🗻87〕─1─1000年前「未知の巨大地震」が発生か、九十九里浜に大津波の跡。~No.219 ㉔ 

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 2021年9月25日 MicrosoftNews 読売新聞「1000年前「未知の巨大地震」が発生か、九十九里浜に大津波の跡
 © 読売新聞 (写真:読売新聞)
 千葉県・房総半島沖で1000年ほど前に未知の巨大地震があり、九十九里浜一帯が大津波に襲われた可能性があると、産業技術総合研究所などのチームが発表した。地震の規模はマグニチュード(M)8・5~8・8で、当時の海岸線から3キロ・メートル前後まで浸水したと推定されるという。
 澤井祐紀・同研究所上級主任研究員らが、九十九里浜の3地点142か所を掘削して地層を調べたところ、津波で運ばれた砂や生物の化石などが堆積(たいせき)した新旧二つの層が見つかった。
 化石の年代測定の結果、新しい層は、江戸時代の1677年か1703年に起きた地震による津波のものと推定された。一方、2地点で確認された古い層は、平安~鎌倉時代の800~1300年頃のもので、該当する記録がないため、未知の地震津波と判断した。
 さらに、当時の地形などをもとにコンピューターで津波を再現したところ、実態がよくわかっていない房総半島沖の海底断層が震源だった可能性も浮上した。
 現在の地形だと、同じ規模の地震が発生すれば高さ約5メートルの津波が海岸線に到来するという。房総半島の北には日本原子力発電の東海第二原発茨城県)がある。同原発原子力規制委員会の安全審査に合格しているが、規制委は「一般論として、新しい知見が出てくれば扱いを検討することになる」とコメントした。
 成果をまとめた論文は、英科学誌ネイチャー・ジオサイエンスに掲載された。
 政府の地震調査委員会の平田直(なおし)委員長(東京大名誉教授)の話「房総半島沖では江戸期以外の大地震は知られておらず、重要な報告だ。より広域を調査し、震源などを特定する研究が必要となる」」
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☵57〕─2─“韓国の慰安婦問題タブーを破る本『赤い水曜日』。~No.463No.464No465No.466 

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 2021年9月22日 MicrosoftNews 文春オンライン「「慰安婦被害者はいない」韓国で出版された“慰安婦問題のタブーを破る本”『赤い水曜日』驚きの内容とは?
 © 文春オンライン 慰安婦問題を告発した金柄憲氏の『赤い水曜日』
 韓国における慰安婦反日運動はこのところ支援団体の資金不正疑惑が表面化することで勢いは大きくダウンしているが、それに追い打ちをかけるように最近、韓国で「ウソだらけの虚像を剥ぐ」として慰安婦の証言および支援救済活動に対する検証本『赤い水曜日』が出版され、注目されている。
 著者の金柄憲氏(キム・ビョンホン、52歳)は成均館大学出身で在野の歴史研究者である。これまで左翼偏向がひどく反日色の強い教科書に対する批判活動を展開してきた。特に学校教科書で慰安婦問題が日本軍による強制連行説として証拠抜きで“暴力的”に記述され、教えられていることに疑問と怒りを感じたのが慰安婦運動糾弾に乗り出した動機という。
 著者は『赤い水曜日』の「あとがき」で、韓国で定説とされている日本軍慰安婦をめぐる「強制動員説、性奴隷説、戦争犯罪説」は運動団体のウソの扇動による虚偽であると断言。「慰安婦問題の本質は貧困であり、貧しさによってもたらされた悲しくも恥ずべきわれわれの自画像である」「もう人のせいにするのはやめよう」「問題解決の前提はウソをやめ正直になることだ」と主張している。
 「日本軍慰安婦被害者にあてはまる者は一人もいない」
 慰安婦問題をめぐる虚偽は一昨年、韓国でベストセラーになった『反日種族主義』(李栄薫編著、日本語版は文藝春秋刊)で厳しく指摘されるなど、韓国内でもやっと暴露や批判がはじまっている。今回の本はその決定版のようなもので、これまで“聖域化”されてきた慰安婦問題批判のタブーはここにきて完全に崩れたかたちだ。
 著者はこれまで、慰安婦支援団体による日本大使館前のいわゆる「水曜デモ」に際しては彼らを糾弾する“対抗デモ”を続けるなど自ら直接行動してきた。そして大統領官邸や女性家族省など政府当局にも陳情や請願、情報公開請求などを繰り返し、慰安婦問題の“虚偽”を追及し、訴えてきた。本書はその戦いの記録でもある。
 本書は、日本軍慰安婦だったとして支援団体によって内外で日本糾弾の反日運動の先頭に立たされ、韓国政府から法的に生活支援を受けているいわゆる“慰安婦被害者”について、記録として残されている彼女たちの証言集を詳細に検証している。その結果、韓国の「慰安婦被害者法(日帝下日本軍慰安婦被害者に対する保護・支援及び記念事業等に関する法律)」で定義されている「日帝に強制動員され性的虐待を受け慰安婦としての生活を強要された被害者」という「日本軍慰安婦被害者にあてはまる者は一人もいない」と主張している。
 “慰安婦第1号”の証言をあらためて分析した結果は?
 本書では慰安婦証言の検証対象として内外でよく知られた代表的人物の3人がしばしば取り上げられている。一人は1991年、初めて日本軍慰安婦被害者を名乗り記者会見したことで有名な金学順。それに政府から人権活動家として勲章まで授与された金福童。もう一人は今も健在で資金疑惑を最初に問題提起し、慰安婦問題の代弁者格になっている李容洙。いずれも証言には大きなブレがあり、彼女らの経歴に日本軍による強制連行や慰安婦強制の証拠はないとしている。
 とくに“慰安婦第1号”といわれ、その記者会見の日(8月14日)が国家指定記念日の「慰安婦を称える日」になっている金学順は、今や慰安婦問題の象徴的人物として神格化されている。日本の朝日新聞が当時、記者会見に先立ち“特ダネ”として紹介した人物でもある。今年は“初証言30周年”ということで記念行事が盛んだった。本書では、彼女が養父によって身売りのため中国に連れて行かれる際、見送りの実母から平壌駅で黄色いセーターを贈られ、中国では約3カ月間、慰安婦をした後、客として来ていた朝鮮人の商売人と駆け落ちしたという証言をあらためて引用、分析。日本軍による強制的な慰安婦生活という事実はまったくないとしている。
 こうした金学順証言をはじめ元・日本軍慰安婦たちの証言の矛盾や問題点については、日本では以前から指摘されてきたが、韓国では正面切って暴露され批判されることはなかった。今回、そのタブーが崩れたのだ。
 著者は慰安婦証言の矛盾やウソ、あいまいさ、いい加減さを踏まえ、韓国におけるいわゆる慰安婦裁判の「でたらめ判決」も厳しく批判している。証言が事実かどうかという裁判では不可欠の“事実の究明”や、韓国で定められた「慰安婦被害者法」との整合性などお構いなく、日本非難を前提にした結論先にありきの判決がまかり通っていると批判している。
 “反日”日本人 vs “反日批判”韓国人
 さらに本書には日韓問題で反日論客として韓国で人気の帰化日本人、保坂祐二(元世宗大教授)との“戦い”も紹介されている。著者が保坂の反日慰安婦論を批判する“一人デモ”を保坂が在籍する大学前でやって糾弾ビラをまいたことから、保坂に名誉棄損で告訴され論争になっているのだ。“反日”日本人と“反日批判”韓国人の対決だから興味深い。
 そして著者は慰安婦にかかわるいわゆる「強制性」を、外交的解決のためあいまいかつ安易に認めた「河野談話」や、外交的配慮による近年の「政府間合意」についても、慰安婦問題の虚構性を広げる結果につながったということで厳しく批判している。
 またソウルの日本大使館前をはじめ内外に拡大設置されている慰安婦少女像についても「幻想の中のあどけない少女」「真実とはほど遠い少女物語」としてその虚構性を糾弾。批判のホコ先は韓国の教科書にも向けられ、虚偽に満ちたとんでもない記述がまかり通っているとしている。
 著者は、元慰安婦たちの証言を検証し、韓国での法的根拠になっている定義に照らし合わせた場合、日本軍慰安婦被害者なるものは存在せず、そこに加害者がいたとすればそれは日本軍ではなく「ひどく貧しい国で自分の子どもを物のように売り渡した父母や、それを商品のように紹介し紹介料を手にしていた業者、そしてそれを性的商品として軍人や多くの男たちから金をせしめていたお抱え主だった」という。
 その結果「日本軍は慰安所で定められた費用を支払い、性的欲求を解消する顧客にすぎなかった」といい「慰安婦問題はわれわれが解決しなければならない問題であって、決して他国にその責任を押し付けることではない」と書いている。
 韓国メディアは意図的に無視したが……
 本書の出版元は前述の『反日種族主義』と同じ出版社。編集者によるとタイトルの「赤い水曜日」の「赤い」は「真っ赤なウソ」からきたもので、水曜日は日本大使館前で長年続けられている支援団体による「水曜デモ・集会」のこと。したがって「赤い水曜日」とは「虚偽の反日慰安婦運動」ということになろうか。
 「慰安婦を称える日」の8月14日に“挑戦”するように発刊されたが、今のところ韓国のマスコミでは意図的無視(?)だろうか、取り上げられてはいない。慰安婦問題など日本がらみでは公式の歴史観に合わないとすぐ発禁になったり、告訴されて著者が法廷に立たされたりする韓国だが、今回の本は韓国社会の言論・出版の自由度を計る試金石にもなる。今後の反応が気になるところだ。(黒田 勝弘)」
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(韓国語)赤い水曜日 30年間の慰安婦歪曲

☵34〕─8・E─東京五輪。韓国選手団の勝つ為には手段を選ばず。李舜臣は講和成立後に戦死。~No.287 ⑲  

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 2021年10月号 WiLL「北京五輪ボイコット──ジェノサイド国家で平和の祭典だった⁉
 お家芸のテコンドーで金がゼロ。反日を頑張りすぎて強化忘れた?
 WWUK({ウォーク}ユーチューバー)
 ボイコットじゃないの?
 ……
 横断幕・垂れ幕騒動
 いざ開催となったら、何食わぬ顔で大韓体育会(韓国オリンピック委員会を兼ねる団体)および韓国選手団が来日。
 選手村に着くや否や、居住棟の壁面に、韓国で抗日の英雄とされる李舜臣(りしゅんしん)将軍の言葉『尚有12舜臣不死』(まだ私には12隻の船があり、私はまだしんでいません)をアレンジした『臣にはまだ国民5,000万人の応援と支持が残っています』という文言とともに、反日丸出しの横断幕を掲げたのです。これを受けて、IOCは、政治的活動を禁じる五輪憲章第50条の違反と見なし、横断幕の撤去を求め、韓国側は応じることに。
 ところが、それでも懲りないのが韓国。続いて『ポム ネリョオンダ』(=虎が降りてくる)という言葉とともに、アムール虎を朝鮮半島のように描いた垂れ幕を掲げました。大韓体育会は、『韓国選手の挑戦精神を虎にたとえたもの』と説明しましたが、真意はどうか。
 実は、この絵の原画は『槿域香山猛虎気象図(きんいきこうざんもうこうきしょうず)』といって、韓国・北朝鮮では有名な反日の象徴でした。虎は朝鮮半島で神聖視されており、20世紀初頭、日本統治に抵抗する朝鮮の地形を朝鮮虎に象徴化して描かれたのです。
 ……
 IOCから再三の警告を受けているにもかかわず、こんな垂れ幕を続けて出すのは、どういう神経なのか。来日前から、このような反日宣伝物を複数枚、準備していたということであり、韓国は五輪精神に真っ向から反し、ただただ反日プロパガンダを行うためだけに世界から注目される東京五輪をここぞとばかりに利用したのです。
 旭日旗アレルギー
 ……
 放射能ばかり関心
 福島県への風評被害を煽る
 ……
 しかし、イチャモン・難クセでも相手の調子が崩れれば、儲けもの。勝つためなら、なりふり構わない韓国チームは、手段を選びません。
 勝つためには手段を選ばず
 2014年、アジア競技大会が仁川で開催されたときもそう。バトミントンではシャトルはとても軽く、少しの風でも影響を受けやすいので、会場は風の影響を最小限にするため、空調等にも配慮が必要です。
 ところが仁川大会では、空調が意図的に操作された疑惑が持ち上がりました。日本代表と韓国代表との準々決勝の際、日本側チームに不利な向かい風が吹いた。コートチェンジした際に、今度は追い風になるところ、空調の風向きが変わり、またしても日本側チームに向かい風が吹くことに。結果、日本代表が敗れ、日本選手やコーチから疑問の声が上がることに。
 真偽は定かではありませんが、正直に言って、韓国ならやりかねません。
 歴史的に見ても、韓国は常に勝つためなら手段を選びません。先の李舜臣将軍は慶長の役で日本軍と戦いましたが、豊臣秀吉の死で日本軍は講和を提案しました。講和成立後、日本軍が撤退するスキを狙って後方から攻撃、だまし討ちをしたのです。結局、李舜臣将軍は日本軍の反撃を受け、あえなく戦死。
 韓国は卑怯な手段を使ってでも、とにかく勝利を得ようとする。それが現代まで受け継がれ、〝平和の祭典〟五輪を汚すような行為を繰り返します。
 五輪後も旭日旗をめぐるウソ 
 もはや世界は〝韓国パッシング〟
 東京五輪で浮き彫りになった韓国の異常性の元凶はどこにあるのか。
 それはやはり、幼いころから受けている反日教育の影響が大きいのではないでしょうか。日韓併合時代をはじめ、日韓の歴史を歪曲し、捏造。それをそのまま子どもたちに教えるので日本に対する恨みつらみ、いわゆる〝恨(ハン)〟の感情が植え付けられているのです。そのため、日本をいくら嘲弄(ちょうろう)し、貶め、差別しても、その過程で憲法や法律、国際法を無視したとして、反日無罪として一切罪に問われない。
 そんな歪んだ精神構造のために異常な感覚が醸成(じょうせい)され、一般的な道徳意識が麻痺し、果ては日本だけではなく、他国に対しても差別的かつ攻撃的な姿勢を高めるまでに至っているのです。
 また、韓国は儒教の影響が強く、人間関係では、上下関係が非常に厳しいため、相手が上か下かといった序列に、過度にこだわる傾向があります相手を見下す発言や態度で精神的に攻撃することで、自分の優位性を相手や周囲に示すという、いわゆるマウンティングが日常的に行われています。
 このような日頃からの韓国国民の習慣が、東京五輪を通じて世界に露呈したのです。
 ……
 反日プロパガンダに負けるな
 しかしながら、韓国は今後も何ら反省することなく、反日プロパガンダ活動を続けるに違いありません。
 国際社会では声の大きさに依るところがありますから、日本は引き続き、韓国のプロパガンダに対して徹底的に対抗するべきです。
 ユネスコは、世界遺産として登録された『端島軍艦島)』など日本の近代産業施設に対して、『植民地時代における強制連行の歴史をきちんと知らせていない』という結論を下し、是正を求めましたが、これも韓国の団体による執拗なロビー活動があってのこと。
 ……
 先の日本の野球代表チームは韓国戦に勝利した後、無観客のスタンドに向かって帽子を取って一礼、さらに韓国チームにも一礼するという素敵なマナーを見せてくれました。イチャモンだらけの韓国チームとは対照的です。
 ……」
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 中国や朝鮮において講和が成立し平和状態を回復しても、撤退する敵軍を追撃して殲滅する卑劣な行為は「正しい事」とされている。
 同じような卑怯な行為をソ連軍は、8月15日に軍国日本が降伏した後に千島列島東端の占守島を攻撃したが、降伏したはずの日本軍守備隊の逆襲によって甚大な被害を出し、アメリカのフランクリン・ルーズベルトヤルタ会談で認めた北海道占領による割譲という最終目的を達成できず失敗した。
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 ウィキペディア
 李舜臣(日本語読み:り しゅんしん、朝鮮語読み:イ・スンシン、朝: 이순신、1545年4月28日(明暦: 嘉靖24年3月8日) - 1598年12月16日(明暦: 万暦26年11月19日))は、李氏朝鮮の将軍。字は汝諧(ヨヘ、여해)。文禄・慶長の役において朝鮮水軍を率いて日本軍と戦い活躍した。韓国では救国の英雄とされる。朝鮮内の党争[注釈 1]の影響で李の対立側である元均らの勢力によって、懲罰を受けて兵卒に落とされ一時失脚していたが、軍を率いていた元均が戦死したことで危機感を覚えた朝鮮王によって復権し、日本軍と戦う。最期は露梁海戦で戦死。死後に贈られた諡は忠武公(충무공)。  

 慶長の役
 豊臣秀吉の死後、日本軍に退却命令が出されると小西行長は明との間に講和を成立させた後、海路を撤退しようとしたが、それを知った明・朝鮮水軍は古今島から松島沖に進出、海上封鎖を実施し小西らの退路を阻んだ。講和後のこの明・朝鮮水軍の行動(ただし明とのみの講和で朝鮮との講和は成立していない)に、小西軍は順天城での足止めを余儀なくされた。この小西軍の窮状を知った島津義弘ら日本側の諸将は急遽水軍を編成して救援に送ることとなり、これに対し李舜臣および明・朝鮮水軍は順天の封鎖を解いて東進し島津水軍を露梁海峡で迎え撃つこととなった。
 この露梁海戦では、夜半からの戦闘が長時間続き、日本軍、明・朝鮮水軍の双方が大きな被害を被ったとされる。明・朝鮮側の資料では自軍の勝利を強調しているが、明軍では副将鄧子龍が戦死、朝鮮軍では主将の李舜臣が島津兵の鉄砲の弾丸を受けて戦死した(後述)。朝鮮軍ではさらに、李英男(加里浦僉使)、方徳龍(楽安郡守)、高得蒋(興陽県監)、李彦良、といった将官が戦死した。一時突出した明軍の主将陳璘も日本軍の包囲から危うく逃れている。 朝鮮側は将軍の戦死や損害過多で統制を欠き、作戦行動の継続が不可能となり、小西軍の救援に駆けつけた島津軍は、殿軍を務めて無事にこれを撤退させ当初の予定通り救援任務を完遂した。
 最期について
 韓国では、李舜臣は露梁海戦において「大敗した日本軍を追撃中に」「流れ弾に当たって」戦死したと一般に信じられており、日本の一部書籍においても、そのまま引用しているものが見受けられるが「流れ弾」については文献の裏づけはない。 「追撃」については朝鮮側の史料である柳成龍『懲毖録』によるもので、李舜臣の死のことを「李舜臣は日本軍を大いに撃破し、これを追撃している最中に鉄砲の弾丸で戦死した」と記している。
 一方で同じく朝鮮側史料である『乱中雑録』には、日本水軍と戦闘になった後、朝鮮水軍は主戦場であった海峡口から見て南西の観音浦(海戦前に朝鮮水軍が潜んでいた湾)へと一時後退しており、また李舜臣は日本船の船尾に伏せた兵の一斉射撃により撃ち倒されたと記されている。
 『明史』では「鄧子龍の救援に赴き、死亡した」とのみ記されている。日本側文献『征韓録』によれば、「小船で先出してきた鄧子龍が従卒200余兵とともに討ち取られるのを救援するために進出したところを、和兵に囲まれ船を乗っ取られた」とのみ記し、死に至る詳細については残されていない。
 なお、韓国では英雄化が過ぎるあまり、日本軍撤退後は自分が不要な存在となり、以前と同じく不当逮捕されて死罪とされることを見越して、自ら華々しい死に場所を求めたという説や、戦争を生き延びて隠遁生活を送って戦後に死亡したという説が唱えられることがあるが、肝心の李舜臣本人は死の数日前から日記を書くのを止めてしまっていることもあり(これはこれで死を覚悟したと受け取れるが、少なくとも現存する部分にはこの時点で死ぬつもりだったということを示す記述はない)、根拠となる史料は皆無である。
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 露梁海戦(ろりょうかいせん)は、慶長の役における最後の大規模海戦である。慶長3年(1598年)11月18日(和暦/以下同)に無血撤退の双方合意を取り付けた上で撤退しようとした順天城守備の小西行長らに対し、約束を違えて攻撃を加えようとした明・朝鮮水軍と、撤退する船団を援護するために海路出撃した島津軍を中心とした日本軍との間に露梁津で起こった海戦である。小西行長軍はこの戦いの最中、戦闘に参加することなく巨済島への撤退に成功した。
 露梁津は、南海島と半島本土との間にある海峡の地名で、朝鮮水軍の主将李舜臣はこの戦いで戦死した。韓国では露梁大捷[8]と呼ばれ、朝鮮・明連合水軍が日本軍に大勝した戦いとされるが、日本側の一部文献では成功した作戦として記述されることもある。両軍の戦力および損害については不詳の点が多く隻数については異説がある。
 結果
 文献では双方が勝利として記述している。しかし明・朝鮮側は、待ち伏せであったにもかかわらず、結局は小西行長軍を取り逃がしてしまった上に、日本側の将クラスの首級を一つも挙げられず、逆に李舜臣、鄧子龍、李英男、方徳龍、高得蒋、李彦良ら諸将を戦死させて失った。一方、日本側は小西軍の撤兵は成功させたものの、夜間の待ち伏せから開始された戦闘は終始不利であった。双方の部隊とも被害は甚大で、痛み分けであったといえるが、戦術的には苦戦を強いられた日本軍の勇戦がめだち、殿(しんがり)の任を果たして血路を開いて脱出して、多数の捕虜を得ようとしていた明・朝鮮側の戦略の意図を破綻させた。
 いずれにせよ、既に上層部での和議が結ばれて全日本軍が撤退していく最中の戦いであり、大局に与えた影響は少なかった。全体から見れば被害はさほど大きくはなく、日本の再侵攻もなかったため、朝鮮側の損害がその後に響くこともなかった。
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 韓国の反日・侮日・敵日の元凶は、消える事がない正統な朱子学儒教=中華儒教の猛毒である。
 日本の儒学は、論語儒学陽明学など中国や朝鮮で禁止され弾圧された異端な諸派儒教である。
 所詮、現代の日本人は「論語読みの論語知らず」で論語の神髄が理解できない。
 中華儒教の価値観や常識は、中国や朝鮮を根底から支配しているが、日本では影が薄いが日本人の中の親中国派・媚中派、親韓国派、親北朝鮮派らは強い影響を受けている。
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 渋沢栄一は、商いには論語が大事であるとを説いたが、商いを下等で下賤で卑しい行為と否定する儒教を説いてはいない。
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 韓国は、北朝鮮同様に反日・侮日・敵日としてかわる事がなく、親日・知日として友好・善隣など望んではいない。
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 歴史的事実として、日本にとって朝鮮とは古代からかわる事がない敵であって、一部以外を除いて友・友人、親友ましてや戦友になった事はない。
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 キリスト教朝鮮人テロリストは日本人共産主義者テロリスト同様に、人道貢献と平和貢献を行っていた昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
 日本国内には、彼らに協力するマルクス主義の反天皇反民族反日的日本人が存在していた。
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 親日・知日は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日・敵日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国
 歴史の事実として、日本は被害者であって加害者ではなかった。
 日本の戦争は、領土拡大目的の侵略戦争ではなく、天皇・国家・民族を外敵の侵略から守る積極的自衛戦争であった。
 つまり、日本国・日本民族にとって中国や朝鮮は略奪と虐殺を猟奇的に行う恐ろしい侵略者であった。
 この関係は、未来永劫かわる事はない。
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☲17〕─3─朝鮮総督府・内務省・陸軍省は朝鮮人婦女子を朝鮮人犯罪者から護ろうとした。~No.46No.47 ⑪ 

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 2021年10月号 WiLL「ベストセラー『応仁の乱
 呉座勇一が歴史修正主義者だって⁉
 ラムザイヤー論文に『いいね』したら、レッテル貼り。
 学界は集団ヒステリー⁉
 有馬哲夫
 ……
 『陸軍省副官発北支那方面軍及び中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号 軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件』(昭和13年3月4日付)を読むと日本陸軍慰安婦募集にあたって、女性を騙したり、誘拐したりするような違法行為がないよう厳重な取締を警察や官憲に要請している。
 『支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件』(昭和13年2月23日付内務省警保局長 各庁府県長官宛)は、女性たちが酌婦({しゃくふ}売春婦の婉曲{えんきょく}表現)として中国に渡る際、女性自ら同意書など必要書類を揃えて自ら渡航許可書を申請し、日本の官憲は、女性の契約内容を確認したうえで、騙されたり、誘拐されたりしていないか厳重にチェックしていたことが示されている。つまり、日本の警察や官憲の厳しい取締によって女性を強制連行どころか、騙して渡航させることさえ難しかったのだ。
 それでも朝鮮の周旋業者が、当時の国内法に反して、軍や官憲の通達に反して、女性を戦地にある慰安所に送っていたとすれば、それは日本政府や日本軍の責任ではなく、彼らの個人的犯罪だということだ。
 これら一次資料が示す歴史的事実は『慰安婦強制連行説』『慰安婦性奴隷説』を根本から否定している。
 それでも韓国メディアや正義連は一次資料によって明らかになっているこの歴史的事実を受け入れず、それを指摘する人々を『歴史修正主義者』と呼んでいる。反証となる一次資料を示すことなく、相手が示す根拠を理由もなく無視して、持論にしがみつくなら、歴史を修正し、歪曲しているのは、彼らの方だということになる。
 こと慰安婦に関する限り、彼らの言う『歴史修正主義者』こそ、一次資料と根拠に基づいた王道を行く歴史論議をいて、このような実証的議論を避けようとする人々がレッテル貼りに使うのが『歴史修正主義者』という言葉なのだ。
 藤崎氏は、呉座氏にレッテル貼りをして終わるのではなく、正々堂々と一次資料を踏まえて慰安婦について彼と実証的議論をしてはどうか。
 首をかしげる人格攻撃
 ……
 猟犬ジャーナリズム
 また、昨今の『猟犬ジャーナリズム』のひどさもあげられる。…… 」
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 ウィキペディア
 軍慰安所従業婦等募集に関する件(ぐんいあんじょじゅうぎょうふとうぼしゅうにかんするけん)とは1938年3月4日付陸軍省兵務局兵務課起案(梅津陸軍次官押印)による、北支・中支軍参謀長宛の副官通達案(陸軍省公文書)。防衛庁防衛研究所陸軍省大日記類 陸支密大日記 昭和13年第10号 陸支密第745号。慰安婦慰安所に関する日本軍の公式資料のひとつである。
 1992年1月11日朝日新聞がこの資料を「慰安所に日本軍が関与した」証拠として報道した事で広く知られるようになり、今日でも研究者たちによってしばしば引用され解釈されている。1992年当時において日本政府は「慰安婦は民間業者が連れ歩いたもの」と答弁していた[1]。朝日新聞はこの資料を1面トップで「慰安所の経営に当たり軍が関与、大発見資料」と報道し、記事や社説では「朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した」「その数は8万とも20万ともいわれる」とし、吉見義明が「軍の関与は明白であり、謝罪と補償を」というコメントを寄せたが、この資料の解釈については反論が出ている(#吉見説への批判と反論)。

  受領番号:陸支密受第二一九七号 起元庁(課名):兵務課
    件名:軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件
・保存期間:永久(印)
・決裁指定:局長委任(印)
・決行指定:櫛淵(陸軍省大臣官房副官) 押印
・次官     梅津(陸軍省次官) 押印
・高級副官 櫛淵(陸軍省大臣官房副官)押印
・主務局長 今村均陸軍省兵務局長) 押印
 他、主務副官・主務課長・主務課員 押印
 陸支密 
(本文 :現代文)
 副官より北支(北部中国)方面軍および中支(中部中国)派遣軍参謀長宛通牒案
 支那事変の地における慰安所設置のため、内地においてこの従業婦等を募集するにあたり、ことさらに軍部了解等の名儀を利用し、そのため軍の威信を傷つけ、かつ一般民の誤解を招くおそれあるもの、あるいは従軍記者・慰問者等を介して不統制に募集し、社会問題を引き起こすおそれあるもの、あるいは募集に任ずる者の人選に適切を欠いたために募集の方法が誘拐に類し、警察当局に検挙取調を受けるものがある等、注意を要するものが少なくないことについては、将来これらの募集等にあたっては派遣軍において統制し、これに任ずる人物の選定を周到適切にし、その実施に当たっては関係地方の憲兵及び警察当局との連係を密にすることにより、軍の威信保持上並びに社会問題上手落ちのないよう配慮していただきたく命令に依り通知する。
 通達が出された背景
 日本の公娼制による違法斡旋業者の取り締まり
 1932年に長崎県の女性を「カフエーで働くいい仕事」と騙して中国上海の日本軍慰安所に連れて行った日本人斡旋業者が、刑法に基づき有罪とされた大審院最高裁)判決が37年に出されていた(大審院1937年)。この当時すでに中国大陸に駐屯する日本軍の宿営地には慰安所が設置され抱主(かかえぬし)らにより経営されており、本件被告の村上富雄もそのような者であった。そこでは内地や朝鮮、あるいは現地で募集された慰安婦が存在していた。この当時の売春取締政策として日本では公娼制が採用されており、売春業は刑法182条で制限され、売春を営む女子は警察署に自ら出頭し娼妓名簿に登録したうえで娼妓稼をなしていた(娼妓取締規則)。淫行の常習のない女子を騙すなどして勧誘して姦淫させる営業行為は刑法犯罪であったのである。本件は第一次上海事変により駐屯数が増えた日本軍にあわせ業容を拡張しようとした経営者らが婦女十数名を騙し中国に移送したことについて、婦女誘拐海外移送の罪を問われたものである。判決では上海の海軍指定慰安所のためであることが明記され、「醜業」に従事させるためであるのを偽って「女給」とか「女中」と騙したとされている。
 1930年代の朝鮮における人身売買と誘拐事件
 「朝鮮南部連続少女誘拐事件」も参照
 1933年、少女たちを誘拐し、売春宿に売り飛ばしていた朝鮮人誘拐団のトップが逮捕された事件、1936年には農村の女性を騙して満州に娼妓として売却しようとしていた朝鮮人を逮捕、1938年には17歳の二人の少女に満州での就職をもちかけて誘拐し、自分に親権があるかのように委任状を偽造して遊郭に売った朝鮮人紹介業者が逮捕され、1939年には日本女性を騙して中国へ売り飛ばそうとしていた朝鮮人が逮捕、 また同年には、1932年から各地の農村を歩き回って「生活難であえぐ貧しい農夫達」に良い仕事があると騙し、約150人を満州や中国本土などに売っていた朝鮮人が逮捕され、その朝鮮人から50名ほどを買った京城(現ソウル)の遊郭業者を警察が呼び出すと、それを察知してその女性たちを中国に転売した事件(朝鮮南部連続少女誘拐事件)が発生していた。
 以上のように、朝鮮人が女性を甘言・誘拐により、売春宿に売却しようとして日本の警察に逮捕された例が数多く報道されている。
 朝鮮総督府統計年報によると、略取・誘拐での検挙数は1935年は朝鮮人2,482人・日本人24人、1938年は朝鮮人1,699人・日本人10人、1940年は朝鮮人1,464人・日本人16人、1942年は朝鮮人746人、日本人1人となっている。
 慰安所設置と「支那渡航婦女」問題
 1938年に入ると慰安所は続々と設置されるようになるが、これらは兵站部ないしは直轄部隊が設営ないしは指定したものであり、吉見によればこれら軍公設の慰安所の経営にも参画していたとする。
 華中だけでも軍慰安所は80軒を越え、1100人以上の慰安婦が集められていたが、その多くが朝鮮人であった。 吉見によれば慰安婦の集め方には2通りのやり方があった。第一は派遣軍が占領地で女性を集める方法であり、第二は日本、朝鮮、台湾での徴集であるとし、後者については軍が自分で選定した業者を日本、朝鮮、台湾に送り込むやり方であったという。
 こうしたなか、軍の依頼を受けたとする業者が活動するようになったが、その際に警察に取調べを受けると言う事案が内地で発生するようになった。「軍の依頼だ」とする業者の言い分を和歌山県群馬県など複数の地元警察が各上位機関に問い合わせている。当初警察にとっては、業者の言うところの軍の依頼によると称する慰安婦募集は「皇軍ノ威信ヲ失墜スルモ甚シキモノ」であり信じがたいことであった。しかし公娼の募集そのものに違法性はなく、一方で1937年8月31日付の外務次官通達により厳しく制限されていた民間人の中国渡航許可制を公娼の渡航に関して緩和するよう上海日本総領事館警察署から依頼(皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件)が出されており、確かに陸軍の関係する募集であると確認するに至り、警察は内務省の指導のもとやがて受容し協力するようになったと永井和は、1996年に警察から発見された資料を元に説明している。
 その後の1938年2月23日、内務大臣の決裁を経た「支那渡航婦女の取扱に関する件」が内務省警補局長から各庁府県長官宛へ通達された。その内容は、中国戦線現地での事情を鑑み、
 1,海外の売春目的の婦女の渡航の条件は、現在内地で娼婦をしている満21歳以上で、性病や伝染病の無い者で、華北・華中に向かう者のみに当分の間黙認することとして、外務省の身分証明を発行する。
 2,身分証明を発行するときに、始めに契約した年季明けや、営業の必要が無くなったときには、すぐに帰国するように諭すこと。
 3,婦女本人が、警察に出頭して身分証明書の申請をすること。
 4,承認者として、同一戸籍内の最近尊属親、それがない場合は戸主、それもないときはそれが明かであること。
 5,身分証明書の発行前に、娼婦営業についての契約などを調査し、婦女売買や略取誘拐などがないよう特に注意すること。
 6,婦女の募集周旋について、軍との了解や連絡があるなどのことを言う者は、厳重に取り締まること。
 7,そのために、広告宣伝や虚偽もしくは誇大な話をする者は厳重に取り締まり、また募集周旋にあたる者がそれをしているときには、国内の正規の認可業者か、在外公館などの認可業者かを調査し、その証明書のない者は活動を認めないこと。
という7号の命令であった。さらに出されたのが当文書(軍慰安所従業婦等募集に関する件)であり、北支・中支(華北、華中)参謀長においては関係地方の警察や憲兵隊と連繋を密に取り、軍の威信保持上ならび社会問題上手抜かり(遺漏)なきよう配慮するよう通知している。
 詳細は「支那渡航婦女の取扱に関する件」を参照
  ・  ・  
 支那渡航婦女の取扱に関する件とは、1938年2月23日、内務省警保局長が各庁府県長官に宛てた通達。内務省発警第5号。原文は「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」と表記。
 警保局警務課(課長町村金五)が1938年2月18日付けで起案し、富田健治警保局長、羽生雅則内務次官、末次信正内務大臣の決裁を受けて、2月23日付で各地方長官に通達された。外事課と防犯課も連帯している。また1938年11月4日には内務省警保局「支那渡航婦女に関する件伺」が起案され、11月8日に施行された。
 この通達では7号の命が記され、中国に渡航させる慰安婦を満21歳以上の内地で商売する現役の娼婦に限定し、外務省が身分証明書を発行するとした。証明書発行の際には、人身売買や誘拐でないか調査し、募集に際して軍の諒解・連絡ある言辞を厳重に取り締まることを命じている。
 この内務省警保局長通牒を受けて、1938年3月4日には、陸軍省兵務局兵務課が起案した『軍慰安所従業婦等募集に関する件』(陸支密第745号)が通達された。
 原文
 原文は政府調査を参照。  ※下記の平仮名は原文では片仮名で記載。旧字体新字体に直す
 内務省発警第五号
   昭和十三年二月二十三日
     内務省警保局長  
        殿
  支那渡航婦女の取扱に関する件
 最近支那各地に於ける秩序の恢復に伴ひ渡航者著しく増加しつつあるも是等の中には同地に於ける料理店、飲食店、「カフエー」又は貸座敷類似の営業者と聨繋を有し是等の営業に従事することを目的とする婦女寡なからざるものあり更に亦内地に於て是等婦女の募集周旋を為す者にして恰も軍当局の諒解あるかの如き言辞を弄する者も最近各地に頻出しつつある状況に在り婦女の渡航は現地に於ける実情に鑑みるときは蓋し必要已むを得ざるものあり警察当局に於ても特殊の考慮を払ひ実情に即する措置を講ずるの要ありと認めらるるも是等婦女の募集周旋等の取締にして適正を欠かんか帝国の威信を毀け皇軍の名誉を害ふのみに止まらず銃後国民特に出征兵 士遺家族に好ましからざる影響を与ふると共に婦女売買に関する国際条約の趣旨にも悖ること無きを保し難きを以て旁ゝ現地の実情其の他各般の事情を考慮し爾今之が取扱に関しては左記各号に準拠することと致度依命此段及通牒候
 記
 一、醜業を目的とする婦女の渡航は現在内地に於て娼妓其の他事実上醜業を営み満二十一歳以上且花柳病其の他伝染性疾患なき者にして北支、中支方面に向ふ者に限り当分の間之を黙認することとし昭和十二年八月米三機密合第三七七六号外務次官通牒に依る身分証明書を発給すること
 二、前項の身分証明書を発給するときは稼業の仮契約の期間満了し又は其の必要なきに至りたる際は速に帰国する様予め諭旨すること
 三、醜業を目的として渡航せんとする婦女は必ず本人自ら警察署に出頭し身分証明書の発給を申請すること
 四、醜業を目的とする婦女の渡航に際し身分証明書の発給を申請するときは必ず同一戸籍内に在る最近尊族親、尊族親なきときは戸主の承認を得せしむることとし若し承認を与ふべき者なきときは其の事実を明ならしむること
 五、醜業を目的とする婦女の渡航に際し身分証明書を発給するときは稼業契約其の他各般の事項を調査し婦女売買又は略取誘拐等の事実なき様特に留意すること
 六、醜業を目的として渡航する婦女其の他一般風俗に関する営業に従事することを目的として渡航する婦女の募集周旋等に際して軍の諒解又は之と連絡あるが如き言辞其の他軍に影響を及ぼすが如き言辞を弄する者は総て厳重に之を取締ること
 七、前号の目的を以て渡航する婦女の募集周旋等に際して広告宣伝をなし又は事実を虚偽若は誇大に伝ふるが如きは総て厳重之を取締ること又之が募集周旋等に従事する者に付ては厳重なる調査を行ひ正規の許可又は在外公館等の発行する証明書等を有せず身許の確実ならざる者には之を認めざること
 現代文
 支那事変の後、支那各地の秩序回復に伴い渡航者が著しく増えているが、これらのなかには同地における料理店、飲食店、カフェ−、または貸座敷類似の営業者と連携を有しこれらの営業に従事することを目的とする婦女子が少なくない。さらに内地においてはこれら婦女募集の周旋を為す者にして恰も軍当局の諒解あるかの如き言辞を弄する者も頻出しつつある状況に在り。
 婦女の渡航は現地における実情に鑑みるときは蓋し必要已むを得ざるものあり。警察当局においても特殊の考慮を払ひ実情に即する措置を講ずるの要ありと認めらるるも、これら婦女の募集周旋等の取締にして適正を欠かんか帝国の威信を毀け皇軍の名誉を害ふのみに止まらず、銃後国民特に出征兵土遺家族に好ましからざる影響を与ふると共に婦女売買に関する国際条約の趣旨にも悖ること無きを保し難きを以て、現地の事情その他を考慮し以下各号に準拠することとする。
 1,海外の売春目的の婦女の渡航の条件は、現在内地で娼婦をしている満21歳以上で、性病や伝染病の無い者で、華北・華中に向かう者のみに当分の間黙認することとして、外務省の身分証明を発行する。
 2,身分証明を発行するときに、始めに契約した年季明けや、営業の必要が無くなったときには、すぐに帰国するように諭すこと。
 3,婦女本人が、警察に出頭して身分証明書の申請をすること。
 4,承認者として、同一戸籍内の最近尊属親、それがない場合は戸主、それもないときはそれが明かであること。
 5,身分証明書の発行前に、娼婦営業についての契約などを調査し、婦女売買や略取誘拐などがないよう特に注意すること。
 6,婦女の募集周旋について、軍との了解や連絡があるなどのことを言う者は、厳重に取り締まること。
 7,そのために、広告宣伝や虚偽もしくは誇大な話をする者は厳重に取り締まり、また募集周旋にあたる者がそれをしているときには、国内の正規の認可業者か、在外公館などの認可業者かを調査し、その証明書のない者は活動を認めないこと。
   ・   ・   ・   
 韓国人・朝鮮人反日・侮日を止められないのは、下等・野蛮な日本を自分達より上位者とし認めたくない、日本人は人間以下の獣である、という歴史的民族的文化的「偏見」が根底にある。
 その証拠が、今なを日本人を見下す差別用語である「倭」と呼び、日本天皇を「日王」と侮蔑して呼んでいる。
 そこには、日本との友好や善隣など求める気持ちは微塵もない。
 つまり、反日・侮日・敵日はあっても親日や知日などない。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、自分が気に言った時代劇・時代小説が好きだが、気に入らない歴史は嫌いである。
 つまりは、現代の日本人は歴史が嫌いなのである。
   ・   ・   ・   
 日本人は、人間として個人的にいい事もするが悪い事もしていた。
 いい事をする日本人は2割、悪い事をする日本人は3割、悪い事をしないがいい事もしない関わりたくない傍観者の日本人は5割。
   ・   ・   ・   
 朝鮮半島内の新聞は、朝鮮人婦女子が誘拐事件に巻き込まれる事件が多い事を報道して注意を促していたが、貧しさゆえにか無警戒ゆえか朝鮮人婦女子を巡る事件は絶えなかった。
 日本人や朝鮮人の警察官は、誘拐された朝鮮人婦女子を助けるべく朝鮮人や日本人の誘拐犯の摘発に力を入れていた。
   ・   ・   ・   
 朝鮮総督府は、朝鮮人犯罪者による婦女子の連れ去り事件と貧困家庭の朝鮮人男性による日本への出稼ぎ目的の不法渡航増加(年間数十万人)が2大重要問題となっていた。
 朝鮮人を労働者として強制連行しなくとも、大量の朝鮮人青年達は民族大移動的に日本へ移住していた。
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 キリスト教会は、布教の一環として貧しい朝鮮人達の救済活動を行い、日本では失敗したが朝鮮では成功して信者を増やしていた。
 宣教師の中には、布教活動と共に反天皇反日本活動を行う者もいた。
 同様に、隣国ソ連から共産主義者朝鮮半島内に浸透し独立運動と反天皇反日武装闘争を支援していた。
 朝鮮人キリスト教信者や共産主義者は、志願して日本軍兵士や軍属になり日本軍内に潜り込んでいた。
 キリスト教朝鮮人テロリストは日本人共産主義者テロリスト同様に、親ユダヤ派・避戦平和主義者として人道貢献や平和貢献に努めていた昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
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 1945年には、日本国内に200万人以上の朝鮮人若者が少しでも給料のいい職を求めて溢れていた。
 給料がいい職業とは、特殊技能を持つ学歴ある技術者か、命の危険がある過酷な肉体労働者であった。
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🗻3〕─1─DNA解析で新説。血が濁った混血・雑種の現代日本人の祖先は3つの集団。~No.4No.5 

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 2021年9月18日 朝日新聞「ルーツに新説 金沢大・鳥取大など研究チーム
 現代日本人の祖先
 古墳時代に誕生?
 金沢市で見つかった約1500年前の古墳時代の人骨のDNA解析から、縄文人弥生人にはなく、現代日本人に見られる東アジア人特有の遺伝的な特徴が見つかった。日本人のルーツは、土着の縄文人と大陸から渡来した弥生人の混血説が有力だが、さらに大陸からの渡来が進んだ古墳時代になって古墳人が登場したことで、現代につながる祖先集団が初めて誕生したことを示唆している。
 遺伝的特徴、ほぼ一致
 金沢大や鳥取大などの国際研究チームが18日、米科学誌サイエンス・アドバンシズに発表する。
 研究チームは、約9000年前の縄文人や約1500年前の古墳人など計12体のDNAを解読。すでに解読済みの弥生人2体のデータなどと比較した。親から子に遺伝情報が受け継がれる際に生じるわずかな違いの痕跡から、どの集団が遺伝的に近いのかを調べた。
 その結果、弥生人は、中国東北部の遼河(りょうが)流域など北東アジアで多く見られる遺伝的な特徴を持ち、縄文人と混血していることも確認できた。一方、古墳人は、弥生人が持っていない東アジア人に多く見られる特徴を持っていた。さらに、現代日本人と遺伝的な特徴がほぼ一致することも判明した。
 大陸からの渡来人の大規模な移住は、約3000年前の弥生時代にさかのぼる。研究チームは、それ以降も漢民族などの集団が次々に渡来し、織物や土木などの新技術を伝えて古墳時代を築き、現代の日本人につながったとみている。
 古墳時代は3世紀後半~7世紀にかけて続き、弥生時代末ごろには邪馬台国が栄えたとされる。研究チームの金沢大古代文明・文化資源学研究センターの覚張隆史助教(考古科学)は『日本人が縄文、弥生、古墳の三つの祖先集団からなることを示す初めての証拠。ほかの古墳人や弥生人のゲノムを広く調べることで、日本人の起源の謎に迫っていきたい』と話している。(石倉徹也)」

従来の説 :今回の研究
縄文人  :縄文人◀日本列島に土着
 +混血   +混血
弥生人  :弥生人◀北東アジア集団
 │     +混血
 │   :古墳人◀東アジア集団
 │     │↖
 │     │ 遺伝的な特徴がほぼ同じ
 ↓     ↓↙
現代日本人:現代日本

北東アジア⤵
 現代日本人の形成は、古墳時代
東アジア⤴
   ・   ・   ・   
*遼河(りょうが)(広辞苑
 中国東北地区南部の大河。吉林省南西部に発する東遼河と内モンゴルの大興安嶺の東側に発する西遼河とが、遼寧省昌図県付近で合流して遼河となり、南西流して盤山県で双台子河となり遼東湾に注ぐ、全長1,430キロメートル。
   ・   ・   ・   
 現代日本人の祖先である北東アジア人と東アジア人は、現代の中国人や朝鮮人ではなく、アフリカを出て混血を繰り返し数多くの文化と技術を持って日本列島に渡ってきたホモ・サピエンスである。
   ・   ・   ・   
 9月18日03:00 MicrosoftNews 朝日新聞デジタル「日本人の「完成」は古墳時代だった? DNAを分析、ルーツに新説
 © 朝日新聞社 古墳人の男性の復顔像。群馬県渋川市の金井東裏遺跡で出土した頭蓋骨(ずがいこつ)から復元された=群馬県立歴史博物館提供
 金沢市で見つかった約1500年前の古墳時代の人骨のDNA解析から、縄文人弥生人にはなく、現代日本人に見られる東アジア人特有の遺伝的な特徴が見つかった。日本人のルーツは、土着の縄文人と大陸から渡来した弥生人の混血説が有力だが、さらに大陸からの渡来が進んだ古墳時代になって古墳人が登場したことで、現代につながる祖先集団が初めて誕生したことを示唆している。
 金沢大や鳥取大などの国際研究チームが18日、米科学誌サイエンス・アドバンシズに発表する。
 日本人の起源は、列島に住み着いていた縄文人に、大陸からの渡来集団が混血して弥生人となり、現代の日本人につながったとする「二重構造モデル」が定説とされてきた。1991年に東大名誉教授だった埴原和郎氏が唱えた。
 研究チームは、約9千年前の縄文人や約1500年前の古墳人など計12体のDNAを解読。すでに解読済みの弥生人2体のデータなどと比較した。親から子に遺伝情報が受け継がれる際に生じるわずかな違いの痕跡から、どの集団が遺伝的に近いのかを調べた。
 その結果、弥生人は、中国東北部の遼河流域など北東アジアで多く見られる遺伝的な特徴を持ち、縄文人と混血していることも確認できた。一方、古墳人は、弥生人が持っていない東アジア人に多く見られる特徴を持っていた。さらに、現代日本人と遺伝的な特徴がほぼ一致することも判明した。
■大陸からの移住、新技術持って次々に?
 大陸からの渡来人の大規模な移住は、約3千年前の弥生時代にさかのぼる。研究チームは、それ以降も漢民族などの集団が次々に渡来し、織物や土木などの新技術を伝えて古墳時代を築き、現代の日本人につながっていったとみている。
 古墳時代は3世紀後半~7世紀にかけて続き、弥生時代末ごろには邪馬台国が栄えたとされる。
 今回分析できた古墳人の骨は、金沢市で発掘された3体にとどまる。新説を裏付けるには、さらに分析数を増やす必要があるという。
 研究チームの金沢大古代文明・文化資源学研究センターの覚張(がくはり)隆史助教(考古科学)は「日本人が縄文、弥生、古墳の三つの祖先集団からなることを示す初めての証拠だ。今後、ほかの古墳人や弥生人のゲノムを広く調べることで、日本人の起源の謎に迫っていきたい」と話している。
 論文は以下のサイト(https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419)から読むことができる。(石倉徹也)
古墳時代とは――大和政権が支配し、各地に前方後円墳
 縄文、弥生に続く3世紀後半~7世紀までの時代。農耕技術の発展や武器の普及などにより権力や富みが集中して階級社会が生まれ、大和地方を中心とする大和政権が成立。指導者たちを葬った巨大な前方後円墳が各地に造られ、武具や鏡などが副葬された。邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓との説もある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)や、世界文化遺産の大山古墳(伝仁徳天皇陵堺市)も有名だ。
   ・   ・   ・   
 9月18日21:47 MicrosoftNews 読売新聞「現代日本人、3集団にルーツ…人骨の遺伝情報を解析
 © 読売新聞 富山市の小竹貝塚から出土した縄文土器(左)と人骨(金沢大学の中込滋樹客員研究員提供)
 現代の日本人は縄文人、北東アジア、北東アジアの三つの祖先集団を持つことが遺伝情報の解析で判明したとする研究成果を、金沢大などのチームが発表した。弥生時代古墳時代と進む間に縄文人と大陸系の渡来人が混ざった可能性があるという。論文が米科学誌「サイエンス・アドバンシズ」に掲載された。
 金沢大の覚張(がくはり)隆史助教(考古分子生物学)らのチームは、縄文、古墳時代の人骨計12体の遺伝情報を解読し、既に報告がある縄文、弥生時代の人骨計5体の結果と共に解析した。
 その結果、長崎県佐世保市で出土した弥生時代の人骨2体は、遺伝情報の約6割が縄文人由来で、約4割は中国・ロシア国境などの北東アジア由来だった。金沢市古墳時代の人骨3体は東アジア由来が6割以上で、縄文人は15%まで下がり、現代の平均的な本州の日本人に近いという。
 チームは、縄文~古墳時代に大陸から複数回の集団の渡来があり、古墳時代以降は渡来が少なかった可能性があると分析している。
 国立科学博物館の篠田謙一館長(自然人類学)の話「弥生人の遺伝情報は、地域や時代で差があり、現代の日本人に近い例もある。当時の実態を解明するには、解析する人骨をさらに増やす必要がある」」
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 9月17日 MicrosoftNews KYODONEWS 共同通信「弥生土製品に点描の女性 大阪、シャーマンか
 © KYODONEWS 東奈良遺跡で出土した多くの点を使って女性シャーマンを表現したとみられる土製品=大阪府茨木市
 大阪府茨木市の東奈良遺跡で、多くの点を使って女性シャーマン(呪術師)を表現したとみられる土製品が見つかり、17日、同市が発表した。弥生時代の絵画土器で、人物を点描した例は初めてという。
 土製品は2002年の発掘で出土し、遺物の再整理で見つかった。直径約8センチの円板形。点は針状の工具で刺して施したとみられる。頭部の一部は欠けているが、両手を上げた人物で、脚部の間にV字形の表現があることから女性シャーマンの可能性がある。両手を上げた人物表現は弥生時代中期後半にみられることから土製品も同時期と推定できるという。
   ・   ・   ・   
 日本民族とは、流れ着いた、逃げてきた、逃亡してきた、など理由で日本列島に上陸した雑多な人々が乱婚して生まれた血が汚れた混血の雑種民族である
   ・   ・   ・   
 原始時代・先史時代の古代日本人は、取り立てて特殊ではないし、特別に賢くもなければ優れてもいし、自惚れる程の自慢できる所は一つもなかった。
 強いて言えば、操を守らず、見境なく誰とでも乱婚を繰り返した「淫乱さ」である。
   ・   ・   ・   
 日本人とは、日本列島に住んでいる全ての人間の事であるが、日本の文明、伝統、文化、宗教、言語を持った日本民族とは限らない。
   ・   ・   ・   
 帰化人と渡来人は違う。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、大陸人の漢族系中国人や半島人の韓国人・朝鮮人とは違う。
 日本人は、中国人・韓国人・朝鮮人と同種でもなければ同族でもないし、一衣帯水などウソである。
 強いて言えば、同じ黄色人種アジア人、そして同じ東アジア地域で生活しているというだけである。
   ・   ・   ・   
 現代の漢族系中国人と古代の漢族系中国人は別人の中国人である。
   ・   ・   ・   
 日本人が大陸や半島に感謝すべきは、古代の人々であって、現代の中国人・韓国人・朝鮮人ではない。
 何故なら、古代の大陸人・半島人と現代の中国人・韓国人・朝鮮人は血が繋がっているとは言い難いから、つまり古代人の子孫とは言い切れないからである。
 ましてや、民族全体主義中国共産党政府如きは縁もゆかりもない。
   ・   ・   ・   
 日本民族アイヌ民族琉球民族は、同じ祖先から分かれた兄弟民族であった。
   ・   ・   ・   
 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
   ・   ・   ・   
 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
   ・   ・   ・   
 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
   ・   ・   ・   
 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
   ・   ・   ・   
 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
   ・   ・   ・   
 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
   ・   ・   ・   
 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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🗻95〕─2─平安時代のカブラ頭は非人の証。非僧非俗は親鸞の禿頭宣言。~No.239 ㉙ 

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 2021年9月19日号 サンデー毎日五木寛之の呆けない名言
 『しかれば己は僧に非ず俗に非ず 親鸞
 非僧非俗とは何か
 35歳のときに後鳥羽上皇によって越後の国に流された親鸞は、みずから禿(とく)と名乗った。愚禿(ぐとく)親鸞の宣言である。
 このことは〈非僧非俗〉の立場に身をおいた親鸞の覚悟として語られることが多いが、僧に非(あら)ず、俗にも非ずというのはどういう位置だろう。
 みずから称した『禿』とは、衝撃的な表現ではないだろうか。『禿』は『禿頭』という言葉からさると、『ハゲ頭』のように受けとられかねない。しかし、当時の『禿』はその反対で、むしろ長髪のザンバラ髪、もしくはオカッパ頭であった。『カブラ』である。
 一般の俗人は、髪を結(ゆ)う。のばした髪をまとめて結うのである。『カブラ頭』は年少の児童の髪型で結わない。
 しかし、成人でカブラ頭の人びともいた。大人でありながら結わない。それらの人びとは当時、非人と呼ばれた。世間から賤視(せんし)された人びとは当時、非人と呼ばれた。世間から賤視された人びとである。いわば聖・俗・非と、3つの世界があったと考えればいい。
 非僧非俗とは、どういう意味か。僧でもなければ俗人でもない。その中間でもない。そのさらに深部である。
 俗人、つまり常民のほかに、カブラ頭の世界があった。『禿』とはその世界のシンボルである。親鸞はみずからをその立場におき、〈愚禿〉を名乗ったのだと私は思う。
 越後に流された親鸞は坊主頭ではなかった。髪を結わなかった。カブラ頭のザンバラ髪であっただろう。想像すると心が躍る。」
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 親鸞は、聖なる僧侶を捨て、乞食坊主・世捨て人・非人(賤民)となった。
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 賤民・非人・部落民の住民は、時代時代で違っていた。
 血と死に塗れ穢れた職業人とは、土の上を走り回って犯罪者を暴力を振るって取り締まる下吏(かり)と人を殺す事を生業とする職業軍人の武者・武士であった。
 マルクス主義史観(共産主義史観)やキリスト教史観では、日本の賤民・非人・部落民を説明できない。
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 平安末期から鎌倉前期にかけて、日本は数多くの天変地異と疫病そして戦乱が絶えない地獄世界で、大量の被災者は生き残れる可能性がわずかでもある京などの町に流れ込み、貧民街に住み着き賤民・非人と同じ物乞いをしながら食いつないでいたが、運拙く死んだ者は葬られる事なく山野に捨てられ鳥や獣の餌となり、寂寥の下で朽ちはて骸を晒した。
 その地獄の様な世の中・末法世界で哀れな人々を救うべく、鎌倉仏教として浄土宗、浄土真宗時宗日蓮宗臨済宗曹洞宗など数多くの諸宗派が生まれた。
 それが日本の仏教という宗教であった。
 日本の地獄には、キリスト教のような絶対神を信仰する普遍宗教(奇跡宗教)は生まれなかった。
 親鸞悪人正機説である、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(歎異抄)は地獄のような現世を生きる道標として説かれた。
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「賤」の解説
 賤 せん
 日本史上,社会から卑賤視され,身分的に最下層におかれた人々。古くは,奴婢と総称された。令制では,人民は良と賤の身分に分けられ,戸令に,陵戸,官戸,家人,公奴婢,私奴婢を五色の賤といい,結婚にも制限が加えられ,異色の者同士が結婚したときには,その所生の男女の帰属についても,種々の規定が設けられ,良民との通婚は許されなかった。しかし,良と賤との間に生れた男女は,一定の手続を経たうえで良民に帰属させるという解放の道も開かれていた。奈良時代には,賤民解放もときにより行われたが,その全面的解放が行われたのは平安時代の延喜年間 (901~923) のことであった。しかし,平安時代後期からは,餌取 (えとり。タカの餌のために鳥や牛馬の肉をとる者) ,犬神人 (いぬじにん) ,夙の者,河原者,屠児 (とじ) など散所,非人と呼ばれる賤民が現れた。江戸時代になると,四民 (→士農工商 ) の下に穢多,非人などの賤民身分が法制的に設けられた。明治4 (1871) 年太政官布告によって,穢多,非人の称号は廃止され,法制的には賤民身分はなくなった。しかし穢多身分の系譜をひく人々は新平民などの賤視的称呼を受け,身分遺制に伴う物心両面の社会的差別をこうむり,第2次世界大戦後にまで及んでいる。 (→部落解放運動 )  
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 本項では中世日本の被差別民(ちゅうせいにほんのひさべつみん)について叙述する。中世日本(平安時代後期から室町時代・戦国時代)において存在していた被差別民が、中世社会の中でいかなる存在であったかについては、1980年代以降、網野善彦らによって急速に研究が進展しており、いまだその評価は確定していない。
 被差別民の種類
 中世の被差別民は、一般的に非人と呼称されていたが、河原者、宿の者、散所民、声聞師(唱門師)などに分類できる。この時代、穢多は河原者の別名であった。
 職業
 皮革、屠畜、清掃、造園のほか、芸能業にも従事した。
 特徴
 中世に穢れ観念が日本に流入した事により大衆から賤視されていたが、一方で善阿弥が将軍足利義政に仕えた事に見られるように、近世ほど他身分から隔離されてはいなかった。また、中世は身分の流動性が非常に高く、五色の賤や近世部落のような固定化された世襲階級ではなかった。
 歴史的連続性
 律令制下の五色の賤との歴史的連続性については、ほぼ否定されているが、江戸時代の近世部落との連続性は、現在、歴史研究の主要な議論テーマとなっている。
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 非人(ひにん)は、主に、
 日本中世の特定職能民・芸能民の呼称であり、次第に被差別民の呼称となる。
 江戸時代の賎民身分の呼称である。
 いわゆる士農工商には属さないが、公家や医師や神人等と同様にあくまでも身分制度上の身分とされ、人別帳の枠内にある。さらに多数説によると、非人は「下人」といわれた不自由民・奴隷とも全く異なる存在であるとする。
 概要
 非人という言葉は仏教に由来するとも言われ、『法華経』「提婆品」などにこの単語が見られる。しかし、そこでは差別的な含蓄は一切なく、単に比丘や比丘尼などの人間(mānuṣa)に対してそれ以外の者(amānuṣa)、具体的には釈迦如来の眷属である天人や龍といった八部衆を指す言葉として用いられている。日本では平安時代橘逸勢が842年(承和9年)に反逆罪に問われ、姓・官位を剥奪されて「非人」の姓を天皇から与えられたのが文献上の初例とされる。
 非人の語は、時代や地域によって言葉が指す内容(社会関係上の立場や就業形態や排他的業務など)が大きく異なる[3]。 非人という語義は、広義の非人と狭義の非人に分けられる。広義の非人とは、犬神人(いぬじにん)・墓守・河原者・放免(ほうめん)・乞胸(ごうむね)・猿飼・八瀬童子等々の生業からくる総称である。狭義の非人は犯罪により非人に落ちた者、無宿の非人とされているがさらなる調査研究が必要とされる[独自研究?]。
 具体的には、罪人・世捨て人・乞食・ハンセン病患者など、多様な人々を含む。基本的な職掌は物乞いだが、検非違使の下で掃除・刑吏も担当したほか、街角の清掃や「門付(かどづけ)」などの芸能、長吏の下役として警備や刑死者の埋葬、病気になった入牢者や少年囚人の世話などにも従事した。また、武装して戦うことや葬送地の管理権を持っており、為政者から施行を受ける権利も有した。
 乞食
 (『和漢三才図会』(正徳2年(1712年)成立)より)
 非人は、関東では穢多頭・弾左衛門と各地の長吏小頭の支配下にあった。江戸の非人には、抱非人と野非人との別があった。野非人は「無宿」(無戸籍、人別帳から外れている者)で、飢饉などになると一挙にその数が増えた。抱非人は、非人小屋頭と言われる親方に抱えられ、各地の非人小屋に定住していた。非人小屋は江戸の各地にあった。非人小屋頭はそれぞれ有力な非人頭の支配を受けており、江戸には4人(一時期5人になったこともある)いた。この4人の非人頭がそれぞれ弾左衛門支配下にあった。4人の非人頭の中でも特に有力なのが浅草非人頭・車善七だった。
 変遷
 この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2021年6月)
 非人の形成期には、検非違使管轄下で「囚人の世話・死刑囚の処刑・罪人宅の破却・死者の埋葬・死牛馬の処理・街路の清掃・井戸掘り・造園・街の警備」などに排他的特権的に従事した。また悲田院や非人宿に収容されたことから、病者や障害者の世話といった仕事も引き受けていた地域・集団もあった。また芸能に従事する者もおり、芸能史の一翼を担ってきた。
 鎌倉時代には叡尊や忍性による悲田院の再興を受けて西大寺真言律宗の元に組織化されたり、一遍の時宗とともに遊行する者もいた。中世の非人の多くは異形(蓬髪・顎鬚・童姿等)の者であった。やがて河原者・無宿者などを指すようになった。江戸時代には身分や居住地域・従事職能等が固定化された。
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 穢多(えた)とは、日本において中世以前から見られる身分制度の身分のひとつである。
 解釈
 日本仏教、神道における「穢れ」観念からきた「穢れが多い仕事」や「穢れ多い者(罪人)が行なう生業」の呼称、非人身分の俗称とする説もあるが、それより古く、古代の被征服民族にして賤業を課せられた奴隷を起源と見る立場もある。
 穢多差別は平安時代までには始まったとされ、江戸時代に確立され、呼称は明治時代に廃止された。鎌倉時代までには奈良と京都に「穢多」差別があったことが明らかになっている。
 江戸時代における身分について京都大学名誉教授朝尾直弘によれば「士と農工商の間に大きな身分的格差があるのであって、農工商の三つについてはほぼ同列だと考えられている。これを平民あるいは平人として一括する意見もある。その下にいわゆる「穢多・非人」と呼ばれた階層があった。大きな線、区別は士と農工商、農工商とその下の「穢多・非人」との間にあった、ということが明らかになってきている。」という。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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 庶民にとって、領主が誰であったも関係ない。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、奴隷として買った日本人を世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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🗻95〕─1─誰も助けてくれない超ダークな平安時代。「羅生門」と「今昔物語」。~No.238 

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 9月12日 MicrosoftNews 東洋経済オンライン「芥川龍之介が描いた「超ダークな平安時代」の迫力 「羅生門」と「今昔物語」読み比べてわかったこと
 イザベラ・ディオニシオ
 © 東洋経済オンライン 日本人なら誰でも知っている古典『今昔物語』がネタ元となっている、芥川龍之介の『羅生門』。2つを読み比べて見えてきたことは(写真:Pro_KYOTO/PIXTA
 「平安朝」という言葉に、どのようなイメージを抱くだろうか。
 ほとんどの人は、『源氏物語』や『枕草子』に描かれているようなきらびやかな世界を思い起こすことだろう。金色の雲に包まれた優雅な庭園、簾の内側に隠れてひそひそ話す女たち、満月を仰ぎながら初恋に想いを馳せる殿方、勤行に勤しむ尼君……。現実とも虚構ともつかない物語の断片や絵巻から切り取られた名場面の数々が、次から次へと現代人の脳裏を過(よぎ)る。
 しかし、それはあくまでも平安貴族の(頭の中の)理想にすぎず、実際面での日々の暮らしはそう雅ではなかったはずだ。たとえ金持ちに生まれたとしても、住んでいる屋敷は寒くて暗い、食べ物は質素で、誰だろうとつねに疫病と共存せざるをえなかった。にもかかわらず、芸術を通して垣間見える「平安朝」は、われわれの目にはキラキラと輝く、洗練された時代として映る。
 「普通の人々」に微塵の興味も示さず
 貴族プライドの権化とでもいうべき清少納言姐さんは「にげなきもの」という段で、次のように書いている。
 にげなきもの 下衆の家に雪の降りたる。また、月のさし入りたるも、くちをし。〔…〕下衆の、紅の袴着たる。このころは、それのみぞあめる。
 【イザ流圧倒的訳】
 釣り合わないもの。下々の家に雪が降りかかっている景色。そういう家に月の光が差し込んだりして、なんかもう台無し!〔…〕紅の袴を着た下衆女も耐えられない。近頃はそればっかりでうんざりだ。
 姐さんにとって、貴族以外は人に非ず、庶民の姿をわずかに見ただけで虫唾が走るほどだったようだが、そうした彼女は特別にお高くとまっていたわけではない。自尊心が強かったというのはいうまでもないが、紫式部和泉式部赤染衛門など、同時代を生きたレディースたちもみんな、貴族同士の小さな社会にしか視線を向けようとせず、「普通の人々」に対して微塵も興味を示さなかった。
 彼女らが書き残した作品には、恋に思い悩む殿上人の世話を焼き、休みなく動き回る侍女や女房は無数に登場するけれど、畑を耕す百姓、モノを売る商売人などはめったに姿を現さない。道をさまよう乞食や暗闇に隠れてじっと待っている泥棒なんてもってのほかだ。
 こうしていわゆる「卑しい者たち」は、グラマラスな日記や物語から注意深く消去され、その結果、現代人が抱く「平安朝」というファンタジーの中にも顔をのぞかせることはない。
 では存在すら隠蔽され続け、その日暮らしの生活を余儀なくされていた「普通の人々」の声は、永遠に失われてしまったのだろうか。否、おかげさまで、そんなことはない。宮廷の外に広がっていた、物騒で、生々しい世界の一端を見せてくれる貴重な作品が1つ生き残っている。それは壮大な説話集、『今昔物語集』だ。
 日記とは違う『今昔物語』の魅力
 収録されている説話のすべてが「今ハ昔」という書き出しから始まっていることを理由に、そのような名称で知られているけれど、正式なタイトルはない。正確な成立過程や執筆された時期も不明で、平安時代の終わりごろに編集されたものだと思われる。
 全31巻のうち、現存しているのは28巻。大きく分けて、天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)の3部で構成される。つまり、地理についてごく限られた知識しか持っていなかった当時の日本人からすれば、知られている世界が完全に網羅されている。
 スタイルも内容も異なる無数の小さな物語のアンソロジー、印刷技術のない時代に生まれた作品なだけに、途中でばらばらになって断片的にしか残らなかったとしてもおかしくないが、『今昔物語集』は1つのまとまりとして現在までしぶとく生き延びてきたのだ。28巻もわれわれに届けられている奇跡こそが、何よりもその人気ぶりを物語っている。
 簾や屏風によって細かく細分化された物語や日記の空間と違って、『今昔物語集』が見せてくれる光景は無限に広がり、いつまでも尽きない。それは本作の最大の特徴であると同時に、最大の魅力であるとも言える。
 いわゆる因果応報譚や仏教関連の説話も多く含まれているけれど、ユーモアに富んだ小話や背筋の凍る怪談や切ないラブストリーなど、『今昔物語集』のページの中にはありとあらゆる人間像が生き生きと描き込まれていて、その数々の登場人物たちは3カ国を舞台に目覚ましく飛躍する。私のような文学オタクであれば、その全世界を眺望する誘いをどう断ることができようか。
 『源氏物語』に比べると知名度も愛好家人口も少し落ちるものの、やはり『今昔物語集』は今もなおそれなりのファン層を誇る。そして、その「野生の美しさに充ち満ちている」超大作に魅了された読者には、芥川龍之介先生のようなVIPもいらっしゃるではないか!
 芥川は『今昔物語集』をはじめ、古典文学に出典をあおいだ十数編の短編小説を世に送り出しているが、それらの作品に触れることによって、平安vs近代の読み比べを楽しみながら、実に胸躍る文学的テイスティングを堪能できる。たとえば、文豪の学生時代の産物である『羅生門』。
 『今昔物語』と『羅生門』それぞれの出だし
 『今昔物語集』の出だしはこんな感じだ。
今は昔、摂津の国の辺りより盗みせむがために、京に上りける男の、日のいまだ暮れざりければ、羅城門の下に立ち隠れて立てりけるに、朱雀の方に人しげく行きければ、人の静まるまでと思ひて、門の下に待ち立てりけるに、山城の方より人どものあまた来たる音のしければ、それに見えじと思ひて、門の上層に、やはらかきつき登りたりけるに、見れば火ほのかにともしたり。
 【イザ流圧倒的訳】
 今は昔、摂津の国あたりから、盗みを働くために上京してきた男がいた。まだ日が暮れていないので、彼は羅城門に隠れていた。朱雀大通りに人がうようよいて、静かになるまで門の下で待とうと思ったら、南のほうから大勢がやってくる声が聞こえる。見られるとやばいと思って、彼は門の2階によじ登ったが、そのときに微かな明かりが見えた……。
 女流文学の代表的な作品とまるで正反対の雰囲気が醸し出されている。死体置き場と化した都の城南の正門を舞台に、最初に出てくるのは、悪事を働こうと決心した男だ。周りには人通りが激しく、やかましい。「もののあはれ」の世界はどこへ消えてしまったのだろうかという感じである。
 さて、芥川先生バージョンと比べてみよう。
 ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
 ストーリーは同じ場所を背景に動き出すが、出典からは感じとれないメランコニックな空気が漂い、その中からある「下人」の姿がぽつりと現れる。彼は、盗みをするか餓死するかと思い悩み、窮地に追い込まれている。周り一面は静まり返っており、男の頭の中にさまざまな思いが浮かんでは消えている音までが聞こえるほどだ。
 どちらの主人公も門の2階に上がって、放置されていた死体の中に小さな明かりを灯して、蹲っている怪しげな老婆に出くわす。悪寒が走るような地獄絵図だ。
 『今昔物語集』の老婆は女性の死体の頭の近くに座り、その髪の毛を乱暴に抜き取っている。男にその変わった行動の理由を尋ねられると、老婆はすぐに手を合わせて命乞いする。死んだ女性はかつての主人、彼女の髪を使って鬘を作りたいという。
 その一方で、『羅生門』の老婆は赤の他人、詐欺まがいの商売をしていたらしい女の髪の毛を1本ずつ、丁寧に引っこ抜いている。そして、その理由を聞かれるや否や、自分の行動を正当化しようとして捲したてる。わずかな違いだが、なんとなく芥川の老婆の方が悪質という印象を受ける。
 さて、究極の選択だ。悪の道に踏み込んで少しでも生き延びるか、それとも餓死を選ぶか。
 それぞれの「下人」はどう振る舞うのか
 『今昔物語集』の主人公は、盗みを謀るというはっきりとした目的を持って都を訪れている。せっかくの機会を逃すまいと、彼は微塵の躊躇いもなく、それを素早く実行してみせる。
 〔…〕盗人、死人の着たる衣と嫗の着たる衣と、抜き取りてある髪とを奪ひ取りて、下り走りて逃げて去にけり。
 【イザ流圧倒的訳】
 盗人は、死体の着物と老婆の着物を剥ぎ取り、抜き取ってある髪の毛も奪い取ると、階段を駆け下りて逃げ去っていく。
 老婆の言葉を無視して、男は取れるものを全部奪い、暗闇の中に消えていく。盗まれた品は淡々と羅列されるだけだが、それがかえって出来事のスピードを感じさせ、臨場感溢れる文章になっている。死体が転がっている中で裸にされた挙句に、1人残された老婆のことを考える暇もなく、私たちの視線は走り出す男の後ろ姿を追いかけるのに気を取られてしまう。
 では、芥川の下人の方はどう振る舞うのだろうか。
 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
 しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪を倒にして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。
 下人の行方は、誰も知らない。
 顛末は出典とほぼ同じ。死ぬか盗むかという二者択一に迫られて、下人は生き延びることを選ぶ。老婆の言い訳に背中を押されたかのように、わずかに残っていた良心が消え失せる。しかし、ふとした瞬間、下人の盗品が気になる。
 少しでも金になりそうなものを手当たり次第に奪い取る『今昔物語集』の泥棒と異なり、下人は老婆の薄汚い着物だけ剥ぎ取って逃げる。本物の盗人だったら、できる限り多くの品を持ち去るはずだが、彼は何の足しにもならなそうな使い古した着物だけに思いとどまる。『今昔物語集』の男と違う「盗人」になるわけだ。
 物語に新しい命を吹き込んだ芥川版
 目の前に開いている2冊の本を行き来しつつ、なるほど!と納得する。
 芥川先生は古典の小話の骨格をほとんど変えていない。出来事の順番も、登場人物も、結末も出典に沿っているが、それを再現するとともに、描かれている内容に一歩深く踏み込んでいくのだ。
 「今昔物語鑑賞」という文章の中で、芥川本人は、自らの執筆動機を次のように説明している。
 「尤も『今昔物語』の中の人物は、あらゆる傳説の中の人物のやうに複雜な心理の持ち主ではない。彼等の心理は陰影に乏しい原色ばかり並べてゐる。しかし今日の僕等の心理にも如何に彼等の心理の中に響き合ふ色を持つてゐるであらう。」
 芥川は緻密な職人のように、はっきりとした原色に透明感、立体感、奥行きや強弱をつけて、すでに存在している物語の中に新しい命を吹き込む。1つひとつの違いを吟味していくと、それぞれの世界観がより鮮やかに浮かび上がり、その奥底に隠れていた意外なものが表に現れる。
 ワインなどのテイスティングをする際に、好きなお酒のタイプがわからない人は、まずいろいろな人気銘柄を飲み比べて、自分の好みに合う味や香りの傾向をつかむといいらしい。そして、辛口や甘口、キレやふくらみの無数のグラデーションなど、さまざまな特徴がわかってきたら、それを手掛かりにしてコントラストを楽しめるようになるそうだ。
 文学も同じような「飲み方」をすれば、ワンランク上の大人の嗜みを身につけられるかもしれない。一度にたくさんの文字量に目を通すというより、チビチビと口に含むように味わう。そこにはきっと新たな出会いと不思議な発見が待っているはずだ。」
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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 庶民にとって、領主が誰であったも関係ない。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、奴隷として買った日本人を世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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