🎍8〕─3・C─半島から軍馬が伝来して日本に動力革命が起き倭国は軍事国家となった。~No.22 

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 ヤマト王権は、朝鮮半島での高句麗との戦争で敗北した原因は軍馬にあると分析して、友好国の百済から軍馬を輸入し軍馬を生産して軍制改革を行った。
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 日本では、馬は軍事用であり、牛は民生用であった。
 日本日本の車で、牛車はあっても馬車はなかったが、多くは人力車・リヤカーであった。 
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 2026年2月26年 YAHOO!JAPANニュース AERA DIGITAL「動力革命を引き起こした“馬”と人が織りなした古代史を辿る 「蹄跡から愛すべき馬の姿が立ち上がる」星野博美
 「本との出会い」は、新しい知識や価値観との出会い、そして人生を豊かにするきっかけとなる、素晴らしい経験(撮影:写真映像部・松永卓也)
 各界の著名人が気になる本を紹介する連載「読まずにはいられない」。今回は写真家・作家の星野博美さんが、『馬と人の古代史』(若狭徹著)を取り上げる。AERA 2026年3月2日号より。
 【写真】考古学の成果を中心に、馬と人が織りなした古代史を捉え直す一冊
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 今年は午年、しかも丙午(ちなみに私も丙午)。馬がテーマの本に目が奪われてしまう。考古学の観点から、馬と人が織りなす古代史をとらえなおしたのが本書である。
 モータリゼーションの進んだ1960年代、馬は日本の風景から一斉に姿を消した。しかし馬はかつて、最新鋭の戦闘機であり、高速な情報伝達を可能にする重要なインフラでもあった。13世紀、最強の騎馬軍団を擁したモンゴルが、世界最大の帝国を築いたことも、馬の功績と言っていい。
 『魏志倭人伝』によれば、馬はもともと倭にはいなかった(おまけに牛と羊も)! 日本に馬がもたらされたきっかけは、朝鮮半島の百済との同盟。当時、強国だった高句麗の広開土王(韓流好きな人には、「太王四神記」のペ・ヨンジュンと言ったらわかりやすいだろうか)は、重装備の騎馬軍団を率いて南下を続けていた。百済と同盟した倭軍は出兵したものの、騎馬軍団に圧倒され、手痛い目に遭う。
 〈それは、歩兵が初めて戦車に遭遇したような衝撃であっただろう〉
 早急に馬を導入しなくては、東アジア世界で勝負にならないと痛感した倭は、馬の導入を急ぐ。それには渡来人が主導的役割を果たした。そこからは速かった。馬産の中枢は畿内に置かれたが、ほとんど時間をおかずに遠方の東国や西国へと広がり、最初の馬導入から150年を経て、百済に馬を送れるほど、大量の馬生産を可能とするシステムが整っていた。
 馬を運ぶために道が作られ、馬具等の作成のため付帯技術はおのずと向上し、駅伝制が整えられて、日本の隅々まで情報や物資が届けられ、防衛も強化される。
 〈日本列島における5世紀の馬の導入は、近代の自動車産業の勃興に匹敵する動力革命であった〉
 心が躍ったのは、考古学に動物考古学や分析科学の発展が加わり、古代の馬がどこの出身でどのように暮らしていたかまで推察できるようになったことだ。榛名山の噴火に脅えて逡巡する馬や、小型の古墳に自由放牧されて埴輪を蹴り倒してしまった馬など、火山灰に残された蹄跡から、愛すべき馬の姿が立ち上がってくる。モノクロだった古代が、本書を通していきなり彩色動画になったようだった。
 馬を制する者は世界を制する。世界を動かした馬に、もっと敬意を払いたいと思った。
 ほしの・ひろみ◆1966年生まれ。写真家・作家。著書に『みんな彗星を見ていた』『旅ごころはリュートに乗って』『馬の惑星』など。『世界は五反田から始まった』が第49回大佛次郎賞受賞。4月に集英社から相馬野馬追についての新書を刊行予定。
 ※AERA 2026年3月2日号
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 ウィキペディア
日本在来馬は、日本の在来馬、すなわち、洋種馬等の外来の馬種とほとんど交雑することなく残ってきた日本固有の馬、及び、その馬種の総称である。
 日本では単に在来馬と言うことも多く、また、和種馬、在来和種(馬)とも呼ばれる。また、その馬種を日本在来種・日本在来馬種、その馬を日本在来種馬と言うこともある。
 現存のものは8品種に分かれる。北海道和種を除きどれも個体数が少なく、絶滅が危ぶまれている。また、南部馬、三河馬等、中・大型日本在来馬の多くは近代化の過程で絶滅した。(日本)在来家畜の1つである。
 起源・歴史
 →「ウマ § 日本の馬」も参照
 北海道和種(道産子)
 日本列島で発見されている最古のウマ科の化石種は中新世に生息した「ヒラマキウマ(平牧馬)」であるとされ、アンキテリウム(英語版)の系統だとされる。更新世にもウマ科は列島に分布しており、その中には日本在来馬の祖先の可能性もあるモウコノウマも含まれていたが、野生馬が後期更新世の日本列島に長期的な自然定着を果たした可能性は低い。
 縄文時代に野生馬または家畜馬が存在していた可能性も疑問視されており、3世紀頃の日本を描写した資料である『魏志倭人伝』においても家畜としてのウマやウシがいなかったことを示唆させる記載がされている。
 弥生時代末期になると、遺跡から馬の断片骨の出土例があり、下記のような移入が始まっていたと考えらえる。
 古墳時代
 家畜としての日本在来馬の起源は、古墳時代に、モンゴル高原から朝鮮半島を経由し国内へ導入された蒙古系家畜馬(モウコウマ)と考えられている。朝鮮半島勢力の協力の下(大和朝廷と親和的な百済など)、軍馬・家畜馬として導入した。
 朝鮮半島からの馬の移送は対馬海峡を渡って対馬へ船で運び中継拠点とし繁殖を行い、そこから玄界灘を渡って九州本土へ運んだ。馬の移送は難度が高く、外洋でも波に揺れにくい船も必要で、初期には小型の船で1〜2頭を運んだと考えられる。
 競走馬理化学研究所とネブラスカ大学などのチームが日本在来馬8品種と世界の32品種のDNAを比較し、日本在来馬は、モンゴル在来家畜馬が対馬を経由して輸入され、全国に広がった事がわかった。まず対州馬と野間馬が分岐し、ここから木曽馬や北海道和種馬の北上するグループと、御﨑馬やトカラ馬など南下するグループに分かれ、南下グループは南西諸島経由で与那国馬まで至ったという(2020年アニマル・ジェネティクス掲載)。
 福岡県の津屋崎町にある渡半島には「神代に放ち給うた馬の牧跡」の言い伝えがあり、現在でも牧の大明神の祠が残っている。半島や岬などの地形は、潮風により牧草に塩分が含まれ、馬の飼育に適しており、対馬より馬を陸揚げし、渡半島の山に放牧して調教し、日本各地に積み出した。馬骨や馬歯、馬具が考古遺跡から出土するのが古墳時代以降であり、大陸から九州に移入されたものと思われる。
 これが全国に拡散していき、現在の甲信越地方(山梨県の塩部遺跡からは日本最古級(古墳時代前期後半・4世紀後半・古墳時代前期第3四半世紀)のウマの馬歯が発見されている)、東北地方の蝦夷との交易などにより、急速に本州東北地方にまで広がり、日本は産馬の地となった(古代の馬産は青森県青森平野、上北地域南東部まで確認されている[15])。蝦夷はその後、馬を取り入れ、短弓を用いて狩猟を行う技を磨いた。
 関東地方(現在の群馬県など)も放牧に適していたと思われ、出土数が多い。出土骨の形態は、現在の御崎馬やトカラ馬に類似し、推定体高は128cm前後で、中型馬に属するものが多いが、小型馬も含まれている。なお同時代に渡来した牛も共に出土し、現在の在来牛に類似している(見島牛や口之島牛)。
 馬具の出土数は九州地方が最多で、祭祀用に用いられたと思われる土馬は近畿地方に多く、埴輪馬では関東地方が最多となっている。
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 日本学術会議
 公開シンポジウム「日本在来馬は、どこから来て、どこへ行くのか?」
 日本在来馬とは、古くから日本の各地で飼養されてきた日本固有の馬のことです。日本固有の馬と言っても、日本に起源があるのではなく、4世紀末にモンゴルから日本に伝わってきた馬たちです。在来馬は、7世紀以降、人や物資を運ぶ重要な交通手段となり、その後は、戦に用いられる軍馬、田畑を耕す農耕馬、はたまた神様へ奉納する御神馬など、私たち日本人の生活や文化にしっかり根付いた存在となってきたのです。しかし、文明開化の明治以降は、大きな馬格を持つ西洋の馬が好まれるようになり、在来馬の多くは外国から来た馬と交配され改良が行われてきました。結果、現在、日本在来馬として現存しているのはわずか8品種だけになってしまいました。
 今回のシンポジウムでは、日本人の生活や文化を支えてきた在来馬たちにスポットを当て、在来馬たちの起源や、在来馬たちを取り巻く現状、そして、未来にも在来馬たちが絶えることなく存続していくために、私たちが為すべきことなどを、多くの方と一緒に考える機会になることを期待しています。
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