🗾12〕─4・C─3万6千年前・旧石器時代の福知山市夜久野町井田の稚児野遺跡の調理場跡。~No.61 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2024年8月2日 YAHOO!JAPANニュース 両丹日日新聞「3万6千年前・旧石器時代の調理場跡、京都府内初出土 食材を焼き石で加熱/福知山市・稚児野遺跡
 今回の調査で発掘された礫群
 京都府福知山市夜久野町井田の稚児野遺跡で、旧石器時代の調理場跡とされる「礫群(れきぐん)」などが出土した。発掘調査をする府埋蔵文化財調査研究センターが1日に発表した。府内では初の発見といい、約3万6千年前(後期旧石器時代前半)の人々の暮らしを知る貴重な成果となった。
 2020年に国内最古級、日本に人類が初めて渡来したころの後期旧石器が700点出土している
 稚児野遺跡は、国道9号夜久野トンネルそばにある牧川に張り出した標高104メートルの台地上にある遺跡。国道改良工事に伴い、国土交通省福知山河川国道事務所の依頼を受け、埋文センターが調査を行っている。
 2020、21、23年度に行った調査で、計1400点以上の石器が出土していて、府内では出土点数が最も多い後期旧石器時代の遺跡と判明している。
 石器が集中して出土する範囲は「ブロック」と呼ばれ、稚児野では谷地形を挟んで東西2つのブロック群に分かれている。今年度の調査では、20年度の調査で発掘した東ブロック群の続きが見つかった。
 遺跡から出土した時代を裏付ける石器
 また、木の葉などで包んだ食材の周りに焼けた石を置いて加熱調理をする調理場と考えられている「礫群」も新たに発見され、府内では初確認となった。見つかった礫群の位置はブロック群から5メートルほど離れた場所にあり、埋文センター調査課の中川和哉課長補佐(63)は「当時の人たちは調理や石器製作など、作業内容によって場所を分けていたのではないかと考えられる」と話す。
 今年度の調査で出土した石器は約250点。後期旧石器時代前半に特徴的な「ナイフ形石器」「刃部磨製石斧」などが礫群のそばで見つかっており、いずれも約3万6千年前のものとされる。石材には地元で入手可能なシルト岩のほか、奈良県大阪府の境にある二上山周辺で採れるサヌカイトも使われていて、当時の石器人が広範囲に移動していたことが推測できるという。
 中川課長補佐は「旧石器時代の遺跡が少ない近畿北部地域において、今回の発掘成果は当時の暮らしを知る上で貴重な成果であると思います」と話していた。
 3日午前11時から現地説明会がある。申し込み不要で誰でも参加できる。
 現場周辺に駐車場はないため、近くの夜久野町教育文化会館の駐車場を利用する。駐車場から遺跡までは徒歩15分ほど。
■6日から市立図書館で出土品を展示
 これまでに行われた発掘調査で出土した旧石器時代の石器など約30点を市教委が展示する「ロビーで文化財 夜久野町稚児野 旧石器遺跡の発掘展」が、6日から駅前町の市立図書館中央館2階サービスカウンター前である。18日まで。
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 2020年11月27日 両丹日日新聞「夜久野で国内最古級の後期旧石器700点出土 広範囲移動か、隠岐産黒曜石も
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは26日、福知山市夜久野町井田で発掘調査を進めていた稚児野遺跡で、石器群が見つかったと発表した。国道9号付近の約3300平方メートルの台地から、時代を裏付ける指標となるナイフ形石器など、後期旧石器時代の約700点が出土し、約3万6千年前の遺跡と推測できる。これは府内では京丹後市の上野遺跡と並ぶ最古、国内でも最古級という。
 稚児野遺跡は、牧川と畑川に挟まれた標高104メートルに位置する。1981年に行った初めての発掘調査では、平安時代の遺跡と確認されていた。
 ところが、国道9号の夜久野トンネルのオープンカット工事に伴い、昨年6月から約3300平方メートルを対象に本格的な調査を進めたところ、約3万年前、鹿児島湾にある姶良カルデラの噴火で飛来して形成された火山灰層の下から、相次いで石器が見つかった。
 調査区域内には、石器がまとまって出土する直径7メートルから10メートルほどの集中部が9カ所ほど見られた。多くの集中部から作業台に使われたと思われる台石やたたき石が確認され、一帯に作業時に出たと思われる石片が散らばっていた。石器の加工場として機能していた可能性があるという。
 出土品の中からは、狩猟のための槍先に使った「ナイフ形石器」、動物の皮なめしなどに使った「掻器」、物を削る際の「削器」、刃の部分を磨いた「石斧」など、合わせて10点が原形をとどめた状態で見つかった。
 他の石片も含め、石材にはチャートや頁岩のほか、遠く離れた島根県隠岐諸島産の黒曜石、奈良県大阪府の境にある二上山周辺から運ばれたと思われるサヌカイトも使われていた。
 後期旧石器時代は、日本に人類が初めて渡来したころも含まれ、当時の遺跡は日本最古といわれる。とくに関東地方で多く発見されているが、府内では京丹後市の上野遺跡に次ぎ、稚児野遺跡が2例目。
 埋文センターの中川和哉参事と黒坪一樹調査官は「遺跡の規模が大きく、出土数も多い。旧石器人は季節に応じて移動しながら暮らしていたといわれ、ここで狩猟道具を作りながら、(今でいう)キャンプ生活をしていたと考えられます。遠方の石材も一部に使われており、旧石器人が広範囲に行き来していた証拠となり、貴重な成果です。今後、範囲を拡大して調査を進め、他の日本海側の遺跡群との関連についても調べたい」と話している。
■化石・郷土資料館で出土品の一部展示■
 新型コロナウイルスの感染拡大予防のため現地説明会はしないが、出土品の一部を28日、29日、12月5日、6日に夜久野町平野の道の駅、農匠の郷内の夜久野町化石・郷土資料館に展示する。開館は午後1時から同5時(入館は午後4時30分)まで。入館料は大人110円、中学生以下無料。
 写真上=約3万6000年前の石器が出土した稚児野遺跡
 写真下=時代を裏付けるナイフ形石器などが出土した
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 日本の歴史には、科学的遺伝子的な人類史と民族的な神話物語が存在する。
 科学的遺伝子的人類史において、日本民族は数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住み着いていた先住民つまり日本土人であった。
 日本民族は有宗教有神論であるが、日本人は無宗教無神論である。
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 日本の民族神話は、古代遺跡の廃墟化したローマ・ギリシャ神話・エジプト神話・ペルシャ神話・マヤ神話や痕跡のない物語化した北欧神話ギルガメシュ神話とは違い、現代の日本列島に生命力を持って息づき、神話と繋がっている一族である天皇・皇室が存在している生きた神話である。
 天皇・皇室が男系父系として皇位を継承してきたのは、生きた民族神話(民族主義の源泉)を正統根拠としてきたからである。そこには、民族主義を破壊する女系母系を正当とする皇位継承は排除されてきた。
 男系父系天皇・皇室の正統性は、神話宗教にあった。
 日本民族の神話は、数千年前の弥生時代古墳時代にある意図を持って作られた創作であり、自然崇拝と女性神を中心とした八百万の神々という多神教の物語であった。
 自然宗教多神教は文明度の低い未完宗教であり、啓示宗教の一神教は文明度が高い完成宗教である。
 未完宗教である多神教を滅ぼすのは、完成された啓示宗教の一神教と反宗教無神論マルクス主義共産主義である。
 それ故に、日本には政治的な利害の一致を持つ友好国、同志国、同盟国はいても、宗教的な良き理解者としての友人、親友、仲間は地球上には存在しない。
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2023-11-12
🕍3:─1─「移民」と日本人。「神はあなた(異教徒日本人)を殺す」。~No.8 
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 2024年6月6日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「日本人はどこから来たのか…カオスな世界を理解するために生まれた「人類学の本質」

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 「人類学」という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。聞いたことはあるけれど何をやっているのかわからない、という人も多いのではないだろうか。『はじめての人類学』では、この学問が生まれて100年の歴史を一掴みにできる「人類学のツボ」を紹介している。
 ※本記事は奥野克巳『はじめての人類学』から抜粋・編集したものです。

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 【画像】「クソどうでもいい仕事」はこうして生まれた
 イギリス、アメリカ、フランスの違い
 いわゆる「人類学」と呼ばれるこの学問分野は、成立の背景の違いから、国や地域によって名称が少しずつ違っています。あるいは同じ名称が国によって別の意味で使われたりしているので、紛らわしいのです。
 人類学(Anthropology)は、ギリシア語の「人間anthropos(アントロポス)」と「学logy」からなり、「人間についての研究」を意味します。イギリスでは、人類学は「自然人類学」、「先史考古学」、「社会人類学」の3つによって構成されます。
 まず「自然人類学」は、皮膚や眼の色、身体各部のサイズや骨格、指紋や血液型などの身体的特徴を比較分類しながら、系統関係や変化を考える分野です。理系的な分野だと言えるでしょう。「先史考古学」は、遺跡から出た土器やそれと一緒に発見された動物の骨や植物の種子などを調べて、先史時代の人間を再構成するものです。そして「社会人類学」は、文字通り地球上に存在する諸民族の社会や文化の研究を行う分野です。イギリスの社会人類学では、伝統的に家族、親族、婚姻や集団の問題に重点が置かれてきました。
 これがアメリカに渡ると、これらの3つの領域の他に言語学(言語人類学)が加わります。言語学は、人間の持つ言語の能力やそれぞれの言語の特徴に関する研究です。アメリカでは、イギリスで社会人類学と呼ばれている分野を「文化人類学」と呼びます。私たち日本人にとっては、この文化人類学という言い方のほうが、なじみがあるかもしれませんね。
 これに対しフランスでは、社会人類学文化人類学は一般に「民族学」と呼ばれてきました。日本語だとミンゾクガクという同じ音で「民俗学」という学問もあって紛らわしいのですが、フランス語では民族学をEthnologie、民俗学をFolkloreと呼ぶので間違いようがありません。
 人類学の起源
 民族学とは自民族以外の民族(ethnos)を研究する学問で、民俗学は自民族の言語や社会生活を調査・研究する学問です。民俗学は、日本においては河童の伝説を取り上げたことで有名な『遠野物語』の著者・柳田國男によって始められた学問として知られています。
 このように、イギリスやアメリカでは諸民族の文化だけではなく、生物学的なヒトの形質も含めて探究する学問が人類学と呼ばれてきました。隣接し合った学問どうしの総合化という意識を持っている研究者は、いわゆる文化人類学を中心にやっていても、自らを「人類学者」と名乗ることもあります。私自身も、そっちの範疇に入ると思っています。
 人類そのものや人間の文化を扱う研究領域がどの時期に、どのようにして現れたのかに関しては諸説あります。ですが15世紀以降、ヨーロッパがそれまで経験したことがなかった規模で「外の世界」と出合ったことが契機になったのは間違いありません。
 ヨーロッパで絶対主義国家が興隆し、重商主義が発展したことで、15世紀末に大航海時代が始まりました。ヨーロッパは、海の向こうの未知なる「他者」たちに出合ったのです。その意味で人類学は、その歴史の始まりからして「他者」についての学問という性格を持っていました。
 人類学の起源に関して、もうひとつ重要なこととして、ヨーロッパにおける人間の本質や人間社会の成立への関心の高まりが挙げられます。
 ルネサンス期後半(16世紀)から啓蒙主義時代(18世紀)にかけて、国家というものが存在しない自然の中に置かれたら、人間はどのように暮らしていくのかという、「自然状態」に対する関心が高まったのです。
 17世紀を生きた哲学者トマス・ホッブズは、自然状態に近い社会では、人間の本性がむき出しになり「万人の万人に対する闘争」が起きると唱えました。そして、その状態を治めるために社会契約を結んで、国家がつくられたのだと説きます。これを「社会契約説」と呼びます。この言葉を聞いたことがある読者もいるでしょう。
 一方、18世紀の政治哲学者ジャン=ジャック・ルソーは、自然状態の人間とは、自己愛と同情心以外の感情は持たない無垢な精神を持つ存在だと捉えました。
 ルソーよりも20年あまり早く生まれたのが、啓蒙思想家のシャルル・ド・モンテスキューです。1721年の『ペルシャ人の手紙』は、架空の2人のペルシャ人の旅を描いている点で、後の「民族誌」の先駆けであったとも評されることがあります。1748年の『法の精神』は、政府の形態や諸国民の気質に気候が与える影響に関して、世界中の事例を用いて考察しています。
 さらに連載記事〈日本中の職場に溢れる「クソどうでもいい仕事」はこうして生まれた…人類学者だけが知っている「経済の本質」〉では、人類学の超重要ポイントを紹介しています。
 奥野克巳
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