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旺文社日本史事典 三訂版 「佐伯氏」の解説
佐伯氏 さえきうじ
古代の有力豪族。大伴氏の一族
姓 (かばね) は連 (むらじ) ,八色 (やくさ) の姓制定のとき,宿禰 (すくね) となった。蝦夷 (えみし) の俘囚 (ふしゆう) 佐伯部を率いて宮内の警衛などにあたり,大伴氏とともに軍事をもって大和政権に仕えた。
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日本は、ヤマト王権時代から、ヤマト人(奈良人)以外の多種ような人々が活躍する多様性に富んだ共生社会であった。
活躍した異種の人々は、ヤマト大王(日本天皇)への忠誠心とヤマト王朝(日本国)への愛国心を持っていた帰化人であって、忠誠心と愛国心を拒否した渡来人ではなかった。
ヤマト大王・ヤマト王朝は、忠誠心と愛国心を持って戦う事を拒否した渡来人を「まつろわない(服従しない)」卑しむ賤民(せんみん)として最下層の身分を与えて偏見と差別で虐げた。
つまりは、敵か味方かの二者択一で庶民を分断し、それが現代日本にまで受け継がれ、敵とされた賤民には何時の時代でも反天皇反民族反日本の外国勢力が味方していた。
国内の戦乱を鎮める為に、ヤマト大王・ヤマト王権は敵対勢力を討ち滅ぼして日本統一を成し遂げ、戦乱の火種であった外国勢力を国内から排除した。
それ故に、反天皇反民族反日的日本人は天皇による日本統一に猛反対する。
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蝦夷には2種類いて、ヤマト王権に帰順した蝦夷と徹底抗戦した蝦夷である。
徹底抗戦派の蝦夷は、戦いに敗れ捕らえられると俘囚 (ふしゆう)として日本全国に分散して移住させられ、地元住民に武器の扱い、騎乗の技術、戦いの方法を教えた。
武士は、こうして誕生した。
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関東農政局
さらに詳しく俘囚の乱と中世への歩み
奈良時代から平安時代、当時の東北地方には、まだ朝廷の支配下に入っていない蝦夷(えぞ)と呼ばれる人々が多く残っており、独自の生活や文化を続けていました。朝廷が東北進出を進める過程で捕虜となった蝦夷は「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれ、関東地方にも数多くの俘囚が移住させられたといわれています。9世紀の関東では、上総(かずさ)、下総(しもうさ)を中心に、この俘囚の反乱が相次ぎました。
俘囚の反乱は、処遇の改善を要求したものだったと考えられていますが、上総、下総で頻発した理由は定かではありません(俘囚自体は全国に分散していた。)。しかし、反乱が頻発したことで、関東は少なからず混乱し、その後の武士の乱、つまり平将門の乱、平忠常の乱が起こる状況がつくりだされたものと想像できます。
11世紀、平忠常の乱の舞台となった上総、下総、安房(あわ)の房総三国は、乱後には「亡国」と表現されるほど荒れ果てたといいます。それまでに開墾されていた農地も荒野と化したようです。しかし、この乱を起こした忠常の子孫たちによって、上総、下総の農地は再び拓かれ、荘園が形成されていきました。荘園開発で力をつけた彼らは、上総氏、千葉氏へと成長し、戦国大名北条氏が進出してくるまで、上総、下総の中世を担うことになります。
お問合せ先
農村振興部設計課
ダイヤルイン:048-740-0541
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農村振興部設計課「王臣子孫。蝦夷。俘囚。
平安武士と蝦夷
平安貴族が都で優雅な暮らしを送っていたとき、東北で朝廷に戦いを挑んだ蝦夷たち。名将・アテルイの戦術と蝦夷と源氏・平家など武士との知られざるかかわりを調査!
関東農政局
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さらに詳しく俘囚の乱と中世への歩み
奈良時代から平安時代、当時の東北地方には、まだ朝廷の支配下に入っていない蝦夷(えぞ)と呼ばれる人々が多く残っており、独自の生活や文化を続けていました。朝廷が東北進出を進める過程で捕虜となった蝦夷は「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれ、関東地方にも数多くの俘囚が移住させられたといわれています。9世紀の関東では、上総(かずさ)、下総(しもうさ)を中心に、この俘囚の反乱が相次ぎました。
俘囚の反乱は、処遇の改善を要求したものだったと考えられていますが、上総、下総で頻発した理由は定かではありません(俘囚自体は全国に分散していた。)。しかし、反乱が頻発したことで、関東は少なからず混乱し、その後の武士の乱、つまり平将門の乱、平忠常の乱が起こる状況がつくりだされたものと想像できます。
11世紀、平忠常の乱の舞台となった上総、下総、安房(あわ)の房総三国は、乱後には「亡国」と表現されるほど荒れ果てたといいます。それまでに開墾されていた農地も荒野と化したようです。しかし、この乱を起こした忠常の子孫たちによって、上総、下総の農地は再び拓かれ、荘園が形成されていきました。荘園開発で力をつけた彼らは、上総氏、千葉氏へと成長し、戦国大名北条氏が進出してくるまで、上総、下総の中世を担うことになります。
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佐伯氏(読み)さえきうじ
改訂新版 世界大百科事典 「佐伯氏」の意味・わかりやすい解説
佐伯氏 (さえきうじ)
(1)日本古代の氏族。大伴氏とともに大和政権の伴造(とものみやつこ)として,代々武力をもって朝廷に奉仕した。中央の佐伯氏(佐伯連)は,所伝では大伴氏と同祖で,5世紀後半の雄略朝ころの大連大伴室屋(むろや)の後裔とされ,684年(天武13)には宿禰姓を賜った。元来佐伯氏は,内国に移配された蝦夷で宮廷警衛の任にあたる佐伯部を管理する氏であったとみられ,中央では佐伯連が,地方では諸国の国造の一族である佐伯直(あたえ)がこれを管理した。《延喜式》等によれば,中央の佐伯氏は大伴氏とともに門部(かどべ)をひきい,大嘗祭や元日,即位などの大儀にさいし諸門の開閉・警衛に奉仕した。宮城十二門のうち,西面中央の門が818年(弘仁9)に藻壁門と改称されるまで佐伯門と称されていたのは,佐伯氏が代々朝廷警衛にあたっていたその名を負ったものである。645年(大化1)の蘇我入鹿暗殺事件に佐伯子麻呂(こまろ)が中大兄皇子のもとで活躍し,また元明朝の709年(和銅2)佐伯石湯(いわゆ)が征越後蝦夷将軍に任命されるなど,7~8世紀には佐伯氏の武門としての伝統に応じた活躍がみられた。宮城警衛の任にあたる五衛府の督・佐となる者も多く,律令官人として行政面に活躍する者もあった。しかし8世紀の後半になると,757年(天平宝字1)の橘奈良麻呂の変に陸奥守佐伯全成(またなり)が連座して自殺し,785年(延暦4)の藤原種継の暗殺事件にも関与するなど,大伴氏などと結んで藤原氏の政権に対して武力による転覆を企てることがしばしばあり,ために佐伯氏はかえってその政治上の地位を失った。9世紀には武門としての伝統も衰退し,しだいに上級官人層からは脱落した。
執筆者:笹山 晴生(2)安芸の豪族。厳島社神主家。《日本書紀》景行紀によれば,日本武尊の東征の際,俘虜として連れ帰った蝦夷を播磨,安芸,阿波,讃岐,伊予などに分置したのが佐伯部の起りとされている。安芸の佐伯氏は国造に連なる雄族として古くより厳島神社の祭祀権を担い,律令制下では佐伯郡司に任じられ,代々厳島社神主を世襲するとともに,一族を安芸国衙に分出させる(在庁官人田所氏)など,勢力を築いた。平安末期,平氏の後楯を得てかつてない権勢を振るった厳島社神主佐伯景弘は,同氏を代表する人物であった。承久の乱後,神主の地位は幕府御家人藤原氏にとってかわられるが,その後も一族は社家として存続をみた。なお讃岐の佐伯直氏からは,平安初期に僧空海が現れた。
執筆者:角重 始
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「佐伯氏」の解説
佐伯氏 さえきうじ
古代氏族の一つ。名の語源は「塞(さえ)ぎる」で防守の意とする説が有力。佐伯部の祖は,景行朝に播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波各国に移された服属蝦夷(えみし)と伝えられる。瀬戸内諸地域におかれた佐伯部を国造(くにのみやつこ)級地方豪族の佐伯直(あたい)が管理・統率して上番し,さらに中央でそれらを佐伯連(むらじ)が管掌しておもに軍事的任務についたと考えられる。連姓の佐伯氏は大伴室屋(むろや)の後裔で大伴氏とともに宮門を護衛したとされ,同族意識が強い。宮城十二門の一つに佐伯門がある。684年(天武13)に宿禰(すくね)姓を賜った。軍事力をもって活躍した人物が多いが,9世紀以降衰えた。直姓佐伯氏は景行天皇の子の稲背入彦(いなせのいりひこ)命の後裔とされ,地方豪族が主であり,9世紀以降宿禰姓を賜った者もある。厳島神社祠官の佐伯氏はこの系統か。ほかに造・首(おびと)姓がある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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ウィキペディア
佐伯直(さえきのあたい)は古代日本の氏族の佐伯連が賜った姓。
「佐伯氏」および「佐伯部」も参照
『日本書紀』によれば、部民としての佐伯部は、もともと東国人の捕虜であったが騒がしいことを理由に景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5か国に送られたのがその祖であるとの起源を伝える。これらを統率したのが佐伯直である。従って、佐伯直(佐伯連) ― 佐伯氏 ― 佐伯部 という階層関係がある。
古墳時代の中頃(5世紀から6世紀)には、東国人の捕虜を上記5か国に移住させ、佐伯部として設定・編成したのは事実のようで、「佐伯直」や「佐伯造」といった在地の豪族が伴造としてこれを管掌し、これら地方豪族がさらに畿内の中央豪族佐伯連(後に宿祢に改賜姓された)に管掌されたため、佐伯部は間接的に中央佐伯氏の部民とされ、その中からは宮廷警衛の任務に上番させられた者もいたとみられている。
針間別佐伯直を祖とする佐伯氏
景行天皇の皇子・稲背入彦皇子の後裔氏族で、成務天皇の時代に同皇子の子である御諸別命(針間別命)が播磨国に封ぜられて以来、氏名を「針間別(はりまわけ)」とし、応神天皇が播磨国に行幸した時に、同国の佐伯部を御諸別命の子である針間国造の伊許自別命(阿良都命)に伴造として管掌させるとともに、「針間別佐伯直」と改賜姓したが、天智天皇9年(670年)の庚午年籍作成に際して、「針間別」の3字を除いて「佐伯直」と称するようになったという。
讃岐、伊予、安芸、阿波に封じられた佐伯部または佐伯直を祖とする佐伯氏
古墳時代の中頃に播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5か国に設定された佐伯部(詳細は佐伯部を参照)の中、上記播磨を除いた各地の佐伯部を伴造として率い、また、各国の国造にも任ぜられた。ちなみに、空海は讃岐の佐伯氏出身[注釈 1]であり、安芸国の佐伯氏は後に厳島神社の神主家となった。
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一色辞書
周桑郷、庄屋・地主達の系譜
愛媛県西条市
◎佐伯氏
○ 佐伯氏は豊後の大族大神氏の一族です『平家物語』によれば、大神氏の祖大太(惟基)は高知尾明神の神子となっています.
源平時代、惟基五代の孫緒方三郎惟栄(惟義)は平氏に属したことから常陸に配流され、のち赦されて佐伯庄に住し、その子孫が佐伯氏を名乗ったとされています。
媛には佐伯氏直系と思われるご子孫が幾つかあります。
名前が歴史上出てくる時期が重なるのし名前からしても下記の方々は同じ一族と考えられます。
余談ですが豊臣秀吉の四国制覇で主君をなくした武士達が小早川隆景の支配下に入り、中国、九州へと渡り佐伯氏の子孫を広げていったようです。
適塾の緒方洪庵(緒方姓は元は佐伯)の出自もご先祖様が四国経由で備中足守藩に仕えたという説もあります。
下記の佐伯さんは元々豊後国佐伯庄の人です。
① 東予の佐伯さんの始祖は佐伯伊賀守惟之(戦国末期の周布郡旗頭黒川氏のお旗下組(大熊城)ご子孫は小松藩の武士や庄屋を務めました。
大熊城は現在の東温市川内町則之内にあり戒能備前守通森居城であったが大除城主大野紀伊守利直が戒能氏を攻め周布郡の黒川氏が興力し黒川氏旗下の佐伯伊賀守惟之の居城とした。
② 佐伯川内守惟重 この人は伊予守護河野家の足軽大将を務めた人で東温市河内の七森城を居城としていました。
③ 佐伯十兵衛惟善 この方は山方旗頭大除城主 大野山城守直昌の旗下で高森城で土佐、長宗我部元親の侵入を防ぐための番城(久万高原町美川)城主(戦国末期)をしていました。
④ 佐伯惟教・子 惟真・孫 惟照
豊後(大分県)では弘治2年(1556)「氏姓遺恨事件」が勃発し惟教はも真っ先に主君大友氏に疑われ厳しい追及を逃れる為、父と子の惟真他一族と共に豊後水道を渡り惟教の妹の嫁ぎ先である伊予国八幡浜萩森城の主である宇都宮房綱の元へ逃亡してきました。
惟教一行が八幡浜へ渡った弘治2年(1556)9月、宇都宮豐綱が西園寺実充と境界紛争を起こし西園寺実充の子が戦死した。
この時西園寺氏側についた(宇都宮房綱は西園寺側)佐伯惟真は西園寺氏の厚遇を得て野村の白木城主宇都宮乗綱の知行四五貫で被官となった。
12年後(1568)惟教、惟真らは豊後佐伯への帰参が叶えられましたが、豊後は西園寺氏らの敵国にあたり白木城主宇都宮乗綱の恩義に報いるため惟実の長男、惟照(緒方蔵人)、を人質に置き去りにした。
豊後へ帰参した惟教と惟実は天正6年(1578)日向高城川原の戦いで戦死した。
残された惟照(緒方藤蔵人)は白木城代から城主となり野村を支配した。天正13年(1585)には秀吉の四国制覇により西小早川隆景の指揮下に入り天正15年には九州平定に出征し豊後国築城郡除原の戦いで軍功があり藤蔵人に任じられたが野村町に帰り帰農した。
二男惟定最初河野家は宇和島藩主となった藤堂高虎に仕え
慶長19年(1614)以降は伊達家の支配下で子孫は代々与次兵衛を襲名し野村の庄屋を務めた。
野村佐伯氏は同族の緒方氏や白木氏を名乗り、天明8年(1788)緒方源治は酒製造業(現在の白川町にある緒方酒造に継る)を始め野村代官を努め御徒士各を与えらた。
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ウィキペディア
俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、蝦夷征伐などの後、朝廷の支配に属するようになった者を指す。夷俘とも呼ばれた。
また、主に戦前戦中には戦時捕虜の身分にあるものも俘囚と呼んだ。
移配俘囚
7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争(蝦夷征伐)で、大和へ帰服した蝦夷のうち、集団で強制移住(移配)させられたものを指す。
移住させた目的としては、下記のようなものがあった。移住先は九州までの全国に及んだ。
蝦夷自身が、同族から裏切り者として、報復や侵略される危険性があったため、生命の安全と生活の安定化を望んだ。
故地(陸奥・出羽)から切り離し公民意識から皇化し、和人へ同化させようとした。
軍事力の備えとして利用しようとした。
朝廷は国司(受領)に「俘囚専当」を兼任させ、俘囚の監督と教化・保護養育に当たらせた。俘囚は、定住先で生計が立てられるようになるまで、俘囚料という名目で国司から食糧を支給され、庸・調の税が免除された。しかし実際に移配俘囚が定住先で自活することはなく、俘囚料の給付を受け続けた。俘囚は、一般の公民百姓らとは大きく異なる生活様式を有しており、狩猟および武芸訓練が認められた。俘囚と公民百姓との間の摩擦などの問題を抑止するために、812年(弘仁3年)、朝廷は国司に対し、俘囚の中から優れた者を夷俘長に専任し、俘囚社会における刑罰権を夷俘長に与える旨の命令を発出している。
9世紀半ば、各国内の治安維持のための国司(受領)の指揮による国衙軍制へ移行したが、移配俘囚は主要な軍事力として位置づけられた。
870年2月15日、貞観の入寇に対抗するため、朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備したが、在地から徴発した兵は役に立たないことが分かった。これを受けて朝廷は俘囚を動員することとした。弓術と馬術に優れた蝦夷は、徴用された防人よりも戦闘能力が高いと評価された。
9世紀、移配俘囚が次第に騒乱を起こし治安が悪化した。例えば、813年頃の出雲国「荒橿の乱」、875年の「下総俘囚の乱」、883年の「上総俘囚の乱」(寛平・延喜東国の乱)などが起きた。これらの原因は、俘囚らによる処遇改善要求であったと考えられている。
これに対して、当初は、新羅の入寇など九州の防衛に人手が必要だったこともあり、移配俘囚の制度は維持されていたが、最終的に、朝廷は、897年(寛平9)、全国の移配俘囚を奥羽へ還住することを決め実行された。
奥羽俘囚
大和へ帰服した蝦夷のうち、陸奥・出羽にとどまった者を指す。
同じ地域の和人とは異なり、租税を免除されていたと考えられている。彼らは陸奥・出羽の国衙から食糧と布を与えられる代わりに、服従を誓い、特産物を貢いでいた。俘囚という地位は、辺境の人を下位に置こうとする朝廷の態度が作ったものであるが、俘囚たちは無税の条件を基盤に、前記の事実上の交易をも利用して、大きな力を得るようになった。これが、俘囚長を称した安倍氏 (奥州)、俘囚主を称した出羽清原氏、俘囚上頭を称した奥州藤原氏の勢威につながった。
しかし、奥州藤原氏の時代には、俘囚は文化的に他の日本人と大差ないものになっていたと考えられる。奥州藤原氏の滅亡後、鎌倉幕府は関東の武士を送り込んで陸奥・出羽を支配した。俘囚の地位を特別視するようなことは次第になくなり、歴史に記されることもなくなった。
なお、海保嶺夫(1943年 - )は中世津軽地方の豪族安東氏を俘囚長と同様の存在としている。
俘囚となった和人
『続日本紀』神護景雲3年(769年)11月25日条に、元々は蝦夷ではないのに俘囚となってしまった例が記述されている。陸奥国牡鹿郡の俘囚である大伴部押人が朝廷に対し、先祖は紀伊国名草郡片岡里の大伴部直(あたい)といい、蝦夷征伐時に小田郡嶋田村に至り、住むようになったが、その子孫は蝦夷の捕虜となり、数代を経て俘囚となってしまったと説明し、今は蝦夷の地を離れ、天皇の徳の下で民となっているので、俘囚の名を除いて公民になりたいと願い出たため、朝廷はこれを許可したと記される。
神護景雲4年(770年)4月1日条にも、父祖は天皇の民であったが、蝦夷にかどわかされ、蝦夷の身分となってしまったという主張があり、敵である蝦夷を殺し、子孫も増えたため、俘囚の名を除いてほしいと願い出たため、朝廷がこれを許可している。
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