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2924年11月16日 YAHOO!JAPANニュース 草の実堂「【犠牲者数250万人?】国が滅ぶほど過酷すぎた隋の暴君・煬帝の大運河工事とは
目次
隋朝とは
隋の大運河建設
大運河建設の犠牲者たち
おわりに
隋朝とは
画像 : 609年の隋王朝の領土 wiki c Ian Kiu
隋(ずい)は、中国史において幾つかの面で重要な役割を果たした王朝である。
西暦581年に楊堅(ようけん)が建国し、西暦618年に滅亡するまでのわずか37年間であったが、後世に大きな影響を及ぼした。
隋の統一は魏晋南北朝時代の混乱を終結させ、中央集権的な国家体制を再構築する契機となった。隋朝の政策はその後の唐朝に継承され、中国の安定した発展に寄与した。
隋はまた、日本とも交流を深めたことで知られる。
特に607年、推古天皇の命を受けた小野妹子(おののいもこ)が第二回遣隋使として派遣されたことは、歴史の教科書にも必ず出てくる。
この際、日本は隋に「日出ずる処の天子」から「日没する処の天子」へ、と宛てた国書を持参した。
この表現は隋の第2代皇帝煬帝(ようだい)に対し、対等な外交関係を求める意図が含まれていたとされ、煬帝が「天子」という言葉に不快感を示したという逸話は有名である。
遣隋使の派遣は、単なる外交目的に留まらず、文化や制度の吸収という意味でも重要であった。小野妹子をはじめとする使節団は隋から仏教、法律、行政制度などを学び、それらを日本に持ち帰った。
特に仏教文化は、日本における宗教的発展の礎となった。
隋の大運河建設
隋は、魏晋南北朝時代の争いを終結させ、中国を再び統一した。その結果、全体的な経済と文化の発展が促進された。
その象徴的な成果の一つが、大運河の建設である。
この大規模な土木事業は、南北の経済的な結びつきを強化するだけでなく、その後の中国史において、物流や行政の基盤として欠かせない存在となった。
隋の大運河は、中国の主要な河川を結ぶ壮大なインフラとなり、具体的には、黄河・長江・淮河(わいが)が運河によって連結された。
画像 : (1)〜(4)が大運河。青は文帝が建設した大運河、赤は煬帝が建設した大運河。 (1)=永済渠 (2)=通済渠 (3)=山陽瀆(邗溝) (4)=江南河 wiki c LiDaobing
淮河は、日本ではあまり馴染みがないかもしれないが、黄河と長江の間を、同じように西から東に流れる川である。
司馬炎が建国した西晋が滅亡して以降、およそ300年間、中国は南北に分裂した状態が続いていた。
この分裂が長期化した一因として、淮河と長江の間に存在する無数の小河川が挙げられる。
この地形が軍の進軍を妨げ、北方からの攻撃が南方へ及びにくくなっていたのである。
例えば、曹操が敗北した赤壁の戦いや、苻堅が敗北を喫した淝水の戦いなどは、いずれも北方の騎馬軍団が南方の水軍に劣勢を強いられた結果と見ることができるだろう。
この運河建設は、隋の初代皇帝・文帝(楊堅)の治世に着工され、2代皇帝・煬帝(楊広)の治世で完成した。
建設期間は595年から608年までとされ、その全長は1700kmにも及ぶ。
現代のような高度な技術がない時代に、これほどの大事業を可能にしたのは、多大な人力の投入によるものであった。
しかし、その規模と労働環境の過酷さから、建設には多くの犠牲が伴った。
大運河建設の犠牲者たち
この大運河建設の壮大なプロジェクトの陰では、計り知れない数の労働者が命を落とし、隋朝滅亡の一因になった。
画像 : 隋の第2代皇帝 煬帝 public domain
特に2代皇帝・煬帝の治世では、3度にわたる大規模な労働力の徴用が行われたと伝えられる。
推定ではあるが500万人以上が工事に駆り出され、その多くが命を落としたという。
たとえば、大業元年(605年)には河南地方から100万人以上が徴用され、黄河や淮河を結ぶ運河の掘削が進められた。
同年、淮南地方でも10万人以上が動員され、邗溝(かんこう)と呼ばれる水路の修復工事が行われた。
この水路は、淮水から長江へ至る重要なルートであり、南北物流の要であった。
しかし、これらの工事の代償は大きかった。過酷すぎる労働環境が労働者たちを苦しめたのである。
唐代に記された雑録ではあるが『開河記』によれば、煬帝は「開河に反対する者は斬首する」と布告し、15歳以上の男子が強制的に徴用されたという。
女性や子どもたちも、食事の提供や作業補助に駆り出された。しかも、人員を隠匿した者は三族皆殺しであった。
監督官による暴力的な管理のもと、労働者は逃げ出す自由すらなく、次々と命を落としていったという。
飢餓や病気が蔓延し、監督官の厳しい取り締まりも相まって、1年足らずで動員された360万人のうち、250万人が死亡したとされる。
現場の環境は劣悪で、労働者は栄養不足や過労に苦しみ、医療もほとんど受けられなかった。「人が人を食べた」という伝説が残るほど地獄のような環境だったのだ。
運河が完成した後、煬帝はその壮大さに満足し、巡幸を行った。
しかし、大運河建設の過剰な労働力の動員や、度重なる高句麗遠征の失敗などが重なり、隋朝の国力は著しく低下していた。
このような状況に、次第に民衆たちの不満は高まり、各地で反乱が相次ぐようになる。
最終的に、煬帝はクーデターにより命を落とし、隋朝も滅亡した。
おわりに
画像 : 長江の夕暮れ public domain
煬帝は「中国史を代表する暴君」とされる一方で、この大運河は隋の滅亡後も唐や宋の時代に受け継がれ、中国の発展に欠かせない存在となった。
物流の効率化をもたらし、経済や文化の交流を支える基盤となったのだ。
しかし、これほどの成果を生むまでには多くの犠牲があった。隋朝の大運河建設は、その壮大さとともに、過酷な歴史の一面を物語る遺産でもあるのだ。
参考 : 『開河記』『隋唐大運河 中史百科』
文 / 草の実堂編集部
草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子
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世界史の窓
大運河(中国の運河)
大運河は中国の隋で建設され、中国の南北を結ぶ重要な物資輸送手段となり、元代にも修築された。
運河は、ヨーロッパで発達し、特にイギリスでは産業革命期の鉄道以前の主要な交通、物資運搬手段として運河網が造営されたこと、近代のスエズ運河やパナマ運河がよく知られているが、中国大陸における農業用水・内陸交通・物資運搬手段としても早くから開発されていた。むしろ中国史における運河の開設の方が古く、重要な役割を果たしていた。特に隋の大運河網の建設を頂点として、統一王朝の事業として重視され、その一部は現在まで使用されているものもある。 → 潅漑農業
秦の運河建設
中国の運河開削の歴史は、秦の政(始皇帝)の鄭国渠(ていこくきょ)に始まる。前247年、13歳で秦王となった政(正とも。後の始皇帝)が秦王となったとき、鄭国という人が、関中の黄土地帯を開拓するために渭水の支流の水を引いて潅漑用水をつくることを献策した。実は鄭国は隣の韓のスパイだったのだが、用水は立派に完成し、鄭国渠と言われ、今も使われている。
また始皇帝は、前214年に嶺南(今の広東・広西)の南越を征服しようとして軍を派遣したとき、華中と嶺南を南北に結ぶ霊渠という運河を建設した。これは南海の象牙や真珠などの産物を華北にもたらすことになり、この運河も現在も使われている。<鶴間和幸『人間・始皇帝』2015 岩波新書 p.145-147>
隋の文帝の大運河
中国全土を統一した隋は、首都圏の人口増加を支えるために、豊かな生産力のある江南地方と首都大興城(長安)を結ぶ大運河の建設を開始した。まず、文帝の584年、長安と黄河を結ぶ広通渠(こうつうきょ。渠とは溝と同じ。運河のこと。)、587年には淮水(わいすい=淮河)と長江を結ぶ山陽瀆を建設した。
広通渠 隋の文帝の584年に建設された、長安と黄河を結ぶ運河。隋代の運河で最初に建設された。隋の都長安を中心とした関中地方の人口増加に伴う食糧不足を解決するため、黄河とつながるこの運河を築き、中原(華北平原)で生産される穀物を輸送した。
山陽瀆 山陽瀆(とく)は隋の文帝の587年に建設された、淮水(わいすい)と長江(下流の揚子江)を結ぶ運河。別名を邗溝(かんこう)。淮南(わいなん)地方の民十万余人を動員したという。
煬帝の大運河
604年に即位した第2代煬帝は605年、黄河と淮河を結ぶ通済渠(つうさいきょ)を築き、これによって長江から長安に至る運河が貫通した。さらに、長江の南岸から杭州に至る江南河を完成させ、長江デルタ地帯と結びつけた。また608年には黄河と現在の北京付近を結ぶ永済渠を開いた。これは高句麗遠征に利するためのものであった。
大運河の建設には、多数の人民が徴発され、その負担が隋の支配への反発となり、早い滅亡の一因となったとされるが、これらの洛陽を中心点とした「横Y字形」の運河網が、長安・杭州・北京地方を結ぶ動脈となって中国の経済的統一に大きな役割を果たした。また後の元や明・清も運河の整備に力を入れ、現在においてもこれらの大運河網は活用されている。→ 元の大運河
通済渠 隋の煬帝が605年に建設した、黄河と淮水を結ぶ運河。基点となる汴州(開封)は通済渠によって江南の物資も運ばれ、中原(華北地方)の経済の中心地として栄え、後の宋(北宋)の首都となる。
江南河 隋の煬帝が610年に建設した、長江(下流の揚子江)流域の揚州と浙江省の杭州を結ぶ運河。これによって長江デルタ地帯と遠く長安が水路で結ばれることとなった。
永済渠 隋の煬帝が608年に建設した、黄河とタク郡(現在の北京)地方とを結ぶ運河で、高句麗遠征のための食料輸送用に建設された。通済渠を経て華北と江南地方とを結ぶ重要な役割を果たした。
元の大運河
金と南宋の対立のために中国全土の経済圏は分断されていたが、元朝の成立によって再び統合されることとなった。そこで再び脚光を浴びたのが大運河であった。隋の大運河は、長安・洛陽に向けて、江南と華北地方を横Y字型で結ぶものであったので、元は都大都と江南地方を直接結ぶ、南北縦断する運河の建設を新たに開始した。1276~1292年の間にそれを完成させ、現在見るような大運河となった。一方で元は南方の物資を海上輸送で華北に運んだ。それは、冬季になると大都付近の運河が凍結して使えなくなってしまうからであった。
通恵河 つうけいが。元代に首都大都から通州まで開設された大運河の一部。1291年、フビライ=ハンの命令で、郭守敬(授時暦の制定でも知られる漢人の技術者)が設計し、翌年着工、1293年に完成した。郭守敬は、大都の北方の昌平県白浮泉の水源から水路を甕山泊に導き、そこから城内の積水潭に引き込み、東に向かってから南に折れ、南の水門から旧運河に合流するようにした。旧運河にも14の水門を設けるなど、厳密な測量と工事で運河を完成させた。約2万人を動員し、約91kmの大工事であった。この運河の完成によって、これまで通州で荷揚げされていた穀物輸送等の船舶は、大都まで直通できるようになり、大都の積水潭は船で水面が覆われるほど盛況が出現した。なお、甕山泊とは、現在の頤和園の昆明湖の前身である。<陳高華『元の大都 マルコ・ポーロ時代の北京』1984 中公新書 p.64-65>
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2022年8月7日 DIAMONDonline「中国のヤバい独裁者「隋の煬帝」の悲惨すぎる末路とは?
真山知幸
アメリカの中学生が学んでいる14歳からの世界史
全世界で700万人に読まれたロングセラーシリーズの『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』(ワークマンパブリッシング著/千葉 敏生訳)がダイヤモンド社から翻訳出版され、好評を博している。本村凌二氏(東京大学名誉教授)からも「人間が経験できるのはせいぜい100年ぐらい。でも、人類の文明史には5000年の経験がつまっている。わかりやすい世界史の学習は、読者の幸運である」と絶賛されている。
その人気の理由は、カラフルで可愛いイラストで世界史の流れがつかめること。それに加えて、世界史のキーパーソンがきちんと押さえられていることも、大きな特徴となる。そこで本書で登場する歴史人物のなかから、とりわけユニークな存在をピックアップ。一人ずつ解説していきたい。今回は中国の暴君として知られる煬帝を取り上げる。民衆を虐げたと悪政ばかりが強調されるが、粗暴なイメージとは異なる意外な一面を持っていた。著述家・偉人研究家の真山知幸氏に寄稿していただいた。
中国のヤバい独裁者「隋の煬帝」の悲惨すぎる末路とは?
中国史に名を残す「暴君」
世界史の魅力はなんといっても、登場する歴史人物たちが多彩なことだろう。世界史を学ぶことで、時代だけではなく国境をも超えて、個性的な歴史人物の生き様に触れることができる。
といっても、決して英雄ばかりが歴史を動かすわけではない。独裁者や暴君たちもまた世界史では注目される。隋の皇帝である煬帝(ようだい)も、その一人である。
『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』での解説にもあるように、中世の中国は「黄金時代」と呼ばれていた。
220年に漢王朝が滅亡すると、魏晋南北朝時代の分裂時代を経て、隋が王朝となり、約370年間もの間、分裂していた南北中国の統一に成功している。
本当に暴君だったのか?
にもかかわらず、隋の皇帝はたったの2代しか続かなかった。そのため、建国者で初代皇帝となる楊堅(文帝)がせっかくまとめ上げた国を、2代目の煬帝が暴政によってぶち壊してしまった……そんなイメージが強い。
しかし、古今東西のどんなリーダーにおいても、良い面もあれば、悪い面もある。煬帝は本当にただの暴君だったのだろうか。
その知られざる功績と、暴君とされたワケについて、解説していこう。
呼び名に込められた悪評
「名は体を表す」とはよく言ったものだが、煬帝の悪評は呼び名に込められている。
「煬帝」とは謚号、つまり、死後に後世の人々から与えられた名であり、唐王朝によって付けられたもの。
実際の名前は楊広であり、本来は「楊帝」と名乗っていたが、生前の悪行から「天に逆らい民をしいたぐ」という意味で「煬」の字が当てられることとなった。
過酷な土木事業で民衆を虐げる
煬帝が後世からそれだけ強く非難されたのは、過酷な大土木作業を国民に課したからだ。皇帝に就くやいなや、壮観な顕仁宮や西苑という大庭園を造るために、毎月200万人もの民衆をこき使って、大木を運ばせた。
極めつきが、南北を縦断し、華北と江南を連結させる大運河の造設である。准水と黄河を結ぶ通済渠(つうさいきょう)と黄河と涿郡を結ぶ永済渠(えいさいきょう)、さらに揚糊江と余杭を結ぶ江南河(こうなんが)を造り上げた。
100万人以上の人々を駆り出す
その距離はなんと1500キロにも及ぶ。通済渠・永済渠では実に100万人以上、江南河では10数万の人々が駆り出されている。
しかも、ろくに食糧も与えられないという過酷な環境下で働かされたため、人々はバタバタと倒れていく。
通済渠では人夫の3分の2が飢餓や疫病などで命を落としている。人を人とも思わないふるまいに、民衆が煬帝に怒りを募らせたのは、当然のことだ。
豪華すぎる舟旅に非難
民衆たちにそれだけ過酷な目に遭わせておきながら、煬帝にはまるでその自覚がなかったらしい。
通済渠が完成すると、煬帝は4階建ての豪華な龍舟に乗って江都に行幸している。
龍舟の2階には120室も部屋があり、正殿、内殿・東西朝堂まで完備。内部は金銀で飾られているという、なんとも豪華な船だ。
しかも、同じく絢爛な皇后の舟がまた別にあったうえに、煬帝の妾や部下たちの舟が数千隻用意されて、煬帝の舟の後についたという。舟列の長さは90キロにも及んだ。
捨てられる食べ物と人民の飢餓
ド派手な煬帝の振る舞いを目にして、国民たちは悔しさにただ唇を噛んだ……のならまだマシで、沿岸の人々は、食物を献上することを強いられた。
舟で豪遊する煬帝のために、次々と名産品を差し出さねばならなかったのである。
煬帝は行く先々で山海の珍味に舌鼓を打ってご満悦だったが、食糧を差し出すほうは、たまったものではない。しかも、献上された食べ物は1州あたり車100台にも相当し、ほとんど食べ切れなかったという。
飢餓でやせ細った人民たちの前で、大量の食糧が捨てられていくこととなった。
煬帝への民衆の憎しみは募るばかりである。
知られざる土木事業の功績
やりたい放題の煬帝だったが、その一方で、大運河の建設自体は、重要な国家プロジェクトでもあった。
隋が南北を統一した以上、南北を結ぶ交通路を敷かねばならない。誰かがやらなければならない、難事業だったのだ。
実際のところ、大運河の建設に着手したのは煬帝ではなく、父の文帝だった。
ただ、当時はようやく戦乱が終わったばかりだったため、文帝は人々の休息を最優先し、急速な工事は避けていた。
大事業を成し遂げる
そんななか、後を継いだ煬帝が強引に計画を推し進めたため、人民の反感を買うことになったわけだが、急速にプロジェクトが動き出したことの国益は大きかった。大運河の建設によって、江南への支配力は強化され、江南から豊かな物資を北に運ぶことも可能になった。
さらにいえば、大運河のなかでも、女性を借り出してまで作った永済渠(えいさいきょう)は軍需物資を輸送するために、作られたもの。
後年行われる高句麗遠征のための準備も、これで整えられた。大運河プロジェクトは、煬帝の強引さがあったからこそ、成し得た一大事業という見方もできるだろう。
暴君ぶりが強調された裏側
それでも民衆を虐げてよいわけではもちろんないが、煬帝の逸話については、やや注意すべき点がある。
それは、後世で伝えられるエピソードの多くが『隋書』の資料に基づいているということ。
『隋書』とは隋代を扱った歴史書で、『史記』や『漢書』と同じく、中国の王朝が定めた24書の正史「二十四史」の一つ。
隋の次代の王朝である唐の皇帝・李世民が命じて、魏徴らが編纂したものである。
歴史は後世に作られる
この李世民が、とにかく煬帝のことを嫌っていた。『随書』で、煬帝がことさら悪辣に描かれている可能性は高い。
事実無根ではないにしても、すべてを真に受けるのはフェアではなさそうだ。
刑罰を軽くする人道主義の一面も
また、悪政ぶりが強調されるばかりに、あまり触れられてない煬帝の政策もある。
煬帝は即位してすぐに、律令の改訂を行っている。律令の「律」は「刑法」、「令」はそれ以外の行政法を指す。
一体、煬帝はどんな法律の改訂を行ったのか。
改訂の内容を見てみると、煬帝は500の法律のうち、200の法律にわたって、刑の軽減を行っているのだ。
むしろ、重刑を加えたのは名君とされる父の文帝のほうだった。文帝は、官僚にこっそり賄賂を贈り、受け取ったものを死刑にしたこともある。
美しい詩を残す
さらに意外なことに、煬帝には詩人としての一面もあった。各地を巡幸した際などしばしば詩作を行っていたという。
名作の一つとして知られているのが『春江花月の夜』だ。そこで煬帝はこんな詩を残している。
「夕暮れの江水は平らで流れない。春の花は満ちて、今まさに盛りのように咲いている。川にきらめく月の光を、流れる波が持ち去っては、潮が星の光と共に満ちて来る」
情景がありありと目に浮かぶような美しい詩だ。実は、前述した強烈な「アンチ煬帝」である李世民ですらも、煬帝の詩には感嘆していたという。
さすがに名君とは言えないまでも、煬帝をただの暴君とくくってしまうと、その本質を見誤ってしまいそうだ。
悲惨な最期
その最期は諸説あるが、最も親しい側近の宇文化及らに反旗を翻されて、家臣2人に殺害されたといわれている。
しかも、煬帝は観念して毒酒により自害しようとしたが、許されなかったという。よりによって「真綿でじわじわと首を絞められる」という悲惨すぎる殺され方で、50年の生涯を閉じた。
周囲を巻き込むパワフルな歴史人物ほど、極端な評価になりがちだ。また時代によっても、評価が移り変わってゆく。
世界史を学ぶ醍醐味
単純には善悪を語れない複雑さを持ち、だからこそ魅力あふれる歴史人物たち。彼ら彼女らと時空を超えて対話できるのも、世界史を学び直す醍醐味ではないだろうか。
中国のヤバい独裁者「隋の煬帝」の悲惨すぎる末路とは?
『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』より。
【参考文献】
砺波護、外山軍治『中国文明の歴史〈5〉隋唐世界帝国』(中公文庫)
宮崎市定『隋の煬帝』(中公文庫)
布目潮風『つくられた暴君と名君 隋の煬帝と唐の太宗』(清水書院)
※布目潮風の風は「さんずいに風」が正式表記
谷川道雄『隋唐帝国形成史論』(筑摩書房)
布目潮風、栗原益男『隋唐帝国』(講談社学術文庫)
【訂正】記事初出時より以下の通り訂正します。1ページ目5段落目:220年に漢王朝が滅亡すると、隋が王朝となり→
220年に漢王朝が滅亡すると、魏晋南北朝時代の分裂時代を経て、 隋が王朝となり、
(2022年8月8日09:38 書籍オンライン編集部)
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日本の常識しか持てない日本人には、中国や朝鮮は理解できない。
日本の歴史は、中国や朝鮮の歴史に比べれば見劣りするほど活気・熱気・情熱の薄く淡い物語にすぎず、所詮、地球の最果て、大陸の辺境にある、ちっぽけな島国の歴史に過ぎない。
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歴史に弱い日本人は視野狭窄で、地球規模の歴史的偉業がどういうものかが理解できず、重箱の隅をつつくようにして些末などうでも良いような事に感動する。それは、単純な時代劇の話しである。
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中国における歴史的大運河は、漢族系中国人ではなく異民族征服者によって建設された。
運河の目的は、物資の輸送と反乱鎮圧の軍隊派遣であった。
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