🎍27〕─2─なぜ日本語は漢字を捨てなかったのか?...『万葉集』は試行錯誤の場ではなかった~No.82 

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 2024年5月31日 YAHOO!JAPANニュース 産経新聞「妖精大国から京都の古民家へ 万葉集の全英訳に挑む翻訳家 ピーター・マクミランさん 一聞百見
 「運命的に出合った」と話す自宅の古民家で=京都市右京区柿平博文撮影)
 流暢(りゅうちょう)な日本語と明るい笑顔がトレードマーク。新聞・テレビでおなじみ、日本文化や古典文学の魅力を国内外に発信するピーター・J・マクミランさん。3年前に京都・小倉山近くの古民家に移り住み、愛猫たちとの暮らしを満喫しながら、10年がかりという「万葉集全訳プロジェクト」に着手した。日本の古典をこよなく愛し、表現しようとするそのエネルギーはどこからくるのだろう? 故郷アイルランド司馬遼太郎が「妖精大国」と評した地だ。背景には、日本文化に宿る精神性への理解と共感があった。
 【写真】世界初の英語百人一首大会で、ケネディ元駐日大使と=平成29年
■英語版かるたを五輪競技に
 「暗いし(駅から)遠くて不便だし…。でもここは小倉山のふもと。実に運命的でしょう?」と笑うマクミランさん。
 かるたでもおなじみの歌集『小倉百人一首』。選者は鎌倉時代歌人藤原定家で、京都市右京区の小倉山近くにその山荘があったとされる。自宅周辺はまさに百人一首の聖地だ。
 「実はこの近くに長年の友人が住んでいて、ずっとあこがれていたんです。この物件をフェイスブックで見つけてそのまま新幹線に飛び乗り、3時間後には京都にいました。とてもラッキーだったと思います」
 アメリカの大学院で英文学の博士号を取得し、日本の大学のオファーを受けて来日。生活するうちに伝統文化に魅了された。中でもひかれたのが、和歌をはじめとする古典文学だ。
 進む道に迷っていた頃、初めて百人一首を翻訳したところ日本文学研究者のドナルド・キーン氏が絶賛。2008年、米コロンビア大学出版から発刊された。日米で翻訳賞を受賞、翻訳家の道を歩むことになる。
 その後、『伊勢物語』の英訳をはじめ、日本でも古典文学を英語で読む著書などを出版。古典の新たな楽しみを提案する著作活動を行ってきた。
 注目を集めたのが、百人一首の楽しさを世界の人に知ってもらいたいと工夫を凝らした英語版百人一首かるた「WHACK A WAKA」だ。「Whack」とは「ピシャリと打つ」という意味。
 トランプサイズのカードは百人一首と同様、和歌と絵が書かれた「読み札」と、下の句が書かれた「取り札」の各100枚ずつがセットになっている。英訳は「五行詩」とし、声に出してリズムよく読めるようにした。
 その完成間近の平成28年秋のこと。突然、マクミランさんの元に米大使館から電話がかかってきた。当時のキャロライン・ケネディ駐日大使が関心を持っているという。
 翌年、東京のアメリカ大使公邸で日本の高校生を招き、世界初の英語百人一首大会が開かれた。大いに盛り上がったそうだ。
 そして今年3月、京都・大覚寺で、文化担当講師を務める国際協力機構(JICA)の留学生が集まり、英語かるた大会が開かれた。日本文化への理解を深めるのが目的で、学生らは英訳の詩の美しさや和歌のストーリー性を楽しんだ。近年、競技かるたが人気だが、日本語でも英語でも変わりはないらしい。
 「かるたは日本文化を紹介するのに最適。参加者は皆、夢中になります。毎年世界大会を開いて将来はオリンピック競技になること。それが私の夢です」
■猫との暮らしで見えてきたこと
 アイルランド東部キルデア州の田舎で生まれ育った。サラブレッドなど競走馬の産地として知られ、緑豊かな地だ。
 司馬遼太郎が『街道をゆく 愛蘭土紀行』で「アイルランドに資源はないが、妖精だけはいっぱいいる」と書いている。ケルト神話が息づく土地柄で、イエーツ、バーナード・ショーら名だたる詩人や作家を輩出してきた。
 父は画商で、母は新聞連載も手掛けた文筆家。児童文学も書いていたが、父の反対もあって力を発揮することはなかったという。
 8人きょうだいの4番目。子供の頃の夢は「俳優」で、文学に興味を持ったのは母の影響だ。よく本を読み聞かせてくれ、本についてディスカッションをしては楽しんだ。
 「私の文学好きは母の遺伝子でしょう。今、文学の仕事をしているのは母のおかげ。この仕事を続けていくことは親孝行の一つだと思っています」
 そして、もう一つ。夢だった「俳優」に近い仕事として楽しんでいるのがテレビ出演だ。国際放送「NHKワールド JAPAN」の番組「マジカルジャパニーズ」ではパーソナリティーを務める。毎回、「城」や「相撲」といったテーマに合わせて日本語や日本文化を紹介している。
 例えば「城」では、武将スタイルの衣装に身を包み、刀を手にして姫路城を訪れたマクミランさん。
 「天守閣」から、「一国一城の主」といった言い回しまで。その意味や背後にある文化、日本人の考え方まで、わかりやすく解説する。明るいキャラクターを生かしたエンターテインメント番組といえるだろう。
 少し余談になるが、猫好きで4匹の黒猫と暮らす。姫路城のロケで病気の黒猫を保護し、自宅に連れ帰った。なんと5匹目である。姫路城で出合ったことから、「姫ちゃん」と名付けた。
 「とても人になれているので、捨てられたのではないかと思います。病気の治療もし、随分良くなりましたよ」とにっこり。先住猫との相性が良くないことから、十分に体調が戻ったら新しい飼い主を探すつもりだ。
 といって、昔から特に猫好きだったというわけではないらしい。ただ、猫を飼うようになって、生活が大きく変わったという。
 「猫に教わることが本当に多かった。まずは食べ物に気を配るようになりました。フレキシタリアンってわかりますか?」
 直訳すると「柔軟なベジタリアン」くらいの意味。
 「肉や魚を極力避け、卵も食べるならケージ飼いではない平飼い卵を買います。また、できるだけカーボンフットプリント(炭素の足跡、原材料の調達から廃棄・リサイクルまで全過程で排出される二酸化炭素量を表示)商品を選ぶ…といった具合です。自分にできることからですね」
 というのも、猫たちと暮らすようになって気づいたことがあったからだ。
 「1匹だけではわからなかったけれど4匹、5匹もいると皆まったく性格が違う。独自の個性と魂があることを知ったのです。そんな、命を気遣い、尊重する生き方に変えていきたい。今はまだその途中です」
■4500首超の全訳に挑む
 「万葉集から俵万智さんまで。と、いつも言っているんです」
 好きな詩歌について尋ねると、ちゃめっ気たっぷりの答えが返ってきた。和歌も現代短歌も好きだが、令和という新たな時代を迎え、その元号万葉集からとられたことに感動した。
 令和元年12月、『英語で味わう万葉集』を出版。100首を選び、英訳と現代語訳、解説を付けた。英訳はリズミカルな五行詩に。原文で使われている漢字にも留意し、より詩的な表現を模索したのが特徴だ。詩人の本領発揮である。
 一方、ある国の大使に指摘されたことがある。万葉集はあまり世界的に知られていないのではないかと。
 古典の『源氏物語』や現代日本文学などに比べるとそうかもしれない。
 「万葉集の魅力は何よりその世界観だと思うのです」とマクミランさん。
 「例えばシャーマニズム的要素。『言霊』という文化が日本にはありますね。言葉には不思議な力があり、発すると現実になるという信仰です。同じような世界観は私の故国アイルランドも含め世界に存在するのですが、記録されて残っているのは万葉集だけ。世界的にみても貴重な文化的価値を持つ作品なのです」
 ただ、小説や随筆とは違い、詩歌である点が難しいのかもしれない。英訳したときの表現の問題だ。正確さのみならず、万葉集の持つ詩的な美しさをいかに他言語で再現できるかが問われる。
 さらにもう一つ。歴史的な背景もあるとマクミランさんは指摘する。
 「万葉集はかつて、政治的プロパガンダに利用されたことがありました。その過去は否定できないし、だからといってそのために万葉集自体を頭から否定してしまうのも違うと思う。万葉集は、きちんと文学作品として評価されるべきです。私は全訳を通してそんな状況を正したいと思っています」
 現在、9人の万葉学者らとタッグを組み、10年がかりの「万葉集全訳プロジェクト」を進行中だ。
 「ズームを使って今朝も5首。夕方にもやります。20巻で4500首以上あるので、たいへんな作業です。特に枕詞(まくらことば)はとっても難しい」と苦笑。それでもなんだか、楽しそうだ。
 また、日本全国にある万葉歌碑に英訳や現代語訳、解説文などを掲載した看板を設置する「万葉歌碑プロジェクト」も進めている。
 「全国に2300以上あるのですが、くずし字などで読めないものも多い。もっと親しめるようにしたいのです」。観光資源として生かせたらと考える。
 日本語の魅力について聞いてみた。
 「大好き。言霊もですが、複雑で楽しい遊びに満ちた言語だから。言葉遊びしやすいでしょう? 同音異義、縁語、枕詞、本歌取り、歌枕…。どれも〝連想〟という機能を持つ。連想する言語なんです。もちろん英語にもありますが…」
 つい最近、新しい原稿を書き上げた。出版社募集中というその本は…。
 「百人一首の〝超訳〟です。和歌の世界を現代に置き換えるとどうなるか。意外と現代的な表現で言い換えられるんですよ」
 生涯のテーマがあった。
 「日本の古典文化を現代にどう生かすか。SDGs(持続可能な開発目標)をはじめ、私たちは学ぶことが多いと信じています」
 【プロフィル】ぴーたー・じぇい・まくみらん アイルランド出身。制作・翻訳会社「月の舟」代表。アイルランド国立ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンを首席で卒業し、同大学院で哲学の修士号、米国で英文学の博士号取得。コロンビア大などで客員研究員を務め、現在は東京大大学院非常勤講師、相模女子大客員教授。英訳『百人一首』は日米で翻訳賞を受賞した。新聞連載のほか、国際放送「NHKワールド JAPAN」、KBS京都ラジオなどに出演。『英語で味わう万葉集』『松尾芭蕉を旅する』など著書多数。
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 6月15日 YAHOO!JAPANニュース ニューズウィーク日本版「なぜ日本語は漢字を捨てなかったのか?...『万葉集』は試行錯誤の場ではなかった
 <万葉仮名とは、漢字によって日本語を必死になって文字化したものなのだろうか。日本語の文字を再考する>【今野真二清泉女子大学教授)】
 「元暦校本万葉集」出典:ColBase
 古代の中国から伝わった漢字は、日本語の話し言葉と書き言葉に影響を与え続けてきた...。
 【写真】「元暦校本万葉集
 『万葉集』から近代まで、漢字に光をあてて歴史をたどり、日本語を再発見。今野真二著『日本語と漢字──正書法がないことばの歴史』(岩波新書)の第1章「すべては万葉集にあり」より一部抜粋。
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 現在私たちは、漢字と仮名(場合によってはラテン文字)とによって日本語を文字化している。
 それに慣れている現代日本母語話者は、漢字だけで日本語を文字化するというと、「そんなことができるのか」とか「大変そうだな」と思う。しかしそれは、漢字と仮名とを使っているから、そう感じるにすぎない。
 東海道本線が開通すれば、東海道を歩いて行き来していた頃は「大変だっただろうな」と思う。しかし東海道新幹線が開通すれば、東海道本線は「時間がかかる」ということになる。
 新しいものを獲得した時点で、獲得していない時点を想像すれば、「大変そうだな」ということになる。それはいわば「感想」のようなものといってもよい。
 『万葉集』をめぐって、日本語を漢字によって必死になって文字化しようとしていた、日本語を漢字によって文字化するために試行錯誤していた、というようなことが言われることが少なくない。
 しかし、そうではなかったことは漢字で文字化された『万葉集』を、よみくだした「本文」と対照しながらよんでみれば、すぐにわかるのではないだろうか。
 漢字から仮名がうみだされたのは、9世紀末頃と推測されている。それは『万葉集』が成った8世紀から250年ほど後にあたる。
 漢字は朝鮮半島においても使われていた。というよりも、朝鮮半島を経由して「漢字文化」は日本にもたらされた。
 朝鮮半島の言語も日本語も、最初に出会った文字は漢字であった。李氏朝鮮第4代国王の世宗(セジョン)が訓民正音、現在のハングルを公布したのが1443年、15世紀のことになる。
 このことをもって、日本においては短期間に漢字から仮名をうみだした、とみるむきがある。
 しかしおそらくそういうことではなく、『古事記』『日本書紀』『万葉集』が成った8世紀の時点では、「漢字によって日本語を文字化する」ということが1つの到達をみていたために、そこから仮名の発生まであまり時間がかからなかったということではないだろうか。
 仮名のようなものが必要であるという「日本語内部での圧力=内圧」がたかまっていた、といってもよいだろう。
 漢字によって日本語を文字化することに関しての試行錯誤があったとすれば、それは『万葉集』が成る前の250年間がそうした時期なのであろう。その試行錯誤の跡を窺わせる文献は存在していない。
 また、漢字によって日本語を文字化するということを話題にするにあたって、「文字社会」の広狭が考慮にはいっていないことが少なくない。
 現在は文字を読み書きできる人の数が多い。つまり「文字社会」が広い。しかし、8世紀頃、文字を読み書きできる人は相当に限定的であったと思われる。
 中国語、漢字についての知識、理解がなければ漢字によって日本語を文字化することはできない。
 中国語を母語として日本語が理解できる人、日本語を母語として中国語がかなり、あるいはある程度理解できる人が、漢字を使って日本語を文字化できる人であっただろう。
 「日本語を文字化する」ということの中心(センター)に漢字があった。そして後に述べるように、漢文訓読が日本語の「かきことば」の発生に深くかかわっていた。
 そうであるならば、漢字は日本語を文字化するための文字であることを超えて、日本語に深くかかわりをもった存在であったことになる。
 そう考えると、仮名がうまれたからといって漢字を捨てなかったことは、むしろ当然といってよい。
 8世紀の時点ですでに漢字は日本語とともにあり、その頃から漢字とともに日本語の歴史が動き出したといえるだろう。
 今野真二清泉女子大学教授)
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