🛶3〕─2─アイヌ人は縄文人の特徴を色濃く受け継いる。~No.6No.7 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 アイヌ民族琉球民族日本民族の三民族は、日本列島の先住民である日本土人縄文人)を同じ祖先とする兄弟民族である。
 ただし、自然災害が多発する日本列島に住む日本民族だけは数千年の間に数多くの異民族との雑婚を繰り返した為に混血化が進み縄文人の血が薄い。
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 2024年10月26日 YAHOO!JAPANニュース クーリエ・ジャポン「海外に出る前に知っておきたい「日本のキホン」─「アイヌとはどのような民族ですか?」
 「日本は単一民族の国なんでしょ?」と海外の人に聞かれたら、どうやってそうは言い切れないことを説明しますか? アイヌ民族の存在について話せるでしょうか? 通常、歴史の授業では深く学ぶことのないアイヌ民族について、札幌大学教授でアイヌ研究者の瀬川拓郎さんが解説します。
 【画像】アイヌの女性たち
 列島の基層文化を伝える人々
 アイヌは、狩猟漁撈(ぎょろう)と交易を主な生業として北海道を中心に暮らしてきた、独自の文化と言語をもつ人々です。彼らの特徴を一言で表すとすれば、縄文文化の精神的伝統を色濃く受け継ぐ人々、といえるでしょう。
 それはたとえば、縄文時代を代表するモニュメントである貝塚に読み取ることができます。貝塚は食べカスや壊れた土器などが集積したものですが、そこでは墓や祭祀跡も見つかります。
 つまり、貝塚はたんなるゴミ捨て場ではなく、あらゆるものを神からの贈り物とみなし、役割を終えた贈り物はたとえ木の灰であっても感謝とともに神の世界へ送り返す場だったのです。このような世界観は縄文時代の社会の根幹をなしていました。
 本土では弥生時代以降、この貝塚が姿を消し、役割を終えたものは即物的なゴミとして廃棄処理されるようになります。しかし北海道では、その後も近現代にいたるまで送りの場が営まれ続け、縄文の世界観が受け継がれてきました。
 アイヌはこうした精神的伝統だけでなく、遺伝子的・形質的に縄文人の特徴を色濃く受け継いでいます。一方、同じ縄文人を祖先にもつ本土の人々は、弥生時代から古墳時代にかけて、大陸から渡来した人々との混交が大きく進みました。
 アイヌは、およそ1万6000年前から3000年~2000年前まで展開した縄文文化、つまり日本列島の基層文化を受け継いできました。同じ地域でこれほど長期にわたる伝統が確認できる集団は世界的にみても稀です。日本列島に暮らす私たちは、自らの基層文化を知るうえでも、この奇跡のような存在であるアイヌに関心をもつ必要がありそうです。
 停滞した閉鎖的な社会?
 アイヌは、縄文文化の精神的伝統を受け継ぐだけでなく、一貫して狩猟漁撈をおもな生業としてきました。とはいえ、彼らの暮らしや文化が縄文時代以降、変わらなかったわけではありません。
 縄文時代に続く、弥生・古墳時代に並行する北海道独自の文化を続縄文文化と呼びます。続縄文時代には本土の農耕文化が受け入れられませんでした。この事実は、寒冷な北海道では先進的な農耕文化が受容できず、旧来の縄文文化にとどまり、閉鎖的な社会が続いたことを示すとされてきました。しかし、この通説は正しくありません。
 農耕文化が広まった弥生時代の本土では、耕地をもたない海辺の人々が、農耕民との交易のため漁撈文化を深化させました。縄文文化の陰影を強く帯びていた本土の海民は、遠隔地との交易にも従事し、彼らの足跡は北海道から沖縄まで残されています。
 続縄文時代の人々は、渡海してくるこの海民の先進的な漁撈文化や呪術といった精神文化まで積極的に導入し、彼らとの交易に傾斜していきます。のちのアイヌは、広大な北東アジア世界で交易を繰り広げる「海のノマド」でしたが、その起源は続縄文時代に遡ることができるのです。
 そもそも農耕が受け入れられなかった理由も、北海道の寒冷な気候のせいではありません。というのも、続縄文時代に続く擦文(さつもん)時代(奈良・平安時代並行)の北海道では活発に農耕がおこなわれていました。続縄文時代に農耕が導入されなかったのは、非農耕民である本土の海民の文化を受容したためだったようです。
 交易と戦いの時代 
 しかし奈良時代から平安時代のはじめにかけて、海民に代わって東北北部の農耕民が交易のため渡海し、大きな影響を北海道へもたらすようになります。
 最大の影響は先述のとおり農耕が広まったことですが、ほかにも農耕祭祀やこれに欠かせない酒の醸造技術、住居の形式、織物の技術、箸と埦を用いる食事の形式など、衣食住から精神文化にいたるまで本土の農耕民の文化が受容されました。
 近世のアイヌ文化には、この擦文時代の文化が多く受け継がれています。たとえば、アイヌの祭祀や儀礼にまつわる語彙の大半も古代日本語由来なのです。
 とはいえ、北海道の人々が本土の文化に同化し、農耕民になってしまったわけではありません。擦文時代になると本土側では北海道産品の需要が高まり、道内各地で商品の開発が進みます。
 オホーツク海沿岸では矢羽用のオオワシ尾羽、日本海沿岸では祭祀用の干しアワビ、内陸部では食用の干しサケや獣皮、道南ではコンブなど、多くの商品が擦文時代の北海道から本土へ出荷されます。擦文時代の人々は、以前に増して狩猟漁撈に特化していくことになったのです。彼らは農耕民の文化をまとった狩猟民でした。
 各地で商品生産の狩猟漁撈に特化する社会のありかたは、その後も近世まで受け継がれていきます。アイヌが縄文の世界観を受け継いできたのは、それが狩猟漁撈の暮らしに適合する世界観だったからでしょう。
 この商品経済への適応をもとに、日本列島を網羅する流通網の確立にともなって、12~13世紀には高価な漆器類や鉄鍋など本土の文物を多くとりこんだニブタニ文化へ移行します。さらに新たな商品を入手するため、縄文時代には足を踏み入れることのなかった北海道の外の世界へ進出します。
 11世紀頃に始まったサハリン進出は13世紀になると拡大し、同地に政治的影響を及ぼしていた大モンゴルとのあいだで数十年にわたる戦争を招くことになりました。交易の時代は、対立と戦いの時代でもあったのです。
 いまこそ、アイヌを知るべき
 その後15世紀頃になると、和人の商人集団が道南に進出し、アイヌと本土の交易を一元的に管理するようになります。アイヌの自律的で活力に満ちた時代は、これによって大きく変容しました。さらに、反発するアイヌとの戦いや和人商人の覇権争いに勝ち残った蠣崎氏(かきざきし)が徳川家康からアイヌ交易の独占を保証されて松前藩が成立、アイヌは和人の経済体制に深く組みこまれていくことになります。
 明治時代になると、国家による直接的な支配と同化政策が進み、アイヌはときに自己のアイデンティティを隠し、言語や伝統的な生活様式を捨てなければなりませんでした。アイヌがさまざまな富を生みだしていた北海道の大地は、本土による一方的な収奪の場となり、各地に残るかつての産炭地のように、現在では棄て去られ荒廃した自然だけが残されています。
 「自然豊かな北海道」というキャッチフレーズは、アイヌだけでなく国策に翻弄されてきた北海道の人々の思いとは決して重なりません。
 アイヌは一貫して隣接する本土と交流し、その文化を自分たちなりに吸収してきました。北海道は常に中心である本土に従属してきたと思われるかもしれませんが、それは本土の一方的な見方にすぎません。北海道が真に豊かな世界として再生するためにも、本土とは異なるこの大地によく適応し、1万年以上も固有の暮らしと文化を築いてきた人々について、いまこそ知るべきではないでしょうか。
 瀬川さんがお勧めする「アイヌ民族をよく知るための一冊」
 アイヌ語研究の第一人者によるアイヌの神観念や物語世界、アイヌ語などの充実した解説。独自で奥深いアイヌの精神世界に触れてみたい。
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 アイヌ人民族、続縄文人の子孫である。
 日本民族は、弥生人・古墳人の子孫である。
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 10万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は、アフリカで誕生し、世界中に移住していった。
 3万5000年から3万年前以後 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)=旧石器人(ヤポネシア人)は日本列島にたどり着き、上陸した、漂着した、流れ着いた。
 縄文時代 1万2000年~2000年前。縄文人(日本土人)。
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 旧石器人(ヤポネシア人)は、南方系海の民であった。
 縄文人(日本土人)は、森の民であった。
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 アイヌ民族は、旧石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)にシベリア・沿海州樺太北方領土4島・千島列島・カムチャツカ半島などオホーツク海沿岸に住んでいたオホーツク文化人が南下してきて、混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
 アイヌ人は住んでいる島・地域によって幾つかに枝分かれして、それぞれ他の人種・民族と乱婚を繰り返し混血度を濃くして独自の微妙に違う生活スタイルで生きてきた。
 蝦夷地・北方領土アイヌ樺太アイヌ、千島列島アイヌカムチャツカ半島アイヌ、その他。
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 2022年4月28日 YAHOO!JAPANニュース COURRiER Japon「TOPカルチャーアイヌの祭祀「キタキツネのイオマンテ」が現代人に突きつける答えなき問い
 映画『チロンヌプカムイ イオマンテ北村皆雄監督に聞く
 アイヌの祭祀「キタキツネのイオマンテ」が現代人に突きつける答えなき問い
 チロンヌプカムイ イオマンテ(キタキツネの霊送り)を執りおこなう日川善次郎エカシPhoto: Daishiro Tsutsumi
 クーリエ・ジャポンクーリエ・ジャポン
 アイヌまぼろしの祭祀「キタキツネのイオマンテ(霊送り)」を余すところなく記録した映画『チロンヌプカムイ イオマンテ』が4月30日より公開される。アジア各地で民俗学的に貴重な映像を撮りためてきた北村皆雄監督に聞く。
──なぜアイヌイオマンテを撮ろうと思われたのでしょう?
 映像を撮ったのは、じつは1986年で、いまから35年前のことです。それまで僕は沖縄の久高島や西表島の神事にまつわる映像を撮っていて、アイヌのほうには目が行っていなかった。
 でもどういうわけか、和人ながらアイヌ名を持つ堤大司郞という写真家から、北海道の屈斜路湖畔でキタキツネの霊送りを75年ぶりにやるから撮影しないかという話が来ました。
 それがきっかけで、初めてアイヌのことを少し勉強して、撮影させてもらいました。いずれ本格的な映画を作ろうと思いつつ、結局35年も放っていたんですが……。
 いまになって映画にした理由は、ふたつあります。ひとつは、民俗資料としても貴重なこの映像記録をなんとしても世に出さねばと思ったからです。
 イオマンテを執り行ったのが、当時75歳だった日川善次郎エカシです。この儀礼は当時ですらできる人がほとんどいなかった。そのなかで最も優れているのが日川エカシだと誰もが言っていました。日川エカシは1990年に亡くなっていて、話を持ちかけてきた写真家の堤さんも亡くなっています。
 もうひとつは、アイヌ文化を紹介する民族共生象徴空間「ウポポイ」が2020年に北海道の白老にできましたが、その関連でネットに流れているアイヌの踊りや歌を見て、どこか違和感があったということがあります。
──その違和感の理由はなんでしょう?
 これは芸能の本質に関わることだと考えています。いまのアイヌの歌と踊りは、一般の人に見てもらうことが主眼になっていると思います。一方、35年前に見た歌と踊りは、共同体の儀礼のなかで神の国に送られるキタキツネのためだった。それがいちばんの違いではないかと考えています。
 北村皆雄 Minao Kitamura 1942年長野県生まれ。ドキュメンタリー映画監督。早稲田大学第一文学部演劇専修卒業。1960年代以来、アジアや沖縄・日本各地をフィールドに、映像人類学民俗学を掲げ、100を超える映画・テレビ番組を撮り続けてきた
 北村皆雄 Minao Kitamura 1942年長野県生まれ。ドキュメンタリー映画監督。早稲田大学第一文学部演劇専修卒業。1960年代以来、アジアや沖縄・日本各地をフィールドに、映像人類学民俗学を掲げ、100を超える映画・テレビ番組を撮り続けてきた
Photo: Yuki Fukaya / COURRiER Japon
──イオマンテとはどんな儀礼なのでしょうか?
 猟で仕留めたクマやキツネに子供が残されていた場合、それを預かってきて、共同体のなかで、乳飲み子のわが子と同じように乳を飲ませて育てたのです。
 『ゴールデンカムイ』のアイヌ語監修者でこの映画の監修者でもある中川裕さんの言葉でいえば、獣たちは神の国から人間の国に里子に出されていて、人間たちはその里親になるのだそうです。
 そうやって皆で育てた子を神の国、つまり父母のいる国にお返しする、それがイオマンテです。
──アジアを中心に民俗的な儀礼などの映像をずっと撮ってこられたそうですが、イオマンテと似たものはありましたか?
 中国の広西省チワン族自治区で葬式を撮影したことがあります。村人たちが全員泣きながら、水牛の周りを回って、食べ物をあげて丁重に敬ってから、あの世で故人と一緒に暮らしてくれと殺すのです。
 ベトナムの「柱の祭り」でも同じように水牛を供犠にしていました。水牛の周りを回りながらあがめて、それから自らの手で殺すのです。
 供儀として送るのと、イオマンテのように霊そのものを神の国に送るのとでは違いがありますが、動物を殺めて、あの世に送るという形は似ているのではないかと思います。
──現代的に見ると、いくら伝統だからといって動物を殺めるのは残酷だと思う人もいるかと思いますが、監督はどうお考えになりますか?
 いまの感覚で解釈しようとしたり、動物愛護という観点だけで見たりすれば、とても理解できないと思います。だから僕は、霊送りされるキタキツネの映像にアイヌの神話的な語りをかぶせました。
 実際の映像を見れば、キツネはたぶん怯えているのでしょう。アイヌの人たちだって、それはおそらく怯えていると認識している。でも、アイヌの神話のなかでは喜んで送られるということになっている。映像と語りをダブらせることで、アイヌの世界観を感じてもらえるのではないかと思ったのです。
 神の国に送られるキタキツネのツネキチ
 やはりアイヌの人たちが農耕民族ではなく、動物を狩ることで生きてきた民族だからこその命との向き合い方があると思うんです。
 アイヌの人たちは、自分たちが動物を弓で射るのではなく、向こうが選んで自分の矢に当たってくれる、つまり自分のところに毛皮と肉を持ってきてくれたという見方をしてきました。
 もし動物たちが自分たちを選んでくれなくなって、神の国から送られてこなくなったら困るというので、またぜひ送ってもらえるようにと霊送りをするわけです。
 だから、ごちそうやお土産をいっぱい用意し、踊りと歌で華やかに送り出して、神の国に帰ったときに、たいへんよくしてもらったからまた一緒に行こうよ、と家族に話してもらいたいのです。
 こうした循環を願う意識とでもいうものが強く働いているように思います。
 日本という謎の国に来たら、そこに別の謎の民族がいた
 それから、そうやって動物に選ばれるためには、自らを高潔に清く、間違いのないよう生きねばと、自分を律することがあると思います。
 イオマンテでもそうですが、祈りの文言を間違えたりすると、間違った本人だけでなく、家族や参加している人たちにも危害が及ぶとされるほど真剣なのです。
──そもそも沖縄やアジアの奥地で儀礼などを撮ろうと思われたきっかけは?
 僕は山国の信州育ちなので、海はほんとうに未知なものでした。初めて海を見たのも、小学6年のときです。だから、海への憧れみたいなものがあったと思います。
 それから、民俗学を少し学んで、南方の文化が黒潮に乗って日本列島に運ばれてきたことを知って、これはちゃんと南の文化と対峙しなきゃいけないなということで、沖縄に長く関わっていました。
 そうこうするうちに、日本の文化の根底に流れる「水脈」をたどるには、韓国、中国、あるいはインドまで含めた遠近法的な視点が必要だと考え、そういう視点で映画を作りたいと思うようになりました。ヨーロッパなどまでは広げず、アジアに絞ってずっとやってきました。
 開店から10周年を迎えたアイヌ居酒屋「ハルコロ」の宇佐照代Photo: Yuki Fukaya / COURRiER Japon
 東京で唯一の「アイヌ居酒屋」で味わう「多民族国家」日本の物語
 逆にアジアから日本を見たら浮かび上がってくることもいろいろあります。たとえば、僕の育った長野の諏訪神社御柱祭、今年はちょうど開かれる年ですが、同じような柱がアジアの村々の真ん中に立っていたりします。その柱を中心にした祭りもあります。柱を立てるという行事は、日本でも縄文の時期からあるんです。
 ではなぜ柱を立てるんだろうかという意味を、アジア各地の例と照らし合わせることであぶりだせるのではないかと思っています。供儀にしてもじつに共通点が多いですから、そうした照らし合わせができます。
 日本には北からも南からもいろいろな文化が流れ込んでいますし、民族も移動しています。だから日本の文化だとしても、日本からだけでは見えてこないものってたくさんあるんですよね。
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