・ ・ ・
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
科学的事実、遺伝子から、日本民族・琉球民族・アイヌ民族の三民族は縄文人の子孫であり、大陸の漢族中国人や半島の半島系半島人とは別種アジア人である。
・ ・ ・
日本民族は、数万年前から日本列島に住んでいた先住民、つまり日本土人の子孫である。
・ ・ ・
2024年2月7日 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞オンライン「温暖化、超巨大噴火…天変地異と深くかかわる日本人の起源と「黒潮の民」
編集委員 丸山淳一
1月の全国の気温は、観測史上3位の暖かさだった。地球温暖化が進んでも雪が減るわけではなく、立春以降も大雪に警戒は必要だが、気象庁の3か月予報では2月以降も暖かい日が多く、桜の開花は昨年よりさらに早まりそうだ。今年の夏は2023年を上回る猛暑になる可能性が高いという見方もある。
10年以上噴火を続ける西之島(本社機から2023年11月撮影)
温暖化の一方で、世界各地で大地震や火山の噴火が続いている。日本気象協会によると、昨年12月以降、海外ではフィリピンやインドネシアなどでマグニチュード7以上の大地震が6回も発生し、インドネシアやアイスランドで大規模な火山噴火も起きた。日本でも元日にマグニチュード7.6の能登半島地震が起き、鹿児島県の諏訪之瀬島や小笠原諸島の西之島では噴火が続いている。
南海トラフ大地震や首都直下地震、富士山の噴火の直接の引き金ではないことはわかっていても、漠然とした不安を感じるのは筆者だけではないだろう。過去には、けた外れの天変地異が起き、われわれの祖先の営みに大きな影響を与えている。日本人の起源を探る謎解きにも、地球規模の気候変動や大災害が密接に関係している。
水没した大陸「スンダランド」
われわれの直接の祖先である新人(ホモ・サピエンス)がアフリカで誕生したのは今から20万年前といわれる。10万年前には一部がヨーロッパとアジアに移動を始め、人類は世界に拡散していく。かつて赤道直下のインドネシア、マレーシア一帯には、「スンダランド」と呼ばれる大陸があり、アジアに向かった新人の一部が定住したとみられる。氷河期で気温は今より5~7度も低く、草原と森が混在する平原に多くの動植物が生息する豊かな大陸だったという。
しかし、約2万年前に最後の氷河期が終わって気温が上昇し始めると、遠浅の大陸棚に囲まれたスンダランドは急速に水没し始める。陸地の面積が減り、温暖化によって食料となる動植物もとれなくなると、多くの人々は新天地を求め、船で太平洋にこぎ出した。
氷河期にはオーストラリアとニューギニアも地続きで、深い海溝を隔てたスンダランドの東にはもう一つの大陸「サフルランド」があった。その一部だったオーストラリア北部のマラクナンニャ遺跡からは、5万~6万年前の石器が出土している。スンダランドの人々は早くから周囲の陸地を行き来していたことがうかがえる。
石器で杉をくり抜いて作った丸木舟で、台湾から与那国島まで渡り切った(2019年撮影)
スンダランドを脱出した人々は持ち前の遠洋航海術を駆使し、フィリピンや台湾へ、さらに黒潮に乗って沖縄、南西諸島へと航海を繰り返した。一部は南九州にも到達したとみられる。
2019年には国立科学博物館などの研究チームが、3万年前の道具や材料で作った丸木舟に乗り込み、台湾から約200キロ離れた沖縄・ 与よ那な国ぐに 島に渡れることを航海で実証している。南九州に到達した「黒潮の民」は、独自の縄文文化を発展させて定住し、日本人の祖先になったとみられている。
日本人の祖先は海洋民族か
日本人が大陸から到達した道筋は、南西諸島を北上する「南方ルート」のほかに、シベリアから陸続きだったサハリンを経由して渡来した「北方ルート」、朝鮮半島を南下して対馬海峡を渡った「朝鮮ルート」があるとされてきた。だが、出土した人骨のDNA配列を調べるゲノム解析結果によると、日本人の祖先は3系統に大別できるほど単純ではないことがわかってきた。
人骨から復元された縄文人の復顔像。南九州の縄文人とは年代が異なる(2015年4月、富山市で撮影)
沖縄本島や石垣島からは2万年以上前の旧石器時代の人骨が出土しており、以前は「南方ルート」で南九州に到達した縄文人の祖先とみられていたが、遺伝子解析の結果、今では本州などの縄文人とは系統が異なるという見方が有力になっている。エラが張った四角い顔、大きな鼻、彫りが深い人というイメージも、南九州の縄文人にあてはまるかどうかはわからない。酸性土壌に分解されて、南九州の縄文草創期の人骨はまったく出土していないからだ。
上野原遺跡から出土した角筒形平底土器には、二枚貝の縁を使って波模様が刻まれている(写真提供:鹿児島県立埋蔵文化財センター)
しかし、南九州の縄文人の祖先が「黒潮の民」だったことをうかがわせる遺物もある。鹿児島県南さつま市の 栫かこいノの原はら 遺跡からは、丸木舟を作る時に使われたとみられる1万2000年前の丸ノミ形 石せき斧ふ が見つかっている。
約9500年前の大規模集落跡が発見された同県霧島市の上野原遺跡からは、「縄」ではなく「貝」を使って紋様が施された平底の土器が出土している。丸ノミ形石斧は日本最古とされ、平底土器の登場は本州などより5000年も早い。
丸木舟を作る石斧も、揺れても倒れず舟で物資を運ぶのに適した平底土器も、南九州で花開いた高度な縄文文化が、黒潮の民によるものだったことをうかがわせる。
「超巨大噴火」で試練に立った縄文人
南九州に到達した縄文人は、約7300年前の鹿児島沖の「鬼界カルデラ」の噴火で、大きな試練に立たされる。この時の噴火は、噴出物の量から噴火の規模を示す「火山爆発指数」(VEI)が7。宝永4年(1707年)の富士山噴火(VEI=5)の約100倍の「超巨大噴火」だったと推定されている。
南九州に積もったアカホヤ火山灰の層(鹿児島県曽於市の桐木耳取遺跡、写真提供:鹿児島県立埋蔵文化財センター)
火砕流は海を渡って九州南部に押し寄せ、噴出したアカホヤ火山灰は東北地方にまで降った。南九州の縄文文化は壊滅的な打撃を受けた。九州大学アジア埋蔵文化財研究センターの桑畑光博さんの研究によると、九州南部の縄文集落などの遺跡数は鬼界カルデラ噴火後に約4分の1に減少し、火砕流が直接及んだ地域では約250年間、定住が再開されなかったという。
しかし、彼らは「黒潮の民」のDNAを受け継いでいた。鬼界カルデラの巨大噴火前には、 姶あい良ら カルデラ内の桜島の噴火活動が活発化したとみられるから、脱出する時間的余裕はあっただろう。舟を造って再び太平洋にこぎ出し、黒潮に乗った縄文人は本州にたどり着いたとみられる。高知、和歌山や八丈島の遺跡から、栫ノ原遺跡の丸ノミ形石斧と同系統の摩製石斧が出土しているのがその証拠だ。
バヌアツで日本の縄文土器が、南米エクアドルではよく似た土器が
黒潮の民の移動はさらに続いた可能性もある。桜美林大学芸術文化学群教授の田淵俊彦さん(元テレビ東京プロデューサー)は、海を渡った縄文人は、ミクロネシアやポリネシア、さらには南米に到達したのではないかという仮説を検証するため、縄文人の軌跡を追ったドキュメンタリー番組を制作した。
伝統航海を学ぶためにポリネシアで使われている帆船カヌー。海を越えた縄文人のカヌーも同型のものか(田淵俊彦さん提供)
大きな海流には必ず反流がある。海流だけを頼りにする場合は「流れに任せて」ということだが、高度な航海術があれば、この反流も利用した航海ができる。外洋に乗り出せる大型の丸木舟を造る高度な技術がありながら、帆船航法をまったく知らなかったというのも不自然だ。「帆船」と「海流を見極める能力」がそろっていれば、太平洋のどこにたどり着くことも不可能ではない、と田淵さんはみる。
エファテ島から縄文土器が出土したことを伝える読売新聞夕刊(1996年8月14日夕刊)
昭和40年(1965年)ごろ、日本から6000キロも離れたバヌアツ共和国のエファテ島のヤムイモ畑で見つかった土器のかけらが、平成8年(1996年)の調査で5000年前の縄文早期に作られた日本の縄文土器とわかった例もある。
専門家の鑑定で、組成成分や技法・文様などが三内丸山遺跡(青森県)など東北地方の遺跡から出土する土器と同じだったのだ。縄文人がバヌアツを目指して航海したとは考えにくい。日本からこぎ出し、嵐に遭うなどして漂着した縄文人の舟が積んでいた土器とみるのが自然だろう。
昭和40年ごろには南米エクアドルのバルビディア遺跡から、縄文土器によく似た土器や、崇拝のため女性の姿などを刻んだ「女神石」そっくりの石(岩偶)が見つかっている。こちらの土器は日本製ではないが、特徴などを宮崎県の跡江貝塚遺跡(宮崎市)から出土した土器と比べたところ、いくつかの類似点があることがわかっており、南九州の縄文土器を参考にして作られた可能性がある。
バルビディア遺跡から出土した縄文土器とよく似た土器片(田淵俊彦さん提供)
跡江貝塚遺跡は7300年前の鬼界カルデラ噴火によるアカホヤ火山灰に埋もれた遺跡で、6000年前に作られたとみられるバルビディア土器の手本になったとしても、時系列上の矛盾はない。バルビディア遺跡からは、愛媛県の上黒岩遺跡から出土した縄文人の崇拝の対象だったとみられる「女神石」に酷似した石も見つかっている。
もちろん類似は単なる偶然かもしれないが、温暖化と超巨大噴火が起こり、海流ハイウェーが結んだ黒潮の民の大移動が、スンダランドからフィリピン、日本を経てバヌアツ、エクアドルまで、太平洋をぐるりと回ったかもしれない、と考えるだけでワクワクする。
残り:725文字/全文:5524文字
読者会員限定
記事です
・ ・ ・
2017年12月15日 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞オンライン「「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった!
日本人のルーツの一つ「縄文人」は、きわめて古い時代に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だったことが、国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の斎藤 成也なるや 教授らのグループによる縄文人の核DNA解析の結果、わかった。現代日本人(東京周辺)は、遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいることも明らかになった。縄文人とは何者なのか。日本人の成り立ちをめぐる研究の現状はどうなっているのか。『核DNA解析でたどる日本人の源流』(河出書房新社)を出版した斎藤教授に聞いた。
世界最古級の土器や火焔土器…独自文化に世界が注目
縄文時代を代表する大規模な集落跡、青森市の三内丸山遺跡。復元された6本柱の大型掘立柱建物が威容を誇る
縄文人とは、約1万6000年前から約3000年前まで続いた縄文時代に、現在の北海道から沖縄本島にかけて住んでいた人たちを指す。平均身長は男性が160センチ弱、女性は150センチに満たない人が多かった。現代の日本人と比べると背は低いが、がっしりとしており、彫りの深い顔立ちが特徴だった。
アホウドリ再生…孤島での“孤闘”が起こした奇跡
世界最古級の土器を作り、約5000年前の縄文中期には華麗な装飾をもつ火焔かえん土器を創り出すなど、類を見ない独自の文化を築いたことで世界的にも注目されている。身体的な特徴などから、東南アジアに起源をもつ人びとではないかと考えられてきた。由来を探るため、これまで縄文人のミトコンドリアのDNA解析は行われていたが、核DNAの解析は技術的に難しかったことから試みられていなかった。
斎藤教授が縄文人の核DNA解析を思い立ったのは、総合研究大学院大学教授を兼務する自身のもとに神澤秀明さん(現・国立科学博物館人類研究部研究員)が博士課程の学生として入ってきたことがきっかけだった。「2010年にはネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)解読が成功するなど、世界では次から次に古代人のDNAが出ていたので、日本でもやりたいと思っていた。神澤さんが日本人の起源をテーマにしたいということだったので、縄文人の核DNA解析に挑戦することにした」と振り返る。
福島・三貫地貝塚人骨のDNA解読に成功
(『核DNA解析でたどる日本人の源流』に掲載された図をもとに作成)
問題は、縄文人骨をどこから手に入れるか、だった。ねらいをつけたのは、自身が東大理学部人類学教室の学生だったころから知っていた東大総合研究博物館所蔵の福島県・三貫地さんがんじ貝塚の人骨だった。同貝塚は60年以上前に発掘され、100体を超える人骨が出土した約3000年前の縄文時代後期の遺跡。同博物館館長の諏訪元げん教授に依頼すると、快諾。男女2体の頭骨から奥歯(大臼歯きゅうし)1本ずつを取り出し、提供してくれた。
アホウドリ再生…孤島での“孤闘”が起こした奇跡
解析を担当する神澤さんがドリルで歯に穴を開け、中から核DNAを抽出。コンピューターを駆使した「次世代シークエンサー」と呼ばれる解析装置を使い、核DNAの塩基32億個のうちの一部、1億1500万個の解読に成功した。東ユーラシア(東アジアと東南アジア)のさまざまな人類集団のDNAと比較したところ、驚くような結果が出た。中国・北京周辺の中国人や中国南部の先住民・ダイ族、ベトナム人などがお互い遺伝的に近い関係にあったのに対し、三貫地貝塚の縄文人はこれらの集団から大きくかけ離れていた。
「縄文人は東南アジアの人たちに近いと思われていたので、驚きでした。核DNAの解析結果が意味するのは、縄文人が東ユーラシアの人びとの中で、遺伝的に大きく異なる集団だということです」と斎藤教授は解説する。
アジア集団の中で最初に分岐した縄文人
20万年前にアフリカで誕生した現生人類(ホモ・サピエンス)は、7万~8万年前に故郷・アフリカを離れ、世界各地へと広がっていった。旧約聖書に登場するモーセの「出エジプト」になぞらえ、「出アフリカ」と呼ばれる他大陸への進出と拡散で、西に向かったのがヨーロッパ人の祖先、東に向かったのがアジア人やオーストラリア先住民・アボリジニらの祖先となった。
縄文人は、東に向かった人類集団の中でどういう位置づけにあるのか。「最初に分かれたのは、現在、オーストラリアに住むアボリジニとパプアニューギニアの人たちの祖先です。その次が、縄文人の祖先だと考えられます。しかし、縄文人の祖先がどこで生まれ、どうやって日本列島にたどり着いたのか、まったくわかりません。縄文人の祖先探しが、振り出しに戻ってしまいました」
アフリカを出た人類集団が日本列島に到達するには内陸ルートと海沿いルートが考えられるが、縄文人の祖先はどのルートを通った可能性があるのだろうか。「海沿いのルートを考えています。大陸を海伝いに東へ進めば、必ずどこかにたどり着く。陸地に怖い獣がいれば、筏いかだで海へ逃げればいい。海には魚がいるし、食料にも困らない。一つの集団の規模は、現在の採集狩猟民の例などを参考にすると、100人とか150人ぐらいではなかったかと思います」と斎藤教授は推測する。
分岐した時期は2万~4万年前の間
インタビューに答える斎藤成也・国立遺伝学研究所教授(静岡県三島市で)
では、縄文人の祖先が分岐したのはいつごろか。「オーストラリアやパプアニューギニアに移動した集団が分岐したのが約5万年といわれるので、5万年より古くはないでしょう。2万~4万年前の間ではないかと考えられます。日本列島に人類が現れるのが約3万8000年前の後期旧石器時代ですから、4万年前あたりの可能性は十分にある」と指摘。「旧石器時代人と縄文時代人のつながりは明確にあると思う。後期旧石器時代はもともと人口が少ないですから、日本列島にいた少数の後期旧石器時代人が列島内で進化し、縄文人になった可能性も考えられます」と語る。
アホウドリ再生…孤島での“孤闘”が起こした奇跡
また、縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。ヤマト人が縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%だった。「その後、核DNAを解析した北海道・礼文島の船泊ふなどまり遺跡の縄文人骨(後期)でも同じような値が出ているので、東日本の縄文人に関してはそんなにずれることはないと思う」。アイヌと沖縄の人たちの遺伝情報の割合についてはヤマト人ほどくわしく調べていないとしたうえで、「アイヌは縄文人のDNAの50%以上を受け継いでいるのではないかと思う。沖縄の人たちは、それより低い20%前後ではないでしょうか」と推測する。
以前から、アイヌと沖縄の人たちとの遺伝的な類似性が指摘されていたが、なぜ北のアイヌと南の沖縄の人たちに縄文人のDNAが、より濃く受け継がれているのだろうか。
日本人の成り立ちに関する有力な仮説として、東大教授や国際日本文化研究センター教授を歴任した自然人類学者・埴原はにはら和郎かずろう(1927~2004)が1980年代に提唱した「二重構造モデル」がある。弥生時代に大陸からやってきた渡来人が日本列島に移住し、縄文人と混血したが、列島の両端に住むアイヌと沖縄の人たちは渡来人との混血が少なかったために縄文人の遺伝的要素を強く残した、という学説だ。斎藤教授は「今回のDNA解析で、この『二重構造モデル』がほぼ裏付けられたと言っていい」という。
遺伝的に近かった出雲人と東北人
日本人のDNAをめぐって、もう一つ、意外性のある分析結果がある。
数年前、島根県の出雲地方出身者でつくる「東京いずもふるさと会」から国立遺伝学研究所にDNAの調査依頼があり、斎藤教授の研究室が担当した。21人から血液を採取してDNAを抽出、データ解析した。その結果、関東地方の人たちのほうが出雲地方の人たちよりも大陸の人びとに遺伝的に近く、出雲地方の人たちは東北地方の人たちと似ていることがわかった。
「衝撃的な結果でした。出雲の人たちと東北の人たちが、遺伝的に少し似ていたのです。すぐに、東北弁とよく似た出雲方言が事件解明のカギを握る松本清張の小説『砂の器』を思い出しました。DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出てきた。昔から中央軸(九州北部から山陽、近畿、東海、関東を結ぶ地域)に人が集まり、それに沿って人が動いている。日本列島人の中にも周辺と中央があるのは否定できない」と指摘。出雲も東北地方も同じ周辺部であり、斎藤教授は「うちなる二重構造」と呼んで、注目している。その後、新たに45人の出雲地方人のDNAを調べたが、ほぼ同じ結果が得られたという。
日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?
斎藤教授は、この「うちなる二重構造」をふまえた日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。日本列島への渡来の波は、これまで考えられてきた2回ではなく3回あった、というシナリオだ。
アホウドリ再生…孤島での“孤闘”が起こした奇跡
第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。
このモデルが新しいのは、「二重構造モデル」では弥生時代以降に一つと考えていた新しい渡来人の波を、第2波と第3波の二つに分けたことだという。この二つの渡来の波があったために「うちなる二重構造」が存在している、と斎藤教授は説く。
弥生・古墳人も解析、沖縄では旧石器人骨19体出土
日本人の成り立ちをめぐり、現在、さまざまなDNA解析が行われ、新たな研究成果も出始めている。「神澤さんや篠田謙一さんら国立科学博物館のグループは、東日本の縄文人骨や弥生人骨、北九州の弥生人骨、関東地方の古墳時代人骨など、数多くの古代人のゲノムを調べています。北里大学医学部准教授の太田博樹さんらの研究グループは愛知県・伊川津いかわづ貝塚の縄文人骨のDNAを解析していますし、東大理学部教授の植田信太郎さんの研究グループは、弥生時代の山口県・土井ヶ浜遺跡から出土した人骨から核ゲノムDNAの抽出に成功しています」
沖縄・石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡から出土した約2万7000年前の日本最古の人骨
古代人と現代人はDNAでつながっているため、現代人を調べることも重要になってくる。「いま『島プロジェクト』を考えています。島のほうが、より古いものが残っているのではないかと昔から言われている。五島列島や奄美大島、佐渡島、八丈島などに住む人たちを調べたい。東北では、宮城県の人たちを東北大学メディカル・メガバンクが調べているので、共同研究をする予定です。日本以外では、中国・上海の中国人研究者に依頼して、多様性のある中国の漢民族の中で、どこの人たちが日本列島人に近いのかを調べようとしています」と語る。
縄文時代以前の化石人骨も続々と見つかっている。日本本土で発見された後期旧石器時代人骨は静岡県の浜北人だけだが、近年、沖縄・石垣島の白保竿根田原しらほさおねたばる洞穴遺跡から約2万7000年前の人骨が19体も出土し、学際的な研究が進められている。
分子(ゲノム)人類学の進展と技術革新で、謎に満ちた縄文人の由来や日本人の起源が解き明かされる日が、近い将来、きっと訪れるだろう。
プロフィル
伊藤 譲治(いとう・じょうじ)
読売新聞編集局配信部兼メディア局記者。文化部次長、紙面審査委員(文化面担当)を経て、昨年6月から現職。文化部時代は教育、読書・出版、放送などを担当。
・ ・ ・