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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
平安時代後期、平安仏教は仏教の末法思想で国家鎮護の国家仏教から個人救済の私益仏教へと変貌して行った。
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平安人は、死への恐怖、死後の世界への不安から逃れる為に仏教に縋った。
日本の葬式仏教は、平安時代後期から始まっている。
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日本の宗教と世界の宗教と違う。
日本の宗教は、自然宗教として自然と密接に関係している。
啓示宗教に似ているのは、非信仰宗教の陰陽道である。
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日本列島とは、春夏秋冬、季節に関係なく、広範囲に同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害地帯であった。
日本の自然災害は、数千人から数十万人の罪もない人々の命を奪う。
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2024年11月1日 YAHOO!JAPANニュース ラブすぽ「平安貴族が豊かな財力を使って寺を建てたり仏像を作っていた理由とは?【眠れなくなるほど面白い 図解 仏教】
確実に極楽往生する方法を知らなかったから
平安末期に成立した歴史書『扶桑略記』の1052(永承7)年正月6日の条には、「今年より末法に入る」という記述があります。末法は仏教の歴史観に基づく言葉です。釈迦の死後、しばらくは教えが守られ、悟りを得る者も出ますが、やがて修行をしても悟りを得られなくなり、ついには修行をする者もいなくなり、ただ教えのみが残る時代が訪れます。この3期を正法・像法・末法というのです。末法の世になると、人の質も悪くなるので犯罪が増え、災害が頻発すると恐れられていました。貴族たちが末法を恐れたのは災厄が己の身に及ぶことへの恐怖に加えて、来世で地獄に落ちることへの不安がありました。
貴族たちは豊かな財力を使って寺院を建てたり、仏像を造ったりしてせっせと功徳を積みましたが、形骸化した教えだけが残る末法の世では、どれほどのご利益が期待できるのか怪しいものです。貴族たちは釈迦の次に仏になるとされる弥勒菩薩が修行している兜率天や、阿弥陀如来が連れていってくれるという極楽浄土に往生することを願いましたが、これをやれば確実というものはありませんので不安は増すばかりでした。
そのように自力で往生しようとするのではなく、すべての人を救おうと誓った阿弥陀如来の慈悲心にすがり、その名を唱える称名念仏〈*〉によって極楽往生を確かなものにするという念仏信仰は、すでに平安中期の空也が唱えていましたが、広まるのは法然以降のことです。平安貴族たちも、こうした確実に極楽往生する方法を知っていたら、末法を恐れずにすんだでしょう。
出典:『眠れなくなるほど面白い 図解 仏教』 監修:渋谷申博
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奈良時代と平安時代の仏教の違いとそれぞれの特徴
奈良時代の生活・政治・仏教のまとめ
奈良時代の生活・政治・仏教のまとめでは奈良時代の生活(食事や服装など)や奈良時代に活躍した政治家・天皇、仏教にかかわる政策などわかりやすく紹介しています。
奈良時代と平安時代の仏教の違いとそれぞれの特徴
2019/6/19 2019/6/19 その他奈良時代情報(特徴・まとめ)
仏教が日本に初めて大陸から伝わったのは、飛鳥時代といわれ、現在まで引き継がれている日本の伝統仏教の宗派は「13の宗派」といわれています。
現在の日本にある13の伝統仏教は、奈良仏教系、密教系、法華系、浄土系、禅系、修験道系の6つに分類されます。
日本に仏教が伝わった初期に反映した奈良時代の法相宗、華厳宗、律宗、三論宗、成美宗、倶舎宗の6つが南都六宗と呼ばれる奈良仏教系です。
平安時代に入ると、奈良時代の仏教との違いを明確にした真言宗と天台宗の平安二宗と呼ばれる二つの密教がはじまります。
目次 [閉じる]
奈良時代の仏教と平安時代の仏教
奈良仏教と平安仏教の特徴と違い
奈良時代と平安時代の仏教は表裏一体の関係?
奈良時代の仏教と平安時代の仏教
現在の日本に根付いた仏教は、飛鳥時代に初めて伝えられ、奈良時代になるといくつかの宗派に分かれて広まっています。
奈良時代の法相宗、倶舎宗、三論宗、成美宗、華厳宗、律宗の南都六宗と呼ばれる6つの宗派は、仏教の派閥というより「学派」に近い性格のもので、仏教は、選ばれた者たちである僧侶が如何に悟りを開くかを研究するものと考えられていました。
そのため、奈良時代の仏教は、釈迦の教えに従った厳しいルールや修行がありながら、仏教の教えは一度にまとまって伝えられておらず、さまざまな部分が経典となって伝えられていて、一般大衆には、仏教のカケラがばらまかれた状態で、奈良の大仏開眼には渡来僧が日本にやってきています。
奈良時代の仏教は栄華を極め、各寺院が相当な権力を有するようになり、政治に関与することも目立つようになり、影響を弱めるために、最澄と空海が中国に派遣され、奈良仏教とは違いがある新しい仏教として、平安時代の平安二宗と呼ばれる天台宗と真言宗を持ち帰っています。
奈良仏教と平安仏教の特徴と違い
奈良時代の仏教は、経典の中に釈迦の教えがはっきりと記された教えとされる「顕教」であるのに対して、平安時代の仏教は、経典に教えがはっきりとは書かれていないけれど、仏教を深く学ぶとみえるとされる「密教」というそれぞれの特徴を持ち、それが違いにもなっています。
釈迦の教えを説いた仏教の真意は同一であるにも関わらず、人智を超えた教えの部分も多く、すべての教えを経典の文字や言葉に表すことは難しく、真意は経典の文章の行間にあるとも解釈できます。
奈良時代の仏教と平安時代の仏教の「顕教」と「密教」の違いは、経典の捉え方の違いとも言え、両方の仏教は表裏一体の関係にあるとも言えます。
奈良時代と平安時代の仏教は表裏一体の関係?
仏の教えを説いた仏教が飛鳥時代に初めて日本に伝えられてから、奈良時代になると南都六宗と呼ばれる6つの仏教宗派が勢力を強め、政治への影響力も強めています。
平安時代には、南都六宗の勢力を削ぐ目的で中国の唐に派遣された最澄と空海が、天台宗と真言宗を日本に持ち込み勢力を強めます。
奈良時代の仏教と平安時代の仏教は、それぞれ「顕教」と「密教」の違いと解釈され、両者は表裏一体の関係性を持っています。
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ログミーBusiness
Japanese Art History(全16記事)
2016.11.06
平安時代=仏教の転換期! 密教によって変わった芸術文化とは
約400年続いた平安時代は、仏教芸術にとって大きな転換期があった時代とも言われています。そのきっかけとなったのは、密教の輸入でした。密教は人々にどのような影響を与え、どのような芸術を生んだのでしょうか。今回の「Little Art Talks」では、平安時代前半の芸術文化についてご紹介します。
密教の影響で生まれた、平安時代の芸術
カリン・ユエン氏:平安時代は、平和で平穏な時代であると言われています。仏教の秘儀的な流派である密教が中国の唐から支配層によって導入され、宮廷生活から生まれた芸術が大いに享受されました。
平安時代の歴史と生活をもう少しくわしくたどっていきましょう。
平安時代は、794年に平安京に都が移されたことで始まり、宮廷は1868年に東京に移動するまでそこに残りました。今日、京都と呼ばれるこの都市には、長くそして豊かな歴史があります。遷都は桓武天皇の意向によるもので、6つの仏教の宗門(注:南都六宗)の中心地と、世俗権力の座との間に距離をとりたかったためです。
奈良時代には、女帝であった称徳天皇(孝謙天皇)治世下に、道教と呼ばれる野心的な僧侶が強い権力と影響力を持ちました。道教が天皇の深刻な病を治癒してから、2人は恋愛関係にあったのではないかとも指摘されています。
しかし、彼が天皇の座に就くには、たった一つの試練がありました。
宇佐八幡宮の神託は、道教が天皇になれば平和が訪れるであろうと告げました。この預言を確認するため朝廷の高官が派遣されますが、「第二の神託は、道教は天皇の血統ではないため天皇に任命されるべきではなく、皇位を求める邪悪な人々は払い除かれるべきだ」というものでした。
もちろん、道教はその高官(和気清麻呂)を流罪にしました。しかし、女帝が亡くなると、道教は奈良から追放されました。都が平安京に移ったとき、結果として奈良の寺院は一緒に移動しませんでした。
新たな仏教の宗派である密教は、奈良の寺院の影響力を減らすために、国の支援を受けて中国から輸入されました。天台宗と真言宗が2つの主要な宗派です。天台宗は学僧や行者を中心とし国家的な勢力となり、一方真言宗は、神秘的な儀式によって貴族階級に普及しました。
以前の藤原京と平城京のように、平安京の場所は中国の風水の要請に応じて選ばれました。三方を山々に囲まれ、2つ大きな川によって区切られ、同様に碁盤目のように区画されました。宗教的な権力から宮廷との間に距離を置くことを意識した努力により、2つの主要な仏教の寺院が、都の図面の内部に配置されることが許されました。それが東寺と西寺です。都市を霊的に守護するため南の境界近くに置かれ、天皇や政府からも遠く離されました。
貴族の男女が、宮廷の高雅な美意識に貢献
1つ思い出してほしいのは、都に住む貴族階級は1,000人にも満たず、全体の人口の中でほんのわずかな比率であったことです。しかし、彼らの趣味は、この時代の芸術的創造に大きな影響を与えていました。
貴族の男と貴族の女たちは、高度に洗練され、宮廷の高雅な美意識に貢献することが望まれた時代でした。彼らがまとった衣服は、複数の絹を重ねた精巧なもので、男女に応じた特長的な恰好の裁断をしていました。
理想的な女性の美は、丸みを帯びた顔と、小さな目鼻立ち、長く真っ直ぐで黒い髪でした。白粉をはたいた顔、引き抜いて描かれた眉毛、歯は黒く染められました。理想的な男性の美は、同様に丸い顔と小さな目鼻立ちでした。
宮殿には階級制度があり、男性が位を得る最良の方法として、両親は有利な結婚を計画しました。娘を嫁がせる父親にとっても、より高い位の娘と結婚する息子にとっても、有利であるように計画されたのです。
また、男性が複数の妻を持つことも一般的でした。というのは、当時の女性はしばしば出産により、若くして亡くなっていたからです。そして、男性は自分の複数の子供たちを戦略的に結婚させて利益を得ることができ、多くの人たちにとって都合が良かったのです。
貴族の女性の生活は、今日の視点からすれば素晴らしいものではありません。慣習によって夫と父親を除くすべての男性の目から隠されるよう求められたと、日記からわかります。居住施設であった寝殿造の世界に閉ざされ、幾重もの帳の陰で召使と共に生活し、家事をすることも子供を育てることも、夫の世話をする必要もありませんでした。
彼女たちは、祝い事や儀式に加わって時間を過ごし、書をたしなんだり、楽器を演奏したりしました。女性は読み書きができるように教育され、財産を相続することも許されていました。しかしながら、家計の管理や監督をすることもなく、夫や男性の親族、恋人や家臣の手助けが必要でした。古典、儒教、漢文などの分野の学問教養は男性のみに限られていました。
9世紀初めには、「ひらがな」と呼ばれる筆記方法が導入されました。これは日本独自の音字であり、女性たちに奨励されたため、高名な『源氏物語』などの女流文学の傑作は、ひらがなの書体によってこの時代に成立したのです。
詩歌や書道においても、ひらがなは導入されました。 貴族階級は、詩歌を他人の教養や性格を判じるのに用いただけではなく、友達や家族、恋人あるいは政府の役人の間での毎日のコミュニケーションに用いた時代でした。日本の詩歌の多くの形式がその後発達しましたが、その中でもっとも有名なものは俳句です。
新たな仏教の導入とともに、芸術も日本風の装飾に移行
平安時代は、4世紀にまたがって続き、平安前期、平安中期あるいは藤原時代、平安後期あるいは院政時代という、3つの主要な時代区分に分けられます。4世紀の長きにわたり多くの扱うべき側面があるため、この動画は平安前期を扱い、もう1つは平安中期と後期を取り上げています。(注:平安時代前期は弘仁貞観時代とも呼ばれる)
平安時代は引き続き中国式を忠実に模範にすることで始まりましたが、最初の一世紀の終わりには、もはや中国と交流を持っても得るものがないという風潮が圧倒的になり、894年に、天皇が派遣した唐への使節(遣唐使)は公式に廃止されました。907年に唐王朝が倒れた後も交易は続いていましたが、国内の宮廷と貴族階級は、次第に自分たち自身に目を向け始めます。
建築や絵画や彫刻は、国風の趣味に合うように制作されました。飛鳥時代から奈良時代にかけて、中国の文物は支配階級が称賛して所有していました。平安時代には、唐絵と呼ばれる中国風の掛け軸の需要は衰えませんでしたが、貴族階級の好みは、漆工芸品や金属細工のような工芸品など、日本風の様式の装飾へ移行していったのです。
平安時代前期の主要な出来事のひとつに、天台宗と真言宗という仏教の宗派の導入がありました。奈良時代の六つの宗派の教義や儀式は、国や裕福な貴族階級の庇護者のために、物質的な利益の確保を優先し、精神的な啓蒙を達成するものではなかったのです。2つの新しい密教の宗派は、日本の仏教における修行や思想といった精神的な部分に再び焦点を当てました。
平安時代の最初の世紀に作られた彫刻や絵画は、8世紀の平城京の時代に見られた軽さ、怜悧な華麗さはなく、新しい仏教のこの重厚な側面を反映する傾向がありました。
タントラと呼ばれる経典の中心的な教えは、仏陀は2つの面を持つという考え方です。
つまり、仏陀の知覚可能な身体は、地上に現れた釈迦として宣言され、仏陀の絶対的で神聖な身体は、毘盧遮那仏のような至高で超越的な姿で表現されます。現象として認知でき、かつ超越的でもある仏陀の身体は、異なる2つの実在ではなく、同じ絶対的な原理の2つの現れなのです。この非二元論の考え方は、「両界曼荼羅」などの新しい礼拝物に見られます。
「両界曼荼羅」は、胎蔵界という子宮の世界と、金剛界という金剛石(ダイヤモンド)の世界を合わせた2つの領域の一覧図です。曼荼羅は、精神的な宇宙の図解を指し、心の中で抽象的に描き表されたり、三次元の彫刻や建築、二次元のイメージで表されたりします。
「胎蔵界曼荼羅」は、12の院といわれる区画で構成されています。それが同心円状に配置され、仏陀の性質である多くの相が表現されているのです。中心の大日如来は、8つの花弁の蓮に座り、その手は瞑想の動作をしています。その北、南、西、東には、4体の如来が、それぞれ4体の菩薩を間に挟んで囲んでいます。その外側は、普遍知院、金剛手院、持明院、蓮華部院という4つの区画が枠になっています。さらに外側は様々な菩薩の院が置かれ、最も外側の区画には、様々な守護神の姿が含まれています。
「金剛界曼荼羅」は、会と呼ばれる9つの方形が組み合わされ、その各々が仏陀の世界を表現しています。すべての神々は、完全に悟りを開いた存在として描写されます。中央には大日如来が4体の如来に囲まれ、円状の集合体が描かれています。上部の方形の中心部には、大日如来が知恵を授ける動作をしています。
真言宗の教義では、この2つの曼荼羅を用いた瞑想と儀式によって、真理に到達することができます。
曼荼羅では、霊的な世界の象徴が視覚で示され、身体(身密)と言葉(口密)と観想(心密)による3つの秘密(三密)について学ぶことができるのです。この2つの曼荼羅の前で、瞑想したり儀式を行ったり、あるいは秘密のマントラを唱えることで、誰でも大日如来のように悟りに達することができるとされました。(注:即身成仏)
東寺には彫刻の曼荼羅の例があります。ほぼ等身大の像が低い祭壇上に並び、壇の中央には大日如来が置かれ、4体の如来像に囲まれています。その東には、5体の菩薩像が置かれ、そのうちの4体に囲まれた中心に、最も重要な≪金剛波羅蜜菩薩(こんごうはらみつぼさつ)≫があります。西には、不動明王を中心とした5体の明王像があり、四隅に四天王立像が、その間に≪梵天座像≫と≪帝釈天半跏像≫が置かれています。
この配列は、スートラとして知られる経典通りではありませんが、新しい要素と古い要素を統合した試みに近いものです。元々の21あった仏像のうち、5つの如来と≪金剛波羅蜜菩薩≫は、後に置き換えられました。今日ではすべての仏像は南を向いていますが、初期には、一番東側と西側の仏像は外向きに、つまり曼荼羅の中を歩き回っているかのように、観者に向かって置かれていました。
奈良時代の彫像と比較して、東寺の菩薩像は容積が大きく、堅固なボリュームがあり、それ以前の作品には欠けていた官能性のようなものさえあります。彫像の大部分は、木の1つの塊から彫られ、不均一に乾燥して表面が割れるのを防ぐために、胴体と頭部の背後に空洞がつくられています。
前腕部と膝の前面は、異なる木の部分から彫られていて、彫像の中心部に取り付けられています。頭髪の細部や顔、胴体の上部は漆で塑造されて、平坦な木材の表面に接着されています。明王像は、奈良時代の東大寺の彫像のように、胡粉呼とばれる下地の上に、鮮やかな彩色と織物模様の装飾がなされているのに対し、一方、菩薩像は漆が塗布され、表面は金箔で覆われています。
宗教が新たな寺院を生み、土着要素の強い設計が誕生
真言宗と天台宗の教えを反映した初期の寺院は、高雄山の近くにある神護寺です。神護寺の≪薬師如来立像≫は、かつて神願寺であった寺院の本尊と考えられ、793年に完成された後に現在の場所に移動しました。等身大で厚みのある4肢を持つ、治癒する仏陀の像です。左手に薬壺を持ち、右手は、恐れなくてもよいという意味の施無畏印(せむいいん)の動作をしています。
衣襞は、深く折り重なるように刻まれ、太ももの大部分にぴったりと張り付いています。左肩からの襞が、右側のそれよりもわずかに高く流れているため、左側にわずかに体を向けているように見えます。このような微妙な細部は、この大作に動きの表情を与えています。顔は沈み込んだ様子で、親しみというよりも超越的でよそよそしい印象を与えます。
檜材の1つの塊から彫られ、内部はくり抜かれていません。彫刻には深いひびが入っていますが、今は修復されています。赤い唇、黒い眉毛、そして目の白、螺髪の青、といった着色の跡が表面に残っていますが、残りの部分は未着色のままです。
これは、1本の木を彫って制作する一木造(いちぼくづくり)の最も初期の例と言われます。この技術は、もともとは木が比較的入手しやすかった郊外や農村の寺院で用いられていました。
室生寺は、奈良の南東に位置する山寺です。仏教の寺が建設される以前は、この場所は、火山活動の結果できた、珍しい岩石の地形と小川があり、地元民にとって神聖な場所でした。寺院の建造物は、三段状に分かれ設置され、山の中腹には本堂である金堂があり、仏陀になる前の弥勒菩薩を奉じた弥勒堂、灌頂(かんじょう)と呼ばれる密教の儀式が行われる灌頂堂、そして五重塔があります。
伽藍配置のうち、金堂と五重塔のみが平安時代前期のまま残っています。五層のパゴダ(塔)でもある五重塔が、このうち最も古い建築で、奈良時代後期から9世紀初頭に年代設定されています。縦長であり、通常の五重塔の半分の高さしかありません。
パゴダは、伝統的なストゥーパ(仏舎利塔)が翻案されたもので、元々は仏陀の灰を入れた山でした。しかし、時代が進むにつれ、規模は大きく手の込んだものになってきます。中国では、ストゥーパは見張り塔の建築の影響と組み合わさり、パゴダへ進化しました。朝鮮半島に伝播した後、6世紀に仏教と共に日本に到着しました。
この平坦でない山間の地勢は、日本人の建築家に寺院建築を考え直すことを促し、より土着の要素の強い設計が選ばれたのかもしれません。檜の樹皮で葺かれた屋根は、陶版のタイルの代用物で、木板が土間の代わり用いられ、信徒たちのための礼拝場所が主な聖域の前に付け加えられました。
地域特有の素材の使用によって、環境に適応した、格式ばらない外観になったのです。
室生寺には、いくつかの重要な仏像が伝わっていて、平安初期の最も印象的な仏像は、弥勒堂の≪釈迦如来像≫です。前腕部と膝以外は一木造で彫られ、彫刻の胸部と頭部は空洞になっていますが、ぴったりと彫られた木でふさがれています。やや前に傾きつつも、彫刻はかろうじてバランスを保ち、観者との間に緊張感を作り出しています。顔の表情は陰気で厳かで、うちに密教の儀式の秘密を秘めているかのようです。
衣襞は、翻波式という新しい手法で彫られています。頂点で鋭く彫り込まれた厚い襞は、単独の浅い襞と交互に置かれ、滑らかな身体とコントラストを生み出すような模様を作りあげています。彫刻は、胡粉の下地の上に彩色され、織物のような模様が描かれていましたが、今日では、白い下地と朱の斑点のみが確認されています。
Little Art Talkslittlearttalks Karin Jyuen(カリン・ユエン)がアートの世界をわかりやすく解説するYouTubeチャンネル。古今東西のアートにまつわる豆知識をお送りします。 ・ ・ ・
百科事典マイペディア 「平安仏教」の意味・わかりやすい解説
平安仏教【へいあんぶっきょう】
最澄の天台宗と,空海の真言宗を中心とした,平安時代の新仏教の総称。奈良末期の山林仏教を土壌とし,都市の中で世俗化した奈良仏教への批判から形成された。奈良仏教と同じく鎮護国家を標榜するが,比叡山・高野山などの山岳に寺院を建立し,国家とは一定の距離を置きながら,密教修法による祈祷宗教的色彩を強めた。山林修行僧の持つ験力に期待する貴族層に応えて,現世利益(げんせりやく)の密教修法や浄土教が発達。奈良仏教の官大寺では諸宗が並存したが,平安仏教では宗派の純一化が進み,教団として巨大化。教団を離脱して民衆教化に努める市聖(いちのひじり)のもとに念仏集団が形成される。また山岳修行を重視した修験道が確立,修験道下で本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想が説かれるようになった。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
山川 日本史小辞典 改訂新版 「平安仏教」の解説
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平安仏教
9世紀初頭の天台・真言両宗の開宗から12世紀後半の鎌倉新仏教成立前夜までの仏教。奈良末期の山林修行と俗化した南都仏教への批判とを土壌として形成され,天台・真言両新仏教が南都をも先導し,一方の担い手として民間の聖(ひじり)をしだいに多く輩出しつつ展開した。まず山林修行の系譜をひく実践的仏教として登場した新仏教は9世紀末までに態勢を確立し,将来した密教は護国行業で南都を凌駕するようになるが,一方で独自性の強調のゆえに宗派・寺院ごとに固まる排他性を仏教界にもちこんだ。10世紀以降は貴族仏教化が進み,数量功徳主義的な修法・念仏・仏事が流行し,宗派・寺院は門閥化・権門化した。この頃から末法思想が深刻化し,それにつれて民間の聖の活動が活発となった。11世紀後半からは既存宗派から離脱して時相応の行業をめざす者も現れ,鎌倉新仏教への道筋を用意することとなる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の平安仏教の言及
【仏教】より
…これに山林修行などで術力をつけた私度僧らも,山から降りて民衆社会で現世利益(げんぜりやく)の霊験をあらわし,あるいは村堂を建て,造仏や写経,放生や架橋など知識活動を展開して在家仏教信者を増やしたことが,《日本霊異記》などの説話文学で知られ,この時代の仏教の底辺を知ることができる。
[平安仏教]
行き詰まった律令政治の刷新をめざした794年(延暦13)の桓武天皇の平安遷都は,その裏面に奈良の仏教の官大寺経営に費やされる膨大な国費,増大する寺領荘園,加えて教団の腐敗堕落,僧綱制度の欠点などを改革しようとする意図を秘めていた。果たして,従来遷都とともに行われた大寺移建の慣例は放棄された。…
※「平安仏教」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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ウィキペディア
平安仏教とは、平安時代より日本で興隆した仏教宗派をまとめて呼ぶための総称である。具体的には真言宗と天台宗を指すことが多い。場合によっては融通念仏宗も含める。
平安時代当時の日本人から見た「新しい仏教」の数々を、後の時代から見てまとめて指すための総称、分類用語である。「平安仏教」という特定の教義の宗派があったわけではない。
桓武天皇による平安遷都(794年)の背景の一つには、「奈良仏教」(南都六宗)が都市の中で展開して世俗化し、政治の世界に入り込みすぎたという問題があった。孝謙天皇(764年に重祚して称徳天皇)が僧・道鏡を寵愛し、あわよくば道鏡が天皇にまでなろうとして和気清麻呂に阻止された(宇佐八幡神託事件)経緯があり、朝廷の保護の下、政治的な力を持ちすぎた奈良仏教の影響を排除することが長岡京、平安京への遷都の一つの動機である。桓武天皇・嵯峨天皇は奈良仏教に対抗しうる「新しい仏教」として、最澄が唐から持ち帰った天台宗や空海が持ち帰った真言宗を保護した。
特に最澄は奈良仏教に対抗意識を持っており、法相宗の僧侶・徳一と激しい論争をした。一方で空海は奈良仏教に融和的な態度をとった。
とはいえ、「鎮護国家」を掲げたことに関しては奈良仏教と共通している。
特徴のひとつは山岳仏教の発展である。奈良仏教が都市部に展開した仏教であったのに対し、都市、世俗から離れ、最澄は比叡山に延暦寺を、空海は高野山に金剛峯寺を開いた。
また加持祈祷を行なう密教があることも特徴のひとつに挙げることもできる。真言宗の密教の「東密」(京では東寺が中心であったことにちなむ呼び名)に対して、天台宗の密教は「台密」と呼ばれ覇を競ったわけであり、平安仏教は皇室や貴族の現世利益志向に応える性質を備えていた。当時は、皇室や藤原氏などの貴族のための仏教、という性格を基本的に持っていた。
平安中期になると、天台宗の源信らにより死後の阿弥陀如来による救いを説く、浄土教が大きな力を持ってくる。宇治平等院鳳凰堂は、当時の貴族らの浄土信仰の代表的遺構である。融通念仏宗もその文脈で出てくる。やがて武家勢力の台頭と併せ、平安末期に法然の専修念仏が広まり、民衆全体への広がりを見せ鎌倉新仏教のさきがけとなって行った。
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日本の自然は、数万年前の旧石器時代・縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
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日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
死への恐怖。
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日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害地帯であった。
日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教(啓示宗教)は無力であった。
日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
生への渇望。
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日本の甚大な被害をもたらす破壊的壊滅的自然災害は種類が多く、年中・季節に関係なく、昼夜に関係なく、日本列島のどこでも地形や条件に関係なく、同時多発的に複合的に起きる。
それこそ、気が休まる暇がない程、生きた心地がない程であった。
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仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
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日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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日本の宗教とは、人智・人力では如何とも抗し難い不可思議に対して畏れ敬い、平伏して崇める崇拝宗教である。
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現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、科学、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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世界で起きるM6以上の地震の約20%は日本周辺で発生し、甚大なる被害と夥しい犠牲者が出ていた。
古神道のシャーマニズムは、自然災害の中から生まれた。
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助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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日本民族は、命を持って生きる為に生きてきた。
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日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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