🎍44〕─3─公家と武家はいかにして誕生したのか。~No.140 

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 2025年3月26日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「公家」と「武家」はいかにして誕生したのか…日本人が意外と知らない「日本史の核心」
 「わび・さび」「数寄」「歌舞伎」「まねび」そして「漫画・アニメ」。日本が誇る文化について、日本人はどれほど深く理解しているでしょうか?
 【写真】「公家」と「武家」はいかにして誕生したのか…日本人が知らない日本史の核心
 昨年逝去した「知の巨人」松岡正剛が、最期に日本人にどうしても伝えたかった「日本文化の核心」とは。
 2025年を迎えたいま、日本人必読の「日本文化論」をお届けします。
 ※本記事は松岡正剛『日本文化の核心』(講談社現代新書、2020年)から抜粋・編集したものです。
 聖徳太子と「国家」
 日本で「国家」という文字を最初にのこしたのは、聖徳太子が制定したといわれる「17条憲法」でした。その4に「百姓有礼、国家自治」とあります。
 これは「百姓に礼有るときは、国家自づからに治まる」と読みます。前後の脈絡をまじえて解釈すると、群臣たちに礼が保たれていれば社会の秩序は乱れないし、百姓に礼があれば国はおのずと治まってくるという意味になります。
 ここで百姓と言っているのは、お百姓さんのことではありません。古代律令社会で戸籍に「良」と示された有姓階層の全体を「百姓」(多くの氏姓の集まり)と呼んでいたのです。貴族・官人・公民・雑色人が百姓です。ここには皇族、および奴婢などの賤民と「化外の民」とされた蝦夷は入っていません。
 そうした例外はあるにせよ、聖徳太子の時代は「国家という家」は群臣と百姓の礼によって成立していると考えられたのです。ただし、ここでいう「家」は「戸」という単位で数えられるものでした。
 おそらくもともとの「国の家」とは、家が集まって国になっているということでしょう。この「家」は家屋や住宅のことではなく、また徴税の対象の「戸」ではなく、人々がそこに時をおくる家のことです。時をおくる家というと、私などはついつい民家のような家々や蕪村の「五月雨や大河を前に家二軒」といった庶民の家を思い浮かべるのですが、国をつくる家はそういうものではなく、家名をもった家でした。
 家名をもった家、つまりブランドとしての家は、その後の日本ではながらく「公家」と「武家」が代表してきました。日本の家を一種のブランドとして支えてきたのは、皇族をべつにすると、公家と武家なのです。そこから話をほぐしていきたいと思います。
 公家の序列
 公家とは何かというと、朝廷に仕える貴族や上級官人のことです。なかでも三位以上の位階をもち、昇殿が許された公家(公卿)を堂上家といい、そうでない公家は地下家といわれました。こちらは昇級できません。
 そのうち平安後期になってくると武士が登場してきて、棟梁による「武門の家」をかたちづくりはじめます。これが武家ですが、この武家の台頭に対抗して、公家のほうも藤原北家を中心に摂家(摂関家)をつくって家格を確立させました。ランク付けによってブランドをつくっていったのです。
 ランキング・トップは「摂家」です。近衛・九条・二条・一条・鷹司の五摂家が選ばれた。摂家だけが大納言・右大臣・左大臣をへて摂政と関白と太政大臣になれます。最高の官職を独占しました。
 次が「清華家」で、摂家に次ぐ家格です。転法輪三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・今出川の七家が選ばれ、摂家とは別のコースで近衛大将から太政大臣になれるようにした。この摂家清華家をあわせて「公達」といいます。
 清華家の庶流から「大臣家」をつくります。正親町三条(のちに嵯峨)・三条西・中院の三家です。そのほか羽林家、名家、半家が決まります。「羽林家」は「羽のごとく速く、林のごとく多い」というところからついた名称で、トータル60家をこえます。それぞれに「流」があって、閑院流には姉小路・大宮・押小路・風早・高松・武者小路・四辻・藪・中園・高丘など二三家が、花山院流に中山・難波・飛鳥井・野宮・今城の五家が、中御門流に中御門・持明院・壬生・六角など九家が、御子左流に冷泉家・入江家など四家が選抜され、さらに四条流、水無瀬流、高倉流からもエントリーが続きました。
 このあたりまでが日本を代表する「貴族の家柄」だということになります。念のため、公家はイコール貴族です。
 注目すべきは、これらの家々はたいてい保護されるべき「家職」や「家学」をもっていたということです。多くは有職故実や歌道や衣装や薬事の扱いを受け持ちました。公家はこういう職能を世襲できたのです。ライセンスが認められた。つまり家のブランドの発生はライセンスの発生でもあったのです。日本ではこのライセンスのことを「知行」といいます。知行はもともとは領主が行使した所領支配権のことで、その権利がつかわれたところを知行国とか一円知行と言ったのですが、やがて変化して職務的なソフトウェアにもあてはめられていったものです。
 こうして朝廷をとりまく勢力が確立していきました。すべて天皇家を最高位に戴くヒエラルキーにもとづくシステムです。では、武家のほうはどのようになっていたのか。
 武家の成立
 武家も「家」です。家門です。「兵の家」から発生した。公家のひとつに武芸を家職とする家が登場し、ここから武家ができあがっていったのです。公家の末端にいた軍事的貴族がのしあがったとみればいいと思います。弓矢や刀が武器でしたから「弓取りの者」ともいわれた。
 かれらは武力が専門ですから守備能力と攻撃能力をもっています。そこで当初は白河上皇の「北面の武士」などとして朝廷の警護にあたったり、荘園の警護にあたったりしていたのですが、やがてグループとしての実力と党派性がついてくると(このグループを一族郎党といいます)、そのなかから平清盛のように太政大臣になる者があらわれます。清盛の一派は平氏を名のります。そうなるといろいろ対抗勢力もでてきて、その最大の一族郎党は源氏を名のった1門でした。平氏は四流、源氏はなんと21流あるのですが、リーダーはいずれも「棟梁」(武門の棟梁)とみなされます。
 朝廷勢力もかれらをつかって自身の権勢をかためます。崇徳上皇後白河天皇とのイニシアティブ争いで保元の乱をおこし、後白河の周辺では側近の藤原通憲(信西)と藤原信頼が内部イニシアティブの取り合いで平治の乱をおこします。いずれの争乱にも源平の各家が入り交じっていました。保元・平治の乱の直後、慈円は『愚管抄』に「鳥羽院うせさせ給ひてのち、日本国の乱逆といふことはをこりて後、武者の世になりにける也」と綴りました。つまり、ここから「武者の世」が始まったのです。
 そのうち平氏も源氏も力の誇示を譲らなくなってきて、こうなると武力どうしの対決の様相を呈さざるをえません。それが源平の合戦になり、伊豆に流されていた源頼朝による鎌倉政権の誕生にいたります。
 頼朝が朝廷から征夷大将軍に任官されると、武家政権は新たに「幕府」とよばれました。鎌倉幕府です。幕府は征夷大将軍の軍事的居館あるいは陣幕を張りめぐらした陣営のことですが、文字通りは「幔幕をめぐらした府」という意味です。のちに武門の統合的象徴名となりました。
 将軍の家臣は御家人として、将軍すなわち鎌倉殿にたいして忠誠を誓い、「いざ鎌倉」となれば奉公をはたします。鎌倉殿もかれらに見返りとしての御恩を報います。いわゆる「御恩と奉公」による日本封建制度のスタートでした。
 こうして、それまではたんなる「兵」だった者たちが「武者」や「武士」として認知されるようになった。この呼び名は古代の豪族に大伴氏のような武官がいたことと区別したもので、のちには「侍」(サムライ=さぶらふ者)としてごっちゃになりました。サムライの名称は、武士の身分を士分というのですが、その士分が「侍」と「徒士」に分かれたためでした。たとえば徳川時代の旗本は侍で、御家人徒士です。ちなみに足軽は「卒」とよばれました。
 以上でわかるように、武家は公家のシステムから突起してできあがったものでした。ただしその後は公家とは異なって、「武家の棟梁」すなわち「将軍」によるまったく新しい武家システムを組み上げたのです。
 さらに連載記事<「中国離れ」で華開いた「独特な日本文化」が機能不全に…その「残念すぎる末路」>では、日本文化の知られざる魅力に迫っていきます。ぜひご覧ください。
 松岡 正剛(編集者)
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