🪁21〕─1─中国共産党がひた隠しにする「偉大な中国史」の"不都合すぎる真実"。〜No.65 

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2024-08-14
💖目次)─8─近代天皇A級戦犯靖国神社による歴史的人道貢献。~No.1 * 
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 2024年10月25日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「中国の教科書には絶対に載せられない…習近平がひた隠しにする「偉大な中国史」の"不都合すぎる真実"
 中国人民政治協商会議成立75周年祝賀大会で重要演説を行う習近平氏(2024年9月26日、中国) - 写真=中国通信/時事通信フォト
 古代中国の歴史は中国共産党の政治姿勢に大きな影響を与えている。紀実作家の安田峰俊さんは「中国の歴史において『唐』は“理想の王朝”だとされているが、皇帝の一族が異民族の出身であることが研究者から指摘されている。近年の中国共産党は『中華民族=漢民族』という思想を潜在的に持っているため、この事実をごまかす気配が強い」という――。(第3回)
 【画像】李世民肖像画台北国立故宮博物院所蔵)
 ※本稿は、安田峰俊『中国ぎらいのための中国史』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
西遊記の舞台にもなった唐の時代
 日本人にとっても、唐は馴染み深い王朝だ。平城京平安京の都市設計と律令制度、正倉院の宝物と鑑真(がんじん)の唐招提寺遣唐使の派遣と阿倍仲麻呂の定住、最澄空海の仏教留学と李白杜甫(とほ)の漢詩――。唐が日本に与えた影響は大きい。
 『西遊記』の舞台となった時代でもあり、中国史のなかでも、唐代は三国時代と並んでヴィジュアル的にイメージしやすい。王朝が存在した期間も長い。
 前代の隋が二代皇帝の煬帝(ようだい)の晩年から内乱で混乱するなか、挙兵した外戚(がいせき)(皇室の姻族)の李淵(りえん)(太祖)が六一八年に建国。やがて息子の太宗李世民が王朝の基礎を作り上げ、唐の勢力は次代の高宗にかけて拡大を続けた。その後、高宗の死後に皇后の則天武后(そくてんぶこう)がみずから帝位について周(武周)を建国し、いったん唐は滅びるも、則天武后崩御後に再度復活。高宗の孫の玄宗の時代に国力を盛り返した。
 ただ、玄宗はやがて統治に飽きて楊貴妃を寵愛する。755年にその隙をついた軍人の安禄山の反乱を招き、唐はここで大きな曲がり角を迎えた。ただ、徐々に勢力を弱めながらも王朝そのものはまだまだ続き、滅亡は907年のことである。
 唐は王朝中期までは軍事的に強勢で、ユーラシア大陸規模の巨大版図を実現しつつ、シルクロードの文化を花開かせた。さらに唐代は漢詩(唐詩)の名作を数多く生んだ中国文学史上の黄金時代でもあった。ゆえに現代の中国人も、自国の最も輝かしい歴史を代表する王朝として唐を挙げる人が多い。
 なかでも、中国史上最高の名君とまで称される李世民の人気はすこぶる高い。
■「名君・李世民」のイメージは盛られている
 彼の治世である「貞観(じょうがん)の治」は、善政が敷かれた時期として有名だ。言行録とされる『貞観政要』も、いまもなお日本を含む各国で帝王学の書として盛んに読まれている。
 ただし、こうした李世民の姿は、後世に作られた虚像も多い。彼の「名君」設定は、多分に自己演出の賜物だったともみられている。李世民が軍事的な天才だったことは確かである。唐の建国当初、竇建徳(とうけんとく)や王世充(おうせいじゅう)らの強力な群雄を討滅し、父の李淵に天下を取らせたのはひとえに彼の功績だ。
 とはいえ、李世民は本来、李淵の後継者ではなかった。彼が帝位を引き継いだのは、626年に兄と弟を殺害するクーデターを起こし(玄武門の変)、優柔不断な父を半ば押し込めて譲位させた結果である。
 皇太子の兄を弑(しい)して皇帝の父を排除する行為は、儒教の長幼の序に反する。そのため李世民はかえって、政権を握ってからの自分をことさら「名君」として印象づけたとみられている。
 過剰なプロパガンダを通じた「名君」の演出は、その後の中国でも清の乾隆帝や蔣介石、毛沢東などが踏襲し、近年は習近平が盛んにおこなっている。ただし、李世民のために弁護すれば、玄武門の変はその勃発時点では、そこまで問題のある行動とはいえなかった。
■皇帝の廃位やクーデターは日常茶飯事
 当時の中国は、2世紀の後漢末期の群雄割拠の時代以来、三国時代五胡十六国時代南北朝時代と分裂状態が400年以上も続き、皇帝の廃立やクーデターは日常茶飯事だったのだ。とりわけ、華北ではモンゴル高原や西域からの異民族の侵入が活発で、王朝が短期間で交代し続けた。一時代前の隋にしても、中国の天下統一には成功したものの、性質としては従来と同じ弱点を持つ短命王朝だった。
 唐代の初期である7世紀初頭は、分裂時代の荒々しい気風がまだ濃厚に残っていた時期だ。李世民のクーデターも、同時代の人が見れば「彼のポジションならばやって当然」という認識だったはずである。むしろ、彼の政権奪取後に中国が久しぶりに秩序を取り戻し、モラルをまともに論じられる落ち着いた社会が生まれたことで、父と兄に弓を引いて帝位につく行為が「悪」になったと考えていい。
 中国人にとっての「理想の王朝」である唐には、もう一つ別の顔がある。実は彼らは、必ずしも漢民族の王朝とはいえない存在だったのだ。
 後年、18世紀末に清の趙翼(ちょうよく)という学者が著した歴史評論書『二十二史箚記(さっき)』のなかに「周隋唐皆出自武川」という有名な王朝評がある。これは、唐とその前の北周隋王朝の皇族たちは、いずれも武川鎮(ぶせんちん)と呼ばれる辺境の一地方にルーツを持っているという指摘だ。
隋唐帝国のルーツは“異民族”だった
 武川鎮は現在でいう内モンゴル自治区フフホト市の郊外で、かつて南北朝時代北朝北魏の辺境防衛を担う駐留軍が置かれた土地である。
 北魏は、北方民族の鮮卑(せんぴ)の拓跋(たくばつ)氏の国家で、華北を統一した強国だった。ただ、493年に第6代の孝文帝が中国内地の洛陽に遷都をおこない、遊牧民的な王朝を中華王朝に変える漢化政策を推進したことで、北族的な習慣を残す保守派から反発された。やがて孝文帝の崩御後、辺境にいた軍人たちが六鎮(りくちん)の乱と呼ばれる反乱を起こし、北魏は混乱の末に東西に分裂した。この六鎮の一つが武川鎮である。
 北魏の崩壊後、分裂の片割れである西魏(せいぎ)の支配階級として台頭したのが、武川鎮にルーツを持つ氏族だった。次代の北周の皇族である宇文(うぶん)氏や、さらに普六茹(ふりくじょ)氏、大野(だいや)氏といった、明らかに漢民族とは異なる姓を持つ人たちである。この普六茹氏と大野氏がそれぞれ、やがて隋と唐の皇族になる楊氏と李氏の前身だ。
 彼らは鮮卑などの「北族」そのものか、仮に漢民族だったとしても長年の通婚や生活習慣の変化のなかで北族化した人々だったとみられている。これが隋唐帝国のルーツなのだ。
儒教的な倫理観とは異なる家族観もみられる
 後年、唐の李世民が遊牧世界から「天可汗」として推戴されたのも、唐の皇族が北族的な要素を持っていたことが関係していたのだろう。
 当時の西域の諸民族は隋や唐を「タブガチ」(=拓跋)と呼んでおり、鮮卑系の王朝として認識していたようだ。なお、唐の中期までの皇帝は李世民の兄殺しをはじめ、高宗が父の後宮の女性(則天武后)を自分の皇后にしたり、玄宗が息子の妃だった楊貴妃を近づけたりと、漢民族儒教的な家族倫理とは乖離(かいり)した行動が多い。これらについても、唐室の北族系のルーツと関係があるのかもしれない。
 唐は中国史を代表する王朝だが、あまり漢民族的ではない王朝だった。より正確には、後漢末期から華北に侵入し続けた北族が、長い時間のなかで漢民族と文化的にも血統的にも混ざり合い、その果てに生まれた新王朝が隋や唐だった。隋唐帝国をこのような存在として描く学説は「拓跋国家論」と呼ばれ、日本や欧米の学界では広く受け入れられている。
中国共産党が無視する“不都合な真実
 もっとも、いくら学術的に妥当な見解だとしても、現代の中国人にとってこうした話は決して耳に心地よくない。
 中華人民共和国は本来、「各民族の大団結」を唱える多民族国家としてスタートした。だが、時代が下るにつれて漢民族中心主義的な傾向が強まり、習近平政権の成立以降、その方向性は「中華民族の偉大なる復興」のスローガンのもとでいっそう濃厚になった。
 現代中国でいう「中華民族」は、実質的には漢民族とほぼイコールだ。少数民族漢民族と文化的に同化することで、その仲間として認められる。近年の新疆ウイグル自治区における過酷な少数民族弾圧と文化侵略や、モンゴル族朝鮮族に対して進められている中国語教育の強化も、少数民族中華民族化(=漢化)する過程で起きている現象である。
 一連の政策の根底に存在するのは、漢民族が他の民族を同化することはあっても、逆にそれらから影響を受けることはほとんどないという潜在意識だ。これは公的な言説としては出てこないものの、現実のありかたを見る限りは存在するといわざるを得ない。
 しかし、中国史を代表する偉大な王朝である唐は、北族の世界から産声を上げ、中央アジアに対する優越的な地位も北族系のルーツゆえに生まれた。中国史上で「最高の名君」である李世民も、まさに拓跋国家の君主としての性質を体現したような人物だった――。そんな見解は、現代中国の政治的なコンテクストからすれば、あまり都合がよくない。
歴史認識少数民族問題が直結している
 そのためか2021年8月には、中央民族大学歴史文化学院教授の鐘焓(ヂョンハン)という人物が、学術雑誌『史学月刊』で、唐の拓跋国家論に徹底して反対する論文を発表している。
 従来、日本を中心におこなわれてきた唐の研究が「内陸アジア史」の視点に偏重しすぎていると批判し、漢民族を中心とした民族統合を強調する内容だ。この文章は学術論文にもかかわらず、中国国内の一般向けのウェブニュースサイトでも盛んに転載されているため、人民に閲読を推奨するべき「政治的に正しい」言説とみなされているようだ。
 過去の鐘焓の原稿をさらに調べてみると、中国の主権を強調して「国家分裂」に反発してみせるようなイデオロギー色の強い論考も目立つ。日本の研究者の間では当たり前のように語られる拓跋国家論は、中国では中華民族の伝統を揺るがしかねない危険な言説なのだ。
 かつての唐が存在した時期は、おおむね日本における大化の改新から奈良時代、さらに平安時代の初期に相当する。日本の場合、これらの時代の話題は、せいぜい奈良や京都に来る観光客に向けたアピール材料に使われる程度の、遠い昔の歴史にすぎない。だが、中国においては、少数民族問題という最もセンシティブな政治的意味を持ち得るため、極めて生々しい。
 中国における唐代は、そんな時代なのである。

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 安田 峰俊(やすだ・みねとし) 
 紀実作家(ルポライター)、立命館大学人文科学研究所客員協力研究員
 1982年生まれ、滋賀県出身。広島大学大学院文学研究科博士前期課程修了。著書『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』が第5回城山三郎賞と第50回大宅壮一ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。他の著作に『現代中国の秘密結社』(中公新書ラクレ)、『八九六四 完全版』、『恐竜大陸 中国』(ともに角川新書)、『みんなのユニバーサル文章術』(星海社新書)、『中国ぎらいのための中国史』(PHP新書)など。

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 2023年8月30日 WEBアステイオン習近平中華民族の偉大な復興」を理解するための3つの補助線
 鈴木絢女(同志社大学法学部教授)
 習近平
 <中国がどのような世界秩序を描き、地域の国々がそれをどう受容・拒否しているのか。既存の国際秩序を改めて問い直す>
 習近平の論じる「中華民族の偉大な復興」とは一体なにを意味するのか。「中華」とはいったいどのような世界秩序なのか。『アステイオン』98号の特集論文から、現代東アジア国際関係を理解するための3つの補助線が浮かび上がった。
 中華の変容
 いくつかの論文で最も強く印象に残ったのは、かつての中華世界の柔軟性である。
 朝鮮やベトナム小中華思想に明らかなように、自分こそが中華だと信じる国が複数あった。チベットを自らの版図とした清朝に対して、チベット人たちは、二国関係を対等なものとして理解した。琉球にみられるように、二重朝貢も一般的に行われていた。中華世界は、国家間関係に関する主観的認識の複数性を許す世界だった。
 また、明に朝貢したマラッカ王国のように、隣国からの武力行使を抑止するために中国の威光を使うこともあった。華夷秩序は「周辺国」にとって、朝貢などの儀礼的な関係さえ守っておけば中国から干渉されたり、武力攻撃を受けたりするリスクを避ける仕組みでもあり、中国の優位を公式に認めることに躊躇がなければ、受け入れやすいものだった。
 しかし、主権国家システムを受容したあとのアジアでは、そうはいかない。華夷秩序のなかで劣位に甘んじてきた国々、植民地支配を受けた国々は、主権平等の原則によりながら、かつての従属関係からの脱却をめざした。
 マレーシアのヒシャムディン・フセイン外務大臣が、中国を「大哥/elder brother」と呼んだ際にマレーシア国内で激しい批判が起きたことは、「周辺国」にとって中華秩序に従うコストが上がったことを示している(※1)。
 他方で、香港の「中国化」、台湾に対する度重なる武力を用いた威嚇、チベットや新疆における抑圧的な支配、南シナ海東シナ海における攻撃的な海洋行動や東南アジア地域機構(ASEAN)に対する中国政府の圧力をみれば、習近平の中華に認識の複数性を許すような柔軟さを見出すことはできない。
 今日の中華は、「西洋の衝撃」以前のそれとは全くの別物のようである。習近平の中華の背景には、日本による台湾出兵琉球併合、日清戦争、欧米による大陸での利権獲得競争など、アヘン戦争以降の中華世界の喪失の歴史への思いが広がっている。
他方で、内政不干渉原則への頻繁な言及にも明らかなように、中国は主権国家システムをガッチリと受け入れている。曖昧さを含んでいたかつての支配関係を、主権や領域支配の概念で捉え直そうとする中国の試みが、チベット、台湾、琉球、新疆で疎外や抑圧をもたらしている。
 主権国家システムを受け入れた中国が論じる中華は、単に中国の強国化という以外に、どういった含意を持つのだろうか。
 文化的・道徳的な正しさをめぐって
 秩序のロジックは、単に地理的なものではなく、中央(中国/漢民族)に儒教文化の精髄があるという文化的・道徳的優位によっても支えられていた。
 しかし、2010年代以降の香港市民による激しい抗議や、台湾アイデンティティの台頭、チベットや新疆で続く自治要求や抵抗運動は、これらの地域が中国に文化的・道徳的な正しさを見出していないことを示唆している。
 その意味で、「今の中国には文化の輝きはなく、経済や軍事というハードパワーによって弱いものを従えることしかできない」という野嶋(「台湾で『中華』は限りなく透明になる」)の指摘には説得力がある。
 他方で、倉田(「香港の『中国式現代化』は可能か?」)が論じるように、中国は「西洋化」とは異なる「現代化」の経路を示そうともしている。とりわけ、中国が「西側戦勝国主導の国際秩序」に異を唱えるとき、少なからぬ途上国がこれに賛同することは見逃してはならない。
 もっとも、そこで主張されるのは、中国の正しさというよりは、既存の国際秩序を作り上げてきた西側先進国の道徳的欠陥である。 
 ウクライナ紛争をめぐる国連総会決議では、ロシアによるウクライナの主権侵害や国際人道法違反を糾弾しようとする西側の決議案に対して、途上国の多くが反対あるいは棄権票を投じた場面があった。
 そこで語られたのは、西側諸国による奴隷制、植民地支配、アパルトヘイト、軍事侵攻の歴史であり、かつての加害者が自らの過ちを清算せずに、ロシアの軍事侵攻には制裁を加えようとする「ダブルスタンダード」への憤りだった。
 世界秩序・国際秩序の併存・相剋
 ひょっとすると、現代には複数の世界秩序が併存し、相剋しているのかもしれない。もっとも、このような状態は、特に新しいものではない。
 近代以降しばらく、北東アジア諸国は条約交渉や国際法などを「朝貢関係において観念」し、主権国家体系を「部分的に利用」した(※2)。
 本特集でも、朝鮮が条約や主権といった概念を取り入れつつも、必要な時には清に相談や仲介、派兵を要請するといった折衷的なアプローチをとったことが述べられている。
 ひるがえって、前近代の東南アジアでは、中国や中東との中継貿易で港市国家が繁栄したことから、「支配者たちは、中華秩序やイスラームの秩序を熱心に維持しつつ、それらを包摂できる原理を模索した」(※3)。
 こうしたあり方は、現代でも観察できそうである。たとえば、南シナ海問題について極めて抑制的なASEAN共同声明に典型的に示されるように、東南アジア諸国が中国を批判することは稀である。このような自制的行動は、中国への経済的な依存によって説明されることが多い。
 しかし、中国ほどではないとしても相当程度の経済的プレゼンスを有し、また、この地域の安全保障で中国よりも大きな役割を果たしているアメリカに対しては、ほとんどの国があけすけな批判を繰り返す。
 いくつかの東南アジア諸国は、中国との関係では中華秩序のプレーヤーとなり、アメリカなどそれ以外の国とは主権国家システムの規範の中でゲームをしているのかもしれない。
 大国中国との安定的な関係は、それ自体として有益である。しかも、西側先進国に対する不満があれば、中国との安定的な関係は、西側への異議申し立ての梃子となりうる。
 アメリカに麻薬撲滅戦争を批判されたフィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領が「アメリカとの別れ」を宣言し、自らが立ち上げた投資会社が資金洗浄の疑いをかけられたマレーシアのナジブ・ラザク首相が「第二次大戦の戦勝国による国際制度」に異議を唱えるとき、横には中国がピッタリと寄り添っていた。
 いずれのリーダーも南シナ海問題で譲歩し、外交や内政の場で中国を讃えることを忘れなかった。
 主権国家システムは普遍的な秩序ではないかもしれない(※4)。複数の世界秩序が併存する世界では、自分の寄って立つ秩序を正義とし、それに従わない者を「修正主義者」と断じるアメリカ的なアプローチは、支持を集めにくい。
 中国がどのような世界秩序を描いているのか、地域の国々がそれをどう受容・拒否しているのか、既存の国際秩序にどのような欠陥があるのか。
 第二次世界大戦の敗戦国であり、西側先進民主主義国でありながらアジアの一員であり、漢字文化圏に属する日本だからこそ答えられる問いが多くありそうである。
 [注]
 (※1)South China Morning Post, "Malaysian Foreign Minister Hishammuddin Hussein Clarifies Controversial 'Older Brother' Remark during China Visit," April 3, 2021.
 (※2)浜下武志(1990年)『近代中国の国際的契機:朝貢貿易システムと近代アジア』東京大学出版会、p39。
 (※3)弘末雅士(2004年)『東南アジアの港市世界:地域社会の形成と世界秩序』岩波オンデマンドブックス、p47。
 (※4)Spruyt, Hendrik (2020), The World Imagined: Collective Beliefs and Political Order in the Sinocentric, Islamic and Southeast Asian International Societies, Cambridge University Press.
 鈴木絢女(Ayame Suzuki)
 1977年横浜生まれ。2008年、東京大学大学院より博士(学術)取得。マラヤ大学ポスドクフェロー、福岡女子大学講師、同志社大学准教授、デラサール大学客員教授などを経て、2020年より現職。主著に『〈民主政治〉の自由と秩序:マレーシア政治体制論の再構築』(京都大学学術出版会、2010年)。2011年大平正芳記念賞、2021年中曽根康弘賞(奨励賞)受賞。
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