🗻21〕─1─沼津市の東西最古級の高尾山古墳で“東海勢力”。古代王国による弥生の大乱。~No.68No.69No.70 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 古代日本の四大王国とは、大和、吉備、筑紫、出雲であった。
 日本全国には大小数多くの王国があり、王国同士は戦争を繰り返して殺し合っていた。世に言う「弥生の大乱」である。
 西日本と支配したヤマト王権にとって、東日本はヤマト大王に従わない蛮族の土地であり抵抗する蛮族は「まつろわない(従わない)」人々であった。 
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 2024年8月2日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「工事中に発見された高尾山古墳の謎 東西最古級の古墳から考える“東海勢力”が存在した可能性
 日本列島に広く王権を広げて、やがて飛鳥時代奈良時代へと発展していく大和王権に私たちは目が行きがちですが、古墳を造り始める3世紀の東日本にも注目するべき遺跡があります。
■道路工事現場から発見された高尾山古墳が示す古代史解明の可能性
 日本列島に国を開いた大和王権の履歴は、『古事記日本書紀』の主役ですから、わが国の古代史を研究するとき、どうしても近畿地方から西の地域が主体になる傾向にあります。
 それは致し方ないことですしその研究は本道ともいえますが、四国や北陸、東海・関東から東日本の研究は、それぞれの地域では進んでいても体系的全国的にはあまり勢いを感じないような気がします。
 しかしながら開発が進むと、どこにでも思いもしない大発見があるのが考古学の醍醐味です。最近の調査研究で、静岡県沼津市の道路工事現場から発見された全長約62mの高尾山(たかおさん)古墳に私は注目しています。
 慢性的な渋滞解消のためのバイパス工事中に、昔から遺跡ではないかといわれていた高まりを事前調査した結果、実に重要な前方後方墳であることがわかったのです。
 この古墳は未盗掘の竪穴直葬木棺墓だったので、石製品や金属製品、土器などが埋葬時の様子を残して発掘されました。
 検出されたのは、遺体の頭部付近に割れた銅鏡1点、胸のあたりから石製の小型勾玉が一つ、両脇から鉄剣もしくは槍身が2点、鉄鏃(てつやじり)32個及び小型の鉄製槍鉋(やりがんな)1点などで、大型の壺破片や土器の破片が多数出ています。
 まだ研究の最中ですが、問題はこの古墳の被葬者が埋葬された時代の特定仮説です。もしかすると纒向遺跡の箸墓よりも少し古いか、同年代ではないか? という説が出てきました。それは剣を槍先に転用したかもしれないと考えられている70cmほどもある鉄製品のデザインなどからの推定です。弥生時代の青銅剣の刀身にみられる長い溝が施されている鉄剣だった可能性があり、柄付けの部分には、やはり弥生時代にみられる特徴が2か所あったのです。
 そのうえ一枚出てきた銅鏡は、2世紀ごろに中国で生産された上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいうきぼりしきじゅうたいきょう)いう、直径13.5cmの破鏡でした。
 「破鏡(はきょう)」というのは主に弥生時代終末期から古墳時代初期にみられる鏡で、わざわざ割ってから副葬するという風習によるものです。
 また墓内から出土した土器や周溝から大量に出土した土器の慎重な編年研究で、3世紀半ばには築造されていたのではないかと考えられているそうです。3世紀半ばといえば、大型前方後円墳の最古級だと考えられている箸墓の築造年代と同じか、少し古い可能性が出てきたのです。
 そして注目されるのは出土する土器類の特徴から、わりと多く発見される外来土器の中では畿内土器が全く無く、北陸や近江、東海西部、関東の特徴を持つ物が多いということです。これは非常に重要なことで、3世紀の沼津市周辺地域が畿内王権と無関係だった可能性を示唆しています。
 ということは、沼津市の高尾山古墳という前方後方墳畿内の王権文化と直接交流すること無く築造されたということになります。この地域に大和王権の影響が表れてくるのは、古墳時代前期後半以降だそうです。もちろんまだ結論に達するまでには長い研究が必要でしょうが、現状ではそういう仮説が成り立ちます。
 しかしここで私が行き詰まるのは、「前方後方墳前方後円墳の違いはあるが、基本デザインは同じではないのか?」ということなのです。
 自然発生的に前方部付帯型の古墳が出現するものでしょうか? もしもそうなら、3世紀のはじめ頃に全く同じ最新の文化と思想を携えた渡来集団が東西に到着してそこに定着したとしか思えませんが、前方部付帯型の古墳は日本列島独自のものですから、これも納得しがたい話になります。
 まだ全くわからない問題なのですが、ひとつヒントになりそうなのは、外来土器の中で東海西部の物があるということではないでしょうか? また前方後方墳の発祥地域が、東海西部地域だと考えられている点です。東海西部とは、今の愛知県から岐阜県の一部にかかる濃尾平野一帯の地域を指します。
 奈良県纏向遺跡も外来土器が多いので有名ですが、やはり東海土器が特筆するほど多いのです。こうなると、東西両文化に大きく影響を与えた勢力が東海地方にあって、前方部を付帯するデザインの発明もこの地域だったのかと考えてしまいます。
 いよいよ以前から私が提案している「東海地方の発掘と研究が急務だ」という話になるのです。弥生時代に相当発達した邑国が現在の愛知県あたりにあったはずだと思えてなりません。新文化を携えた渡来集団は、日本海側に上陸して温暖な気候を求めて陸上を移動し居住地を広げたでしょう。その上陸地点は北九州ばかりではなかったはずです。
 最新のゲノム研究でさまざまなことがわかってきましたし、日本史を列島内で完結するかのような研究ではなく、大きくとらえて考える時が来たのだと思います。
 縄文から弥生、そして古墳時代へと進化していくプロセスを、少なくともグローバルなユーラシアでの人類の流れと交流で考える時が来たのだと考えています。
 柏木 宏之
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 ヤマト王権による日本統一は、大陸戦争の影響を受け、中華世界の侵略から日本を守る為に必要な内戦であった。
 それ故に、ヤマト王権・大和王朝は日本は欠かせない政権であり、ヤマト大王・日本天皇は余人では代えられい指導者であった。
 故に、国内外の反天皇反民族反日本勢力は、ヤマト王権による日本統一を否定し、日本天皇を殺そうとしてきた。
 もし、日本がヤマト王権ヤマト大王・日本天皇によって統一されなかったら、日本国は成立せず日本民族は生まれず、中華帝国に占領されて中国の一部となったか、さもなくば朝鮮半島と一体化していた。が、それを望む日本人が日本国内に存在している。
 彼らの多くが、メディアや教育現場に存在する。
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 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではなく、絶えず中国大陸や朝鮮半島からの軍事侵略という脅威に晒されていた。
 日本は、中国大陸や朝鮮半島という中華文明圏を拒否していた。
 古代日本人は、中国大陸の内戦を外交で上手く利用して生きてきた。
 古代日本には、中国大陸や朝鮮半島との友好・善隣という平和的関係などなかった。
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 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
 渡来人は、日本国に対する愛国心天皇に対する忠誠心もなく、欲に目がくらんで第10代崇峻天皇を暗殺していた。
2018-05-29
🎍13〕─1─磐井の乱任那滅亡。崇峻天皇暗殺。百済の賄賂事件と仏教・ヨガの日本伝来。507年〜No.35No.36No.37・ @ 
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 5月23日 歴史人「文献と一致すると大感激! 考古史料によって解き明かされた古代日本の謎
 [入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #108
 柏木 宏之
 中国の『魏志倭人伝』やわが国の『古事記日本書紀』などの記述と、考古学の発掘調査結果が一致すると、それが事実であったという信ぴょう性が一気に高まりますし感激します。これまでにどんな一致が見られたのでしょう?
■貴重な文献と考古史料の整合性で見える古代史
 わが国にはほぼすべての時代の考古史料が途切れることなく存在します。ただ文献資料は途切れることがあったり、その時代の文献が無かったりしますので、稀に文献と考古史料が一致すると、大きな感激と驚きを感じます。
 古代の史実を証明する考古史料は数多く存在しますが、その裏付けとなる文字史料は極めて少ないといわざるを得ません。
 現代のコンビニエンスストア数の3倍はあるといわれる古墳から、墓誌が出ることはまずありません。
 つまり誰の墓なのかがほとんどの場合さっぱりわからなくなっているのです。残念なことに天皇陵とされている古墳も、被葬者の学問的裏付けはほとんどの場合ありません。
 ただ、明治13年に京都の高山寺で発見された『阿不幾乃山陵記(おうぎのさんりょうき)』の研究から、奈良県明日香村の野口の王墓が、「天武持統合葬陵」であることが判明し、確定しています。
 『日本書記』の記述と、鎌倉時代の盗掘犯逮捕時の供述調書と実況見分の記録がまったく一致していたのです。
 天武持統合葬陵(野口の王墓)
 撮影:柏木宏之
 そこには金銅製扉の玄門を入ると約7.7mの石室に金銅製の棺台に載せられた、おそらく夾紵棺(きょうちょかん)があり、その手前には金銅製の箱に収められた銀製の骨蔵器が安置されていたとあります。鎌倉時代の文暦2年(1235)、そこに盗掘者が入り込み金銅製の箱を銀の骨蔵器ごと盗み出し、中をみたら灰が詰まっていたので、そばの溝に中身を捨てたと証言しています。
 その内部の記述がまさに『日本書紀』に記録されている天武天皇持統天皇の夫妻合葬の様子と一致したのです。先に崩御した天武天皇が古墳に埋葬されて、そのあとを継いで即位した皇后の持統天皇は、わが国で初めて火葬された天皇です。
 持統女帝の亡骸は遺言によって荼毘に付され、骨と灰を立派な骨蔵器に収めて合葬されました。つまり歴女に人気の持統天皇のご遺骨は、盗掘者によって溝に捨てられたという残念な話でもあります。しかしこの古文書の発見で天武持統合葬陵が明日香村の「野口の王墓=檜隈大内陵(ひのくまのおおうちりょう)」だと判明したのです。天皇陵で被葬者がはっきりしている数少ない実例です。
 ほかに「ワカタケル大王」と記述のある雄略天皇の和名が、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣や熊本県の江田船山古墳出土の鉄剣に記されていました。これも文字史料が雄略天皇の実在を証明することになりますね。
 中国の『三国志』のなかにある『魏志倭人伝』は弥生時代末期の倭国の様子をリポートしている貴重な歴史書です。邪馬台国の様子が書かれていて、その姿はまさに九州吉野ヶ里遺跡の様子とよく一致しています。
 整備されている吉野ヶ里歴史公園には、発掘調査の結果から得られた情報をもとにして上物(うわもの=建物)が再現されています。
 遺跡からは柱を立てた跡や溝跡、炉跡やゴミ捨て場、そして墓が出てきます。その柱穴の大きさから柱の直径を探り、柱の間隔で建物の大きさを推定します。そして検討を重ねた結論に従って建物を再現します。
 生時代の大環濠集落だと判明した吉野ヶ里歴史公園
 撮影:柏木宏之
 ですから推定復元建物は、それほど大きな違いが無い物と思って差し支えありません。すると二階建ての大きな建物や、遠くを見渡すように高く造られた楼観(ろうかん)が現れました。
 『魏志倭人伝』にはこのようにリポートされています。
 「宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛」
=「卑弥呼のいる宮殿や高楼は城柵で厳重に囲まれ、常に武器を持った人が守衛している。」
 今の吉野ケ里歴史公園にはこの記述をそっくり再現したような風景が広がります。ただし、「だから邪馬台国吉野ヶ里にあったんだ!」と思うのは軽率です。もっと多岐にわたる研究と検討が必要です。しかしながら弥生時代の集落国家の最もスタンダードな姿を示しているのは間違いありません。
 日本列島の時代を徐々に遡ってみましたが、古代の文献はこの辺りが限界です。もちろん時代を下ればどんどん文献資料と考古史料の一致が見られるようになりますし、飛鳥時代奈良時代以降は現在も継続する寺院などがありますので、訪ねてみるととても興味深い発見をすることでしょう。
 近年の発見では1979年1月に奈良市此瀬町(このせちょう)の茶畑で偶然発見された円墳から出土した「銅板墓誌」でしょうか。そこに書かれた文字から『古事記』の編纂者である太安萬呂(おおのやすまろ)の墓であることが判明します。銅板墓誌の記述は『続日本紀』の太安萬呂の記録と一致しています。これについてはまた別稿でご紹介しましょう。
 季節も良くなってきました。夏は暑すぎて散策に向きませんが、今のうちにまず資料を読んで、そして歴史の現場を訪ねてください。きっと歴史ロマンのファンになるでしょう!(笑)
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 2023年8月3日 歴史人「謎に満ちた古代日本の王権争奪戦を考察! 古代日本列島各地の王の序列とは?
 [入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #086
 柏木 宏之
 縄文人が穏やかに暮らしていた日本列島に弥生人がやってきた。そして各地に小王国を築いて、それらが大王(だいおう/おおきみ)に統合されて古墳時代の国家が造られていく。しかし、大王権を握ったのは日本列島で成り上がっただけの王家だったのだろうか?
■王を頂点とする組織が渡来してきたのではないか
 本格的な稲作とともに弥生文化を携えた渡来人(とらいじん)が日本列島にやって来たと考えられています。もちろんそれは一度にやってきたわけではありません。何百年もの間に少しずつ海を渡ってきたのでしょう。
 異説はありますが、通説では中国南部に始まった稲作文化が朝鮮半島に伝わり、そして九州に渡来した人々が日本列島に広がって弥生時代が始まったとされています。
 日本列島周辺の地図の角度を変えたもの。こうしてみると、日本列島と朝鮮半島、そして大陸との距離感がよくわかる。
 ところで、神話に登場する神々の仕事を大雑把に参考にすると、国つ神(くにつかみ)が日本列島に国を創り、そこに天つ神(あまつかみ/天孫族)の使者が何度もやって来てついに武力を誇示して国を譲らせます。多少の抵抗はあったものの、天つ神が日本列島の支配権を獲得するというストーリーです。ただ、国つ神も天つ神と祖は同族であるようにも記されていますし、交流もあったと読み取れます。
 そして神武東征(じんむとうせい)の時に、神武一族も饒速日(にぎはやひ)一族も同じ天つ神の子孫だということが判明します。その時の証言に「天つ神には子が非常に多く一族も多いのである」とあります。
古事記』と『日本書紀』の神話部分を読んだ方はお分かりだと思いますが、国つ神と天つ神は同根であるとしか思えません。神話を人間界の記憶だったと仮定して置き換えると、早い時代に渡来して日本列島に住み着いた人たちがいて、その後、最新の武器や文化を持った新な渡来人が支配者に納まったというストーリーに見えてきます。
 さらに想像を膨らませると、人間集団が個々に渡来して集落を営んで、よーいドンで大王権を取り合った、もしくは競争して勝ち残った一族が大王となったのだろうかという疑問が私にはわき上がります。
 渡来する前の故地(こち)での位付け(くらいづけ)が最初からあったのではないかと思えてきます。
  「倭国大乱(わこくたいらん)」と聞くと、対等の集団が大いに争ったと思えますが、各地から渡来してきた開拓集団の中には、故地ですでに大きな力と秩序を持っていた集団があったのではなかったでしょうか? すでに確立していた王族と臣従する集団が組織的に渡来してきた、つまり圧倒的な組織力をもったグループもいくつかあったのではなかったでしょうか?
 吉野ヶ里遺跡にて復元されている主祭殿の2階。政治の場として、王やリーダーたち、さらに周辺のムラの長が集まっている様子がわかる。
(撮影:柏木宏之
 大和王権が各地を取り込む時に「言向和平(ことむけやわ)」することを第一の手段としていたという記述があります。もちろん武力を背景にしていますし、武力を以て制圧する話もありますが、各地に前方後円墳という特異な墳墓を同盟の証として造営させ、銅鏡を下賜(かし)して地方王に支配権を保証するという次の古墳時代の価値観は、大和の大王に故地とつながる大きな権威と卓越した技術力があったとしか考えられません。そしてそれは、渡来以前の故地で確立されている権威ではなかったかと思うのです。このように、根拠は薄くとも豊かな妄想で楽しむのも、実に安上がりな歴史遊びの魅力だと思いますよ!
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 ウィキペディア
 弥生時代は、日本列島における時代区分の一つであり、「日本で食糧生産が始まってから前方後円墳が出現するまでの時代とされる。年代としては紀元前10世紀あるいは紀元前9-8世紀から紀元後3世紀中頃までにあたる。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海・北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内倭国が成立した。一般的に3世紀中頃古墳時代に移行したとされるが、古墳時代の開始年代には異論もある。
 
 東アジアとの関係
 春成秀爾(国立歴史民俗博物館研究部教授)は「弥生時代が始まるころの東アジア情勢について、従来は戦国時代のことと想定してきたけれども、殷(商)の滅亡、西周の成立のころのことであったと、認識を根本的に改めなければならなくなる。弥生前期の始まりも、西周の滅亡、春秋の初めの頃のことになるから、これまた大幅な変更を余儀なくされる。」と述べている。また、医学者である崎谷満と研究者の宝賀寿男、心理学者の安本美典弥生時代長江文明の関連性について様々な説を提唱した。しかし、o1b2が中国南部には殆ど存在しないこと、弥生時代の墓制と関連性が見られないことによって、彼らの説は日本の歴史学者の支持を受ける説ではない。また、彼らの説に対して「従来説では、中国の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちが水稲農耕をもたらした、とされてきた。これは、稲作開始時期の見方に対応するものでもある。中国戦国時代の混乱はわかるが、殷の滅亡が稲作の担い手にどのように影響したというのだろうか。」との疑問も指摘されている。つまり殷は鳥・敬天信仰などの習俗から、もともと東夷系の種族(天孫族と同祖)と考えられるため、別民族で長江文明の担い手たる百越系に起源を持つ稲作には関係ないと考えられる。

 戦乱の発生
 貧富の差は対立の起因となり、ムラ間での争いへと発展した。佐賀県吉野ヶ里町神埼市吉野ヶ里遺跡では物見櫓や柵、濠といった抗争の跡が見られる。
 度重なる戦乱の末、複数のムラを束ねるクニと呼ばれる原始的な小国家が誕生した。

 戦乱
 日本列島最初期の実戦武器・磨製石剣(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)。
 日本列島最初期の実戦武器・打製石剣(徳島県内出土、徳島県埋蔵文化財総合センター所蔵)。
 弥生時代の銅剣(東京国立博物館)。
 弥生時代は、縄文時代とは打って変わり、集落・地域間の戦争が存在した時代であった。日本列島での本格的な戦争開始時期における武器は、磨製石剣と柳葉形(やないばがた)磨製石鏃で、これらは大陸系磨製石器の一つとして稲作とともに大陸から流入したと見られている。武器の傷をうけた痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在などは、戦争の裏付けである。また、集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100メートル以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落なども、集落や集団間の争いがあったことの証拠であると考えられている。

 戦乱の発生と推移
 日本列島における本格的な集団間武力衝突、つまり戦争の発生は、弥生時代早期にあたる紀元前5世紀から前4世紀にかけての九州北部から始まったと考えられている。
 第1期抗争
 松木武彦の復元するところでは、弥生時代早期、中国大陸・朝鮮半島との玄関口にあたる九州北部へ、中国大陸から稲作文化・稲作技術がもたらされた。稲作文化を持ち大陸から流入した人々と、それ以前から日本列島に居住していた人々(いわゆる縄文人)が交流し、日本列島に農耕社会とそれに基づく生活様式や行動原理・習慣が普及し、人口も増加していく過程で、稲作に適した可耕地の確保を巡って集団間(ムラ同士)での対立が生じるようになった。また大陸から流入した人々は、稲作文化・技術だけでなく、磨製石剣・磨製石鏃などの対人用武器、さらに組織的武力によって集団間の問題を解決しようとする考えや発想=「戦いの思考」をも同時に持ち込み、これらが引き金となって日本列島における本格的な武力衝突の時代が始まった。
 対人用武器の最古段階の事例とされるものは、福岡県唐津市の菜畑遺跡から出土した弥生早期のホルンフェルス製磨製石剣と柳葉形(やないばがた)磨製石鏃である。上述の福岡県糸島市の新町支石墓群(新町遺跡)24号墓から検出された、大腿骨に柳葉形磨製石鏃が刺さり、別人の「首級」と共に埋葬された男性人骨は、この時期(弥生早期)の事例であり、日本列島における「最初の戦争犠牲者」とも形容される。
 また、玄界灘に面した福岡平野では、弥生早期に江辻遺跡(福岡県糟屋郡粕屋町)や那珂遺跡(福岡県福岡市博多区)などで、防御性集落と考えられている環濠集落が出現した。
 弥生前期にあたる紀元前3世紀代に入ると、九州北部では各集団(集落)間の縄張りや秩序に一定の決着があったのか、一時的に抗争が沈静化するが、同時期の瀬戸内海沿岸部から近畿地方にかけては、石製武器(当地域では打製石剣や打製石鏃)の出土や環濠集落の事例が増加し、可耕地の確保を巡る集団間抗争が西日本の広範囲に波及したと推定されている。松木はこれを弥生時代の「第1期抗争」と位置付けている。
 第2期抗争
 九州北部では、第1期抗争後の一時的な沈静期を経て紀元前3世紀末から前2世紀初めごろに再び抗争が激化する。この時期には使用される武器に変化が生じ、半島から新たに導入された青銅製の剣や戈・矛が出現する。また石製武器にも変化が生じ、第1期抗争では朝鮮半島製の磨製石剣や磨製石鏃を模倣した形態だったが、これに日本列島独自の形態が加わり、かつ磨製石戈が導入される。
 弥生時代中期に入る紀元前1世紀代になると新たに鉄製武器(剣・矛・戈・鏃)が導入され、これにより威力に劣る青銅製や石製の対人武器は次第に衰退し始める。また、紀元前1世紀代に入ると近接戦闘用武器(剣・矛・戈)のうち、剣(鉄製短剣)のみが実戦で用いられるようになり、矛・戈は実用に適さないほど大型化し、祭祀用器物へと変化していく。
 瀬戸内海を中心とする中国・四国地方および近畿・東海地方でも、第1期抗争(紀元前3世紀代)後の沈静期を経て弥生中期に入る紀元前1世紀初め頃に抗争激化が始まる[129]。当地では打製石鏃が大型化し、石剣では伝統的な打製石剣のほかに磨製石剣も使われるようになり、打製石戈が加わる。また青銅製武器や鉄製武器も徐々に導入され始めた[129]。それらによって殺害されたと見られる受傷人骨の事例は奈良県奈良市の四分遺跡(しぶいせき)などで知られる。環濠集落は大型化し、池上・曽根遺跡(大阪府和泉市泉大津市)や唐古・鍵遺跡(奈良県磯城郡田原本町)、朝日遺跡(愛知県清須市)などが現れる。松木武彦はこれを「第2期抗争」と位置付けている。
 第2期抗争期は、考古学の観点では、複数の小集団(集落)が割拠していた状態から、小集団同士で抗争を繰り返すことにより弱い集団が強い集団の下に集約され、より広域の大集団が形成されていく過程と捉えられている。例えば九州北部の福岡平野では、紀元前3世紀代には20前後の小集団(集落)が割拠しているが、前2世紀になると比恵遺跡群・板付遺跡群・諸岡遺跡群・須玖遺跡群・門田遺跡群の5遺跡群が青銅製武器を保有して強大な勢力となり、さらに前1世紀に入ると、首長(王)の墓や青銅器・鉄器生産工房を備えた須玖岡本遺跡を中心とする大集落である須玖遺跡群が、福岡平野一帯の拠点的地位を獲得する。これら強大な首長(王)を擁する拠点集落の下にまとまった1つの勢力圏が、弥生時代における「クニ」と考えられており、須玖遺跡群は『後漢書』に見える奴国に比定されている。なお考古学の観点では、奴国周辺のクニグニとして、伊都国を糸島市の三雲・井原遺跡を中心とする井原遺跡群に、末廬国を唐津湾沿岸部に、不弥国を福岡県飯塚市の立岩遺跡群に比定している。
 なお関東地方では、この時期(紀元前1世紀・弥生中期)以降に環濠集落が出現し始めるため、西日本での「第1期抗争」にあたる可耕地を巡る集団間抗争がこの頃から始まったと考えられている。
 第3期抗争
 紀元後1世紀に入ると、武器における剣(鉄製短剣)の持つステータスがさらに高まり、九州北部を中心として戦闘参加者の墓に副葬される事例が増加し、矛・戈は弥生後期に入る紀元後2世紀代には完全に祭器化する。また後1世紀には、大陸製の鉄製直刀(大刀)が流入し始め、福岡県糸島市の井原鑓溝遺跡の王墓から副葬鉄刀が出土しているほか、福岡県小郡市の横隈狐塚遺跡や、鳥取県鳥取市の青谷上寺地遺跡では鉄刀による傷を負った人骨が出土している[135]。また、この頃、鉄鏃より遅れて銅鏃が普及する。銅鏃普及の背景には、軽量で大陸系の短弓の使用に適し、飛距離も出せるほか、鍛造の鉄鏃よりも鋳型を用いた鋳造法で大量生産が可能という利点があったとする指摘がある。
 紀元後1世紀から後3世紀に入る頃までの、弥生時代後半の日本列島における戦いの様相を、松木武彦は「第3期抗争」と位置付け、武器の種類や戦闘技術に大きな革新があった時期としている。刺突が主な攻撃手段となる剣に加えて、斬撃を主体とする刀が加わり、量産型の銅鏃が導入されることで、従来の近隣集落への襲撃(ムラ攻め)という戦闘形態から、より大規模な集団戦闘(会戦・野戦)が生じるようになっていた可能性を指摘している[137]。また『後漢書』「東夷伝」や『三国志』「魏志倭人伝」等の史書に見える「倭国大乱」は、この第3期抗争期にあたる後2世紀後半の出来事と考えられており、第2期抗争期までに成立した九州北部から瀬戸内・山陰・近畿・東海にかけての各地の有力集団(クニグニ)の王たちが、中国大陸の王朝に認められ、大陸の先進的文物や朝鮮半島の鉄資源などを優位に獲得できる倭人全体の政治的代表者(倭国王)の地位を求めて争った状況を示していると考えられている。

 大規模殺傷と集落の廃絶の例
 大規模な集団殺戮を示す遺跡としては、鳥取県鳥取市の青谷上寺地遺跡が代表的である。日置川と勝部川の合流点南側に弥生中期から集落が形成され、弥生後期後葉に戦争とみられる状況で集落が廃絶したと考えられている。
 集落東側の環濠(防御施設と港の機能を兼ねていたか)から5300点以上、計109体分の人骨が見つかり、このうち少なくとも110点、計10体分の人骨に殺傷痕が見られた。人骨は女性や老人や幼児も含めて無差別に殺されており、剣による切傷がついた骨、青銅の鏃が突き刺さった骨などがある。15〜18歳の若い女性人骨は、額に武器を打ち込まれて殺されていた。これらの受傷人骨のうち、治癒痕があるのは1例のみで、骨に至る傷が致命傷となってほぼ即死したと考えられている。環濠からの出土状況にも特異な様相が見られ、多くの人骨に武器によるものではない削られたような傷があり、1度別の場所に埋葬された後、あまり時間が経たない内に掘り出され、環濠に再埋葬されたと考えられている。
 環濠からは、原型を保った建築物の一部や、様々な生活用品などの遺物が通常の遺跡ではありえないほど大量に出土している。

 乱と卑弥呼
 魏志倭人伝には、卑弥呼邪馬台国を治める以前は、諸国が対立し互いに攻め合っていたという記述がある。また、後漢書東夷伝には、桓帝霊帝の治世の間、倭国が大いに乱れたという記述がある。
 近年、畿内弥生時代IV・V期の年代観の訂正により、これらはおおよそ弥生時代後期後半 - 末(V期後半 - VI期)に併行するという考えが主流になった。この時期には、畿内を中心として北部九州から瀬戸内、あるいは山陰から北陸、東海地域以東にまで高地性集落が見られること、環濠集落が多く見られることなどから、これらを倭国大乱の証拠であるとする考え方が有力となっている。
 ところが、前代に比べて武器の発達が見られず、特に近接武器が副葬品以外ではほとんど認められないこと、受傷人骨の少なさなどから、具体的な戦闘が頻発していたと主張する研究者はあまり多くない。倭国大乱がどのような争いであったのかは未だ具体的に解明されていないのが現状である。
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