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2024年9月22日 YAHOO!JAPANニュース マネーポストWEB「藤原道長が一門の栄華のために活用した「仏教信仰」 それは頼通の平等院に受け継がれ日本人の美意識に影響を与えた【投資の日本史】
藤原道長が金峯山詣の際に埋納した自筆の経巻の一部(東京国立博物館所蔵『紺紙金字法華経巻第一残欠』 出典:ColBase https://colbase.nich.go.jp)
放送中のNHK大河ドラマ『光る君へ』で話題の藤原道長。劇中、その人物像や権力者としての行いを窺わせるエピソードが数多く散りばめられるが、歴史作家の島崎晋氏が注目するのは「藤原道長の仏教信仰」だ。藤原道長が金銭を惜しみなく投じて仏教を篤く信仰したことがわかる事実から、日本仏教や美術の歴史において道長が果たした役割を考察する。
【関係年表】藤原氏一門の栄達と道長の仏教信仰の記録
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「何をくださいますか。私だけがこの身を捧げるのではなく、左大臣様も何かを差し出してくださらねば、嫌でございます」「私の寿命を10年やろう」──NHK大河ドラマ『光る君へ』の第30回「つながる言の葉」(8月4日ほか放送)には、藤原道長(柄本佑)が陰陽師の安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)に雨乞いを依頼する場面が出てきた。旱魃の被害があまりにひどいため、自分の寿命10年分を代償に、恵みの雨が降るよう祈願させたのである。
この一挙に限らず、『光る君へ』における道長は「一般庶民のことも気にかける仁愛の持ち主」として描かれている。その人物像が史実に近いかどうかはともかく、道長が陰陽道に代表される呪術に加え、公的な神事も怠りなく、私的な仏事にも精励していたことは当人の日記や、同時代の他の公卿の日記からも明らかである。
ただし、道長の仏教への関わりには、ほかの公卿のそれとは大きく一線を画するものがあった。
そもそも、大きな神社仏閣が参拝客・参詣者で賑わうのは広く門戸が開放された近世以降の現象で、平安時代の大寺社は庶民とは無縁の存在だった。荘園領主でもあった彼らは経済的に自立しており、僧侶・神官が奉仕する相手も特定の皇族や公卿に限られていた。
皇族や公卿は当時の上流階級だが、彼らと寺院との関わりは親族の命日に読経、願い事があるときに祈祷を依頼し、その対価として米や織物を寄進するという非常に淡泊なものだった。それでは、藤原道長はどうだったのか。
道長は皇族・公卿のなかで最も熱心な仏教信者だった
始祖の鎌足以来、藤原氏は南都(奈良)の興福寺を氏寺、同じく春日大社を氏神としてきたが、代を重ねるにともない、北家・南家・式家・京家の4家からさらに枝分かれが進んだことも影響してか、それら2寺社に対する道長の姿勢もかなり淡泊だった。そのことは、『光る君へ』の第33回「式部誕生」(9月1日ほか放送)と第34回「目覚め」(9月8日ほか放送)で描かれた、興福寺の要求に一歩も退かなかった道長の態度からも明らかだろう。
だが、道長は仏教や仏法を軽んじたわけではなく、それどころか当時の上流階級のなかで最も熱心な信者だった。先走った言い方になるが、日本古代史と唐代史を専門とする大津透(東京大学教授)は著書『道長と宮廷社会 日本の歴史06』(講談社学術文庫)のなかで、〈仏教信仰の上で新たな時代の先駆けとなった事例が顕著〉、〈生涯に行なった造寺造仏など多くの作善は、それまでになかった新しいものが多く、道長の進取の性格がうかがわれる〉とまで評している。
道長の顕著な造寺造仏は寛弘2年(1005年)10月19日の「浄妙寺三昧堂の落慶供養」を嚆矢とし、同3年12月26日の「法性寺五大堂の落慶供養」、同4年8月の「金峯山詣」がこれに次ぐ。
浄妙寺は、藤原忠平(3代前の祖)が宇治郡木幡(現在の京都府宇治市木幡)を四神相応の地(風水で最適の地)であるとして一門の埋骨地としたのが始まり。しかし天徳2年(958年)に焼亡してからは荒廃するに任されていた。それを悲しんだ道長が一門の菩提所として三昧堂を建立したのが「三昧堂の落慶供養」だ。
道長自筆の日記『御堂関白記』の十月十九日条によれば、道長が仏前で読み上げた願文には、「現世の栄耀や寿命福禄のためではありません。ただ、この山にいらっしゃる先考(父の兼家)や先妣(母の時姫)、および昭宣公(4代前の基経)を始め奉って、諸々の亡き先祖の霊の無上の菩提のためであります。そして今から後は、未来にわたり、一門の人々を極楽に引導しようというのであります」とあった(倉木一宏訳『御堂関白記』講談社学術文庫より)。
これはおそらく道長の本心だろう。大津透は前掲書の中で、〈おそらくこのころ、従来の霊魂的な死のイメージが変わり、死という現実が直視されるようになり、葬所や葬送儀礼よりも墓所が重視されるようになったのだろう〉と推測している。
それに加え、日本を含めた東アジア古来の祖霊信仰の影響も考えられる。祖霊の加護を確実に受けるには、祖霊が極楽浄土で何不自由なく暮らしていることが絶対条件。菩提所で定期的に営む法要は、御仏が祖霊の加護を後押ししてくれるとの安心感をもたらすだけでなく、一門の結束を強化させる機能をも果たしたのではないだろうか。
天皇に嫁がせた長女・彰子の懐妊祈願のため神仏を総動員
次の法性寺は、鴨川東岸の九条河原に藤原北家冬嗣流(冬嗣は道長から11代前の祖)の墓所として創建されたが、天徳二年(958年)3月に焼亡。道長はそこに不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉の五大明王の像をそれぞれ安置する5つのお堂を建立した。
この五大明王を本尊として修する真言密教の「五壇法」は、御敵調伏や懐妊・安産に効験ありとされていたから、時期的に見て、長女の彰子が一条天皇の胤を宿し、無事に健やかな皇子を出産するよう祈願したものと考えられる。
なぜなら、道長の権勢の源は「天皇の外戚」としての立場。天皇に入内させた娘が皇子を出産し、その皇子が健やかに成長することが必要不可欠である。そのため、娘の入内から中宮への昇格、天皇のお渡りを促す工作などにかかる経費すべてが必須のコスト、すなわち投資と言うことができよう。
この点に関し、道長は「2つのリスクマネジメント」に取り組んだ。彰子の生活の場である藤壺(後宮にある建物「飛香舎」の別名)を一条天皇好みの唐物で飾ったのがその1つなら、彰子の懐妊祈願のため神仏を総動員したのもその1つで、法性寺五大堂の建立とそこでの五壇法の修法は後者の一例である。
また彰子のバックアップは一門総がかりで行なう必要があるため、「浄妙寺三昧堂」の建立と、そこで営まれる定期的な法要は、全体の意思統一・意思確認の場および時間として有効に働いたことだろう。
前例無視の「金峯山詣」最大の目的は「彰子の懐妊祈願」か
道長の配下ではないが、道長の政治手腕を高く評価し、道長からはその博学と見識ゆえに一目置かれていた藤原実資という公卿がおり、この実資の日記に、「布衣の一上(トップクラスの公卿)が平安京の外に出る例は、そもそも前例を調べても聞いたことのないことである。事毎に軽率である。いまだに比べるところを知らない」という一文がある(倉木一宏訳『現代語訳 小右記』吉川弘文館より)。名指しこそ避けているが、道長を指しているのは間違いなかった。
平安京の外にまで参詣・参拝に出向く。その中でも最も遠く、最も長期間に及んだのは寛弘4年(1007年)の「金峯山詣」だった。金峯山は大和国吉野のさらに奥にある霊山で、「金の御嶽」とも呼ばれたため、金峯山詣は御嶽詣とも言う。
『御堂関白記』によると、道長が金峯山詣に出立したのは同年8月2日のこと。それまでの75日間、酒食と魚食を断つ精進潔斎を続けたとも伝えられる。
金峯山の中心は標高1719メートルの山上ヶ岳で、『光る君へ』の第35回「中宮の涙」(9月15日ほか放送)でも描かれたように、修験道の聖地でもあるだけに、相当の難所。数日来の雨で足元がさらに悪くなった状況下、道長が絹や布、紙、米など大量の献上品を運ぶ人足を従え、延暦寺や興福寺などの高僧とともに山頂で供養を行なったのは8月11日のことだった。高僧による読経を終えた後、道長は持参した経典を経に納め、蔵王権現が現われたと伝えられる場所に埋納した。
埋納された経典は法華経、仁王経、理趣分、般若心経、弥勒経、阿弥陀経など多岐にわたり、なかには道長自ら書写したものも混ざっていたが、ここで注目すべきは「理趣分(理趣分経)」という経典で、『御堂関白記』には、「主上(一条天皇)・冷泉院・中宮(彰子)・東宮(居貞親王、三条天皇)のため」と記されている。
字面からは見当もつかないが、実のところ、理趣経は性欲の解放を説く経典である。同日の経供養に先立ち、道長が真っ先に参詣した場所が「小守三所(こもりさんしょ)」という懐妊祈願の霊場であったこともあわせ考えると、道長が前例を無視して金峯山詣を実行した最大の目的は彰子の懐妊祈願であった可能性が高い。道長が帰京したのは同月14日のことだった。
日本仏教史上、画期的だった道長の仏教信仰
この時の金峯山詣と埋経は日本仏教史上においても画期的な出来事で、大津透は前掲書の中で、〈今日でも修行以外ではほとんど人間を拒絶する大峯の山上ヶ岳まで登ったということは、ただならぬ信仰心があったことは疑いない。そして道長の埋経は先駆的なものであり、その後の埋経、経塚の流行を導くものである〉と評している。
先駆けと言えば、墓所に寺堂を建立したのも道長の浄妙寺が最初、五大堂の建築様式も道長が建立した法性寺がその後の手本とされるなど、先例重視が普通の平安時代において、道長だけはわが道を行く感が際立っていた。
参詣と言えば、道長による治安3年(1023年)の高野山金剛峰寺参詣も見落としてはならない。金剛峯寺は空海が弘仁7年(816年)に山林修行の道場として開いた地だが、正暦5年(994年)に大火に見舞われてからは衰退が著しかった。
そこへ参詣に訪れたのが道長で、“空海との対面”を果たしたとされる。これをきっかけに「空海はいまなお生きて座禅を続けている」との信仰が生まれ、金剛峯寺は霊場として地位を確立。21世紀の今日に至るまで、その恩恵を受け続けている。また、高野山奥の院への納髪納骨も道長に始まると伝えられる。
この世に極楽を出現させた「法性寺阿弥陀堂」「平等院鳳凰堂」
話は高野山への参詣より前に戻る。仏教を有効利用してきた道長にとって、最後にして最大のクライマックスと呼べるのが、治安2年(1022年)7月14日の「法成寺金堂、阿弥陀堂」の完成供養だった。
建立の地は自身の土御門邸の東隣。阿弥陀堂の内部には金色に輝く9体の阿弥陀像が安置され、各扉には極彩色の『九品来迎図』、すなわち阿弥陀如来によるお迎えの様子が9段階に分かれて描かれた。平安時代後期に著わされた歴史物語の『大鏡』はその有様を「極楽浄土のこの世に現れかると見えたり」、同じく『栄花物語』は「極楽世界、これにつけても、いとどいかにとゆかしく思ひやりたてまつる」と記しており、このような往生図が仏堂内に描かれたのは、法成寺が史上最初という。
道長は計画当初から法成寺を臨終の場と決めており、万寿4年(1027年)12月4日、阿弥陀堂の9体阿弥陀像の前で息を引き取った。法成寺自体はその後の度重なる火災により現存しないが、その造りは嫡男の頼通が天喜元年(1053年)、宇治に建立した平等院に継承された。
頼通は政治家としては不出来な後継者だったが、仏教芸術のパトロンとしては超一流で、宇治の平等院はそれの生きた証と呼んで過言ではない。度重なる戦火により、創建当時の姿をとどめる建築物は、鳳凰堂の俗称で知られる阿弥陀堂のみだが、それだけでも摂関時代の栄華を十分に伝えてくれる。
鳳凰堂中堂の中央に安置されている座高277.2センチメートルの阿弥陀如来坐像は日本独自の寄せ木造りの完成形で、作者は平安時代を代表する仏師の定朝。定朝作品として、現存する唯一確実な像でもある。
阿弥陀如来坐像の背後の壁には極楽浄土図、周囲の壁および扉には、現存するものとしては日本最古の大和絵の『九品来迎図』が描かれ、天井や梁、柱なども美しい装飾で彩られている。ここに入る誰もが極楽に迷い込んだような錯覚に陥るのではあるまいか。日本における信仰と芸術の一体化はここに始まると言ってもよいかもしれない。
投資という観点に立てば、道長が意図したリターンは子々孫々まで及ぶ一門の栄華で、国家の命運は二の次、それ以外は眼中になかったと思われる。しかし、平安文学を専門とする池田尚隆(山梨大学教授)は共著の『藤原道長事典 御堂関白記からみる貴族社会』(思文閣出版)の中で、〈道長の仏事善業は、それ自体が仏教信仰のひとつの理想型であると同時に、のちに連なる大勢の人びとをそれぞれに魅了し、仏法へと引き寄せた点で重要といえる〉との評価を与えている。
さらに一言加えるなら、道長の関与した仏教芸術はその後の日本人の美意識形成に決定的な影響を及ぼした。摂関家の子孫でないその他大勢の日本人にしてみれば、この点こそ、道長の投資による最大のリターンと呼べるのではなかろうか。
【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近著に『呪術の世界史』などがある。
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