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日本には、女性禁制と共に男性禁制(衆道{しゅどう})も存在し、男女禁制(何人たりとも禁止)も存在する。
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女人禁制は、日本人男性の我が儘。
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亭主は単純バカの関白でありが、女性は山之神・かかあ天下であり恐ろしい角を隠している。
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日本人の女性は男性より賢く優れている。
故に、日本人の男性は女性を怖れている。
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2026年1月26日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「富士山も高野山も解禁したが…公然と「宗教上の理由で今なお女人禁制」を貫く女性キャンセル界隈の山の名前
奈良時代に総国分尼寺として建てられた法華寺本堂、奈良市、2006年(撮影=ヒロ/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons) - 写真=Wikimedia Commons
外国からの観光客が驚くことに、日本の寺社などには女性が入れない場所がある。浄土宗僧侶の鵜飼秀徳さんは「高野山などは修行の場であるという理由で女性の立ち入りを禁止してきた。明治維新でほぼ全ての“聖域”が解禁されたが、いまだに女人禁制を貫く山がひとつある」という――。
※本稿は、鵜飼秀徳『欲望の仏教史』(SB新書)の一部を再編集したものです。
■なぜ女性立ち入り禁止になったか
日本の仏教・神道における、女性に対する制約の代表例は「女人禁制」であろう。女人禁制とは、山岳霊場などへの女性の立ち入りを禁止する宗教的慣習のことである。起源は古く、平安時代まで遡るとされる。その実、ジェンダー平等が叫ばれている昨今でも、一部の祭祀や宗教空間で女人禁制のしきたりが続いている。
まず、なぜ女性が特定の宗教空間に立ち入れないかといえば、大きく分けて2つの理由がある。1つは、月経や出産などに伴う「血の穢れ(不浄)」への忌避である。もう1つは、男性の修行者の中に女性が混じると、性的な欲望によって修行が妨げられるため、あらかじめ修行空間から女性を排除しておく(「不邪淫戒」を守る)とする考え方である。
さらに、釈迦の入滅後に「五障(ごしょう)」の思想が広がり、これが『法華経』などの一部の経典に取り込まれたことも、女人禁制に影響を与えたとされている。五障とは古代インドの女性観から発生したもので、「女性は5つの最高位、梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏には到達できない」とする教説である。
五障について触れている経典としては、『法華経』のほかにも『大般若経』などが存在する。ただし、5世紀に鳩摩羅什(くまらじゅう)によって漢訳された『法華経』の中では、女性が成仏できないことに対する反証も記されている。
そこでは、龍王の8歳の娘(龍女)が、釈迦の弟子である舎利弗(しゃりほつ)らの前に宝珠を供えたところ、瞬時に成仏したと語られている。ただし、「龍女は女性のままで成仏できる」とする解釈と、「龍女が成仏するには男性に転じる(男性器を身につける)ことが条件(変成男子)」とする解釈とに割れている。
■日本で初めて出家した人は女性
こうした女性蔑視的な考え方を前提として、中世の日本では、女性でも救われるという「女人救済」「女人往生」の思想に結びついていったのも事実である。
さて、わが国における女人禁制の歴史を見ていこう。
日本仏教史上初めての出家者は、善信尼という女性であった。時は、仏教受容を巡って蘇我氏と物部氏が争っていた584(敏達天皇13)年。蘇我馬子は司馬達等の11歳の娘、嶋(しま)を剃度(ていど)させ、法名を善信尼と号させた。同時に禅蔵尼・恵善尼の2人も出家した。
馬子は自邸に仏堂を建立し、3人の尼僧を中心に法会を行わせた。後に善信尼らは百済へ渡航して受戒を受け、正式に比丘尼となった。
馬子が、最初の出家者に女性を選んだ理由は、古来の日本では「巫女」、つまり神聖なる女性こそが神々と交信できるとするシャーマニズムの世界観が存在し、わが国の初期仏教でも「巫女」的女性を立てたかったからと推測できる。
■尼には500の禁忌が課せられた
善信尼・禅蔵尼・恵善尼の3者同時出家は、「尼僧サンガ(集団)」の出現でもあった。それは、後の国分尼寺や尼僧の庵など、女性僧侶のためだけの宗教的アジール(聖域)の出現につながっていく。これが、後に男性僧侶の世界から隔絶し、男性優位の仏教が形成されることにつながった側面もありそうだ。
奈良時代、国分寺と国分尼寺が並列してつくられる。一見それは、国家が男女平等の扱いをしているように見える。だが、実際には格差が生じていた。
比丘(男性出家者)は250の戒を守るだけでよかったが、比丘尼(女性出家者)は最大500もの戒を守る必要があった(発足当初は348戒であったが、後に500戒まで増加)。比丘尼戒が多く設定されたのは、男性との接触、肌の露出を防ぐための衣服の規定、外出の制限、八敬法(はっきょうほう)による男性出家者への敬いなどの項目が設けられていたからである。
八敬法とは釈迦の時代に設けられた、女性が出家する際の条件である。例えば、「比丘尼は何歳になっても、比丘に対して合掌して礼拝しなければならない」「比丘尼は半月ごとに、比丘から教えを受けなければならない」「比丘尼サンガの決議において、比丘が承認しなければならない」などと決められている。
八敬法などの影響もあって、尼僧は律令国家における要職の僧綱にはなれなかった。
■月経や出産に伴う「血の穢れ」
7世紀以降に成立した山岳仏教も女人禁制に影響を与えた。修験道の祖である役小角(えんのおづぬ)(役行者)は、吉野山・葛城山・大峯(おおみね)山などの山岳地帯を修行の場として開いた。
また、788(延暦7)年には最澄が比叡山山中に草庵を構え、天台宗を開いた。816(弘仁7)年には、空海が高野山に密教道場である金剛峯寺を開いた。
山岳での修行は、山を歩くことで神々を感じ、清浄なる自然と同化する。そのため、修験者は女性の月経や出産に伴う「血の穢れ」を嫌った。女性を「斎戒(心身を清め、規範を守って慎む)」を乱す要因とみなしたのだ。
そして、霊山の登り口に「従是(これより)女人結界」などの碑を置き、男性修行空間と俗界の境を可視化したのである。
例えば、修験道の聖地である大峯山や天台宗の比叡山は、山全体を女人禁制とした。その結界(女人結界)の部分には「女人堂」を設け、女性信者らはそこで祈った。女人堂では護符などの授与や護摩、法要などを有料で受けることができた。
■修験道の聖地である大峯山
大峯山女人堂は現役の女人結界としての役割を受け継いでいる。高野山では7つある登山口に女人堂を設けて、それぞれを結ぶ女人道を整備。この女人道で女性らは祈りを捧げた。現在では「不動坂口女人堂」が唯一、現存する女人堂で、和歌山県の指定文化財に指定されている。
室町時代に入り、山岳聖地の整備が整えられると、参詣者が爆発的に増えていく。北陸では白山や立山が、東国では富士山が、東北では出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)が、山岳修行の場を提供した。そこでも「浄穢の境」が明確化され、山岳聖地での結界運用が地域の常識になっていったのである。
ここで、女人禁制が敷かれた主な山岳聖地を紹介しよう。日本各地の女人禁制の山の歴史と、現在の運用を整理してみた。
■唯一、女人禁制のルールが残る
【大峯山・山上ケ岳(奈良県)】
修験道の根本道場。役行者による開山の後、山上ケ岳一帯に「女人結界」が設けられた。1872(明治5)年の女人禁制撤廃布告後も慣行として女人禁制が継続している。現在では、戸開け期間(例年5月3日〜9月23日)に限り入山が可能であるが、「男性のみ入山可」を明示している。各登山口には女人結界門を設置している。地元である天川村の公式サイトでも「宗教上の理由で今なお女人禁制」と記されている。
【石鎚山(愛媛県)】
修験の山として中世以来の女人禁制伝承を持つ。通年で一般開放しているが、毎年7月1日の「お山開き」初日については「宗教上の理由で女性は登拝不可」としている。
【富士山(山梨県・静岡県)】
江戸時代まで吉田口2合目付近に「女人結界」(女人天上)などの遥拝(ようはい)点を設け、女性はそれ以上は山に入れなかった。1872(明治5)年の布告の女人禁制撤廃によって解禁される。現在では男女ともに登山が可能。
【立山(富山県)】
江戸時代まで女人禁制が敷かれた。女性は山岳修行に代わる救済儀礼として、芦峅(あしくら)寺で「布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)」に参加し現世・来世を擬似往還する作法が整えられた。
【白山(石川県・岐阜県・福井県)】
富士山や立山と並ぶ「日本三霊山」の一つとして知られる。女人禁制は明治初期に解けた。現在は男女とも登拝可能である。
■高野山は女性も参拝・宿泊できる
【出羽三山(山形県、羽黒山・月山・湯殿山)】
修験道の三山。江戸時代までは湯殿山を中心に女人禁制色が強かった。出羽三山のうち、月山および湯殿山の女人禁制は1877(明治10)年に解禁された。現在は、三山とも参拝可能である。
【高野山(和歌山県)】
中世、近世を通じて「女人結界」を設けた。7つの登山口に女人堂を設け、女性は周縁の「女人道」から遥拝した。明治期の全国的な禁制撤廃の後も、内部規定により居住・参入に制限が残った。現在では、参拝、宿坊への宿泊とも男女とも可。
【御嶽山(長野県・岐阜県)】
黒沢口8合目に「女人堂」という山小屋・堂宇が置かれ、かつて女性の立ち入りはそこまでとされた。1877(明治10)年頃から、女性登拝は自由化された。現在、登山自体は男女ともに可。女人堂は山小屋として営業し、その歴史的背景を解説している。
■女人禁制が撤廃された理由は外圧
現代に残る女人禁制の思想
女人禁制が撤廃されたのは、明治維新時の神仏分離令発布後のことである。1872(明治5)年3月、女人結界の解禁の太政官布告が出された。
「神社仏閣ノ地ニテ女人結界ノ場所有之候処(これありそうろうところ)、自今被廃止(はいしされ)候条、登山参詣等可為勝手事(かってらるべきこと)」
(神社仏閣の境内地に設定されている女人結界は、これをもって廃止する。女性の登山や参詣は自由にしてよい)
女人禁制が撤廃された背景には、鎖国が終わり、お雇い外国人らが日本に入ってきたことが大きい。明治政府は、各地で続けられていた女人禁制が国際社会から「女性蔑視」とみなされることを恐れたのである。
だが、布告を経ても、現在まで通年禁制が敷かれている場所がある。大峯山(奈良県吉野郡)系にある山上ケ岳である。
先述のように大峯山は役小角が開いたとされる修験道の聖地である。吉野から熊野に至るおよそ170キロメートルは「大峯奥駈(おくがけ)道」として知られ、山伏による荒行の場であった。大峯山は、断崖絶壁を含む難所続きで、古くから千日回峰行の舞台としても知られている。
この険しさゆえに、女性が立ち入ることの危険性も女人禁制の理由の一つになったと考えられる。
鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)
浄土宗僧侶/ジャーナリスト
1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』(文春新書)近著に『仏教の大東亜戦争』(文春新書)、『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』(文春新書)。浄土宗正覚寺住職、大正大学招聘教授、佛教大学・東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事、(公財)全日本仏教会広報委員など。
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浄土宗大辞典
女人禁制
にょにんきんせい/女人禁制
修行の道場である寺院および霊場などにおいて女性の出入りを禁止すること。「にょにんきんぜい」ともよみ、また女人結界ともいう。日本では古代において卑弥呼などの例に見られるように、祭司儀礼の場において女性が高い地位にあった。しかし政治や社会の変化によって状況は変わり、特に仏教では『法華経』の伝来流布により「提婆品」に見られる、女性には生まれつき五障があるといった見方が大きな影響を与えたようである。平安時代には最澄により比叡山が女人禁制となり、以後高野山や大峯山などの霊場へと一般化していった。こうした姿勢に対して法然は批判的な立場であり、『無量寿経釈』では「この日本国にさしも貴き無上の霊地霊験の砌みぎりにはみな悉く嫌われたり」(昭法全七七)と比叡山、高野山、東大寺、崇福寺、金峯山、上醍醐の女人禁制を挙げ、「悲しきかな、両足を備うといえども登らざる法の峰有り、踏まざる仏の庭あり、恥しきかな、両眼は明なりといえども見ざる霊地有り、拝さざる霊像有り」(同)と述べ、阿弥陀仏の女人往生の願はこのような境遇に置かれる女性に対しても往生の疑いを起こさせないためにあるのだとして、「女人浄土に生ずことを得ずというはこれはこれ妄説なり信ずべからずなり」(同七八)と説いている。明治五年(一八七二)三月の太政官達によって大部分は廃止されたが、伝統として女人禁制が存続するところもある。
【参考】西口順子『女の力』(平凡社、一九八七)
【参照項目】➡女人往生
【執筆者:市川定敬】
このページの最終更新日時は 2018年3月30日 (金) 06:31 です。
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SDGs MAGAZINE
TREND 2023.02.15
「女人禁制」から紐解く現代の私たちが考えるべき平等とは?
#ジェンダー平等を実現しよう
この記事に該当する目標
5ジェンダー平等を実現しよう
「女人禁制」から紐解く現代の私たちが考えるべき平等とは?
日本がロシアに宣戦布告をしたことで日露戦争が勃発した1904年。そんな最中、アメリカのニューヨークでは婦人参政権を求めたデモが起こったことをきっかけに、1975年に国連によって制定された「国際女性デー」が2023年3月8日に48年目を迎えようとしています。
女性の社会参加と地位向上を目的として女性の活躍を称える日として制定された国際女性デーは、SDGsの観点でも目標5のターゲット5「政治や経済や社会のなかで、何かを決めるときに、女性も男性と同じように参加したり、リーダーになったりできるようにする」を達成するために大切な日でもあります。
世界中で広がる女性の社会進出
さまざまな企業や団体の活動によって認知が増えつつある国際女性デーの他にも、2月11日には女性と女児が科学技術の分野で活躍できる機会を増やすことを目的として制定された「科学における女性と女児の国際デー」もあります。
らに、昨年話題になった女性の社会進出と言えば、2022年9月4日に『笑点』で女性落語家が回答者として史上初の出演を果たし注目を集めたことや、2022年10月22日は賛否両論があるものの、イタリア史上初の女性首相が誕生するなど、世界中で女性の活躍が話題になっています。
女性は立ち入り禁止?歴史的な意味合いを持つ「女人禁制」
そんな女性の活躍が広がる中で、今では女性がいることが当たり前な場所でも、一昔前は「女人禁制」と言って様々な場所で女性の行動が制限されていたことを皆さんはご存じでしょうか?女人禁制とは女性に対する社会慣習の一種とされており、その名の通り女性が立ち入ってはいけないとされている場所のことを指します。
海外でも話題になるほど、現代においてはこのしきたりに対して賛否両論もありますが、一方で女人禁制とされた場所には、様々な理由を元に伝統として受け継がれているのも事実です。
なかでも代表的なものが、2013年に世界文化遺産に登録された日本の象徴ともされる「富士山」です。現在では老若男女問わず訪れることができる富士山ですが、修行の妨げとなるという理由から女性が立ち入れるのは2合目の冨士御室浅間神社までとされ、富士山信仰を持った女性たちは富士山を模して作られた「富士塚」に足を運んでいたという歴史がありました。
女性の富士山への登山が解禁されたのは、今から151年前の1872年3月のことで、当時の女性たちが信仰をしていた富士塚の一部は、富士山信仰の文化を残す貴重な歴史的場所とされています。
また、意外な場所としては「酒蔵」も例に挙げられます。女性が主体となって酒造りをしていた時代がある一方で、酒蔵が女人禁制とされたのは江戸時代以降とされており、酒造りは男性が主体とされる慣習が根強く残っていました。現在では文化や伝統を受け継ぎながら、酒造りの最高責任者の総称である杜氏(とうじ)を女性が担って活躍するなど、酒蔵だけではなく様々な業界で変化が受け入れられています。
男女平等の実現のためにできること
SDGsの17の目標の中には「すべての女性と女の子に対するあらゆる差別をなくす」ことが掲げられています。歴史的背景や文化・伝統による女性に対する差別があったことは事実ですが、その中でも伝統や文化として残しつつ、男女問わず平等と判断されないものは改善し、時代に合った変化が必要であると感じます。ジェンダー平等を実現するためには、一人ひとり差別があった歴史や背景を理解し、今後はよりよい社会にしていくために何をすべきなのか考え、行動に移すことが重要になってきます。
日本の象徴とされる富士山も、一昔前までは女性が入ることができなかったなんて驚きですね。歴史を振り返ると、改めて現代では女性が制限されずに当たり前のように行動できるようになったのだと、時代の進化を感じます。
今回は女人禁制について触れましたが、女性の権利や機会が制限されていた伝統・文化がある一方で、果たしてこの女人禁制は今後絶対に変えなければならないことなのでしょうか。例えば、今でも残る文化の中には、女性が土俵へ上げることを禁止している「相撲」や、女性が立ち入ることを禁止し世界遺産に登録されている「沖ノ島」などが存在しています。これを単純に「女性差別」として捉えるのではなく「伝統や文化」として受け継ぎ、伝統故の良さを感じる人も少なくはありません。
2030年までの目標達成に向けて日々進化する時代の良さもあれば、歴史的背景を元に昔ながらの伝統や文化を守ることの良さもある中で、現代の私たちにとって「一番いい形」の進化をこれからも考えていきたいですね。
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ウィキペディア
女人禁制(にょにんきんせい、にょにんきんぜい)とは、日本において、女性であることを理由に、寺院や霊場等の特定の場所への女性の立ち入りや、お参りや修行、仕事等への参加を禁止する風習、習俗[8][3]。また、その制度や地域のこと。
概要
女性であることを理由に、特定の場所への女性の立ち入りを禁止するもので、特に、聖域(社寺、霊場、祭場など)への女性の立ち入りを禁止する風習がみられる。この意味で隔絶された区域(結界)を女人結界(にょにんけっかい)といい、「女人禁制」と同義で用いられる。
宗教以外での、女性の立ち入りや参加、参入などを禁ずる社会慣習も指し、漁業や狩猟など伝統的に男性が担ってきた仕事や、女性が関わると女神が嫉妬して良くない結果となるとされるトンネル工事などでも女人禁制が布かれてきた。神事に関連する相撲や、歌舞伎などの芸能にも見られる。
月経中の女性を不浄とみなし寺社などに一時的に立ち入りを禁じる風習は、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教などにも見られるが、常に女性の立ち入りを禁止するものではない。日本仏教の女性差別・女性排除はインド仏教から引き継いでいるとはいえ、女性そのものを穢れとして聖地や寺社から恒常的に排除する女人禁制は日本仏教独自で、日本で作られた独特のものである。
由来
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神道の血穢による理由
→「月経に関する偏見」も参照
日本で女人禁制が発生した背景として第一に、仏教伝来以前の日本にあった、女性の月経や出産に対する「血の穢れ(血穢)」の観念がある。日本仏教の女性の不浄観は、この血の穢れの観念、神道の穢れ観の影響を受けたと考えられる。しかし、元々神道での扱いは、月経中、出産期間の女性や、こうした「穢れ」に触れた人は一時的に神社参拝や神事に関われないというもので、恒常的なものではなく、日本仏教のような女性性・女性の身体の全面否定ではなかった。
血の穢れは律令の補助法令である『弘仁式』(9世紀前半)で出産に関わる血穢が明文化され、『貞観式』(9世紀後半)で月経に関わる血穢が明文化されており、律令の手本となった古代中国の触穢観等が影響したと考えられている。
仏教の戒律に由来する理由
インドで生まれた仏教には元来、ある場所を結界して、女性の立ち入りを禁止する戒律は存在しない。和僧道元の『正法眼蔵』にも、日本仏教の女人結界を「日本国にひとつのわらひごとあり」と批判している箇所があり、法然や親鸞なども女人結界には批判的であった。
しかし仏教は、世俗を離れ欲望を断つ出家を説き、男性修行者にとって女性(への肉欲)がいかに修行の障りとなるかが強調されており、女性の出家も認められていたが、男性中心性・女性抑圧性があった。出家者の戒律には、性行為の禁止(不淫戒)、自慰行為の禁止(故出精戒)、異性と接触することの禁止(男性の僧侶にとっては触女人戒)、猥褻な言葉を使うことの禁止(麁語戒)、供養として性交を迫ることの禁止(嘆身索供養戒)、異性と二人きりになることを禁止(屏所不定戒)、異性と二人でいる時に関係を疑われる行動することを禁止(露処不定戒)など、性欲を刺激する可能性のある行為に関しては厳しい戒律がある。アジア伝統社会では、女性は「未婚のときは父に従い、結婚した後は夫に従い、夫が死ねば子に従う」という「三従」という3種の忍従が宿命的なものとされ、この社会習慣によって女性は親族男性の保護下・支配下に置かれており、尼僧は親族男性の保護者がいないため、潜在的に「誘惑者」と見られていた。
修験道の修験者は、半僧半俗の修行者であるが、その場合でも、修行中は少なくとも不淫戒を守る必要がある(八斎戒の一つ)。そのため修験道では、男性の修行場から女性を排除したと考えられる。
女人禁制につながる要因として、女性は修行しても仏に成れないため女性は男身を得てから成仏するという女人五障説・変成男子説や、女身は穢れが多くて仏の器ではないという「女身垢穢」「非是法器」(女身非法器説)などの仏教の女性差別的な教えの広まりがある。
道教や密教などの神通力信仰
一説には古代日本においては、主に道教や密教の影響で、僧侶に対し加持祈祷による法力、神通力が期待されていたためとする説もある。僧侶が祈祷に必要な法力を維持するためには、持戒の徹底が必要であると考られていた。
性欲を起こすと仙人が神通力を失う話としては、『今昔物語』にある久米仙人の話が有名である。
中世における神仏習合
上記の仏教と神道、道教などの異なるタブー観が、中世に習合し、山岳の寺院、修験道などを中心として、鎌倉時代頃に今の女人禁制、女人結界のベースとなる観念が成立したものと考えられている。
また、唯識論で説かれた「女人地獄使。能断仏種子。外面似菩薩。内心如夜叉」(『華厳経』を出典とする俗説あり)[要出典]や『法華経』の「又女人身猶有五障」を、その本来の意味や文脈から離れ、「女性は穢れているので成仏できない、救われない」という意味に曲げて解釈し、引用する仏教文献も鎌倉時代頃から増えてくる。(原典にそういう意味はない)
これらをもって、女人禁制は鎌倉仏教の女性観に基づくと説明されることがある。ただし、上記のように法然、道元、日蓮といった鎌倉時代の宗祖達は概ね女人禁制に批判的であり、叡尊は尼戒壇を再興している。
その他に、女人禁制の由来と思われる理由
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また修験道の修行地が、険しい山岳地帯であったためとの見方がある。
古代においては山は魑魅魍魎が住む危険な場所と考えられていた。そのため子供を産む女性は安全のため近づかない、近づいてはならない場所であったとする。そのような場所だからこそ、修験者は異性に煩わされない厳しい修行の場として、山岳を選んだのだといわれている。文明が進んで、山道などが整備されると、信心深い女性が逆に修験者を頼って登山してくるようになり、困った修験者たちが結界石を置いてタブーの範囲を決め、その外側に女人堂を置いて祈祷や説法を行なった。
民俗学者の柳田國男は姥捨山とされた岩木山(青森県)の登山口にも姥石という結界石があることに着目。結界を越えた女性が石に化したという伝説を『妹の力』『比丘尼石』のなかで紹介している。結界石や境界石の向こうは他界(他界#山上他界)であり、宗教者は俗世から離れた一種の他界で修行を積むことによって、この世ならぬ力を獲得すると考えられた。
また、石長比売が女神であったことに代表されるように、古来より日本各地において山そのものが女神であり、嫉妬深いと考えられた地域も多い。女人の入山が禁制されたのは女神の嫉妬を避ける為であるとされる。たとえば『遠野物語』に登場する遠野三山伝説では、早池峰山と六角牛山はそれぞれ3人の女神が住んだ山とされ、長らく女人禁制であった。また熊野三山周辺でも、山は女神で嫉妬深いと考えられているほか、上り子といわれる男たちは松明を掲げて山へ上るが、女たちは闇の中で祈りを捧げて男たちが持ち帰った神火を迎える役割があり、そこには祭事における男女の役割分担の違いがあるとされる。
また別の説では巫女やイタコにみられるように「女性には霊がつきやすい」ため、荒修行が女性には困難であるという説明づけもされることがある。
女人禁制の理由については、上記のような様々な由来や学説が唱えられている。各々の場所には各々の由来が伝えられている。またそれらが歴史的な過程で絡み合い変容していく場合もあり、どれか一つをもって一般論を導き出すことは困難と言える。
祭祀における女人禁制
なお、祭りに女人禁制が取り入れられたのは、男尊女卑が広く浸透したとされる江戸時代ないし明治時代以降のことと考えられ、『古事記』には祭りに女性が参加していた記述が見られる。また古代の日本では、女性は神聖な者で神霊が女性に憑依すると広く信じられており、卑弥呼に代表されるように神を祭る資格の多くは、女性にあると考えられていた。
一例として、日本神道の祖形を留る琉球神道の範疇に属する信仰では、沖縄の女性は「神人(かみんちゅ)」、男性は「海人(うみんちゅ)」とされ、おなり神の関係にあるとされる。現代でも女性が祭祀を取り仕切る観念は都市部以外では特に根強く、墓の手当てや風葬のあった時代には洗骨までもが一家の女性の役割であった。
ノロなどの神職が祭祀を行う御嶽(うたき)では、女人禁制とは逆の男子禁制が敷かれており、現在でも御嶽や拝所(うがんじょ)に祈りを捧げたり祭祀を行うのは厳格に男子禁制である。(ただし、単に拝んだり立ち入りまで禁止されている訳ではない)。
現代に残る「女人禁制」
明治政府
明治5年3月27日(1872年5月4日)、明治政府は、明治五年太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」[22]により、江戸幕府や寺社が仏教の不邪淫戒(五戒の一つ)や儒教の「男女七歳にして席を同じゅうせず」(『礼記』内則)などを根拠として社会の多くの分野で過剰に徹底していた「女人禁制」を、欧米列強に伍していこう(肩を並べよう)としている近代国家には論外の差別(「陋習」)の一つであるとして禁止した。
この結果、「御一新」された「皇国」(明治日本)では、ほとんどの神社仏閣が過剰な「女人禁制」を解除することとなった。関所の廃止とも相俟って、外国人女性を含め女性も日本国内を自由に旅行・観光・参詣できるようになった。
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