🎍27〕─5─『万葉集』の約4500首うち半数以上が「恋」の歌であった。~No.85No.86 

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 日本民族は、古代から英雄譚ではなく恋の歌を好み盛んに詠んでいた。
 日本民族とは、色恋の民であって武勇の民ではなかった。
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 日本民族が好んだ恋の歌とは、人間的な男女の情愛の歌であって、キリスト教的な崇高な愛の歌ではない。
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 日本民族の恋の歌は、中国や朝鮮を排除した国風文化の和歌である。
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 2026年3月3日 MicrosoftStartニュース 婦人公論.jp「古代より和歌でもっとも詠まれたテーマは?「『万葉集』では、約4500首のうち半数以上が…」 【本郷和人先生が教える日本史豆知識】
 偉人の知られざる逸話や、教科書には載っていない真実など、掘り下げれば掘り下げるほど日本史はおもしろくなります(構成:山田真理)
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 『源氏物語』は平安時代のベストセラーだった?
Q. 『源氏物語』は平安時代のベストセラーだった?

Q. 古代より和歌でもっとも詠まれたテーマは?【文化】
 古代より和歌でもっとも詠まれたテーマは?「『万葉集』では、約4500首のうち半数以上が…」【本郷和人先生が教える日本史豆知識】
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 A 離別
 B 恋
 C 四季
 コミュニケーションの重要な手段だった
 作家の丸谷才一は、「日本文化の中心には和歌があり、その和歌の中心にあるのは恋である」と指摘しました。
 日本最古の歌集『万葉集』では、約4500首のうち半数以上が恋の歌。平安時代の『古今和歌集』でも、全20巻のうち5巻を恋歌に充てています。ちなみに離別歌は1巻のみです。
 その理由として、当時の人々にとって和歌が大切なコミュニケーションツールだったことが挙げられます。『源氏物語』には当時17、18歳だった光源氏と恋仲になる、と源典侍(げんのないしのすけ)いう女性が登場します。
 彼女の年齢はなんと57、58歳! かなり年上で色好みと評判の人ながら、教養があり歌もうまかったことが作品からも伝わります。和歌というツールを介せば、50代後半になっても光り輝く貴公子と恋愛ができるとは夢のある話だと思いませんか?
 【答え=B】
Q. 室町時代に人気を博した中国からの輸入品をXXという【文化】
 古代より和歌でもっとも詠まれたテーマは?「『万葉集』では、約4500首のうち半数以上が…」【本郷和人先生が教える日本史豆知識】
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 日本人は昔からブランド物が好き!?
 バブルの頃、「日本の女性は海外のブランド品に夢中で嘆かわしい」などと言われましたが、古来日本人は輸入品が大好き。奈良から平安時代にかけては唐の国からさまざまな「最先端のイケてる文物」が輸入され、「唐物(からもの)」と呼んで貴族たちがステイタス・シンボルにしました。
 それが武家から町人まで人気を集めるようになったのが、室町時代。中国はもとより東南アジア各地から輸入された美術品、工芸品、食材が唐物として珍重されました。
室町文化はそうした唐物をとり入れた極彩色で華やかな文化として始まったことが近年の研究で明らかに。それが次第に、唐物を日本的な美意識と調和させる試みも生じてきます。
 たとえば書院造の床の間に、唐物の花入れを一つだけ飾るといった「渋い」楽しみ方が茶の湯とともに広まり、独自の文化へと発展していったのです。
 【答え=唐物】
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🎍16〕─6・③─『論語』と日本人の1300年史。聖徳太子の憲法から江戸の教育、明治の精神支配まで。~No.49 

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 教育勅語も国家神道も、軍国主義教育も愛国心も皇国史観も、全ての戦前教育のルーツは儒教の『論語』にあった。
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 戦後民主主義教育は、戦前日本を支配していた論語儒教価値観を否定し排除してきた。
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 2026年3月1日 YAHOO!JAPANニュース ラブすぽ「『論語』と日本人の1300年史|聖徳太子の憲法から江戸の教育、明治の精神支配まで
 『論語』と日本人の1300年史|聖徳太子の憲法から江戸の教育、明治の精神支配まで
 『論語』は、日本人にとって最初の書物。六世紀〜七世紀頃、十七条憲法制定に論語を参考にしたと思われる人物とは
 日本最古の歴史書として知られる『古事記』(七百十二年)によると、応神天皇の時代に百済(くだら)から渡来した、王仁(わに)によって『千文字』とともにわが国にもたらされたのが、『論語』であったと記されています。
 つまり『論語』は、日本人にとって最初の書物であったのです。
 六世紀〜七世紀頃になると、聖徳太子が制定した十七条憲法に、『論語』を参考にしたと思われる一節を見ることができます。
 十七条憲法(第一条)
  一に曰く、和をもって尊とうとしとなし、さかうることなきを宗(むね)とせよ。
 『論語』(学而)
  有子曰く、礼の用は和を尊しとなす。
 第一条に取りあげられたこの一節は、十七条憲法のなかでも重要なものと考えられていました。
 以来、日本の律令時代から、『論語』は上級の官吏(かんり) たちにとっては、必読の書としての位置を占めることになるのです。
 江戸時代になると、武家の子弟が学んだ藩校でも『論語』は必修科目となり、寺子屋で学ぶ子どもたちさえ『論語』を習うことになるほどに、広く庶民の間に浸透していったのです。
 明治時代以後も、旧制高校での漢文といえば、『論語』が中心になっていました。
 また、日本の政界・財界で活躍する指導的立場の人たちも『論語』をもとにした儒教の考え方から大きな影響を受けて、必読の書とする人も少なくはありませんでした。
 開国から明治になると、西洋文明が近代化を推し進めていく原動力として取り入れられる一方で、日本の教育、天皇制を維持強化していくために、儒教的道徳による精神教育を図る方策が立てられるのです。
 体制にとって都合のよいように、儒教本来の教えからはずれた内容を強調して、教育に使用したのです。
 【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 論語』
 監修:山口謠司  日本文芸社刊
 執筆者プロフィール
 1963年長崎県生まれ。博士(中国学)。大東文化大学文学部大学院、フランス国立高等研究院人文科学研究所大学院に学ぶ。ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、現大東文化大 学文学部中国学科准教授。 主な著書に『語彙力がないまま社会人になってしまった人へ』(ワニブックス)、『日本語を作った男 上田万年とその時代』(第29回和辻哲郎文化賞を受賞。集英社インターナショナル)、『日本語の奇跡〈アイウエオ〉と〈いろは〉の発明』『ん─日本語最後の謎に挑む─』『名前の暗号』(新潮社)、『てんてん 日本語究極の謎に迫る』(角川書店)、『日本語にとってカタカナとは何か』(河出書房新社)、『大人の漢字教室』『にほんご歳時記』(PHP 研究所)、『漢字はすごい』(講談社)、『語彙力のヘソ』(徳間書店刊)、『おとなのための 1 分読書』(自由国民社)など著書多数。
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🗾12〕─5─旧石器時代の白滝遺跡石器群で発見された石器が国宝。約3万年前から約1万5000年前。~No.62No.63 

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   ・   ・   {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本民族は、日本土人として古代から日本列島で生活してきた先住民である。
 日本へ大量に移住してくる中国人や朝鮮人は、新たな移住者、日本人とは事なる異質な新参者であり、彼らは渡来人であって帰化人ではない。
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 2026年3月1日 YAHOO!JAPANニュース ラブすぽ「神々の遊ぶ庭「カムイミンタラ」の聖遺物!? 旧石器時代の石器が日本最古の国宝に【眠れなくなるほど面白い 図解 国宝の話】
 えっ!旧石器時代の石器が日本最古の国宝に!?
 北海道で発掘された驚きの遺跡「白滝遺跡石器群」
 令和5年(2023年)6月27日北海道遠軽町所蔵の重要文化財「白滝遺跡群出土品」が国宝に指定された。「白滝遺跡群出土品」とは、約3万年前から約1万5000年前の後期旧石器時代の出土物である石器群だが、1個や2個ではない。1965点の石器群が一括して指定されたのだ。旧石器時代の遺物が国宝として指定された例はなく、日本最古の国宝となる。
 昭和2年(1927年)、遠間栄治によって発見されたのが始まりで、昭和28年(1953年)以降、吉崎晶一の調査研究によって旧石器時代の遺跡であることが判明。昭和60年(1985年)以後に木材搬出道路工事で多数の石器が露出したため、本格調査をしたところ、460万点、10トン近くの石器群が現れた。
 大小の尖頭器、大型両面調整石器、舟底型石器、各種の細石刃核のほか、これらの石器の接合資料が大量に得られたことが注目を浴びた。旧石器時代の石器製作の変化、広がりや各種石器の組み合わせが総合的によくわかる出土品だったからだ。
 以後、継続して旧石器文化の遺跡がつぎつぎに発見され、現在、累積総計にして約700万点に及ぶ膨大な石器群を集めており、白滝遺跡群は北海道だけでなく、日本を代表する後期旧石器時代の遺跡として知られるようになった。そのルーツをたどれば、神話の時代までさかのぼる。
 白滝遺跡群は、北海道のほぼ中央に位置する大雪山の北東山麓にある。大雪山はそもそも「カムイミンタラ(神々の遊ぶ庭)」といわれる聖地。その北々西には黒曜石※埋蔵量が数10億トンともいう赤石山(北見富士)があり、山の南側を湧別川(ゆうべつがわ)が流れ下る。遺跡埋蔵は偶然の出来事ではない。
 北海道白滝遺跡群出土 黒曜石石器群(こくようせきせっきぐん)
 令和5年(2023年)国宝に指定/遠軽町埋蔵文化センター所蔵
 旧石器時代の北海道白滝遺跡群出土品。後期旧石器時代の約3万年前から約1万5000年前の黒曜石の石器群であり、国宝としては最古のもので出土品は1965点。最大のものは全長36.3cm。
 資料:北海道白滝遺跡群出土品/文化庁
 社会構成の役割となった要石
 石器の持つ特性とは、材料選び、意図しての加工が基本にあるため、人類の知能と知性を証明するものだ。現実的に石器によって食料の獲得が進展し、動物の解体、皮なめし、木の伐採などは、衣服や住居といった生活環境を向上させた。つまり、石器とは、いわば社会と文化を築く役割を担った要石であった。
 にゃん太:ねぇワン爺。石器って単純に石を削ったものでしょ? 何がすごいの?
 わん爺:石器そのものがすごいわけじゃないの。ほぼ3万年前から1万数千年前の人たちが、石を削って生活の道具にしていたことが驚きなんじゃないのかの。まぁ、意図を持って「道具」をつくったことは自分たちの生存に大きく寄与しただろうし、結果的に「進化」の道筋を示したんだろうよ。そこがすごい!ほれ、写真や図のように石を鋭利に加工して狩猟した動物を解体したり、皮をなめしたりしたのじゃな。
 にゃん太:ふ〜ん。でも、石っていろいろあるけど、どんな石を使ったの?
 わん爺:黒曜石という石だな。火山噴火で急激に冷えたマグマからできた天然のガラスのようなもので、加工しやすいというな。日本は火山国だからあちこちに黒曜石があるが、まぁ代表的な産地は、令和5年(2023年)に国宝に指定された北海道白滝をはじめ、長野県和田峠や霧ヶ峰に八ヶ岳周辺、佐賀県腰岳、佐賀県姫島、島根県隠岐島などが有名だというぞ。それと最近、長野県佐久市の遺跡から出土した黒曜石の石器が、実は伊豆諸島の神津島で産出した黒曜石が使われていたという、ビックリ発見があったそうじゃ。約1万3000年前のものらしいが、研究者はこの石器が「掻器」という皮なめしに使われたのではないかと考えているそうだ。それにしても、海を越えて200数十キロも離れているのにのう。
 【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 国宝の話』著:鈴木 旭
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 白滝遺跡(しらたきいせき)は、北海道紋別郡遠軽町字上白滝に所在する北海道地方における後期旧石器時代の代表的な遺跡であり、70あまりの遺物出土地点の総称でもある。十勝三股・置戸とならぶ黒曜石の大原産地である。
 概要
 白滝遺跡は湧別川の右岸の標高約420メートル、東西約200メートル、幅数十メートル平坦になった台地上に位置する。
 遺物の種類と出土状況からⅠとⅡの文化層に分けられる。白滝Ⅱの文化層の石器群には、湧別技法によって作られた舟底型石器が検出されている。Ⅰではこの技法は伴っていない。放射性炭素年代測定法と黒曜石[† 1]の水和層測定法によれば、ⅠがB.P.20000~15500年、ⅡがB.P.15000~12000年である。
 本遺跡と対面する8号沢上流の山中に大規模な黒曜石の露呈がある。白滝村は日本最大の黒曜石の産出地として名高く、石器時代の遺跡が多い。
 1989年(平成元年)1月に約2万2千平方メートル、1997年(平成9年)に、遺跡群の中心的部分の約33万平方メートルが国の史跡に指定されている。
 2023年(令和5年)に、出土した黒曜石の石器や、石器を製作する際に出た数百点の破片を接合した「接合資料」など合わせて1965点が国宝に指定された。これは日本で最も古い時代の国宝になり、道内では函館市の中空土偶に次いで2件目の国宝指定となる。
 遺跡発掘の経緯
 1927年(昭和2年)遠間栄治によって発見された。旧石器時代の遺跡であることが判明したのは1953年(昭和28年)以降の吉崎昌一の踏査研究による。白滝遺跡は、昭和20年代末に名付けられた「白滝遺跡群」の一つで、白滝13地点遺跡ある。昭和30年代の初めに小規模な発掘が行われ、地表か約2メートルの遺跡包含層から舟底形石器・掻器・彫器・削器・石刃などが見つかっている。
 昭和60年代になって木材搬出道路工事の際に多数の石器が露出し、その後遺跡破壊のおそれが出てきたため保存計画が立てられ、発掘調査が行われた。地表の約1メートル下から湧別技法による細石刃を含む石器群が現れた。これらの石器は460万点、10トンにも及ぶ多量である。石器の種類は、大小の尖頭器、大型両面調整石器、舟底形石器などが多く、各種の細石刃核もあり、それらの石器の接合資料が多数得られて製作状況が分かる。
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☰34〕─2─ブルーカラー(職人・肉体労働者)を、朝鮮は見下し蔑視し差別したが日本は尊敬し憧れ志した。~No.94 

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 朝鮮・韓国は、中国と同じで、儒教の一様で単一価値観で動き進歩発展を阻害していた。
 日本は、神道と仏教などの多様で複合価値観で動き進歩発展に生き甲斐を感じていた。
 日本は民族固有の国風文化で、朝鮮・韓国、中国などの中華文化とは正反対の複雑で曖昧な価値観で動いていた。
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 日本の職人・人夫と朝鮮・中国の職人・人夫は違う。
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 職人・人夫は、日本では神の領域であり、朝鮮・中国では身分の低い、下等な小人の職種であった。
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 2026年2月28日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「だからブルーカラーを見下す韓国とは真逆の発展を遂げる…日本人が知らない「日本人の潜在能力」のすごさ 
 日本の強さの源は何か。イギリス在住で著述家の谷本真由美さんは「日本は東アジアの中では例外的に手仕事や技術、工業を尊ぶ文化のある国だ。これには非血縁者により『疑似家族』を作り、親方から弟子に技術を継承する文化があることが大きい。韓国はじめ他のアジア圏の国ではこれが薄い」という――。
 ※本稿は、谷本真由美『日本のメディアが報じない「世界の真実」』(ワック)の一部を再編集したものです。
■韓国の「キッザニア」で嫌われるブルーカラー
 「キッザニア」という子供に職業体験をするテーマパークがあり各国で人気である。子供は様々な職業を遊びを通して体験し、将来の職業観を養う。遊びを通して社会勉強をするという施設なので、教育熱心な親にも大人気だ。
 「キッザニア」で提供される職業は各国によって違いがあり、それが国民性を表すのが面白い。
 例えば日本だと消防士、整備士、ガソリンスタンド店員、警察官、介護福祉士、パティシェ、機械開発者等、様々な仕事が提供されているが、体を動かしたり手を使う「ブルーカラー」の仕事も人気がある。経済統計では「熟練労働者」に分類されるものも多い。
 ところが春木育美氏の『韓国社会の現在―超少子化、貧困・孤立化、デジタル化』(中公新書)によれば、韓国の保護者たちは「キッザニア」でブルーカラーの仕事が提供されることを嫌がる。
 韓国の「キッザニア」では国家代表選手、外交官、考古学者、国税庁の公務員など、日本の「キッザニア」では提供されていない仕事が存在している。「手を動かすもの」が極端に嫌われ、「権力」「国家」「ホワイトカラー」重視である。
 この様な違いから、韓国の階級意識がよくわかる。
 しかしこういう職業に関係する階級意識というのは、実は国家の経済発展に深く関わる重要な問題なのだ。
■途上国で「気さくな社長」は機能しない
 韓国の職人やブルーカラー軽視は、韓国には中小企業が少なく、起業精神に欠け、工業発展が遅れたことに深く関わっている。これは経営学でも有名であり、韓国の根深い問題の一つである。
 韓国は格差が凄まじいことも関係する。体を動かす人、手職系の人の重要性を理解しているなら、政策を取り決める人間が、所得を分配し格差を少なくするような経済政策を行う。
 韓国というのは、ごく一部の社会の上層や、貴族系の人々、ホワイトカラーが富を独占する仕組みを社会が許容しているのである。
 実は途上国の民は似た様な意識のところが多く、手仕事、ブルーカラー、職人、エンジニアを下に見る文化がある。
 これは特に南アジアや北アフリカ、中東、南米で顕著である。植民地宗主国からもたらされた文化もあるが、元々遊牧や狩猟が主体で、農業に向かぬ土地はその傾向がある。
 またその様な途上国は、自分で手を動かさずに使用人にやらせる文化があるため、社長や管理職は作業着を着て従業員と一緒に作業してはならないし、食堂や生活空間も別にしなければならない。日本の感覚で気さくな社長をやると一気に尊敬を失う。文化の違いであるため仕方がない。
■日本の技術者はドイツ人は好相性
 ちなみにアメリカや日本やドイツが工業で成功したのは、実学や手仕事への敬意があったからである。
 アメリカはドイツ移民が多かったため、その影響で手仕事や技術者を尊重する社会で泥臭い部分がある。
 特にドイツは応用技術者への尊敬の高い社会であり、名刺に「エンジニア」と堂々と刷る社会である。東欧もドイツに似ている。日本の技術者はドイツ人との仕事は楽しいと言う人が多い。
 一方でイギリスではかつては日本やドイツのようにエンジニアや手仕事が経済の主体だったので、手や体を使って働くことが社会的に大変尊敬されている部分もあったが、1970年代から80年代のサッチャー改革により経済を知識産業中心に大きく変換したために、現在ではリス系(手に職系)の仕事は報酬が低いこともあってあまり尊敬されていない。
 昔は親子代々で同じような技術系の仕事を受け継いで行くのがごく当たり前のことであったが、今それは消滅している。
 手を使って仕事をする人々の多くは東欧からの移民であったり、インドやパキスタンの人々だ。我が家の大工さんはブルガリア、リトアニア、ドイツ、インドの人々である。
 インドは特にシーク教の職人さんに頼んでいる。彼らは体が大きく、手を使って仕事をする伝統があるので大変技術が高く、仕事も日本の技術者以上にしっかりやってくれる。
■日本は世界で最も老舗が多い国
 リトアニアはもともと技術が高く、ソ連に支配されていた頃も工業製品の製造をやっていたので技術者の層に厚みがあり、教育体系も割としっかりしている。
 若者は地元の賃金が安いので、多くがイギリスに出稼ぎにやってくるが、英語だけではなく他の言語にも堪能で、ドアの修理人などが大卒の理系の人だったりする。
 しかも非常に興味深いことにイギリスではITの技術者も手に職系の分野として考えられるので金融やコンサルティングに比べると社会的地位が低くなってしまう。その結果アメリカに比べると実はイギリスはITの技術系の層が大変薄いのである。
 また日常生活においても電子工作やコンピューターに興味があると言う人はアメリカや日本に比べると少ないように思う。
 日本は東アジアの中では例外的に手仕事や技術、工業を尊ぶ文化のある国だが、これは古来、地理的、気候的な条件が不利なため、創意工夫が必要であったのが関係あると思う。島国で耕作地も少なく動物もあまりいないから狩猟や交易では暮らせない。
 さらに日本は歴史的に政権が工業や手工業を重んじ、取引の仕組みを作ってきたのも大きい。非血縁者により「疑似家族」を作り、親方から弟子に技術を継承する文化があるのも重要である。他のアジア圏はこれが薄い。
 だから老舗が極端に少ない。日本は組織としての仕事に強みがあり、技術が継承され、世界で最も老舗が多い国である。
■途上国で漫画や文学が発展しない理由
 今考えるとこれは地震や台風による死亡率の高さが関係していたのだろう。身内が死亡した際に非血縁の関係に頼るのはリスク回避となる。これは先ごろの震災で実感した方も多いのではなかろうか。
 「疑似家族」を作れないアジアの国は韓国が典型的である。韓国の血縁による排他性は日本人の想像を凌ぐ。
 また資格職や支配者的仕事重視も血縁社会だからである。血縁者以外は信用できないので、資格で自分の地位の安全を保ったり、支配者になって権力を独占しなければならない。
 途上国で漫画や文学が発展しないのもこれが原因である。身分が不安定なので芸術をやる余裕がない。
 子供向けサービスを通してその国を観察すると、親が子供に望む生活スタイルや好まれる肩書き、職業、教育がわかり、その社会の本質が見えてくるのであるが、日本はまだまだ潜在力が高い国だということがおわかりだろうか。
 本書にはこれら日本の強みのほか、欧州の移民問題や中国の脅威など、日本が置かれた状況を認識するための全40編が掲載されています。是非ご一読ください。

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 谷本 真由美(たにもと・まゆみ)
 著述家、元国連職員
 1975年、神奈川県生まれ。シラキュース大学大学院にて国際関係論および情報管理学修士を取得。ITベンチャー、コンサルティングファーム、国連専門機関、外資系金融会社を経て、現在はロンドン在住。日本、イギリス、アメリカ、イタリアなど世界各国での就労経験がある。ツイッター上では、「May_Roma」(めいろま)として舌鋒鋭いツイートで好評を博する。

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🎍8〕─3・C─半島から軍馬が伝来して日本に動力革命が起き倭国は軍事国家となった。~No.22 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ヤマト王権は、朝鮮半島での高句麗との戦争で敗北した原因は軍馬にあると分析して、友好国の百済から軍馬を輸入し軍馬を生産して軍制改革を行った。
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 日本では、馬は軍事用であり、牛は民生用であった。
 日本日本の車で、牛車はあっても馬車はなかったが、多くは人力車・リヤカーであった。 
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 2026年2月26年 YAHOO!JAPANニュース AERA DIGITAL「動力革命を引き起こした“馬”と人が織りなした古代史を辿る 「蹄跡から愛すべき馬の姿が立ち上がる」星野博美
 「本との出会い」は、新しい知識や価値観との出会い、そして人生を豊かにするきっかけとなる、素晴らしい経験(撮影:写真映像部・松永卓也)
 各界の著名人が気になる本を紹介する連載「読まずにはいられない」。今回は写真家・作家の星野博美さんが、『馬と人の古代史』(若狭徹著)を取り上げる。AERA 2026年3月2日号より。
 【写真】考古学の成果を中心に、馬と人が織りなした古代史を捉え直す一冊
 *  *  *
 今年は午年、しかも丙午(ちなみに私も丙午)。馬がテーマの本に目が奪われてしまう。考古学の観点から、馬と人が織りなす古代史をとらえなおしたのが本書である。
 モータリゼーションの進んだ1960年代、馬は日本の風景から一斉に姿を消した。しかし馬はかつて、最新鋭の戦闘機であり、高速な情報伝達を可能にする重要なインフラでもあった。13世紀、最強の騎馬軍団を擁したモンゴルが、世界最大の帝国を築いたことも、馬の功績と言っていい。
 『魏志倭人伝』によれば、馬はもともと倭にはいなかった(おまけに牛と羊も)! 日本に馬がもたらされたきっかけは、朝鮮半島の百済との同盟。当時、強国だった高句麗の広開土王(韓流好きな人には、「太王四神記」のペ・ヨンジュンと言ったらわかりやすいだろうか)は、重装備の騎馬軍団を率いて南下を続けていた。百済と同盟した倭軍は出兵したものの、騎馬軍団に圧倒され、手痛い目に遭う。
 〈それは、歩兵が初めて戦車に遭遇したような衝撃であっただろう〉
 早急に馬を導入しなくては、東アジア世界で勝負にならないと痛感した倭は、馬の導入を急ぐ。それには渡来人が主導的役割を果たした。そこからは速かった。馬産の中枢は畿内に置かれたが、ほとんど時間をおかずに遠方の東国や西国へと広がり、最初の馬導入から150年を経て、百済に馬を送れるほど、大量の馬生産を可能とするシステムが整っていた。
 馬を運ぶために道が作られ、馬具等の作成のため付帯技術はおのずと向上し、駅伝制が整えられて、日本の隅々まで情報や物資が届けられ、防衛も強化される。
 〈日本列島における5世紀の馬の導入は、近代の自動車産業の勃興に匹敵する動力革命であった〉
 心が躍ったのは、考古学に動物考古学や分析科学の発展が加わり、古代の馬がどこの出身でどのように暮らしていたかまで推察できるようになったことだ。榛名山の噴火に脅えて逡巡する馬や、小型の古墳に自由放牧されて埴輪を蹴り倒してしまった馬など、火山灰に残された蹄跡から、愛すべき馬の姿が立ち上がってくる。モノクロだった古代が、本書を通していきなり彩色動画になったようだった。
 馬を制する者は世界を制する。世界を動かした馬に、もっと敬意を払いたいと思った。
 ほしの・ひろみ◆1966年生まれ。写真家・作家。著書に『みんな彗星を見ていた』『旅ごころはリュートに乗って』『馬の惑星』など。『世界は五反田から始まった』が第49回大佛次郎賞受賞。4月に集英社から相馬野馬追についての新書を刊行予定。
 ※AERA 2026年3月2日号
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日本在来馬は、日本の在来馬、すなわち、洋種馬等の外来の馬種とほとんど交雑することなく残ってきた日本固有の馬、及び、その馬種の総称である。
 日本では単に在来馬と言うことも多く、また、和種馬、在来和種(馬)とも呼ばれる。また、その馬種を日本在来種・日本在来馬種、その馬を日本在来種馬と言うこともある。
 現存のものは8品種に分かれる。北海道和種を除きどれも個体数が少なく、絶滅が危ぶまれている。また、南部馬、三河馬等、中・大型日本在来馬の多くは近代化の過程で絶滅した。(日本)在来家畜の1つである。
 起源・歴史
 →「ウマ § 日本の馬」も参照
 北海道和種(道産子)
 日本列島で発見されている最古のウマ科の化石種は中新世に生息した「ヒラマキウマ(平牧馬)」であるとされ、アンキテリウム(英語版)の系統だとされる。更新世にもウマ科は列島に分布しており、その中には日本在来馬の祖先の可能性もあるモウコノウマも含まれていたが、野生馬が後期更新世の日本列島に長期的な自然定着を果たした可能性は低い。
 縄文時代に野生馬または家畜馬が存在していた可能性も疑問視されており、3世紀頃の日本を描写した資料である『魏志倭人伝』においても家畜としてのウマやウシがいなかったことを示唆させる記載がされている。
 弥生時代末期になると、遺跡から馬の断片骨の出土例があり、下記のような移入が始まっていたと考えらえる。
 古墳時代
 家畜としての日本在来馬の起源は、古墳時代に、モンゴル高原から朝鮮半島を経由し国内へ導入された蒙古系家畜馬(モウコウマ)と考えられている。朝鮮半島勢力の協力の下(大和朝廷と親和的な百済など)、軍馬・家畜馬として導入した。
 朝鮮半島からの馬の移送は対馬海峡を渡って対馬へ船で運び中継拠点とし繁殖を行い、そこから玄界灘を渡って九州本土へ運んだ。馬の移送は難度が高く、外洋でも波に揺れにくい船も必要で、初期には小型の船で1〜2頭を運んだと考えられる。
 競走馬理化学研究所とネブラスカ大学などのチームが日本在来馬8品種と世界の32品種のDNAを比較し、日本在来馬は、モンゴル在来家畜馬が対馬を経由して輸入され、全国に広がった事がわかった。まず対州馬と野間馬が分岐し、ここから木曽馬や北海道和種馬の北上するグループと、御﨑馬やトカラ馬など南下するグループに分かれ、南下グループは南西諸島経由で与那国馬まで至ったという(2020年アニマル・ジェネティクス掲載)。
 福岡県の津屋崎町にある渡半島には「神代に放ち給うた馬の牧跡」の言い伝えがあり、現在でも牧の大明神の祠が残っている。半島や岬などの地形は、潮風により牧草に塩分が含まれ、馬の飼育に適しており、対馬より馬を陸揚げし、渡半島の山に放牧して調教し、日本各地に積み出した。馬骨や馬歯、馬具が考古遺跡から出土するのが古墳時代以降であり、大陸から九州に移入されたものと思われる。
 これが全国に拡散していき、現在の甲信越地方(山梨県の塩部遺跡からは日本最古級(古墳時代前期後半・4世紀後半・古墳時代前期第3四半世紀)のウマの馬歯が発見されている)、東北地方の蝦夷との交易などにより、急速に本州東北地方にまで広がり、日本は産馬の地となった(古代の馬産は青森県青森平野、上北地域南東部まで確認されている[15])。蝦夷はその後、馬を取り入れ、短弓を用いて狩猟を行う技を磨いた。
 関東地方(現在の群馬県など)も放牧に適していたと思われ、出土数が多い。出土骨の形態は、現在の御崎馬やトカラ馬に類似し、推定体高は128cm前後で、中型馬に属するものが多いが、小型馬も含まれている。なお同時代に渡来した牛も共に出土し、現在の在来牛に類似している(見島牛や口之島牛)。
 馬具の出土数は九州地方が最多で、祭祀用に用いられたと思われる土馬は近畿地方に多く、埴輪馬では関東地方が最多となっている。
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 日本学術会議
 公開シンポジウム「日本在来馬は、どこから来て、どこへ行くのか?」
 日本在来馬とは、古くから日本の各地で飼養されてきた日本固有の馬のことです。日本固有の馬と言っても、日本に起源があるのではなく、4世紀末にモンゴルから日本に伝わってきた馬たちです。在来馬は、7世紀以降、人や物資を運ぶ重要な交通手段となり、その後は、戦に用いられる軍馬、田畑を耕す農耕馬、はたまた神様へ奉納する御神馬など、私たち日本人の生活や文化にしっかり根付いた存在となってきたのです。しかし、文明開化の明治以降は、大きな馬格を持つ西洋の馬が好まれるようになり、在来馬の多くは外国から来た馬と交配され改良が行われてきました。結果、現在、日本在来馬として現存しているのはわずか8品種だけになってしまいました。
 今回のシンポジウムでは、日本人の生活や文化を支えてきた在来馬たちにスポットを当て、在来馬たちの起源や、在来馬たちを取り巻く現状、そして、未来にも在来馬たちが絶えることなく存続していくために、私たちが為すべきことなどを、多くの方と一緒に考える機会になることを期待しています。
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🗻7〕─5・⑦─『古事記』の4割を出雲神話が占めている。大和朝廷が恐れた強敵・オオクニヌシの真実~No.35  

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 2026年2月24日 YAHOO!JAPANニュース ラブすぽ「出雲大社の謎!ご神体の向きと大量の埋蔵青銅器が語る「もう一つの出雲」
 出雲大社の謎!ご神体の向きと大量の埋蔵青銅器が語る「もう一つの出雲」
 出雲大社のご神体は西方向、すなわち北九州を向いている理由
 従来より、出雲では銅剣銅矛(どうほこ)中心の九州文化と銅鐸(どうたく)中心の大和文化が混在していたのですが、ある日、突然終焉したと推測されています。荒神谷(こうじんだに)(出雲市)で大量の銅剣、銅鉾、銅鐸が整然と埋納された状態で出土したからです。
 しかも、出雲大社のご神体は西方向、すなわち、北九州を向いていることで知られ、大国主命(おおくにぬしのみこと)の伝説伝承は大和に連なっているというわけで、どっちつかずですが、出雲独自の文化があったことは明らかです。
 さらに注目されるのが、加茂岩倉遺跡に広がる壮大な磐座(いわくら)遺跡群と大量の銅剣、銅鉾、銅鐸を出土した荒神谷遺跡が南方に聳(そび)える仏経山を中心に繋がること。こちらが出雲文化の本拠地だという説も出ています。
 こうした事情から、仏経山が本拠であり、出雲大社は単なる監視塔付きの砦だったという極論まで出る始末です。いずれにしろ、出雲文化論は再構築が求められています。
 出典:『図解 眠れなくなるほど面白い 日本史』著/鈴木旭
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 2月17日 YAHOO!JAPANニュース ラブすぽ「なぜ出雲神話は『古事記』の4割も占めるのか?大和朝廷が恐れた強敵・オオクニヌシの真実
 出雲の神話だけ特別扱いされるのは、なぜ?出雲周辺を支配したオオクニヌシの神話とは
 大和朝廷にとって出雲が強敵だったから
 ここでいう特別扱いとは、『古事記』『日本書紀』の神話において天皇の祖先神の神話でもないのに、出雲の神話だけが多くのページ数がさかれて掲載されているということです。『日本書紀』ではそれほどのことはないのですが、『古事記』では、実に神話のうち4割が出雲の話なのです。
 いうまでもありませんが、神話が伝わっていたのは出雲だけではありません。「風土記」は5カ国分しか現存していませんが、それらを見るだけでも、地域ごとに豊かな神話があったことがわかります。なぜ、『古事記』は出雲神話だけをこれほど“厚遇”しているのでしょうか。それは大和朝廷にとって出雲が最大の強敵だったためです。具体的な記録は残っていませんが、出雲を朝廷の支配下におくまでには大きな犠牲が払われたことと思われます。克服した敵の強力さを示すために、多くのページが使われているのです。
 同時にそれは、そんな相手を倒した皇祖神の偉大さも示すことになるのです。さて、『古事記』『日本書紀』の出雲神話は、スサノオを子孫からオオクニヌシが登場するところから始まります。オオクニヌシはたくさんの兄(八十神)の迫害を受けますが、根の国でスサノオの試練を受けて強い神様となり、地上の王となります。そして、スクナビコナ(少名毘古那神)・オオモノヌシ(大物主神)の助けを得て地上を開発します。『播磨国風土記』などによれば、医薬のことを人々に広めたともいいます。
 出典:『眠れなくなるほど面白い 図解 神道』監/渋谷申博
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 2月20日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「日本人が知らない「出雲神話」の真実…どのように「日本」は成立したのか
 松岡 正剛(仏教学者)
 日本人が知らない「出雲神話」の真実…どのように「日本」は成立したのか
 「わび・さび」「数寄」「歌舞伎」「まねび」そして「漫画・アニメ」。日本が誇る文化について、日本人はどれほど深く理解しているでしょうか?
 昨年逝去した「知の巨人」松岡正剛が、最期に日本人にどうしても伝えたかった「日本文化の核心」とは。
 2025年を迎えたいま、日本人必読の「日本文化論」をお届けします。
 ※本記事は松岡正剛『日本文化の核心』(講談社現代新書、2020年)から抜粋・編集したものです。
 和するアマテラスと荒ぶるスサノオ
 さて、第5講のテーマになる話はここからです。この大和には「和」という文字がつかわれています。これはさきほども言ったように「和む」とか「和する」「和らげる」という意味をもっています。
 聖徳太子このかた、日本の歴史はこの「和」を大いに薫陶させてきた。令和にも「和」が入りました。昭和も和でした。「和」をつかった元号は和銅・承和・仁和・永和・弘和・元和・享和・昭和など、実に20に及びます。
 和とは何かというと、さきほども書いたように事態や様子を和らげるというのが本義ですが、その「和」がまさに「大和」の和でもあるため、和風や和様や和式というふうにもつかわれ、「日本的、日本風」という意味の象徴にもなりました。しかし、それだけではなかったのです。実は、ここにはアマテラス系の神々を「和する系譜」という意味も含まれているのです。いよいよその話をしたいと思います。
 まずもって、ここが大事なところですが、この「和する系譜」は「荒ぶる系譜」と一対になっているのです。日本人の心の奥の奥には「和するもの」と「荒ぶるもの」とがかかわってくると考えられていたのです。
 それを「和御魂」(にぎみたま・にぎたま)と「荒御魂」(あらみたま・あらたま)と呼び、神々にはこの2つの傾向があると考えた。柔らかくて優しい魂が和御魂で、強くて荒々しい魂が荒御魂です。和御魂にはさらに幸御魂(さきみたま)と奇御魂(くしみたま)がひそむとも考えました。
 日本神話ではイザナギの禊からアマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴子が生まれたことになっているのですが、このうちのアマテラスとスサノオは姉と弟で、姉が高天原を、弟が海原を治めるように命じられ、そのふるまいによって和御魂と荒御魂のシンボルになったのです。このアマテラスとスサノオの対比関係が日本を語るうえでは、きわめて重要です。
 2つのパンテオンの物語
 日本神話では、小さい弟のスサノオが死んだ母のイザナミ恋しさに泣き喚いてばかりいたと綴られます。スサノオは「哭きいさちる神」でした。これでは海原を治められない。そこで父のイザナギが怒って根堅州国(根の国)に追放した。そこは夜見国(黄泉)の異称もあるところでした。
 やむなくスサノオは姉にあいさつしてから旅立とうとするのですが、アマテラスは弟が高天原を奪いにきたのだと思う。そこでスサノオはそんな野心はないことを証すために「うけひ」(誓い)をした。公開の占いです。これで疑いが晴れました。
 この「うけひ」はユダヤ・キリスト教が旧「約」聖書と新「約」聖書という「誓約」のバイブルを生んだことに比定していえば、日本神話の誓約に当たります。今日、天皇家、つまりアマテラスの「和する系譜」にあるとみなされている天皇家が、伊勢神宮のアマテラスを皇祖としている起源が、ここにあります。
 では、スサノオのほうはどうなったのか。占いがうまくいったスサノオはこれで高天原に入れるというのでいささか慢心し、高天原を傍若無人に荒らしてしまいます。田畑をめちゃくちゃにする。つまり荒ぶったのです。これでスサノオは根の国に追放される。
 追放先の根の国というのはじつは出雲でした。日本神話はここで、高天原のストーリーと出雲国のストーリーに分かれます。2つのパンテオンの物語が並行して進むのです。実際には、おそらく来たるべき日本国の建設をめぐって日本海沿岸の出雲の勢力と奈良の大和の勢力が争っていたということの反映でしょうが、日本神話のストーリーとしては「和するアマテラス」が高天原を大和化し、「荒ぶるスサノオ」の出雲がこれに従ったということになりました。そう、編集したのです。
 出雲神話の最初に登場するスサノオは、人身御供になりそうだったクシナダヒメ(櫛名田比売)を助けてヤマタノオロチ(八俣大蛇)を退治し、オロチの尾から草薙剣を取り出すと、これを姉のアマテラスに献じたというふうになっています。これでスサノオは一種の地域開発型の英雄になりました。
 スサノオはその後はクシナダヒメと結ばれ、その子孫のオオクニヌシ(大国主命)が出雲の国をつくりあげ、オオクニヌシが義兄弟となったスクナヒコナ(少名毘古那神)などと組んですばらしい国づくりをするのですが、あるときその繁栄ぶりを高天原パンテオンの連中が羨ましがって、これをほしがるという展開になります。
 このあと「ほしがる高天原」と「辞する出雲」のあいだに何度か交渉があって、結局はオオクニヌシが折れて「国譲り」をするという恰好で、出雲神話はおわります。
 つまり日本という国は、出雲が基礎をつくった国を高天原側が譲り受けて、それをもとに「大和」をつくったというふうになっているのです。これは日本の成立事情からすると、たいへん重要なプロセスです。大和朝廷は荒ぶるスサノオの系譜でつくられたディベロッパー型の出雲の国のモデルがあったからこそ、これを譲り受けて誕生したのです。日本は神武天皇が各地域を統一して国をつくったわけではないのです。
 「すさび」と「あそび」
 ここでもう一度、スサノオの役割とは何だったかという話になります。スサノオに「荒ぶる」という性質が与えられているのは、そもそもスサノオという名称にヒントがあります。実はスサノオの「スサ」とは「すさぶ」のスサでした。「スサブ男」(スサ・ノ・ヲ)がスサノオなのです。となると、この神名があらわしている「すさぶ」や「すさび」が注目されます。
 「すさぶ」は漢字で綴れば「荒ぶ」です。風が吹き荒ぶ、雨が降り荒ぶ、庭の草が荒んでいる、芸が荒んでいるなどとつかいます。現代文学などでは「心が荒んでいた」などとつかう。一方、この「すさぶ」は「遊ぶ」と綴ってもスサブと読みました。もともとの「すさぶ」は「荒ぶる」「荒れる」「綻びる」「壊れる」といった行為を示す自動詞でしたが、日本人はこの言葉に「遊ぶ」という字も当てたのです。
 こうして「すさぶ」と「あそぶ」は重なり、何か別のことに夢中になることがスサビとして認識されました。今日でも仕事に対して遊びがあり、なすべき中心から逸れて気の向くままに何かをするのが、遊びであって、荒ぶということです。中心で荒べば和を乱しますが、どこか別のところで熱中するなら、これはスサビ(遊び)です。
 この解釈はスサノオが高天原から逸れて出雲で国づくりに夢中になっていったことにつながります。そしてそれは高天原やアマテラスの系譜から見れば「荒ぶること」だったのです。これで少し見えてきたかもしれませんが、日本の精神文化の根底はこの「和する系譜」に「荒ぶる系譜」が並立することで成立できたともいうべきなのです。
 さらに連載記事<「中国離れ」で華開いた「独特な日本文化」が機能不全に…その「残念すぎる末路」>では、日本文化の知られざる魅力に迫っていきます。ぜひご覧ください。
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 2月23日 YAHOO!JAPANニュース ラブすぽ「出雲の国譲り神話とは?オオクニヌシの決断と出雲大社誕生の謎|古事記の舞台を歩く
 出雲の国譲り神話とは?オオクニヌシの決断と出雲大社誕生の謎|古事記の舞台を歩く
 出雲の国譲り
 葦原の中つ国の平定
 【出雲に隠棲したオオクニヌシノカミ】
 「息子よ、豊葦原(とよあしはら)の水穂(みずほ)の国(葦原の中つ国の別名) は、あなたが治めるべき国です。ただちに下界に降りなさい」
 オオクニヌシノカミによる国づくりが完成すると、アマテラスオオミカミが、わが子である*マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト(正勝吾勝々速日天之忍穂耳の命)にいいました。
 *マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコトとアメノホヒノカミは、アマテラスオオミカミとスサノオノミコトが誓約したときに生まれた子。
 ところが、下界は何やら騒がしそうです。そこで、いったん高天の原に戻り、アマテラスオオミカミに指示を仰ぎました。タカミムスヒノカミとアマテラスオオミカミは八百万の神々を集めて対応を協議しました。
 「葦原の中つ国には横暴なふるまいをする国つ神が満ち満ちている。どの神を遣わせばよいか」
 その問いかけに対し、八百万の神々は、オモイカネノカミを中心に思案を重ね、アメノホヒノカミ(天之菩比の神)の名をあげました。そこで、アメノホヒノカミを遣わしたところ、この神はオオクニヌシノカミに媚 こびへつらうばかりで、三年たっても何一つ報告をよこしませんでした。
 今度は、アマツクニタマノカミ(天津国玉の神)の子、アメノワカヒコ (天の若日子) に天のまかこ弓・天のはは矢という特別な武器を授け、下界へ向かわせました。しかし、アメノワカヒコは葦原の中つ国へ降り立つと、すぐにオオクニヌシノカミの娘、シタデルヒメ(下照比売)を娶って、その国をわがものにしようと企み、八年たっても何一つ報告をよこさなかったのです。
 そこで、新たに鳴女(なきめ)という雉(きじ)を派遣しました。しかし、アメノワカヒコは鳴女の言葉に耳を貸さず、*天(あめ)の佐具売(さぐめ)にいわれるまま、鳴女を射殺(いころ)します。
 *佐具売は秘密を探り出す霊力がある女をあらわす。
 この矢は鳴女の胸を貫通し、天の安の河原まで達しました。タカギノカミ(高木の神、タカミムスヒノカミの別名)がそれを拾い、一同に示しながら、
「もし、アメノワカヒコに邪(よこしま)な心があるなら、この矢に当たって罰を受けよ」
といって投げ返すと、矢はアメノワカヒコの胸に突き刺さり、その命を奪いました。
 神々が次に送り込んだのはタケミカヅチノカミ(建御雷の神)とアメノトリフネノカミ(天の鳥船の神)でした。
 「この国はアマテラスオオミカミの御子が治めるべきだ。そなたの考えはどうか」
 タケミカヅチノカミが問うと、オオクニヌシノカミは、
 「息子のコトシロヌシノカミ(言代主の神)がお答えします」
といいます。
 コトシロヌシノカミは、
 「この国は天つ神の御子に差し上げましょう」
とあっさりと同意し、船を青葉の柴垣(ふしがき)に変えそこに隠れてしまいました。
 しかし、もう一人の息子であるタケミナカタノカミ(建御名方の神)は納得しません。
 「ここは一つ力比べといこうじゃないか」
 力では誰にも負けない自信があるタケミナカタノカミは、そういってタケミカヅチノカミの手につかみかかります。すると、一瞬にしてタケミカヅチノカミの手が氷柱に、ついで剣の刃へと変わりました。恐れをなしたタケミナカタノカミは慌てて、手を引っ込めました。
 次はタケミカヅチノカミです。タケミナカタノカミの手をとると、若葉をつかむようにぎゅっと握りつぶし、放り投げます。タケミナカタノカミは観念しました。
 「どうか私を殺さないでください。この葦原の中つ国をご命令のままに献上します」
 タケミカヅチノカミは、オオクニヌシノカミに問いかけました。
  「そなたの子は、アマテラスオオミカミの御子の命令に背(そむ)かないと誓ったが、そなたの考えはどうか」
 オオクニヌシノカミが答えました。
 「わが子と同様、背くつもりはありません。葦原の中つ国をご命令どおり、献上いたしましょう。ただ、私の住むところだけはアマテラスオオミカミの御子が住むのと同じような、柱が太く、高々とそびえるりっぱな*御殿にしていただきたいのです。私はそこで隠棲(いんせい)いたします」
 オオクニヌシノカミは出雲の国の多芸志(たぎし)の小浜(おばま)に使者の神々を供応するりっぱな御殿を建て、準備を整えたうえで改めて誓いの言葉を述べました。
 これを受けてタケミカヅチノカミは高天の原へ昇り、葦原の中つ国が平定されたことを報告しました。
 *のちの出雲大社だといわれている。
 アメノワカヒコは鳴女を射抜き殺した。
 オオクニヌシノカミの子タケミナカタノカミはタケミカヅチノカミの力に屈した。
 古代の出雲大社
 現在の出雲大社神楽殿。オオクニヌシは、国譲りの条件として御殿を建設した。これが出雲大社だとされている。出土した心柱(しんばしら)などからその規模が想定され、平安時代の出雲大社は、高さ約48mもあったことがわかり、古代の建築技術の高さが明らかになった。
 国譲りのプロセス
 古事記伝承の地をめぐる稲佐浜(いなさのはま)
 国譲りの舞台は島根県出雲市にあるとされています。
 稲佐浜。島根県出雲市。国譲り神話の舞台となっている。オオクニヌシは、浜にある大きな岩の陰で国譲りの話し合いをしたと伝えられる。
 いまに生きる古事記
 神迎(かみむかえ)神事。稲佐浜では、神在祭の前夜祭として行なわれる。国譲り神話がもとになっており、浜で迎えられた神々は、出雲大社へと向かう。
 青柴垣(あおふしがき)神事。島根の美保神社で行なわれる。国譲り神話で、コトシロヌシが身を隠す物語にちなむ。
 美保神社で行なわれる諸手船(もろたぶね)神事。国譲り神話において、天つ国の使者が船に乗って交渉にやって来るシーンを再現している。
 【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解プレミアム 古事記の話』監修:谷口雅博
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 2月25日 YAHOO!JAPANニュース ラブすぽ「オオクニヌシは出雲神話の王?アマテラスとの違いや『天下所造しし大神』の真意を解説
 オオクニヌシは出雲神話の王?アマテラスとの違いや『天下所造しし大神』の真意を解説
 オオクニヌシは神様の王なの?神話にたくさんでてくるオオクニヌシの称号とは
 出雲の神話においては神々の王
 八百万の神々の中で一番偉いのはアマテラスだと19項で述べていたのに、オオクニヌシは神々の王とは、どういうことだ、と思われたかもしれません。アマテラスを最高神とするのは「古事記」「日本書紀」で語られる神話です。オオクニヌシを神々の王とする話は「出雲国風土記」などで語られる出雲の神話でのことです。
 その「出雲国風土記」ではオオクニヌシのことを「天下所造しし大神」と呼んでいます。「天下を創造した大いなる神様」と理解したくなる表現ですが、天地を造り出したわけではなく、「大地を開拓した」という意味に解すべきです。というのも、「出雲国風土記」には、新羅や隠岐から土地を引き寄せて出雲の“国土”をつくったヤツカミズオミツヌ(八束水臣津野命)という神様が登場するからです。
 オオクニヌシが活躍するのは、ヤツカミズオミツヌが国引きをした後なので、オオクニヌシは出雲の創造には関わっていないのです。オオクニヌシは、迫害を加えた兄神たち(八十神)を破って神々の王となり、大地を神々や人々が住める場所として開拓しました。ただし、オオクニヌシが支配していたのは地上の神々で、天上の神々には及んでいません。
 実は「日本書記」にも、「オオナムチ(オオクニヌシのこと)とスクナビコナは力を合わせ心を1つにして天下を開発した。人間と家畜の病を治す方法も定めた。また、鳥獣や虫の害を避ける術も考案した。こうしたことから人々は今に至るまでその恩を被っている」と、開拓神として信仰されていたことが記されています。
 出典:『眠れなくなるほど面白い 図解 神道』監/渋谷申博
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🎍33〕─4─女人禁制の多くは日本的穢れを忌避する宗教上の理由。~No.107 

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   ・   ・   {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本には、女性禁制と共に男性禁制(衆道{しゅどう})も存在し、男女禁制(何人たりとも禁止)も存在する。
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 女人禁制は、日本人男性の我が儘。
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 亭主は単純バカの関白でありが、女性は山之神・かかあ天下であり恐ろしい角を隠している。
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 日本人の女性は男性より賢く優れている。
 故に、日本人の男性は女性を怖れている。
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 2026年1月26日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「富士山も高野山も解禁したが…公然と「宗教上の理由で今なお女人禁制」を貫く女性キャンセル界隈の山の名前
 奈良時代に総国分尼寺として建てられた法華寺本堂、奈良市、2006年(撮影=ヒロ/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons) - 写真=Wikimedia Commons
 外国からの観光客が驚くことに、日本の寺社などには女性が入れない場所がある。浄土宗僧侶の鵜飼秀徳さんは「高野山などは修行の場であるという理由で女性の立ち入りを禁止してきた。明治維新でほぼ全ての“聖域”が解禁されたが、いまだに女人禁制を貫く山がひとつある」という――。
 ※本稿は、鵜飼秀徳『欲望の仏教史』(SB新書)の一部を再編集したものです。
■なぜ女性立ち入り禁止になったか
 日本の仏教・神道における、女性に対する制約の代表例は「女人禁制」であろう。女人禁制とは、山岳霊場などへの女性の立ち入りを禁止する宗教的慣習のことである。起源は古く、平安時代まで遡るとされる。その実、ジェンダー平等が叫ばれている昨今でも、一部の祭祀や宗教空間で女人禁制のしきたりが続いている。
 まず、なぜ女性が特定の宗教空間に立ち入れないかといえば、大きく分けて2つの理由がある。1つは、月経や出産などに伴う「血の穢れ(不浄)」への忌避である。もう1つは、男性の修行者の中に女性が混じると、性的な欲望によって修行が妨げられるため、あらかじめ修行空間から女性を排除しておく(「不邪淫戒」を守る)とする考え方である。
 さらに、釈迦の入滅後に「五障(ごしょう)」の思想が広がり、これが『法華経』などの一部の経典に取り込まれたことも、女人禁制に影響を与えたとされている。五障とは古代インドの女性観から発生したもので、「女性は5つの最高位、梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏には到達できない」とする教説である。
 五障について触れている経典としては、『法華経』のほかにも『大般若経』などが存在する。ただし、5世紀に鳩摩羅什(くまらじゅう)によって漢訳された『法華経』の中では、女性が成仏できないことに対する反証も記されている。
 そこでは、龍王の8歳の娘(龍女)が、釈迦の弟子である舎利弗(しゃりほつ)らの前に宝珠を供えたところ、瞬時に成仏したと語られている。ただし、「龍女は女性のままで成仏できる」とする解釈と、「龍女が成仏するには男性に転じる(男性器を身につける)ことが条件(変成男子)」とする解釈とに割れている。
■日本で初めて出家した人は女性
 こうした女性蔑視的な考え方を前提として、中世の日本では、女性でも救われるという「女人救済」「女人往生」の思想に結びついていったのも事実である。
 さて、わが国における女人禁制の歴史を見ていこう。
 日本仏教史上初めての出家者は、善信尼という女性であった。時は、仏教受容を巡って蘇我氏と物部氏が争っていた584(敏達天皇13)年。蘇我馬子は司馬達等の11歳の娘、嶋(しま)を剃度(ていど)させ、法名を善信尼と号させた。同時に禅蔵尼・恵善尼の2人も出家した。
 馬子は自邸に仏堂を建立し、3人の尼僧を中心に法会を行わせた。後に善信尼らは百済へ渡航して受戒を受け、正式に比丘尼となった。
 馬子が、最初の出家者に女性を選んだ理由は、古来の日本では「巫女」、つまり神聖なる女性こそが神々と交信できるとするシャーマニズムの世界観が存在し、わが国の初期仏教でも「巫女」的女性を立てたかったからと推測できる。
■尼には500の禁忌が課せられた
 善信尼・禅蔵尼・恵善尼の3者同時出家は、「尼僧サンガ(集団)」の出現でもあった。それは、後の国分尼寺や尼僧の庵など、女性僧侶のためだけの宗教的アジール(聖域)の出現につながっていく。これが、後に男性僧侶の世界から隔絶し、男性優位の仏教が形成されることにつながった側面もありそうだ。
 奈良時代、国分寺と国分尼寺が並列してつくられる。一見それは、国家が男女平等の扱いをしているように見える。だが、実際には格差が生じていた。
 比丘(男性出家者)は250の戒を守るだけでよかったが、比丘尼(女性出家者)は最大500もの戒を守る必要があった(発足当初は348戒であったが、後に500戒まで増加)。比丘尼戒が多く設定されたのは、男性との接触、肌の露出を防ぐための衣服の規定、外出の制限、八敬法(はっきょうほう)による男性出家者への敬いなどの項目が設けられていたからである。
 八敬法とは釈迦の時代に設けられた、女性が出家する際の条件である。例えば、「比丘尼は何歳になっても、比丘に対して合掌して礼拝しなければならない」「比丘尼は半月ごとに、比丘から教えを受けなければならない」「比丘尼サンガの決議において、比丘が承認しなければならない」などと決められている。
 八敬法などの影響もあって、尼僧は律令国家における要職の僧綱にはなれなかった。
■月経や出産に伴う「血の穢れ」
 7世紀以降に成立した山岳仏教も女人禁制に影響を与えた。修験道の祖である役小角(えんのおづぬ)(役行者)は、吉野山・葛城山・大峯(おおみね)山などの山岳地帯を修行の場として開いた。
 また、788(延暦7)年には最澄が比叡山山中に草庵を構え、天台宗を開いた。816(弘仁7)年には、空海が高野山に密教道場である金剛峯寺を開いた。
 山岳での修行は、山を歩くことで神々を感じ、清浄なる自然と同化する。そのため、修験者は女性の月経や出産に伴う「血の穢れ」を嫌った。女性を「斎戒(心身を清め、規範を守って慎む)」を乱す要因とみなしたのだ。
 そして、霊山の登り口に「従是(これより)女人結界」などの碑を置き、男性修行空間と俗界の境を可視化したのである。
 例えば、修験道の聖地である大峯山や天台宗の比叡山は、山全体を女人禁制とした。その結界(女人結界)の部分には「女人堂」を設け、女性信者らはそこで祈った。女人堂では護符などの授与や護摩、法要などを有料で受けることができた。
■修験道の聖地である大峯山
 大峯山女人堂は現役の女人結界としての役割を受け継いでいる。高野山では7つある登山口に女人堂を設けて、それぞれを結ぶ女人道を整備。この女人道で女性らは祈りを捧げた。現在では「不動坂口女人堂」が唯一、現存する女人堂で、和歌山県の指定文化財に指定されている。
 室町時代に入り、山岳聖地の整備が整えられると、参詣者が爆発的に増えていく。北陸では白山や立山が、東国では富士山が、東北では出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)が、山岳修行の場を提供した。そこでも「浄穢の境」が明確化され、山岳聖地での結界運用が地域の常識になっていったのである。
 ここで、女人禁制が敷かれた主な山岳聖地を紹介しよう。日本各地の女人禁制の山の歴史と、現在の運用を整理してみた。
■唯一、女人禁制のルールが残る
 【大峯山・山上ケ岳(奈良県)】
 修験道の根本道場。役行者による開山の後、山上ケ岳一帯に「女人結界」が設けられた。1872(明治5)年の女人禁制撤廃布告後も慣行として女人禁制が継続している。現在では、戸開け期間(例年5月3日〜9月23日)に限り入山が可能であるが、「男性のみ入山可」を明示している。各登山口には女人結界門を設置している。地元である天川村の公式サイトでも「宗教上の理由で今なお女人禁制」と記されている。
 【石鎚山(愛媛県)】
 修験の山として中世以来の女人禁制伝承を持つ。通年で一般開放しているが、毎年7月1日の「お山開き」初日については「宗教上の理由で女性は登拝不可」としている。
 【富士山(山梨県・静岡県)】
 江戸時代まで吉田口2合目付近に「女人結界」(女人天上)などの遥拝(ようはい)点を設け、女性はそれ以上は山に入れなかった。1872(明治5)年の布告の女人禁制撤廃によって解禁される。現在では男女ともに登山が可能。
 【立山(富山県)】
 江戸時代まで女人禁制が敷かれた。女性は山岳修行に代わる救済儀礼として、芦峅(あしくら)寺で「布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)」に参加し現世・来世を擬似往還する作法が整えられた。
 【白山(石川県・岐阜県・福井県)】
 富士山や立山と並ぶ「日本三霊山」の一つとして知られる。女人禁制は明治初期に解けた。現在は男女とも登拝可能である。
■高野山は女性も参拝・宿泊できる
 【出羽三山(山形県、羽黒山・月山・湯殿山)】
 修験道の三山。江戸時代までは湯殿山を中心に女人禁制色が強かった。出羽三山のうち、月山および湯殿山の女人禁制は1877(明治10)年に解禁された。現在は、三山とも参拝可能である。
 【高野山(和歌山県)】
 中世、近世を通じて「女人結界」を設けた。7つの登山口に女人堂を設け、女性は周縁の「女人道」から遥拝した。明治期の全国的な禁制撤廃の後も、内部規定により居住・参入に制限が残った。現在では、参拝、宿坊への宿泊とも男女とも可。
 【御嶽山(長野県・岐阜県)】
 黒沢口8合目に「女人堂」という山小屋・堂宇が置かれ、かつて女性の立ち入りはそこまでとされた。1877(明治10)年頃から、女性登拝は自由化された。現在、登山自体は男女ともに可。女人堂は山小屋として営業し、その歴史的背景を解説している。
■女人禁制が撤廃された理由は外圧
 現代に残る女人禁制の思想
 女人禁制が撤廃されたのは、明治維新時の神仏分離令発布後のことである。1872(明治5)年3月、女人結界の解禁の太政官布告が出された。

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 「神社仏閣ノ地ニテ女人結界ノ場所有之候処(これありそうろうところ)、自今被廃止(はいしされ)候条、登山参詣等可為勝手事(かってらるべきこと)」
(神社仏閣の境内地に設定されている女人結界は、これをもって廃止する。女性の登山や参詣は自由にしてよい)

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 女人禁制が撤廃された背景には、鎖国が終わり、お雇い外国人らが日本に入ってきたことが大きい。明治政府は、各地で続けられていた女人禁制が国際社会から「女性蔑視」とみなされることを恐れたのである。
 だが、布告を経ても、現在まで通年禁制が敷かれている場所がある。大峯山(奈良県吉野郡)系にある山上ケ岳である。
 先述のように大峯山は役小角が開いたとされる修験道の聖地である。吉野から熊野に至るおよそ170キロメートルは「大峯奥駈(おくがけ)道」として知られ、山伏による荒行の場であった。大峯山は、断崖絶壁を含む難所続きで、古くから千日回峰行の舞台としても知られている。
 この険しさゆえに、女性が立ち入ることの危険性も女人禁制の理由の一つになったと考えられる。

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 鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)
 浄土宗僧侶/ジャーナリスト
 1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』(文春新書)近著に『仏教の大東亜戦争』(文春新書)、『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』(文春新書)。浄土宗正覚寺住職、大正大学招聘教授、佛教大学・東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事、(公財)全日本仏教会広報委員など。

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 浄土宗大辞典
 女人禁制
 にょにんきんせい/女人禁制
 修行の道場である寺院および霊場などにおいて女性の出入りを禁止すること。「にょにんきんぜい」ともよみ、また女人結界ともいう。日本では古代において卑弥呼などの例に見られるように、祭司儀礼の場において女性が高い地位にあった。しかし政治や社会の変化によって状況は変わり、特に仏教では『法華経』の伝来流布により「提婆品」に見られる、女性には生まれつき五障があるといった見方が大きな影響を与えたようである。平安時代には最澄により比叡山が女人禁制となり、以後高野山や大峯山などの霊場へと一般化していった。こうした姿勢に対して法然は批判的な立場であり、『無量寿経釈』では「この日本国にさしも貴き無上の霊地霊験の砌みぎりにはみな悉く嫌われたり」(昭法全七七)と比叡山、高野山、東大寺、崇福寺、金峯山、上醍醐の女人禁制を挙げ、「悲しきかな、両足を備うといえども登らざる法の峰有り、踏まざる仏の庭あり、恥しきかな、両眼は明なりといえども見ざる霊地有り、拝さざる霊像有り」(同)と述べ、阿弥陀仏の女人往生の願はこのような境遇に置かれる女性に対しても往生の疑いを起こさせないためにあるのだとして、「女人浄土に生ずことを得ずというはこれはこれ妄説なり信ずべからずなり」(同七八)と説いている。明治五年(一八七二)三月の太政官達によって大部分は廃止されたが、伝統として女人禁制が存続するところもある。
 【参考】西口順子『女の力』(平凡社、一九八七)
 【参照項目】➡女人往生
 【執筆者:市川定敬】
 このページの最終更新日時は 2018年3月30日 (金) 06:31 です。
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 SDGs MAGAZINE
 TREND 2023.02.15
 「女人禁制」から紐解く現代の私たちが考えるべき平等とは?
 #ジェンダー平等を実現しよう
 この記事に該当する目標
 5ジェンダー平等を実現しよう
 「女人禁制」から紐解く現代の私たちが考えるべき平等とは?
 日本がロシアに宣戦布告をしたことで日露戦争が勃発した1904年。そんな最中、アメリカのニューヨークでは婦人参政権を求めたデモが起こったことをきっかけに、1975年に国連によって制定された「国際女性デー」が2023年3月8日に48年目を迎えようとしています。
 女性の社会参加と地位向上を目的として女性の活躍を称える日として制定された国際女性デーは、SDGsの観点でも目標5のターゲット5「政治や経済や社会のなかで、何かを決めるときに、女性も男性と同じように参加したり、リーダーになったりできるようにする」を達成するために大切な日でもあります。
 世界中で広がる女性の社会進出
 さまざまな企業や団体の活動によって認知が増えつつある国際女性デーの他にも、2月11日には女性と女児が科学技術の分野で活躍できる機会を増やすことを目的として制定された「科学における女性と女児の国際デー」もあります。
らに、昨年話題になった女性の社会進出と言えば、2022年9月4日に『笑点』で女性落語家が回答者として史上初の出演を果たし注目を集めたことや、2022年10月22日は賛否両論があるものの、イタリア史上初の女性首相が誕生するなど、世界中で女性の活躍が話題になっています。
 女性は立ち入り禁止?歴史的な意味合いを持つ「女人禁制」
 そんな女性の活躍が広がる中で、今では女性がいることが当たり前な場所でも、一昔前は「女人禁制」と言って様々な場所で女性の行動が制限されていたことを皆さんはご存じでしょうか?女人禁制とは女性に対する社会慣習の一種とされており、その名の通り女性が立ち入ってはいけないとされている場所のことを指します。
 海外でも話題になるほど、現代においてはこのしきたりに対して賛否両論もありますが、一方で女人禁制とされた場所には、様々な理由を元に伝統として受け継がれているのも事実です。
 なかでも代表的なものが、2013年に世界文化遺産に登録された日本の象徴ともされる「富士山」です。現在では老若男女問わず訪れることができる富士山ですが、修行の妨げとなるという理由から女性が立ち入れるのは2合目の冨士御室浅間神社までとされ、富士山信仰を持った女性たちは富士山を模して作られた「富士塚」に足を運んでいたという歴史がありました。
 女性の富士山への登山が解禁されたのは、今から151年前の1872年3月のことで、当時の女性たちが信仰をしていた富士塚の一部は、富士山信仰の文化を残す貴重な歴史的場所とされています。
 また、意外な場所としては「酒蔵」も例に挙げられます。女性が主体となって酒造りをしていた時代がある一方で、酒蔵が女人禁制とされたのは江戸時代以降とされており、酒造りは男性が主体とされる慣習が根強く残っていました。現在では文化や伝統を受け継ぎながら、酒造りの最高責任者の総称である杜氏(とうじ)を女性が担って活躍するなど、酒蔵だけではなく様々な業界で変化が受け入れられています。
 男女平等の実現のためにできること
 SDGsの17の目標の中には「すべての女性と女の子に対するあらゆる差別をなくす」ことが掲げられています。歴史的背景や文化・伝統による女性に対する差別があったことは事実ですが、その中でも伝統や文化として残しつつ、男女問わず平等と判断されないものは改善し、時代に合った変化が必要であると感じます。ジェンダー平等を実現するためには、一人ひとり差別があった歴史や背景を理解し、今後はよりよい社会にしていくために何をすべきなのか考え、行動に移すことが重要になってきます。
 日本の象徴とされる富士山も、一昔前までは女性が入ることができなかったなんて驚きですね。歴史を振り返ると、改めて現代では女性が制限されずに当たり前のように行動できるようになったのだと、時代の進化を感じます。
 今回は女人禁制について触れましたが、女性の権利や機会が制限されていた伝統・文化がある一方で、果たしてこの女人禁制は今後絶対に変えなければならないことなのでしょうか。例えば、今でも残る文化の中には、女性が土俵へ上げることを禁止している「相撲」や、女性が立ち入ることを禁止し世界遺産に登録されている「沖ノ島」などが存在しています。これを単純に「女性差別」として捉えるのではなく「伝統や文化」として受け継ぎ、伝統故の良さを感じる人も少なくはありません。
 2030年までの目標達成に向けて日々進化する時代の良さもあれば、歴史的背景を元に昔ながらの伝統や文化を守ることの良さもある中で、現代の私たちにとって「一番いい形」の進化をこれからも考えていきたいですね。
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 女人禁制(にょにんきんせい、にょにんきんぜい)とは、日本において、女性であることを理由に、寺院や霊場等の特定の場所への女性の立ち入りや、お参りや修行、仕事等への参加を禁止する風習、習俗[8][3]。また、その制度や地域のこと。
 概要
 女性であることを理由に、特定の場所への女性の立ち入りを禁止するもので、特に、聖域(社寺、霊場、祭場など)への女性の立ち入りを禁止する風習がみられる。この意味で隔絶された区域(結界)を女人結界(にょにんけっかい)といい、「女人禁制」と同義で用いられる。
 宗教以外での、女性の立ち入りや参加、参入などを禁ずる社会慣習も指し、漁業や狩猟など伝統的に男性が担ってきた仕事や、女性が関わると女神が嫉妬して良くない結果となるとされるトンネル工事などでも女人禁制が布かれてきた。神事に関連する相撲や、歌舞伎などの芸能にも見られる。
 月経中の女性を不浄とみなし寺社などに一時的に立ち入りを禁じる風習は、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教などにも見られるが、常に女性の立ち入りを禁止するものではない。日本仏教の女性差別・女性排除はインド仏教から引き継いでいるとはいえ、女性そのものを穢れとして聖地や寺社から恒常的に排除する女人禁制は日本仏教独自で、日本で作られた独特のものである。
 由来
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 神道の血穢による理由
 →「月経に関する偏見」も参照
 日本で女人禁制が発生した背景として第一に、仏教伝来以前の日本にあった、女性の月経や出産に対する「血の穢れ(血穢)」の観念がある。日本仏教の女性の不浄観は、この血の穢れの観念、神道の穢れ観の影響を受けたと考えられる。しかし、元々神道での扱いは、月経中、出産期間の女性や、こうした「穢れ」に触れた人は一時的に神社参拝や神事に関われないというもので、恒常的なものではなく、日本仏教のような女性性・女性の身体の全面否定ではなかった。
 血の穢れは律令の補助法令である『弘仁式』(9世紀前半)で出産に関わる血穢が明文化され、『貞観式』(9世紀後半)で月経に関わる血穢が明文化されており、律令の手本となった古代中国の触穢観等が影響したと考えられている。
 仏教の戒律に由来する理由
 インドで生まれた仏教には元来、ある場所を結界して、女性の立ち入りを禁止する戒律は存在しない。和僧道元の『正法眼蔵』にも、日本仏教の女人結界を「日本国にひとつのわらひごとあり」と批判している箇所があり、法然や親鸞なども女人結界には批判的であった。
 しかし仏教は、世俗を離れ欲望を断つ出家を説き、男性修行者にとって女性(への肉欲)がいかに修行の障りとなるかが強調されており、女性の出家も認められていたが、男性中心性・女性抑圧性があった。出家者の戒律には、性行為の禁止(不淫戒)、自慰行為の禁止(故出精戒)、異性と接触することの禁止(男性の僧侶にとっては触女人戒)、猥褻な言葉を使うことの禁止(麁語戒)、供養として性交を迫ることの禁止(嘆身索供養戒)、異性と二人きりになることを禁止(屏所不定戒)、異性と二人でいる時に関係を疑われる行動することを禁止(露処不定戒)など、性欲を刺激する可能性のある行為に関しては厳しい戒律がある。アジア伝統社会では、女性は「未婚のときは父に従い、結婚した後は夫に従い、夫が死ねば子に従う」という「三従」という3種の忍従が宿命的なものとされ、この社会習慣によって女性は親族男性の保護下・支配下に置かれており、尼僧は親族男性の保護者がいないため、潜在的に「誘惑者」と見られていた。
 修験道の修験者は、半僧半俗の修行者であるが、その場合でも、修行中は少なくとも不淫戒を守る必要がある(八斎戒の一つ)。そのため修験道では、男性の修行場から女性を排除したと考えられる。
 女人禁制につながる要因として、女性は修行しても仏に成れないため女性は男身を得てから成仏するという女人五障説・変成男子説や、女身は穢れが多くて仏の器ではないという「女身垢穢」「非是法器」(女身非法器説)などの仏教の女性差別的な教えの広まりがある。
 道教や密教などの神通力信仰
 一説には古代日本においては、主に道教や密教の影響で、僧侶に対し加持祈祷による法力、神通力が期待されていたためとする説もある。僧侶が祈祷に必要な法力を維持するためには、持戒の徹底が必要であると考られていた。
 性欲を起こすと仙人が神通力を失う話としては、『今昔物語』にある久米仙人の話が有名である。
 中世における神仏習合
 上記の仏教と神道、道教などの異なるタブー観が、中世に習合し、山岳の寺院、修験道などを中心として、鎌倉時代頃に今の女人禁制、女人結界のベースとなる観念が成立したものと考えられている。
 また、唯識論で説かれた「女人地獄使。能断仏種子。外面似菩薩。内心如夜叉」(『華厳経』を出典とする俗説あり)[要出典]や『法華経』の「又女人身猶有五障」を、その本来の意味や文脈から離れ、「女性は穢れているので成仏できない、救われない」という意味に曲げて解釈し、引用する仏教文献も鎌倉時代頃から増えてくる。(原典にそういう意味はない)
 これらをもって、女人禁制は鎌倉仏教の女性観に基づくと説明されることがある。ただし、上記のように法然、道元、日蓮といった鎌倉時代の宗祖達は概ね女人禁制に批判的であり、叡尊は尼戒壇を再興している。
 その他に、女人禁制の由来と思われる理由
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 また修験道の修行地が、険しい山岳地帯であったためとの見方がある。
 古代においては山は魑魅魍魎が住む危険な場所と考えられていた。そのため子供を産む女性は安全のため近づかない、近づいてはならない場所であったとする。そのような場所だからこそ、修験者は異性に煩わされない厳しい修行の場として、山岳を選んだのだといわれている。文明が進んで、山道などが整備されると、信心深い女性が逆に修験者を頼って登山してくるようになり、困った修験者たちが結界石を置いてタブーの範囲を決め、その外側に女人堂を置いて祈祷や説法を行なった。
 民俗学者の柳田國男は姥捨山とされた岩木山(青森県)の登山口にも姥石という結界石があることに着目。結界を越えた女性が石に化したという伝説を『妹の力』『比丘尼石』のなかで紹介している。結界石や境界石の向こうは他界(他界#山上他界)であり、宗教者は俗世から離れた一種の他界で修行を積むことによって、この世ならぬ力を獲得すると考えられた。
 また、石長比売が女神であったことに代表されるように、古来より日本各地において山そのものが女神であり、嫉妬深いと考えられた地域も多い。女人の入山が禁制されたのは女神の嫉妬を避ける為であるとされる。たとえば『遠野物語』に登場する遠野三山伝説では、早池峰山と六角牛山はそれぞれ3人の女神が住んだ山とされ、長らく女人禁制であった。また熊野三山周辺でも、山は女神で嫉妬深いと考えられているほか、上り子といわれる男たちは松明を掲げて山へ上るが、女たちは闇の中で祈りを捧げて男たちが持ち帰った神火を迎える役割があり、そこには祭事における男女の役割分担の違いがあるとされる。
 また別の説では巫女やイタコにみられるように「女性には霊がつきやすい」ため、荒修行が女性には困難であるという説明づけもされることがある。
 女人禁制の理由については、上記のような様々な由来や学説が唱えられている。各々の場所には各々の由来が伝えられている。またそれらが歴史的な過程で絡み合い変容していく場合もあり、どれか一つをもって一般論を導き出すことは困難と言える。
 祭祀における女人禁制
 なお、祭りに女人禁制が取り入れられたのは、男尊女卑が広く浸透したとされる江戸時代ないし明治時代以降のことと考えられ、『古事記』には祭りに女性が参加していた記述が見られる。また古代の日本では、女性は神聖な者で神霊が女性に憑依すると広く信じられており、卑弥呼に代表されるように神を祭る資格の多くは、女性にあると考えられていた。
 一例として、日本神道の祖形を留る琉球神道の範疇に属する信仰では、沖縄の女性は「神人(かみんちゅ)」、男性は「海人(うみんちゅ)」とされ、おなり神の関係にあるとされる。現代でも女性が祭祀を取り仕切る観念は都市部以外では特に根強く、墓の手当てや風葬のあった時代には洗骨までもが一家の女性の役割であった。
 ノロなどの神職が祭祀を行う御嶽(うたき)では、女人禁制とは逆の男子禁制が敷かれており、現在でも御嶽や拝所(うがんじょ)に祈りを捧げたり祭祀を行うのは厳格に男子禁制である。(ただし、単に拝んだり立ち入りまで禁止されている訳ではない)。
 現代に残る「女人禁制」
 明治政府
 明治5年3月27日(1872年5月4日)、明治政府は、明治五年太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」[22]により、江戸幕府や寺社が仏教の不邪淫戒(五戒の一つ)や儒教の「男女七歳にして席を同じゅうせず」(『礼記』内則)などを根拠として社会の多くの分野で過剰に徹底していた「女人禁制」を、欧米列強に伍していこう(肩を並べよう)としている近代国家には論外の差別(「陋習」)の一つであるとして禁止した。
 この結果、「御一新」された「皇国」(明治日本)では、ほとんどの神社仏閣が過剰な「女人禁制」を解除することとなった。関所の廃止とも相俟って、外国人女性を含め女性も日本国内を自由に旅行・観光・参詣できるようになった。
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