☳6〕─2─敗戦後の朝鮮半島で多発していた日本人避難民に対する惨殺・強姦事件。~No.15No.16 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  

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 日本人にとって朝鮮人は、友人でもなく親友でもなく、ましてや戦友でもない。
 古代方、朝鮮と日本には友好など存在しない。
 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
 朝鮮の日本侵略史。
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 ロシア軍・ソ連軍(ロシア人共産主義者)であるロシア人は、江戸時代後期の文化露寇事件から現代のウクライナ侵略戦争まで変わりない人間性を持っている。
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 エセ保守系リベラル左派系のメディアや教育は、戦争の悲惨として沖縄戦における沖縄県人を取り上げるが朝鮮・満州南樺太で十数万人の日本人避難民(女性や子供達)が犠牲になった話を無視して歴史の闇に葬っている。 
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 2024年6月21日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「「若い女の兵士がニヤニヤとしながら、ピストルを突きつけて…」 朝鮮半島に進駐してきたソ連兵は「赤ん坊の着物」まではぎとった #戦争の記憶
 ソ連
 「来たぞ」と言うと、母と姉や妹は天井裏に隠れた―― (※画像と記事本文は直接関係ありません)(他の写真を見る)
 ロシア軍のウクライナにおける暴虐は数多く伝えられている。ロシア側の戦闘員には、民間の受刑者らが「ストームZ部隊」の兵士として多数投入されているという報道もある。
 歴史は繰り返すということだろうか。
 1945年8月、朝鮮半島。敗戦の6日後にはソ連軍が北朝鮮に進駐し、略奪と暴行の限りを尽くしたといわれるが、そこでも「囚人番号」らしき入れ墨が刻まれたソ連兵の姿が目撃されている。難民と化し格好の餌食となった在留邦人たちは、どれほどまでに凄惨な体験を強いられたのか――。
 日本人難民6万人を救った男:松村義士男(ぎしお)
 1945年8月、敗戦の6日後にはソ連軍が北朝鮮に進駐し、略奪と暴行の限りを尽くしたといわれる地獄のような状況下で、6万人もの日本人を朝鮮半島から脱出させ祖国に導いた「松村義士男(ぎしお)」。当時、34歳という若さであり、一介の民間人に過ぎなかった (出典:『北鮮の日本人苦難記』時事通信社刊より)(他の写真を見る)
 そんな状況を憂い、6万人もの同胞を救出する大胆な計画を立てて祖国に導いた「とある男」に光を当てたノンフィクション『奪還 日本人難民6万人を救った男』(城内康伸著)より、一部抜粋・再編集して紹介する。(全6回の3回目/最初から読む)
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 太平洋戦争の敗戦で朝鮮半島北部の邦人は難民に。飢餓や伝染病で斃れゆく老若男女の前に忽然と現れ、ソ連軍の監視をかいくぐり、母国へと導く男――彼はかつて国家から断罪されたアウトサイダーだった。時間も資金も情報もない中で、頭脳と度胸を駆使した決死の闘いが始まる。見返りを求めない「究極の利他」が胸を打つ実話
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 ソ連兵によるすさまじい略奪
 終戦直後の北朝鮮では、ソ連兵が略奪、暴行の限りを尽くした。避難民ばかりでなく、各地に残る日本人が格好の餌食となり、恐怖におののいた。
 ソ連軍は1945年8月21日に東海岸の都市、咸鏡南道(ハムギョンナムド)元山(ウォンサン)と咸興(ハムン)に進駐した。北朝鮮の中心都市・平壌ピョンヤン)には、24日に鉄道と大型輸送機で入城した。米軍が北緯38度線以南で軍政を敷いたのとは異なり、ソ連軍は朝鮮人による人民委員会を行政の主体とする間接統治方式を採用した。ソ連軍が北朝鮮から撤収するのは、朝鮮民主主義人民共和国が1948年9月に建国した後の同年12月だった。
 北朝鮮には終戦当時、陸海合わせて約12万人の日本軍が駐屯していた。ソ連軍はその武装解除を行うと、使役のため1000人単位の作業集団に編成してシベリアに連行した。軍人だけではなく、朝鮮総督府の官吏や警察官まで拘束した。
 地図:終戦直後の朝鮮全図
 終戦直後の朝鮮全図 (画像は『奪還 日本人難民6万人を救った男』より。図版制作:ユニオンワークス)(他の写真を見る)
 「汚い格好で赤鬼みたいな顔をしたのが」…
 進駐してきたソ連兵による略奪はすさまじかった。元玉川大学教授の若槻泰雄の著書『戦後引揚げの記録』は、次のように指摘する。
 〈道路上で小銃をつきつけポケットから目ぼしいものをとりあげるという“軽度”のものから、トラックを日本人の家に乗りつけて根こそぎ奪っていくという“本格的”な略奪まで、やり方はさまざまだが、ソ連兵の中には、女性の髪の中をさぐり、あるいは赤ん坊の着物まではぎとったものさえいる〉
 国民学校6年生だった藤川大生(ますお)は、生まれ育った平壌ソ連兵が進駐してきた直後の光景が目に焼き付いている。
 「8月25日前後です。汚い格好で赤鬼みたいな顔をしたのが、何台ものトラックに分乗して平壌に入ってきました。そいつらが今まで日本軍が使っていた兵舎や施設を接収して、自分たちの部隊で利用した。
 3~4カ月で次の部隊と駐留を交代したけどね、最初に進駐してきた部隊はみんな、手の甲に入れ墨があった。数字が彫ってあるんですよ、囚人番号でしょうか」
 まず狙われたのは「時計」
 全ての物資を現地調達する方式は、日本人、朝鮮人の区別なく民間人に無数の被害を生んだ。
 「やつらはとにかく、何もモノがない。まず狙うのが時計です。腕時計だろうが置き時計だろうが、脅してひったくった。僕が仲良くなったソ連兵は『時計なんて自分の村には教会に一つだけしかない』と言っていた。
 日本人だろうと朝鮮人だろうと、行き交う人を捕まえては、時計をひったくる。両腕にたくさんの時計をはめている兵士もいた。
 連中はねじを巻くことを知らないんだ。だからカチカチという時計の針が動く音がしないと、『死んだ』と言って捨てちゃうんですよ」
 若い女の兵士がニヤニヤとしながら、ピストルを突きつけて「動くな」
 藤川の家に、ソ連兵が強盗に押し入ったのは白昼のことだったという。食品加工会社に勤務していた父の一生は終戦の3カ月前から、中国・天津に長期出張していた。植民地時代の警察はすでになく、無法者を阻止する者はいなかった。
 「家の前に軍用トラックを横付けするんですよ。『来たぞ』と言うと、おばあちゃんだけ残して、母と姉や妹は天井裏に隠れた。まだ若い女の兵士がニヤニヤとしながら、僕にピストルを突きつけて『動くな』と。拳銃を突きつけた女は囚人ではなく、将校にみえました。
 一緒に来た4~5人の男が、部屋中を探すんです。6畳ほどのじゅうたんを部屋に敷いて、日用品や時計、洋酒などあらゆるモノをじゅうたんの上にボンボン入れちゃう。家中を物色し終わると、女に『これくらいでいいか』と聞いて、彼女が『うん』と言うと、じゅうたんの四隅をもって引きずりながら出て行った。そういう被害が2度ありました」
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 第1回の〈「日本人6万人」の命を救った“アウトサイダー”を知っていますか 〉ではきわめて過酷な状況下で6万人という、外交官・杉原千畝の「10倍」もの同胞を祖国に導いた「松村義士男(ぎしお)」について紹介している。
 ※『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部抜粋・再編集。
 太平洋戦争の敗戦で朝鮮半島北部の邦人は難民に。飢餓や伝染病で斃れゆく老若男女の前に忽然と現れ、ソ連軍の監視をかいくぐり、母国へと導く男――彼はかつて国家から断罪されたアウトサイダーだった。時間も資金も情報もない中で、頭脳と度胸を駆使した決死の闘いが始まる。見返りを求めない「究極の利他」が胸を打つ実話
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 デイリー新潮編集部
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 6月24日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「性的な求めを拒絶した10代の姉妹を酒に酔ったソ連兵が射殺――性暴力は「日常」だった #戦争の記憶
 ソ連
 性暴力は、もはや日常茶飯事だった―― (※画像と記事本文は直接関係ありません)(他の写真を見る)
 1945年8月、朝鮮半島。敗戦の6日後にはソ連軍が北朝鮮に進駐し、難民と化した在留邦人に略奪と暴行の限りを尽くしたといわれるが、その凶暴性は何よりも女性たちに対してむき出しにされた。酒に酔ったソ連兵が、性的な求めを拒絶した10代の姉妹を射殺する事件も起きており、子どもたちの間で広がった“ソ連ごっこ”では、ソ連兵役の子が「女を出せ!」とロシア語で叫び、日本人の女性役の子を追いかけまわす――。性暴力は、もはや日常茶飯事だったのだ。
 日本人難民6万人を救った男:松村義士男(ぎしお)
 1945年8月、敗戦の6日後にはソ連軍が北朝鮮に進駐し、略奪と暴行の限りを尽くしたといわれる地獄のような状況下で、6万人もの日本人を朝鮮半島から脱出させ祖国に導いた「松村義士男(ぎしお)」。当時、34歳という若さであり、一介の民間人に過ぎなかった (出典:『北鮮の日本人苦難記』時事通信社刊より)(他の写真を見る)
 当時、6万人もの同胞を救出する大胆な計画を立てて祖国に導いた「とある男」に光を当てたノンフィクション『奪還 日本人難民6万人を救った男』(城内康伸著)をもとに、日本人女性たちが体験した「地獄」を再現する。(全6回の4回目/最初から読む)
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 太平洋戦争の敗戦で朝鮮半島北部の邦人は難民に。飢餓や伝染病で斃れゆく老若男女の前に忽然と現れ、ソ連軍の監視をかいくぐり、母国へと導く男――彼はかつて国家から断罪されたアウトサイダーだった。時間も資金も情報もない中で、頭脳と度胸を駆使した決死の闘いが始まる。見返りを求めない「究極の利他」が胸を打つ実話
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 深夜、トイレの前で拉致された日本人女性
 ソ連兵の凶暴性は何よりも女性に対して、むき出しにされた。
 17歳だった神崎貞代は南下途中で辿り着いた日本海に面する城津(じょうしん、現在のキムチェク)で、ソ連兵の恐ろしさに震えた。
 城津駅近くにあった機関庫で深夜、疲れ切った体を休めていると、闇を引き裂く悲鳴が響き渡った。用を足しに機関庫の外に出た数人の女性が便所の前で、ソ連兵に連れ去られたのだった。
 神崎が表情を強ばらせて振り返った。
 「明け方、女の人たちは黒パンを抱えて、さながら廃人のような様子で戻ってきたと聞きました。(避難民の間で)『女性は一人で便所に行かないこと』と注意が出ました。行く時間を決めて、その時には、男の人がトイレまで2列に並んで、その間を走って行くんです」
 女性は男に見えるように、髪をバッサリと切り、鍋底にこびりついたススを顔に塗りつけた。神崎や神崎の母もそれに倣った。
 地図:終戦直後の朝鮮全図
 終戦直後の朝鮮全図 (画像は『奪還 日本人難民6万人を救った男』より。図版制作:ユニオンワークス)(他の写真を見る)
 「死んだようになった女は、身を伏したまま泣いている」
 若い女性の断髪は当時、北朝鮮各地で繰り広げられた。例えば、満州との境に近い平安北道(ピョンアンプクド)江界(カンゲ、現在は慈江道=チャガンドに属する)では、「若い女達は、ソ連兵が来るたびに、みな屋根裏や地下室に隠れるか、高梁畑に身をかくした。誰いうとなく髪を切った女に手を出さぬというので、娘達はみないがぐり頭になって、立派な中学生になりすました」と江界日本人世話会会長を務めた八嶋茂は手記で振り返っている。
 水俣病の発生で国内外の批判を浴びた化学メーカー「チッソ」の前身にあたる「日本窒素肥料」。同社は戦前、日本海に通じる東朝鮮湾に面した咸鏡南道(ハムギョンナムド)興南(フンナム)に世界最大規模の化学コンビナートを築いた。その興南工場に勤務していた鎌田正二が記した『北鮮の日本人苦難記──日窒興南工場の最後』には、ソ連兵による暴虐の凄まじさについて、一例を挙げて描写されている。
 〈「ロスケがきたぞ」と叫ぶ声に、逃げだそうとするまもなく、数名のソ連兵がピストルを手に、ドヤドヤと靴音たかくはいりこんでくる。一名のソ連兵は、おどおどしている夫にピストルをつきつけて、部屋のそとへつれだす。妻は子供をいだいて恐怖におののいている。ソ連兵は子供をうばいとって投げだし、女にいどみかかる。女の必死の抵抗も、数名の男にはかなわない。やがてソ連兵はひきあげてゆくが、死んだようになった女は、身を伏したまま泣いている。夫は歯を食いしばって、すごい形相をしていたが、やにわに庖丁を手にソ連兵を追おうとする。近所の人たちは、「がまんしろ」と押しとどめる。みんなに迷惑がかかるからと頼む。夫は思いとどまる。数日のあいだ夫はやけになって、どなりちらし、妻は苦痛のため起きようとしない〉
 酒に酔ったソ連兵が10代の姉妹を殺害
 日本の敗戦後、咸興(ハムン)に住んでいた日本人と避難民の救済・援護活動にあたった咸興日本人委員会が1946年12月にまとめた「北鮮戦災現地報告書」は、1945年9月当時の咸興における被害を次のように伝えている。
 〈特に戦闘部隊としてまっ先に進撃してきたソ連軍の本国帰還の交替期を前にして、司令官の命令を肯んじない不良兵の暴挙は、9月中・下旬が絶頂で、市街の周辺住宅地区を主として、昼夜の別なく不法侵入による盗難・暴行・凌辱事件が頻発、この届出が1日20件から30件を下らず、在留同胞は生きた心地のない日常生活に怯えきっていた〉
 報告書には、18歳と17歳の姉妹が11月2日に咸興の神社で、泥酔したソ連兵の求めを拒んで、数発の銃弾を浴びて死去した事件も記録されている。
 「女はいるか? 金はたくさんあるぞ」
 1946年春ごろになると、咸興や興南に在留する日本人の子供の間には、“ソ連ごっこ”が広がった。
 「マダム、イッソ?(女はいるか) トン・マニイッソ(金はたくさんあるぞ)」
 ソ連兵役の子供が、黒パンに見立てた赤レンガをわきに抱え、朝鮮語で訊く。それに対して、日本人の男役に扮した子供がロシア語で「ニエット(いない)」と否定する。すると、ソ連兵役の子供は日本人の女性役になった別の子供を見つけて、次のように叫んで追いかけ始めるのだ。
 「マダム、ダワイ!(女を出せ)」
 鬼ごっこに似た、この陰惨きわまりない遊びの流行は当時、ソ連兵の女性暴行が日常茶飯事と化していたことを示す証左だといえるだろう。
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 第1回の〈「日本人6万人」の命を救った”アウトサイダー”を知っていますか〉をはじめ、終戦で難民と化したきわめて過酷な状況下で、外交官・杉原千畝の「10倍」もの同胞を祖国に導いた「松村義士男(ぎしお)」について、全6回にわたって紹介する。
 ※『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部抜粋・再編集。
 太平洋戦争の敗戦で朝鮮半島北部の邦人は難民に。飢餓や伝染病で斃れゆく老若男女の前に忽然と現れ、ソ連軍の監視をかいくぐり、母国へと導く男――彼はかつて国家から断罪されたアウトサイダーだった。時間も資金も情報もない中で、頭脳と度胸を駆使した決死の闘いが始まる。見返りを求めない「究極の利他」が胸を打つ実話
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 デイリー新潮編集部
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 10月15日 6:24 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「「もう一人の杉原千畝」 究極の利他を実践、6万人もの日本人を救った「義士」がいた #戦争の記憶
 日本人難民6万人を救った松村義士男(ぎしお)。当時、34歳という若さであり、一介の民間人に過ぎなかった (出典:『北鮮の日本人苦難記』時事通信社刊より)
 ナチス・ドイツなどから迫害を受けたユダヤ人難民に「命のビザ」を発給し続けた外交官・杉原千畝(ちうね)。約6000人の命を救ったことから、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる。同じ頃、日本の敗戦直後に杉原の「10倍」、およそ6万人もの日本人難民の救出に尽力した男がいたことをご存じだろうか。
 【写真を見る】闇夜の「38度線」突破 力尽きる幼い子供も少なくなかった――
 敗戦まもない北朝鮮で「引き揚げの神様」とまで呼ばれたその人の名は、松村義士男(ぎしお)。金も権力も持たない一介の市民であり、戦前には労働運動へ身を投じたことで国家から弾圧されたアウトサイダーだった――。
 ※本記事は、城内康伸氏による最新刊『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部を抜粋・再編集し、全6回にわたってお届けします。
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 70万の日本人が「難民」に
 1945(昭和20)年8月、敗戦によって日本の植民地支配が終わり、拠り所を失った朝鮮半島に住んでいた在留邦人は事実上の「難民」と化した。
 復員省などの調査によると、終戦当時、朝鮮半島には約70万人の一般邦人が住んでいた。そのうち北緯38度線以北、すなわち北朝鮮地域(以下、北朝鮮)に住んでいたのは約25万人と推定されている。さらに終戦前後には、満州から約7万人の避難民が北朝鮮になだれ込んだ。
 朝鮮半島は、北緯38度線を境として米軍とソ連軍の分割占領下に置かれた。北緯38度線以南の南朝鮮地域(以下、南朝鮮)に進駐した米軍は、在留邦人の日本本土への早期送還方針を徹底させ、南朝鮮に住んでいた日本人約45万人の引き揚げ作業は、終戦翌年の1946年春までにほぼ完了した。
 劣悪な環境下、6人に1人が死亡した地域も
 終戦直後の朝鮮全図 (画像は『奪還 日本人難民6万人を救った男』より。図版制作:ユニオンワークス)
 一方、北朝鮮では違った。進駐したソ連軍は1945年8月25日までに、南北間を運行していた鉄道を北緯38度線で断ち、北緯38度線を事実上、封鎖した。これによって、南北間の交流は全て遮断された。北朝鮮の在留邦人は南朝鮮への移動を許されず、北朝鮮に閉じ込められる形になった。
 さらに、ソ連や旧満州と国境を接する北朝鮮北部の咸鏡北道(ハムギョンプクド、道は県に相当)は、ソ連軍による侵攻で直接、戦火にさらされた。終戦前には約7万4000人いた咸鏡北道の在留邦人のうち約6万人は、住み慣れた土地と家を捨てて避難のために南下した。咸鏡北道の南端と境界を接した咸鏡南道(ハムギョンナムド)に、とりわけ同道の中核都市だった咸興(ハムン)や興南(フンナム)、元山(ウォンサン)などに、どっと押し寄せた。
 こうした人々は「避難民」と呼ばれ、北部の山間部を長い場合には、1カ月以上も歩き続けた。逃避行の道中では、植民地支配の抑圧から解き放たれた朝鮮人による略奪に遭うことも多かった。体力を失った高齢者や幼い子供の中には、力尽きて仆(たお)れた人も少なくなかった。
 残暑の厳しい中、やっとの思いで辿り着いた避難先の街で、疲労困憊し、ほぼ無一文になっていた避難民を待ち受けていたのは、深刻な住居、食料の不足だった。例えば、終戦前には一般邦人の数が約1万2000人だった咸興の街には、1945年10月時点で、その倍以上の約2万5000人もの避難民が流入し、貧困者で溢れかえった。
 栄養失調と劣悪な環境下での集団生活。冬が近づくにつれて発疹チフスなどの感染症が猖獗(しょうけつ)を極めた。咸興では同年8月から翌年春にかけ約6300人が死亡した。6人に1人が命を落とした計算となり、北朝鮮で最悪の惨状を呈した。
 立ち上がったのは、警察にマークされていた「異端の人」
 太平洋戦争の敗戦で朝鮮半島北部の邦人は難民に。飢餓や伝染病で斃れゆく老若男女の前に忽然と現れ、ソ連軍の監視をかいくぐり、母国へと導く男――彼はかつて国家から断罪されたアウトサイダーだった。時間も資金も情報もない中で、頭脳と度胸を駆使した決死の闘いが始まる。見返りを求めない「究極の利他」が胸を打つ実話 『奪還 日本人難民6万人を救った男』
 そのような苦境において、咸鏡南道咸鏡北道に取り残された日本人を日本本土に引き揚げさせるため、南朝鮮に次々と集団で脱出させた人物が北朝鮮にいた。その名を松村義士男(ぎしお)という。
 日本人の引き揚げ史に詳しい駒澤大学文学部教授の加藤聖文の著書『海外引揚の研究──忘却された「大日本帝国」』によると、日ソ開戦前、咸鏡南道咸鏡北道に住んでいた日本人は旧厚生省の推計で約14万人、北朝鮮の日本人全人口の6割近くを占めていた。その両地域から在留邦人を大量脱出させる工作で、中心的な役割を果たしたのが松村だった。
 松村は、戦前には労働運動に加担したなどとして治安維持法違反で、2度にわたり検挙された元左翼活動家だった。このため、北朝鮮の新政権の中には、かつて共に辛酸を嘗めた共産主義者の知己が多く、こうした人脈を生かして日本人救済に尽力した。
 私の手元には背広姿で頬杖を突く松村の写真がある。武骨な雰囲気を湛え、天然パーマがかかったような短髪に大きな鼻、濃い眉毛に切れ長の細い目をしている。その瞳には強い意志が宿っているように見える。
 難民の救済といえば、第2次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ難民に「命のビザ」を発給し、約6000人もの命を救ったとされる外交官の杉原千畝が有名だ。
 一方、咸鏡南道咸鏡北道の都市から列車や船によって集団で南下した日本人の数を集計した資料を総合して推算すると、松村が直接・間接的に脱出を手助けした人の数はおよそ6万人に達するとみられる。
 松村は当時、34歳という若さであり、一介の民間人に過ぎなかった。しかも戦前には、治安当局の弾圧に遭い、世間からは「アカ」と白眼視された“アウトサイダー”だった。
 そんな人物がなぜ、敗戦によって日本が国家としての主権を失い無力だった状況で、在留邦人を引き揚げさせるために身を賭したのか──。その点に私は興味が湧いた。
 それから間もなく80年。彼を知る人は極めて少ない。だが、杉原に劣らぬ功績を残しながら、このまま忘れ去られていくのは、あまりに惜しい。
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 ※『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部抜粋・再編集。
 デイリー新潮編集部
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