🗾28〕29〕─1─弥生人と文字。硯。漢字の伝来は5世紀。~No.82No.83No.84No.85 ⑪ 

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 紀元前100年 北部九州の弥生人は、文字を持っていた可能性がある。
 硯として使っていた石にに文字らしいモノが書かれていた。
 弥生文化は、高度な文化であった可能性がある。
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hellog~英語史ブログ
#2505. 日本でも弥生時代に漢字が知られていた[kanji][history][archaeology]
2016-03-06
 3月2日付の読売新聞朝刊に「国内最古級の硯 九州で出土」という記事が掲載されていた.「魏志倭人伝」で言及される伊都に当たるとされる福岡県糸島市より,紀元前1世紀から紀元後2世紀のものとみられる国内最古級の硯が出土したという.

 中国の史書魏志倭人伝」が記す伊都国の王都とされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で,国内最古級の硯の破片(弥生時代中期後半~後期=紀元前1世紀~紀元後2世紀)が出土した。朝鮮半島にあった中国の出先機関楽浪郡から日本に渡来した使節が,筆で文字を書くために使用したものとみられ,わが国の文字文化受け入れの起源を考えるうえで重要な手がかりとなる。
 倭人伝は伊都国について,「往来する郡使が常に駐在する所」と記し,「(伊都国の)港で贈答する文書や品物の検査を行う」と,文字の使用を示唆する記述もある。市教委は,今回の硯は倭人伝の記述を裏付けるものと評価している。

 この地には朝鮮半島楽浪郡から渡来した使節が常駐していたらしく,この硯も彼らが用いていたものと推測される.贈答する文書や品物の検査の記録を記すための筆記用具だったようだ.これは倭人が直接文字を書いていた証拠とはならないが,少なくとも当時の日本人の一部は,この筆記用具を通じて,その用途である書記という活動には気づいていただろう.文字を使うことはできずとも,文字の存在と価値について,おぼろげながら何かを意識していたのではないかと想像することは妥当である.弥生時代後期には,表面的な意味ではあるかもしれないが,すでに日本に漢字が持ち込まれていたことは確かである.「#2386. 日本語の文字史(古代編)」 ([2015-11-08-1]) でも述べたように,日本人が文字を本来の文字らしい用途で自ら使いこなすようになったのは,しばらく後の時代,おそらく4世紀後半だろうと考えられる.今回の出土は,日本の文字文化の黎明を反映する手がかりとなりそうだ.
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 解説委員会
 解説アーカイブス これまでの解説記事
 「文字の歴史がさかのぼる?」(くらし☆解説)
 2019年08月01日 (木)
 高橋 俊雄 解説委員
 最近、日本列島でいつから文字が使われていたのかを探るうえで、新たな資料となる「発見」が相次いでいます。
 発見といっても、文字そのものではありません。弥生時代古墳時代の石の板の中に、「すずり」と判断されるものが多くあることが、分かってきたのです。
 【平たい石が「すずり」に?】
 すずりと判断されている石は、細長く平たい形をしています。中国や朝鮮半島の例をもとに再現すると、この平たい石は、専用の台にはめ込まれて使われていたと考えられます。
 当時の墨は粒状で、今のすずりのように、墨汁をためる部分はありません。この墨の粒をすずりの上に置いて、「研石」という別の石ですり潰していきます。
水を加えながらこの作業を続け、液状になった墨を筆に含ませていたと考えられています。
 【「砥石」の再調査で事例が増加】
 このような石の板、発掘調査で新たに見つかることもありますが、多いのは、これまでの発掘調査で刃物などを研ぐ「砥石」と判断された石を、再調査するケースです。中国や朝鮮半島ですずりと見なされている細長くて平たい石と同じものが、北部九州などにもあるのではないかと、主に福岡県の研究者が、ここ数年、力を入れて調べています。
 再調査は、各地の発掘調査の報告書を読み返すところから始めます。「砥石」と報告されている石の図面や写真を見ていくと、石のすり減り方や加工の仕方が、砥石とは異なる特徴をしているものがあるといいます。こうした石を実際に細かく観察したり、実測したりすることで、すずりかどうかを判断していきます。
 福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄さんは、「すずりの特徴を頭に入れて砥石の図面を見ていくと、5割以上、場合によっては10割の確率ですずりとなる」と指摘しています。
 【西日本の各地に分布】
 このような再調査によって、砥石ではなく、すずりだと判断できる事例が急増しました。弥生時代古墳時代のすずりと判断されたのは、研石も含め、これまでにおよそ130点にのぼっています。
 その地域的な広がりですが、北部九州を中心に西日本の各地に及んでいます。
例えば、8点が確認された福岡県糸島市の三雲・井原遺跡は、弥生時代の「伊都国」の中心部とされ、朝鮮半島と密接な関わりを持っていました。渡来系の人々も多く住んでいたと考えられています。
 一方、奈良県天理市の布留遺跡では、刀を作る古墳時代の工房の近くから13点が見つかっています。刀の管理などに文字が使われていた可能性があるということです。
 【文字の歴史にも影響?】
 墨で化粧をしたり、模様を描いていたりした可能性もあるので、すずりが出たからといって、それで文字を書いていたと断定することはできません。ただ、これほど多く見つかるとなると、これまでに想定されているよりも早い段階から広い範囲で文字が使われていたと考えたほうがいいのではないかと、調査に当たっている研究者はみています。
 日本列島で文字が広く普及したのは、飛鳥時代以降のことです。官僚機構や法律が次第に整備され、行政には文書が欠かせなくなりました。
 そこからさかのぼって巨大古墳が作られた古墳時代を見てみますと、5世紀ごろには文字が確実に使われていたことが分かります。古墳から出土した鉄剣や大刀(たち)に銘文が刻まれた例があるからです。
 ところが、これより前になると、解釈が難しくなってきます。
三重県で見つかった4世紀前半の土器は、口のへりの部分に墨書があり、田んぼの「田」と読めます。また、長野県で見つかった3世紀後半の土器には「大」と読める線が刻まれています。ただ、「大」だとすると書き順が違っていて、最初に書くはずの横棒が最後に刻まれています。
 このような資料は、弥生時代から古墳時代にかけてほかにも見られ、文字とみる研究者もいます。ただ、ひと文字の場合が多く、何が書かれたのか、そして何のために書かれたのか、なかなか明確にならないのが現状です。
 弥生時代の文字資料としては、このほか金印の文字がありますが、西暦57年に中国の王朝から贈られたものと考えられています。そうなると、日本列島の人が書いた文字とは言えません。
 こうしたなか、まさにこの空白を埋めるかのように、すずりと判断されている石の事例が増えているのです。現在この中で最も古いのは、紀元前100年ごろのものです。卑弥呼が治めた邪馬台国の時期よりも、300年も前のことです。
 調査に当たっている柳田康雄さんによりますと、福岡県と佐賀県の遺跡から出土した5点が、この時期にあてはまるということです。
 柳田さんは、弥生時代から文字が使われていた可能性が高いと考え、「文字は政治だけでなく、地域間の貿易、交流にも使われていた。原始時代ではなく、文字を持った文化、文明があったと言っていい」とその意義を強調します。
 【文字は何のために使われたか】
 文字は、古墳時代飛鳥時代には、主に外交や行政のために使われたと考えられます。
ところが、それよりも前から文字が広い範囲で使われていたとなると、これだけでなく、取り引きの記録や品物の目録など、「交易」のために使われていたケースもありうるということです。
 すずりに着目することによって、文字の歴史が大幅にさかのぼる可能性が出てきただけでなく、文字の使われ方についても、新たな解釈が可能になってきています。
 【決め手は見つかるか】
 文字が使われていたことを証明するためには、文字そのものが見つかることが一番ですが、ほかの筆記用具も見つかってくると、可能性はさらに高まります。筆のほか、木簡や竹簡、さらには木簡の書き損じをうすく削った「削りくず」などが考えられますが、いずれも非常に小さな木製品なので、発掘調査で見落としてしまうおそれがあります。今後、発掘現場では、紀元前であっても文字が出てくるかもしれないという前提に立って、丁寧な調査をこころがけてほしいと思います。
 考古学では、発掘調査中に大きな発見があって歴史を塗り替えるということが時折ありますが、今回のすずりは、すでに調査が終わった遺跡の出土品を改めて調べることで、事例を積み上げてきました。過去の調査結果を見直すことによって新たな歴史像が描けるかもしれないという点でも、この調査の意義は大きいと言えます。(高橋 俊雄 解説委員)
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 漢字文化資料館
 以前の漢字文化資料館で掲載していた記事です。2008 年以前の古い記事のため、ご留意ください。
 Q0453 漢字は5世紀に伝来した、と聞いたことがあるのですが、具体的にはどのような形で伝わったのでしょうか?
 A
 漢字の伝来については、以前、Q0004でご説明したことがあります。詳しくはそちらをご覧いただきたいのですが、遅くとも紀元3世紀頃には、日本人の中には、なんらかの形で漢字を使うことのできる人々がいたと推測されています。
 では、ご質問にある「5世紀」というのがまったくのデタラメなのかというと、そうでもありません。『古事記』や『日本書紀』には、応神天皇の15年に、当時、朝鮮半島にあった百済(くだら)という国から王仁(わに)という人がやってきて、『論語』と『千字文(せんじもん)』という書物を初めて献上した、と記されています。この応神天皇の15年というのが、西暦の何年にあたるのかは議論のあるところなのですが、中では、5世紀の初頭にあたるという説が有力とされています。ご質問の「5世紀」とは、このことなのではないでしょうか。
 もちろん、それ以前にも、貨幣や銅鏡などの文物という形、あるいは外交文書という形で、日本人は漢字に触れていたことでしょう。しかし、漢字で書かれた「書物」が「公式」に伝来したのは、この応神天皇の15年が最初であると言われています。日本が名実ともに「漢字の時代」に入ったのは、5世紀ごろであると考えていいでしょう。
 『論語』に使用されている漢字は、約2000種類。『千字文』はその名の通り1000種類。重なりもだいぶあるでしょうが、少なくとも2000種類以上の漢字が、このとき、まとまって日本列島に上陸したことになります。
 それから1500年以上が過ぎた現在、新聞や雑誌に日常的に使われている漢字の種類は、特殊なものを除けばだいたい2000から3000種類の間だと言われています。応神天皇の時代以降、日本人は進歩したのかしないのか。なんとも考えさせられる数字ですね。
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🎌4〕─18─表現の自由。日本の現代アートは「人の写真(例えば皇族の写真)を燃やす」こと。〜No.19 ③ 

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 日本芸術といっても、世界の芸術史に残る昔の伝統芸術と自己満足の独り善がりな現代芸寿とは根本的に違う。
 現代の日本芸術と昔の民族芸術とは別ものである。
 つまりは、現代の日本芸術から後世に残る伝統芸術や世界の芸術史で語られる民族芸術は生まれない。
 現代日本人が持っている芸術性とは、その程度、そのレベルである。
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 日本のメディア・報道機関には第四の権力として、不都合な事実を気にくわない出来事と判定する権利と、それを報道しない自由、報道させないさせない自由を持っている。
 その権利を、戦前では戦争へ暴走した右翼・右派が行使し、戦後・現代では平和を求めるリベラルと左翼・左派・ネットサハが行使している。
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 日本を日本として守るのは、歴史的な伝統・文化・言語を共有する日本人だけである。
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 日本民族日本人と琉球人とアイヌ人は、科学的宗教的文化的に縄文人を同じ祖先とする同族である。
 つまり、乱婚を繰り返してきた混血の雑種民族である。
 江戸時代まで、日本民族日本人も琉球人もアイヌ人もブラックな世界で生きていた。
 縄文人の一部は、ベーリング海を越えて北アメリカに移住していた。
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 現代日本人には歴史力がなく、多角的に多方面的に総合的に理解する事ができない。
 そして、本気で日本を愛し、日本を守ろうとする日本人は少ない。
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 日本を愛する日本人が2割、日本が嫌いな日本人が3割、どうでも良いと思っている傍観的な日本人が5割。
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 2020年3月号 WiLL「赤い大地の反日ヘイト展
 人の写真を燃やして平気な人たち
 愛知や広島に続いて北海道でも、背後で暗躍する反日勢力の正体とは──。
 小野寺まさる
 『自由』の名のもとに
 愛知県や広島県に続き、ついに『赤い大地』と称される北海道でも〝反日ヘイト展〟が行われました(2019年12月21日、札幌市教育文化会館『北海道・表現の自由と不自由展2019』)。1日限定の企画展におよそ10の団体が参加、来場客数は450人を記録。
 昨年の11月中旬にこの企画展の公式ツイッターの存在を知り、調べてみるうちに北海道新聞朝日新聞、新聞『赤旗』などが宣伝広告を掲載し始めたことから『これは何かある』と思い、ネット番組『チャンネル桜 北海道』の取材クルーとして会場に足を運んでみたのです。
 すると、案の定企画展は『表現の自由』を口実にした反日ヘイト展であり、日本分断工作を目論む団体が結集してつくり上げたとても悍(おぞ)ましいものでした。
 この企画展には、『あいちトリエンナーレ』でも問題視された『平和の少女像』のミニチュアや、昨年7月札幌市で行われた安倍首相の演説中にヤジを飛ばした聴衆が退場された際の映像、また『地獄のような安倍政権!もうウンザリだ』と書かれた紙など展示されていました。
 そして、極めつきは『あいちトリエンナーレ』に出展され物議を醸(かも)した個人の写真を躊躇なく燃やす〝ヘイト・アクション〟の映像作品『アデュー』(仏語で長い別れの際に使用するあいさつ)です。
 制作者の鈴木翁二氏は、青林堂が発行していた漫画雑誌『ガロ』で安部慎一氏、古川益三氏と並び、『ガロ3羽烏』と称された人気の漫画家。
 彼は映像作品の中で、明治天皇に扮した人物の写真をはじめ、『へんな二人の写真を燃やしてみよう』とマッカーサー司令官と昭和天皇のパロディ写真や東京裁判極東国際軍事裁判)の直前に自殺を図った東条英機元首相の写真を次々に燃やし続けてみせた。
 その他にも『ぼくが殺した空知川(そらちがわ)にすてた女の写真を燃やしてみよう』『その後発見された死骸の写真も燃やしてみよう』とレイプ殺人に遭った女性をイメージした写真や、その遺体が後に河原で発見された場所を再現した写真なども燃やす場面が。殺された性犯罪被害者までも馬鹿にする作者の異常な狂気には、大変胸が悪くなりました。
 しかし映像の内容はさらに過激になります。今度は『あいちトリエンナーレ』の際に愛知県の大村秀章知事に対して正論を主張し続けた名古屋の河村たけし市長をはじめ、安倍総理明恵夫人、菅官房長官ケント・ギルバート氏など、いわゆる保守系の方々の写真、そして未成年皇族である愛子内親王殿下のお写真までが次々に燃やされていった。『あいちトリエンナーレ』では、すでに崩御された昭和天皇のに御真影が燃やされたときでさえ、『死者への冒瀆(ぼうとく)であり、皇室に対する冒瀆でもある』と大騒ぎになったわけです。
 それが、今回の映像作品は未成年皇族を含むご存命の方々、それも多くの保守系の政治家や著名人の写真を集中的に燃やしており、『あいちトリエンナーレ』の作品より、一層日本を愚弄するプロパガンダ作品に進化していたとも言えるでしょう。
 いくら『表現の自由』が認められているとはいえ、肖像権の侵害や侮辱罪、脅迫罪に該当する可能性が高く、なにより『人の写真を燃やす』という行為自体を『自由』や『芸術』の枠内として認めるなど言語道断です。
 報道しない、させない自由
 ……
 その場にいたすべてのマスコミが会場内で愛子内親王殿下のお写真を焼くというあまりに非常識で無礼な映像作品を見ているのに、誰ひとりとして問題とせず、見て見ぬフリをしたことにも強い憤りを覚えました。
 冒頭に挙げた新聞記事や報道番組も企画展が開催されるということだけを報道し、内容にはまったく触れていなかったので、はっきり言って日本のマスコミは死んでいると感じざるを得ませんでした。
 自分たちの都合の良いことばかりを他人に要求し、自分たちの都合が悪くなれば気に入らない者を力ずくで排除するような方々が〝表現の自由と不自由を問う〟企画展を開催し、それを取材していた報道関係者は全員がそのお仲間だったのですから笑止千万です。
 ……
 天皇のものであれ、誰のものであれ、顔写真を燃やすことは道徳に反する行為ですが、もし顔写真を燃やそうと思ったのであれば、なぜ保守系ばかりなのでしょう。百歩譲って、左派系の方々の写真も一緒に燃やしていれば公平だったでしょうが、まったく説明になっていません。
 実態不明の実行委員会
 ……
 ただ、かろうじて昨年11月の北海道新聞の記事から、企画展を開催するにあたり、共同代表のうち3人が記者会見を行ったこと、そして実行委員会が約30人によって昨年9月に結成されたことが分かりました。
 記者会見を開いたのは、慰安婦問題で日本を糾弾し続けている在日コリアンのチョウキム・シガン氏と、北海道大学名誉教授で学部長まで務めた唐渡興宣氏、そしてアイヌ活動家の石井ポンペ氏の3人です。
 ……
 このような怪しい団体がマスコミを利用して、日本を貶める過激なプロパガンダを北海道各地で行っているのです。
 暗躍する反日活動家
 前述した石井ポンペ氏は『原住アイヌ民族の権利を取り戻すウコチャランケの会』の代表も務める北海道では有名なアイヌ活動家で、2018年にも『アイヌモシリに天皇をむかえて考える』という反天皇を色濃く押し出した講演会を行っています。
 そして、この講演会を企画した『ピカリ全国実行委員会関東グループ』は『「北方領土の日」反対!』や『アイヌ新法実現』を押し出し講演会を企画しているような団体で、実はこの団体の電話番号と『反戦反天皇制労働者ネットワーク』という団体の電話番号が一致しているのです。つまり『ピカリ全国実行委員会関東グループ』も反天皇の団体であると言えます。
 また、講演会『アイヌモシリに天皇をむかえて考える』の後援は、なんと札幌市の教育委員会、そして朝日新聞北海道支社。案の定、このイベントの電話番号も反天連(反天皇制運動連絡会)と一致しており、反天連のホームページでも大々的に宣伝されていました。つまり反天連の下部組織のような団体の講演会で主催者代表を務めるような人物が、今回の企画展の共同代表であったことは大変責任が重く、はじめから反天皇を訴えるたけであったと思わざるをえません。石井氏は2011年に上皇上皇后両陛下が北海道へお越しになる際にも、『アイヌの地を侵略した天皇、皇后(当時)が北海道の地を踏むのはけしからん!』と言わんばかりに『天皇・皇后はくるな!天皇制反対だ!討論集会』という集会も開催している。無論、この集会もピカリ全国実行委員会が開いたものです。
 そして最も警戒しなくてはならないのが、彼らがチュチェ思想関連の講演会などに数多く登壇し、またアイヌ協会の中でチュチェ思想を広めている人物でもあるという点です。彼らはアイヌ活動家であると同時に『金王朝への〝絶対服従〟』を誓わせるチュチェ思想の信奉者でもあり、日本で布教するのに一役買っているのです。
 また一昨年の9月、北海道の札幌で『金正恩著作研究会』の設立準備会が開催され、朝鮮大学校の韓東成学長が記念講演をしたのですが、ここで中心的な役割を担ったのが阿部ユポ氏という人物です。阿部氏は大阪の金正恩著作研究会の共同代表にも選ばれ、さらに金日成金正日主義研究165号(2017年1月)には各界人士として寄稿文が掲載されており、まさに『チュチェ思想』の第一人者と言えます。実は北海道アイヌ協会札幌支部長であった石井氏から支部長のバトンを引き継いだのが阿部氏であり、深い関係のある両氏が日本にとって危険極まりない思想を持つ団体と連動し活躍をしているのは偶然ではないでしょう。
 アイヌの問題は、それだけではありません。昨今、世間を賑わせたIR事業もアイヌ利権の中心にあります。現在見送られているIR事業展開の最有力候補地である苫小牧では、アメリカの企業『ハードロックカフェ』が5,600億円を投入し、『日本のIR事業をリードする』ということで相当な動きを見せていました。ハードロックカフェは、フロリダ州セミノール族と呼ばれる先住民族のオーナーが運営する会社で、会社が急成長を遂げたのも『先住民族』ということで〝特別な権利〟を社会から与えられてから。つまりセミノール族は、特権的な立場からカジノ経営を成功させてきたわけです。
 また昨年の暮れ、ハードロックカフェの役員が北海道を訪れたというので、『何しにきたんだろう』と思ってみれば、案の定、シャクシャインの法要祭に出席していました。そして、アメリカに帰国して1ヶ月後に開いた記者会見では『我々は先住民族であるアイヌと共にカジノをやる』と自分たちのノウハウをアイヌに提供する意欲を見せた。もしハードロックカフェが北海道に進出することになれば、IR事業は間違いなくアイヌ利権になるのは間違いありません。
 北海道を狙う者たち
 カジノ利権を狙うのは、アイヌだけではありません。先日、北海道のIR事業への参入を目指していた中国企業『500ドットコム』から賄賂を受け取ったとして、秋元司氏が収賄罪で逮捕されましたが、中国も大規模な土地買収などを進めながら、北海道で戦略的に動いているのです。
 そもそも『500ドットコム』が日本に進出したのは2017年7月、中央区日本橋のビルの一室に事務所を構える形で『500ドットコムジャパン』が設立されました。ところが調べてみると、登記された住所には私が確認しただけでも4つの企業が同じ住所で登記をしていた。それから2ヶ月後、今度は千代田区の大手町に事務所を移転していますが、この移転先も事務所がある場所として住所を借りることができるバーチャル(レンタル)オフィスであり、事務所としての実態はありませんでした。とても不自然な話です。
 現在、赤字続きの『500ドットコム』が倒産しないのは、中国の精華大学が経営する『精華紫光集団』という半導体企業が背景にあるからです。精華大学は習近平国家主席が母校として大切にしているということもあり、精華紫光集団は事実上の国営企業なのです。
 彼らが日本のIR事業に乗り出してきたのは、ギャンブル依存の問題解決を建前に、声帯認証システムをセキュリティとして導入することで、日本に浸透することが目的です。日本の富裕層から声帯情報を得ようとしていた。世界中にDRAM({ディーラム}いつでも書き込み、読み出し可能な半導体メモリの一種)を盗もうとしている彼らなら十分あり得ます。
 また日本で大量の雇用を生み出し、中国人を送り込むことも目的の1つでしょう。IR事業の展開を検討していた横浜の資料などを読んでも、中国人観光客をターゲットに呼ぶカジノを考えると、およそ6,000人から8,000人、多いときでは1万人ほどの中国人スタッフが必要となる計算です。過去には実際、千歳市で1万人規模の中国人居住地を建設するという話が持ち上がり、建設途中で住民から『中国人が来て治安が悪くなった』などとクレームがあって計画が頓挫したこともあります。
 その後も釧路市留寿都(るすつ)村、赤井川村とダメになり、現在は苫小牧市に建設している節がある。これはすべてIRの誘致を表明している候補地であり、前述の通り、苫小牧はその最有力候補地です。つまり1万人規模の中国人別荘の建設は、1万人規模の〝チャイナタウン〟をつくるのに等しいということです。考えようによっては出費もなく、日本の公金をうまく利用して中国人を日本に大量に送り込むという戦略的な日本侵略の可能性すらある。
 このままでは、北海道は確実にアイヌ利権と中国、韓国、北朝鮮といった大陸側の巣窟(アジト)になってしまいます。
 北海道の先住民族縄文人ですし、学術的にもアイヌ先住民族であるという話は十分に疑いのある話です。
 にもかかわらず、現在は『アイヌは本当に先住民族なのか』と発言するだけで、バッシングの嵐が巻き起こり、一様に差別主義者(レイシスト)のレッテルを貼られてしまう。彼ら大陸側の国々は少しずつ日本と違うものを作り上げていくことで、北海道はもとより、日本を分断しようとしているのです。残念ながら、彼らの策略は上手くいっていると言わざるを得ません。
 ただ政府がアイヌ先住民族と認めた以上、今後は国連の『先住民族の権利に関する宣言』を遵守しろと、国旗や国歌、軍隊、裁判などの権利や自治区を持たせる動きが高まることは避けられないでしょう。冒頭の企画展でもアイヌの展示コーナには、いずれ国旗になるとされている旗が展示されており、横には実際に『自治権要求』などと書かれていましたから。
 アイヌは他の先住民族とは異なります。日本は虐(しいた)げられたどころか、しっかりと保護してきた。アイヌ自身、以前は日本人だという認識だったにもかかわらず、ここにきて突然『我々は倭人(日本人)とは違う民族だから特権がある』と主張し始めた。
 なぜ日本人が、先住民族として学術的に疑念があるアイヌの権利を保障し続けなければならないのか。
 おそらく、企画展を行ったような日本を貶(おとし)めようとする勢力は、今年の東京オリンピックを好機として、アイヌへの非道な仕打ちを世界へ向けて発信する魂胆でしょう。話をつくり上げ世界中に発信する、韓国の慰安婦問題や徴用工問題と同じ構造です。日本の危機は、身近なところまで着々と迫っている。これ以上、敵の反日工作にやられっ放しではいけないのです。」
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 日本政府は、人口激減対策として移民政策を採用し、移民数を1,000万人と定めている。
 日本に移住して来る外国人移民の大半は中国人移民である。
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 北海道のIR事業とアイヌ利権に群がる人々。一部のIR事業推進派日本政治家。親北朝鮮派チュチェ思想アイヌ人活動家。朝鮮総連朝鮮大学校アメリカ・インディアン系カジノ企業企業ハードロックカフェ習近平主席出身精華大学系精華紫光集団(半導体企業)の500ドットコム。反天皇制運動連絡会(反天連)。反天皇反日的日本人高学歴出身知的エリートのメディア・報道機関、自治体職員。
 反天皇キリスト教徒。
 琉球独立派日本人。
 反天皇反日在日コリアン
 反天皇反日派の国連人権委員会
 反日派のロシア人。
 グローバルを目指す人々の最優先課題は自分に利益である以上、相手国や相手民族の生存権な一切考慮せず、生き残ろうが息絶えようが気にはしない。
 それは、自己責任の自業自得である。
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 中国共産党・中国軍による、IR事業を悪用した日本分解工作としての北海道と沖縄。
 中国謀略機関が仕掛けた利権・金と美女・美男で、中国共産党に協力する日本人が少なからず存在する。
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 中国共産党・中国軍は、尖閣諸島、沖縄、沖ノ鳥島そして北海道を手に入れるべく陰謀をめぐらし、反天皇反日的日本人達の協力を得て着実に浸透工作を行っている。
 中国共産党・中国軍は、国内完全漢族系中国人化の為に、先住民族少数民族・異民族に対する非人道的なジェノサイド政策と反宗教無神論共産主義による宗教弾圧を実行している。
 つまり、中国人が住む土地は、中国共産党支配下の土地として、中国共産党監視下で中国人と親中国派異民族が仲良く穏やかに幸せに住む平和な土地であると。
 親中国派日本人の協力で、北海道に1万人規模の中国人居住地区・チャイナシティ建設計画が進行しつつある。
 チャイナシティの裏実態はアンタッチャブルという闇である。
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 反天皇反日外国勢力の支援を受けた、アイヌ活動家はアイヌの独立を、琉球人は琉球の独立を、国際世論に訴えている。
 彼らの最終目的は、日本国の解体と日本天皇の消滅である。
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 中国・精華大学には、アメリカの世界的有名企業や政治力を持った有力なアメリカ人が多数関与している。
 親日派知日派の一般中国人と反日派敵日派の中国共産党員・中国軍人は違う中国人である。
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 訪日する中国人や日本在住の中国人の中に、中国共産党員・中国軍人のスパイ・工作員が多数潜んでいる。
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 キリスト教朝鮮人テロリストや日本人共産主義テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺し、天皇制度を廃絶し、天皇家・皇室を消滅させようとした。
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 日本は江戸時代後期以来、蝦夷地(北海道)・北方領土4島を日本国固有の領土と宣言してロシアの侵略から守る為に戦っていた。
 日本国は、アイヌ人が住む北方領土4島を、琉球人がすむ沖縄を、日本人を犠牲にして守ってきた。
 日本が最も恐れたのは、朝鮮人のように、琉球人が中国に、アイヌ人がロシアに、日本を裏切って味方して日本を攻撃してくる事であった。
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 古代から、日本国の周囲には反天皇反日外国勢力が存在し、反天皇反日外国勢力は隙あらば日本に侵略しようと狙っていた。
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 日本には、日本を分断し消滅させようというドス黒い陰謀が渦巻く闇が存在し、その先は反天皇反日外国勢力に繋がっている。
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 歴史の事実として、明治天皇大正天皇そして昭和天皇はその治世時において行われた幾つもの人道貢献に直接的間接的に関わっていた。
 東条英機松岡洋右松井石根A級戦犯達も、ヒトラーナチス・ドイツなどからの外圧を拒絶してポーランドユダヤ人数万人を助けていた。
 さらに、東条英機河南省大飢饉で餓死しかけた約1,000万人の敵国人である中国人を助けた。
   ・   ・   ・   
 生物はおろか地球や宇宙でも寿命があり、寿命が尽きれば死ぬ。
 それは、国家でも民族でも同様で、日本国も日本民族も逃れられない宿命として何時かは死ぬ。
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🎌4〕─17─血に塗られた凄惨な皇位継承問題。皇子7人に6人は即位できなか。〜No.18  

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 2020年2月15日 産経新聞「【編集者のおすすめ】『皇子たちの悲劇 皇位継承の日本古代史』 敗者から読み解く古代王権
 『皇子たちの悲劇 皇位継承の日本古代史』倉本一宏著
 □倉本一宏著(角川選書・1800円+税)
 『日出処(ひいづるところ)の天子(てんし)』のミステリアスな厩戸(うまやと)皇子、『天上の虹』の大津皇子澁澤龍彦の小説にもなった高丘親王
 小説や漫画の登場人物としても知られる皇子(王子)たちですが、彼らはなぜ、天皇(大王)になれなかったのでしょうか。その疑問に答えてくれるのが本書です。
 古代の歴史書には、天皇として即位できなかった皇子の記録がたくさん残されています。しかし、大王継体(26代天皇)以降、82代後鳥羽天皇までに誕生した皇子304人のうち、即位できたのはたった44人で、確率は14・47%。7人に6人は即位できなかったのです。
 一方、天皇の立場からみると、同時代の48人の男子天皇のなかで皇子を即位させることができたのはおよそ半分強。2人以上を即位させられたのはわずか14人にすぎません。皇統を伝えることがいかに難しいかがわかります。
 血塗られた飛鳥・奈良時代を経て、52代嵯峨天皇以降は即位できなかった皇子が殺されることはなくなり、やっと平安な時代が到来します。
 しかし、中世以降、皇位継承は次第に武家政権の意思に左右されるようになっていくのです。
 伝承世界では、皇位継承に敗れた皇子たちは流浪の旅をし、各地の民衆と結びついていきます。また王朝文学の最盛期には、彼らを描いた文学も作られました。
 「歴史は勝者が作り、文学は敗者が作る」。皇子たちの知られざる歴史をぜひ知っていただきたいと思います。(KADOKAWA文芸局 竹内祐子)」
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👪21〕─1─日本民族は気弱でひ弱で軟弱な為に怒鳴り叱って育てた。〜No.107No.108No.109No.110 ⑥  

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 褒め言葉には、相手を思い伸ばそうといういい褒め言葉と相手を破滅させようとする悪い褒め言葉がある。
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 2020年2月20日号 週刊新潮「『市村正親vs.堂本光一
 怒ってくれる人がいる幸せ
 ……
 『YOU、最悪だよ』
 ……
 市村 ジャニーさんとも、どこかでお会いしたかった。エンターテインメントの世界で、光一君をはじめ、たくさんの人材を育ててきた天才だと思うから。ジャニーさんって、どんな人だったの?
 堂本 ずっと舞台やショーを愛した人でした。ただ、正直、ジャニーさんの頭の中にあるものを、僕は最後まで理解できなかったと思います。本当に先の先、さらにその先まで行っちゃってた人なので。ジャニーさんは人によって育て方を変えていましたが、僕は褒めいで育てられたタイプで、何をやっても叱られて、『YOU、最悪だよ』しか言われませんでした。
 市村 その『YOU、最悪だよ』って言ってくれる人がいないんだね、いまは。
 堂本 自分が役者として生きていく上で、もうそれが聞けないのは、本当に寂しいです。
 『よく頑張った』
 市村 叱られるのとはニュアンスが違うけど、僕にもたくさんダメ出しをくれた人がいた。若かった僕を手取り足取り指導して、役者としての原型を作ってくれたのは、劇団四季の浅利(慶太)さん、その身体で演出家の蜷川(幸雄)さんや栗山(民哉)さんへも飛び込み、さらにダメ出しをもらって、今の僕がある。
 堂本 以前、森光子さんから『怒ってくださる人がいることは、本当に幸せなことですよ』と言われたことがあって、その通りだと。市村さんにとってのダメ出しも、そうなんですね。
 市村これまで出会った演出家のダメ出しは、新しい舞台に臨む時のバロメーターになっている。浅利さんが見てたら、どんな風に言うかな?蜷川さんだったら、どんなダメ出しが飛んでくるかな?とか。特に蜷川さんは、未だに僕の稽古場に現れては、『イッちゃん、そんな芝居で本当にいいの?もっとアイディアあるだろう』って、耳元でささやかれている気がするんですよ。
 堂本 市村さんぐらいのキャリアならば、すでに確固たるものがあってもおかしくないはずなのに、今も様々な意見をインプット、吸収しようとされていますよね。先日、市村さんの楽屋へお邪魔した時、『今日の芝居、どうだった?』と真剣に聞かれて、驚いたんです。気になったことを教えてと。
 市村 とにかく、褒めないでね、悪いことだけ教えたって言ってる。褒められると、次の日に意識しちゃうから、良くない。
 堂本 褒められると、確かに緩んじゃいますしね。 
 市村 ただ、蜷川さんからの〝褒め言葉〟は嬉しかった。シアターコクーン(東京)で僕の初演の『NINAGAWA・マクベス』をやった時、療養中の蜷川さんがひさびさに劇場に来たので、『ニーナ(蜷川さんの愛称)、なんか一言、書いてよ』って台本を渡したら、震える手で『よく頑張った』と書いてくれたの。『頑張れじゃなくて、頑張った、だからな』と言い添えて。その台本は宝物だね。
 堂本 そうだ、僕もジャニーさんに『YOU、最悪だよ』って書いてもらえば良かった。」
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 日本民族は、常識を持った大人になりきれないクソ餓鬼である。
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 日本民族に過度に誉め煽てあやすと思考停止の馬鹿になりやる気を失い堕落する。
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 褒めて励ますと、やる気を起こして才能を伸ばす日本人が2割、有頂天となって何もしなくなる日本人が3割、悪くはならないがよくもならない平凡な日本人が5割。
 日本民族には、誉めて煽て宥めて励し手取り足取り教えて伸びる日本人がいれば、怒って叱ってダメ出しをして突き放して伸びる日本人がいるし、褒めても叱ってもどうにもならない愚昧な日本人もいる。
 現代日本ではどうにもならない愚鈍なダメ日本人が増え、それは子供ではなく中高年の大人に多い。
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 日本民族は、物事を深く考えない単純思考で、自我が乏しく、意志が弱い為に、むやみやに誉めて煽て宥めて励ますとその気になって馬鹿になる。
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 日本民族は、「豚もおだてりゃ木に登る」タイプで、褒められると調子にのり、褒めてくれた相手に喜んで貰おうと張り切るお調子者である。
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 日本民族をダメにするなら、「褒め殺し」が一番である。
 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とおべんちゃらでを言って囃し立て有頂天にすれば馬鹿になってダメになる。
 「ジャパン・バッシング」で追い込むと逆に意固地になって張り切る。
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🗻121〕122〕123〕─1─明国は南朝系九州王国を属国とした。日本分裂崩壊の危機。 ~No.291No.292No.293No.294No.295No.296 @ * ㊴ 

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 南朝方残党は、日本国王の称号を得て、明国の軍事力を借りて九州を分離独立させ第2日本国を建国しようとしていた。
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 日本は、古代から中国の歴代帝国や朝鮮の諸王朝の影響と侵略攻勢を受けていた。
 九州は、近畿・京都から遠く、中国や朝鮮に近く、中央・ヤマト王権に反攻し従わない勢力が存在していた。
 九州は、古代から中国や朝鮮と交流し、ヒトの往来が盛んな為に高度な知識が流入し、モノとカネのやり取りが盛んで開けて豊かであった。
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 北九州には。筑紫の国造(くにのみやつこ)磐井は、ヤマト王権から独立する為に古新羅と手を組み反乱を起こして。
 南九州には、ヤマト王朝=反京都朝廷の熊襲や隼人が存在していた。
 東北蝦夷にも、古代から反ヤマト王朝=反京都朝廷勢力が抵抗運動を繰り返していた。
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 国人=武士は、恩賞として領地をくれる相手に付き従う。
 当時の日本人には、日本国意識はなく愛国心もなく、民族意識もなかった為に連帯意識もなく、当然アイデンティティーもなかった。
 ひたすら、土地大事の一所懸命の一点張りであった。
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 2020年3月号 歴史街道「九州に『南朝王朝』を築いた皇子・懐良(かねよし)親王
 建武の新政が崩壊した後、後醍醐天皇は各地に皇子を遣(つか)わし、南朝勢力の軍事的な拠点を築こうとした。
 そのとき九州に派遣された懐良親王──。
 わずか12名の共とともに上陸した親王は、『南朝王国』ともいうべき強力な支配体制を築いていく。
 森茂暁
 京都朝廷・幕府の支配は、九州に及んでいない
 南北朝時代も後半期にさしかかったころの1367年(貞治6,正平22)、当時朝鮮半島にあった高麗国は京都の北朝朝廷に使者を派遣した。目的は、いわゆる『倭寇』(対馬壱岐などを本拠とする海賊)の鎮圧である。
 『倭寇』の強盗・放火・略奪といった乱逆行為に苦しめられた朝鮮王朝が、日本に自主的な鎮圧を要請してきたのである。北朝の公家三条公忠は、その日記『後愚昧記(ごぐまいき)』同年5月23日の条に以下のように書き付けている。

 当時本朝のていたらく、鎮西(ちんぜい)九国ことごとく管領するにあらず。禁圧(きんあつ)の限りにあらず。
 
 本朝とは京都朝廷=北朝(およびそれを擁立する武家政権室町幕府)を指すので、右の記事で公忠は『北朝・幕府の支配力は「鎮西九国」、つまり九州にはみな及んでいない。だから(倭寇の)禁圧はできない』と述べている。当時幕府の支配権は九州に及んでいなかったのである。
 ここでは、南北朝時代の後半期、1360年代から70年代にかかる時期に、九州において『南朝王国』ともいうべき強力な支配体制を築きあげた後醍醐天皇の皇子、『西征将軍宮』懐良親王の生涯を素描する。
 懐良が九州に南朝王国を築きえたのはなぜだろう。その要因の1つに、九州の国人(こくじん)たち独特の行動上の性格があった。中央政府の動向に即応(そくおう)する『中有直結』の性格と、これに相反(あいはん)する土着の『反中央』の性格である。この2つの性格は、時代の状況に応じて変幻自在に見え隠れした。その最も極端なケースが南北朝時代であった。
 随従者12名を伴って九州へ
 日本の中世の天皇家では、天皇の子息たる皇子たちは、跡継ぎとして皇太子となる者を除いて多くの者が門跡寺院に送り込まれ、俗人としての社会的活動の跡はほとんど残していない。しかし、南北朝時代天皇である後醍醐天皇の皇子の場合は例外である。
 後醍醐天皇は、その分身としての皇子たちを日本列島の主要な地域に派遣し、王権の分枝(ぶんし)として軍事的な結集の中核に据(す)えようとした。陸奧の義良(のりよし)、関東の成良(なりよし)、北陸の恒良(つねより)などがそうである。
 こうした後醍醐による全国制覇の一環として九州に派遣されたのが、懐良であった。
 懐良親王南朝の拠点吉野から九州にむけて派遣されたのは、1338年(暦応元、延元3)9月のことである。随従者は五條頼元を筆頭に総員12名。ここでは南朝の軍勢を伴っていない点が注目される。
 懐良主従が目的を果たすためにとりえた方法は、九州の在地勢力の対抗関係や、領主制的な発展に向けての動きを見極め、南朝皇子の貴種性を活用して彼らを組織化することしかなかった。
 京都では足利尊氏北朝によって征夷大将軍に任命され、初期段階の室町幕府が軌道にのる時期のことである。すでに九州には、筑前国博多に室町幕府の広域行政機関たる鎮西管領鎮西探題とも)が置かれ、幕府の九州支配を担当していた。鎌倉幕府を討つ戦い以来、足利尊氏との繋がりを有する在地武士も多く、懐良が博多から九州に入るのは困難であった。
 懐良親王が瀬戸内海を横断した後(途中、忽那{くつな}島に滞在)、九州の南端薩摩に到達するのは1341年(康永元、興国3)5月のことであった。薩摩国谷山郡を本拠とする谷山隆信が、北朝勢の薩摩守島津貞久に対抗するためである。
 こうして博多と谷山という九州の南北両端に、北朝勢力と南朝勢力の拠点が置かれることとなった。九州の在地武士たちは利害関係にもとづき、自らの判断で、或(ある)いは北朝側或いは南朝側に与力(よりき)したので、九州の南北朝動乱はここに本格化することとなった。
 肥後国菊池氏の支え
 懐良親王の九州制覇計画は当初、肥後阿蘇社大宮司阿蘇惟時を頼る形で練られた。阿蘇市鎌倉時代にあっては九州でも最有力クラスの神官御家人で、後醍醐天皇の篤い信頼をうけて白羽の矢が立っていたのである。
 しかし、阿蘇氏内部で総領(そうりょう)惟時と庶家(しょけ)の代表格とみなされた惟澄との間で内部対立が生起(せいき)していた。……
 このため懐良は、阿蘇氏に代わって、同じ肥後の菊池氏に期待を繋いだのである。……1348年には懐良親王を菊池に迎え入れた。
 この年には懐良は菊池において『成人』(数え20歳とみられ、これから逆算すると懐良の誕生は1329年となる)
 ……
 『観応の擾乱(じょうらん)』が九州に与えた影響
 この間の出来事として、中央政治の一齣(ひとこま)としての『観応の擾乱』が九州に波及したことを述べねばならない。
 観応の擾乱とは、1349年(観応3、正平7)あたりまでの期間、京都を中心として生起し、室町幕府政治を混乱に陥(おとしい)れた一連の武家政権内部の争乱をいう。
 この抗争のあおりを承(う)けて、足利直冬足利尊氏の実子。うとまれて尊氏の実弟直義の養子となる)が九州に下ったことで、九州に南朝北朝のほかに、いずれにも属さない、いわば第三の政治的結集の核が生まれ、九州の南北朝動乱の構造はなお一層雑化した。
 当時のふつうの武士たちの合戦に際しての行動原理は、肥後人吉の御家人相良氏の文書(1311年〈延慶4〉3月5日相楽連道置文)のなかに、『合戦がおこったときには、勲功をたてよう。狭小(きょうしょう)な所領はその勲功で広くもなるのだ』と言い置いているように、恩賞本位だったため、国人たちの行動は定まらなかった。これに先述の九州国人たちの性格がプラスされる。このようなわけで九州の南北朝の動乱は敵味方の関係がめまぐるしく変転し、結果的に複雑な様相を呈(てい)することになった。
 足利直冬が九州下向(げこう)した当初、九州国人たちの支持を急激に得たこと、逆に1351年(観応2、正平6)、直冬が足利尊氏によって鎮西探題に任命され、幕府配下に組み込まれた途端(とたん)、今度は急激に支持を失ったこと、さらに直冬勢力の幾分かは懐良の下に流れ込んだらしいと、それらはいずれも九州国人の『反中央』の性格のあらわれといえよう。
 観応の擾乱によって、九州南朝はまさに『漁夫の利』を得たのだった。
 明の洪武帝に『日本国王』と認定される
 筑後国大保原(おおほばる)合戦から2年後の1361年8月、懐良はついに、古代律令の時代に九州統治の政庁が置かれた筑前国太宰府に入った。薩摩上陸以来、19年かけての九州縦断であった。太宰府は、いまだ九州の中心都市としての地位を失っていなかった。
 この懐良の九州入りの先導役を果たしたのは、むしろ菊池武光であった。九州南朝軍の拠点たる征西府は、主としてこの菊池氏の軍事力によって支えられ、九州の北半、つまり筑前筑後肥前、肥後、それに豊前に支配が及んだことをうかがわせる史料が残っている。
 冒頭で、1367年に高麗国から申し入れられた倭寇鎮圧要請に室町幕府がお手上げの状況だったことを述べたが、それはまさに九州の政治状況がこのようなときのことなのである。特に北部九州は征西府の黄金時代で、敵対勢力は介入することができなかった。
 1368年に中国大陸に誕生した明国も、倭寇問題には高麗と同様に頭を悩ませていた。初代皇帝太祖洪武帝(こうぶてい)が太宰府懐良親王を『日本国王』と認定し、懐良との間に国交を開こうとしたのも、この倭寇問題と密接な関係があると考えられる。しかし、まもなく征西府が衰退したことによって、懐良は日明間の国交を実質化することができなかった。
 やがて統一政権を樹立した室町3代将軍足利義満が1401年(応永8)に日明交渉を開くことに成功するが、その先鞭(せんべん)をつけたのは、征西府の主帥(しゅすい)懐良だといって過言ではない。
 太宰府征西府は、幕府から派遣された新鎮西管領今川了俊の軍略によって、1372年(応安5、文中元)8月に陥落させられた。以降九州南朝勢力は衰滅し、懐良は1383年(永徳3、弘和3)3月27日に筑後矢部の山中で没したとされている。先述のように1329年(元徳元)の生まれだとすれば、行年(ぎょうねん)は55ということになる。」
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 日本の勘合符による日明貿易は、他国間交易であり、海外から流入した高価な外国産は国内消費を活発化させ、内需は経済発展を誘発して富を生み、増えた民間資本は技術・技能ある生産現場に投資され、曲がりなりにも富の再配分がなされていた。
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 朝鮮の冊封による朝貢貿易は、宗主国・属国間交易で、王侯貴族や両班などの支配層は朝貢貿易で富み独占し、民衆の被支配層は搾取されるだけの存在として貧しく虐げられていた。
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 2018年7月19日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 [中世篇]
 (73) 倭寇と『日本国王
 『足利義満は、天皇になろうとしたんやで』という説があります。
 その状況証拠としてよく挙げられるのが、義満が『日本国王』を名乗ったという歴史的事実です。
 それは実際にはどういうことだったのでしょう。
 1379年の政変で管領細川頼之斯波義将らに追放されると、義満に権力が集中することになります。
 翌年、中国の明でも、初代皇帝、朱元璋洪武帝)のもとで絶大な権力を振るっていた宰相の胡惟庸(こいよう)が、謀反の罪で処刑され、関係者が大量に粛清される政変が起きていました。
 偶然、海を隔てて似たような事件が起きていたわけです。そして胡惟庸の罪状には、日本国王など外国の勢力と結託して国家転覆を図ったというものがありました。
 これはまったくの冤罪といわれていますが、ここでいう『日本国王』とは、九州を支配する南朝の征西将軍、懐良親王のことです。
 当時、食料、物品の略奪や、住民を奴隷として拉致するなど好き勝手に中国沿岸を荒らし回っていた海賊──倭寇を退治するため、明は71年に懐良親王を『日本国王良懐』として冊封(さくほう)し、その働き(倭寇取締)を期待していたんですね。
 冊封というのは、中国の皇帝が周辺国の君主と、宗主国・属国の関係を結ぶことです。
 九州独立!?
 一方の懐良は明の軍事力を後ろ盾にして、北朝方と対抗しようとしたとみられています。最終的には、独自の九州国家を樹立しようとしたわけです。
 これは義満にとっては由々しき事態でした。対抗して73年、室町幕府最初の遣明使を送ります。
 ところが、義満は日本の王ではなく臣下であるという理由で、外交相手として認められなかったのです。
 80年にも『征夷大将源義満』名で明に通交を求めましたが、やはり駄目でした。
 倭寇の海賊行為に困り果てていた明は、海禁政策をとっていました。明の認めた船しか交易してはならないという厳しい規制です。
 日本に対しても『日本国王』との通交しか認めません。一方義満にとっては、『日本国王懐良』を名乗る九州の南朝勢力が明を後ろ盾に敵対してくる恐れがあったわけです。
 義満は95年に出家して道義と改名しました。大臣や将軍など、天皇の臣下であることを示す肩書を捨て、太皇太后・皇太后・皇后に準ずる准三后の称号のみを使用します。
 また明の望む倭寇対策にも義満は積極的に取り組み、その上で、1401年に僧の祖阿と、博多の商人を使いにして、金や剣など様々な宝物を乗せた船で遣明使を出します。
 『日本准三后道義』の名で明の二代皇帝、建文帝に書を奏上すると、今度は即座に朝貢の希望が認められ、明から対日使節が送られます。
 実は建文帝は、有力な叔父である朱棣(しゅてい)に帝位を狙われていて、近隣諸国を味方につけておきたいという事情があったんですね。前年には李氏朝鮮冊封しています。
 明使は1402年8月に兵庫の港に着くのですが、このとき義満はわざわざ兵庫まで出向き、唐船を自分の目で見ています。そして京都で引見の儀が行われます。建文帝からの手紙にはこう書いてありました。
 明の臣下になる?
 『なんじ日本国王源道義は、土産とともにわざわざ使いを送ってくれて、朕はうれしい。倭寇退治もよろしく頼む』。義満は、日本国王として明に冊封されたのです。ただ、建文帝はこの4ヶ月後、朱棣に敗れてしまいます。そして朱棣が、永楽帝として即位しました。
 義満は抜かりなく。1403年2月、明使の帰国時に禅僧の堅中圭密(けんちゅうけいみつ)を使節として同行させる際、明の情勢を考慮して建文帝宛と永楽帝宛の2通の国書を作成しました。
 その中で義満は自ら『日本国王臣源』と称していたのです。
 日本が中国と正式に国交を結んだのは遣唐使停止以来500年ぶりで、冊封を受けたのは5世紀の『倭の五王』以来のことでした。
 かつては、せっかく日本は中国から独立していたのに、足利義満は勝手に日本国王と称して中国にひれ伏した。とんでもないやつやなどと言われていましたが。
 しかし明との貿易をすればメチャ儲かるわけですから、平清盛と同じように日本の発展を考えたら交易をやったほうが得ですよね。名を捨てて実を取ったんだと思います。
 明使引見の席の配置や服装、詔書の聞き方などの記録が残っていますが、それを見ると義満は全くペコペコせずに中国の使節を迎えている。
 まるで朝貢してきた異国の使節を謁見するような感じでした。
 また義満の『日本国王』の称号は、あけまで貿易の便宜として用いられていました。国内政治で『中国皇帝を後ろ盾とする権威』として使った形跡がまるでないのです。ここからも『義満は帝位簒奪を意図していた』という説は否定されるわけですね。
 勘合貿易と義持の反抗
 こうして日明貿易がはじまります。明の政府が公認した船だと証明するために、勘合符という紙片が使われました。勘合符を半分に割り、日本側と明側が半分ずつ持ち、それが合えば『よしよし、正式な貿易船やな』とわかる仕組みです。
 1回の航海には150人乗りの船6、7隻が行き交っていたようです。あるいは700石から1,700石の規模です。1石は約300リットルですから、荒っぽく言えば3石で1トンですよね。2,500石の船なら、830トンぐらいになります。500石だったら150トンぐらいになります。
 1492年にアメリカに到着したコロン(コロンブス)の船が150トンぐらいです。そこから考えると、結構大きな船で勘合貿易をしていたことになりますね。
 明に売っていたものは、銅や硫黄や刀。日本刀はかっこよく綺麗だったので喜ばれたんですね。明から買っていたのは、永楽通宝という銅銭や、生糸や書物です。
 勘合貿易は、幅広い経済的・文化的な効果を生み出しました。南北朝の動乱からの復興の切り札にしようとした義満の狙い通り、室町幕府に繁栄をもたらしたのです。
 ところが義満死後、あとを継いだ足利義持勘合貿易を止めてしまいます。
 義持は優秀な人で、禅などの学識も深く賢かったといわれますが、1394年に四代将軍になったものの、義満が院政のような形で政治を総攬(そうらん)していました。1408年に義満が死ぬまで14年間も、将軍でありながら何の権力もなかったんですね。全部お父さんが決めていた。
 こういう立場の長男がどういう気持ちになるかと言えば、当然お父さんと正反対のことをやりたくなるのはわかりますよね。
 だから義持はお父さんの死後、皇室が義満に太上法皇号を追贈しましょうといってきたのをすぐ辞退しますし、花の御所から、義満以前の幕府の本拠地であった三条邸に引っ越しもします。1411年には勘合貿易もやめてしまうのです。
 義持の死後、将軍を継いだのは義持の弟、義教でした。そして今度は義教が兄義持に反対する政治をするようになります──それはまた後で見ることにしましよう」
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 現代の反天皇反日的日本人が目指す理想国家とは、天皇制がない日本もしくは血筋・血統を正統としない天皇が即位する日本である。
 彼らは、日本を理想国家に作り変える為ならば、躊躇なく外国勢力と手を組んで金・兵士・武器の援助を受ける。
 目指す理想天皇とは、天皇位を特殊な血統・血筋を正統とする特別の家・一族に独占させるのではなく、血の神話を消滅させ、血の縛りから解放し、即位したいと希望する者が自由に即位できる事である。
 つまり、血統の正統から皇統の正当にする事であった。
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 天皇・民族・国を、命を捨てても守ろうとする日本人は2割、倒し滅ぼし自分の物にしようとする日本人は3割、場の空気圧・同調圧力に押し流される日本人が5割。
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 南朝方九州王国が、明国(中国)と李氏朝鮮と軍事同盟を結び、明国・朝鮮連合軍の援軍をえ、西国の南朝方を糾合し京を攻めれば、北朝方と足利幕府は東国に逃げるしかない。
 南朝方九州王国が京・西国を支配すれば、北朝と足利幕府は関東を支配した。
 その結果、日本は明国や朝鮮の軍事支援を受けた西朝と民族系東朝に分裂した。
 文化も、東朝は日本文化のままだが、西朝は朝鮮同様に中国化し日本文化は消えた。
 西朝の日本人は、明交易で金儲けした豊かになれば中国化を受け入れて抵抗をしないだろう。
 誰が、満ち足りた生活を捨てて、貧乏で貧困に喘ぐ正統天皇が総べる東朝に住みたいと思うだろうか。
 さらに、東北にはヤマト王権=京都朝廷に逆らう反天皇的人々が住んでいて、彼らは長年の恨みから西朝と同盟を結ぶ可能性があった。
 正統天皇が総べる東朝は、親明国派西朝と東北の反天皇的勢力に攻められて滅び、血統・血筋による正統天皇家は絶える事になる。
 最終的に、日本は明国の属国となり、急速な中国化と大量の中国人移住で日本民族・日本文化・日本文明は消滅した。
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 統一新羅が唐軍の援軍を得て朝鮮半島を統一し、その後、約1,000年朝鮮は中国の属国となった。
 朝鮮の歴代王朝は、中華皇帝に命じられるまま少女・女性を妓生(宮中慰安奴隷)として中華皇室に献上した。
 それが正統派中華儒教の真の姿である。
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 利益や金に目が眩む欲得な日本人は、愛国心に燃えたベトナム人のように中国に対して徹底抗戦しなかった、であろう。
 儒教を信ずる日本人は、朝鮮の諸王朝を嫌悪するが、中国の諸王朝には親しみを感じていた。
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 明国皇帝は、日本天皇を滅ぼすべく、中国皇帝が承認する日本人を正当な天皇に即させる為に血筋を正統とする哲学・思想・民族神話を消滅させた、であろう。
 つまり、天皇制度の正統性を、血の血統ではく、徳の皇統に変更させる事である。
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🗾47〕─1─弥生時代の特産品。日本国内は朝鮮半島から輸入された鉄を求めて交易が活発となる。~No.138No.139 

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 現代日本は鉄の時代である。
 鉄の時代は、弥生時代に始まり、現代においても続いている。
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 弥生時代に主に使われた鉄器は、戦う為の武器ではなく、生活用品を作る各種工具であった。
 職人達は、より良い生活を送る為に鉄製工具を使ってモノ作りを続けた。
 弥生人は、外洋船を作って鉄を求めて朝鮮半島に渡り、鉄とコメ・土器などとの物々交換の交易を行った。
 朝鮮半島は、地球の寒冷化によって稲が作れなくなった為に日本からコメを輸入していた。
 日本各地の豪族は、朝鮮半島産鉄を手に入れる為に、地元の物資を利用した特産品を作って交易していた。
 貧しい豪族は、特産品を作り交易で豊かになった集落を攻撃した。
 それが、弥生の大乱である。
 ヤマト王権は、輸入していた鉄器を工具や武器から祭祀と権威に使った。
   ・   ・   ・   
 NHKオンデマンド
 2月12日水曜
午後10時30分~ 午後11時20分
 歴史秘話ヒストリア「ニッポン鉄物語 “奇跡の金属”が列島を変えた」
 日本に「鉄」が伝わった弥生時代。中国や朝鮮半島で作られた鉄製品が、長崎・壱岐などを通じて列島にもたらされると、暮らしは劇的に変化した。鳥取の弥生遺跡からは、鉄の工具によってモノづくりが発展した様子が分かる。また、鉄を求めて列島各地の交易が盛んとなり、朝鮮半島との結びつきも深まっていった。古墳時代になると、鉄は権威の象徴となり、ヤマト王権の勢力拡大に力を発揮する。新時代を切り拓いた鉄の歴史をたどる。
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 NHK 高校講座
 第2回 第1章 古代国家の形成と貴族文化の誕生
 弥生文化小国家の形成
 監修講師:東京都立日野高等学校教諭 武藤正人
 
 弥生文化小国家の形成
 歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
 日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。
 今回は縄文時代の終わりから弥生時代にかけて。
 縄文時代の終わりに稲作が伝えられると、社会の仕組みが大きく変わっていきました。
 今回のテーマにせまる3つのポイントは「弥生文化」「小国の分立と大陸との関係」「邪馬台国」。
 稲作に始まる社会の変化が、日本列島に何をもたらしたのか、考えていきましょう。
 弥生文化
 弥生時代といえば、やはり「稲作」。
 えり 「実は、稲作が始まったのは『弥生(やよい)時代』っていうイメージがあると思うんだけど、日本で始まったのは縄文(じょうもん)時代の終わりごろからって言われているんです。稲作が最盛期を迎えて、“新しい文化”が栄えたのが弥生時代ということなんです。」
 悠也 「時代と時代は、突然ある日を境にして切り変わっていたわけじゃないってことだね。」
 えり 「そして、旧石器、縄文と使われ続けていた石器も、弥生時代の稲作に合わせて変化したんです。弥生時代の石器、『石包丁(いしぼうちょう)』です。」
 この石包丁は、稲刈りに使われていました。
 こうした稲作の技術はどこから伝わってきたか、みなさんは覚えていますか?
 紀元前4世紀ごろ、大陸から北九州に渡って来た人々によって、稲作とその技術が伝えられました。
 佐賀県の菜畑(なばたけ)遺跡は、日本最古の「水稲(すいとう)耕作」が行われた水田跡です。
 板や杭(くい)で水路を作り、すみずみまで水が行き渡るように工夫されていました。
この遺跡で、焼けて炭になった米、「炭化米」が発見されました。
 米作りが盛んに行われていた様子がうかがえます。
 米作りの農具も伝わりました。
 木製のクワやスキを使って土を耕しました。
 また、大陸からは「鉄器」も伝わりました。
 鉄器によって、石器よりもはるかに効率よく農具が作れるようになりました。
 稲作が始まると、集落は、丘や台地から平野の方へと移っていきます。
集落では竪穴(たてあな)住居のほか、米をたくわえるために床を高くした「高床(たかゆか)倉庫」が作られました。
 大事な米をネズミから守るために、当時の人々が考え出したのが「ねずみ返し」です。
 青銅で作られた「銅鐸(どうたく)」。
 鉄器と同じころに伝わったのが「青銅器」です。
 神や先祖を祭る祭祀(さいし)の道具に使われたと考えられています。
 水稲耕作をおもな生業(なりわい)とし、青銅器や鉄器などを使う事を特色とする文化 を「弥生文化」とよび、紀元3世紀ごろまでを弥生時代といいます。
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 NHK NEWS WEB 2020年2月12日
 長崎 NEWS WEB
 古墳時代にかけての鍛冶工房跡か
 02月06日 15時47分
 大村市の帯取遺跡から、弥生時代末期から古墳時代初頭ごろにかけて鉄製品を作っていたとみられる建物が見つかりました。
 大村市の帯取遺跡では、去年12月中旬から宅地造成工事に伴って、埋蔵文化財の発掘調査が行われています。
 大村市教育委員会によりますと、この遺跡から合わせて4つの炉を備えた竪穴建物とともに、その中から棒状の小さな鉄器や鉄を削ったと見られる砥石などが見つかったということです。
 炉の形式としては、穴を掘らずに地面をそのまま使っていたと見られていて、固まった地面では金属探知機の反応が確認されているほか、ところどころ変色しているため、高温で作業していたことが伺えるとしています。
 こうしたことから、市教育委員会は、金属考古学の専門家による調査の結果もふまえ、弥生時代末期から古墳時代初頭にかけて鉄製品を作っていた鍛冶工房跡と見られるとしています。
 この時期の鍛冶工房跡が見つかるのは、壱岐市のカラカミ遺跡に次いで、県内では2例目だということです。
 市教育委員会文化振興課の柴田亮学芸員は「鉄器と石器では、生活のレベルが異なってくるが、工房が見つかったことにより、当時の人たちの生活に鉄が根付いたと思われる」と話していました。
 市教育委員会は、来週11日、午後1時半から市民向けの現地説明会を行うことにしています。
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 ウィキペディア
 弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。
 2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした[2]。当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている。一方放射性炭素年代測定や年輪年代学の技術は充分に確立されたとはいえないことから、開始期の繰り上げに根強い反対も存在する。
 弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内倭国が成立。3世紀中頃古墳時代に移行した。

 鉄器
 弥生時代中期前半までには北部九州で工具を中心に一般化がおこると、後期以降に西日本全域に拡散するとともに、武器や農具としても採用されるようになった。鉄器は耐久性や刃の鋭さから主に利器、特に工具や農具(収穫具)として用いられた。出現当初は鍛造鉄斧の断片を研ぎ出して小型の工具などとして使っていたが、中期前半までには北部九州で袋状鉄斧と呼ばれる列島製の鉄斧が出現すると、徐々に西日本一帯へと波及していった。このほかに小刀(刀子)や鉄鏃、ノミ状工具などの存在が知られる。この時期の鉄器は鉄素材を半島から輸入して製作されており、列島で製鉄が見られるのは古墳時代後期以降と考えられる。
 弥生時代における鉄器の生産には、材料となる鉄を切り・折り取り、刃を磨き出すことによって作られる鏨切り技法と、鍛造により形を作り出す鍛造技法があることがわかっている(ごく一部の例について、鋳造により作られた可能性が示唆されているが、鉄を溶かすためにはきわめて高温の操業に耐えうる炉が必要であり、弥生時代にこのような技術が存在したかどうかは疑問視されている)。
 北部九州、特に福岡市周辺地域では弥生時代中期前半までに鍛造技法による鉄器の生産が開始された。一方、同じ北部九州でも八女市などの周辺地域では弥生時代後期になっても鏨切りによる鉄器生産が一般的であった。瀬戸内地方でも、弥生時代後期までには鍛造による鉄器生産が伝播していたが、技術的には北部九州のそれよりも明らかに低い水準にあり、同時に鏨切りによる鉄器製作も普遍的に行われていた。
 弥生時代後期には、玄界灘沿岸地域の遺跡から鉄器が大量に出てくるが、瀬戸内海沿岸各地方や近畿地方の遺跡からはごくわずかしか出てこない。つまり玄界灘沿岸地域が鉄資源入手ルートを独占していたと推定されている。それゆえに、鉄資源の入手ルートの支配権を巡って戦争が起こったのではないかと考えられているが、今はまだ考古学的に立証することができない。戦争が起こったと仮定すれば、近畿地方の大和勢力を中心に、広域の政治連合、例えば邪馬台国連合のような同盟ができあがっていたことが想定されている。

 朝鮮半島との関係
 現代の日本人の起源についてはさまざまな仮説があったが、今の遺伝子学の研究結果によると現代の日本人は朝鮮半島から渡ってきた弥生人縄文人と混血して形成されたという。

 弥生時代の終焉と古墳時代への移行
 弥生中期にそれぞれの地域内に複数存在した政治的まとまりが、弥生後期にはより広域の政治的まとまりに発展し、2世紀末には畿内を中心とする西日本広域の国連合に発展していった。中国鏡の分配主体は北部九州から畿内に移り、環濠集落は消滅し首長居館が出現した。2世紀第2四半期には纒向に巨大集落の建設が始まった。
 3世紀、西日本の大半と東日本の一部によって倭国が建国された。大和の政治勢力が主導したとされる。
 変化は首長層だけにとどまらず、農民層の生活でも起こった。弥生時代の住居は西日本では円形、多筒形、隅円方形などさまざまであったのが終末期には方形区画の住居が急速に普及し、古墳時代前期には東日本にも広まった。縄文時代から使われてきた石器は消滅し、弥生後期後半には北部九州から畿内で食器が木製から土器に転換した。
 古墳時代の開始期にはすでに九州から東北南部の間で広域の地域間交流が成立していたとされる。都出比呂志は古墳時代の開始、前方後円墳体制の成立は、弥生時代から始まった民族形成において決定的な役割を果たしたとしている。
 ただしこれらは主として西日本で起こった変化であることを注意しなければならない。青山博樹によれば古墳文化は西日本の弥生文化から継承された要素は多いが、東日本の弥生文化から古墳文化に継承された要素は皆無だと指摘し、東日本の古墳文化は、西日本の弥生文化を継承した古墳文化に転換することによって成立したとしている。
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🎊2〕─11─日本の世襲制度は特権相続ではなく遺伝相続であった。〜No.12 ① 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2020年2月21日号 週刊朝日「パテカルトの万脳薬  池谷裕二
 遺産相続ならぬ、遺伝相続
 年収は遺伝子で決まる──。まさかそんなはずはないと思われるでしょう。ところが、このいかにもなさそうな可能性をあえて追及した研究があります。エディンバラ大学ヒル博士らが12月の『ネイチャー通信』誌に発表した論文です。」
 『SNP』という言葉をご存じでしょうか。正式にはシングルヌクレオチドポリモルフィズムという舌をかみそうな名称で、通常はこの頭文字をとってSNPと略します。『スニップ』と発音することが一般的です。
 ヒトの染色体には30億文字以上のDNAが並んでいます。いわばヒトの設計図で、そこに書かれた遺伝子情報によってヒトはヒトになります。しかしDNAの文字配列は、同じ人類だからといって皆がぴったりと一致するわけでなく、わずかながら個人差があります。多くの差異は『DNAが1文字だけ異なる』という形で現れます。これがSNPです。
 SNPは染色体のどこにでも発生するわけではありません。発生しやすいホットスポットがあります。ホットスポットがいくつあるかは、数え方によって諸説あり、厳密に定めるのは難しいのですが、少なくとも数百万のコンビネーションによって、地球上の誰一人としてまったく同じ遺伝子セットを持ったヒトはいないというほどの多様性が生まれます。
 ヒル博士らが行った調査はこんな具合です。イギリスには大規模なバイオ情報バンクがあります。そこには人々のDNA情報だけでなく、各人の職業や来歴や病歴などがつぶさに集積されています。そこで、このデータバンクから28万6,301人を対象に、収入に関連するSNPを網羅的に探索したのです。
 すると確かに収入と連動するSNPが、しかも3,712ヵ所も見つかりました。『収入とSNPの関係』を調査するという、ともすればとんでもなく奇抜なアイデアが調査の出発点でしたが、実際に遺伝子座が見つかってしまったことに驚かされます。
 SNPは特定の遺伝子座に集中していることが多く、こうしたデータを広範にわたって詰めていったところ、最終的に149ヵ所の遺伝子座に行き着きました。これらの候補をさらに統計学的に解析し、より意味のありそうな遺伝子座24個が絞られました。
 この24個の遺伝子座のうち18個は過去の研究から、『知能』に関連することが知られていました。つまり、優れた知能に寄与する遺伝子座を持っているほうが収入が多い傾向があるということです。結局、『賢い人ほど儲ける』という味気ないほど直接的な結論に落ち着いてしまうのですが、この結論が一切の前提やバイアスのないピュアな解釈から自然と導かれたという事実が、この結論に真実味を与えています。
 ちなみに、今回行き着いた『知能に関与する遺伝子』の多くは、脳で働く遺伝子で、とくに神経伝達物質であるGABAセロトニンの働きに関与するものでした。
 世襲制や事業の同族経営などのように、その家の嫡系の子孫が地位や財産を代々受け継いでゆく風習はどの社会でもあります。しかし今回のデータは、遺産相続ならぬ、遺伝相続とでも言ったらよいのでしょうか。もしかしたら地位や財産は、知能の遺伝子の一部が世代を超えて受け継がれた結果なのかもしれません。いやはや。」
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 人類は、遺伝子情報の乱れによる奇形児・異常児を生み出して生き残ってきた。
 先天的奇形児・異常児は、優化・進化・進歩の可能性を保障するもので、忌み嫌う劣化・退化・退歩ではない。
 優化・進化・進歩は、遺伝子・染色体の不安定の中で発生し、遺伝子・染色体の完成型では起きない。
 遺伝子・染色体が完成型として安定し固定すると、その先は衰退しかない。
 つまり、遺伝子・染色体異常による奇形児・異常児は、大量生産する工場ではじき出される規格外の不良品・商品にならない廃品ではない。
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 鳶は鳶を生むのは正常だが、突然変異的に鳶が鷹を生む事がある。
 鷹が鷹を生むとは限らず、時には鷹が鳶を生む事がある。
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 正統な伝統芸能か正当な日本芸能かは、遺伝相続に由来する世襲制度で決まる。
 正当な日本芸能は、日本人でも外国人でも誰でも演ずる事ができるし、それこそ伝統衣装を着れば猿回しのサルでも演じる事ができる。
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 日本の世襲制度は、中華(中国や朝鮮)や欧米の世襲制とは根本的に違っている為に、世界は日本の世襲制度が理解できない。
 人権派・差別反対派は、日本の世襲制度を性差別を助長する悪制度として破壊し消滅しようとしている。
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 日本の伝統芸能や技能才能は脳内遺伝子に組み込まれ、特殊な血統・血筋の家・一族の中だけで一子相伝として純粋培養的に受け継がれてきた。
 正統な伝統芸能は、先祖代々遺伝相続してきた特殊な家・一族が演ずる芸である。
 遺伝相続した家・一族の一員ではない他人の芸達者が演ずる芸は、正当な日本芸能といっても正統な伝統芸能ではない。
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 世阿弥「都の貴族に受けるようなものだけじゃなく、その場の空気を読んで田舎でも喝采を浴びるようじゃなきゃダメだ」
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 日本を伝統芸能は、賤民・差別民・下層民の一員であった芸能の民が生み出した野卑な芸であった。
 日本の世襲制度は、虐げられてきた芸能の民が優越感を醸す庶民に対する排除的排他的閉鎖的に始めた自己防御的差別制度であった。
 日本の世襲制度の守護者・庇護者は天皇・皇室で、その代表が後白河天皇であった。
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 日本の世襲制度は、正道が男系父系Y染色体相続であったが絶やさない為の補助として女系母系X染色体相続が控えていた。
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