🎍17〕─1・②─推古天皇を「日本初の女帝」に導いた“大王の条件”。古代日本に多くいた女性首長たち。~No.50 

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 古代から、日本は中国や朝鮮とは違っていた。
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 2月10日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「超大国・隋の誕生によって「急変する国際情勢」の中で、なぜ【日本初の女帝】推古天皇が誕生したのか
 日本初の「女帝」、推古天皇が誕生した背景について考察します(写真:barman/PIXTA
 中国統一を成し遂げた超大国・隋の誕生により朝鮮半島のパワーバランスが一変する中、崇峻天皇の暗殺という非常事態を受けて即位した推古天皇ですが、何よりも政権の安定が求められるタイミングで、あえて初の「女帝」が誕生したのはいったいなぜなのでしょうか。
 本稿では、瀧音能之の監修書『飛鳥の古代史 大化の改新と日本国誕生の謎を解く』から一部を抜粋・編集する形で、ヤマト政権における「大王の条件」をつまびらかにしながら、推古天皇が王位に就いた背景について考察します。
■古代日本に多くいた「女性首長」たち
 明治維新以降、皇室典範が整備されると天皇に即位できるのは、「皇統に属する男系の男子」に限定された。しかし、かつての皇位継承は明文化されていたわけではない。
 推古天皇が即位できた背景には、古代日本において多くの女性首長がいたことがある。
 例えば、弥生時代後半の2世紀、古代日本で最大勢力だった北部九州の盟主だった伊都(いと)国の首長は女性で、埋葬された平原(ひらばる)1号墓(福岡県糸島市)からは、皇位継承のための三種の神器の1つ・八咫鏡(やたのかがみ)と同型ともいわれる、日本最大の内行花文鏡(ないこうかもんきょう)が出土している。
 最も有名なのが卑弥呼だろう。卑弥呼の王都と考えられる纏向(まきむく)遺跡は2世紀末に突如として出現し、その後の初期ヤマト王権に継承された。また卑弥呼の墓と考えられる箸墓(はしはか)古墳は、ヤマト王権の勢力圏に造営された前方後円墳の雛形となった。
 このことから、卑弥呼ヤマト王権の初代大王とする見方もある。さらに卑弥呼の後継者として台与(とよ)が即位したことも『魏志倭人伝には記されている。
 古代日本において、女性が社会グループのリーダーになることは珍しいことではなかった。それでも日本史上で女帝の数は極端に少なく、10代8人しかいない。
 このうちの2人は江戸時代の天皇で政治的な例外措置だった。残り6人のうち、4人は飛鳥時代、2人は奈良時代の初期の人物である。つまり、飛鳥時代を中心として女帝の時代があったことになる。
■「仏教の導入」と「女性神聖王」の復権
 推古天皇は600年に隋に使者を送るが、『隋書』倭国伝には、「倭王は天を兄、日を弟としていて、日が昇ると弟にまかせて政務をやめる」とある。ここから古代日本では、2人の王による二重統治体制があったことがうかがえる。
 大阪公立大学大学院教授の岸本直文氏が、前方後円墳のフォーマットが確立した箸墓古墳以降の6基の前方後円墳の墳形を分析したところ、主系統と副系統の2つがあることが判明した。
 いわゆる「万世一系」であれば、墳形は次代の大王に引き継がれ、1つであるはずだ。2つの系統があるということは、2つの王統が並立して統治を行っていたことを示しており、岸本氏は、祭祀を行う神聖王と行政・軍事を担当する執政王がいた可能性を指摘している。
 『隋書』倭国伝の記述はこの二王統の並立のことを示していると考えられる。さらに隋へ派遣された使者は、倭王について、「姓はアメ、字はタリシヒコ、号はアメキミ(あるいはオホキミ)」「王妻の号はキミ」「太子(大王位継承者)を名付けてワカミタフリとなす」とある。
 「タリシヒコ」については、「ヒコ」の名称から厩戸皇子を指すとする説もあるが、「コ」は集団のリーダーを指す言葉で、「ヒ」は「日」あるいは有力王族の自称とされる。
 「ヒコ」と「ヒメ」が対として男女を区別するものとなるのは、記紀が編纂された7世紀後半以降のことで、中国の歴史書の記述には当てはまらない。
 ここで注目すべきは、倭王の号の「キミ」と王妻の号の「キミ」が同じ「雞弥(きみ)」の当て字が用いられている点である。
 キミとは、男女の首長の中で相対的に地位が高い者を指している。また「キミ」を「王」と表記しなかったことから、日本におけるアメキミは中国や朝鮮半島とは異なる統治体制の首長であることがうかがえる。当時のヤマト王権では、男女が制度的には均等だったことがわかる。
 伊都国の女王や卑弥呼に共通するのは、祭祀を司る存在である点だ。また14代仲哀(ちゅうあい)天皇の后・神功(じんぐう)皇后は、実在について疑問視されているものの、実質的に女帝として朝鮮半島への出兵などを行ったことが記紀に記されている。
 この神功皇后もまた神懸かりするなど、シャーマン的な側面を持つ。女性首長は、神聖王としての性格を持つ傾向がある。
 ところが5世紀に入り、倭の五王と呼ばれる大王の時代など、ヤマト王権が積極的に朝鮮半島に進出した時期には軍事が優先された。対外的に力を誇示するために古墳は巨大化し、祭祀の政治的側面が強くなった。この時代、強権的な男性大王が活躍した時代といえる。
 これに対して、蘇我氏推古天皇によって積極的に進められたのが、仏教の導入である。軍事ではなく、文化力というソフトパワーによって、対外的に日本の存在感を高めようとしたのだ。
 日本の伝統的な信仰ではなく仏教という変化はあったものの、ここに女性神聖王の復権があったのではないか。
■「大王は男性であること」が既定路線に
 『魏志倭人伝には、卑弥呼には政治を補佐する男弟がいたとある。さらに卑弥呼の後継となった台与は、266年に西晋朝貢した。『梁書』倭伝や『北史』東夷伝ではその後、再び男王が立てられ、並んで中国から授爵されたとある(「竝受中国爵命」)。
 この竝受(並んで受ける)は、男王が台与と同じように授爵されたとするのが通説だが、台与と男王が同時に授爵されたとも読み取れる。
 古代日本において女性首長は珍しくない存在ではあるが、正史である『日本書紀』は対外的に日本が文明国であることを示すことを目指したものだった。
 ところが、中国の儒教では、女性がリーダーであることを否定的に見るため、『日本書紀』では歴史的に存在した多くの女王が記述から外されたと考えられる。
 例えば、14代仲哀天皇の皇后である神功皇后(オキナガタラシヒメ)は『常陸国風土記』では「息長帯比売(おきながたらしひめ)天皇」と記され、大王として扱われている。
 こうした古代における男王と女王が並立する政治体制は、6世紀にキサキ(后)制度として発展する。
 その背景には、5世紀までの二王統の激しい対立がある。5世紀には、中国の歴史書に5人の倭王が記された倭の五王の時代を迎える。
 卑弥呼や台与などに見られるように、古代日本において女性統治者は珍しいことではなかったが、中国の皇帝から将軍号を授爵することで朝鮮半島の権益を強化しようとした5世紀の大王は、国内の軍制化を進め、大王は男性であることが既定路線となっていった。
■敏達朝で創始された「キサキ制度」
 この倭の五王の時代に、巨大古墳が多く造営された百舌鳥古市(もずふるいち)古墳群が形成される。百舌鳥と古市の2カ所に古墳群が存在するように、ともに16代仁徳天皇の皇子である17代履中(りちゅう)天皇系統と19代允恭(いんぎょう)天皇系統が激しい闘争を繰り広げた。
 やがて、二王統の権力争いの中で多くの大王位の後継者候補が命を落としたことで、大王位断絶の危機を迎えたことから、北陸にいたオオド王が26代継体天皇として即位した。そして、その子である29代欽明天皇の時代、すなわち6世紀初頭に二王統の対立はようやく沈静化する。
 以降、欽明天皇の王統が大王位を継承した。敏達(30代)、用明(31代)、崇峻(32代)、推古(33代)はいずれも欽明天皇の子である。
 二王統の対立が解消し、欽明朝において神聖王の復権がなされる中で、キサキ制度が整えられることになる。キサキ制度における「大后(おおきさき)」は、大王の正式な配偶者を指す。ただし大后は、後世における皇后のように皇位継承者を産むことのみを求められる存在ではなかった。
 大王家には、蘇我氏をはじめ有力豪族の女性たちが嫁いだが、大后となるのは大王の皇女であり、大王を補佐する役割があったのである。つまり、二王統対立の中で途絶えていた分掌体制が、大王と大后という形で再び復活したのである。
■隋の中国統一と「女帝の誕生」
 敏達天皇の死後、31代用明天皇の急逝と32代崇峻天皇の暗殺を経て、33代推古天皇が即位することになるわけだが、その背景には大王位を継承すべき有力な皇子がいなかったことが挙げられる。
 592年の崇峻天皇暗殺の時点において、押坂彦人大兄(おしさかのひこひとのおおえ)皇子、竹田皇子、厩戸皇子などがいた。「大兄」は大王位継承資格を持つ有力者を意味する。
 古代において、次期後継者を大王が生前に指名する制度は存在せず、大王の死後に群臣(まえつきみ)たちによって推挙される形式だった。ただし、その条件としておおむね30歳以上で政治的経験や実績が求められた。
 押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の生年は不明だが、母の年齢から推定すると崇峻天皇暗殺時にはいずれも20代だったと考えられる。厩戸皇子に至ってはまだ10代後半だった。
 さらに6世紀後半には、朝鮮半島や中国大陸の国際情勢が大きく変化した。朝鮮半島には北部の高句麗、南東部の新羅 、南西部に百済があった。ヤマト王権百済と同盟関係にあり、朝鮮半島南端部にあった小国が群集する伽耶(任那)に一定の権益を有していた。
 しかし、『日本書紀』では552年の記述を最後に任那に駐在していた「日本府臣」の記述は途絶え、562年に伽耶新羅に併合されると、ヤマト王権朝鮮半島における権益を失った。さらに589年に隋が中国統一を成し遂げ、周辺国に急速に勢力を伸ばしていた。
 新たな超大国・隋の誕生によって、朝鮮半島のパワーバランスが変化する中で、敏達朝で約20年にわたって大后として政権の中枢を担い、30代後半だった推古天皇が女帝として選ばれたのである。
 瀧音 能之 :駒澤大学名誉教授
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 2月10日 MicrosoftStartニュース 東洋経済オンライン「天皇と中国皇帝「血統への考え方」の決定的な違い
 本郷 和人
 宇佐八幡宮の神官は「道鏡天皇にせよ」という託宣を出したが…(写真:tokomaru7/PIXTA)
 © 東洋経済オンライン
 日本の歴史を深く理解するうえで欠かせないのが、「家」の存在が果たしてきた役割です。特に平安時代において、この「家」の概念は、最高権力者である天皇家のあり方にまで決定的な影響を与えていました。本稿では、『日本史の血脈』より一部抜粋のうえ、万世一系と伝えられる天皇家について見ていきます。
 源氏物語に見る天皇家の血筋
 天皇はその血筋の正統性が重んじられる一方で、真に重んじられたのは「家」の存続でした。
 まずは、日本最古の長編小説と言われる『源氏物語』の世界を振り返ってみましょう。あらすじを見てみると、主人公の光源氏天皇の子として生まれますが、跡継ぎ候補ではなかったため、「源氏」という氏を賜って臣籍に降下し、形式的には一般人という立場にいます。
 しかし、その後、光源氏は義母と禁断の関係に陥って子どもをもうけます。義母が光源氏の子であることを隠し続けたため、その子はやがて天皇として即位するのです。
 どうでしょうか。普通に考えたら「そんなことして大丈夫なのか」と感じてしまう物語ですが、これを当時の人々が読んでも「これはおかしいだろう」との批判の声は上がらなかった。
 つまり「一般人になった元皇族の血縁が、天皇に即位するなんて絶対にあり得ない」という厳密な発想は、平安時代の日本にはなかったのです。
 これは中国の場合とは非常に対照的です。中国では、皇帝の血は純粋でなければならないし、ほかの血統が混じってはならないと考えられていた。だからこそ、男子は絶対禁制の後宮制度を設け、厳格に血統を守っています。中国と比較すると、日本の皇室は血統についてはかなり“いい加減”だったと言えるでしょう。
 平安時代は、恋愛や男女関係におおらかな時代であったこともあるのでしょうが、天皇の妻が不倫の末に子をもうけ、その子が皇位に就く可能性すら否定されてはいなかった。その裏には、「天皇家」という「家」が続けばよいという考え方があったのだろうと思われます。
 余談ですが、女性の即位についても、中国と日本では考え方の違いがみられます。中国には則天武后を除けば女性の皇帝はいません。則天武后にしても権力闘争の末に即位した特殊な例なので、原則として女性の皇帝というのは存在しないのです。
 一方の日本には卑弥呼天照大神女性天皇なども存在したので、女性が皇位につくことへの違和感はそれほど強くはなかった。それを考えれば、現在日本で盛んに叫ばれる女性天皇問題について、やみくもに反対するのではなく、もっと柔軟に対応してもよいのではないかとも感じてしまいます。
 奈良時代には女性天皇が何人も存在した
 とはいえ、天皇家が血筋を重んじなかったのかといえば、そういうわけではありません。根拠として挙げられるのが、奈良時代の女帝・孝謙天皇道鏡の「宇佐八幡宮神託事件」でしょう。
 現代でも大きな論点となる女性天皇の是非ですが、奈良時代には、女性の天皇が何人も存在します。しかし、重要なポイントとしては、彼女たちは積極的に天皇に即位したわけではなかったという点です。
 奈良時代までに存在した女帝とは、あくまで男性の皇位継承者の欠けている時期に一時的に即位する「中継ぎ」のようなものでした。
 これは大和朝廷における天皇の必須条件は、軍人的性質を持っていたことに起因しています。彼らは、戦いの先頭に立って大和の国を平定した、戦の指導者であるべき存在でした。
 子どもや女性では、身体的にもその役割を果たせません。だからこそ、「成人男性であること」は、天皇に即位する上での基本的要素だったのです。
 でも、ときには天皇に即位できるような適齢の成人男性が皇室におらず、次の天皇候補がまだ幼いという事態も起こりえます。その場合、天皇候補の男児の母親や姉が、女帝として皇位に就くことがありました。
 女性で唯一「皇太子」として天皇に即位した孝謙天皇
 ただし、その常識を破った女帝が一人だけいます。それが孝謙天皇でした。
 孝謙天皇は、両親である聖武天皇光明皇后の間の一人娘だったので、女性ではありながらも、幼い頃から「次の天皇」として育てられました。彼女は、歴史上女性で唯一、「皇太子」を経て即位した人物でもあります。
 孝謙天皇は生涯未婚でしたが、やがて道鏡という僧侶を寵愛するようになります。そして、道鏡太政大臣禅師や法王に任じたことで、彼は朝廷で大きな力を得るようになります。しかし、これだけでは飽き足らず、孝謙天皇称徳天皇として重祚し、今度は道鏡天皇にしようと画策します。
 ここで登場したのが、大分県にある由緒正しい神社である宇佐八幡宮。なんとも都合のよいタイミングに、この神社の神官たちがある託宣を出しました。それは、「道鏡天皇にせよ」というもの。これによって、道鏡天皇として後押しする声が上がったのです。
 託宣は本当か?
 しかし、このとき、本当にこうした託宣があったのかは、首をかしげざるを得ません。なぜなら、宇佐八幡宮の神官たちは、非常に機を見るに敏な人々だったからです。たとえば、称徳天皇の父親である聖武天皇東大寺の大仏建立の詔を出したときにも、彼らは真っ先に「我々も協力します」と手を挙げた。
 本来、日本の八百万の神々を祭る神社からすれば、海外由来の仏教はライバルのようなもの。しかし、時代の空気を上手に読んだ宇佐八幡宮は、大仏の建立に力を貸すことをいち早く提案したのでした。
 その功績で、今でも東大寺には宇佐八幡宮の分社である手向山八幡宮が祀られていますし、快慶の手による僧形八幡という仏僧の姿をした八幡神像も国宝として残されています。
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