☲28〕─4─ビアク島の玉砕。昭和19年5月27日。~No.115No.116 

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 日本軍 陸軍人員 10,400名。増援 2,500名。海軍人員 1,947名。
  戦死・戦病死 10,000名以上。生還者 520名。
 アメリカ軍 30,000名。
  戦死 471名。戦傷 2,433名。戦病 7,200名。
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 軍国日本にとって太平洋戦争は四面楚歌の戦いであり、前門に虎(アメリカ軍などの連合軍)、後門に狼(ソ連・共産主義勢力)がいて、獅子身中の虫(朝鮮人・中国人)が存在していた。
 日本人であれば兵士はもちろん一般人さえも、アジアや太平洋で絶望的な戦闘で倒れ、敗走して餓死や病死で屍を山野に晒していた。
 逃げた日本国籍所有朝鮮人達。
 日本国籍を持つ戦死者は、靖国神社の祭神として祀られている。
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 2026年3月13日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「ペリリュー以上の地獄…!まさかの「戦死率96.1%」、日米戦争が集約された「ビアク島」の「過酷すぎる戦場」と「悲劇」
 潮書房光人新社
 戦死率96.1%――。太平洋戦争中、地獄と称されたガダルカナル島やペリリュー島よりも過酷な戦場といわれた「ビアク島」をご存じだろうか。日本から南に約4000キロ以上離れた赤道直下のジャングルに覆われた島での戦闘で、ニューギニア戦線の一つ。一時は善戦健闘をみせた日本軍守備隊も補給路が閉ざされ、やがて病気や飢餓などで大半が命を落とした。戦後の遺骨収集も遅々として進んでいない。そんなビアク島での戦闘を描き切った「(新装版)玉砕ビアク島」(田村洋三著、光人社NF文庫)が話題になっている。なぜ戦死率がこれほど上がったのか。指揮官たちは何を誤ったのか。同書から一部抜粋・再構成してお届けする。
 ペリリュー以上の地獄…! まさかの「戦死率96.1%」、日米戦争が集約された「ビアク島」の”過酷すぎる戦場”と”悲劇”
 © 現代ビジネス
 地獄のニューギニア作戦、2000人が山中に行き倒れ
 (日本軍輸送船団が壊滅させられた)“ダンピールの悲劇”に打ちひしがれた第五十一師団はラバウルで再起を計り、一ヵ月後、舟艇や駆逐艦輸送でラエ、サラモアに上陸した。兵力は第二十、第四十一両師団からの増援部隊を加えて約一万人だったが、相次ぐ空襲、マラリア、赤痢、食糧不足が重なって、戦闘に耐えうる者は二千五百八十人にすぎなかった。
 その弱小兵力を包囲して、百倍の火力を持つ米豪連合軍の二個師団、二個旅団、一個連隊が襲いかかった。八月、師団の戦死、戦病死者は千六百人に達し、ラエ、サラモアの命運は尽きた。中野第五十一師団長は玉砕を覚悟したが、安達第十八軍司令官は撤退を命令、マダンの第二十師団にフィンシハーフェンまで約四百キロを踏破しての増援を命じた。
 第五十一師団の残存将兵約八千四百人は四千メートル級のサラワケット山系を越え、北岸のキヤリまで百キロの山岳撤退を強行した。熱帯とはいえ、富士山より高い山である。寒さと飢えと疲労で途中、約二千人が山中に行き倒れた。
 ニューギニア戦は敵との戦闘のほかに、飢えと病魔と長行軍とも戦わねばならない四重苦の戦いだった。そして連合軍の猛攻に追われての四重苦は、さらに続く。
 連合軍は九月、フィンシハーフェンに上陸、兵力の約半分・六千人を失った第二十師団は、キヤリで第五十一師団と合流、またもや西約三百キロのマダンまで二千~三千メートル級のフェニステル山脈縦断の途につき、途中約四千人が死亡した。
 さらに連合軍は四四年一月、マダン方面に上陸、三たび第五十一師団はマダンから北西三百キロのウエワクへ、第二十師団は同四百八十キロのアイタペへ、第四十一師団はウエワクの東百キロのハンサへと歩き、やがてさらにホーランジャ(現・ジャヤプラ)まで七百キロの死の彷徨を続けるのである。
 敵弾幕の中で絶体絶命
 敵の火線は、濃密だった。それも曳光弾をふんだんに使用することで、威力は倍加されているように思われた。しかし、味方の手榴弾も爆発するたびに敵の陣地を明るく映し出し、それが力を奮い立たせた。佐々木がさらに力を振り絞って投げようと、上半身を起こした時である。
 「激しい衝撃と共に、仰向けに投げ出されました。何も見えなくて、目の前が真っ赤でした。目をやられた、と直感しましたが、実は目ではなく、左頰の二ヵ所の傷から噴き出す血が目に流れ入ったのです。その時、突然、泣くような異様な叫びが、すぐ左後方でしました。やはり手榴弾の破片を浴びた兵が、動転して発した悲鳴でした。『敵の前で泣くなーッ』と怒鳴ったものの、自分の状態も尋常でないことに愕然としました」
 腹這いになろうとするが、それが出来ない。肝心の右手、右足が利かない。これでは潔く敵に突っ込むことも出来ない。さればといって、敵の眼前から脱出できようはずもない。敵の迫撃砲弾はいよいよ激しく、前後左右に降ってくる。夜はもう白々と明け始めていた。もう一刻の逡巡も許されない状況であった。その時、左前方にいた安藤大尉の声が、銃砲声にかき消されながらも、重々しく響いた。
 「負傷者を収容して、撤退する。麓の線まで下がれ」
 「自分でも不思議なほどに、冷静な心境でした。まことに無念ではあるが、俺の運もこれまで、と自然に覚悟も決まっていました。ようやく左手で腰の拳銃を抜き出すことが出来ました。仰向けになった顔の上を、猛烈な敵の弾幕が光と音の急流となって走り、これほどの弾が当たらないのが不思議に思われました。私は拳銃を左のこめかみへ持って行きました」
 その時、不意に拳銃をもぎ取った者がいた。
 「まだ早いです。早く一緒に降りましょう」
 それは大村徳蔵曹長(戦死後、准尉)の声であった。
 「俺は無理だ。構わないで早く行ってくれ、と言う私の言葉には耳を貸さず、彼は強引に私の右脇下に左肩を入れて立ち上がり、担ぎ起こしてくれました。否応なく私は左手の刀を杖にして、よろよろとリーフの急な斜面を何度か転びながら、よろめき降りました」
 ふらふらと歩む二人を格好の目標と、敵は撃ちまくって来たが、どの弾も避けて通るように思われた。
 地獄を招いた司令部の相次ぐ誤判と逡巡
 陸海軍守備隊は米軍を一時たじろがせるほどの善戦健闘を示したが、上級司令部の相次ぐ誤判、逡巡のまにまに死地に追いやられ、じつに九十六・一パーセント、一万二千六百九十四人が非命に倒れた。相も変わらぬ兵力の逐次投入、科学兵器の粋を尽くした敵陣に対する無謀とも言える斬り込み、分散持久という名の敗走、そしてお決まりの飢餓地獄。〝学ばざる軍隊〟──日本帝国陸軍の集約とも言える戦いだった。そのわりには他の激戦地ほどには知られておらず、書いておかねばならないテーマだった。
 しかも戦後、国の遺骨収集で故国に帰った遺骨は、わずかに二千七百六十五柱。戦没者遺族、生還者がビアク島に寄せる思いはまことに切ないものがあった。
 それは九六年二月、同島を襲った大震災に対する草の根の救援活動、国際交流となってほとばしり出た。現地へのお見舞い訪問に始まり、義援金──チャリティー絵画展──救急車を送る運動へと発展。それが機縁になって七六年から日本政府が手をこまねき、中断していた遺骨収集と帰還を九九年九月、民間主導で遂に実現、新たに五十九柱がビアク戦終結以来五十五年ぶりに懐かしい故国へ帰った。
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 COURRiER Japon
 NIPPON 2022.1.23
 「ビアク島の戦い」の地で、戦争の遺物採集に人生を捧げる男たち
 日本兵の遺骨と思われるものも…
 ニューヨーク・タイムズ(米国)ニューヨーク・タイムズ(米国)
 Text by Dera Menra Sijabat and Richard C. Paddock Photographs by Ulet Ifansasti
 インドネシアのビアク島は、第二次世界大戦で激戦の地となった。一部の地元住民はこの歴史を守ろうと、米兵や日本兵が残していった遺物の採集に情熱を注いでいる──。
 インドネシアのビアク島は、第二次世界大戦で激戦の舞台となった。ダグラス・マッカーサー率いる連合軍が、日本軍から西太平洋を奪還する作戦を展開し、両軍に何千人もの死傷者が出たのだ。現在、12万人の島民の多くは、農業と漁業をして生計を立てている。
 海岸で開かれるビアク島の魚市場
 地元の歴史愛好家アルバース・ワクム(58)は、戦争の遺物を探しにジャングルに分け入る。いつか自分が発見した遺物の博物館を開くのが夢だという。彼は、人生のほとんどを過ごしてきた島の歴史の証拠が消えてなくならないよう、保護しているのだ。ときには人骨を見つけることもある。彼は言う。
 「周りからは『ドッグタグ(米兵の個人識別に使用される認識票)の男』と呼ばれています」
 周囲からは「戦没者の霊を呼び覚ますな」
 残り: 3004文字 / 全文 : 3497文字
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 ビアク島の戦い( Battle of Biak, 1944年5月27日 - 8月20日)は、太平洋戦争中のニューギニア戦線における戦闘の1つ。
 アメリカ軍は、マリアナ諸島への進攻に先立ち、飛行場確保などを目的としてニューギニア北西部のビアク島へ上陸した。これに対して日本軍の守備隊は「北のアッツ、南のビアク」と呼ばれるほどの抵抗を続け、1か月以上も飛行場の使用開始を許さなかった。しかし第101燃料廠によるクラモノ油田開発は撤退を余儀なくされ、この戦いは1944年6月のマリアナ沖海戦の結果に繋がった。
 背景
 ビアク島はニューギニア島北西部ヘルビング湾(現在のセンデラワシ湾)内の最大の島で、東西は約90キロ、南北は約40キロ。南緯1度の赤道直下に位置し、全島が熱帯雨林に覆われている。地表は石灰岩質の岩石で広く平坦な飛行場適地を有し、日本軍から見ればフィリピンから東部ニューギニアの最前線へ至る飛行経路上の、連合軍から見ればパラオとフィリピン南部とを爆撃圏に収める要衝であった。日本軍は1943年以降ビアク島に「モクメル飛行場」の設営を進めていた。同飛行場は第一から第三まであった。
 1943年9月、日本軍はビアク島を含む豪北方面(インドネシア東部)を絶対国防圏の一角に指定し、この地域の守備に第2方面軍(方面軍司令官:阿南惟幾中将)及び第2軍(軍司令官:豊島房太郎中将)をあてた。西部ニューギニアへは12月に第36師団(師団長:田上八郎中将)が進出し、うちビアク島には歩兵第222連隊を基幹とするビアク支隊(支隊長:葛目直幸大佐)が分派された。ビアク支隊は海岸線の後方、飛行場を見下ろす台地に東西2つの巨大な鍾乳洞を発見し、西洞窟に司令部を定めた。
 日本軍はさらに北支から第35師団(師団長:池田浚吉中将)をビアク島へ転用し、玉突きでビアク支隊をニューギニア本島へ合流させる計画を立てていた。しかし1944年4月、第35師団の輸送作戦である「竹輸送」は潜水艦攻撃を受けて手痛い打撃を被り、ビアク島には到達できなかった。
 →詳細は「竹一船団」を参照
 アメリカ軍の上陸までに日本軍がビアク島へ配備できた兵力は陸軍10,400名、海軍1,947名を数えたが、その過半は飛行場設営隊や海上輸送隊、開拓勤務隊など後方勤務部隊が占め、戦闘部隊は歩兵第222連隊を中心に、海軍陸戦隊を加えても4,500名に過ぎなかった。
 連合軍の反攻進路
 その頃ダグラス・マッカーサー大将の率いる南西太平洋方面連合軍は、西部ニューギニアを経てフィリピンへ向かう反攻作戦を推し進めていた。
 連合軍は4月22日にニューギニア島北部のホーランジア(現在のジャヤプラ)へ、5月17日にサルミへ上陸し、次の照準をビアク島に定めた。
 6月中旬にチェスター・ニミッツ大将指揮下の部隊のサイパン進攻が予定されており、それまでにビアク島の飛行場を確保して支援するよう期待がかかっていた。
 4月28日以降、アメリカ軍は占領したホーランジアの飛行場を拠点に、ビアク島に対して連日の空襲を加えた。
 日本では大本営陸軍部が、ホーランジア失陥によって絶対国防圏をニューギニア島西端のソロンまで引き下げる方針を決定したが、第2方面軍阿南司令官はこの措置を不満とし、大本営海軍部の構想に乗ってビアク島を死守する方針を持っていた。
 海軍の構想とは、アメリカ軍のビアク島進攻に応じて海上機動第2旅団(旅団長:玉田美郎少将)を増援に送り込む「渾作戦」を実施し、アメリカ太平洋艦隊主力をパラオ近海へ誘い込み、機動部隊と基地航空隊によって撃破するという「あ号作戦」である。
 結局、大本営陸軍部も阿南中将の方針を追認する。5月25日、連日の激しい空襲の中を第2方面軍参謀長沼田多稼蔵中将がビアク島を訪れ、この作戦について葛目大佐らと打ち合わせた。27日早朝、沼田中将の乗機がビアク島から離陸しようとしたそのとき、連合軍の大船団が沖合いに現れた。

 影響
 アメリカ軍によるビアク島の飛行場の使用開始はモクメル第1が6月22日、同第2が8月1日、同第3が8月12日となり[7]、マリアナ沖海戦に間に合わせることはできなかった。太平洋戦争後期の島嶼での戦闘で、日本軍がアメリカ軍の上陸から1か月以上も飛行場の使用開始を許さなかった事例はビアク島のみである。だがビアク支隊の奮戦も空しく、マリアナ沖海戦は日本軍の完敗に終わった。
 ビアク島に投入されたアメリカ軍の兵力は約30,000名であった。それを1個連隊強の兵力で1か月以上防ぎ続けたビアク支隊に対しては、昭和天皇からたびたび嘉賞があり、寺内寿一南方軍総司令官も感状を授与した。葛目大佐は死後特旨をもって陸軍中将に任ぜられた。アメリカ軍もビアク島の日本軍の抵抗をニューギニア作戦中最大と評している。
 ビアク島の日本軍はその後、アメリカ軍の掃討作戦と飢餓によって逐次消耗していった。千田少将は12月25日に戦死したとみられる。日本軍の将兵は終戦までに434名が捕虜となり、終戦後に砲兵第2中隊長松山静雄中尉を長とする86名が収容された。日本軍の生還者はこれら合わせて520名のみであった。アメリカ軍も、戦死者471名、戦傷者2,443名を出し、加えて感染症の罹患者が6,811名、戦場神経症患者が423名にも上った。
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🪁29〕─1─『古代中国』美しすぎたせいで一族が没落してしまった女性たち。~No.88No.89No.90 

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 2026年3月7日 YAHOO!JAPANニュース 草の実堂「『古代中国』美しすぎたせいで一族が没落してしまった女性たち
 画像 : 楊貴妃 public domain
 中国の歴史を語るとき、しばしば登場する言葉がある。
 それは「紅顔禍水(こうがんかすい)」である。
 美しい女性が王を惑わせ、国を乱すという意味で、古くから中国の史書や文学に繰り返し登場してきた言葉だ。
 実際、中国史には皇帝の寵愛によって一族が栄え、そして政局の変化とともに急速に滅びていった女性たちが存在する。
 今回は前漢と唐の時代に起きた代表的な例を取り上げ、皇帝の寵愛がどのように一族の栄華と没落を生んだのかを見ていきたい。
 趙飛燕・趙合徳 姉妹
 画像 : 趙飛燕(ちょうひえん)public domain
 前漢末期、皇帝の寵愛によって一族が頂点に立ち、そして皇帝の死とともに一族ごと転落した例としてよく知られるのが、趙飛燕(ちょうひえん)とその妹・趙合徳(ちょうごうとく)である。
 2人は前漢の成帝(在位 前33〜前7年)の後宮で絶大な寵愛を受けた女性だった。
 姉の趙飛燕は歌舞に優れた女性として宮廷に入り、その軽やかな舞い姿から「燕のようだ」と称されて寵愛を受けるようになる。やがて妹も後宮に入り、姉妹はともに皇帝の寵姫となった。
 紀元前16年、趙飛燕はついに皇后に立てられる。
 妹も昭儀という高位の妃となり、専用宮殿である昭陽宮を与えられるほどの寵愛を受けた。
 皇帝の寵愛はそのまま一族の出世につながり、趙氏一族は後宮と宮廷の両方で強い影響力を持つようになる。
 画像 : 趙合德『古今百美図』public domain
 しかし、その栄華は長くは続かなかった。
 成帝との間に皇子が生まれなかったことから、皇位継承をめぐる疑惑が広がることとなる。
 この頃、皇帝の子が相次いで不審な死を遂げており、趙氏姉妹が皇子を排除したのではないかという疑いがささやかれ始めたのだ。
 紀元前7年、成帝が突然死すると事態は一気に変わる。
 新たに哀帝が即位すると、かつての成帝の側近勢力に対する大規模な政治的清算が始まったのだ。
 官僚たちは哀帝に上奏し、妹の趙昭儀を「聖朝を乱し、皇帝の後継を断った」として強く弾劾した。
 激しい追及の中で、成帝の急死をめぐる疑惑まで背負わされた趙昭儀は、やがて自ら命を絶った。
 姉の趙飛燕は、哀帝の即位後もしばらくは皇太后としての地位を保った。
 しかし哀帝が早世すると情勢は再び動く。
 実権を握った外戚・王莽によって「宗室を乱した」として地位を奪われ、庶人に落とされた後、ほどなくして趙飛燕も自ら命を絶った。
 かつて皇帝の寵愛を独占し、後宮の頂点に立った趙姉妹は、成帝の死から十年足らずの間に歴史の舞台から姿を消した。
 そして権勢を誇った趙氏一族もまた、急速に没落していったのである。
 楊貴妃
 画像 : 楊貴妃 public domain
 楊貴妃(ようきひ)は「亡国の美女」として知られている。
 唐王朝の最盛期を築いた皇帝・玄宗が寵愛した妃であり、白居易(はくきょい)の長詩『長恨歌(ちょうごんか)』にも詠まれた絶世の美女だ。
 楊貴妃は719年、蒲州永楽(現在の山西省永済付近)の出身で、もともとは玄宗の第18皇子である李瑁(りぼう)の妃であったが、やがて玄宗の寵愛を受けることになる。
 そこで宮廷は一つの方便を用いた。いったん彼女を道士として出家させ、「太真」という道号を与えたのである。
 これは玄宗の母・窦太后の冥福を祈るためという名目であった。
 数年後の745年、楊氏は還俗して宮中に迎え入れられ、後宮でも最高位にあたる「貴妃」となる。
 玄宗は当時、すでに60歳を過ぎていたが楊貴妃への寵愛は非常に深かった。
 やがてその恩恵は一族にも及び、姉妹たちは夫人の位を与えられ、従兄の楊国忠(ようこくちゅう)は宰相として朝政の中心に立つようになる。
 画像 : 楊貴妃献桃図(楊貴妃が玄宗皇帝に不老の桃を献じる場面)狩野探雪 Public domain
 こうして楊氏一門は宮廷で大きな権勢を持つようになったが、その専横は次第に朝廷内外の強い反感を買うことになった。
 755年、唐王朝を揺るがす大反乱が起こる。安史の乱である。
 北方の軍を率いていた将軍、安禄山(あんろくざん)が、「皇帝の側近にいる奸臣を排除する」という名目を掲げて挙兵したのだ。
 その背景には、以前から続いていた楊国忠と安禄山の深刻な政治対立があった。朝廷で権勢を振るう楊国忠は安禄山を警戒し、安禄山もまた失脚や粛清を恐れていた。
 反乱軍は急速に勢力を拡大し、756年、玄宗は都の長安を捨てて蜀(現在の四川方面)へ避難する。
 しかしその途中で、護衛の禁軍が反乱を起こした。
 兵士たちはまず宰相の楊国忠を殺害し、その息子たちや近親者も次々と斬り殺した。
こうして楊氏一門はその場でほぼ壊滅してしまう。
 さらに兵士たちは「乱の原因は楊貴妃にある」として彼女の処刑を求めた。
玄宗は当初これを拒んだが、兵たちの怒りは収まらなかった。
 やむなく玄宗は側近の宦官に命じ、楊貴妃を仏堂で首を吊らせて処刑した。彼女はこのとき38歳だった。
 この事件によって、宮廷で絶大な権勢を誇った楊氏一門は、わずか1日のうちに滅び去ったのである。
 皇帝の寵愛が生んだ一族の栄華と没落
 このように、皇帝の寵愛を受けた女性が宮廷で大きな影響力を持つことは珍しくなかった。
 だが、その栄華はきわめて危ういものでもあった。
 皇帝の寵愛によって一族が宮廷の中心へ押し上げられることもあれば、政権交代や反乱、宮廷闘争の中で一転して粛清の対象になることもある。
 楊氏一門や趙氏姉妹は、まさにその極端な例である。
 中国史に繰り返し現れる「美女」の物語は単なる恋愛話や逸話ではなく、権力史の一つの断面でもあるのだ。
 参考文献 : 司馬遷『史記』班固『漢書』卷97上『旧唐書』卷51 后妃傳上 他
文 / 草の実堂編集部
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☰⚊31〕─1─韓国は、金に困れば日本に対して、歴史問題を持ち出して償いという賠償金を要求する。~No.63 

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 2026年3月4日 MicrosoftStartニュース 共同通信「財源不足「日本も寄付を」 韓国元徴用工問題、解決策3年
 取材に応じる「日帝強制動員市民の会」の李国彦理事長=2月、韓国・光州(共同)
 © 共同通信
 韓国の元徴用工訴訟問題で、保守系の尹錫悦前政権が日本企業の賠償支払いを韓国政府傘下の財団に肩代わりさせる解決策を発表してから6日で3年。革新系の李在明政権も解決策を維持する方針だが、韓国企業の寄付で賄ってきた財源は不足し、日本企業の拠出を求める意見は残る。
 韓国政府関係者などによると、勝訴が確定した元徴用工ら約70人中、財団から賠償相当額を受け取ったのは4割弱。全員に支払うには100億ウォン(約10億円)ほど足りず、今後さらに100人を超える原告勝訴が確定する可能性もある。
 南西部・光州の原告支援団体「日帝強制動員市民の会」の李国彦理事長(57)は、原告らの解決策の受容は、日本側が賠償を拒み続ける中で「消耗し、選択を強要された」結果だと訴える。
 林宰成弁護士(45)は「日本企業を免罪し不当だった」と解決策を批判した上で、受け入れる意向の原告も少なくないと説明。日本側が謝罪や資金拠出に踏み出せば、韓国でも新たな寄付を申し出やすくなり「解決策が持続可能になるのではないか」と語った。
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🌋18〕─3─縄文人と渡来人、遺伝的交流は徐々に進行。~No.70 

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 日本民族の祖先は、数万年前から日本列島の先住民であった縄文人(日本土人)であって、数千年前から日本列島に逃げてきた渡来系弥生人ではない。
 中国人や朝鮮人の渡来人は、もっと新しい新参者で日本人ではない。
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 日本民族は、民族大移動で中国大陸から日本列島を侵略して縄文人を暴力支配した征服民族ではない。
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 2026年3月10日 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞オンライン「縄文人と渡来人、遺伝的交流は徐々に進行…弥生時代の人骨核ゲノム解析「大陸からの人口流入はじわじわと」
 縄文人と渡来人の両方の遺伝的特徴を持っていた根獅子遺跡の頭骨=土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長撮影
 長崎県内で出土した弥生時代前中期の4個体の人骨の核ゲノム(全遺伝子情報)配列を解析したところ、現代日本人につながる縄文人と渡来人の遺伝的交流が一気にではなく、徐々に進んでいたことがわかった。東邦大や東京大などの研究グループの論文が、科学誌サイエンティフィック・リポーツに掲載された。日本人集団の形成過程を知るうえで重要な発見と言える。
 【地図】根獅子遺跡と正村遺跡はここ
 水野文月・東邦大講師(人類学)らの研究グループは、同県平戸市の根獅子(ねしこ)遺跡の3個体(成人男性、成人女性、幼年男児)と、同県壱岐市の正村遺跡の1個体(成人男性)の核ゲノムを解析。根獅子と正村の成人男性は、縄文人由来と大陸からの渡来人由来の両方のゲノム成分を併せ持っていた。一方で、根獅子の女性と幼児は縄文人とほぼ同じゲノム成分だった。
 根獅子の3個体は頭骨の形態から、弥生時代に入っても顔つきや体格が縄文人のままだった「縄文系弥生人」に分類され、縄文時代の埋葬法である土坑墓に埋められていた。正村の男性は頭骨の損傷が激しく形態は不明だが、弥生時代の石棺墓から見つかった。
 4個体は放射性炭素年代測定などから、交流の初期段階の約2300~2500年前の人骨とみられ、縄文人の遺伝的成分だけの個体と、縄文人と渡来人双方の成分を持つ個体が、同時代・同地域に共存していたことが明らかになった。
 弥生時代の人骨を巡っては、渡来経路の一つとされる土井ヶ浜遺跡(山口県下関市)や、福岡平野の金隈(かねのくま)遺跡(福岡市)などで高身長、面長な顔立ちの渡来系弥生人の人骨が出土している。渡来人のルートから外れた平戸でも遺伝的交流があったことが今回、裏付けられ、交流自体は約2500~2600年前に始まっていたと考えられるという。
 研究グループの一員で、東京大の植田信太郎名誉教授(人類学)は「これまで骨の形態からしかわからなかった縄文系弥生人の詳細が遺伝的に明らかになった意義は大きい。大陸からの人口流入が一気にではなく、じわじわと進んだことを示している」と話した。
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🎍15〕─3・⑤─仏教伝来と崇仏論争の裏に隠された国家の危機。聖徳太子と宗教改革。~No.43 

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 日本は、国としての数千年の歴史の中で、中国や朝鮮のような分断国家・分裂国家・滅亡国家になった事は一度もない。
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 2026年3月9日 YAHOO!JAPANニュース ラブすぽ「聖徳太子が起ち上がった理由とは?仏教伝来と崇仏論争の裏に隠された『国家の危機』の正体
 聖徳太子が天皇中心の国造りに起ち上がった理由とは
 継体(けいたい)天皇の嫡男、第二十九代欽明(きんめい)天皇代のこと。百済(くだら)聖明王が釈迦仏一体、経論若干巻を献上し、仏像礼拝の功徳を称えました。
 すると天皇は「これほど微妙な法を聞いたことがない」と歓喜して群臣に礼拝の可否を求めたので、蘇我稲目(そがのいなめ)は「西の諸国はみな仏像を礼拝しています。わが国だけが礼拝しないわけにはいかない」と答えました。
 それに対し、物部尾輿(もののべのおこし)が「わが国の王たる人は常に天地の百八十神を祀ってきた。いま改めて蕃神(外来の神)を礼拝すれば国神の怒りを招く」と反対しました。そこで稲目だけに私的に仏像礼拝が許可されたのです。
 ここから仏教対神道の構図で説明される対立抗争が始まったと説明されますが、そんな簡単なことではありません。渡来人の急増、新旧部族の交代があり、国家の体裁、基盤が揺さぶられたため、聖徳太子が天皇中心の国造りに起ち上がったのでした。
 出典:『図解 眠れなくなるほど面白い 日本史』著:鈴木旭
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 聖徳太子は、外国人の流入による国難に当たって、日本国を守り日本民族の幸せ為に、神話を正統性の根拠とする唯一の皇統である男系父系天皇を中心とした多様性に富んだ多文化多宗教共生の国造りを行った。
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 日本の根幹は、天皇を祭祀王とする宗教祭祀であった。
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 大和王朝は、移住してきた外国人に天皇への忠誠と国への愛国を求めた。
 忠誠と愛国を、持っているのが帰化人であり、持っていないのが渡来人であった。
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 日本に移住してくる外国人に求めた最優先、必修条件は、天皇・皇族・皇室を死を覚悟し生命を犠牲にして守り弥栄を祈る事であった。
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 2月23日 MicrosoftStartニュース ラブすぽ「神道とは何か? 開祖も教典もない「日本固有の信仰」が持つ不思議な正体と歴史
 © ラブすぽ
 神道は明確な定義ができない
 神道は、古代から続く日本固有の信仰です。なんだ、ちゃんと説明できているじゃないか、と思われるかもしれませんが、実は右の文は「ちゃんとした説明」にはなっていないのです。たとえば、「古代」とはいつのことをいっているのでしょうか。弥やよ生い 時代でしょうか、縄文時代でしょうか、それとも日本列島に人が住むようになって以来ということなのでしょうか。また、「固有」とはどういうことでしょうか。外来の要素をまったく含まないということなのでしょうか。しかし、神道には外国から来たとされる神*も信仰されています。
 そもそも一口に神道といっても、朝廷で行なわれてきたものと、各地の神社で行なわれてきたもの、庶民の間で信仰されてきたものでは、さまざま点で違いがあります。また、時代によっても大きな変化がありました。もちろん、時代によって変化したのは神道だけではありません。どの宗教も何らかの変化を経ています。しかし、仏教やキリスト教などは、神道ほど説明に苦労はしません。仏教やキリスト教には開祖がいるからです。ですから、仏教は「釈迦 が説いた教えに基づく宗教」、キリスト教は「神であるイエスが人々に伝えた教えに基づく宗教」といった説明ができます。しかし、神道には開祖はなく、日本各地で自然発生的に成立したものが、大和朝廷の発展に伴って統合されていったのです。その過程で外来の要素も取り込まれました。ただ、はっきりしていることは、神道はいつの時代も日本人の心の拠り所となってきた、ということです。
 神道とは何か?開祖も教典もない「日本固有の信仰」が持つ不思議な正体と歴史
 © ラブすぽ
 【書誌情報】 『眠れなくなるほど面白い 図解 神道』 著:渋谷申博 「神道には教義がないって、本当なの?」「八百万の神々の中で一番偉いのは、誰?」「鳥はいないのに、なぜ鳥居というの?」 神道の起源から日本の神様、開運神社のご利益まで楽しくわかる! 古代から伝えられてきた日本の心──神道。その奥深い世界を57項目の素朴な疑問からズバリ解説します。
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 第1回宗教改革は、聖徳太子、推古天皇である。日本は、仏教色を強め儒教色を弱めた。
 日本が選んだ仏教は、インド仏教・中央アジア仏教から分かれた長江流域系(道教色)中国仏教、百済仏教(親日・知日)、高句麗仏教であって黄河流域系(儒教色)中国仏教・新羅仏教(反日・敵日)ではなかった。
 第2回宗教改革は、聖武天皇・光明皇后である。
  聖武天皇は、国家鎮護による「仏教国家」の詔を発した。
 第3回宗教改革は、空海、最澄である。自力救済。『天台本覚思想』
 第4回宗教改革は、親鸞である。他力本願。
 第5回宗教改革は、徳川家康・秀忠で、キリスト教禁止と日本人奴隷交易破壊である。それは、キリスト教会とイエズス会による宗教侵略の阻止であった。
 日本は、完全なる仏教国になったが、仏教勢力は幕府の強権的統制下で政治の場から排除されていた。
 以上は、日本の仏教化が目的で、神道は縄文時代からの神話物語を崇拝するだけで経典・聖典による教えはなかった。
 第6回宗教改革は、日本の無宗教化で、国家神道はお辞儀拝礼宗教行為であって信仰宗教ではなかった。
 明治政府は、キリスト教から日本の宗教及び精神を防衛する為に、無宗教的礼拝行為としての「国家神道」を創設した。
 神仏分離で、庶民に永年積もり積もった寺院への怒りが爆発して廃仏毀釈が起き、全国で多くの寺院が破壊された。
 天皇の神聖を批判もしくは否定する宗教団体でない限り、信仰の自由を認め宗教弾圧はしなかった。
 ローマ・カトリック教会を敵にまわさない為に、キリスト教会に対しては細心の注意を払った。
 一部のアメリカ系プロテスタントは、親中国反天皇的キリスト教会として活動していた。
 明治政府は、政治から宗教・国学を排除する為に西洋の哲学と啓蒙思想、中国の儒教を利用した。
 仏教に対して廃仏毀釈。神道に対して神社合祀令。
 第7回宗教改革は、敗戦後にGHQ、マルクス主義者・共産主義者、キリスト教会が政教分離と信教の自由そして反宗教無神論と反天皇反民族反日本を広める為に行った。
 第8回宗教改革は、人口激減時代。
人工停滞期の江戸時代までは土葬で、人口爆発期の明治からは火葬となり。人口激減期の現代では海洋散骨や樹木葬など自然葬儀が流行っている。
 檀家の軒数が減ってお布施などの収入が減少して寺の維持ができない寺院や、少子高齢化で後継者のいない寺院などは、近在の寺院と統廃合されるか、最悪、廃寺となる。
 庶民・利用者・消費者によって、祭祀など宗教行事は宗教色を薄めた人集めの単なるイベントとされた。
 そこには、先祖の感謝の念を捧げる先祖供養も先祖祭祀もない。
 それは、無宗教反神論のマルクス主義的世俗教育で、死ねば「無」に帰すのみという考え方で、霊魂の救済を否定し、死後の安らぎも否定した。
 唯物論に基ずく「神殺し」であり、祖先神・氏神の人神崇拝の完全否定である。
 自分という「個」の存在を、祖先との楔から解き放ち、祖先との縁を断絶させる事である。
 祖先の否定。
 日本人は、問われれば素直に「無宗教」と答え、特定の神を信じていないと話す。
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🗾43〕─1─血液型に刻まれた人類の進化と適応の歴史。日本人にA型が多いワケ。〜No.176No.177No.178 

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 日本民族は、日本土人として、数万年前の縄文時代から日本列島で生活してきた先住民である。
 ある意味、日本土人の先住民にとって中国大陸や朝鮮半島から海を渡ってくる移住者は土地を奪う侵略者であった。
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 2026年3月5日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「日本人に突出して多いのはA型だが韓国は全く異なるのはなぜか…"血液型に刻まれた人類の進化と適応の歴史"
 地域によって血液型の割合が異なるのはなぜか。大阪大学名誉教授の深瀬浩一さんは「血液型の分布には人類の進化と適応の歴史が刻まれている。血液型によって感染症への感受性が異なり、その地域で長期間にわたって流行した感染症への自然淘汰が、数千年・数万年をかけてその地域の血液型分布を形成したと明らかになってきている」という――。
 【図表を見る】A型、B型、O型の国内分布図
 ※本稿は、深瀬浩一『血液型でわかる 病気とケガのリスク』(宝島社)の一部を再編集したものです。
■人種や民族により驚くほど異なる血液型分布
 質問です。
 日本人にもっとも多い血液型は何でしょうか?
 これは簡単かもしれませんね。正解はA型です。
 続いて多い順に、O型、B型、AB型となります。具体的な割合でいうと、A型が約40%、O型が約30%、B型が約20%、AB型が約10%とされています。
 お隣の韓国では、A型・B型・O型がそれぞれ約30%ずつで、AB型が約10%と、日本よりもバランスのとれた分布になっています。
 そして、さらに質問です。地理的に近い日本と韓国でも、なぜ血液型の割合が異なっているのでしょうか。国民性の違いが影響しているから? それとも、食文化の違いが関係しているのでしょうか?
 じつは、この血液型の割合の違いは、日本と韓国だけに限った現象ではありません。血液型の分布は、人種や民族によって驚くほど大きく異なるのです。
■世界の血液型分布は「北はA、南はO、東はB」
 日本と韓国から一気に視野を広げ、世界全体を俯瞰してみると、血液型分布の傾向はまったく異なる姿を見せてくれます。世界的に見ると、もっとも多い血液型はO型なのです。
 とくに中南米の先住民の間では、O型がほぼ100%という地域も存在するほどです。また、アフリカ大陸や西ヨーロッパでも、O型が高い割合を占めています。
 一方で、A型は中央および東ヨーロッパに多く見られます。たとえばオーストリアやデンマークなどでは約45〜50%がA型です。
 B型はアジア圏で目立って多く、中国やインドでは人口の20〜30%がB型とされています。いずれの地域・国でも、もっとも割合が少ないのはAB型ですが、ヨーロッパでは数%にとどまるのに対し、日本や韓国、中国など東アジアでは約10%と、比較的高い割合が見られます。
 これらの傾向をまとめると、ヨーロッパではA型とO型が多く、B型は少ない傾向があります。しかし、ユーラシア大陸を東に向かって移動するにつれて、B型の割合が徐々に増加していきます。たとえば、東南アジアのタイでは、B型が30%以上に達しています。
 また、緯度によるパターンも見えてきます。北の地域ほどA型が多く、南に行くほどO型が増える傾向があるのです。同じヨーロッパでも、北欧ではA型の割合が50%近くあるのに対し、南のイタリアではO型が多くなります。
 さらに南にあるアフリカ大陸では、O型の割合が約60%に達します。アジアでも同様の傾向が確認できます。
 日本のような比較的北に位置する国ではA型が多く、南にあるマレーシアではO型が約60%、さらに南に位置するオーストラリアの先住民も60%がO型とされています。このような血液型分布の地理的パターンは、なぜ生じているのでしょうか。
■自然選択が生み出した血液型の地域性
 じつはそこには、人類の進化と適応の歴史が刻まれているのです。
 なぜ血液型の分布に明確な地域差があるのか――この根本的な疑問について、1900年にABO式血液型が発見されて以来、数多くの研究者がさまざまな仮説を立てて検証してきました。
 そのなかでも、現在もっとも有力とされているのが、「血液型によって感染症への感受性(かかりやすさ)が異なる」という考え方です。感染症は、人類にとって「生死を分ける敵」ともいえる存在です。
 一度流行が始まると爆発的に拡大し、短期間で大勢の人命に関わるようになります。そして感染症には、特定の地域で集中的に流行することが多いという大きな特徴があります。血液型によって特定の感染症に対するリスクに差があるとしたら、その地域で長期間にわたって流行した感染症に対し、高いリスクをもつ血液型の人々は減少するのではないか。
 そして反対に、低リスクの血液型の人々は、生存に有利となって増加するのではないか――そんな自然淘汰が数千年、数万年という長い年月をかけて起こり、最終的にその地域の環境にもっとも適応した血液型が、多く残っているのではないか……。
 このような仮説は、「進化論の父」チャールズ・ダーウィンが提唱した「自然選択(自然淘汰)論」が広く受け入れられ始めた20世紀初頭に、大きな注目を集めました。
 そして、多くの血液学者や進化生物学者が、血液型についての研究に熱心に取り組んだものの、当時は疫学(病気の罹患・流行に関わる法則を研究する学問)の調査技術や統計解析手法が未発達だったため、決定的な証拠を得ることはできませんでした。
 しかし、21世紀に入ってからは、科学技術の飛躍的な進歩により、大規模で精密なデータが収集できるようになったことで、血液型と感染症の関係が徐々に、しかも確実に明らかになってきているのです。
■日本国内にも存在する血液型分布の謎
 じつは、日本という1つの国のなかでも、血液型分布には明確な地理的パターンがあるのです。A型は九州や中国地方、山陰地方などの西日本で高い割合を示します。
 B型は東北地方や中部地方など、東日本でやや高めの傾向があり、西日本では比較的少なめです。O型は全国的にほぼ均等に分布していますが、千葉や静岡、神奈川など、太平洋側で比較的多い傾向が見られます。
 この日本国内の分布パターンは、世界的な「北にはA型、南にはO型、東にはB型が多い」という大きな傾向とは少し異なっています。
 この違いの背景には、おそらくさまざまなルーツをもつ民族集団が、はるか昔に日本各地へと渡来し、定住したことが関係していると考えられています。
 縄文時代から弥生時代にかけての大陸からの人の移動、さらにはその後の歴史的な人口の動きなど、長い歴史のなかで、現在の日本人の血液型にも豊かな多様性が生まれたといえるでしょう。

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 深瀬 浩一(ふかせ・こういち)
 大阪大学名誉教授
 1960年、岡山県生まれ。大阪大学大学院博士後期課程修了・理学博士。大阪大学大学院理学研究科教授、理学研究科長、大阪大学理事・副学長、大阪大学総長参与を歴任。2025年、大阪大学名誉教授。専門は糖質化学、有機合成化学、生体分子化学。2025年4月より、大阪大学放射線科学基盤機構特任教授として、自然免疫活性化分子・ワクチン・新規免疫療法の開発ならびにがんの核医学治療研究を進める。

                  • -

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インクロムNAVI
 2017年 02月 01日
 世界中で一番多い血液型は?優性遺伝と劣性遺伝の不思議
 世界の血液型分布
 日本人の血液型分布は、
 A型:B型:O型:AB型=約40%:20%:30%:10%。
 A型が一番多いとされていますが、ここでクイズ第1問です。
Q:世界中で一番多い血液型は何型でしょう?
 正解は、O型です。意外ではありませんか?血液型分布は世界共通ではないのです。国や地域によってどの血液型が一番多いかは違います。
 A型の割合が最も多いという地域も多く、北欧や西ヨーロッパ諸国、北スカンジナビア地域、オーストラリア原住民などが、それにあたります。
 B型の割合が最も多いという国は少数派で、中央アジアのいくつかの国に限られます。B型の人はアフリカに多く、アメリカ大陸やオーストラリアにはあまり居ないようです。
 続いて、クイズ第2問。
Q:O型の分布が多い中南米。その中でも、特にボリビアやグアテマラではその比率が高くなっています。では、両国におけるO型の占める割合は何%でしょう?
①60~65% ②70~75% ③80~85% ④90~95%
 正解は、なんと④90~95%です。国民のほとんどがO型だなんて、驚きですね。
 O型の血液型が消滅しない理由
 親から子へと伝えられる両親の性質を「形質」と呼び、形質の受け継ぎを決定するのが遺伝子です。父母で対立する形質を持っていた場合、子どもに受け継がれるのは強い方の形質になります。そして、強くて子どもに現れる方を「優性遺伝子」、隠れてしまう方を「劣性遺伝子」と呼びます。
 血液型のOというのは劣性遺伝子です。
 それではO型は劣性遺伝なのに、なぜ減少しないのでしょうか。
 答えは簡単に言うと、A型やB型の中にも、AOやBOというようにOの遺伝子を持った人が多く存在し、O遺伝子という形で表から見えなくても常に保存されているからです。
 1908年にイギリスの数学者ハーディーとドイツの医師ワインベルクがそれぞれ独立に、「形質型をA,aで表すことにすると、遺伝子頻度は一定に保たれ、遺伝子頻度は変化しない」という法則を導き出しています。(=ハーディー・ワインベルグの法則)
O遺伝子がある限り、見かけ上A型とB型しかいなくてもO型は生まれてくるのです。
 優性遺伝と劣性遺伝の具体例
 優性遺伝・劣性遺伝による形質の違いとして代表的なのはまぶたの形です。二重まぶたが優性、一重まぶたが劣性です。「一重は劣性なのに、どうして自分は一重まぶたなの?」と考えたことがある人も多いと思いますが、上記のような理由で一重まぶたの遺伝子も一定数存在し続けるという訳です。
 もうひとつ有名なのは、耳垢の乾性と湿性です。湿性の方が優性なのですが、日本人の70~80%が乾性の耳垢を持っていると言われています。日本では竹細工の耳垢とりをよく見かけますが、これは日本人には乾性の耳垢を持っている人が多いからです。ヨーロッパやアフリカなど、ほとんどの人が湿性耳垢である地域では、この手の耳垢とりは売れません。
 遺伝による形質の違いは他に、髪の毛の癖(くせ毛が優性、直毛が劣性)、えくぼの有無(えくぼありが優性、えくぼなしが劣性)、耳たぶの形(福耳が優性、そうでないのが劣性)などがあります。
 オーダーメイド医療を可能にする遺伝子情報
 外見的特徴だけでなく、体質もそれぞれの人が持つ遺伝情報によって決まることがあります。近年は、医療の分野でも遺伝による体質に合わせた治療方針を決める研究が進んでいます。「ある病気にかかりやすい」「症状が悪化しやすい」「ある薬が効きやすい・効きにくい」など、その人の遺伝情報を調べ、体質を判断してからそれぞれに合った個別の治療を施していくのです。そんなオーダーメイド医療が実現する日も、そう遠くないことでしょう。より効果的でより安全な医療を受けられるようになってほしいですね。
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 血液型からみた日本人 - 伊予物語 | iyo monogatari
 日本人の起源/ORIGIN
 血液型からみた日本人
 2008-08-10| 2016-11-29
 血液型からみた日本人
 日本人について
 日本人の血液型を大まかに分類するとA型が40%、O型が30%、B型が20%、AB型が10%です。
 現在日本人の多数派であるA型は西日本を中心に広く分布し、東に向かうほど少なくなっています。
 逆にB型は東北、中部地方に多く、西に向かうほど少なくなっています。
 また日本人の3割を占めるO型は鹿児島、南紀、福井、東海、関東、東北など沿岸地域に多くみられます。
 世界の血液型パターンは1925年オッテンバーグの分類が今も頻用されていますが、日本人にもっとも近い血液型パターンをもつのは中国南部のひとたちで、優位にA型が多数を占めています。
 また中国東北部の人たちはB型優位(40%)ですし、フィリピンなど東南アジアではO型が60~70%と圧倒的に優位で、B型は稀です。
 これらのデータから日本人の血液型パターンを類推しますと、A型は中国南部、B型は中国東北部から日本へ入ってきた可能性が高く、O型は東南アジアから黒潮に乗って、日本沿岸沿いに入ってきたと考えられます。
 そして日本人によくみられるA型優位のパターンからは、中国南部を経て日本へ渡来した人達が特に多かったことが窺えます。
 血液型と性格に関連があるかどうかという研究は80年も前に取り上げられ、日本法医学会で検討されました。
 しかし「ABO式血液型」は、赤血球表面などから出ている糖鎖の構造の違いでタイプ分けされており、その糖鎖と性格との間の関係は正式に否認されました。
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🎍38〕─1・③─なぜ「東方の夷国」出身の、無名だった空海が密教の後継者になれたのか。〜No.120 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2026年2月28日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「なぜ「東方の夷国」出身の、無名だった空海が密教の後継者になれたのか?…空海入唐に隠された謎
 なぜ「東方の夷国」出身の、無名だった空海が密教の後継者になれたのか?…空海入唐 中国人は何を考え、どう行動するのか?
 講談社現代新書の新刊『ほんとうの中国 日本人が知らない思考と行動原理』では、日本を代表する中国ウォッチャーが鋭く答えています。
 本記事では、〈鑑真は「永遠の生命」が欲しかった!?…5回失敗、失明をしても日本を目指した「本当の理由」〉に引き続き、空海入唐の謎についてみていきます。
 ※本記事は、近藤大介『ほんとうの中国 日本人が知らない思考と行動原理』(講談社現代新書)より抜粋・編集したものです。
 空海入唐の謎
 仏教伝来についてのもう一つの疑問は、空海入唐の謎だ。
 弘法大師こと空海(774年~835年)は、鑑真が死去した11年後に讃岐国(現・香川県)で生まれた。郡司(現在の県知事に相当)の息子で、19歳で修行僧となった。無名の僧侶だった29歳の時(804年)、18回目の遣唐使船への乗船に成功し、入唐を果たす。船は福州に漂着し、同年暮れに長安に入った。
 翌年5月、密教の第七祖である青龍寺の恵果和尚を訪問。「門弟千人」と謳われた恵果和尚は初対面で空海の卓越した才覚を見抜き、即座に密教の奥義を伝授。灌頂(正統な継承者としての儀式)を行って遍照金剛の称号を与えたというのだ。
 それで空海は、20年の修行予定をわずか2年で切り上げ、帰国して高野山に真言密教の総本山・金剛峯寺を建立。弘法大師と仰がれ、日本の仏教界に君臨していくのである。
 空海についての謎は、なぜ「東方の夷国(文明の劣る国)」から大唐帝国の首都に学びに来た、中国語や梵語(サンスクリット語)もロクにできなかったに違いない正体不明の「私費留学生」の若者に、密教の権威が「後継指名」したのかということだ。
 現在の日本に状況を置き換えるなら、日本を代表する寺院が、発展途上国から日本に留学に来た無名の一若者に、「後継指名」するかという話だ。どう考えても、常識的にはありえないことだ。
 一つの推測としては、やはりカネ(所持していた砂金)の力である。前述のように、中国では密教ははやらなかったので、密教を説く青龍寺は当時、相当寂れていた。そのため、各国の留学生たちからカネを取って住まわせることで、かろうじて生計を立てていた。
 その中で、大宴会を開いたりして羽振りがよかった空海が、最も多く寄付を積み、後継者の称号と経典などを買い取った可能性がある。実際、恵果は空海と出会って約半年後に死去しており、いま伝わっているのは「空海の述懐」だけなのだ。『空海の風景』(司馬遼太郎著、中央公論社、1975年)ほかを読むと、空海の最大の才覚は、機を見るに敏な「目ざとさ」と、自己アピール能力にあった。同書でも「空海の謎」をいくつか婉曲的に示唆した上で、「謙虚な人ではなく、むしろ自讃する人であった」と論じている。
 実際、西安を訪れても、青龍寺は1980年代に日本が寄贈した桜の名所として知られ、「日中友好の証」として恵果空海記念堂が建っている。寺自体は空海の死の十年後の「会昌の廃仏」によって廃墟と化しており、すべては日中国交正常化の後に「友好の証」として再建されたものなのだ。
 私は別に、鑑真や空海の「偉業」に口を差し挟みたいわけではない。唐代の中国仏教というのは、いまの私たちが想像する以上に「現世」に片寄っていて、「生臭かった」ということだ。
 中国史上唯一の女帝である則天武后(624年~705年)が、みずからの肝煎りで再建させた洛陽南郊の龍門石窟にも足を運んだことがある。そこでも、則天武后は純粋な信仰目的というより、壮大な仏教芸術を使って自らの権力を鼓舞したのではないかと思えてきた。
 その後、宋代(960年~1279年)に入ると、寺院勢力が復活するが、やはり高利貸も兼ねていた。僧侶の身分証である「度牒」や、高僧の称号である「師号」、袈裟である「紫衣」までもが売買された。
 その一方で宋代には、仏教が儒教・道教と結びついて「三教合一」となり、中国独自の教義に変貌を遂げた。
 現代の中国は、周知のように共産党の一党支配下にあり、仏教が隆盛しているとはとても言えない。唯一、チベット自治区のチベット仏教が有名だが、彼らはむしろ弾圧されている。代わりに、中国共産党が「国教」のような存在になっている。
 それでも、意外なことに中国の富裕層に、チベット仏教のファンが多い。彼らのチベット仏教のイベントに同行したこともあるが、「あまりに殺伐としたいまの中国社会にあって、心が癒やされる」と、心情を吐露していた。
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 さらに〈10年で、半数の大富豪が「消えた」中国の現実…日本とは比較にならない、中国の「ハイリスク社会」〉では、中国の「ハイリスク社会」について詳しくみていきます。
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