🎍43〕─1─朝廷を裏から牛耳る闇の女帝藤原詮子。藤原氏の全盛期の始まりは女性であった。~No.135 

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 日本の歴史や日本の権力・権威は、邪馬台国の呪術女王・卑弥呼最高神の女性神天照大神に通ずる日本人女性が支配し動かしていた。
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 藤原 詮子(ふじわら の せんし/あきこ、応和2年(962年) - 長保3年閏12月22日(1002年2月7日))は、平安時代中期、第64代天皇円融天皇の女御。一条天皇の母(国母)。院号東三条院(ひがしさんじょういん)。
 摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女で、母は摂津守藤原中正の娘時姫。先後して摂関に在職した道隆・道兼・道長、また冷泉天皇女御超子は同母の兄弟。
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 2023年12月3日 MicrosoftStartニュース プレジデントオンライン「歴史の教科書を読んでもわからない…源氏物語に登場する「闇の女帝」が進めたひどく悪辣な計略の中身
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 平安時代とはどんな時代だったのか。神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員の繁田信一さんは「藤原氏は娘を天皇の妃にして、その子を天皇に立てることで皇室との関係を深めた。政治の実権を握るために、天皇をだまして譲位させることもあった」という――。
※本稿は、繁田信一源氏物語のリアル』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
 朝廷を裏から牛耳る闇の女帝
 『源氏物語』の弘徽殿女御(こきでんのにょうご)については、現代の読者の大半が、恐ろしい女性という印象を持っているのではないだろうか。いや、それどころか、彼女を悪い女性と見ている読者も、けっして少なくはないことだろう。
そして、これは、今にはじまったことではない。「古注釈」とも「古注」とも呼ばれる、明治時代以前に成立した数多の『源氏物語』の注釈書においても、弘徽殿女御は、「性なし」と断じられ、「悪后(わるきさき)」と評されてきたのである。古語に言う「性なし」とは、現代語に訳すならば、「性格が悪い」といったところであり、また、「悪后」の意味するところは、字面の通り、「悪い妃」であろう。
 確かに、朱雀帝(すざくてい)の母親(母后)として皇太后となり、「弘徽殿大后」と呼ばれるようになって以降の彼女などは、さながら、朝廷を裏から牛耳る闇の女帝のようであった。弘徽殿大后は、間違いなく、恐ろしい女性であり、ある意味において、悪い女性である。
 例えば、彼女は、賢木巻の終わり、朱雀帝の寵愛する朧月夜(おぼろづきよ)と光源氏との密通が露見したときにも、「このついでに、さるべきことども構へ出でむに、よき便りなり」と、まず何より、この密通の件を口実(「よき便り」)に、かねてより嫌っていた光源氏に制裁を加える(「さるべきことども構へ出でむ」)ことを考える。
 彼女には、愛する女性に裏切られた気の毒な息子を慰めることよりも、積年の恨みを晴らすことの方が、ずっと重要だったのである。
 『源氏物語』では性なし、悪后と叩かれる
 かつて桐壺更衣(きりつぼのこうい)を心底から憎んでいた弘徽殿大后は、桐壺更衣の死後には、桐壺更衣の忘れ形見である光源氏こそを、桐壺更衣の代わりに憎み続けていたのであった。
 もちろん、弘徽殿大后の抱く憎悪は、光源氏にも十分に伝わっていた。朧月夜との密通が露見した後の須磨巻において、彼が自ら都を離れて須磨へと下るのは、他の誰でもない、弘徽殿大后を恐れたからであった。その頃、世間には、「遠く放ち遣すべき定めなども侍るなる」と、いずれ光源氏は罪人として公式に遠方への流罪に処されるだろうとの風聞が流れていたが、光源氏断罪の動きの中心にいるのが弘徽殿大后であることは、光源氏にもよくわかっていたのである。
 こんな弘徽殿大后(弘徽殿女御)は、やはり、恐ろしい女性であろう。が、彼女は、本当に悪い女性だろうか。古くは中世から「性なし」と断じられて「悪后」と評されてきた弘徽殿大后であるが、例えば、彼女が朧月夜との密通の件で光源氏を罰したとして、これは、悪行ではあるまい。
 むしろ、王朝時代の倫理観からすれば、天皇の寵愛する女性に手を出すことこそが悪行であり、したがって、光源氏こそが悪人である。そして、悪人である光源氏が罪人として処罰されるのだとすれば、それは、正義の実現なのではないだろうか。
 そう考えると、弘徽殿大后(弘徽殿女御)は、恐ろしい女性ではあっても、悪い女性ではない。それでも、彼女が「性なし」「悪后」と叩かれ続けてきたのは、要するに、彼女が光源氏の敵だったからであろう。物語の世界では、たとえ主人公こそが真の悪であるとしても、その主人公と敵対する登場人物は、皆、悪として位置付けられてしまうものなのである。
 モデルとなった藤原詮子
 しかし、『源氏物語』の弘徽殿大后(弘徽殿女御)のモデルの一人に比定される東三条院藤原詮子は、間違いなく、現実の王朝時代を生きた本物の「性なし」の「悪后」であった。
 彼女に冠せられる「東三条院」という号は、太上天皇(だいじょうてんのう)(上皇)に准ずる身の准太上天皇としての号であり、「院号」と呼ばれるものである。上皇が「院」と呼ばれることも、それぞれの上皇が「陽成院」「宇多院」といった院号を持つことも、王朝時代以前から通例となっていたから、一条天皇の母親として准太上天皇となった詮子も、「院」と呼ばれたのであり、かつ、院号を奉られたのであった。
 ただし、一条天皇の母親であって、当然のことながら女性であった彼女は、殊更に「女院」と呼ばれ、また、彼女の院号は、特に「女院号」と呼ばれる。また、詮子の女院号が「東三条院」であるのは、彼女の父親の本宅であったことから彼女の里第ともなった邸宅が、世に「東三条殿」と呼ばれていたからに他ならない。
 そして、そんな尊貴な身の東三条院詮子であるが、彼女は、恐ろしい女性であったうえに、とんでもなく「性なし」の、とんでもない「悪后」であった。
 わが子を天皇にするため、花山天皇を出家に追い込む
 なぜなら、彼女は、自身が一刻も早く天皇の母親(母后)になるために、一人の天皇を詐術によって玉座から追い出すという、ひどく悪辣(あくらつ)な陰謀に荷担していたからである。いや、もしかすると、その謀略において、彼女は、単なる共謀者などではなく、首謀者でさえあったかもしれない。
 そもそも、詮子は、右大臣兼家の娘であり、円融天皇の女御であった。そして、彼女は、円融天皇の唯一の皇子である懐仁親王を産む。すると、この皇子は、円融天皇が退位して、花山天皇が即位するや、わずか五歳にして皇太子に立てられることになる。この時点で、詮子は、『源氏物語』の序盤の弘徽殿女御と同様、皇太子(東宮)の母親という立場にあった。
 しかし、花山天皇は、在位三年目で唐突に退位する。それは、最愛の妃を喪った悲しみに耐えきれず、出家の道を選んでの退位であったが、『大鏡』によれば、この電撃的な出家劇・退位劇の裏には、詮子の父親にして皇太子懐仁親王の外祖父(母方の祖父)である右大臣兼家の謀略があったらしい。
 すなわち、幼い新天皇の外祖父として、天皇の大権を代行する摂政の座に着くことを目論む兼家が、一日でも早く外孫の懐仁親王を即位させようと、自らも動き、かつ、その息子をも使って、花山天皇に出家を唆したというのである。
 父・兼家さえも陰謀の手駒にする
 事実、花山天皇が突然の出家によって玉座を下り、懐仁親王がほんの七歳にして一条天皇として即位すると、その外祖父の兼家は、待ち構えていたかの如く、当然のように摂政に就任する。そして、新摂政兼家は、横暴の限りを尽くしつつ、栄華の限りを求め続けていく。兼家が花山天皇の出家・退位で得たものの大きさは、まさに計り知れない。
 だが、実のところ、そんな兼家さえもが、この陰謀においては、単なる手駒の一つに過ぎなかった。剛腕の政治家にして辣腕(らつわん)の謀略家として知られる兼家も、実際には、その娘の詮子の掌中において、いいように転がされているだけだったのである。
 考えてもみてほしい。右の陰謀で最も得をしたのは、結局のところ、天皇の母親(母后)となって、さらには准太上天皇ともなった、藤原詮子その人なのではないだろうか。
 天皇を宮中から連れ出した計略
 花山天皇が唐突に出家を遂げたのは、寛和二年(九八六)六月二十三日の夜のことである。その夜、花山天皇は、こっそりと宮中を抜け出すと、平安京東郊の東山に位置する元慶寺(花山寺)へと向かい、そこで、髪を下ろして僧侶となったのであった。
 しかし、天皇が秘密裏に内裏および大内裏を出るには、やはり、手引きをする者が必要となる。そして、史書の『扶桑略記』によると、手引き役を務めて花山天皇を宮中から密かに連れ出したのは、蔵人として天皇の側に仕えていた藤原道兼と厳久という僧侶とであった。彼らは、巧みに最も目立たない経路を選んで、みごとに花山天皇を内裏からも大内裏からも脱出させたのである。
 ここに登場する蔵人道兼は、兼家の息子に他ならない。彼は、「私も一緒に出家します」という虚言によって天皇に出家の決意を固めさせておいて、いざ元慶寺に到着すると、「出家する前に、父に最後の挨拶をして参ります」などと言って、さっさと逃げ出したという。おそらく、それらの全ては、兼家より指図された行動であったろう。
 だが、僧侶の厳久は、道兼が逃げ出した後も、花山天皇の傍らにあった。そして、彼こそが、花山天皇に出家を完遂させるという、最も重要な役割を担ったのであった。
 実行役の僧侶は大出世
 ただ、この厳久については、花山天皇の出家に関わる以前のことは、何もわかっていない。もちろん、そんな身元も不確かな僧侶であるから、花山天皇の出家があった時点では、何かしらの役職に就いてもいなかっただろう。彼をめぐっては、そもそも、どうして宮中に出入りできたのかが不思議なほどである。
 ところが、この厳久は、花山天皇が退位して一条天皇が即位するや、にわかに陽の当たる場所に顔を見せはじめる。
 彼の最初の晴れ舞台は、永延元年(九八七)の五月に摂政兼家が催した大きな仏事であった。『小右記』によれば、厳久は、その仏事において、人々に説法をする講師の役割を与えられたのである。ちなみに、権力者が主催する大きな仏事で講師を務めることは、王朝時代の僧侶たちにとっては、出世の階段に足をかけることと同義であった。
 やがて、長徳元年(九九五)十月、朝廷から権律師に任命された厳久は、ついに高僧の仲間入りをする。そして、藤原行成の日記である『権記』によれば、これは、東三条院詮子の推挙によるものであったらしい。また、厳久は、新たに建立された慈徳寺に別当(責任者)として迎えられることになるが、この慈徳寺は、東三条院詮子が建てた寺院である。
 藤原氏の全盛期はこうして生まれた…
 その後も、長保元年(九九九)に権少僧都に転じた厳久は、同四年には権大僧都へと昇進する。また、それとともに、ずっと慈徳寺別当をも務め続けた厳久であるが、彼の目立った活躍の場は、ほとんど常に、東三条院詮子こそを檀主(だんしゅ)とする慈徳寺での仏事であった。
 かくして、厳久が詮子に従属する身であったことは、疑うべくもあるまい。そして、その厳久こそが、花山天皇の出家をめぐって最も重要な役割を果たしたのであれば、花山天皇を出家させるという謀略は、やはり、東三条院詮子こそが主導したものであったろう。

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 繁田 信一(しげた・しんいち) 歴史学者神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員 1968年、東京都生まれ。東北大学神奈川大学の大学院を経て、現在、神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員、同大学国際日本学部非常勤講師、博士(歴史民俗資料学)。主な著書に『殴り合う貴族たち』(文春学藝ライブラリー)、『陰陽師』(中公新書)、『源氏物語を楽しむための王朝貴族入門』(吉川弘文館)、『下級貴族たちの王朝時代』(新典社)、『知るほど不思議な平安時代 上・下』(教育評論社)などがある。 ----------
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 2013年9月18日 産経新聞「夫婦の日本史 円融天皇藤原詮子 渡部裕明 
 □円融天皇(959~91年) 藤原詮子(961~1001年)
 「愛し合えない」夫婦の深い苦悩
 長徳元(995)年5月11日、一条天皇藤原道長に「内覧(ないらん)」の宣旨(せんじ)を下した。摂関政治全盛期のスタートとなるできごととして知られる。
 決定の背後にいたのは、一条天皇の母、藤原詮子(せんし)であった。関白・藤原兼家の娘で、道長には同母姉にあたる。貞元(じょうげん)3(978)年8月、円融(えんゆう)天皇の女御となり、史上初の女院(にょういん)(東三条院)になった女性である。
 兼家は、詮子を入内させ、皇子を生んでもらって外祖父となり、廟堂のトップの座につくことを狙った。そして、願いは成就した。天元3(980)年6月、詮子はただ一人の皇子(懐仁(やすひと)親王、のちの一条天皇)を生んだのである。
 だが、円融天皇と詮子の仲は、ぎくしゃくしていた。後宮でのライバル、藤原遵子(じゅんし)を皇后に定めるなど、詮子につらくあたったからである。誇り高く、勝ち気な詮子は深く傷つき、懐仁親王を抱え込んで天皇に会わせない逆襲に出た。
 円融天皇が詮子と打ち解けられない別の理由もあった。岳父の兼家である。兼家は権力欲むき出しで、手段を選ばない強引な人物だった。何かにつけ嫌がらせをされるのが、天皇には耐え難かったのである。
 心の通わない夫婦ではあったが、懐仁親王が即位し、詮子は国母となった。発言権は強まり、朝廷の人事などにも口出しするようになった。
 詮子は兄弟の中でも、好き嫌いがあった。8歳上の兄・道隆を嫌い、逆に5歳下の弟、道長をひいきにしたのである。亡き道隆のあとを継いだ嫡男の伊周(これちか)が内大臣だったのを飛び越え、権大納言でしかなかった道長が内覧になれたのは、詮子の働きかけがあったからだった。
 永観2(984)年8月、円融天皇はまだ26歳だったにもかかわらず、甥(おい)の花山(かざん)天皇に譲位した。兼家の嫌がらせに耐えかねての退位だったといわれる。円融上皇は出家し、現在の龍安寺(りょうあんじ)(京都市右京区)があるあたりに円融寺を設け、そこに住んで風雅な生活を送った。
 一方の詮子の晩年は、幸せだったとはいえない。長く手元で育てた一人息子の一条帝だったが、次第に母親を遠ざけるようになったからである。
 「清少納言が『枕草子』で描いた通り、一条天皇は道隆の娘・定子(ていし)を寵愛(ちょうあい)しました。夫から愛されなかった詮子は激しく嫉妬し、定子を嫌った。一条帝としては、そんな母親が疎ましくなったと思います」
 『天皇たちの孤独』(角川選書)で、円融天皇と詮子の関係にスポットを当てた繁田(しげた)信一・神奈川大学講師は話す。
 長保3(1001)年閏(うるう)12月17日、詮子は41歳の生涯を閉じた。知らせはただちに一条天皇にもたらされたが、天皇からは「特に悲しむ言葉はなかった」と、使者の藤原行成(ゆきなり)は日記『権記(ごんき)』に記している。
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 ◎もっと知りたい 円融天皇村上天皇の皇子で、兄・冷泉天皇のあとを受けて即位した。朝廷では藤原氏が力をつけており、その意向に気を使わされた。また15年の在位中は内裏が焼亡し、暴風や流行病が相次ぐなど、多難な時代だった。倉本一宏著『一条天皇』(吉川弘文館)を合わせ読むと、この時代がよく分かる。
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 日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原詮子」の意味・わかりやすい解説
 藤原詮子 ふじわらのせんし
 (961―1001)
 円融(えんゆう)天皇の女御(にょうご)、一条(いちじょう)天皇の母。藤原兼家(かねいえ)の女(むすめ)。母は藤原時姫(ときひめ)。道長の姉。978年(天元1)女御となり、一条天皇即位(986年=寛和2)ののち、同年7月皇太后となった。991年(正暦2)9月、太上天皇に準じて院号を授けられ、東三条院となった。1001年(長保3)10月、四十賀が行われた。同閏(うるう)12月22日別当藤原行成(ゆきなり)の邸で崩御した。
 [山中 裕]
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東三条院」の意味・わかりやすい解説
 東三条院 ひがしさんじょういん
 [生]応和2(962).京都
 [没]長保3(1001).閏12.22. 京都
 円融天皇の女御 (にょうご) 藤原詮子太政大臣兼家の娘。母は藤原時姫。貞元3 (978) 年円融天皇の女御となり,天元3 (980) 年懐仁親王 (のち一条天皇) を産んだ。寛和2 (986) 年一条天皇が即位すると,皇太后の宣下を受けた。正暦2 (991) 年病んで落飾し,太上天皇に準じて東三条院と称した。これが女院号の初めである。陵墓は京都府宇治市の宇治陵。
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 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館TOP大河ドラマ2024 光る君へ「光る君へ」に登場する人物「藤原詮子
 「藤原詮子」(ふじわらのせんし)は、平安時代に栄華を極めた「藤原道長」(ふじわらのみちなが)の姉であり、摂関政治を本格的にした「一条天皇」(いちじょうてんのう)の母親です。弟である藤原道長を非常にかわいがり、藤原道長の娘を一条天皇の妻にするために一役買った結果、「紫式部」(むらさきしきぶ)と「清少納言」(せいしょうなごん)が同時期に中宮(ちゅうぐう:天皇の后)へ仕える状況が生まれました。2024年大河ドラマ「光る君へ」では、「吉田羊」(よしだよう)さんが演じます。
 目次
 藤原詮子の生涯
 藤原詮子の逸話

 藤原詮子の生涯
 藤原詮子
 藤原詮子の生年は962年(応和2年)で、父は中納言(ちゅうなごん)という高官を務めた「藤原兼家」(ふじわらのかねいえ)、母は「藤原時姫」(ふじわらのときひめ)です。
 978年(天元元年)8月に宮中にあがり、「円融天皇」(えんゆうてんのう)の女御(にょうご:中宮の次の位)として入内しました。
 980年(天元3年)、のちに一条天皇となる「懐仁親王」(やすひとしんのう)を出産しますが、まだ子を産んでいない「藤原遵子」(ふじわらのじゅんし)が円融天皇正室に迎えられます。これに怒った藤原兼家は、娘・藤原詮子東三条邸にこもり、「花山天皇」(かざんてんのう)を出家させて、藤原詮子の幼い息子・懐仁親王を即位させるべく画策したのです。
 計画は順調に進み、986年(寛和2年)に花山天皇が退位したため、まだ7歳であった懐仁親王一条天皇として即位。藤原詮子は皇太后となり、父・藤原兼家は摂政の座に就きました。
 991年(正暦2年)に夫である円融天皇崩御すると藤原詮子は出家し、上皇に準じる「東三条院」(ひがしさんじょういん)という立場となります。出家後も政治への干渉を続け、一条天皇の皇后である「藤原定子」(ふじわらのていし)が若くして死去した際には、残された内親王達を養育。
 長く権力の中枢にいた藤原詮子でしたが、1002年(長保3年閏)に病のため40歳でこの世を去りました。
 藤原詮子の逸話
 藤原道長
 藤原詮子は、末の弟である藤原道長を大変かわいがっており、藤原道長を出世させるために、息子の一条天皇へ懇願したと言われています。なかには、一条天皇の寝室を訪ねて泣き落したという説もあるほどです。
 そんな藤原詮子を良く思わない者もおり、特に藤原道長と対立していた「藤原実資」(ふじわらさねすけ)は、自らの日記「小右記」(しょうゆうき)で藤原詮子を批判しています。
 また、当時、一条天皇の皇后・藤原定子藤原道長の兄の娘で、非常に聡明でしたが、藤原詮子藤原道長の娘である「藤原彰子」(ふじわらのしょうし)を一条天皇へ入内させようと画策。藤原詮子の働きかけもあり、藤原道長藤原定子を皇后としたまま藤原彰子中宮とする「一帝二后」(いっていにこう)という制度を実現させます。
 ふたりの皇后に学問を教える女官が必要となったため、清少納言藤原定子に、紫式部藤原彰子に仕えるという状況が生まれたのです。
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🎍19〕─1─百済を滅ぼした唐・新羅連合軍。大化改新。百済を助ける日本。白村江の戦い。百済の滅亡。645年~No.56No.57No.58 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 大陸の仏教、教養、技術など数多くのモノはヒトの移動と共に百済を通じて日本に伝来し、未開の日本の文化や宗教そして社会と国家の発展・進歩に貢献した。
 古代日本は、百済から受けた数多くの恩義に報いる為に、百済王国の滅亡後の亡命者を受け入れ、亡国の民である旧百済人による王国再興戦争への参戦と白村江の戦いへの援軍、百済消滅後の百済人難民を受け入れ、など数多くの事を行っていた。
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 日本は、古代朝鮮から受けた恩・恩義を4万2,000人の古代日本人の血と命で完済していている以上、1000年以上経った現代の韓国や朝鮮から感謝や反省・謝罪を強要される「謂れ無い」。 
 現代の韓国人・朝鮮人は、古代百済人とは別人で、たまたま滅んだ百済王国の土地に住んでいるだけの関係である。
 歴史的事実として、日本は半島人に対して被害者であって加害者ではない。
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 半島人が日本の神様として祀られている神社。
 枚方百済王神社主祭神・百濟王。
 滋賀・鬼室神社、主祭神・鬼室集斯。
 岐阜・新羅神社、祭神・新羅系氏族の祖神。
 埼玉・高麗神社、主祭神高句麗王若光。(後年の高麗王家とは無関係)。
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 日本にとって、百済は韓国・朝鮮とは違って友・友人、親友、そして戦友であり、統一新羅は敵であった。
 統一新羅以降の諸王国は、日本を侵略し虐殺し強奪し強制連行していた。
 親日派知日派は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日派・敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国
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 日本と韓国・朝鮮が教えている、日本と朝鮮半島との関係史はウソが多い。
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 645年(第35代皇極天皇) 蘇我入鹿は、日本の将来を大きく切り開く為には、「国家の開放」「天皇位の開放」が欠かせないとして律令制度を導入するべく開放派を結集した。
 中国型律令制度が正常に機能すれば、皇帝・天皇が誰に代わっても、役人・官僚が政府を運営できる。
 つまり、日本の存続の為に血縁重視の閉鎖的日本人の独占から、中国の様に有能な非日本人にも天皇になる事ができる様に開放しようとしたのである。中国の王道を日本に根付かせる為に、易姓革命を起きやすくするべく、儒教の「放伐」と「禅譲」を導入しようとした。
 大胆にも、天命による「徳」を所有する者として、君臣の別を越えて天皇の位を狙ったのである。
 血筋に関係なく、異姓による王朝の交替である。
 律令制による新しい国を建設する為に、難波宮造営を計画していた。
 中臣鎌足は、権勢を振るう蘇我氏一族を滅ぼして秩序を回復させる為に、荒ぶる神を認めても悪を排除しない惟神(かむながら)の道では不可能として外国の思想である儒教を学んだ。
 中大兄皇子は、日本人天皇による国體を守る為に、律令制導入を目指す入鹿を暗殺した。
 中臣鎌足の真の狙いは権力を握る事で、その為ならば、蘇我馬子同様に如何なる手段もいとわなかった。
 乙巳の変である。
 古人大兄皇子「入鹿が韓人に殺された!胸が張り裂けそうだ!」
 後の藤原氏は、蘇我氏の怨霊の祟りを恐れて、聖徳太子法隆寺に祟る神・鬼として祀った。
 日本の将来を真剣に憂いていた入鹿は、なぜ、自分が、皇極天皇(女帝、帰化系氏族尾張氏の血を引く)の前で謀殺されるのかが理解できず、その罪を問い続けながら憤死した。
 朝廷内での、渡来系開放派勢力は蘇我本家の滅亡と共に後退し、替わって天皇親政派勢力が帰化系氏族の協力を得て実権を握った。
 天皇親政派は、奈良・大和から天皇への忠誠心なき渡来人勢力を追放した。
 同和問題となっている部落民は、既得権を剥奪された朝鮮半島系渡来人の子孫として、その遺伝子に天皇に対する拭いきれない憎悪が埋め込まれている。
 中大兄皇子中臣鎌足は、大化改新を行う。
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 蘇我氏には、蝦夷ー入鹿系の本宗家以外に倉麻呂系など12の同族氏族があった。
 乙巳(いつし)の変で誅殺されたのは蘇我本宗家のみであって、倉麻呂系は天武天皇の御代に「石川」に改姓した。
 石川系蘇我氏は、平安時代に「宗岳(そが)」に再び改姓し、平安末期まで生き延びた。
 日本民族は、家の姓に対する愛着はなく創氏改名を繰り返していた。
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 645年 玄奘三蔵法師は、インドから多くの仏典を持ち帰り漢訳した。
 仏教は、インドで誕生し、大乗仏教が中国と朝鮮を経て日本に渡来した。
 儒教は、仏教を弾圧した為に、極東アジアでは日本以外の大乗仏教は衰退した。
 玄奘は、中国の事を「支那」と読んだ。
 儒教では「中国」と表記するが、仏教では「支那」と表記する。
 中国は、儒教価値観を大事にするがゆえに、仏教価値観を否定して「支那」と言う名称を拒否する。
 日本は、仏教価値観を儒教価値観の上位に置いた為に、「中国」ではなく「支那」と尊敬の念を込めて呼んだ。 
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 646年 大化改新
 『改新の詔』の第一条で、民衆は全て大御宝として天皇の公民と定めた。
 王族や豪族などは、公民を所有する事は許されず、みだりに殺傷する事も禁止された。
 土地も、同様に、公地として個人所有を禁止した。
 公平に国土を治めるという公地公民制の導入によって、百姓と天皇の直接的絆が強化された。
 国體の完成である。
 日本民族は、天皇の大御心・御稜威を戴き、天皇の無私の権威に畏敬の念を抱き、天皇中心の国體を子孫に託した。
 故に、何時の時代でも、日本民族天皇を中心とした国體を守る為に戦った。
 斉明天皇は、蘇我入鹿の怨霊・鬼に苦しめられ体調を崩した。
 この後。天皇の即位は、有力豪族達による合議制ではなく、天皇自ら指名する様になった。
 蘇我入鹿の怨霊を、入鹿神社や宗我坐宗我都比古神社(入鹿宮)に祟る神として祀った。
 宗教的日本人は、自分を呪い祟る怨霊を神として神社に祀った。 
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 野心が強い中臣鎌足は、後ろ盾を持たない有能な若者が表舞台に出られる様にするべく、有力古代豪族を排除しようとした。
 有力古代豪族は、皇室と同等かそれ以上の血筋と富と武力を持ち、表面的には忠誠を誓って臣下の礼をとっていたが、本心からかどうかは不明であった。
 日本天皇を中華皇帝に倣って専制化し、手足として使える官吏を揃える為に科挙を導入しようとした。
 有力古代豪族は、天皇を絶対権力を持つ中国皇帝の様な専制君主にする事に抵抗し、官吏登用試験である科挙に反対した。
 鎌足の子孫は、日本を中国化する事に反対して、天皇を政治の蚊帳の外に置き、血族を根拠として官吏を独占した。
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 中央政権は、飛騨の優れた木工の匠を都の造営に使うかわりに、租庸調の庸調を免ずる制度を作った。
 飛騨は、これ以降の平城京平安京の造営さらに寺社仏閣の建設に多くの職人を送り出していた。
 『万葉集』「かにかくに物に思はじ飛騨匠 打つ墨縄の只一道に」
 日本は、日本神話の時代から、中国や朝鮮とは違って優れた職人を大事にしていた。
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 647年 親唐派の第36代孝徳天皇は、難波に都を遷都し、唐の優れた文物風習を積極的に取り入れて日本の習慣を大陸的に改革しようとした。
 遷都は、東アジアの動乱に積極的に関与する為ではなかった。
 民族派中大兄皇子らは、大陸の価値観を無条件に取り入れると唐の属国になると警戒して、都を飛鳥京に戻した。
 中臣鎌足中大兄皇子らは、蘇我倉山田石川麻呂らを意に従わない重臣らを家族諸共に殺害した。
 改革派の蘇我氏弾圧を繰り返すうちに蘇我入鹿の祟りお恐れ、怨霊を鎮めるために神として祀った。
 孝徳天皇は、難波京に取り残され、命令に従う者もなく、日本の中国化という大改造計画は失敗した。
 新羅の貴族会議で、毗曇(ビダム)は善徳女王の廃位を提案したが、金庾信は反対した。
 毗曇は、賛成する上級貴族ら糾合して叛乱を起こした。
 金庾信は、上流貴族支配に不満を持つ下級貴族を集めて攻撃し、反乱軍を破って毗曇を捕らえた。
 善徳女王は、王位を守ったが間もなく死亡した。
 真徳女王が、中継ぎとして第28代の新羅王に即位したが、実見は金庾信が持ちその傀儡でしかなかった。
 金庾信は、毗曇を処刑して王権の強化に反対する上級貴族をに威圧をかけ、律令制度導入を避けた。
 百済は、新羅国内の混乱に付け込んで攻撃した。
 金春秋(後の第29武烈王)は、百済を牽制する為に日本と高句麗を歴訪して唐に向かった。
 金庾信は、女王ではなく男王を擁立すべく、金春秋に接近した。
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 648年 唐は高句麗を征服する為に、新羅百済を滅ぼす為に、唐と新羅両国は軍事同盟を結んだ。
 日本には、唐や百済から帰国した僧侶や留学生によって大陸や半島の戦乱状況がもたらされていた。
 東アジア世界を征服しようとしている唐は、逃げ場がない日本にとって脅威であった。
 日本は、百済から最先端の技術と高度な文化を安心して輸入できる唯一の友好国であり、大陸からの脅威を阻む事ができる軍事拠点であった。
 百済にとっても、唐・新羅連合国から祖国を守る為に、日本は最重要な同盟国であた。
 朝鮮半島は、分裂していた。
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 649年 高宗は、唐の第三代目皇帝に即位し、領土を拡大する為に軍事力を拡大し、侵略戦争を起こした。従う者は温情持って属領民・奴隷として助けたが、従わない者は女子供に関係なく皆殺しにした。中国が掲げる「徳化」には、「徳」も「道徳」もない。占領地でおこなった「同化・中国化」とは、「民族浄化」の事であった。
 東アジア世界は、中国の軍備増強による膨張政策で、悲惨な戦乱に包まれた。中国人の制限のない個人欲で、多くの国が攻め滅ぼされ、多くの人間が猟奇的に大虐殺された。
 武照は、先帝の後宮の女として出家するはずであったが、高宗をたぶらかして後宮の5番の地位を得て還俗した。
 後宮に入った武照は、世継ぎの男子と女児を産んだが、皇后になる為に女児を殺害しその罪を王皇后に擦る付けて虐殺した。
 皇后となった武照は、高宗の寵愛を受けて女官や邪魔になりそうな女官を虐殺した。
 武照は、中国史上唯一の女帝となった則天武后である。そして、残虐非道を行った事でも有名である。
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 唐゠中国が、アジア全体を征服するのに日本の万世一系男系天皇(直系長子相続)は目障りであり、世界的華夷秩序を打ち立てる為には万世一系男系天皇(直系長子相続)は滅ぼさねばならない敵であった。
 中華皇帝と万世一系男系天皇(直系長子相続)は、並び立たない不倶戴天の敵であった。
 中華皇帝を受け入れる者は、万世一系男系天皇(直系長子相続)を滅ぼそうと躍起になっていた。
 朝鮮の諸王家は、世界的な中国の中華皇帝か、辺境にある日本の万世一系男系天皇(直系長子相続)かの、何れかに臣下の礼をとる事でしか存続できなくなっていた。
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 654年 金春秋は、新羅の第29代武烈王として即位(〜661年)した。
 656年 第37代斉明天皇女性天皇皇極天皇重祚)は、高句麗帰化人に八坂造の姓と山城国に土地を与えた。
 八坂氏は、祖先神・氏神スサノオ尊と仏教の守護神・牛頭天王を祀る八坂神社を造営した。869年に疫病が流行し、それを鎮める為に御霊会に習って祭礼を行った。今に伝わる、祇園祭である。
 658年 ヤマト王権の将軍・阿倍比羅夫は、高句麗hrの新たな道を切り開く為に、船団を率いて日本海を北上し、北海道・東北地方に広がる擦文文化の蝦夷接触した。彼らは、渡島蝦夷と呼ばれていた。
 阿倍比羅夫は、渡島蝦夷と交易する為に、北海道余市に政所を設置した。
 659年 斉明天皇は、唐との対等の関係を望んで遣唐使を送った。
 唐は、アジアの支配者として朝鮮半島と日本列島の併呑の意思を固めていた。
 高句麗征服に手を焼き、新羅と同盟を結んで、日本と同盟関係にある百済征服に戦略方針を転換した。
 唐軍の百済出兵情報が、日本側に漏れて軍事介入して来る事を恐れて、遣唐使を2年間軟禁して帰国させなかった。
 「来年に海東の政(軍事行動)がある」
 唐・中国は、何時の時代でも、日本との対等関係を認めず、日本を属国として支配する強い意志を持っていた。
 だが、大和朝廷がもっている軍事力に脅威を抱き、日本軍の百済援軍を警戒した。
 高句麗は、唐の侵略を食い止める為の国力を付けるべく、百済と連合して隣接する新羅を攻めた。
 新羅は、唐と攻守同盟を結び、唐軍の援軍を得て高句麗百済連合軍を撃退した。
 唐は、新羅に対して、助けた見返りとして高句麗侵攻への参戦を求めた。
 高句麗は、唐・新羅連合軍を撃破して国土を守った。
 新羅の武烈王は、朝鮮統一の為に唐の軍事力を利用し、百済人内通者の手引きで百済領に攻め込んだ。
 百済は、日本の軍事支援がなくとも唐・新羅連合軍を撃破できると過信して油断し、海岸線の守備を怠った。
 済州島は、耽羅(タムラ)と呼ばれ百済に属していたが、朝鮮半島から離れていた為に文化度の低い島として化外の地として差別されていた。
 耽羅は、独立国として百済倭国使節を送っていた。
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 中国の伝統的謀略は、「遠国と同盟して近国を攻撃する」と「利を持って敵の内部に内通者・親中国派を作って団結を突き崩す」であった。
 660年 唐の左衛将軍蘇定方は、13万人の大軍を率い、大軍船団で黄海を渡海して百済を強襲した。
 金海金氏の金庚信は、唐軍の侵略に遭わせて新羅兵5万人を率いて百済に侵攻した。
 海は、防衛の為に何ら威力を発揮しなかった。
 百済王宮では、唐・新羅連合軍の侵攻にどう防衛するかで意見が分裂して結論が出せず大混乱した。
 百済主力軍は、宮廷内の防衛戦略が決まらなかった為に敗走した。
 百済の階伯(ケベク)将軍は、妻子を殺害し、5,000人に手勢で、5万人の唐・新羅連合軍に立ち向かうが、10日間の激闘の末に全滅した。
 「昔、越の勾践は、5,000の兵で呉の70万大軍を破った。ひるむな、恐れるな。今こそ勝ちを決して、国に報いる時が来た!」
 各地の百済軍も防戦するが、統一性を欠き大敗した。
 唐・百済連合軍は、勝ちに乗じ、無人の野を進撃するようにして都・泗芡城に攻め込んだ。
 百済義慈王と考王太子は、王族や家臣や領民を見捨てて、僅かな家臣を連れて泗芡城を抜け出して逃亡した。
唐・新羅連合軍は、泗芡城を陥落させ、虐殺を行った。
 泰、隆、演ら王子らは降伏した。
 百済王族や遺臣は、新羅軍の追求を逃れて日本に逃げた。
 3,000人の宮女は、敵兵に陵辱され惨めに生きるよりは死を選び、白馬江に身を投げて死んだ。
 唐は、戦勝者の権利として、捕らえた義慈王と考王太子、泰、隆、演ら王子ら王族、大臣・将軍88人、領民1万2,807人を、長安に強制連行した。
 蘇定方は、百済を攻め滅ぼした戦勝記念碑として平済塔を立てた。屈辱的な平済塔は、宝物として現在も保存されている。
 東アジアでは、攻め滅ぼした相手国の一部の領民を戦利品として強制連行し、男は奴隷とし、女は慰安婦にする事は常識とされた。
 占領地で強制連行と虐殺を行わない者は、戦闘に勝っても勝者とは認められなかった。 それが、中国を中心とした東アジア史であった。
 ゆえに、「力こそ正義」とする大陸では、住民を守る為に城塞都市が常識であった。
 そして、命令一つで都市住民を意のままに動し、外敵を打ち負して都市を守る、強力なリーダーシップを持った指導者を必要とした。
 都市住民は、人間性に癖があろうとも指導者の命令に従って、都市防衛の為に一糸乱れずに行動した。自分勝手に命令に従わない者や協力して戦おうとしない者は、都市を危険に晒す恐れがあるとして、殺害するか、追放した。
 戦争を嫌う人の良い指導者を選んだ城塞都市は、外敵に侵略されて滅亡し、住民は無慈悲に虐殺され、生き残った者は奴隷として売られた。
 侵略者を殺す事を嫌う人の好い者は、侵略者によって殺されて全てを失った。武器を捨てて生き残った気弱な者は、奴隷として売られて、扱き使われた末に薄汚れた小屋の片隅で惨めに死亡した。
 百済は、中国人と新羅人によって、虐殺と略奪で阿鼻叫喚の地獄と化した。
 日本は、目の前に忽然と姿を現した唐・新羅連合国に危機意識を高め、今にも侵略して来るかもしれない巨大な軍事力に恐怖した。
 当時の日本は、646年に発した改新の詔で律令による新たな国家造りを目指す改革派と、唐の真似をした改革に反対する守旧派が激しく対立していた。
 劣勢に立たされていた改革派は、国内の分裂を改革で再統一する為に対外的危機感を煽り、百済支援という名目で一か八かの対外戦争に打って出た。
 日本は、唐軍による大軍船の渡海奇襲戦法に恐怖した。
 高句麗は、唐と新羅に包囲され孤立した為に、残党を集めて抗戦を続ける百済の将軍鬼室福信を支援した。同時に、唐への警戒心を強めた友好国日本に支援を要請した。
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 1月6日 斉明天皇は、300年来の友好国である親日派百済王国を再興するべく、新羅・唐連合軍に対して抵抗を続ける遺臣を助けるべく援軍を起こる事を決断した。
 朝鮮に於ける親日派勢力を助け半島の権益を守るべく、子供の中大兄皇子大海人皇子ら皇族・貴族・文武百官を伴い、軍隊を引き連れて九州に出陣した。
 斉明女帝は、唐と新羅の容赦なき残虐行為に恐怖し、唐の侵略を食い止める為に高句麗との攻守同盟を受け入れた。
 日本は、朝鮮半島での優位性を復活させるという政治的理由以上に、信義を貫く人間として、理と義と情を通す道義心と義侠心から、嘘を付き騙し裏切りを繰り返す新羅に正義の鉄槌をくだす為に軍事介入した。
 何時の時代でも、日本の戦争は、小国で無勢であっただけに、自衛戦争であった。
 唐は、日本が本格的参戦をする前に高句麗を滅ぼすべく、新羅と共に高句麗の首都・平壌を攻めた。
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 日本は、鉄材を倭人が多く住んでいた伽耶加羅)と同盟国百済から輸入していた。
 伽耶に続いて百済を失う事は、農耕道具や武器の生産に必要な鉄が輸入できなくなる事を意味していた。
 資源のない日本は、中華帝国・唐の侵略から祖国を守る為には、唯一の鉄資源入手先である朝鮮半島南部を確保する必要があった。
 百済出兵は、対唐戦略として、防波堤としての親日国家百済再興と軍備強化に必要な鉄資源の確保という二つの目的があった。
 日本は、宿命として、建国以来、生き残る為の選択肢は限られていたし、手を取り合って共に歩いてくれる親日的な友人・同盟国は少なかった。
 地理的に、日本は古代から反日的勢力に囲まれた孤独な状態にあった。
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 661年 百済の将軍・鬼室福信(鬼室神社)は、ゲリラ戦で新羅軍を苦しめていたが百済王室再興の大義を得る為に、日本に人質として差し出していた豊璋王子の帰還と倭国の軍事支援を懇願した。
 斉明天皇の詔「危うきを助け、絶えた者を継ぐべき事は当然のことである。いま百済国が窮して、我に頼って来たのは、本の国が滅んでしまって、依る所も告げる所もないからである。臥薪嘗胆しても必ず救いをと、遠くから申してきている。その志は見捨てられない。将軍達にそれぞれ命じて、八方から共に進むべきである。雲の様に集い雷の様に動いて、共に沙喙(サタク)に集まれば、そのさし迫った苦しみを緩めてやれよう。役人達は王子の為に充分備えを与え、礼をもって送り遣わす様に」
 斉明天皇は、日本の人質となっていた百済の豊璋王子(扶余豊璋)に織冠を授け、5,000人の軍隊を与えて帰還させた。
 豊璋王子は、長く人質として日本に留まっていた為に、日本語を話せても百済語を話せなかった、そして文人であって政治にも軍事にも興味はなかった。
 有名な逸話は、三輪山の麓で日本最初の養蜂を行った事である。 
 百済残党軍は、日本軍の支援を受けて百済領内から新羅軍を追い出して失地を回復した。
 新王である豊璋王子は、百済残党軍を指揮して周流山城に入城したが、不自由な山城を嫌って平地に都を遷した。
 新羅軍は、百済の新都を強襲した。
 扶余豊王は、破れて周流山城に逃げ込んだ。
 百済援軍として朝鮮に渡っていた日本軍も、新羅軍の攻撃で敗走した。
 7月24日 斉明天皇は、九州・朝倉宮で崩御した。
 中大兄皇子は、斉明天皇百済王国再興という意志を継ぎ、ヤマトの豪族達の反対を押し切りさらなる派遣を決定した。
 反対派の豪族らは、大海人皇子蘇我氏を中心にしてヤマトを動かなかった。
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 662年 中大兄皇子は、豊璋王子を百済王に即位させ、鬼室福信(鬼室神社)に爵位と禄物などを授けた。
 百済王国は、日本の対等の友好国から完全なる臣下として保護国となった。
 唐は、「夷を以て夷を制す」の伝統戦略から、捕虜とした扶余隆王子に大艦隊と大兵力を与えて討伐を命じた。
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 現代の韓国史で、日本軍の悪逆な朝鮮侵略と言われる白村江の戦いである。
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 大和朝廷は、総人口約500万人から4万2,000人を百済の救援に派兵した。
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 663年 羅唐同盟。唐は、朝鮮半島を領土にするべく新羅と軍事同盟を結んだ。
 新羅は、朝鮮半島を武力統一する為に唐の軍事力を利用する為に同盟に賛成した。
 新羅・唐連合軍は、百済人を日本に逃がさない為に軍船などの大型船の多くを焼き、逃げ遅れた百済王朝の偉人や賢人を捕らえて連行した。
 百済は、大陸的国家として、日本や中国までの遠洋航海に耐える大型船を多く所有せず、大半が近海で漁をする数人乗りの小舟であった。
 百済人難民達は、強風で転覆する木の葉の様な小舟で、日本の遣隋使船や遣唐使船が多く難破した荒海を渡って日本に逃げた。
 その数は、数十万人と言われている。
 日本は、親日派百済王家の滅亡によって、朝鮮での拠点を失い、唐による日本侵略の恐れに恐怖した。
 中大兄皇子は、日本の安全を確保する為に、本格的な軍事介入する事を決定した。
 上野毛稚子は、1,000隻の大船団と2万7,000人の軍を率いて半島に上陸し、鬼室福信の百済残党軍と合流した。
 日本軍と百済残党軍は、緒戦では新羅・唐連合軍を各地で撃破し、新羅の城二つを攻略した。
 百済残党軍は、日本軍の軍事支援で破竹の進撃を続けて百済旧領の回復を目の前にしていた。
 鬼室福信は、扶余豊王の無能さに嫌悪し軽んじた。
 扶余豊王は、地元で人気があり軍略の才があるある鬼室福信を妬んだ。
 日本から帰国した百済人高官は、王国再興よりも権力闘争に走った。
 百済は、内紛を繰り返し、滅亡の坂を転げ落ちていった。
 扶余豊王は、鬼室福信を「謀反を企てている」という虚偽を利用して謀殺し、その首を塩漬けにして晒し、憎悪ゆえにその肉を食べた。
 東アジアには、人の肉を食べる習慣があった。
 百済残党軍は、鬼室福信の優れた軍略で善戦していたが、主将を失った敗走し始めた。
 百済王族や遺臣は、扶余豊王の横暴さに反発して内紛を起こし、百済残党軍は指揮系統を失って崩壊した。
 半島は、古代から、嫉妬深い性格を持ち、自己中的に絶えず内紛を繰り返していた。
 白村江の大敗。
 頭の艦隊を指揮したのは、元百済王族の扶余輶であった。
 日本水軍が「白村江の戦い」で新羅・唐連合軍に大敗して、百済再興の夢は潰えた。
 日本艦隊の被害は、『日本書紀』によると170隻、『三国史記』では400隻であった。
 多くの日本人兵士達は、親日派百済の為に戦死した。
 日本の海外戦における最初の大敗北であった。
 扶余豊王は、船で高句麗に逃げ、百済は完全に滅亡した。
 百済王家は、内部の権力闘争で崩壊した。
 歴史的事実として、如何なる国も内部から滅亡した。
 日本は、朝鮮の利権を失い、半島から追放された。
 生き残った日本軍敗残部隊は、全羅南道に集結し、日本への亡命を希望する数万人の百済人を護衛して帰国した。
 唐の蘇定方将軍は、百済を滅ぼし、百済を平らげた戦勝記念碑として定林寺に平済塔(ピョンチェタプ)を建立した。
 日本が助けようとした親日派百済王国の遺跡群は、世界遺産百済関連遺跡に認定された。
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 夜久正雄「7世紀の日本が情誼にもとづいて百済を援けた白村江の戦は、不幸、敗れはしたが、筋を通した義戦だった」「その結果、日本の独立は承認され、新羅も唐と戦って半島の独立をかちとるに至った」(『白村江の戦』) 
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 朝鮮に於ける親日派勢力は、高句麗のみとなった。
 亡国の民となった百済の知識人の多くが、日本の保護を求めて亡命した。
 反日勢力は、唐の軍事支援を得て半島を統一した。
 新羅は、唐の要請に従って日本征討軍を受け入れ、日本侵攻に参加する為に臨戦態勢に入った。
 礼節を知る百済の民は、人を騙し嘘を平気でつき約束を守らない新羅の謀略性を嫌って、大挙して日本へ逃亡した。
 中大兄皇子は、新羅とは交戦状態にあるとして、正式に国交を断絶した。
 日本は、自己の利益・金儲けの為に中国の走狗と化して陰謀をめぐらす新羅を信用しなかった。だが、国内には、国外の反日勢力に協力する反天皇派勢力が存在していた。
 古代日本と友好関係にあったのは、大国唐の属国となった新羅(中国氏名)に滅ぼされた、地方王朝であるの百済(古代朝鮮氏名)と高句麗ツングース系)であった。
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 地域差別及び出身地差別の誕生。
 反日新羅があった半島南東部の慶尚道は、親日百済があった半島南西端の全羅道を差別した。
 慶尚道全羅道の対立は、現代に於いても続いている。
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 百済語は、敗者の言葉として日本に伝えられて朝鮮半島から消えた。
 朝鮮語の元となったのは、勝者の言葉である新羅語であった。
 村を、日本語では「ムラ」と呼ぶが、百済語では「スク」あるいは「スキ」と呼び、韓国語では「マウル」と呼ぶ。
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 2015年 歴史通 3月号増刊「中国問題 丸わかり!
 宮脇淳子『少数問題「絶滅」を企む中国の漢化政策
 少数民族問題に限りませんが、日本人は決して中国に手を差し伸べるべきではありません。いかに巻き込まれないようにするかしか考えてはいけません。文化大革命天安門事件の後始末に中国が困窮しているときだって、日本が援助したから現在のようなありさまになったのです。あのよき見捨てるべきでした。シナ大陸にへたな手出しをしては絶対にいけない。それは663年の『白村江の戦い』後の危機に始まる。日本建国以来の歴史の教訓なのです」
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 2016年11月28日 産経ニュース「大宰府防衛の土塁か 7世紀に500メートル以上…「白村江の戦い」に敗れ強化 福岡
 発見された土塁(奥)の断面の前で説明する筑紫野市教委の担当者(中央)=28日午前、福岡県筑紫野市
 福岡県筑紫野市の前畑遺跡で、古代の大宰府を防衛した外郭線とみられる7世紀ごろの土塁が見つかり、市教育委員会が28日発表した。丘陵の尾根に人工的に盛り土し、南北に500メートル以上続いていたとみられる。日本は西暦663年の「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍に敗れたことをきっかけに九州の防衛を強化しており、当時の緊迫した状況がうかがえる。
 12月3日から現地説明会
 土塁は、大宰府の中核だった政庁跡から南東に約7キロの地点で出土した。上下2段の台形状で、上端は幅約1・5メートル、下端は幅約13・5メートル。盛り土部分は、砂や粘土を層状に突き固めた版築工法を用いて頑丈に造られ、最大で高さ約1・5メートルが現存していた。土塁は東側が急斜面になっていて、東から侵入してくる敵への防備を固めたとみられる。
 白村江の戦いで日本は百済を救援するために朝鮮半島に出兵したが、唐・新羅の連合軍に大敗した。これ以降、大陸に対して国防の要所となる大宰府周辺に土塁などを用いた防衛施設「水城」や古代山城「大野城」を築いて侵攻に備えた。今回の土塁もこうした一連の防御施設だったようだ。
 市教委は、古代都市を囲んだ城壁「羅城」の可能性もあるとしている。羅城は中国や朝鮮半島に見られ、日本書紀には679年「難波に羅城を築く」との記述があるが、国内では見つかっていない。
 大宰府は、古代の律令政府が九州に置いた出先機関で、九州全域の民政や軍事のほか、外交を担った。
 一般向けの現地説明会は12月3〜4日の午前10時〜正午、午後2〜4時。小雨決行。」
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 664年 唐は、日本侵攻を前にして、日本に軍事威圧・外圧をかけて降伏させるべく使者と兵2,800人を満載した大軍船団を派遣した。
 日本は、主兵力を失っていたが、武力を背景とした外圧で屈服させ様とする傲慢さに反発して、使者の入京を拒絶して追い返した。
 日本は、唐が日本侵略の為に大部隊を大陸や半島の海岸線に集結させているとの情報をえ、最後の一人になっても徹底抗戦するべく各地に山城を築き、都を大津に移した。
 日本は、傲岸不遜で相手を見下して奴隷の如くあしらう中国を信用せず、話し合いによる和平の道を選ばなかった。
 当時の日本人は、戦えば負け、多くの犠牲者を出す事は分かっていた。
 無益な戦争と分かっていたが、生きる為とはいえ、戦わずして亡国となり、敵を殺さずに奴隷となる事を、古代の日本人は拒絶した。
 日本人は、国家と天皇を守る為の戦争を放棄した事はなかった。
 列島は、大陸がいつ半島を経由して侵略して来るかに怯え、警戒を強化した。
 中国・朝鮮は、対日戦略を軍隊による侵攻作戦から内部から崩壊させる謀略工作に変更した。
 反天皇の古代豪族と反日の渡来人勢力は、日本の主権を犠牲にし、日本領土の一部を放棄しても、天皇勢力を滅ぼす為ならば外国勢力と手を組もうとしていた。
 何時の時代でも、日本と天皇は国内外に敵を抱えていた為に、国を閉ざし、交流を制限した。
 中大兄皇子は、白村江の敗戦にともない唐・新羅連合軍の侵略の危険が増した為に、国内を臨戦態勢で固める必要に迫られて「甲子の宣」を発した。
 大陸勢力の侵略を好機として、反ヤマト王権の地方有力豪族が叛乱を起こす事を防ぐ為に氏族統制を強化した。
 中大兄皇子は、唐・新羅連合軍の侵略に備えて、半島から逃げてきた百済人技術者の協力を得て各地に山城や水城を築城し、国土防衛の為に九州や対馬に防人を配置した。
 侵略軍に備えて、対馬壱岐・筑紫に防人を配置し烽火台を増やした。
 祖国防衛として、筑紫に水城(大堤)と難波までの各地に山城を築いた。
 さらに。筑紫に、高さ13メートル、上部の幅約20メートル・下部の幅約80メートル、長さ1.2キロにわたる大堤を築き、水を蓄えた「水城」を築いた。
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 唐軍は、日本侵略の為に軍隊と軍船を用意したが、親日派高句麗の反乱と突厥の侵攻で日本遠征を中止した。
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 665年 日本は、唐と和睦したが、けっして唐・中国を信用せず、唐・中国の侵略に備えるべく軍事力強化に力を入れた。そして、国内整備に取り組んだ。古代日本人の国防意識は、現実を正しく見詰めていただけに強烈であった。
 歴代の天皇は、日本と皇室を守る為なら、大陸との戦争も辞さなかった。
 中大兄皇子は、百済亡命者の協力を得て筑紫の大野に総延長8キロに及ぶ朝鮮式山城を築き、畿内までの各地に同じ山城を築城した。
 大和王朝は、大陸及び半島からの侵略に備えるという国防最優先政策で、強権を以て難航の大土木工事を短期間で完成させた。
 百済人難民2,000人以上が、帰化人として東国に移住した。
 これ以降。朝鮮人避難民が、海を越えて日本に逃げ込んできた。
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 冷静な教養ある百済人にとって、日本は唯一の避難場所であった。
 日本は、彼らを助けた。
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 12月 中臣鎌足の長子定恵は、唐から帰国するが、反唐派百済人によって毒殺された。
 日本国内は、反唐派と親唐派に分かれて主導権争いを繰り広げていた。
 朝廷内では、建前として徹底抗戦を唱えていたが、本音では唐との和平を望んでいた。
 守旧派も、敗戦した事で律令による改革の重要性を認めた。
 日本は、唐に対抗する為に独自の冊法体制を打ち立て、中国を隣国とし、国外の新羅渤海国や国内の隼人、蝦夷などを外蕃・蕃国と呼んで下位国と見下した。
 それが、日本版中華思想による日本中心の華夷秩序である。
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 百済高句麗系の両系帰化人の貢献がなければ未開国家日本に文明・文化は生まれなかった。
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 百済人難民は、日本に逃げてきても百済語は日本国語に類似していた為に言葉で困る事はなかった、そして百済人が帰化すると百済語も消えた。
 日本人が百済人の子孫ではなく、百済人が縄文人の子孫であった。
 そして、日本国語が百済語の類似言語ではなく、百済語が日本国語の類似言語であった。
 日本への大量移住者は、百済人と高句麗人が最後であった。
 日本は、大陸や半島から隔絶し、異民族と直接触れ合う事がなくなった。
 それは、異民族がもたらす悲劇・悲惨という運命が避けられたという幸運であった。 
   ・   ・   ・   
 朝鮮人帰化人の増大で、百済高句麗の半島回帰への怨念が日本列島に染みつく。
 日本による半島への侵攻は、古代からの運命である。
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 渡来人は、日本を東アジア化する為に、中国の常識である儒教放伐文化を根付かせようとした。尊皇心なき渡来人の狙いは、血統を絶やし、皇統を断絶させ、国體を破壊する事であった。その為に、非皇族系日本人や朝鮮人や中国人を天皇に即位させ、日本の正統な統治者にしようとした。
 渡来人にとって、天皇・皇室は、自分達の利益を得る為の単なる道具に過ぎなかった。
 儒教放伐文化とは、「徳」至上主義の価値観による、屍体の大山を築き、血の大池を造る、地獄の様な虐殺文化である。
 神話的天皇制度を否定する日本人は、神道への信仰を持つ日本民族日本人ではなく反宗教無神論の東アジア系日本人であり、「徳」至上主義による儒教放伐文化の信奉者である。
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 半島は、列島への影響力を強める為に、さまざまな破壊工作を続けていた。
 日本に渡来した朝鮮人僧侶の中には、間諜を任務とした偽僧侶が多くが潜んでいた。
 何時の時代でも、洋の東西を問わず何処の国においても、人の道や神仏の理を説く僧侶が、実は他国において間諜や暗殺などの謀略を働く事は珍しくない。
 特に、キリスト教会の宣教師は、世界中で布教活動をすると共に情報活動を行っていた。
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 中国の古代からの各王朝は、帝国の版図を広げる為に周辺諸国を侵略し、近い土地は領土に編入し、遠い地は属国として従えた。従う民は中国の領民として徳化し、従わぬ民は中国の敵として女子供全てを根絶やしにした。
 中国は、古代から領土を拡大する為に、「未開の野蛮人を教化し正道に導く」を大義として侵略戦争を繰り返していた。
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 何故に、唐王朝が日本を攻めて領土もしくは属国にしなかったか、日本が尚武の国で攻めれば甚大な犠牲者を出すからではなく、犠牲者を出してまで手に入れる価値が無いと判断したからである。
 つまり、中華帝国にとって倭国・日本は魅力のない土地に過ぎなかった。
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🎍29〕─3・B─奈良時代に100万人以上が病死した経済を回復させたのが『墾田永年私財法』である。 ~No.92 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 現代の日本人は、歴史が理解できない為に、歴史を鑑にする事ができず、歴史から教訓を導きだし学び参考にして行動に利用できない。
 何故か、エセ保守とリベラル左派は戦前までの天皇と民族の生きた歴史を完全否定し隠蔽して子供達に教えないからである。
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 2023年11月28日 JAPANニュース 歴ブロ歴史の探求者「奈良時代に大流行した感染症天然痘で落ち込んだ経済を回復させたのが『墾田永年私財法』だった!
 令和5年5月8日以降、新型コロナウイルス感染症が第5類感染症に移行されました。
 これまでは第2類に区分され、国主導による緊急事態宣言の発動や医療機関への補助や水際対策などされました。第5に移行され経済活動が本格化し本来の生活を取り戻しつつあります。
 アメリカでは2020年に中低所得者一人当たり約13万円を支給し、イギリスでは3か月間従業員の給料を8割負担するなどの経済対策を打ち出しました。
 日本でも国民一人あたり10万円の給付し、非常事態宣言で自粛した飲食店等に補助金を支給するなどの支援策を出しました。また、深刻化するマスク不足対策の一環として一世帯に布マスクを2枚配布する【アベノマスク】もありました。
 奈良時代に流行した感染症(天然痘)の被害
 人類の歴史上、こうした感染症が流行したのは今回の新型コロナウイルスだけではありません。1980年の収束宣言以前は、天然痘と呼ばれる感染症が人々を苦しめてきました。
 人類と天然痘との戦いは長く紀元前までさかのぼり、死に至る疫病として恐れられていました。日本では、奈良時代(735年~738年)にかけて大流行し、当時の人口の25%の100万人~150万人が死亡したと言われています。
 天然痘に感染すると、発熱や水泡ができるのが特徴で、天然痘ウイルスを病原菌とした感染症は、医療技術の関係もありますが、天然痘の致死率は新型コロナの125倍あるとも。100人中25人が死亡する、歴史上最恐(強)の感染症だった天然痘は、当時の政権を担っていた藤原氏にも襲い掛かりました。
 この時代の政権を担っていた藤原氏とは、藤原鎌足の優秀な孫たちです。
 藤原四兄弟と呼ばれる彼らは政権を握る重要なポストについており、現代でいう所の総理大臣・副総理・官房長官・副官房長官の職を占めていました。そんな彼らが、天然痘によって相次いで倒れ、当時の政権は混乱を極めたそうです。
 聖武天皇による経済対策【墾田永年私財法】
 まさに日本の政治を中枢をも蝕んだ天然痘ですが、そんな状況でも生き残った者たちで日本を動かしていかなくてはいけません。天然痘の大流行によって冷え込んだ経済を立て直すために、当時の政府はある経済対策を講じ、日本を復活させました。
 それが【墾田永年私財法】です。
 歴史の授業で必ずと言っていいほど出てきた重要語句でしたね。ほかにも班田収授法や租庸調などのなつかしい言葉が浮かんできます。
 天然痘流行前は土地の開拓者が亡くなれば中央政府の管理下に置かれることになっていましたが、墾田永年私財法によって開拓した土地を私有化できるようになりました。
開拓すればするほど資産が増える事から、農民たちがせっせと田畑を耕し、町が栄え人口が増えます。人口が増えると、町に商人が集まり活気が出て経済が回るようになりました。
 また、農民たちが積極的に耕作する事によって、年貢も増加し中央政府も安定しました。
 経済政策で武士と呼ばれる新しい職業が誕生!?
 町が潤い栄える事によって、開拓された土地の食糧を狙う強盗が襲うようになりました。
 そこで政府は、町を守るための施設を設置し町の巡回や護衛を行いました。この人たちが武士の始まりだと言われています。
 武士と聞くと領地拡大のために戦を起こすイメージの強いですが、元々はおらが町を守る正義のヒーローだったのです。
 新型コロナ後の社会変化
 世界に比べると、日本では比較的新型コロナウイスは押さえられているように感じます。それも奈良時代より常に清潔な環境で生活し、日々の研究の賜物で医療が著しく発展しているからだと思います。
 天然痘の流行後の経済政策【墾田永年私財法】によって経済が回復し、町を守る武士のような新しい職業が生まれました。
 今回の新型コロナ流行後の各国の経済政策や社会変化で新たな構造がでできつつあります。
 オンラインでの商談や会議、学校の授業などはコロナ禍で登場しました。今となってはテレワークが非日常ではなくなり、医療現場でも無理だと思われたオンライン診療も普及しつつあります。
 敗戦を迎えた日本は、GHQの急激な改革によりこれまでの価値観を大きく変える事を迫られました。その結果、高度経済成長期を経てバブル景気で最高潮を迎えます。そして、失われた〇十年を経て現在にいたるわけですが、今回の新型コロナの件で戦後から築き上げてきた価値観を変える時期に私たちは来たのかもしれません。
 歴ブロ
 歴史の探求者
 歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。
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 墾田永年私財法 - 刀剣ワールド
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 奈良時代中期に発布された「墾田永年私財法」(こんでんえいねんしざいほう)とは、農民が新規で開拓した土地について、永久に所有を許可するという法令です。これが生まれた背景には、「班田収授法」(はんでんしゅうじゅほう)、「三世一身法」(さんぜいっしんのほう)と続く、それまでの土地を巡る法律がことごとく失敗に終わったというできごとがありました。支配者から見れば、農民の耕作意欲を高め、税収も確保できるはずの墾田永年私財法。果たしてその行く末はどうなったのでしょうか。
 目次
・墾田永年私財法の制定に至るまで
・荘園の成立へ
 墾田永年私財法の制定に至るまで
 土地制度の変遷
 墾田永年私財法が誕生する前にも、朝廷は土地にかかわる様々な制度や法律を発しています。例えば645年(大化元年)に起きた「大化の改新」(たいかのかいしん:朝廷を中心とする中央主権国家を目指す政治の一大改革)を機に制定されたのが、「公地公民制」(こうちこうみんせい)。
 これは豪族支配から脱却し、すべての土地と人民は天皇の所有とするという、当時としては画期的な土地制度改革でした。その代わりとして、国が6歳以上の男女に「口分田」(くぶんでん)と呼ばれる田んぼを貸し与えることを定めたのが「班田収授法」。
 貸与期間は1代限りで、死後は国に返却する必要がありました。また、土地で農耕を行う代償として、農民には「租庸調」(そようちょう)という税金や労働義務が課されます。
 しかしこの制度は農民の負担が大き過ぎたため、土地を捨てて逃亡したり、戸籍を偽ったりする者があとを絶たなかったのです。
 公地公民制の崩壊
 聖武天皇
 農民達の士気向上と税収確保のため、朝廷が723年(養老7年)に発令したのが「三世一身法」です。
 この法律では、1代限りで国に返却する必要がある口分田とは別に、新しい用水路を作って土地を開墾した者は3世代先まで、既設の用水を利用して開墾した者には本人1代に限って土地の所有が認められました。
 公地公民制で土地は国の所有物と定義したにもかかわらず、三世一身法によって期間限定とはいえ、民間人でも私有地が持てるようになったのです。しかし、この法律には大きな問題がありました。
 当時の平均寿命からすれば、3世代はあっという間に過ぎてしまい、土地の接収期限が近付くと耕作を放棄する農民が続出。
 そこで、満を持して743年(天平15年)に、第45代「聖武天皇」(しょうむてんのう)の勅命(ちょくめい:天皇の命令)によって発令されたのが「墾田永年私財法」でした。これによって新規開拓した土地は永久使用が公認され、大化の改新以来の公地公民制は事実上崩壊したのです。
 荘園の成立へ
 開墾が進む
 墾田永年私財法
 墾田永年私財法の施行に際しては、新規に開墾された土地を国が把握し、確実に税を徴収するため、いくつかの条件が設けられました。
 まず開墾する前に国へ申請すること。申請許可から3年以内に開墾しなければ、他者に譲ること。そして公衆の妨げになる土地の所有は認めないことなどです。
 法令を守れば開墾した土地は代々自分の物になるため、農民は作業に精を出すようになりました。この、土地の永代使用を認める代わりに課税するという仕組みは、現在の固定資産税によく似ています。
 武士誕生のきっかけに
 墾田永年私財法は短期的には成功したように見えましたが、やがて新たな問題が発生。財力のある貴族や寺社が農民を雇って開墾させたり、開墾した土地を農民から買ったりしてどんどん領地を広げていったのです。
 こうして権力者が囲い込んだ土地は、のちに「荘園」(しょうえん)と呼ばれる有力貴族・寺社の私有地となりました。そして大規模荘園を所有する貴族の力が肥大化し、平安時代に入ると政治の実権を握るまでになっていきます。
 また、権力者同士で土地を奪い合う戦も激増。そこで有力貴族は、荘園の警備を武装した農民に依頼するようになります。この武装農民の集団が武士誕生へとつながり、やがて貴族政権から武家政権へと時代は移り変わっていくのです。
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 墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)は、奈良時代中期の聖武天皇の治世に、天平15年5月27日(743年6月23日)に発布された勅(天皇の名による命令)で、墾田(自分で新しく開墾した耕地)の永年私財化を認める法令である。墾田永世私財法(こんでんえいせいしざいほう)、墾田永世私有法(こんでんえいせいしゆうほう)、墾田永代私有令(こんでんえいたいしゆうれい)ともいう。荘園発生の基礎となった法令である。

 内容
 三世一身法にあった収公期限を廃止して、墾田を永年にわたり私財とすることを可能とした。ただし、下記の制限が定められた。
 新規の開墾地で適用され、既墾地では引き続き班田収授法に準拠する。
 私財とできる面積は位階により10から500町までと定められた。
 国司の許可を必要とする。
 国司の許可から3年内に開墾を完了させる(3年内に着手すべきとする説もある)。
 百姓の妨げとならないこと。
 法の中断
 道鏡称徳天皇の後見で太政大臣禅師に就くと、天平神護元年3月6日(765年3月31日)に墾田が過熱してきたので、墾田私有を禁止する旨の太政官符が発布された。このとき、寺院や農民の小規模な開墾は禁止されなかった。
 しかし称徳天皇崩御し、光仁天皇が即位したことで道鏡が失脚すると、宝亀3年10月14日(772年11月13日)に墾田私有を許可する(が、百姓は苦しませないように)と言う旨の太政官符が発布された。
 影響
 墾田私有が認められたため、豪族や社寺が開墾を進めて土地私有に動き、荘園制成立と班田収授法崩壊の原因を作った。この動きにより成立した荘園は自墾地系荘園または墾田地系荘園と呼ばれる。
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🏹7〕─2─鎌倉仏教は正統神聖の平安仏教から異端俗世仏教として誕生した。~No.18No.19 

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 日本仏教は、中国仏教・朝鮮仏教とは違う。
 日本の仏教は、時代の要請に従って幾度となく変貌し独自に発展してきたが、それは宗教的な進化・進歩とは違う。
 鎌倉仏教は多種多様にして多元多角な信心として、世界の啓示宗教が持っていた原理主義的狂信的信仰心は少なかった。
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 2023年4月6日 YAHOO!JAPANニュース「シリーズ「日本の仏教」
 第6回:鎌倉新仏教の誕生
 佐々木 閑 【Profile】
 平安末期から鎌倉時代にかけて、天台宗を母体にしてさまざまな仏教教団が生まれ、仏教は初めて一般民衆にとっても意義ある宗教となった。さらに瞑想(めいそう)を重視する禅宗も加わり、多彩な仏教的世界を作り出していく。
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 天台宗を母体として新しい仏教教団が誕生
 12世紀から13世紀(平安時代末期から鎌倉時代)は、日本仏教にとっての重大な転換期であった。この時期、日本仏教は、真言宗天台宗という二大密教が貴族権力のもとで勢力を誇っていた状況から、それぞれに異なる救済方法をアピールする多くの仏教教団が並び立つ状況へと、急速に多様化したのである。現在の日本仏教を形成する宗派のほとんどが、この時期に生まれたものである。
 そういった多様化の起点となったのは天台宗である。天台宗はさまざまな仏教思想の緩やかな複合体であったため、新たな仏教思想を模索する時代にあって、絶好の土壌となった。天台宗で仏教を学んだ僧侶たちの中で、そのあまりに複雑化した教義に満足できず、より強固な単一の思想を求める人たちが、天台宗の教義に組み込まれているさまざまな思想の中から特定の思想だけを抜き出し、それを「真の仏教」として提示し教団を形成する、という動きが同時多発的に起こり、複数の新興仏教教団が並び立つことになったのである。
 貴族中心の狭い閉鎖世界ではなく、日本社会の全体が超越的な力による救済を求める時代となった時、仏教は初めて、一般民衆にとっても意義ある宗教となった。天台宗を母体として新たに登場した種々の仏教教団は、貴族だけでなく、武士、商人、農民といった多数の社会構成員の共感を得るようなり、一方、権力側に寄り添っていた二大密教も、そうした動きを取り込み、民衆救済をスローガンとして打ち出すようになっていった。12世紀から13世紀は、日本仏教が「苦しむ人を救う」という宗教本来の役割を真に認識するようになった時代なのである。
 民衆の救済を目指した「浄土系諸教団」と「法華経(ほけきょう)信仰教団」
この時期、新たに登場した仏教教団が提唱した民衆救済方法は大きく2種類に分けられる。1つは、この世界とは隔絶した理想の世界が別の場所にあり、そこにいるブッダに願うことで、われわれもその世界に連れて行ってもらえる、という世界観。苦しみの世界から逃れる方法の提唱である。その典型は、法然(1133〜1212)や親鸞(1173〜1262)などをリーダーとする、浄土宗や浄土真宗などの「浄土系諸教団」である。
 もう1つは、この世界には目に見えぬ姿でのブッダが常住しており、特定の経典を読誦(どくじゅ)したり、特定の儀礼をおこなったりすることで、ブッダが周囲の世界を安楽なものに変えてくれると信じる世界観である。すなわち信仰の力によって現状を変えようという教えである。日蓮(1222〜82)をリーダーとする「法華経信仰教団」がその代表である。
 これらの先鋭化した単一の教義を主張する教団は、既存の二大密教から見れば、当然ながら自分たちの既得権を脅かすやっかいな新興宗教教団であった。したがって、これらの新たな教団が勢力を拡大する過程においては、激しい宗教間対立が生じ、各所で武力闘争や政治的迫害が行われた。しかし民衆の期待に添うかたちで教えを説く新興教団の勢いを止めることはできず、その勢力範囲は次第に広がっていった。
 こうして日本仏教は、純然たる密教を教義とする真言宗、多様な仏教思想の集合体を密教的雰囲気で覆った天台宗、その天台宗の多様な仏教思想の中の特定の思想だけを取り出して教義とする複数の新興仏教教団、という三様の勢力が並び立つことになった。そして宗派間の対立や闘争を経た後、次第に棲(す)み分けが進んでいった。この分岐のプロセスを見て分かるとおり、日本仏教のベースは密教的世界観であった。
 知的なライフスタイルを提唱する禅宗
 そしてさらにこうした動きに禅宗が加わることになる。禅宗は、伝説上の開祖である菩提達磨(ぼだいだるま)が、5世紀から6世紀に中国で創始した新しいスタイルの仏教である。釈迦(しゃか)が説いた仏教は本来、瞑想修行によって自己を変革していくことを目的とする宗教であって、そこには修行のためのカリキュラムが定められている。誰もが等しく悟りを目指して進んでいくための道順が明確に定められていたのである。しかし禅宗は、そういった道順を「体験でしか理解することのできない、言語伝達不可能なことがら」として神秘化し、実際の修行生活においては瞑想に専心している状態そのものを重視する。禅宗は、思想や世界観よりも知的瞑想生活の方に重きを置く宗教なのである。
 このような禅宗の特質は中国の知識階級に好まれ、8世紀以降、急速に広まった。そうした禅宗が12世紀から13世紀にかけて日本に本格的に伝わってきたのである。現在の日本には、臨済宗、曹洞(そうとう)宗、黄檗(おうばく)宗という三派の禅宗が存在する。このうち臨済宗曹洞宗が、この時期に創設された。黄檗宗は、17世紀になってから隠元(1592〜1673)によって日本に伝えられた宗派である。
 禅宗は知的な瞑想生活そのものを重視する仏教であるから、教えの中身に関しては確定したものを持っていない。臨済宗を創始した栄西(1141〜1215)は密教を重視していたし、曹洞宗を創始した道元(1200〜53)は「われわれは本来仏であり、瞑想によってそれを確認するのだ」という独自の思想を持っていた。思想はそれぞれに異なっていても、瞑想修行を中心に据えた、禁欲的で知的な生活形態を重視するところに禅宗の共通性があり、それが当時の武士階級を中心とした多くの知識層に受け入れられた。その後の禅宗が、最先端の中国文化を日本が取り入れるための窓口として機能したという事実や、華道、茶道、能などの日本文化と強い親近性を示すという事実も、この知的瞑想生活を根底に置く禅宗の特性をよく表している。
 こうして、既存の2種類の密教に加えて、救済の宗教としての2つの「浄土系教団」と「法華経信仰教団」、知的ライフスタイルの提唱者としての禅宗という、大きく4種に大別できる仏教が新たに日本に根を下ろした。この時に確定した日本仏教の分布が、現在に至るまでおよそ800年間続いているのである。
 時代を逆行し、仏教の出発点にたどりついた日本の仏教
 インド発祥の仏教の歴史を、日本仏教の歴史と対比してみるのは興味深い作業である。インドでは、瞑想による自己鍛錬を基本とする釈迦の仏教から始まり、やがて、さまざまな種類の神秘力による救済を想定する大乗経典が次々と生み出されるようになった。そして最後にはそれら種々の神秘的救済を全て統括して一元化しようとする密教が登場し、それがヒンズー教と同化することによってインドの仏教は消滅した。
 日本仏教は、その最終段階の密教を導入するところから出発した。つまり最後の、そして最新型の仏教から出発したのである。やがてその密教の教えでは救われないと感じた人たちが、密教以前に成立した種々の大乗思想をそのまま保存している天台宗の教義の中から、それぞれの個性に応じて単一の救済方法を選び取って独自の教団を作った。これが12世紀から13世紀にかけての日本仏教の状況である。禅宗を釈迦の仏教の大乗仏教版として見るなら、この時、釈迦の仏教も部分的に入り込んできたと考えることも可能である。日本仏教は、密教から、密教以前の大乗仏教世界へ、そして部分的にではあるが釈迦の仏教世界へと時代を逆行したのである。
 この状況が現在から100年ほど前まで続いていた。そして明治期、日本が鎖国をやめ、海外の文化を積極的に取り入れ始めると、今度はスリランカや東南アジア諸国から本格的な釈迦の仏教が伝わってきた。その結果、日本仏教がもう一段階、時代を逆行し、仏教の出発点にまでたどりつくことになった。
 日本仏教の歴史を、インドで誕生した仏教が歴史的に展開したプロセスの逆行現象として捉えることで、その大枠を理解することができる。このような特異な歴史の結果として現代の日本仏教は、釈迦の仏教から密教まで、ほぼすべての仏教思想を包含する複合的な宗教世界を構成しているのである。
 バナー画像=愛知県犬山市臨済宗瑞泉寺(ずいせんじ)の専門道場で、座禅を組んで心を静める修行僧たち(読売新聞/アフロ)
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 佐々木 閑SASAKI Shizuka経歴・執筆一覧を見る
 花園大学文学部特任教授。1956年福井県生まれ。京都大学工学部工業化学科・文学部哲学科を卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。博士(文学)。カリフォルニア大学留学を経て花園大学教授に。定年退職後、現職。専門はインド仏教学。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。著書に『出家とはなにか』(大蔵出版、1999年)、『インド仏教変移論』(同、2000年)、『犀の角たち』(同、2006年)、『般若心経』(NHK出版、2014年)、『大乗仏教』(同、2019年)、『仏教は宇宙をどう見たか』(化学同人、2021年)など。YouTubeチャンネルShizuka Sasakiで仏教解説の動画を配信中。
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 5月16日 YAHOO!JAPANニュース「シリーズ「日本の仏教」
 第7回:日本仏教の暴力性
 佐々木 閑 【Profile】
 仏教本来の教えでは、暴力は完全に否定される。しかし釈迦(しゃか)が制定した戒律を収めた「律蔵」が機能しない日本の仏教界にあっては、暴力行使が容認された。こうした特異性が僧兵を生み、一向一揆を起こすことになり、第2次世界大戦では僧侶が戦争に協力することにつながっていった。
 第5回の解説で、日本仏教にはサンガ(ブッダの教えに従って暮らす僧侶の自治組織)が存在せず、サンガを運営していくための法律である律蔵も機能していないことを明確化してきた。この状況は日本に仏教が導入されてから現代に至るまで、およそ1300年間にわたって変わることなく続いている。
 律蔵が機能していないことにより、日本仏教の僧侶は、他の仏教世界では見られない独特の生活形態を取るようになった。出家する際にウパサンパダー(受戒)の儀式をおこなわない、酒を飲む、結婚して家族を持つといった行為は、律蔵によれば、すべて処罰の対象となる違法行為であるが、律蔵の存在が認知されていない日本仏教では、さほど問題とされない。せいぜいで「社会通念として好ましくない」といった批判がなされる程度である。そしてこういった日本仏教だけが持つ特性の中でも、最も重要かつ深刻な特性の1つが、「暴力の肯定」である。
 律蔵では、僧侶が他者に暴力を振るうことは絶対に禁じられている。武器を手にして争うことはもちろん、たとえ教育上の必要性によって弟子を叱責(しっせき)する場合でも、暴力を用いることは決して許されない。僧侶が軍隊の行進を見ることさえも禁じられているのである。仏教以外の宗教の中には、「邪悪な暴力行為は禁じるが、自分たちの宗教を脅かす者を排除するための正義の暴力は許される」という考え方もあるが(いわゆる聖戦思想)、仏教はそれも許さない。いかなる暴力も、ブッダの教えに背く行為として非難されるのである。
 律蔵がないために暴力を肯定
 インドで釈迦が創始した本来の仏教は、このように暴力を絶対的に否定していたのだが、その後の長い歴史の中で、この基本原理は崩壊し、次第に暴力を肯定する傾向が強まっていった。僧侶が暴力を振るった事例は多くの仏教国で見られるし、僧侶自身が暴力を振るわなくても、僧侶としての権威を利用して権力者に暴力行為を促すといった事例は現在でも時として見られる。しかしながらそれでも、律蔵が機能している限り、そういった行為は「律蔵に背く非仏教的な行為」として法的処罰の対象となる。律蔵があるおかげで仏教の僧侶は、暴力を肯定したいという本能的欲求から身を守ることができるのである。
 しかし日本仏教では、その律蔵が機能していない。その結果として、当然予想できることであるが、聖戦思想を利用した暴力が積極的に容認されるようになった。「仏教の教えを守るためならば僧侶が暴力を振るうことも許される」、あるいは「仏教の教えを守るために暴力的に戦うことは、進んでなすべき善い行いである」といった暴力肯定の姿勢が承認されるようになったのである。
 問題は、ここで言う「守るべき仏教の教え」というのが、決して釈迦が説いた大本の仏教ではなく、個々の僧侶が所属している宗派や教団の教えを指しているという点である。つまり彼らは、自分たちの地位や権威や利得を守るために暴力を振るうことを、正当な仏教的行為だと考えるのである。
 日本仏教の全体が律蔵のない状態で発展したのであるから、このような暴力肯定の姿勢は宗派を問わず、日本仏教界全域に広がっていった。仏教界が全体として「正義の」暴力を肯定し、仏教界を支える一般社会もその在り方に違和感を抱かない、という点にこそ、律蔵を持たない日本仏教の特異性が顕著に表れているのである。
 僧侶の軍隊が乱暴狼藉(ろうぜき)
 貴族社会と結びついて多くの既得権を得ていた奈良の仏教や真言宗天台宗は、自分たちの立場を守るために暴力を利用した。代表的な事例が、「僧兵」と呼ばれる「僧侶の軍隊」である。奈良仏教の代表的寺院である東大寺や、天台宗の中心寺院である京都の延暦寺など、多くの寺院が僧兵を抱え、天皇でさえも統制不可能なほどの無法行為を繰り返したのである。
 一方、天台宗を母胎としながら、その天台宗に反抗するかたちで登場した新興の仏教宗派は、新たに自分たちの勢力域を拡大するために暴力を用いた。代表は浄土真宗一向一揆である。宗祖の親鸞は謙虚な人物で、暴力的な言動はまったくなかったが、跡を継いだ組織運営者たちは、自分たちの組織拡大を阻害する旧仏教の勢力や権力者たちに対して強大な軍隊を組織して立ち向かった。その軍事力は強大で、15世紀から16世紀にかけての約100年間、越前、加賀、三河、近畿などで広大な地域を完全に支配し続けるほどであった。こういった勢力拡大のための暴力性は浄土真宗に限ったものではない。当時の多くの新興仏教宗派において多かれ少なかれ見られる現象であり、僧侶が暴力行為に関わることが容認されたのである。
 第2次世界大戦に協力した日本の仏教界
 その後、権力の集中が進み、徳川幕府が日本全体を統治する江戸時代になると、すべての仏教宗派が幕府の政治体制の下で安定的に棲(す)み分けるようになったため、仏教の暴力性は影を潜めた。しかし、「僧侶はいかなるかたちでも暴力に関与してはならない」という律蔵の基本原則は理解されないままであったため、周囲の社会状況が変化すれば、直ちに暴力性が表に現れるという危険な状態での鎮静化であった。
 江戸時代が終わって徳川幕府が消滅し、明治時代になると、新政府は神道の国教化を進めた。新たに発布された「神仏分離令」により、それまでは一体化したものとして扱われていた神道と仏教が切り離され、仏教は神道よりも下位に位置づけられたのである。こうして日本は天皇を中心とした神道国家になったが、その時日本の仏教界は、その新たに登場した天皇中心の神道勢力と協力体制を取った。その一番の理由は、今後外国から流入してくるキリスト教の力を恐れ、国家権力との共同戦線でこれを防ごうとしたところにある。キリスト教を排除する、という共通の目的のもとに宗教界は一体化し、日本仏教は天皇中心の国家権力の支援団体になったのである。
 やがて日本が中国や欧米諸国との戦争に突入すると、それまで影を潜めていた日本仏教の暴力性が、「天皇がアジアを統一することによって、日本中心の平和な世界を実現する」という大義名分のもとで再び姿を現すことになった。この時代に、日本仏教がどういったかたちで第2次世界大戦に協力し、僧侶自身がどれくらい戦闘に参加したかという点は、戦争が終わった後も長く曖昧にされたままであったが、最近、その実情を明らかにする研究も現れて来ている。
 戦時中、仏教界が戦争に加担することを強く批判する人たちもいたが、大方の宗派は、そのトップからして、積極的に戦争遂行に協力した。信者たちに、戦争に行くよう檄(げき)を飛ばし、武器製造のために布施を集め、天皇ブッダを同一視するような教説を広めたのである。「自分たちの正義を守るための暴力は許される」という古来の理屈がよみがえったのである。
 日本が戦争に負けて、天皇が「自分を中心として成り立っていた日本の宗教世界は崩壊した」と自分自身で宣言したことにより、日本の宗教構造は一夜にして消滅し、驚くべき速度で民主主義国家へと変貌した。この変化の中で日本仏教の暴力性も再び影を潜め、現在の日本仏教には一片の暴力性も見られない(禅宗の修行場内では今も暴力を肯定する人が存在するが)。しかし「僧侶はいかなるかたちでも暴力に関与してはならない」という基本原則はいまだ浸透していない。律蔵を持たない日本仏教が克服すべき将来の課題である。
 バナー写真=毎年6月に京都市左京区鞍馬寺で開催される「竹伐り会式(たけきりえしき)」。僧兵に扮(ふん)した僧侶が青竹を大蛇に見立てて断ち切る。五穀豊穣を願う(時事)
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 佐々木 閑SASAKI Shizuka経歴・執筆一覧を見る
 花園大学文学部特任教授。1956年福井県生まれ。京都大学工学部工業化学科・文学部哲学科を卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。博士(文学)。カリフォルニア大学留学を経て花園大学教授に。定年退職後、現職。専門はインド仏教学。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。著書に『出家とはなにか』(大蔵出版、1999年)、『インド仏教変移論』(同、2000年)、『犀の角たち』(同、2006年)、『般若心経』(NHK出版、2014年)、『大乗仏教』(同、2019年)、『仏教は宇宙をどう見たか』(化学同人、2021年)など。YouTubeチャンネルShizuka Sasakiで仏教解説の動画を配信中。
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🏹66〕─2─性悪説の正しい意味。荀子の真意は「人間にはルールと恩賞が必要」。~No.211No.212 

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 日本人の本性は、他人を助ける善人ではなく他人を見捨てる悪人である。
 日本人の本質は、数万年前の自然環境と和食、数千年前の文化と宗教で作られた。
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 2023年11月21日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「「人の本性は悪」ではない!「性悪説」の正しい意味 荀子の真意は「人間にはルールと恩賞が必要」だった
 誤解されがちな「性悪説」の本当の意味を解説します(写真:あやちゃん/PIXTA
 なぜ「無敵の人」が増え続けるのか、保守と革新は争うのか。このたび上梓された『武器としての「中国思想」』では、私たちの日常で起こっている出来事や、現代社会のホットな話題を切り口に、わかりやすく中国思想を解説している。本稿では、同書の著者である大場一央氏が、誤解されがちな「性悪説」の本当の意味を解説する。
性悪説は「人を疑ってかかれ」ではない
 中国思想の講義を担当していると、たまに学生から面白い話が聞ける。その一つとして出てきたのが、某テレビ番組における「性善説vs.性悪説」という企画である。
 筆者は直接視聴していた訳ではないのだが、要するに人間を信用してかかるか、疑ってかかるかという議論をしていたらしい。番組の内容はともかく、そうした性善説性悪説の(意図的な? )誤解はたまに耳にするから、一定数そうした理解が定着しているのだろう。
 確かに、人間は人づきあいをし、組織に所属する中で、少なからず喜びや失望を感じる。そんなとき、「人間」という大きな主語で、信用できるかできないかを考えることはよくある。そこにそれらしく性善説性悪説と名づけることで、何となく証明された気持ちになる。
 とはいえ、それはあくまでも個人的な喜びや失望を、理屈で正当化しているだけで、あまり意味がない。みんなを信用してかかれば痛い目に遭うし、みんなを疑ってかかれば社会生活を送れない。そんなことは自明であり、どちらも間違いだからだ。
 では、本当の性善説性悪説はどんな議論なのか。性善説については以前解説した。そこで、性悪説の意味を簡単に紹介してみたい。
 性悪説をはじめに提唱したのは荀子(生没年未詳)である。
 性とは「生まれつき」という意味で、荀子は、人間の心には生まれつき善と悪があるとした。これはちょうど、心を○で表して真ん中に縦線を引き、左右を善悪で分けるイメージである。そのうえで、悪の部分を強調すると、「性悪説」になる。
 これは善の部分を強調して性善説を説いた孟子(前372? ~前289? )と同じ心の理解である。つまり、孟子荀子性善説性悪説はどちらも同じ心のイメージを持っており、善と悪、どちらに注目すべきかで対立したのである。
 荀子のいう善悪とは、社会性の有無で説明できる。すなわち、人間は生まれつき社会的な言動をとる心(善)があるものの、一方で身体的な快楽や利益の独占をもとめて人々と争う心(悪)がある。
 性善は放っておいても問題ないが、性悪は矯正しなければ社会を壊す。よって性悪を強調して矯正を図るのである。
■人間は社会教育を受けないとまともにならない
 孟子の場合は、善なる心を拡充することを説いた。善を拡充すれば悪はその領域をせばめていく。
 これに対し荀子は、社会におけるルール(礼)づくりを徹底した。荀子のいうルールとは、国家の制度や法令、規範から、生活における調度品や服装、所作までを含む。
 「青は藍より出でて藍より青し」ということわざがあるが、これはもともと、藍を加工することで青色がさらに際立つことから、人間も人為的なルールによって教育されることで良くなるという、荀子の言葉である。
 このように、人為的なルールづくりによって人々を誘導し、社会教育を施すことで、荀子は悪を矯正しようとしたのであった。これはちょうど、法令や政令、ガバナンスやコンプライアンスを整備し、それに従わせることによって、一人ひとりの内面を変えていく、 教育効果を狙っていく考え方と同じである。
 荀子は、「君主は舟で人民は水である。水は舟を載せるし覆しもする」と言ったように、ルールにのっとって動く、一人ひとりの人間の意欲と力を重視した。
 したがって、ちょうど治水事業によって河川を穏やかにし、農業や水運に使うように、君主はルールによる社会教育で、それぞれ異なった快楽や利益をもとめる人間を、一つにまとめていかねばならないのである。
■ルールの前に恩賞を
 だが、人間が快楽と利益を求める限り、彼らが進んで一つの方向を向くには、ルールだけでは足りず、恩賞を与えることで、ルールに従うことが快楽や利益につながると思わせねばならない。
 全ての人々に行き渡る最大の恩賞とは、恒久的な収入上昇である。最低限の生活に不足がなく、ちょっとした贅沢ができるような収入を保証し続ければ、大多数の人々は喜んでルールに従おうとする。
 荀子は当時の生活必需品と贅沢品を列挙し、それがみなに行き渡る方法について、執拗なほど詳細に述べているが、それは人々の意欲を引き出し、その力をまとめあげるために、極めて重要だったからである。
 つまり、ルールと恩賞がかみあって、はじめて人々の力にベクトルが発生し、社会が回り出す。これが本当の性悪説である。
 これをビジネスや政治にあてはめると、ガバナンスやコンプライアンス、法令や政令を整備するのはもちろん大事な仕事である。しかし、それに比例して、末端の社員や大多数の中間層に、手厚い福利厚生や賃金上昇を保証しないのは、無理な河幅や分岐を設定するようなものである。これでは水が涸れ、あらぬ方向に氾濫してしまうように、人々の意欲は減退し、生産性は地滑り的に低下するであろう。
 こういうときは、むしろ受け取る側がびっくりするくらいの利益を与え、彼らのやる気を引き出してから、あらためてルール設定を徹底したほうが、組織の安定と活性化につながる。これが性悪説の活用法である。
 大場 一央 :中国思想・日本思想研究者、早稲田大学非常勤講師
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🏹9〕─3─殺生が“仕事”の武士の心をつかんだ親鸞の悪人正機説。〜No.25 

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 2023年11月25日 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「「悪人こそ救われる」 殺生が“仕事”の武士の心をつかんだ親鸞悪人正機説
 親鸞聖人像(奈良国立博物館蔵、出展:Colbase)
 藤原氏といえば、摂関政治による栄華を極めた一族のイメージは強いが、優れた文化人や僧侶も輩出している。例えば、公家社会から武家社会への転換期、同時代を生きた二人。「小倉百人一首」の選者である藤原定家浄土真宗の祖の親鸞だ。『藤原氏の1300年 超名門一族で読み解く日本史』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集して紹介する。
 【写真】歎異抄を現代語訳した作家はこちら
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藤原定家 和歌の家の地位を確立した天才歌人
 御子左家は藤原道長の六男長家に始まる家系である。四代俊成は和歌の第一人者として各所の歌合で判者(歌の優劣を判定する人)を務め、後白河院の命で『千載和歌集』の編纂を主導し、幽玄の美を理想とする抒情的な独自の歌風を確立した。
 俊成に勝るとも劣らない才を受け継いだのが次男定家である。十代半ばから歌人として活動し、源平の内乱が始まっても「我がことにあらず」といって歌道に専心した。二十歳の時に詠んだ『初学百首』は、俊成が感涙をもよおす完成度であったという。二十代の半ばから父が歌の師範を務めた九条家に仕え、西行慈円ら名だたる歌人と交流したが、建久七年の政変で九条兼実が失脚すると、定家も内昇殿を停止され官位の昇進も滞る。
 定家を救ったのは和歌の力であった。正治二年(一二〇〇)、後鳥羽院歌人たちに自慢の和歌を詠進させた際、「駒とめて袖うちはらふかげもなし 佐野のわたりの雪の夕暮れ」を出し上皇に絶賛された。定家は内昇殿を許され、翌年新設された和歌所の寄人に抜擢。元久二年(一二〇五)、定家たちによって撰進された『新古今和歌集』は『万葉集』『古今和歌集』に並ぶ傑作と称され、新古今時代と呼ばれる和歌の黄金時代を到来させた。
 歌壇の第一人者となった定家は、その後も王朝和歌の再興をめざして自撰集や歌論書を著し、晩年は単独で『新勅撰和歌集』を編纂。『小倉百人一首』も定家の編纂と伝えられている。俊成・定家の二代の活躍により、和歌の家としての御子左家の評価は定まった。
 定家は不世出の歌人であったが、人並みに出世を望む官僚でもあった。五十歳にして念願の公卿になったが、それは定家自身が日記『明月記』で「狂女」と罵倒した卿二位(後鳥羽の乳母藤原兼子)に、定家の姉健御前が頼んでようやく実現したものであった。その後も除目が行われるたびに、息子の為家や知り合いの女房に朝廷の動向を探らせたという。定家が極官の正二位権中納言になるのは、公卿就任から約二十年後のことであった。ただし、妻が実力者西園寺公経の姉だったため経済的には恵まれ、晩年は将来の歌学の発展のために、『古今和歌集』『源氏物語』などの古典の書写に精力的に取り組んだ。
 一方、嫡子為家は叔父公経の猶子(形式上の養子)になっていたため栄達し、二十九歳で公卿、最後は正二位権大納言まで進む。家業の和歌についても、後嵯峨院のもとで『続後撰和歌集』を撰進し、個性をおさえ伝統にとけこむ中世和歌のスタイルを確立した。
親鸞 関東で念仏を広めた浄土真宗の祖
 日野家は冬嗣の兄真夏の後裔で、十一世紀半ば、資業が日野(京都市伏見区)に法界寺を創建したのに始まる。資業の曽孫実光は公卿となり子孫は名家(大納言を極官とする家柄)として繁栄したが、弟有範は出世街道から外れ中級貴族として生涯を終えた。
 浄土真宗の開祖親鸞は有範の子といわれている。九歳で出家し、比叡山で身分の低い堂僧として修業をつんだ。二十九歳の時、京の六角堂に参籠して聖徳太子の夢告を受け、浄土宗の開祖法然の弟子となる。親鸞法然に心酔し「たとえ上人にだまされて、念仏により地獄に落ちても後悔しない」と述べたという。法然親鸞を信頼し、専修念仏の教えを説いた『選択本願念仏集』の書写を特別に許している。二人は深い絆で結ばれていた。
 承元元年(一二〇七)、承元の法難と呼ばれる専修念仏の弾圧事件が起こり、法然と弟子たちが配流される。越後(新潟県)に流された親鸞は、配流生活の中で「愚禿親鸞」を称し「僧でも俗でもない。禿の字をもって姓とする」という非僧非俗の立場を打ち出す。
 四年後、赦免された親鸞は、建保二年(一二一四)、妻恵信尼や息子たちとともに常陸へ移住する。同国を選んだ理由は不明だが、法然の弟子だった下野の御家人宇都宮頼綱、またはその一族の招きによるともいわれる。以後、二十年間、親鸞常陸にとどまり笠間(茨城県笠間市)の稲田草庵(現在の西念寺)を拠点として布教活動にはげんだ。
 当時、東国の武士や百姓が信仰していたのは、加持祈祷によって豊作や健康などを祈る呪術であった。そのような人々に対して、親鸞阿弥陀仏への信仰が人々を救う唯一の道であると説いた。特に、悪人こそ阿弥陀仏の本願によって救われるという悪人正機説は、殺生を家業としてきた武士の心を強くつかんだことだろう。
 関東での布教活動を通じて念仏の意義、他力本願の確信を得た親鸞は、文暦元年(一二三四)頃に帰京した後、『教行信証』を著す。国内外の経典や解説書を踏まえて、自身の念仏・往生の思想を体系化したもので、浄土真宗の根本聖典となった。また親鸞の死後、異端の信徒が増えたことから、河和田(水戸市)の唯円は正統の教義を伝えるため『歎異抄』を著し、その思想をわかりやすく広めた。
 その後、末娘覚信尼の孫の覚如は、親鸞の大谷廟堂を寺院化して本願寺を創建。八世蓮如の時、大規模な教団の組織化が図られ、戦国大名をも脅かす政治勢力に成長していく。
●京谷一樹(きょうたに・いつき)
 歴史ライター。広島県生まれ。出版社・編集プロダクション勤務を経て文筆業へ。古代から近・現代まで幅広い時代を対象に、ムックや雑誌、書籍などに執筆している。執筆協力に『完全解説 南北朝の動乱』(カンゼン)、『テーマ別だから政治も文化もつかめる 江戸時代』、『年代順だからきちんとわかる 中国史』、『「外圧」の日本史』(以上、朝日新聞出版)、『国宝刀剣 一千年を超える贈り物』(天夢人)などがある。
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 同じ仏教でも、日本仏教と中国仏教・朝鮮仏教とは全然違う。
 中国仏教は、革命宗教として数多くの王朝や王国を滅ぼしていた。
 日本仏教は、鎌倉仏教を境にして、権力者に媚び諂い栄耀栄華を求めない、乞食僧として身分低く貧しい人々を分け隔て無く積極的に救済する庶民仏教へと変貌した。
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 人殺しを職業としていた武士は、動物を殺して生計を立てていた穢多や罪人にと関わっていた非人以上に穢れていた。
 犯罪者に関わる武士は、不浄役人として差別されていた。
 親鸞の「悪人正機説」は、人を殺す武士の免罪符となった。
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👪44〕─1─「わたし、夫に死んでほしい」憎しみに変わった愛。~No.160No.161No.162 

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 日本における男尊女卑の本質は、男性・夫が女性・妻の心理が理解できない事にある。
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 2023年11月21日 MicrosoftStartニュース 女子SPA!「「わたし、夫に死んでほしい」憎しみに変わった愛。セックスレスや“こじれた”夫婦を救うプロの処方箋とは
 愛し合って結婚したはずなのに、今や「早く死んでほしい」と願うまでに。
 『夫は、妻は、わかってない。夫婦リカバリーの作法』(SYNCHRONOUS BOOKS ワニブックス) は、限界に達した「夫・妻」の処方箋。もつれてこじれた夫婦関係を修復に導くのは、夫婦カウンセラーの安藤秀海さんです。
 夫は、妻は、わかってない。 – 夫婦リカバリーの作法 -(SYNCHRONOUS BOOKS ワニブックス) 安東秀海(著)
 © 女子SPA!
◆愛が憎しみに変わるまで
 妻とともに夫婦専門のカウンセリングオフィスを主宰する安藤さんですが、サポートしてきた夫婦はなんと2000組。
 感情のすれ違いや性的な不一致まで、赤裸々ともいえる相談内容を適切に解きほぐしていきます。崖っぷちを飛び越えた先には、新たな夫婦の形がありました。
◆こじれた夫婦の3つの領域とは
 「なぜ、夫婦の問題はこんなにも改善が難しいのでしょうか?」。この言葉を、安藤さんはカウンセリングの最中に幾度も聞いたそうです。相談の発端は「浮気や不倫、セックスレスからコミュニケーション不足まで」多岐にわたりますが、問題の本質はそこにはありません。
 なぜ浮気や不倫をしたのか。なぜセックスレスなのか。「なぜ?」に向き合わず、上辺だけを正そうとしても、また同じことを繰り返す可能性があります。
 安藤さんは問題となっていることを「コミュニケーション」「価値観」「感情」の3つの領域に分類し、最適な取り組みを探っていています。さっそく領域ごとの実例を見ていきましょう。
◆夫に早く死んでほしい
 最初に取り上げるのは、「夫に早くあの世に逝ってほしい妻」。
 相談内容をまとめると「夫はマスコミ関係勤務、妻は専業主婦、小4と年長の女の子との4人家族。結婚14年目。育児はワンオペ、コミュニケーションも話し合いもなく、妻は長年孤独を抱えている。子供を思うと離婚に踏み切れない」。
 よくある問題ともいえますが、根深く潜む本当の問題は何なのでしょう。
 写真はイメージ(以下同じ)
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 本書は相談者と安藤さんとの対話形式で進んでいきます。対話の中で妻は「すごく大好きな人と結婚した」と言いつつ、「今は一緒にいたくない」と苦悶(くもん)しているのです。
 「子供がいなかったらずっと楽しい夫婦生活が送れていただろうと思う」とこぼす妻ですが、はたしてそれは真実でしょうか。
◆意思疎通ができないのが問題
 安藤さんの見解は「感情の問題」。夫は仕事、妻は子育て。お互い忙しい中で言えなかったこと、聞いてもらえなかったことが「わだかまり」となって、大きく膨(ふく)らんでいったのです。
 「感情の問題」を子供の存在にすり替えて、つらすぎる本質を無意識に避けていたのかもしれません。夫婦が向き合うべき事実に、妻は気づいたのです。
 「夫婦にある問題のほとんどが、愛情が基盤になっている」と安藤さん。「死んでほしい」という妻の思いも愛情の裏返しなのです。無関心だったら、憎しみという感情もわきませんよね。
 わかってほしい妻とわからない夫。夫婦間で意思疎通ができないのは、相当なダメージです。そこで安藤さんが提案するのが「アイメッセージ」。
 たとえば「どうしてあなたはわかってくれないの」といった、あなた(YOU)が主語になる「ユーメッセージ」は抵抗感が生まれるといいます。
 片や「私はあなたにわかってほしい」といった私(I)が主語になったメッセージは、相手にすんなり伝わるというのです。
 今回の場合、現状維持をしつつ、妻自身の心のケアを同時に行う、という結論になりました。夫への愛情とやるせなさで苦しむ妻の心を、安藤さんは労(いた)わったのです。
セックスレスは本当にそれだけの問題なのか
 次に取り上げるのは、「10年間、セックスを拒否され続け心の折れた妻」。相談内容をまとめると「夫は40歳で営業職、妻は38歳で専業主婦。7歳と2歳の子供の4人家族。子づくりのための計画的なセックス以外は10年間セックスレス。育児や家事も夫は不参加で、無視されてきた」。
 セックスレス問題は本当によく耳にしますが、問題の本質は必ずしもセックスそのものではなさそうです。今回は、相談者夫婦と安藤さんの3人の対話形式で解決策を見出していきます。
 「わたし、夫に死んでほしい」憎しみに変わった愛。セックスレスや“こじれた”夫婦を救うプロの処方箋とは
 © 女子SPA!
 妻はすでに夫とのセックスをあきらめており、夫は妻の不機嫌の原因はセックスにあると信じています。ここで夫婦のズレが判明しました。
 セックスさえすれば機嫌がよくなる、この主張は妻側、夫側、双方で聞かれますが、夫婦間のセックスってそんなに単純なものではありませんよね。
 妻の心の根底にあるのは、「夫の関心の低さ」。10年来続く妻への関心の低さが積もり積もった末に、離婚という終着点を選びかけているのです。妻にとってもはや、セックスレスはきっかけに過ぎないというのに。
◆自分自身を受け入れてもらえていない感覚に
 確かに、結婚して数年はセックスレスそのものが問題になっていたのでしょう。しかし年月が経つにつれ、妻の不満は別の問題に入れ替わり、セックスレスは過去の問題となりました。とはいえ、夫は妻の心中は想像もつかず、いまだにセックスレスのみに焦点があたっているのです。
 「セックスレスの悩みは、時に自分自身を受け入れてもらえていない、大切に扱ってもらえていない感覚にまで繋がる場合がある」と本書。
 夫婦にとって大切な営みであるだけに、セックスだけがクローズアップされてしまい、本質的な問題が隠れてしまう恐れもあるのです。いつも傍にいる、近しい相手だからこそ、セックスが盲点となってしまうのかもしれません。
◆知っているようで知らない夫と妻
 写真はイメージです(以下同じ)
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 好きだから、この人と将来を共にしたいから、年を重ねても一緒にいたいから。人生のパートナーとなるべく結婚したのに、どうして愛する伴侶が悩みの種になってしまうのでしょう。
 離婚という選択が悪いのではないのです。でも本書に登場するご夫婦は、愛情が枯渇したわけではないのです。
 「夫に借金が発覚」「オンラインゲームに夢中な夫」「不倫をしていた夫」等々、事情を抱えながらも日常生活を平穏な頃に戻そうと努力する妻の叫びに、つい泣けてきてしまいます。
 夫婦関係修復か、現状維持か、離婚か。決めるのは本人ですが、「なぜ?」を放置したまま生きていくのはつらいです。
 「封印して、我慢して、なかったことにして、ごまかして、問題を遠ざけて歩いていくには、人生の道程は長すぎると思うのです」
 安藤さんの最後の言葉が、なんとも重く、リアルに刺さります。
 <文/森美樹>
 【森美樹】
 1970年生まれ。少女小説を7冊刊行したのち休筆。2013年、「朝凪」(改題「まばたきがスイッチ」)で第12回「R-18文学賞」読者賞受賞。同作を含む『主婦病』(新潮社)、『母親病』(新潮社)、『神様たち』(光文社)を上梓。Twitter:@morimikixxx
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 11月21日 MicrosoftStartニュース ftn-fashion trend news-「娘の行動に"違和感" → 話を聞くと【在宅夫の真っ黒な事情が発覚!?】まさかの不倫相手に激怒!!
 不倫はそれ自体が最低な行為ですが、人によってはさらにありえない状況下で不倫しようとする人もいるようです。
今回は予想外の相手と不倫していた夫のエピソードを友人に聞きました!
 娘の行動に"違和感" → 話を聞くと【在宅夫の真っ黒な事情が発覚!?】まさかの不倫相手に激怒!!
 © ftn-fashion trend news-
 子どものことが心配なワーママ
A子は外資系の企業で正社員として働きながら小学生の娘を育てるワーママです。
 時間的にどうしても子どもの勉強を見てあげることができないため、心配したA子は家庭教師を雇うことを考えました。
 色々調べた結果、信頼できる家庭教師の運営会社に依頼し、週に1回家庭教師を娘につけることに。
 念のため家庭教師は若い女性にお願いしましたが、子どもだけの家に他人を上げるのは不安なので、毎週金曜の夫の在宅勤務の日に来てもらうことにしたそうです。
 しかし、娘の成績は下がっていき……一体どうして?
 「これで安心」とA子がホッとしたのも束の間。
 なぜか、家庭教師をつけても娘の成績は一向に上がりません。
 それどころか、徐々に下がっていくではありませんか。
 A子は「一体どうして……?!」と不審に思い、娘とよく話し合うことにしました。
 何か理由があるのかもしれないと思ったからです。
 娘の口からありえない事実が
 娘の気持ちに寄り添い、よくよく聞いてみると、とんでもない事実が発覚!!
 なんと、夫が娘に「宿題はパパと先生がやっといてあげるから、外で遊んでおいで」と娘を追い出していたのです!
 娘は宿題もせず、もちろん家庭教師の指導を受けることもなく、2時間近くずっと公園で遊んでいたそう……。
 娘の口からそれを聞いて、A子は開いた口が塞がりませんでした。
 絶対に許さない!!
 この時点で夫のことを疑っていたA子は、夫に内緒で家に監視カメラを設置しました。
 そして、娘にはいつも通り夫の言うことを聞いて公園に行くよう伝え、次の金曜を待ちました。
 結果、監視カメラには夫と家庭教師の女性の不倫現場がしっかり映っていました。
 子どもを家から追い出して自分たちは不倫するなんて……絶対に許さない! A子は激怒。すぐに証拠を集め、訴訟の準備に入りました。
 その後、夫には多額の慰謝料を突き付け離婚。
 家庭教師の運営会社と女性のことも訴え、女性は慰謝料を請求された上、もちろん運営会社からも解雇されることになりました。
 まとめ
 シングルマザーになったものの、2人からの慰謝料とこれまでの貯金で余裕が生まれたA子は、しばらく仕事をセーブして娘との時間を大切にするように心掛けています。
 次の連休には、ゲットした慰謝料で娘と2人でテーマパークに行くそうです。
 ※本記事は、執筆ライターが取材した実話です。ライターがヒアリングした内容となっており、取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
 ltnライター:藍沢ゆきの
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