・ ・ ・
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2024年9月6日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「古代にも皇位継承問題があった! あわや万世一系崩壊……5~6世紀に訪れた皇統断絶の危機
月耕随筆「雄略天皇 葛城山狩図 」/東京都立中央図書館蔵
連綿と続いたかのように見える皇統も、実は少なくとも2回、継承者探しに苦労したことがあった。22代清寧天皇と25代武烈天皇の、2人の後継者選びである。この時、いったいどのような方法で解決していったのか、その経緯について振り返ってみることにしたい。
■父が殺した市辺押磐皇子の2人の遺児が継承
皇室関連の話題として、昨今、富に懸念されているのが、皇位継承にまつわるお話だろう。皇室典範に記載された第一条「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」に該当する男子が限られているからである。そこで女性の皇位継承を認めるべきだとの議論も湧き上がっているようだが、果たしてどうなることやら。
それはともあれ、これまで長きにわたって連綿と続いてきたと思しき皇位ではあるが、実は少なくとも二度、継承の危機を迎えていたことがあったのをご存知だろうか。22代清寧天皇と25代武烈天皇の跡継ぎに関してである。
まずは清寧天皇から見ていくことにしよう。この天皇を語るに際しては、その父・雄略天皇のことを忘れるわけにはいかない。なぜならこの御仁、自らの皇位を脅かす可能性のある皇族をことごとく葬り去るという、何とも悪どい所業が『日本書紀』に記されているからだ。息子の白髭皇子こと後の清寧天皇以外に1人も有資格者がいなかったことが、何よりも大きな痛手になったのだ。幸いにも、雄略天皇崩御後に白髭皇子が清寧天皇として跡を継ぐことはできたものの、即位5年にして崩御。即位直後から、跡を継ぐべき皇子がいないことを気にかけていたようである。そのまま崩御していれば、確実に皇位継承危機を迎えたはずであった。
しかし、この時は幸いにも、即位2年目にして、幸運の女神が舞い降りてきたようだ。父・雄略天皇によって殺害された市辺押磐皇子の遺児・億計(兄)と弘計(弟)の2人が、播磨に隠れ住んでいることがわかったからである。もちろん、即座に2人を宮中に招き入れて、後事を託したことはいうまでもない。この時、兄弟のどちらが跡を継ぐか多少もめたようであるが、それは互いに辞退したことによるものだったから、むしろ微笑ましいというべきか。ともあれ、兄の方が強硬に辞退したことで、最初に即位したのは弟。顕崇天皇として即位したのが、485年のことであった。しかし、在位わずか2年半で崩御。今度こそ、兄が仁賢天皇として跡を継いでいる。
■皇嗣に恵まれず崩御した暴君・武烈天皇
再び問題が起きたのが、この仁賢天皇の皇子・後の武烈天皇、その崩御後のことであった。武烈天皇といえば、『日本書紀』の記述を信じれば、かの夏の桀王や殷の紂王も真っ青になるほど悪逆非道であったという。妊婦の腹を裂いて胎児を見ることなど朝飯前で、女たちに馬と交尾させ、陰部が潤っていれば殺してしまうなど、極めて異常な性格かつ残忍な行為を繰り返したことが連綿とつづられている。
祖父である雄略天皇も暴君としてその名が知られていたが、この御仁はさらに上。遥かに凌ぐ異常さであった。一説によると、即位したのは、わずか10歳。8年後の18歳の時に崩御(506年)したという若さゆえかどうかわからないが、子宝には恵まれなかった。あらためて皇嗣を探さなければならなかったのだ。となれば、ここで男系皇統が途切れてしまったと見なされても仕方ないような状況であった。
途切れたか途切れなかったのかの議論はともあれ、ここで奮闘したのが、大連・大伴金村であった。最初に仲哀天皇の5世孫で丹波にいた倭彦王に声をかけたものの、恐れをなして逃げられてしまった。そこで翌年、今度は越前にいた応神天皇の5世孫である男大迹王を頼みの綱とし、ついに念願叶って迎え入れることに成功。それが26代継体天皇であった。父・彦主人王が応神天皇の玄孫、母・振姫が垂仁天皇の7世孫でもある。
ちなみに、皇位継承が危機に瀕した場合、遠縁から男系の継承者を探し出さなければならないが、前述の状況から判断すれば、最低限、5世以内の男子であることが条件とみなされていた気配がありそうだ。加えて、皇后も皇族の女子が望ましいと考えられていたこともあってか、即位後、武烈天皇の妹(姉との説も)・手白香皇女を娶って皇后としている。要するに、本流から離れすぎていることを懸念して、武烈天皇の娘の元に入り婿となることによって、王統を正当に受け継いでいると主張したようだ。
ただし、継体天皇の即位に関しては異説もある。武烈天皇が後嗣なく崩御したことを契機として、越前や近江に勢力を伸ばしていた当地の豪族であった男大迹王が、皇位を簒奪したというのだ。樟葉に宮をおいたものの、筒城、弟国、磐余玉穂へと三度も遷らざるを得なかったばかりか、大和国に入るのに19年も要したというほど、対抗勢力に怯えていた。その説明が明確にできなかったことも一因だろう。王統が断絶したと見る王朝交代説も、この辺りでもう一度、検証し直してみる必要がありそうだ。
藤井勝彦
・ ・ ・
2024-07-27
💍47)─1─17~19歳「皇室に関心ない」55%でさらに増加している。〜No.161
・ ・ ・
日本人の中には、天皇制度を廃絶し、天皇家・皇室を消滅させようとする反天皇反民族反日的日本人が存在している。
彼らは、超難関校出の高学歴な政治的エリートや進歩的インテリ達に多く存在する。
・ ・ ・
昭和天皇肖像画の写真を燃やす動画が日本の現代アートに、賛成する日本人が多数で、反対する日本人は少数であった。
昭和天皇は、歴代天皇の中で最も日本人に嫌われている天皇である。
2020-02-18
🦲4〕─18─表現の自由。日本の現代アートは「人の写真(例えば皇族の写真)を燃やす」こと。〜No.19
2020-11-07
🦲4〕─21─あいちトリエンナーレ2019。愛知県知事リコール運動敗北。〜No.22
2021-10-14
🦲4〕─24─昭和天皇肖像燃やす動画と「表現の不自由展かんさい2021」。〜No.25
・ ・ ・
韓国・北朝鮮、中国共産党、アメリカ、ロシア、その他、多くの国々は昭和天皇をヒトラーと同罪の非人道的戦争犯罪と認めている。
アメリカの一部では、昭和天皇が住んでいる東京・皇居の上に原爆を投下して焼き殺す事を望んでいた。
・ ・ ・
日本人の共産主義者や無政府主義者とキリスト教系朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
・ ・ ・
天皇とは、国内の弥生の大乱を鎮めて統一し、海外の中国や朝鮮の侵略から国を守る為の旗頭として、一部のムラ人達による衆議の結果として創られた「平和の象徴=玉=王将」である。
・ ・ ・
天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説とは、日本民族にとって面倒な事や厄介な事や困った事を「否応もなく」天皇と皇族に引き取って貰う事である。
つまり、押し付けられる損な役回り・貧乏くじを嫌だと言わず拒否せず無条件に「引き受けて貰っている」、「やって貰っていただいている」、という事である。
それが、天皇の御威光、天皇の権威、天皇の御稜威・大御心である。
日本民族が天皇・皇族・皇室を護ったのは、「責任逃れをする為に犠牲を強要していた」からである。
・ ・ ・
日本民族は、数千年の間、国と民が四分五裂に分かれて乱れない為に一つにまとめる要石(かなめいし)として万世一系正統男系父系の血統を神話物語(記紀神話)で護り、子孫への神聖不可侵の歴史遺産として、国の象徴、国民の宝として後世に残した。
万世一系正統男系父系天皇の血統廃絶の危機は何時の時代でも存在していたが、そのつど日本民族は叡智を活かして回避してきた。
帰化人は忠誠心と愛国心、志と責任と義務で命を捧げて協力していたが、渡来人達は二つの心を捨て三つの決意を放棄して逃げた。
現代日本に移住してくる外国人移民(主に中国人移民)は、渡来人であって帰化人ではない。
・ ・ ・
なぜ天皇が尊く偉いのか、それは数千年の間を日本列島で生きてきた数億人の日本民族日本人が「天皇は尊く偉い」と確信を持って信じてきたからであり、その十数億人の念いの重さゆえである。
数千年の歴史を生きてきた名もなき十数億人の念いの重さを、「伝統」という。
数千年の歴史を生きてきた名もなき十数億人とは、心と志、血と肉体、絆と繋がりで繋がっている日本民族と帰化系日本人の祖先である。
そこから、祖先を祖先神・氏神として祀る人神崇拝が生まれた。
現代の日本人は、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力を持たないどころか無価値として捨てている。
・ ・ ・
2018年12月22日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済ONLINE「なぜ日本の天皇は125代も続いてきたのか
織田信長もGHQも倒そうとしなかった
伊藤 賀一 : 「スタディサプリ」社会科講師
日本の天皇制は2700年にわたって続いており、天皇の生前退位は実に202年ぶりとなる(写真:AFP/アフロ)
来る2019年4月、天皇の生前退位が行われ、平成の時代が幕を下ろします。高齢と健康上の理由で天皇としての公務を果たすことが難しくなったためですが、天皇の生前退位は119代光格天皇以来、実に202年ぶり。私たちは歴史の転換点に立っているのです。
しかし、どれだけの人が「天皇制」についてしっかりと理解しているでしょうか。それを知るには近現代の天皇を知るだけでなく、過去の歴史をひも解く必要があります。
『ニュースの“なぜ?”は日本史に学べ 日本人が知らない76の疑問』を上梓したスタディサプリの人気講師が、歴史をひも解きながら、「天皇」の存在に迫ります。
みなさんは日本が、「世界唯一の単一王朝国家」だと呼ばれていることをご存じでしょうか。
これは、今上帝(在位中の天皇をこう呼ぶ)まで125代、2700年にわたって万世一系の天皇が存在しているということを指しています。たしかにヤマト政権(のち律令国家の「朝廷」)は、一度も王朝交代は行われていません。
世界にこのような体制は存在せず、ローマ帝国でさえ1000年強の歴史です。どれだけ珍しいかがおわかりいただけるのではないでしょうか。
大王(のち天皇)が125代連続で確実につながっているかどうかは不明です。少なくとも初代の神武天皇から25代目の武烈天皇までは、実在していたかどうかはっきりとはわかりません。ある程度正確に把握できているのは、26代目の継体天皇からです。最初の頃は、『古事記』や『日本書紀』の神話世界ですから。それでも、100代ほどにわたり万系一世で続いているというのは、驚異的なことです。
日本ではなぜ単一王朝が続いたか
日本が他国に乗っ取られたことがないことも、背景にあります。太平洋戦争後、GHQ(連合国軍総司令部)すなわちアメリカ軍に一時的に占領されたとはいえ、外圧によって天皇の存在自体が途絶えることはありませんでした。
では、内圧はどうでしょう。なぜこれだけの間、単一王朝の継続が可能だったのでしょうか。実は、歴代天皇の処世術にその答えがあります。時代をさかのぼってひも解いていきたいと思います。
天皇号の始まりは、飛鳥時代(=古墳時代終末期)です。672年の壬申の乱に勝利した大海人皇子が、従来の「大王」にかわり天武「天皇」と称し即位しました。大王は、ヤマト政権内の「王」である各豪族のリーダー的存在だったのに対し、天皇はその次元を超えた“別格の存在”です。
当時の天武天皇や、妻の持統天皇は強大な権力者で、皇子(親王)たちが補佐をし、自ら政治を執り行っていました(=皇親政治)。
奈良時代になると、天皇の下で「藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂→道鏡→藤原百川」と、政権が目まぐるしく入れ替わり、最終的には藤原氏が最有力となります。しかし、あくまでもトップは天皇で、地位や権威は安泰でした。
平安時代に少し様子が変わります。858年、清和天皇が9歳で即位すると、母方の祖父である藤原良房が、幼少の天皇の政務を代行する「摂政」に就任しました。そして良房の養子基経は、884年に光孝天皇が55歳で就任すると、成人後の天皇を補佐する「関白」に初めて就任。これが「摂関政治」の始まりです。
天皇が処世術として長けていたのは、摂関政治が始まると、母方の親戚(=外戚)である藤原氏に、政務だけを任せた点です。形式的に権威は保った状態のままですから、悪い話ではありません。
一方、藤原氏も天皇を排除して名実ともにトップに立とうとは考えませんでした。圧倒的な権威(金メダル)を持つ天皇の外戚として、政務を代行・補佐しているからこそ摂政や関白に価値があり、転じて自らの権威付け(銀メダル)もできます。天皇の価値をあえて下げ、貴族の分際で暫定トップに立つことには、メリットがなかったのです。このようなスタンスで、11世紀前半の平安時代後期には、藤原道長・頼通親子により摂関政治は全盛期を迎えます。
このように、変化する政治状況を巧みに利用しながら、古代の天皇は自らの地位や権威をキープし続けたのです。
「摂関政治」「院政」と天皇
さて、平安時代末期、中世に突入すると、もと天皇により「院政」が始まります。外戚(=母方の父や伯父・叔父)として藤原氏の摂政・関白もいるのですが、父や祖父が皇位を退いたあとも新天皇の後ろ盾となり、政務をみることが常態化しました。
国民的アニメ『サザエさん』を例に、摂関政治と院政を説明してみましょう。
フグ田家のタラちゃんが天皇の場合、同居する磯野家の波平やカツオ(=母方の祖父や叔父)が摂政や関白を務めるのが摂関政治。磯野家が外戚の藤原氏にあたるわけです。一方の院政は、フグ田家すなわち皇室内の話です。もと天皇のマスオさんが新天皇のタラちゃんを擁し上皇として院政を敷くというイメージです。
院政は、新天皇に圧倒的な権威(金メダル)を引き継ぐ際、もと天皇がメダルを首にかけてあげ、そのまま抱っこしている感じ。藤原氏から反発を買うことはありませんでした。なぜなら、摂政・関白という地位(銀メダル)を取り上げなかったからです。貴族ナンバーワンという立場は保障されています。
1086年、白河天皇が8歳の子(堀河天皇)に皇位を譲り、上皇(太上天皇のち出家して法皇)となったのが院政の初めです。この後、鳥羽上皇や後白河上皇、後鳥羽上皇などが院政を続けます。
中世に院政が行われている間(後醍醐天皇の親政など例外はありますが)、鎌倉幕府や室町幕府といった武家政権が誕生します。幕府は朝廷より軍事的には強大なパワーをもち、実質的に全国を支配していたわけですが、天皇や上皇にとって代わろう、排除しようとはしませんでした。
源頼朝にしても足利尊氏にしても、朝廷から賜った「征夷大将軍」という地位(銅メダル)で満足していました。なぜなら、権威(金メダルや銀メダル)を持つ朝廷から将軍に任命されることに価値があったからです。新興勢力である武家は自らを裏付ける伝統的な権威がなく、軍事力だけで政権は長続きしないことを知っていたのです。
このように朝廷の天皇(上皇)は、軍事力や経済力で上回る幕府の将軍に対し、ある程度の権威を承認するという方法で、自らの地位や権威を維持するようになったのです。クレバーな処世術といえるでしょう。
戦乱期を経た近世の江戸時代も、基本的なスタンスは同じです。江戸幕府は圧倒的に強い存在でしたが、天皇は、政権を将軍に委任する伝統的権威の象徴として生き残りました。幕末の大政奉還も、「幕府の将軍が朝廷の天皇から預かった政権をお返しする」という構図ですね。
朝廷の天皇は、その時点で最も強い勢力を持つ人物を積極的に承認することで権威を保ち続け、生き延びてきました。これは相対する勢力と直接戦って、やがて滅びていく運命をたどったヨーロッパの王朝とは、大きく異なる点なのです。
基本的に天皇が率いる朝廷は処世術に長けていて、幕府と持ちつ持たれつの関係をキープしながら単一王朝を維持してきたといえるでしょう。
天皇とは日本人にとってどんな存在か?
巨大な経済力・軍事力をもつ江戸幕府は、その気になれば朝廷を滅ぼすこともできたはずです。なぜ、そうしなかったのか。すでにおわかりでしょう。
ここまで述べてきたように、朝廷の天皇と有力な権力者は、持ちつ持たれつの関係を維持してきました。朝廷は時の権力を承認することで利用し、一方の権力者は天皇の権威を借りることで統一を進めました。権力者は天皇に権威づけてもらわなければ国をまとめ、政権を維持することができなかったのです。
それゆえ、朝廷の天皇勢力が当時の権力者に本気で逆らった「承久の乱」や「建武の新政」の際も、朝廷の天皇そのものを滅ぼすという発想はありませんでした。
これは細かく歴史を振り返ってみても、終始一貫した日本独自の国民性といえます。
『ニュースの"なぜ?"は日本史に学べ 日本人が知らない76の疑問』(書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします)
たとえば、飛鳥時代の蘇我馬子。当時は相当な権力者でしたが、本人が大王になろうとまではしませんでした。平安時代の藤原道長も平清盛もそう。2人とも、自分の娘を天皇に嫁がせて外戚となり、権威を利用しただけです。
室町幕府の3代将軍・足利義満も、天下統一直前だった織田信長も、天皇になろうとか排斥しようと思ったことはありません。天下を統一した豊臣秀吉も、朝廷を滅ぼすだけの力を持っていましたが、あえて関白に就任しています。天皇の補佐をすることで、農村の足軽出身という出自の低さをリカバーしようとしました。
日本史上最強である徳川家康の一族でさえも、朝廷の天皇から代々征夷大将軍・内大臣に任命される道を選び、朝廷を潰そうとはしませんでした。
明治時代以降も、どんなにいいポジションにいても、誰一人として天皇に成り代わろうと考えた人物はいないのです。
そういう意味では、太平洋戦争後、GHQのマッカーサーが天皇制を維持した判断は正しかったといえます。天皇や国のために神風特攻隊や人間魚雷として命を投げ出すような国民ですから、天皇制を廃止してしまったら何をするかわからないし、日本はまとまらないと考えた背景には、これだけの歴史があったのです。
著者フォローすると、伊藤 賀一さんの最新記事をメールでお知らせします。
伊藤 賀一 「スタディサプリ」社会科講師
・ ・ ・
2019年5月12日 YAHOO!JAPANニュース THE PAGE「なぜ日本に「天皇」という文化が生まれ育ったのか
5月1日、新天皇陛下が即位され、「令和」の時代が幕を開けました。即位に関する数々の厳かな儀式を目にして、改めて日本における天皇の存在の大きさに思いを巡らせた人も多いのではないでしょうか?
建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、「日本の天皇制は他国の王制とは異なる性質をもっている」と指摘します。なぜ、日本には世界に稀な「天皇」という文化が存在しているのでしょうか。若山氏が独自の「文化力学」的な視点から論じます。
平成から令和への感慨
一般参賀に集まった人に姿を見せる天皇、皇后両陛下(写真:アフロ)
平成から令和へと替わるに当たって、上皇、上皇后の、世界の平和を祈り国民の哀しみに寄り添う姿勢が印象に残った。
戦後、急進的に民主主義を求める革新陣営に対して、天皇制は保守的な思想の上に存続したが、現在では、保守陣営がパワー・ポリティクスに傾斜する中で、あくまで平和を祈る天皇の姿勢は、むしろ革新に近い印象を与える。ジョセフ・ナイの唱える「ソフトパワー」というべきか。現在の天皇は政治とは切り離された象徴ではあるが、逆にそのことによって不思議な政治力をもちつつあるように思える。
この「天皇」という、世界にも稀な文化が、なぜこの国の風土に生まれ育ったのであろうか。
天皇文化――保留民主制
かつて三島由紀夫が『文化防衛論』という本を書いて、興味深く読んだのだが、三島にとって、日本文化とはそのまま天皇のことであった。もちろん僕は、科学的な思考を基本とする理系の人間として、文化というものをより広範囲にとらえているが、天皇という象徴が日本文化の大きな部分に及んでいることは認めざるをえない。この「天皇文化」について客観的に考えることは、日本の文化論者として避けることのできないことのように思えるのだ。
世界に王制を抱える国家は少なくない。先進国では北ヨーロッパに集中し、それ以外では中東が目立つ。これをどう理解すべきか。
近代ヨーロッパでは、フランス革命、それに続くナポレオン戦争、プロイセン―ドイツの戦争(普墺戦争、普仏戦争、第一次・第二次世界大戦)、ロシア革命が、各国の社会体制を変革する大事件であったが、北ヨーロッパはこの影響をさほど受けていない。また中東では、植民地支配からの独立に際して多様なアラブ民族の首長がそれぞれ国家を形成した。古い王政に対する革命と国民投票による大統領制を完全な民主制であるとするならば、いずれもある種の「保留」をしているのだ。その意味で日本もまた王制を維持する「保留民主制」なのである。
しかし日本の天皇制は、こういった他国の王制とはまた異なる性質をもっている。
ユーラシアの帯――別荘の別荘
幅広く建築から、日本文化の位置づけを考える。
16世紀以後にヨーロッパ諸国が植民地につくったものと近代建築(モダニズム)は別にして、世界の高度化し複雑化した建築様式(主として宗教建築)は、ユーラシア大陸の西から東へと延びる細い帯状の地域(アフリカ大陸北岸を含む)に集中していることは前に述べた*1。これが人類の文明を育んだ「文化交流の帯」である。
この「ユーラシアの帯」には、西と東に建築様式分布における中心域が認められる。西の中心は「地中海」という海である。東の中心は「黄河と長江」という二つの大河の流域で、中国のいわゆる中原である。
「西の地中海文化」における宗教建築は石造で、その様式分布はアルファベットという音の記号としての文字体系の分布と相関が深い。メソポタミアとエジプトを淵源として、インド文化もペルシャ(イラン)文化も巻き込んで、ギリシャ、ローマ、イスラム世界、そしてヨーロッパへと、ダイナミック(動的)に発展し「大きな文化圏」を形成した。16世紀以後は西欧海洋国をつうじて植民地へと拡大し、19世紀以後は近代文明として全世界に広がり、現代のグローバリズムにつながっている。いわば文明のメインストリームだ。
「東の黄河長江文化」における宗教建築は木造で、漢字という表意文字をもつ「小さな文化圏」を形成した。動乱はあっても文化的本質はあまり変化しない、比較的スタティック(静的)なものであり、変化の激しいメインストリームから見れば、どこか別荘的な文明であった。
日本は、この「ユーラシアの帯」の東端であり、「黄河長江文化」から海を隔てて位置する。ユーラシア西端のイギリスに似ているが、イギリスはヨーロッパ大陸に近く「はなれ」のようなものだが、日本はもう少し離れた別荘のようなものだ。つまり世界の文化地理において、二重の意味で別荘的な文化なのだ。この東端の列島という位置性が、天皇という独特の文化を生んだ。
王、皇帝、天皇
「天皇」という言葉と概念が登場するのは、天皇史上もっとも権力が集中した天武帝の御代とされる。文字、都市、法律、その他、中国を規範として国家制度が整えられていく時期であり、天皇文化が中国文化との関係によって成立したことは明らかだ。しかしそのままではない。
民族と文化の激しい戦いが続いた地中海文化と比べ、黄河長江文化には強力な一神教としての宗教が成立しなかった。儒教は道徳に近く、道教の源流となった老荘思想は哲学に近く、宗教ではないという人もいる。つまり比較的宗教色が薄い文化なのだ。しかし「天」という概念に対する尊崇の念は強かった。
それぞれの国を治める「王」を超えて、一つの文化圏としての中国全体を治める「皇帝」という概念ができたのは始皇帝のときだが、以後、中国の歴代皇帝は天帝(天の支配者=北極星を象徴とする神のような存在)の子として「天子」とされた。「天皇」はこの「天」を含むので、皇帝より上の感覚もあり、形而上学的(宗教的)な意味をより強く含む。
また「天皇」は英語で「エンペラー」と訳されるのだが、西洋における「エンペラー=皇帝」は、もともと古代ローマの「インペラトル」から来ており、政治の実権を握った軍事指揮官の意味が強い。ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)がその象徴的人物で、ドイツのカイザーも、ロシアのツァーリもこの「カエサル」を語源とする*2。「天皇」には明らかにそれ以上の神聖感がある。
つまり中国やヨーロッパから見れば、一人の王の領域ほどしかない日本列島が、今なお、皇帝さえ超えるほどの意味をもつ象徴を抱えているということになる。“偉そうなところのある”文化なのだ。とはいえ、王朝が交代する中国(易姓革命)やヨーロッパと比べ、「万世一系」とされるように圧倒的な歴史の長さがあることは事実である。というより「これ(天皇家)だけは変わらない」というのが日本文化の特質である。
現実の歴史においても「天皇」は、政治権力者である期間はほとんどなく、むしろ権力者に担がれる存在であった。その意味で天皇と権力者の関係は、ヨーロッパにおけるローマ法王と各国の王あるいは神聖ローマ皇帝、イスラム圏におけるカリフとスルタンの関係に似ているが、天皇は、ローマ法王やカリフのような完全な宗教者とはいえない。そこに、権力者でもなく、宗教者でもない、文化主催者としての姿が浮かび上がる。
「家」と「やど」――美意識の象徴
視点を変えて、文学から日本文化と天皇の関係を考える。
日本文学では、住まいを表すのに「家」と「やど」という、同じ意味の二つの言葉がもちいられる。「わがやど」は旅の宿ではなく「自宅」を意味するのだ。『万葉集』において、「家」は「人の空間」、「やど」は「草花の空間」として使い分けられたのだが、『古今和歌集』以後、和歌集の中では必ず「やど」が使われるようになる*3。そして天皇は、その「和歌」という文化の主催者となるのだ。ここに、遣唐使を廃止して中国文化と対等の価値をもつ「日本文化」を定立する意識が見て取れる。つまり「天皇」は、中国の影響を受けながらも中国に対峙するという意識のもとに成立する文化象徴なのである。以後、天皇は「家」という「人の空間=俗世間」ではなく、「やど」という「草花(花鳥風月)の空間=美意識」の住人となる。
日本文化に詳しいアメリカ人と議論したとき「日本には思想の代わりに美意識がある」といわれたが、これは慧眼である。つまり天皇には、政治家でも宗教家でもなく、文化主催者としての意味があり、日本的美意識の象徴としての意味があるのだ。しかもそれは、外国の王や皇帝のもつ豪華絢爛の美ではなく、「もののあはれ」や「侘び寂び」といった言葉でも表現される、素朴で清らかな、ある種「清貧」ともいえる美意識である。この点こそ、内外を問わず人々に受け入れられやすい日本天皇制の特質であろう。
世界の哀しみに寄り添う天皇へ
美智子上皇后がつくられる歌には、伝統の美意識と戦争も含めた災害犠牲者への哀切の念とが一体化していることを感じる(写真:つのだよしお/アフロ)
美智子上皇后がつくられる歌には、この伝統文化的な美意識と、戦争も含めた災害犠牲者への哀切の念とが一体化していることを感じる。彼女は、平安王朝の歌人が追い求めた「もののあはれ」という移ろいの美意識を、被災した国民への「哀切」に重ねたのではなかろうか。つまり世界の人々の平和と安寧と幸福を祈る上皇、上皇后の姿には、この国の伝統的な美意識の力と、国を超えた哀しみに寄り添う力とが融合した普遍的な文化力があるのだ。
現時点で、日本には天皇を否定する思想も理論も存在しない。われわれは、この世界にも稀な文化象徴を、末永く、より良い方向に、守っていく覚悟が必要である。つまり天皇家とともに国民もまた努力すべきなのだ。革命と大統領制という「完全民主主義」の理念からは外れるところもあるこの制度に対して、世界に理解を求め、大切にすることに共感を得る努力が必要なのだ。近隣国の現実を考えれば、これは簡単なことではない。
戦後、マッカーサー元帥は日本を統治するために天皇を政治利用したというのがもっぱらの評価だが、僕は少し違うものも感じている。彼は、昭和天皇個人あるいはこの類いまれな象徴の制度に、ある種畏敬の念を抱いたのではないか。そこに貴族的な軍人としての美意識が働いたのではないか。「断ち切るにはあまりに惜しい」といったような…。それはルース・ベネディクト、エドウィン・ライシャワー、ドナルド・キーンといった日本文化研究者にも共通して感じられるものだ。
「アメリカ人と天皇文化」という、また別のテーマが浮かび上がるが、それはまた別の機会に書いてみたい。
*1:THE PAGE 「親密」な握手、ゴルフ、食事、会談……日米同盟の文化的な構図(2017年11月15日配信)
*2:拙著『ローマと長安―古代世界帝国の都』講談社現代新書
*3:拙著『「家」と「やど」―建築からの文化論』朝日新聞社
・ ・ ・
天皇の御威光とは、庶民を「大御宝」と念う天皇の御稜威、大御心である。
昭和天皇と東条英機・松岡洋右・松井石根らA級戦犯達が行った、ヒトラーとスターリンから逃げてきた数万人のポーランド・ユダヤ人難民を助け保護したのも、差別反対・弱者救済・貧困愛護そして儒教的徳以上の神話的道理(本質的価値観)に命を賭ける天皇の御威光であった。
日本の国際的信頼性や外交・金融・文化的信用度を、保証できるのは数千年の歴史を持つ正統な天皇の御威光のみである。
天皇の御威光は「穏やかな祀りと祈り」として、日本国や日本民族だけではなく世界の平和と安寧、人類の幸福と繁栄をも対象とした、それが「八紘一宇」であった。
歴代天皇の中で、それを深く考え実行したのが昭和天皇であった。
・ ・ ・
天皇の御威光が誕生したのは7世紀初頭の第33代推古天皇(女帝)御代であり、生んだのは聖徳太子である。
・ ・ ・
歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義やマルクス主義に染まっていった。
江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
・ ・ ・
同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
マルクス主義・共産主義の階級闘争史観やキリスト教の最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
・ ・ ・
現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
・ ・ ・
戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義・天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
・ ・ ・
少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
日本を動かしているのは学閥である。
・ ・ ・
保守には、正統保守やエセ保守など数多くの保守が存在する。
現代日本では、急速に新保守の守旧派とエセ保守が増えた。
正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。
・ ・ ・