🚣4〕─2─日本人のルーツ「ホモサピエンス」は船に乗ってやってきた。〜No.15No.16 

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 日本民族の祖先は、日本列島の先住民であるヤポネシア人(日本列島人)であり、日本土人である縄文人はその子孫である。
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 2024年10月20日 YAHOO!JAPANニュース「日本人のルーツ「ホモサピエンス」とは?船に乗って日本に来た⁉
 日本人の祖先は、いつ、どこからきたのか (C)AQ-taro Images / PIXTA(ピクスタ)
 地球上で起きていること、どれだけ知っている?
 この地球で当たり前に感じていることでも、うまく説明できないことがありますよね。例えば、「青い空が夕暮れに赤く染まるのはなぜ?」「台風が日本列島めがけてやってくる理由は?」
 そんな地球に生きる私たちが知っておくべき「理系雑学」をご紹介します。太陽系を含む地球の歴史をはじめ、地球上で成立した大自然や気候、動植物、資源など、地球をめぐる大疑問にスッキリ回答!あらためて考えると、私たちはこの地球にまつわるさまざまなことを、じつはほとんど知らないのかもしれないかもしれません。
 ※本記事は雑学総研著の書籍『人類なら知っておきたい 地球の雑学』から一部抜粋・編集しました。
 「ホモサピエンス」は船に乗って日本に来た⁉
 日本人の祖先は、いつ、どこからきたのか。この疑問に対し、国立科学博物館の人類史研究グループ長、海部陽介氏が新たな答えを提言している。海部氏によると、最初の日本人が本州に現れたのは3万8000年前のことだが、どのようにして大陸から到来したのかというと、その方法は「船」である。
 日本列島にやってきた最初の新人(ホモ・サピエンス)が、船に乗ってきた可能性が高いとわかってきたのは最近のこと。この発見には二つの学術的な背景があるという。一つは、「新人」がアフリカで誕生して世界中に広まったという「アフリカ起源説」が定説化したこと。もう一つは、日本各地の旧石器時代の遺跡を調査した結果、新人と考えられる居住者が、3万8000年前以降、爆発的に増えていることが判明したためである。
 つまり、大陸から多くの新人が海を渡ってきた結果、ある時期を境に人口が一気に増加したと考えるほうが自然だと、海部氏は主張しているのだ。
 また、我々の祖先が大陸から日本列島にたどり着いた経路は、朝鮮半島から対馬を経由して九州北部まで海を渡る「対馬ルート」、大陸と陸続きだった台湾から琉球列島を島伝いに北上する「沖縄ルート」、同じく陸続きのサハリンから北海道に南下した「北海道ルート」の3ルートが考えられている。
 このうち沖縄ルートに関しては、当時の琉球列島は陸続きになっていて、大陸から本州までつながっていたという説が過去にはあった。しかし最近では、琉球の島々はそれぞれ孤立していたというのが常識的な見解になってきたこともあって、日本人の祖先は船に乗って海を渡ってきたという説が、より濃厚になったそうだ。
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 10月20日 YAHOO!JAPANニュース 華盛頓Webライター「戦前からあった、日本人の南国に対する憧れ
 南洋幻想とは、日本人が「南の島」や「南洋」に対して憧れを抱く感情のことを指しま。
 この南に対する憧れは明治以降強まっていきました。
 この記事では戦前の日本人の南洋幻想について紹介していきます。
 ある種のオリエンタリズムが入り混じった南洋幻想
 南洋の地、まだ文明の光に染まらぬ「遅れた」人々というイメージが、当時の日本人の心にいかに深く根付いていたか、それは一種の憧憬でもあったように思われます。
 古の未開の世界、原始の芸術、そこには日本の文明の喧騒から解放され、素朴で力強い美しさがあると信じられていました。
 そして、1919年に南洋群島が日本の委任統治領となったことで、南の島々はさらに日本人にとって身近な存在へと変わっていったのです。
 その証しとして、土方久功というひとりの画家が現れました。
 彼は、1929年、29歳にしてパラオに渡ります。
 土方家は名家で、彼の出自は上流階級でしたが、なぜか「寒いところが嫌いだ」という一言で南洋行きを決意したのです。
 彼の心の中では、南洋の古代文化に引かれた何かがあったのでしょうか?
 あるいは、国粋主義の高まりに嫌気が差したのでしょうか。
 とにもかくにも、彼はパラオにたどり着き、南洋庁の嘱託となり現地の児童に彫刻を教え始めます。
 南洋でのその名は今も残り、パラオでは「ヒジカタ先生」と呼ばれるほどです。
 そこに登場するのが、杉浦佐助という愛知の宮大工の青年です。
 彼は1917年、まだヴェルサイユ条約が結ばれる前の南洋群島に渡った初期の移民の一人でした。
 彼の語学力を買った土方は、彼を通訳として迎え入れ、共に生活を始めます。
 やがて、二人はパラオの日本人が多いコロールを避け、さらに辺境のヤップ島サタワル島という孤島に移住し、7年間共に暮らしました。土方の指導の下、杉浦は彫刻家としての腕を磨き、やがて東京でその作品を発表するや、高村光太郎から「南洋の原始的審美と幻想に満ちた巨弾」と称賛されることとなります。
 しかし、土方がコロールに戻る一方、杉浦はマリアナ群島へと渡り、最終的にはテニアン島へと移り住みました。
 そこに、沖縄からの版画家、儀間比呂志も加わります。
 二人はともに彫刻に励みますが、戦争の足音が次第に迫り、儀間は1943年、召集を受けて沖縄に帰国します。
 杉浦はそのままテニアン島で暮らしますが、1944年、アメリカ軍が島に上陸し、激戦の末、彼は日本兵に投降を呼びかける際に撃たれて命を落としました。
 彼の作品はほとんど残されていないのが、何とも悔しいところです。
 このように、南洋の地で芸術家たちは生の根源を求め、文明の枠を超えた表現を見出そうとしていました。
 彼らの目に映ったミクロネシアの人々は、あくまで力強く、素朴な美を象徴する存在だったのでしょう。
 しかし、その背後には、「文明に汚されない楽園」という幻想、そして「日本より遅れた未開の地」という偏見が色濃く残されていたのです。
 こうしたイメージは、大衆文化の中にも浸透していきました。
 例えば、島田啓三の『冒険ダン吉』はその一例であり、1933年から『少年倶楽部』で連載されると、南洋の蛮族を征服し王となるダン吉の物語は子供たちに大人気となりました。
 日本人が南国の血に対して漠然と持っている、「暖かくてロマンチックなユートピア」というイメージはこういった背景から生まれているのです。
 参考 青柳まち子(2015)「日本が夢見た南の島々」私立大学戦略的研究基盤形成支援事業」21世紀海域学の創成 研究報告書1 p121-p128
 華盛頓
 Webライター
 歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。
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