・ ・ ・
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
数万年前の日本列島には、南方海洋民系の先住民である旧石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)が住んでいた。
・ ・ ・
2024年9月10日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「日本人のルーツは「九州にいた海の民」だった!? “日本人の母”とは何者なのか【古代史ミステリー】
南さつま市の海岸に置かれたニニギノミコトの上陸地を示す石碑/撮影・藤井勝彦
九州に「降臨」した天皇の祖先は、ヤマツミの娘(縄文人)やワダツミの娘たち(海人族)と婚姻関係を結びながら、九州南部に勢力を広げていった。とくに、豊玉姫(とよたまひめ)・玉依姫(たまよりびめ)という二人の海人族の娘と結ばれたことの意味合いは大きい。縄文晩期に中国南部から海人族が渡来して日本中に広まっていたことを踏まえれば、豊玉姫こそ「日本人の母」と呼んでも良いのではないか…と思えてならないのだ。
■天皇の祖先の上陸地は、九州最南端?!
『日本書紀』によれば、天皇の祖先は「高千穂の峯」に降臨した。降臨の地を宮崎県高千穂町と見なすか、宮崎県と鹿児島県の県境にそびえる高千穂峰と見なすか激論が戦わされ続けている。
しかし、場所としては九州中~南部であることには変わりない。九州北部には先住の海人族が開拓し尽くしていたため、新たな耕作地を得ることができなかったからであろう。これが、後に邪馬台国連合国に発展したものと筆者は睨んでいるが、果たして?
ちなみに、ここで「降臨」と記されてはいるものの、それは単なる表記の問題だけで、実のところは、船に乗ってやって来たと思われる。降臨の地が両者のうちのいずれであったとしても、九州中南部のどこかの港に上陸したことは容易に想像できそうだ。
実はそれを証明するかのような伝承が、鹿児島県野間半島に伝わっているのをご存知だろうか? それが南さつま市の海沿いの一角で、 ニニギノミコトが上陸したことを示す石碑が置かれている場所が上陸地だったとか。ともあれ、ニニギノミコトはこの地で、先住の縄文人と思しきオオヤマツミの娘・コノハナサクヤヒメと出会って結婚。ホノスソリノミコト(海幸彦、隼人の祖)、ヒコホホデミノミコト(山幸彦)、ホノアカリノミコト(尾張氏の祖)が生まれたことになっている。
出産の際に竹刀でヘソの緒を切ったとも伝えられているが、その地を示すかのような竹屋なる地名が残っているというのも、曰くありげで興味深い。
その後、塩土老翁というワタツミ(海人族)の助力を得て、弟の海幸彦が兄の山幸彦を攻略。塩土老翁の娘・豊玉姫(とよたまひめ)と結婚して生まれたのが、後の神武天皇の父・ウガヤフキアエズであった。
ただし、出産時に豊玉姫は八尋鰐(やひろわに)の姿に戻ってしまったところを夫に見られたことを恥じて、我が子の養育を放棄。妹の玉依姫(たまよりびめ)に託したとのお話も、よく知られるところである。
■日本人は海人族の血がより濃厚に流れている?!
ともあれ、出産の地としてよく知られるのが、宮崎県日南市の鵜戸神宮だ。その後、ウガヤフキアエズが育ての親である玉依姫と結ばれて生まれたのが、カムヤマトイワレノミコトこと、後の神武天皇であった。
ちなみに、ウガヤフキアエズが亡くなったのは西洲の宮で、伝承地は鹿児島県肝属郡肝付町にある桜迫神社。さらに、カムヤマトイワレノミコトが生まれたのは狭野で、現在も宮崎県高原町に狭野神社として地名が残っている。
周辺には皇子原や御池といった地名まで残っているのも見逃せない。その他、ニニギノミコトの陵墓(可愛山稜)が薩摩川内市内にあることも含め、日向四代ゆかりの地が、ことごとく九州南部に比定されているというのは、やはりこの地が、天孫族の本拠地だったことの証と言うべきかもしれない。
前述のような婚姻関係を踏まえてみれば、天孫族の起源が仮に朝鮮半島であったとしても、初代・神武天皇には、ヤマツミ系の縄文人とワダツミ系の海人族の血も濃厚に受け継いでいることになりそう。とくに豊玉姫と玉依姫の二人の海人族の娘と結ばれたことの意味合いは大きく、海人族の血の方が濃いとも考えられそうである。
縄文晩期に東南アジアから渡来して来た人々の多くが海人族で日本中に広まっていたことも含めて考えれば、天孫族はもとより、庶民に至るまで、海の民の血がより濃厚に受け継がれていたことは間違いなさそう。
極言すれば、「日本人の母は豊玉姫だった」と言っても良いのではないか? そんな気がしてならないのだ。
藤井勝彦
・ ・ ・
2021年7月24日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「なぜ、天皇の祖先は「まつろわぬ民」の居住地だった南九州に上陸したのか?【古代史ミステリー】
藤井勝彦
鹿児島県曽於(そお)市大隅町にそびえたつ、約15mの巨人像は、九州南部に伝わる巨人伝説の主人公・弥五郎どんの姿を現したものだといわれている。8世紀の時代に、彼の地に居住していたと伝えられる隼人(はやと)の長として、強大なヤマト王権を相手に一戦を交えたのではないかと推察されるのだ。
■身の丈15mもの巨人が出現
弥五郎どんの巨像は、全長約15mもの大きさ。弥五郎の里(大隅半島曽於郡を縦断する国道269号沿い岩川市街地近く)に立つ。
「おおすみ弥五郎伝説の里」というユニークな名前の道の駅がある。所在地は、宮崎県との県境に近い、鹿児島県曽於(そお)市大隅町。20ヘクタールもの広大な敷地を誇る、大隅町屈指の観光スポットでもある。その一角に、高さ15mもの巨人像がそびえている。長い鉾を握り、腰に太刀と小刀を挿して鬼のような形相で真正面を睨みつけるという、迫力満点の人物像である。それが、九州南部に伝わる巨人伝説の主人公・弥五郎どん(大人弥五郎)だ。
その険しい顔立ちからして相当な武人かとも思えるが、実のところ、何者なのか諸説あって定かでない。景行(けいこう)天皇から仁徳天皇まで6代の天皇に仕えたという武内宿禰 (たけのうちのすくね)説や日本武尊(やまとたけるのみこと)に征服された熊襲梟帥(くまそのたける)説などがまことしやかに語られることもあるが、さもありなんと頷きたくなるのが、ヤマト王権によって制圧された隼人の首領説である。ただしこれを語るには、時代を8世紀まで遡らなくてはならない。
■寡兵ながらも奮戦した隼人の象徴?
時は元正天皇の御世、養老4(720)年のことである。大隅国の国司・陽侯史麻呂(やこのまろ)が、何者かに殺害されるという事件が起きた。この数年来、南九州でくすぶり続けてきたヤマト王権に対する反感が爆発したものであった。律令制の根幹となる班田収授法、それを、いまだ完全に服属したわけでもない南九州の地に無理やり適応させ、強引に税の徴収を開始しようとしたからなのかもしれない。6年前の和銅7(714)年には豊前に居住していた民(秦一族か)5千人を大隅国に移住させて同化政策を進めるなど、まつろわぬ民に対する有形無形の締め付けが厳しくなってきたことが下地になったとみられる。
事件からわずか数日後の3月4日には、早くも大伴旅人(おおとものたびと)が征隼人特節大将軍に任じられ、1万人以上もの大軍を率いて征伐が開始された。このことからみても、王権側も相当重大な局面であると認識していたのだろう。対して、隼人側の兵力は数千人。この圧倒的に不利な条件をものともせず、曽於乃石城(そおのいわき)や比売之城(ひめのき)など7つの城に立て籠もって持久戦を展開。攻略に1年半近く要すという熱戦が繰り広げられたのである。隼人の戦闘能力の高さが推察できそうだ。
それでも、養老5(721)年7月7日、結局は隼人側が、戦死者、捕虜合わせて1400人という甚大な被害を被って敗退。ここで紹介する弥五郎どんとは、つまる所、この隼人軍を率いた首領あるいはその象徴だったのではないかと考えられているのだ。無理やり支配下に置かれようとした民の心情を鑑みれば、その代表者の表情が険しかったのも当然というべきか。さらに、巨人として思い描かれたのも、中央政権に対する怒りの大きさを物語っているように思えてくる。
かつて奮戦した隼人の塚と見なされたところ(鹿児島県曽於市大隅町)/撮影藤井勝彦
■なぜ天孫降臨の地が隼人の居住地だったのか?
ところで、隼人の居住地であった南九州といえば、『記紀』の記述によれば、王権の祖・天孫族が降臨したとみなされるところ(諸説あり)のはず。天孫・瓊瓊杵尊が降臨したとされる高千穂峰をはじめ、その陵墓・可愛山陵(えのみささぎ)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の陵墓・高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)、神武天皇の父の陵墓・吾平山上陵(あいらさんりょう)、神武天皇の生誕地とされる皇子原(おうじばる)神社等々、枚挙にいとまがないほど伝承地が存在する。
同時に、同地域は王権に「まつろわぬ」とみなされた熊襲(隼人との関係は諸説あって複雑)の居住地でもあった。ということは、王権にとって、そこは決して安住できるところではなかったはず。それなのになぜ、その不穏な地を王権の原郷だったとみなしたのか? これこそ、古代史最大級の謎の一つである。
その謎解明に大きな役割を果たすと考えられるのが、この隼人の存在なのである。隼人とは、ズバリ、中国江南あるいはそれ以南から、直接黒潮に流されてやってきた人々だったのではないか? 東部の大隅隼人が江南以南から縄文時代に渡来してきた狩猟民族で、西部の阿多(田)隼人が弥生早期に江南から渡来してきた海人族(海幸彦との関連が気になる)だったのではないかと、筆者は密かに推察している。
これに対して王権の祖とされる人々は、縄文末期に中国江南地方から稲を携え、朝鮮半島を経由して、北九州ばかりか南九州へも渡来してきた人々だった考えられる(野間半島の宮ノ山遺跡のように、朝鮮半島でよく見られる積石塚や支石墓などがその痕跡か)。このうち南九州へ上陸した人々(瓊瓊杵尊に象徴される人々か)が、先住の大隅隼人と一時期は共存。協調関係を保っていたと考えたい。
その表われが、瓊瓊杵尊と山神の娘・木花開耶姫との婚姻である。もう一方の阿多隼人との関係が、瓊瓊杵尊の子・彦火火出見尊(海幸彦)が海神の娘・豊玉姫との婚姻譚に言い表されているのかもしれない。しかし、豊玉姫との婚姻関係が破綻したことでもわかるように、両勢力は結局、対立。そこから脱出した人々が、安住の地を求めて大和へ東征あるいは東遷したのではないか? その記憶が、神武天皇の東征物語に反映されているという気がしてならないのだ。
加えて、この隼人の居住地に打ち立てられたのが狗奴国(くぬのくに)だった可能性もある。そこから脱出した人たちが、甘木から宇佐へ拠点を移していた邪馬台国(澤田洋太郎氏説を踏襲)の残存勢力(邪馬台国は、狗奴国との戦いに破れたか、卑弥呼の死によって妥結が図られたとも考えられる)を伴って、大和へと向かったのではないか? 諸説を踏まえて考察し直してみれば、こんな推察ができるのではないかと、思えてくるのである。
・ ・ ・
HTVL-1。母親の遺伝子。女系母系X染色体物語。
2018-11-14
🗾9〕─1─母親の遺伝子。子供の記憶・思考・知力は母親から受け継いだ能力。父親の遺伝子は蚊帳の外。~No.41No.42No.43・
2019-09-08
🗾9〕─2─HTVL-1の母子感染者は九州・沖縄・台湾に多く、中国東部や韓国に少ない。〜No.44No.45No.46・
・ ・ ・
天皇と日本民族の祖先は、渡り歩いた各地の土俗神話・自然崇拝・精霊信仰・宗教祭祀を日本列島に持ち込み国土に染み込ませ、古代民族宗教を生み出し始めた。
民族宗教には、無宗教や異教の地への布教は存在せず、目の前における死者への葬儀と神々への祭祀だけであった。
・ ・ ・
日本の歴史には3種類あって、1,日本民族の民話・伝承・寓話・宗教によるローカルな神話物語、2,アフリカを源流とする人類進化・文明発展史、3,記録が残る人間英雄伝説(地方風土記)である。
ローカルな神話物語とは、古事記・日本書紀を正統根拠とする日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話、つまり女性神・天照大神を最高神とする天皇神話である。
それが、皇国史観であった。
グローバルな人類文明史には、科学的経験的正当性はあっても宗教的合理的正統性はない。
神話物語・人類文明史・人間英雄伝説の3つを均等に持つのは、民族としては日本民族・琉球民族・アイヌ民族だけで、国家としては日本国だけで、その歴史に正当性を裏書きしているのが正統な天皇の神格である。
その意味で、日本は特殊で特別であるが、日本国と日本人が優れているとは無関係である。
天皇は正史で日本を武力統一して日本建国宣言の詔を発していない為に、日本には建国年と建国記念日は存在しない。
現代日本の建国記念日は、天皇神話物語であって人類文明史・人間英雄伝説ではない。
・ ・ ・
デュルケーム「(宗教の役割の一つは)共同体を維持する装置」(『宗教生活の原初形態』)
・ ・ ・
人口
縄文時代は約27万人。
紀元前2300年から紀元前1000年までの約1000年間で、8万人まで落ち込んだ。
弥生時代は約60万人。
・ ・ ・
2024年8月20日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「「天皇の祖先」はどこから来た? ルーツは「朝鮮半島」!? 日本と韓国の「神話の共通点」とは【古代史ミステリー】
藤井勝彦
「天皇の祖先・ニニギノミコトが、天から降臨した」との神話は、よく知られるところだろう。しかし、これとよく似た降臨神話が、じつは韓国にも伝えられているのをご存じだろうか? この両者の類似は、「日本人のルーツ」にも関わっている可能性がある。いったい、どういうことなのだろうか?
■布団のようなものに包まれて「降臨」した天皇の祖神
本稿は、日本の建国神話についての記事である。ただし、ここでは『古事記』や『日本書紀』に記されたお話を元としているため、あくまでもヤマト王権にまつわる建国神話であることをお断りしておきたい(筆者は、ヤマト王権に先行して、九州北部に邪馬台国があったものと認識している)。
まずは、『日本書紀』本文に記された一文に注目。そこには、端的に言うと「皇孫たるニニギノミコトを真床追衾(まとこおうふすま )に包んで降臨させた」とある。
ちなみに、真床追衾とは掛け布団のようなもので、これに天孫を包んで、天(高天原)から地上(葦原中国)へと降ろしたという。
もちろん、史実として「天」があるわけもなく、そこから人あるいは神が地上へ降臨するなどありえない。それでも、その神話が示唆するところまで無視するわけにはいかないだろう。そこには必ずや、史実としての何かが潜んでいるものと考えられるからだ。
■「どこに降臨したか」ではなく、「どこから降臨したか」に注目してみる
この神話は、「真床追衾で降臨した」という状況自体が問題視されることは少なかった。むしろ、「どこに降臨したのか」についてのみに注目が集まり、侃々諤々の議論が繰り広げられてきたというのが実情である。
しかも、そのほとんどが、「宮崎県高千穂町」か、「高千穂峰(宮崎県と鹿児島県の境)か」の二者択一に終始。他地域はほとんど顧みられることがなかったというのも、奇妙といえば奇妙である。
筆者が注目したいのは、その前段階。いったい、「ニニギノミコトがどこからやってきたのか」、そこに焦点を当ててみたいのだ。
『記紀』には、単に「天」あるいは「高天原」と記されているゆえか、そもそも議論の余地もないかのように話題にされることも少なかった。
しかし、これはおかしい。「どこからやってきたいか」のほうが重要ではないだろうか。端的に言えば、筆者はこれを「朝鮮半島」ではないかと考えているが、果たして?
■日本人はどこからやってきたのか
ともあれ、日本人のルーツを遡ってみよう。「日本人がどこからやってきたのか」である。石器時代から縄文時代にかけて、北はシベリアから、南は東南アジア以南から渡来してきた古モンゴロイドが日本列島全土に広がったというのは、おおよそ流布され尽くしたお話だろう。
その後、中国南部から新モンゴロイドが直接、あるいは朝鮮半島を経て渡来。先住の縄文人たちと協調あるいは反発を繰り返しながらも、着々と稲作文化を広めたというあたりも、おそらくは間違いのないところだろう。いわゆる「弥生時代」の始まりである。
問題はその後。弥生時代中〜後期になると、新たな流入者が現れたことに注目したいのだ。それが朝鮮半島に居住していた北方系民族で、天孫族の中核をなすものだったと筆者は睨んでいる。
先住の中国南部から流入してきた人々(海人族)が後に打ち立てたのが、邪馬台国の卑弥呼を盟主とする倭国連合で、主として九州の中〜北部を支配。
その結束が強かったため、新興勢力である朝鮮半島からの渡来人たちは立ち入る隙(新たな開拓地)もなかった。彼らにはじき出されるかのように、九州南部に定住していく。先住民(ヤマツミに代表される縄文人やワタツミに代表される海人族か)と婚姻関係を結びながら、南九州一帯に勢力を拡大した。
それでも、あいも変わらず九州北部への進出はままならなかった。そこで一計を案じ、稲作に適した新天地を求めて東方へと進出して打ち立てたのが、後のヤマト王権だったと考えるのだ。
となれば、ヤマト王権の前身は、邪馬台国と敵対関係にあった狗奴国(くなこく)だったとみなすことができるかもしれない(ただし、狗奴国との対戦に嫌気がさした邪馬台国連合の一部勢力が東征した可能性も捨てきれない)。
■「包まれて降臨」日本神話と類似している韓国の神話
金官伽耶の始祖とされる首露王の陵墓(韓国金海市)/撮影・藤井勝彦
前述したように、「ニニギノミコトがどこから降臨したのか」という命題は、実に重要である。それが朝鮮半島ゆかりの民族だった可能性が高いからだ。
思い起こしていただきたいのが、朝鮮半島南部の国・金官加耶(きんかんかや)に伝わる建国神話である。建国主は、いうまでもなく首露王(しゅろおう)。舞台は、現在の金海市にそびえる亀旨峯(クジボン)という名の小さな山だ。
言い伝えによれば、大勢の人々の見守る中、紫の紐に括り付けられた赤い布で包まれた金の小箱が天から地上へと垂れ下がってきたとか。小箱の中には、黄金の卵が6個。そのうちの一個が孵化して成長したのが、加耶国の祖始・首露だったという。
日本にはこの卵生神話は伝わらなかったが、布で包まれた小箱、つまり「建国の祖が降臨した」というあたりは、ニニギノミコトの降臨話と実によく似ている。「天孫族が朝鮮半島からやってきた」というのが史実だとすれば、両者の建国神話が似通っているというのも納得できそうだ。
・ ・ ・
2020年12月3日 理系脳で紐解く日本の古代史「既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!
67 古代のダイナミズムを生んだ海の民(1)
古代史本論・3世紀まで 神社 神話
弥生時代末期から3世紀頃までの日本海側の交易について概括したので、今回は、第52回・53回ブログで予告した「海の民の活躍」について考えてみます。
チャレンジ精神で交易を担った海民集団
現在の日本は、4つの大きな島を含め合計6852もの島から成りたっています。
これだけ多くの島を抱える国は、インドネシアやフィリピン以外にはない。海の民はこれら多くの島を拠点とした。彼らの活躍なくしては、古代日本の発展はあり得なかったでしょう。
すでに第38回と第53回のブログで言及したように、日本の近海は世界でもっとも厳しい荒海の一つとされます。沿岸に沿って進む「地乗り航法」であればともかく、列島周りの海流は非常に速いので、時速3キロくらいの丸木舟による外洋航海は簡単ではありませんでした。
それでも海の民は、旺盛な好奇心やチャレンジ精神を持ち、その優れた特性が、シナや朝鮮半島の先進文化・先進技術の獲得に大いに寄与してきたことは今までに述べた通りです。
海の民は渡来系の海洋民族で、基本的に陸の民とは異なる行動規範を持っていました。古代においては、海上の道は陸上の道よりもはるかに利便性が高く、これを特権的に利用する海洋民族は、地理観や行動もよりダイナミックで、国際性を先天的に身につけていたといえるでしょう。
また、日本列島内においても、潟湖や河口を利用する「地乗り航法」によって自然の障壁で隔てられたクニや地域国家の間の物流や情報の授受に寄与した。
彼らなくしては、古代の日本列島は閉鎖空間として静的なまま推移していたでしょう。
彼らの進取の精神に富んだ遠距離交渉と情報のやり取りによって、地域集団による産物の特化が進んだ側面(第50回ブログ参照)もあります。
古代のダイナミズムは海の民によってもたらされたと言えるでしょう。
以下、海という自然の障壁をものともせず、古代の交易に多大なる貢献をし、同時に政治的な影響力を行使できた海民集団の実像について言及します。
海民集団による古代の優れた航海術
海人族の卓越した航海術については、陸のにおいを感じとったり、目視できない遠方の島の存在を雲の有無と形で予測したり、海流・潮流の存在、季節風の存在、台風に襲われる時期などにも目配りしていたことを、第26回ブログで列挙しました。
さらに茂在寅男氏は、次のような興味深い指摘をしています。
海人族が、古鏡(沖つ鏡・辺つ鏡など)裏面の円周を8とか12などの数で分割して、方位盤や太陽羅針盤として使用した可能性についてです。
方位盤上の現在時刻を太陽の方向へ向けると、方位盤上の子午線で南北方向が確定する。これによって太陽が出ている限り方位を大きく誤ることはなかったというのです。
古代人は潮の満ち干の時刻も予知できたに違いありません。
潮汐は大雑把にいうと月の引力によって制御されます。月が自分の位置を通る子午線上にきた時、自分のところは満潮になる力を受けるが、海水は瞬間的に移動することはできません。
日本の太平洋沿岸ではその時間遅れが約6時間らしい。
自分のところが実際に満潮になるのは6時間たってからなので、その時はすでに月が西の地平線に没しようとする時になります。
したがって「月の真上時は港に潮なし」「月の出入りに潮が満つ」といわれたのです。
太平洋沿岸以外では時間遅れがそれぞれ異なるが、古代人は自分のテリトリーの時間遅れを把握していたようだ。経験的に、潮汐現象が月の支配下にあると承知していたのです。
『日本書紀』一書第6にある<月読尊は、うなばらの潮の八百重(やおえ)を治(しら)すべし>は、ここからきているのでしょう。
海の民・海人・海部
縄文の昔から海の民によって広域にわたる交易が行なわれてきたが、当時は国家という概念がなかったので、かえって制約なく自由に雄飛できたようです。航海術を磨いた海の民が集団として組織だって活躍するのは紀元前後からでしょう。
海の民は、やがて海人(あま)とか海部(あまべ)と呼ばれるようになります。
ヤマト王権が人制(ひとせい)を導入して海人として組織化したのは5世紀後半の頃。
部制(べせい)成立の6世紀以降、海人は海部に改組され、ヤマト王権の直属組織となって政権に取り込まれていきました。
こうした統制の動きの中心的役割を担ったのは安曇氏です。
10世紀編纂の『和名抄』には、海人の住んだところは海(あま)または海部(あまべ)として記されています。安芸・阿波・淡路・紀伊・尾張など9ヶ所の他、九州北部に宗像・那珂など4ヶ所、日本海側に丹後など4ヶ所、合計17ヶ所が確認できます。
それらの地域にはその数百年前から海人が居住していたに違いありません。
海の民がすべてこのように組織化されたかというと、実態は少々違うようです。宮本常一氏の論考にあります。
瀬戸内海東部や九州西部では、陸に上がらず海上漂泊する漁民が少なくなかった。彼らは漁撈専業で、生活の糧を陸に依存しないので陸地の占有権も認められず、「海部郷」が成立しなかったということです。
主な海人族の性格
おもな海民集団には、外洋航海型海人族である宗像海人族と、沿岸航海型の安曇族やその傍流である住吉系の流れがあります。
彼らは海洋展開能力を活かし、海部の名で全国に雄飛した。こうして陸上交通が機能しない古代にあって、遠隔地同士でも海上交通で結ばれ広域経済圏を形成できたのです。
宗像族は玄界灘に浮かぶ沖ノ島を中継点に朝鮮半島に至る海上交通路で活躍し、また日本海側の出雲や石見ともつながり、一部は瀬戸内にも展開しました。
安曇族は瀬戸内海を東進し、また日本海方面を北上した。
住吉系は瀬戸内海を東進して摂津を拠点とした。彼らの一部は紀伊沿岸から伊勢湾、東海地方、伊豆、房総、常陸まで雄飛した。
元来「安曇(アヅミ)」は「ワタツミ」であって、漁撈から航海の安全まで広く海全般を司る神だったが、のちに役割分担が進み、安曇は漁撈や航海に従事する航海民・海民たち・海産物の神としての性格を強めていったのに対し、航海神の役割は宗像神や、ヤマト王権が庇護した住吉神が担うようになります。
安曇氏が海部の統制という役回りを担ったのはそのためでしょう。
宗像の神と住吉の神は、ヤマト王権が海外に進出する過程で重要視された航海の安全に関わる海神といえます。
宗像は、北九州を拠点とする海民で、出雲や石見との関係が深い勢力であったが、九州に進出したヤマト王権が4世紀後半以降、積極的に朝鮮半島に進出する過程で、日本海航路及び九州と朝鮮半島の往来、つまり外洋航海の安全を司る海民として王権が重視し、宗像という地方神を国家神として取り込んでいったものです。
外様の出自を持つ宗像に対して、住吉の神はヤマト王権自らが作り出した国家神的性格の非常に強い海神であり、日本全域(特に瀬戸内海と太平洋岸)及び難波から朝鮮半島に至るシーレーンや各地の港湾・航路の管理安全を担う国家海運統制の神ともいえるでしょう。
海民集団の海部は各地で政治的な力を蓄え、日本各地に足跡を残した。
5、6世紀にはその一部が、宗像氏、尾張氏、津守(つもり)氏、丹後海部(あまべ)氏など、クニや地域国家を取り仕切る豪族に成長した。
地域国家も彼らの協力なくしては交易することができなかった。
以下、彼らのプロフィールをもう少し詳しく確認してみましょう。
安曇族について
海民集団の代表的な存在は、「ワタツミの神」を信奉する安曇一族です。
神話のうえでは安曇氏は、綿津見命の子にあたる穂高見之命の子孫で、天皇家と出自を共有する名門ということになるわけですが、それはともかく祖先が海の民であったことは間違いないでしょう。
彼らは、シナ大陸南部の越地方の海上漂泊民に起源を持ち、東シナ海を北上し、山東半島から遼東半島、朝鮮半島西岸を経て玄界灘に至り、志賀島を本拠地としたとされています。志賀島には彼らが祀る志賀海神社があります。
『日本書紀』応神紀によれば、方々の海人が騒ぎたてて天皇の命に従わない。そこで安曇連の祖である大浜宿禰をつかわして平定させた。そのため海人は大浜宿禰につき従うようになったという。
安曇族に率いられた海の民は、新興勢力であったヤマト王権と早くから結びつき、ヤマト王権の勢力拡大に貢献した。ヤマト王権は豊後・阿波・紀伊・尾張などに海部(あまべ)を置き、海の民の組織化を図りますが、その中心となったのは安曇氏です。
安曇氏はヤマト王権の海外進出や交易に貢献してきたが、663年、安曇連比羅夫を総大将として臨んだ白村江の戦いで大敗し、半島との交易による権益を失い窮地に陥る。
それでもなお海部の統率者として水産物供給の機能を束ね続け、海人族として皇室の食膳に関わりを持ち続ける。奈良時代になると、天皇の奉膳(ぶうぜん)には、高橋、安曇の両氏が任用される。
御食国(みけつくに)との関わりは、高橋氏が志摩国と若狭国、安曇氏が淡路国および瀬戸内と色分けされます。
792年の太政官符で、高橋氏を席次上位とする太政官令が出されたが、安曇宿祢継成はこの裁定(太政官令)に従わなかったため、佐渡へ遠流の刑となりました。裁定以後、天皇家の食事は高橋氏が独占し、安曇氏は中央政界から姿を消し完全に没落してしまいました。
この間の経緯は、すでに第13回ブログの中で、「高橋氏VS安曇氏の確執」として言及しました。
志賀島付近を根拠とした安曇族本流は没落するも、それ以前に一族は広く列島各地に雄飛していたようです。信州の安曇野、滋賀県安曇川、三河の渥美、伊豆半島の熱海などにその名残が見られます。安住・安積・尼崎などもその可能性があり、奄美も、という研究者もいます。
安曇氏に率いられた海人の海村は各地にあったが、瀬戸内海東部の大阪湾沿岸・淡路島・播磨灘沿岸・阿波などにはおびただしい海人が住んでいた。
6世紀、朝鮮半島の交易拠点であった伽耶を放棄してからは外征もなくなり、海人が多すぎて漁撈のみで生計を立てることは難しく、生活は困窮に。
平安時代になると、彼らは海賊まがいの行動に出る始末に陥った模様。
宗像氏について
安曇氏が海産物を獲るのに長けていたのに対して、宗像氏族は外洋航海型で航海術に長けており、安曇氏の拠点であった志賀島から30キロほど東の鐘ヶ崎など宗像一帯を拠点とした。「むなかたの神」を信奉し、拠点は後に宗像大社として発展します。古代は大社の脇を流れる釣川の上流部まで海が入り込み、交通の要衝地でした。
なぜ宗像の地が繁栄したかについては、長野正孝氏の論考が参考になります。
縄文海進の名残で、現在の宗像市から福津市の沿岸部には、海岸の内側に大きな潟、内湾がつくられ、それが東西に繋がり、荒れる玄界灘と隔絶した穏やかな内海を形成しており、丸木舟で容易に往来できた。
伊都国があった糸島半島も、当時は半島ではなく島で、内海、潮が入る温かい湾があったと言います。
玄界灘は、冬は無論、夏でさえも荒れればどんな漁もできないが、穏やかな潟や内海での素潜り漁や丸木舟を使った漁が可能だったわけです。
彼らの祖は、インドネシア系の海の民で、縄文時代に黒潮に乗ってフィリピン、奄美、南九州経由でやって来た隼人の一派が宗像に至ったという説があります。
宗像氏の系図では、オオクニヌシ6世の孫にあたる吾田之片隅命の子孫とされますが、吾田は阿多に通じるので、阿多隼人族とのつながりが指摘されているわけです。
阿多一族から分派したグループが九州北部に移動し、ヤマト王権の成長期に乗じて勢力を拡大したと……。しかしこの説の真偽については何とも……。
彼らは鐘ヶ崎に定着した後、潜水漁撈と航海技術を携えて列島各地に進出した。
特に鐘ヶ崎は舟で日本海沿いに北上するには最適地。
そこで日本海側に進出し、出雲や石見との往来で濃密な関係を結び、また5世紀後半には瀬戸内海航路にも関係し安芸(厳島神社のもともとの祭神はイチキシマヒメ)辺りにも進出した模様。
8世紀末に没落してしまった安曇氏と異なり、宗像氏は16世紀後半まで勢力を維持します。大宮司家は次第に武士化し、戦国時代には九州北部の戦国大名としても活躍します。
瀬戸内海航路でも活躍したことから、中世の水軍である伊予の越智氏、そこから派生した河野氏、さらには豊後の緒方氏は、宗像氏と源流が重なるのかもしれません。
宗像氏が大きく成長したのは、航海術を駆使して大陸との交易に乗り出したことにありますが、釣川の流域に豊かな穀倉地帯という後背地を確保し、経済的な支えとなったことも大きな要因です。
宗像氏を語る場合に避けて通れないのが玄界灘に浮かぶ沖ノ島の存在です。
4世紀以降7世紀にかけてヤマト王権が朝鮮半島に進出した時期には、半島への外征と航海の安全を祈るために、沖ノ島の女神がヤマト王権の信仰を集め、宗像は祭祀者だけではなく交易者としても勢力を拡大し大きな権益を得たのです。
秀吉によって領地を没収される16世紀後半まで勢力を維持できたのも当然でしょう。
宗像大社の祭神は、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)から生まれたイチキシマヒメ・タギツヒメ・タゴリヒメの宗像三女神とされますが、これはもちろん神話の上での話です。
事実は、沖ノ島の女神信仰が6世紀の後半に3分割されて、九州本土の辺津宮・大島の中津宮・沖ノ島の沖津宮に祀られたわけです。
また宗像が、オオクニヌシ6世の孫にあたる吾田之片隅命の子孫として、オオクニヌシと関連づけられるのも、出雲との濃密な関係から、後世に作られた話でしょう。
宗像氏がヤマト王権のみならず出雲から見ても重要な一族であって、一定の存在感を持っていた証しと言えます。
8世紀になると南路の東シナ海航路が開かれ、王権の使節が玄界灘を通って渡航する必要がなくなり、沖ノ島祭祀は沈静化します。
沖ノ島祭祀と宗像氏については、ヤマト王権による版図拡大(九州北部への足掛かり)を論じる時に、深掘りすることにします。
次回は、住吉の神と海人族、阿多隼人の実像について掘り下げてみます。
参考文献
『海に生きる人びと』宮本常一
『古代史の謎は海路で解ける』長野正孝
『宗像大社・古代祭祀の原風景』正木晃
『一宮ノオト』齋藤盛之
『海の古代史』布施克彦
『古代日本の航海術』茂在寅男
『神社の古代史』岡田精司
『住吉と宗像の神 海神の軌跡』上田正昭編
『大和王権の生成と海洋力』西川吉光
他多数
・ ・ ・