せなのかと考えると、かなり微妙な気がするのだが、時間は進んでいくのでどうしようもない。
 都市が造られ、循環時間から直線時間にかわり、人は共同体ではなく自分のことを考え出し、世界は変わっていく。
 歴史を書き出して記録に残し、個人救済を考える世界宗教が生まれ、そして科学的態度で世の中の法則を見つけ出そうとする。
 地上にいた荒ぶる神が消え去り、観念的な世界宗教の作り出す「神」が君臨しはじめる。
 巨大王墓の時代が終わると、そういう世界が始まりだした。
 「巨大古墳の記憶」と「デジタル世界」
 そして、王墓時代に夢見ていた「不老不死の世界」はいまやデジタル世界で実現され始めているのかもしれない。そう指摘する。
 そんなことを可能にしたのも、「犠牲になる王」とともに生きていた時代があったからではないか。
 巨大古墳の記憶が、デジタル世界につながっているのかもしれないとの示唆で当書は終わる。
 王とはなにか、世界とは何か、生死とは何か、少しでもそういうことを考えたことがある人なら、当書からは多大な刺激を受けるはずである。
 一読をおすすめする。お急ぎなら4章から読まれていいとおもう。まあ、急いで読む本ではないけどね。
 ……・・
 【さらに詳しく】『「王墓=権力の象徴」説は、なぜ定説となったのか?古代史ミステリーの「定説」を覆す』
 堀井 憲一郎(コラムニスト)
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 2024年5月16日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「王墓=権力の象徴」説は、なぜ定説となったのか?
 古代史ミステリーの「定説」を覆す
 河野 一隆
 「王墓はなぜ築かれたのか」
 エジプトのファラオが築いたピラミッド、中国の皇帝たちが造った山陵など、人類史には王の埋葬のためのモニュメントが数多くある。
 それらは、王が自らの権力を誇示するために築造したと考えられてきた。
 したがって「王墓の大きさは権力の大きさに比例する」「王墓は王の権力の象徴にほかならない」という理解が常識とされており、教科書にもそう書かれている。しかし、それは本当なのか?
 この定説に真っ向から反論した話題の書『王墓の謎』から、王墓が築かれた真の目的をさぐる!
 *本記事は河野一隆『王墓の謎』から抜粋・再編集したものです。
 世界中を魅了する王墓からの出土品
 19世紀後半から20世紀前半にかけて、欧米諸国は、ヨーロッパ文明のルーツの解明を目的とする調査団を、次々に古代オリエント地域に派遣した。古代オリエントとは四大文明に含まれるエジプト、メソポタミアを中心として、パレスチナ、トルコ、イラン高原などを含む、現在の中東に当たる地域である。ヨーロッパから見て東に位置するため、「太陽が昇る地域(オリエント)」と名付けられた。
 ここは文明発祥の地であり、当時、文明と言えばヨーロッパ文明を指していた。だから、古代オリエントは文明の起源を解明できるフィールドとして、欧米各国から数多くの調査団が派遣され、オリンピックのように発掘が競われた。国の威信をかけた大規模な発掘の成果は、本国に送られ、古代の神殿のような博物館の中で、今なお世界中の観光客を魅了している。
 王墓の出土品には、後世に託されたメッセージ性の強い文字資料が含まれることが多い。王の威信を永遠に伝えるために作られた豪華絢爛な美術工芸品や、王がいかに偉大だったかをたたえる記録などだ。発掘調査現場から出土した多量の副葬品は、博物館に持ち帰られ専門家による調査研究が進められた。
 考古学者の夢と錯覚
 その結果、王朝の系譜や当時の社会組織、信仰体系などがパズルのピースを一つずつはめ込むように復元された。それは古代オリエントを舞台として繰り広げられた文明史に新たな一頁を加え、しかもそれは次々に書き換えられた。
 当時の発掘調査に、帝国主義を背景とした植民地調査という負の側面があったのは事実だろう。考古学者が王墓を発見することは国家的な名誉とされ、宗主国の博物館を満足させる多量の収蔵品が獲得でき、文明の起源の解明につながるという良い面ばかりに光が当てられてきた。
 かくして、考古学者たちにとって王墓の発見は夢の頂点に位置づけられるようになり、いつしか考古学は墓を掘る仕事というイメージが形成されるようになった。
 だが、出土品から過去を推理する考古学者が、墓ばかりに注目していて良いわけがない。たとえば、アメリカの人類学者であったG. P. マードックは、さまざまな社会に共通して見られる住居、家族、年齢階層など72の文化要素の比較研究を行っている。このうち葬儀に関するものが文化要素全体に占める割合を調べてみたところ、約5パーセントにすぎなかった。つまり、残る95パーセントに目を向けなければ社会の全体像はつかめないことを、この結果は示している。
 しかし、当時の考古学の主戦場はほぼ埋葬に関連した資料に限定されていた。今にして思えば、副葬品だけで復元される歴史像はかなりいびつであったはずだ。
 考古学ではこのアンバランスを埋め合わせるような格言が語られてきた。「歴史の沈黙せる処は、墳墓之を語る」と。これは、19世紀半ばにエトルリアの文化史をまとめたG. デンニスの言葉で、日本考古学の父、濱田耕作が印象的に言い換えたものだ。
 エトルリアの墓 道の両側に同じような墓が立ち並ぶ共同墓地
 墓は集落遺跡とは異なり、引っ越しに伴う片付けや敵の襲来による攪乱が少ない。無文字社会を研究する場合には、未盗掘であれば、墳墓からの出土品は絶好の研究資料を提供する。考古学者が墓に飛びついたのも仕方なかった。今では強弁のように聞こえなくもないが、この言葉は黎明期の考古学ではたいへんもてはやされた。
 「王墓=権力の象徴」説は、いかにして定説となったのか?
 ただ、少し冷静になって考えれば気づくように、埋葬資料、なかでも王墓や貴族墓のような上流階級の副葬品だけで過去を復元しても正しい社会の姿は見えてこない。この簡単な道理が、なぜか王墓研究では見逃されていた。
 それを象徴するのが、「王墓とは、特定個人が自分の権力を誇示するためのもので、支配した多くの人々を、自らを顕彰するモニュメント造営に強制的に従事させた」と見なす見解だ。これを本書では「王墓=権力の象徴」説と名付ける。
 さらに、研究が進むと、王墓のように豪華絢爛な施設・副葬品を具えた墓と、単純な構造で副葬品を持たない墓を両極とし、その間の墓や副葬品の差の上下を、王から平民に至る当時の身分差と考える研究が流行した。これは、考古学によって社会構造が解明できる画期的な方法論として定着し、かくして「王墓=権力の象徴」説は定説となった。
 しかし、この定説には大した論拠が無く、検証が必要なことを少数の考古学者は早くから気づいていた。けれども、「王墓=権力の象徴」説を助長したのは、私たちにも責任がある。ハリウッド映画などで描かれるような専制的な王こそ、古代世界の王の典型だという先入観にとらわれていたからである。
 「歴史の父」であるヘロドトスは、『歴史』の中でクフ王のピラミッドは10万人の奴隷が20年間働いて築かれたと記している。そのためかどうかは定かでないが、ドラマや映画では鞭を手にした鬼のような現場監督が叱咤して労働者に重い石材を運ばせ、その厳しさに労働者が次から次へと倒れていくような場面が出てくることが多い。
 クフ王(右)とカフラー王(左)のピラミッド
 こうして、「王墓=権力の象徴」というイメージは繰り返し私たちの意識下に刷り込まれ、やがて違和感がなくなった。だから、王墓の被葬者たる「王」や「王様」と聞くと、自らの意のままに強権的に人民を支配した人物像を何の疑問も抱くことなく想像してしまう。巨大な王墓を築き、多くの殉葬や犠牲を伴った古代オリエントや古代中国の王も、そのようなモニュメント造営に多くの人民を徴発できた専制君主に違いないと。
 しかし、はたしてすべての王墓が、人民を奴隷のようにこき使った強制労働の産物だったのだろうか? ファラオが神として信仰された当時、人々はその権力に怖れおののいて、過酷な築造労働へ自ら身を投じたのだろうか? 彼らは反乱を起こすこともせず、何世紀もの間、従順に王墓を造り続けたのだろうか? このような疑問は至極正論である。けれども、「王墓=権力の象徴」説に疑問を抱いた考古学者は少数派にとどまり、定説の声の大きさにかき消され、あまり考古学界で顧みられることはなかった。
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 2024年5月21日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「王墓は、なぜ大型化したり縮小したりするのか
 古代史ミステリーの「定説」を覆す
 河野 一隆
 「王墓はなぜ築かれたのか」
 エジプトのファラオが築いたピラミッド、中国の皇帝たちが造った山陵など、人類史には王の埋葬のためのモニュメントが数多くある。
 それらは、王が自らの権力を誇示するために築造したと考えられてきた。
 したがって「王墓の大きさは権力の大きさに比例する」「王墓は王の権力の象徴にほかならない」という理解が常識とされており、教科書にもそう書かれている。しかし、それは本当なのか?
 この定説に真っ向から反論した話題の書『王墓の謎』から、王墓が築かれた真の目的をさぐる!
 *本記事は河野一隆『王墓の謎』から抜粋・再編集したものです。
 王墓造りは祭礼のようなもの?
 以上の考察を踏まえると、王のための造墓活動は、神に捧げる労働奉仕の意味合いを持つことになる。王墓は王個人のためのものではなく、神へ捧げるための記念建造物だという理解である。
 だとすれば、社会が何世紀にもわたって王墓を競い合うように築造し続けた理由も、ある程度推測がつく。すでに読者の中にもお気づきの方がいるだろう。そう、王墓の築造とは祭礼のような一種の無形文化遺産だったという仮説を、ここで私は提唱したい。
 私の故郷、福岡県の博多では、初夏の風物詩である博多祇園山笠という祭礼が、少なくとも750年以上続いている。その起源は、鎌倉時代に博多に蔓延した疫病を退散させるため、承天寺開祖の聖一国師円爾が施餓鬼棚に棒を付けたものに乗り、祈祷水を散布したことだという。2020年からの新型コロナ感染拡大防止のため、3年間は祭礼の延期や規模縮小を余儀なくされたが、2023年に制限の無い形で再開した。博多の人々は、これでようやく元通りに開催できると喜び、例年以上に張りきったと聞く。
 福岡、博多祇園山笠の飾り山
 7月上旬に巨大な飾り山があちこちに立ち始めると、博多の街は祝祭に包まれる
日本各地には古くから続く祭礼が数多く知られている。不幸なことにケガ人や死者が出たとしても、危険だから止めてしまえという声が大きくなったとはあまり聞かない。中断することで予想される不利益と、続けることで見込まれるリスクを斟酌した結果なのだろうと推測する。もし、奉納先が神ではなく特定の個人だったら、そうはならなかったに違いない。
 ここで祭礼のたとえを持ち出した理由はもう一つある。それは、人々が競い合うことで、社会の要請に応じて内容が変化したとしても祭礼は継続されてきたことだ。
 たとえば山笠を例にとれば、はじめは施餓鬼棚に棒を付けた簡素なものだったが、博多町衆の競争心を刺激しながら、より速く、より高く、より美しく進化した。それは、誰に命令されたからでもないだろう。神への奉納という究極の目的を成就するため、試行錯誤を繰り返しながら現在の形になったのだ。王墓の場合もこれと同じことが言えないだろうか。
 なぜ王墓は拡大と縮小を繰り返したのか
 王のための造墓に携わった人々にとって、王を神へ贈与するための舞台(王墓)をいかに荘厳に仕上げ、他の集団よりも印象的な葬送儀礼を奉納するかの方が重要だった。
 つまり、王墓が競って築かれたのは、過去の王墓より巨大化することを志向したためではなく、同時代の人々にどのように見せるのか(見られるか)の方に力点が置かれたためではなかろうか。
 本書で王墓を「見せる埋葬」と評する背景には、自らの権力や権威を人々に見せつけるという意味以上に、他と優美さや勇壮さを競い合い、それを継続していくことで維持される関係性が社会の分断を防止するといった役割も含まれている。
 したがって、王墓が、常に右肩上がりに巨大化するのではなく、見る側と見せる側の関わり合いの中で拡大と縮小を繰り返すのは何ら不思議なことではない。社会から求められれば規模が拡大し、その必要がなければ縮小することは祭礼の本質でもある。その意味で、王墓や古墳の研究で定説とされてきた、規模の大小をそのまま権力の強弱とする解釈を、深く考慮することもなく当時の社会構造に当てはめることは間違いだと言わざるを得ない。
 以上の検討を踏まえて、王権というメカニズムを創出し王墓を築造し続けた社会を「神聖王権」と名付けたい。はじめて神聖王権という体制と王墓という機構を生み出した社会は、賢明にも、王と神の協力関係を特定個人に固定せず、権力の集中を阻害する社会システムとして機能させていた。
 次章では、今度は富の集中を阻害する社会システムである「威信財経済」について議論する。この「威信財」も考古学者がよく使う用語の一つだが、権力者が自らの権威を誇示するための奢侈品というほどの意味に誤解されている。王や王墓と同じく、この先入観を排除しなければ、王墓を築き続けた社会の本質には迫れない。
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 故安倍晋三元総理が広めた新保守思想によって、敗戦後の日本でエセ保守やリベラル左派の敗戦利得者が広めた戦後民主主義教育における日本人凶悪犯罪者史観・罪悪史観・自虐史観・科学的正当史観などを捨てるべき時が来ている。
 対し、エセ保守やリベラル左派らは、反宗教無神論・反天皇反民族反日の立場から、中国共産党や韓国などの国際的反天皇反日勢力の協力を得て日本正統史観=皇国史観天皇中心史観を否定し歴史の闇に封じ込めようとしている。
 今、知らない所・見えない所で天皇と日本の存亡を賭けた歴史戦が繰り広げられている。
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 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
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 宗教や神話は、その土地の自然環境・人間環境・社会環境などの中で生きてきた人々によって創作された物語である。
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