🦠3〕─1・A─「朝鮮」という呼称に潜む歴史的真実。衛氏朝鮮。~No.4 

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 2022年6月26日 MicrosoftNews 現代ビジネス「「朝鮮」という呼称に潜む歴史的真実…決して「朝陽の鮮やかなるところ」ではなかった 民族と文明で読み解く東アジアの成立ち
 宇山 卓栄
 国際情勢を深層から動かしてきた「民族」と「文明」、その歴史からどんな未来が見える? 中国とインドの台頭により、アジアの歴史や文化に関する知識は今や必須の教養となった。しかし教科書が教えてきた中国中心の見方では、アジア史のダイナミズムは理解できない。考古学や遺伝子学を含めた学術研究の進歩も、こうした史観に対して再考を求めている。このたび『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社+α新書)の上梓した世界史のベストセラー著者が、朝鮮半島不都合な真実に迫るーー。
 © 現代ビジネス
 「朝鮮人」は差別語ではない
 文在寅ムン・ジェイン)前大統領は「朝鮮民族の統一」を政策の最優先課題に掲げ、北朝鮮との融和を進めましたが、失敗しました。尹錫悦(ユン・ソンニョル)新大統領は「北をなだめる時代は終わった」と発言し、前政権の民族融和政策とは一線を画すとしています。
 韓国の人々や北朝鮮の人々を総称する時には、「朝鮮人」を使います。しかし、「朝鮮人」という言い方は差別的なので使わないで頂きたいと、私はある雑誌の編集部から原稿校正を入れられたことがあります。「朝鮮人」と言わずして、何と言うのかとその編集部に尋ねたところ、「韓国人」と言うべきだというのです。
 1948年以前に韓国などという国は無かったのに、どうして、それを「韓国人」と書くことができるのかと問うと、現在は韓国という国があるのだから、現在や過去に限らず、その名称を使うべきだと強く要請されました。私はその雑誌の記事掲載を断りました。
 © 現代ビジネス Gettyimages
 別の雑誌の編集部からも同じ指摘を受けたことがあり、この編集部とは韓国建国以後の話では「韓国人」を使い、それ以前では「朝鮮人」を使ってよいということで折り合いがつきました。どうやら、一部のメディアでは、「朝鮮人」という言葉は禁忌ワードとして認識されているようです。
 これを差別語と捉える人は「朝鮮人」の言葉に負のイメージを勝手に連想させているだけのことです。「朝鮮人」に負の意味はなく、それは民族の名を純粋に表す言葉です。これを差別語とする「ポリコレ意識」こそが逆差別です。
 「朝鮮人」の他に、「半島人」という言い方もありますが、これは全てが差別とは言わないまでも、何かの隠語のような響きがあるかもしれません。「朝鮮」という地域名があるのに、それをわざわざ「半島」と言い表そうとする作為を感ぜずにはいられないからです。
 朝鮮人自身、歴史的に「朝鮮」の呼称を誇りにしていたようです。李氏王朝は「朝鮮」を「朝陽の鮮やかなるところ」、つまり「東方の地域」という意味で解釈していました。ヨーロッパ人は東方の中東地域を「オリエント(日が昇る方)」と呼びましたが、これとよく似ています。
 朝鮮人自身がこのように解釈をして、「朝鮮」を用いていたのですから、「朝鮮」や「朝鮮人」が差別語ということはないのです。現に、北朝鮮は「朝鮮民主主義人民共和国」と、国号に「朝鮮」を使っています。
 中国は「シナ」を使うなと要請しましたが、北朝鮮や韓国が「朝鮮」を使うなと要請したことはありません。
 「朝鮮」はもともと国号ではなかった
 「朝鮮」を最初に言いはじめたのは中国人で、彼らは実は「朝鮮」を「朝陽の鮮やかなるところ」という意味で用いたのではありません。
 楽浪郡付近を流れる川(どの川か不明だが、大同江の可能性あり)は「湿水」、「汕水」、或いは「潮汕」と呼ばれており、これらの川の読み音が「朝鮮」に転じたとされます。「朝陽の鮮やかなるところ」というのは朝鮮人が勝手にそのように解釈したに過ぎないのです。
 中国人が、「貢物が少ない国」という意味で、「朝貢鮮少」としたことから、「朝鮮」となったという解釈もありますが、流石にこれは後付けの理屈でしょう。
 © 現代ビジネス Gettyimages
 「朝鮮」がいつから使われるようになったのか、はっきりとしていませんが、紀元前1世紀初頭、司馬遷によって書かれた『史記』には、「朝鮮」という記述が見られ、この頃には、中国では「朝鮮」の呼称が既に使われていたのです。
 しかし、「朝鮮」は中国や朝鮮で一般的に普及した呼称ではありませんでした。この古い呼称に目を付けたのが、14世紀末の鄭道伝(チョン・ドジョン)という人物でした。鄭道伝は李王朝の建国者の李成桂(イ・ソンゲ)の参謀でした。
 クーデターによって、実権を握った李成桂は高麗王家を都から追放し、1392年に自ら王位に就きます。李成桂は高麗に代わる新たな王朝名を定めるため、上国と崇める中国の明に使者を送り、王朝名を下賜して欲しいと依頼しました。
 その際、「朝鮮」と「和寧」の二つの案を明に提案しています。既に忘れ去られていた「朝鮮」の呼称を案として持ち出したのが鄭道伝でした。
 因みに「和寧」は李成桂の生地で、現在の北朝鮮東北部の咸鏡南道の金野郡でかつて永興郡と呼ばれていたところを指します。「和寧」は本命案の「朝鮮」に対する当て馬候補の案であったと思われます。結局、明の洪武帝は「朝鮮」を使うよう、沙汰を下しました。
 しかし、この時に下された「朝鮮」は国号ではありません。李王朝は明に藩属しており、朝鮮王は明の一諸侯王に過ぎず、その領土も明の帝国の一部に過ぎず、主権を持った国ではなかったからです。「朝鮮」はあくまでも地域を表す名として、明が下賜したものなのです。
 「朝鮮」のはじまり
 史書に登場する朝鮮のはじまりは箕子朝鮮とされます。紀元前12世紀頃、中国人の箕子が建国し、都は王険城(現在の平壌)に置かれました。
 『史記』や『漢書』には、箕子が中国の殷王朝の王族で、殷の滅亡後、殷の遺民を率いて、朝鮮に亡命したと記されています。箕子は中国の文化や技術を朝鮮に持ち込み、善政を敷き、朝鮮をよく統治したようです。
 朝鮮半島西北部を中心に、紀元前11世紀頃のものと思われる中国様式の出土物が多く出ており、この時代に、中国からの大規模な移民があったことを示しています。こうしたことから、今日の学界では、箕子朝鮮が実在した可能性が高いと見られています。ただし、未だそれを裏付ける史跡が乏しく、実在が確定されているわけではありません。
 © 現代ビジネス Wikipediaより
 中世以降、中国文化を崇める朝鮮王朝は箕子を聖人化し、朝鮮の始祖とすることで、中国と一体化し、中国を中心とする「中華文明」の一員になろうとしました。そのため、箕子陵などが盛んに建設され、箕子が各地に祀られました。
 しかし、現在の韓国や北朝鮮は一転して、箕子朝鮮を中国側の「作り話」として否定しています。民族意識を高揚させる観点から、中国人起源の箕子朝鮮は都合の悪い存在になったのです。散々、それまで箕子を持ち上げておきながら、実に虫のいい話です。
 彼らは代わりに、檀君朝鮮が正式な朝鮮の起源であると主張しています。檀君は天神の子であり、紀元前2333年、平壌城で朝鮮を建国したとされます。この話は『三国遺事』に記述されていますが、『三国遺事』は正史の『三国史記』(1145年完成)からこぼれ落ちた説話集です。
 朝鮮人の始祖とされる檀君は民間で信仰されてきた伝説に過ぎませんが、韓国の学校の歴史教科書では、「歴史的事実」と教えられ、箕子朝鮮が「伝説」と教えられます。また、「朝鮮」の呼称を最初に用いたのは壇君であり、朝鮮人はこの時代から自らを「朝鮮」と呼んでおり、壇君以来の古朝鮮の伝統を受け継ぎ、民族の誇りとしなければならないといったことが教えられます。
 箕子朝鮮に続き、紀元前195年頃、衛氏朝鮮が建国されました。都は箕子朝鮮と同じく、王険城(現在の平壌)に置かれました。やはり、この衛氏もまた、中国人です。このように中国人の支配者が続くのは朝鮮人に、国を運営する能力やノウハウがなかったからです。
 衛氏朝鮮は燕の出身の武将の衛満によって建国されます。燕は現在の北京を中心とする中国東北部の地域です。劉邦前漢王朝の成立に伴い、前漢勢力と対立していた燕の人々を、衛満が率いて朝鮮に亡命し、国を建国したのです。
 衛満の軍隊は鉄製の武器で武装し、優れた機能と統制を兼ね備えていたので、朝鮮人はほとんど抵抗できませんでした。高度な文明を擁していた中国人にとって、朝鮮人を屈服させるのは容易なことでした。
 箕子朝鮮の実在が未だ確定されていないのに対し、衛氏朝鮮の実在は確定されています。そのため、現在の韓国は中国人起源の箕子朝鮮を否定しても、同じく中国人起源の衛氏朝鮮を否定できず、中国人が古朝鮮を支配していたという実態を結局、覆い隠すことができません。
 それでも、かつて、衛満が朝鮮人であるという無理矢理な理屈をでっち上げていました。衛満が朝鮮に入った時、髷を結い、朝鮮の服を着ていたことから、衛満を朝鮮人と推定でき、朝鮮人である衛満が中国の燕に滞在し、朝鮮に帰って来て国をつくったと説明されていました。韓国の学校でも、1990年代までそのように教えられていました。
 植民地にするほどの価値はなかった
 衛氏朝鮮は紀元前108年、前漢武帝によって滅ぼされます。これにより、朝鮮半島の大部分が中国王朝の支配下に入ることになります。武帝は征服した地を4つに分け、楽浪郡などの漢四郡を設置し、朝鮮を中国の一部に組み込みます。これが中国王朝の朝鮮支配のはじまりとなります。
 楽浪郡平壌に置かれていたと見る説がほぼ確実視されていますが、他の三郡についての史書の記述が乏しく、具体的にどこを指すのか、その詳細がはっきりとわかっていません。韓国の学者の一部は、漢四郡が遼東(現在の中国遼寧省)に設置されたもので、朝鮮半島に設置されたものではないと主張しています。あくまで、中国の朝鮮支配を否定しようとしているのです。
 前漢王朝は漢四郡を置き、朝鮮を領土の一部に組み込みました。ただし、それが実質的な支配と言えるかどうかは疑問です。この時代、朝鮮は中国の辺境の果ての地で、人口も少なく、貧弱な生産力しかありませんでした。前漢がこのような荒涼とした地域を敢えて予算を投じて、統治する必要などなかったでしょう。
 前漢武帝は北方の匈奴と戦っていました。北の辺境に、強大な異民族が存在したことに付随して、各方面の辺境に、異民族の脅威が存在するかどうかという安全保障上の関心が大いにあったと思われます。
 この関心の上に、楽浪郡などの漢四郡が置かれ、それらが統治機能というよりはむしろ、偵察機能を働かせ、辺境の情勢を中央にもたらしていたと考えられます。当時の朝鮮は前漢にとって、植民地にするほどの価値もなかったというのが実情でしょう。
 後の中国王朝、唐・元・明・清が朝鮮を隷属させて、徹底的に搾取しますが、前漢時代の朝鮮は原始的で遅れており、搾取すべきものさえなかったのです。
 その証拠に、武帝の死後早くも、紀元前82年に、真番郡と臨屯郡を廃し、紀元前75年に、玄菟郡を西に移し、朝鮮に楽浪郡だけを残します。つまり、当時の朝鮮が統治するに足りる土地ではなかったということを示しています。韓国の学者が必死になって、中国の朝鮮支配を否定するまでもない話であったと言えます。
 © 現代ビジネス
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🔂3〕─2─教科書が採用しない、朝鮮半島南部「任那日本府」=日本の支配機構説。~No.5No.6 

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 2022年6月21日06:00 MicrosoftNews 現代ビジネス「教科書が採用しない、朝鮮半島南部「任那日本府」=日本の支配機構説 史上たった一度、天皇が自ら出陣した理由
 宇山 卓栄
 日本の教科書が教えてきたアジア史は、いわば中国中心の見方だった。「殷、周、秦、漢、三国、晋…」と、紀元前からの中国の王朝名を中学一年生で暗記させられた経験は誰でもあるだろう。しかし、それではアジア全体の歴史のダイナミズムを感じ取ることはできない。アジア史はもっと雄渾で、さまざまな民族が闘争を繰り広げてきた。彩り豊かなその歴史を、民族・宗教・文明に着目して世界史を研究する宇山卓栄氏の新刊『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社+α新書)からおもに日本と中国、朝鮮半島との関係について連載でご紹介する。今回はその四回目だ。→ 三回目はこちら
日本は一時期、朝鮮半島南部を統治していた
 4世紀末から6世紀、日本は朝鮮半島南部を統治していました。これについて日本や韓国では賛否両論あるものの、世界では共通の認識となっています。アメリカ、カナダ、オーストラリアの教科書、そして中国の教科書にまで、日本の半島南部支配について記述されています。
 © 現代ビジネス
 しかし、日本の一般的な教科書には、これについての記述がありません。「新しい歴史教科書をつくる会」による教科書で、「倭(日本)は加羅任那)を根拠地として百済をたすけ、高句麗に対抗」と記述されていましたが、文部科学省は2002年、「近年は任那の恒常的統治機構の存在は支持されていない」と検定意見を付け、突き返しています。
 『日本書紀』の雄略紀や欽明紀では、日本(ヤマト政権)が任那をはじめ伽耶を統治していたことが記されています。ここで言う伽耶は朝鮮南部の広域を指す呼び名です。「広開土王碑」には、日本は391年、百済を服属させたことが記されています。新羅百済は日本に王子を人質として差し出し、日本は任那を足場として、約200年以上、朝鮮半島へ大きな影響力を行使しました。
 中国の史書宋書』では、倭の五王朝鮮半島への進出について記述されています。同書の中の「倭国伝」では、倭王讃が死に、その弟の珍が後を継ぎ、使者を派遣した際に、朝鮮半島南部一帯(「百済新羅任那・秦韓・慕韓」と記述)を支配する「安東大将軍倭国王」に任命するよう求めたとされ、宋の文帝は詔を出して、これに応じたと記されています。中国によって付けられた「倭国」という名称が辺境の野蛮な弱小国家というイメージを強く与えていますが、日本は中国も一目置く強国でした。
 こうした古代日本の朝鮮統治の実態は日本の歴史教科書に記されず、教えられません。日本の学者たちは『日本書紀』に記された任那日本府がヤマト政権の支配機構ではなく、朝鮮半島に渡った倭人の共同体に過ぎないと主張しています。文部科学省はこうした見解を取り入れ、教科書に記述させないのです。
 「任那日本府」は単なる倭人共同体だったのか
 © 現代ビジネス 任那日本府の統治領域と想定される範囲(4世紀末)
 この倭人共同体は伽耶諸国の現地豪族らと対等の立場で、彼らの連盟的会議にも代表者を送り込んでいたとされます。会議では、倭人代表者は現地の諸豪族に新羅と袂を分かち、日本と親しかった百済に味方するよう促したと考えられています。もしそうであれば、倭人の代表者はヤマト政権の意を何らかの形で汲んでいたことになります。一方、倭人共同体は現地に帰化しており、ヤマト政権の影響を受けずに独自に動いていたとする見解もあります。
 韓国の学者は、任那日本府は現地の朝鮮人豪族が倭人をスタッフとした倭との連絡機関であったと主張しています。その時、倭人は現地豪族に隷属していたとも指摘されています。日本の学者も韓国の学者も、日本の影響力を過小評価しようとしているように見えます。
 いずれにしても、任那日本府が現地のヤマト政権の支配機構なのか、単なる倭人共同体なのかについて、議論の分かれるところです。しかし、遠く海を渡った外地において、周辺を異民族に囲まれながら、単なる共同体レベルのものが長期的に維持できたとは常識的に考えられません。そこには、土地支配を巡る権利関係の決定など、政治的な力や武力を背景にしなければならないことが多々あったと考えられますし、純粋な共同体なるものが本国の影響力とは独立して、それ自体で存在するなどというのはあり得ない話です。
 また、任那日本府が日本の学者たちが主張するような「小領域内にとどまる倭人共同体」であるならば、なぜ『宋書』に倭の五王朝鮮半島への進出が記されているのか、整合性が取れないことにもなります。
 なぜ天皇自ら出陣したのか
 「広開土王碑」に記されているように、日本は391年に百済を服属させて以降、約200年以上、朝鮮半島へ大きな影響力を行使しますが、7世紀に中国で唐王朝が成立すると状況が変わります。唐は新羅を利用して、朝鮮半島を統一させようとします。唐の勢いに圧されて、日本の影響力は排除されていきます。
 強大な唐の兵力によって、660年、百済はあっさりと滅ぼされました。これに対し、日本は朝鮮半島へ本格介入するための準備をはじめ、人質として日本に来ていた百済王太子の豊璋王を擁立し、軍を起こします。
 勝てる公算がないのに4万7000もの軍を送る
 唐は百済討伐のために、13万もの大軍を朝鮮半島に派遣していました。新羅軍は5万とされます。合計18万の唐・新羅連合軍に、日本はなぜ挑もうとしたのでしょうか。日本は4万7000の軍を送りますが、勝てる公算はほとんどありません。
 当時の斉明天皇中大兄皇子の母)は自ら出陣しています。天皇が自ら外征に乗り出すという例は日本史上、この一件しかありません。斉明天皇率いる日本軍は大坂を船出して、瀬戸内海を通り、福岡へ向かいます。残念なことに、斉明天皇は福岡で急逝します。死因は詳しくわかっておらず、暗殺されたという説もあります。
 645年の大化の改新以後、実権を握っていたのは中大兄皇子(後の天智天皇)でした。中大兄皇子斉明天皇朝鮮出兵政策を引き継ぎます。そして韓国中部の都市、大田を流れる錦江河口で、日本は663年、唐・新羅連合軍と戦い、水陸両面で大敗しました。これが、あの有名な白村江の戦いです。
 百済の滅亡は日本にとって「遠い外国の話」ではありませんでした。日本の属国たる百済は事実上、日本の領土の一部でした。領土を侵犯されたという当事者意識とその国辱に対する憤激が日本を突き動かし、天皇自らが外征するということになったのです。
 戦争の勝ち負けに関係なく、侵略に立ち向かう意志を為政者が示さなければ、政権の維持ができないほど激しい国辱の意識が当時の日本を覆っていたと考えられます。大化の改新以後、革命政権を担った中大兄皇子らの政権基盤はまだ脆弱でした。戦争の勝ち負けはその次の段階、まずは外的脅威に対抗するため、国内を戒厳下に置き、政権の求心力を固める必要があったのでしょう。ちなみに、中大兄皇子白村江の戦いから5年後の668年、天智天皇として即位します。
 壮絶な白村江の戦いの事実経過を考えても、前述の任那日本府が「小領域内にとどまる倭人共同体」などであろうはずがなく、やはりヤマト政権の支配機構であったことは明白で、日本の半島南部統治は想像以上に当時の重要な政治問題だったのです。
 国号「日本」が意味するもの
 白村江の戦いの敗北によって、日本は朝鮮半島の支配権を奪われ、古来より続いていた朝鮮半島との接合性を失います。しかし、それとともに日本列島の領域枠の意識が強く共有されて、国や民族のかたちが明確になり、日本という国家意識の原型が誕生するのです。日本の領域枠を守るため、国防軍が創設されます。唐の来襲の危機に備え、北九州一帯に国防軍が配置されます。万葉集にも収められている「防人歌」が無数に作られるのはこの時期です。
 日本の国家意識の発揚とともに、日本の国号、つまり国の呼び名についても定まりました。中国は日本のことを「倭」と呼んでいました。後漢王朝の時代に編纂された字典『説文解字』によると、この「倭」には「従順」という意味があり、「付き従う者」という意味、さらにその意味を強めれば「隷属者」という意味もありました。
 当然、日本側はこの「倭」という文字を嫌い、「倭」の代わりに発音が同じ「和」を使うようになり、さらに「大」を付け加えて「大和」とし、「ヤマト」の当て字にしたとされます。そもそも「ヤマト」が何を意味しているか諸説あり、「山のふもと」を意味するという説、山の神が宿る「山門」を意味するなどの説があります。
 江戸時代の国学者本居宣長は、天智天皇の時代に「日本」の国号が使われはじめていたと述べています。この頃、「日本」と書いて「ひのもと」と読んでいたとされます。「ひのもと」は太陽が昇るところという意味です。
 607年の第2回遣隋使で、小野妹子は隋の煬帝に「日出処天子致書日没処天子無恙云云」(日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙無しや、云々)ではじまる有名な国書を差し出しています。日本は隋王朝のような大国を相手に決して怯まず、自らを「日出ずる処」とし、「天子」を名乗りました。中国の皇帝に「天子」を名乗るのは、対等の立場であることを主張するものに他ならず、煬帝は「日出処」「日没処」の記述ではなく、日本が「天子」を名乗ったことに対して激怒したことはよく知られています。日本は元々、「日出ずる処」の国という意識を強く持っており、これをそのまま国号にして、「日本」としたのです。
 中国・朝鮮半島の抗争に巻き込まれるリスクから解放された
 10世紀、五代十国時代に編纂された中国の史書旧唐書』には、「日本」という国号について、「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となす」という記述が見られます。「その国日辺にあるを以て」の「日辺」いうのは日の出る辺りという意味です。
 日本が白村江の戦いで敗北し朝鮮半島への支配権を失ったことは、短期的には損失であったかもしれませんが、長期的には、朝鮮半島との関係が切れたことを契機に日本という国家が誕生し、そのことが明確に意識されるようになり、「日本」という国号の誕生とともに国家の新たな歩みと指針を得ることになったのです。日本は朝鮮半島や中国の煩雑な抗争に巻き込まれるリスクから解放され、内政を充実させることもできました。彼らとの関係を切ることが日本を日本たらしめたのです。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「任那(みまな)」の解説
 任那(みまな) みまな
 朝鮮古代の国名。「にんな」とも読む。別名は伽耶(かや)、加良(から)、駕洛(からく)など多数あるが、国際的には加羅(から)と書く。任那の国名は日本でしばしば使用されるが、朝鮮ではほとんど使用されない。日本では「みまな」と訓読するが、これは狭義の任那の始祖王后来臨の聖地主浦(しゅほ)(ニムナ)の地名による。広義の任那は時代により変動し、洛東江(らくとうこう)下流域を中心に、ときに中流域にまで及んだ。
 任那地方の基層文化は海洋文化を含む南方系文化が主であり、北方系の騎馬文化などは貴族文化に多い。任那諸国は山地、丘陵、沼沢の多い地形的条件と、大国に隣接していなかった国際環境などから、基本的には小国分立の状態であった。
 [井上秀雄]
 成立期の任那目次を見る
 この地方では、農耕生産の普及や支石墓社会の形成などから、紀元前1世紀ごろに初期的な国家ができたとみられる。3世紀の任那地方は『三国志』によれば、弁韓(べんかん)、辰韓(しんかん)各12国があったという。これら諸国のなかには、連合して辰国をつくったものもあるが、その王は農耕生産を維持、発展させるシャーマンであり、政治権力をもたない初期的な国家であった。
 [井上秀雄]
 4世紀後半の任那目次を見る
 『日本書紀』に引用されている「百済(くだら)本記」によれば、百済は近肖古(きんしょうこ)王代(346~375)から任那諸国と国交を開いたという。また、広開土王碑文では、400年ごろのこの地方には、任那加羅(金海)や安羅(咸安(かんあん))など多くの国々があり、これらの諸国間にはかなり緊密な協力関係があった。その後も任那諸国は、百済や朝鮮南海岸地方ないしは北九州にあった倭(わ)国と協力して、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)と対立していた。4世紀後半に任那諸国が朝鮮の諸国と本格的な交渉をもつようになると、任那諸国の王の権威が向上し、その古墳も飛躍的に大きくなった。この時期から中心的に活躍する任那加羅は狭義の任那で、現在の慶尚南道金海市にあり、532年新羅に降服するまで、加羅諸国の有力国であった。また、任那加羅は『三国志』に弁辰狗邪(くや)国、狗邪韓(くやかん)国とあり、韓族、倭、中国などの海上交通の要衝として栄えた。大和(やまと)王朝の朝鮮進出の基地とされる任那日本府がこの地に置かれたといわれているが、それを証明するものはない。その開国神話は日本の天孫降臨神話の祖型で、始祖王后の海洋渡航神話も日本の神話と類似したところがある。また、任那諸国の新文物、新知識を日本にもたらした秦(はた)氏の出身地はこの任那加羅で、漢(あや)氏の出身地は安羅とみられる。
 [井上秀雄]
 5世紀の任那目次を見る
 5世紀前半期の朝鮮は比較的安定し、任那諸国もそれぞれ自国の充実に努めていた。ただ倭国が、430年から任那任那加羅)、加羅(高霊加羅)を含む六~七国諸軍事の称号を繰り返し南朝宋(そう)に求めるなど、朝鮮の国際関係に積極的な関心を示した。後半期には、新羅洛東江流域に勢力を伸ばし、任那諸国と接触交渉が始まり、部分的な抗争も起こった。百済全羅道に勢力を伸ばし、任那諸国との接触が深まった。また479年加羅王荷知(かち)が、南斉(なんせい)から輔(ほ)国将軍加羅国王の官爵を与えられ、国際社会に登場した。この時期の文化で注目されることは、地域的な特色が明瞭(めいりょう)になったことである。たとえば、丸底壺(つぼ)類をのせる器台では、西方に多い低平な器台、東部に多い高杯型器台、中央部に多い筒型器台など地方的な特色をもつようになる。また、異形土器が発達し、鴨(かも)形、舟形、車形、家形など各種の象形土器がみられる。任那加羅とともに狭義の任那とよばれる高霊加羅は大伽耶、大加羅ともいわれ、任那諸国の有力国で、現在の慶尚北道高霊郡にあった。ただし高霊加羅任那とよぶのは、『日本書紀』の誤解によるとする説がある。伝承では43年に建国し、16代520年間続き、562年に新羅に併合されたという。6世紀には、任那諸国の盟主として活躍し、その文化も任那諸国を代表するもので、伽耶琴(かやきん)・加羅楽の発祥地、原始絵画、装飾古墳などがある。
 [井上秀雄]
 6世紀の任那目次を見る
 5世紀末から百済の勢力が任那南西部に侵入した。百済はこの事態を大和王朝に承認させるため、五経博士(ごきょうはかせ)などを送った。これに反対する任那諸国は新羅に援助を求めた。新羅は525年に洛東江上流域に上州を設置し、百済と対立した。任那諸国のなかには百済新羅の侵略に対抗するため、五伽耶、六伽耶加羅七国、浦上(ほじょう)八国など連合体を組織するものもあった。その連合の組織では、諸国の代表者が集まって外交、軍事の実務を協議していた。しかし、当時の加羅諸国には、小国のままのものから数個の小国を統合した国まであって、諸国間の利害が対立し、各国支配者層内に親百済派、親新羅派が生じて混乱した。この混乱を利用した新羅任那はしだいに侵略されて、532年に任那加羅など、562年に高霊加羅を中心とする残余の任那諸国が併合された。新羅に併合されたのちも任那諸国は比較的自立性が強く、新羅の直接支配を受けるようになるのは、統一新羅になってからである。この時期の貴族文化は、高句麗百済からの影響が強くみられる。
 [井上秀雄]
 『末松保和著『任那興亡史』(1949・吉川弘文館)』▽『金廷鶴著『日本の歴史 別巻 任那と日本』(1977・小学館)』▽『井上秀雄著『任那日本府と倭』(1973・東出版寧楽社)』▽『井上秀雄著『古代朝鮮』(NHKブックス)』
 [参照項目] | 漢氏 | 加羅 | 百済 | 高句麗 | 五経博士 | 新羅 | 辰韓 | 宋 | 朝鮮史 | 日朝交渉史 | 日本府 | 秦氏 | 弁韓
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 歴史的事実として、古代から、日本は被害者であり、中国や朝鮮は加害者であった。
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 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
 日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
 歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇法皇島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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 親日・知日は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日・敵日・侮日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国、韓国・北朝鮮
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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 日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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 592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
 渡来人の中国人や朝鮮人には、皇室に対する畏れはなく、天皇や皇族を殺す事に罪悪感はなかった。
 日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や差別はここから始まっている。
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 663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
 愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
 天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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 672年 壬申の乱天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
 「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社
 生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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 668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
 つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
 日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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 764年 藤原仲麻呂の乱帰化人対渡来人の攻防。
 親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
 孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年)および894年 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
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 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
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 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
 捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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 虐殺から生き残った対馬壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
 前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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 1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
 李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
 この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
 朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
 歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
 朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
 日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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 1419年 応永の外寇世宗大王李氏朝鮮軍による対馬侵略。
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 後期倭寇は、対馬壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人南蛮人であった。
 日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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 歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
 黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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 人類の誕生と大移動は運命である。
 日本人の祖先はアフリカのサルであるは宿命である。
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 600万年前~700万年前 人類(ヒト属)の祖先はチンパンジーボノボの祖先である類人猿から別れて進化していき、幾つかの人類種が枝分かれするが一つの系統を残して全て絶滅した。
 10万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は、アフリカで誕生し、世界中に移住していった。
 数万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は日本列島にたどり着き、上陸した、漂着した、流れ着いた。
 数千年前 揚子江流域民である弥生系渡来人が山東半島から朝鮮半島を経由し、続いて中国旧満州地方に住んでいた古墳系帰化人が朝鮮半島を経由して日本列島に移住してきた。
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 日本土人である縄文人ヤポネシア人=石器人の子孫)は、日本列島を中心に、南は琉球(沖縄)、北は蝦夷地(北海道)・北方領土南樺太、千島列島その一部はカムチャツカ半島から北米大陸西北部太平洋沿岸まで、西は朝鮮半島南部、日本海縄文人の海)を主要航路として手漕ぎ丸木舟で移動していた。
 縄文人は、手漕ぎ丸木舟で北米大陸の太平洋沿岸まで移動していた。
 中国や朝鮮では、朝鮮半島南部に住んでいた先住民の弥生系日本人を倭族と偏見を持って軽蔑し差別していた。
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 日本文明は、揚子江流域(江南地域)にあった漁労農耕の温和で平和志向の長江文明の後継文明であって、黄河流域で軍事優先で栄えたの領土拡大・侵略志向の好戦的黄河文明の亜流文明ではなかった。
 朝鮮文化は、黄河文明の亜流であった。
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 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
 数万年続いた日本列島の石器時代縄文時代は、争いのない、戦争のない平和な時代であった。
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 日本民族琉球民族アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)を共通の祖先とする同種・同血族であって、中華民族、漢族、韓国人・朝鮮人とは血の繋がりが薄い別種・異種のアジア人であった。
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 日本民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)、弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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 アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)にシベリア・沿海州樺太北方領土4島・千島列島・カムチャツカ半島などオホーツク海沿岸に住んでいたオホーツク文化人が南下してきて、混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
 アイヌ人は住んでいる島・地域によって幾つかに枝分かれして、それぞれ他の人種・民族と乱婚を繰り返し混血度を濃くして独自の微妙に違う生活スタイルで生きてきた。
 蝦夷地・北方領土アイヌ樺太アイヌ、千島列島アイヌカムチャツカ半島アイヌ、その他。
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 琉球民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)に揚子江流域・東南アジアから渡って来た人々と混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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🔂2〕─1─朝鮮民族のルーツは中国人から野蛮人と差別されていた北方ツングース系民族。~No.2No.3 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 朝鮮人と日本人は別系統のアジア人であるが、100%違うわけではない。
 日本人の基層は南方系で、朝鮮人の基層は北方系である。
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 2022年6月22日 MicrosoftNews 現代ビジネス「韓国人は、漢民族に「臭穢不潔」と蔑まれたツングース系民族「濊」の末裔なのか 民族と文明で読み解く東アジアの成立ち
 宇山 卓栄
 国際情勢を深層から動かしてきた「民族」と「文明」、その歴史からどんな未来が見える?中国とインドの台頭により、アジアの歴史や文化に関する知識は今や必須の教養となった。しかし教科書が教えてきた中国中心の見方では、アジア史のダイナミズムは理解できない。考古学や遺伝子学を含めた学術研究の進歩も、こうした史観に対して再考を求めている。このたび『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社+α新書)の上梓した世界史のベストセラー著者が、朝鮮民族のルーツに迫るーー。
 © 現代ビジネス
 「臭穢不潔」とされたツングース
 朝鮮民族の祖先であるツングース系民族は古代中国で、「濊(わい)」や「貊(はく)」と呼ばれていました。「貊」は日本語で「えびす」と訓読みし、蛮族を指します。
 問題は「濊」の字です。濊は『漢書武帝紀では「薉」、『漢書』食貨志では「穢」と表記され、『三国志』や『後漢書』では「濊」と表記されています。いずれも「穢れ」を意味していると考えられています。
 かなり酷い呼び名ですが、漢民族は周辺の異民族に対して、このような悪い意味の名を付けることがよくありました。例えば、匈奴の「匈」は「悪く乱れている」ということを意味する言葉であるので、「匈奴」は「悪い奴ら」というニュアンスになります。また、周の時代には、モンゴル系の犬戎が中国に侵入しましたが、「犬戎」とは「犬のような蛮族(戎)」というニュアンスです。
 © 現代ビジネス 紀元前1世紀頃の濊と貊の位置(Wikipediaより) 拡大画像表示
それにしても、「濊」という名の酷さは際立っています。どうして、こういう名を付けられたのか、詳しいことはわかっていませんが、『三国志』や『後漢書』では、ツングース系民族が極めて臭くて不潔(「臭穢不潔」)であったと記されています。
 彼らは尿で手や顔を洗い、家ではなく穴の中に住んでいました。豚の毛皮を着て、冬には豚の膏を身体に厚く塗って、寒さをしのいでいました。「臭穢不潔」な彼らを「濊」と呼ぶことは漢民族にとって自然なことだったと推測されます。
 「濊」は「水が溢れている様」、「穢」は「雑草が生い茂って荒れている様」を表すもので、必ずしも「穢れ」を意味するものではないとする見方もありますが、史書に「臭穢不潔」と記されていることからもわかるように、やはり「穢れ」を意味していると考えるのが自然です。
 © 現代ビジネス 2世紀頃の濊貊の位置(Wikipediaより) 拡大画像表示
 これらの濊や貊のツングース系部族から派生する扶余族が紀元前1世紀に高句麗を建国し、4世紀前半に百済を建国します。彼らは後漢王朝に圧迫され、朝鮮半島方面へと南進したのです。そして、彼らは現在の韓国にいた原住民である韓人と混血同化し、今日の朝鮮人となります。
 韓人は朝鮮半島の南部から中部にいた農耕民族で、半島の原住民ですが、「韓人」という明確な民族学上のカテゴリーがあるわけではなく、「三韓の地に住んでいた人々」という意味で慣習的に使われます。
 歴史から紐解く朝鮮民族のルーツ
 高句麗は4世紀末から5世紀に強大化し、満州から朝鮮半島北部にかけて広大な版図を形成しました。
 高句麗の第19代の王・広開土王(好太王)はこの時代の王で、朝鮮半島南部に遠征し、百済を攻めました。百済と同盟を結んでいた日本(大和朝廷)は軍を朝鮮に派遣し、広開土王と戦います。この戦いについて、有名な「広開土王碑文」に記されています。
 朝鮮の歴史書三国史記』によると、扶余の王族朱蒙チュモン)が紀元前37年に高句麗を建国したとされます。さらに、扶余族は南方に拡散し、朝鮮半島南西部に百済を建国します。7世紀の中国の史書『周書(北周書)』や『隋書』では、百済の王族が扶余族出身で、高句麗王族とも血縁関係があったことが記されています。
 © 現代ビジネス 5世紀終わり頃、三国時代の勢力図(Wikipediaより) 拡大画像表示
 百済の都は当初、ソウルを流れる漢江(ハンガン)の南の漢城に定められました。その後、高句麗に圧迫されて、475年、南の錦江(クムガン)中流の熊津(ウンジン)、つまり現在の公州に遷都し、更に538年に、錦江下流の泗沘(サビ)に遷都しています。
 泗沘は新羅時代の8世紀半ばに、彼らの民族名を偲び、「扶余(プヨ)」と名付けられて、今日に至ります。百済の最後の都の扶余は百済歴史遺跡地区として、2015年に世界遺産に登録されています。
 高句麗百済の歴史からもわかるように、古代朝鮮半島ツングース系の扶余族によって支配されていました。扶余族は濊や貊から派生した部族であり、これが朝鮮人のルーツであると言うことができます。
 勢いのあった扶余族が朝鮮半島のみならず、さらに南進し、日本にも到来して、彼らが大和朝廷を樹立したという仮説もあります。これは「騎馬民族征服王朝説」と呼ばれるもので、東京大学名誉教授の江上波夫氏により、1948年に提唱され、広く信じられたことがありましたが、今日では、根拠がないとして否定されています。
 韓国の学者で、この説に便乗する者もいます。韓国の東洋大学の金雲会(キムウンフェ)教授は扶余の王族が南方へ移動して百済王になり、さらにその子孫の百済王の近肖古王(クンチョゴワン)が日本に渡って応神天皇になったと主張しています。しかし、前段の扶余の王族が百済をつくったというのは良いとしても、その子孫の百済王が応神天皇になったというのは荒唐無稽で根拠はありません。
 百済建国には、いくつかの説があります。朝鮮の歴史書三国史記』では、高句麗の始祖の朱蒙と扶余の王族の娘との間に生まれた子が百済を建国したことになっています。初め10人の家臣と共に建国したため、国号を「十済」としましたが、百姓たちも建国に協力したので、「百済」となったとされます。
 中国の史書『隋書』の「百済伝」には、もう少し現実的なことが記録されています。扶余王の尉仇台(ウィグデ)が高句麗に国を滅ぼされて、百家とともに海を渡った(済海)ので、国号を「百済」としたと記されています。
 遺伝子解析からわかる混血の歴史推移
 朝鮮半島方面へ南下したツングース系民族の濊や貊よりも北西部にいた、同じくツングース系民族の動きも併せて見ておきましょう。
 この地域は外満州とも呼ばれ、今日のロシアの沿海州、都市で言うとウラジオストクからハバロフスクにかけての地域一帯です。元々、この地域にいたツングース系民族が粛慎で、紀元前6世紀、孔子も彼らの使っていた弓矢について述べています。
 粛慎はその後、挹婁(1世紀から4世紀)、勿吉(4世紀から6世紀末)、靺鞨(6世紀末から7世紀末)と変化していきます。彼らは今日のロシア領のツングース系民族の大半に相当します。
 「挹婁」の呼称は弓矢の鏃を指す「ヨウロ」を音写したものと考えられています。「勿吉」の呼称は何の音写かわかっていません。「靺鞨」の呼称は「勿吉(もつきつ)」の音写と考えられています。
 靺鞨は主に、南の粟末部と北の黒水部の2つの部族に大別することができ、粟末部は後に高句麗遺民と共に、満州統一国家である渤海を建国します。北の黒水部は女真族の元祖であり、彼らが金王朝清王朝を建国します。
 女真族は中世の高麗時代以降、朝鮮半島にも大量に南下し、朝鮮人と混血しています。
 遺伝子の解析により、韓国人はツングース系民族と遺伝子上、近似関係にあることが証明されていますが、この結果は彼らの混血の歴史推移と一致します。
 また、中国人もツングース系民族との遺伝子的近似性が証明されており、この結果もやはり、清王朝のような女真族王朝が250年以上も中国を支配し、混血同化が進んだという歴史の推移に一致するものです。朝鮮人と中国人はツングース系民族を介して、近似した民族となったのです。
 ところで、朝鮮人のルーツを北方ツングース系のエヴェンキ族とする見解がありますが、これは一つの可能性であって、確実であるかどうかはわかりません。エヴェンキ族の顔立ちなどの容姿、また、トーテムポールを建立し、祈祷する風習などが朝鮮人に似ているとされます。
 元々、エヴェンキ族は外満州からシベリアにかけて居住していましたが、13世紀頃に南下し、朝鮮半島にもやって来たとされます。エヴェンキ族が女真族と混血し、女真族によって、血統や風習が朝鮮にもたらされた可能性も考えられます。
 そもそも、エヴェンキ族と女真族を区別することができないかもしれません。エヴェンキ族は靺鞨族の末裔であり、両者は靺鞨族という同一の祖先を持つからです。
 「ツングース」とは何を意味するのか
 ツングース系民族はアルタイ語派に属します。今日、同じアルタイ語派のモンゴル系の人口が約320万人、ツングース系が約290万人います(アルタイ語派の9割がトルコ系)。
 「ツングース」が何を意味しているのかについては諸説ありますが、一説には「豚を飼育する人」という意味を持つと言われます。
 ツングース系民族は元々、満州朝鮮半島北部、サハリン、シベリアに至るまでの広範囲の地域に居住しており、これらの地域は現在のロシアから中国、北朝鮮の領域に及んでいます。しかし、ツングース系言語の話者は今日ではほとんど残っておらず、ロシアに約6万人、中国に約5万人しかいません。
 ツングース系民族はその言語グループにより、主に12の部族に分けることができます。ロシアには、エヴェンキ族、エヴェン族、ネギダル族、オロチ族、ウデヘ族、ナーナイ族、オルチャ族、ウイルタ族などの8つの部族があり、中国には、ソロン族、ヘジェン族、シベ族、満州族の4つの部族があります。
 この12部族のうちの満州族がいわゆる満州人のことで、満州の中心部を居住地とし、古来、中国とも最も緊密な関係を持っていました。
 これらの部族は同じツングース系言語を共有していたとはいえ、遠く離れた部族同士では言葉の隔たりは少なからずあり、会話さえもできなかったとされます。ただし、同じ言語体系に属する彼らは同一の祖先を共通に持つと見られます。
 また、民族の遺伝子も近接な関係にあり、互いの民族が歴史的に離合集散を繰り返しており、混血も進んでいました。満州族などの南のツングース系は漢民族を特徴づける遺伝子系統を濃く受け継ぎ、北のツングース系はロシア人の遺伝子系統を持つといった地域的な差はあります。
 満州人(満州族)が17世紀に清王朝を樹立した頃、ツングース系民族の大半が満州人により、統合されました。しかし、19世紀になると、ロシアが極東に進出してウラジオストクを建設し、沿海州を支配、北部のツングース系民族はロシア領域に取り込まれ、南部の中国領域のグループと分断され、今日に至ります。」
   ・   ・   ・   
民族と文明で読み解く大アジア史 (講談社+α新書)
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 ツングース的特徴から窺い知る「朝鮮民族
 顧問・元ベトナム・ベルギー国駐箚特命全権大使 坂場三男
 韓国の慰安婦像・徴用工像の問題にしろ、北朝鮮の核・ミサイル開発の問題にしろ、朝鮮民族の考えることは我々日本人には理解困難である。どうも思考回路が全く違っているのではないかと思われてならない。同じ東アジアのウラル・アルタイ語族に属し、外見的特徴も似ているだけに、ついつい同種同根のように思い込みがちだが、どうやら異星人とでも観念した方が理解の近道のようである。
 最近、「儒教の影響」という観点から朝鮮民族(及び中国人)の思考法を解説し、我々日本人との違いを説明する議論が流行している。祖先崇拝・古礼墨守の習慣から礼教主義による秩序感覚に至るまで正に儒教の教えそのものであり、上下序列の華夷思想もそこに由来する。中国・春秋時代孔子の教え、そして南宋時代の朱子の哲学が精神の髄にまで沁みついている。人を人らしくするための思想体系として紀元前の中国人が絞り出し、滅亡の末路にある王朝が心の拠りどころとした哲学が朝鮮民族の心の奥深くに今日なお息づいているとすれば、それはそれで驚嘆に値する。
 しかし、「儒教の影響」だけで朝鮮民族の行動パターンの全てを理解しようとすると(当然ながら)無理が生じる。つまり、儒教の教えはそれ自体いかに濃厚なものであったとしても言わば(教育を通じて事後的に身に着けた)「獲得形質」のようなもので、民族の原型という「素」の部分を説明することにならないからである。この点では朝鮮民族の出自に遡って彼らの「民族的特徴」を解析する必要があるように思われる。
 朝鮮民族が人種的にツングース系に属することには異説がない。朝鮮半島の歴史時代は「三国時代」(あるいはその前の「三韓時代」)に遡るが、高句麗の始祖・朱蒙沿海州の扶余(満州ツングース系の一族)の生まれとされ、百済はその弟が建国した(と伝えられる)。いずれも紀元前1世紀のことである。半島南東部の新羅の場合、その建国神話では土着諸族の統合によって国王が選ばれた韓族の国とされているが、歴史を更に遡れば、その韓族自体が満州方面から南下してきたのではないか。まあ、いずれにしろ、統一新羅、高麗、李氏朝鮮という半島統一国家の栄枯盛衰の過程でツングースの血が朝鮮民族の中に濃厚に沈殿していったであろうことは疑う余地がない。
  では、ツングースとはいかなる民族的特徴を有する人たちなのか。勿論、私は民族学者ではないので自説を展開することは出来ない。そのため、1つの便法として司馬遼太郎氏が街道をゆくシリーズの第2巻「韓(から)のくに紀行」で詳述しているツングース論を借用する。司馬氏は朝鮮民族が古代ツングースの特徴を濃厚に持っているとした上で、「朝鮮人は世界でもっとも政治論理のするどい民族だと思っている。政治論理というのは奇妙なもので、鋭どければ鋭いほど物事を生まなくなり、要するに不毛になっていく性質のものだ」と言い、また「政治論理という、この鋭利で、そして鋭利なほど一種の快感をよび、また快感をよべばよぶほど物事が不毛になるという危険な抽象能力」との指摘もある。別の箇所では朝鮮人の思考法式に触れ「怨念が強烈な観念になって事実認識というゆとりを押し流してしまう。・・・どう考えてもツングース人種の固有の精神体質としか言いようがない」、「朝鮮人のもつ観念先行癖――事実認識の冷静さよりも観念で昂揚すること――やそれがための空論好きという傾向」、「現実直視能力というものは残念ながらあまりない。このことは概して朝鮮知識人の通弊である」との件もある。また、司馬遼太郎氏は「怒れるツングース」の姿を目撃しては面白がっている風がある。「韓国人というのは怒りっぽい民族だ」、「韓国人が喧嘩相手をののしるとき、まことに苛烈である」、「感情と表現の激烈さは朝鮮民族のごくありふれた特徴」、「自分の観念の中にある観念的な日本人像にむかって爆発を繰り返しているために、罵詈罵倒はもはや儀式のようになっている」といった記述が随所に見られる。誠に同感である。
 なお、司馬氏の指摘する「朝鮮人の観念先行癖」に関連して私個人として思い当たることがひとつある。それは銅像、石像、木像のいかんを問わず、朝鮮人が「像」を好むことである。朝鮮半島には(北朝鮮の巨大な金日成金正日像は言わずもがな)至る所に過去の将軍ら歴史上の人物の立像がある。ベトナム在勤中に聞いた話では、ベトナム戦争に参戦した韓国軍は主な戦闘の現場現場に指揮官の石像を立て残していったと言う。勿論、戦争後、これらの立像は全て破壊され、今は残っていない。私は、朝鮮人の場合、「観念」という抽象的なものを具象化する手段として「像」を作り続けたのではないかと思う。それによって一度生まれた観念は事実がどうであったかとは無関係に固着する。現在の慰安婦像や徴用工像への韓国人の異様な執着はどうもこの辺りの民族性と関係がありそうである。とにかく私たちは「怒れる朝鮮民族」とうまく付き合っていかなければならない。
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 世界史の窓
 アルタイ語族に属し、中国東北地方で狩猟生活を送っていた民族。その中の女真が金と清を建国した。
 漢民族から見て北方民族に入る民族で、トゥングースとも表記。アルタイ語族に属するツングース語を用いる諸民族をツングース系と総称する。現在の中国の東北地方(旧満州)から南シベリアにかけての森林地帯で、部族に分かれて半農半狩猟生活を送っていた。古くは高句麗を建国した貊族、7世紀末の渤海国を建国した靺鞨族もツングース系とされる。最も有力となったのは女真で、12世紀に金を建国し、中国の北半分を支配した。金は1234年にモンゴルに滅ぼされたが、後の17世紀に満州族と称して清を建国した。
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 貊/貊人/貊族
 古代朝鮮・中国東北地方で活動したツングース系の人びとで高句麗を建国した。
 貊はハクと読み、貉の字をあてることもある。古代朝鮮の高句麗を建国した、ツングース系の民族。漢民族の歴史書には、古朝鮮・中国東北地方の民族として、濊(カイ)・貊(ハク)・韓が上げられており、そのうち濊貊は半島北部から中国東北地方にかけて活動していたらしい。濊貊は北方民族の総称としても用いられていたが、王莽の頃からその中の部族をそれぞれ意味するようになった。2~3世紀の中国文献では貊は鴨緑江流域の高句麗部族をさすようになる。<濊貊については井上秀雄『古代朝鮮』p.30-33 を参照>
 扶余・高句麗百済
 前2世紀後半ごろ、貊人の一部であった扶余(扶餘とも書く。民族名、国家名としての扶余)は、現在の中国東北地方の松花江方面に建国し、1~3世紀には鮮卑高句麗とも対抗した。この貊人の一部が建てた国家としての扶余は、494年に同じツングース系の勿吉(モッキツ)によって滅ぼされた。勿吉は6世紀半ばに高句麗に滅ぼされ統合される。
 高句麗は建国神話では扶余の王族の朱蒙が建てたとされている。貊人の一部族であったものが分離し、漢の四郡の一つ玄菟郡が前1世紀ごろに衰えたことから自立したと考えられている。伝承によると前37年に建国したとされている。高句麗は313年に楽浪郡を滅ぼし、4~6世紀に中国東北地方から朝鮮北部にかけて強大な国家となる。
 なお、さらに扶余の子孫は後に半島南部に移って百済を建て、馬韓と言われた韓民族の小国を従えた、という伝承もあり、百済は都を扶余(百済の都としての扶余、プヨ)と呼んでいた。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「女真」の解説
 女真 じょしん
 10世紀初頭以後、史上に現れたツングース系民族。松花江(しょうかこう)、牡丹江(ぼたんこう)、黒竜江下流域、沿海州(現沿海地方)に分布していた。女直とも記されるが、女直は、遼(りょう)の興宗の諱(いみな)の宗真を避けて女直としたものとか、ジュルチンJurchin(女真)のn音の脱落した形などの説がある。唐代に勢力のあった黒水靺鞨(まっかつ)の後裔(こうえい)である。黒水靺鞨以外の靺鞨諸部は高句麗(こうくり)と渤海(ぼっかい)の支配を受けたが、黒水靺鞨は高句麗の支配を受けず、渤海の治下にあったことも明確ではない。黒水靺鞨は遼代には松花江豆満江(とまんこう)流域、咸鏡(かんきょう)南・北道地方に発展し、遼と高麗(こうらい)に朝貢し、黒水女真、東女真とよばれた。これらの女真を生女真といい、遼の領土内に移され遼の戸籍につけられたものを熟女真という。遼の末期、生女真の完顔(ワンヤン)部が勢力を蓄えて発展し、阿骨打(アクダ)が諸部を統一し金(きん)国を建設し(1115)、遼を滅ぼした。金は華北を制覇し南宋(なんそう)と対立したが、1234年モンゴルに滅ぼされた。元代の女真は東北の森林地帯に散居し、合蘭(ごうらん)府水達達等路の管轄下にあった。明(みん)代では松花江流域に住む女真は海西女直、遼寧(りょうねい)省東部・吉林(きつりん)省東部・豆満江流域の女真は建州女直、牡丹江流域・黒竜江下流域・沿海州女真は野人女直とよばれた。明国は黒竜江河口に奴児干(ヌルカン)都司を、遼陽に遼東都司を置いて女真諸衛を管轄した。17世紀初頭、建州女直からヌルハチが出て女真各部を統一し、後金(こうきん)国を建てた(1616)。明末清(しん)初の女真はJušen(女真人)と自称し、自らの集団をJušen国といったが、1635年10月、太宗ホンタイジがJušenと称することを禁じ満洲と称することにしてから女真の語は用いられなくなった。
 [河内良弘]
 [参照項目] | アクダ | アムール川 | エベンキ | 沿海地方 | 金 | 後金 | 高句麗 | 松花江 | ヌルハチ | 牡丹江 | 渤海 | ホンタイジ | 靺鞨 | 満州 | 満洲族 | 遼 | 完顔部
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 ツングース系民族の分布図
 ツングース系民族(ツングースけいみんぞく、ロシア語: Тунгус; Tungus、英語: Tungusic peoples、中国語: 通古斯; Tōnggŭsī)は、満州からシベリア、極東にかけての北東アジア地域に住み、ツングース語族に属する言語を母語とする諸民族のこと。
 語源
 「トゥングース(Tungus)」という名称は、ロシアのヤクート人が、自分たちと混血を進めていたエヴェンキ人を「トングース(Toŋus)」と呼んだことに由来する。現在はともに民族名として自称するため、「ツングース」とは言語系統名であるツングース諸語と、それを話す諸民族の総称として用いられる。
 ヤクート語の「トングース(Toŋus)」の起源や語意には今までいくつかの説が立てられたが、未だ定説はない。以下に有名な説を挙げる。
 東胡説
 中国の史書が伝える東北アジアの民族「東胡(Dōnghú)」と、ヤクート語の「トングース(Toŋus)」の発音が似ていることから、ヨーロッパの学者を中心に支持された。
 豚の飼養者説
 J・クラプロートが提唱。ヤクート語の「トングース(Toŋus)」は「豚」を意味するテュルク語の借用語で、豚の飼育に長けていた勿吉や靺鞨を指していたとする説。
 起源
 詳細は「ツングース語族#原郷」を参照
 Question book-4.svg
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 出典検索?: "ツングース系民族" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年4月)
 未だ定説は確立していないが、以下のような仮説がある。
 南方由来説
 19世紀に提示されて以来、ツングース語のモンゴル語やテュルク語との近縁性から、多くの学者がシベリアの遊牧ツングース黒竜江沿いに北上してきたモンゴル民族とした。1920年代にソ連人(ロシア人)学者シロコゴロフが、現地調査などから松花江ウスリー川流域一帯をツングース人が形成された土地とし、形成以前の起源を更に河北東北部へ求める説を発表。言語学や人類学の観点から数多くの学者に支持されるが、華北東北部を起源とする点に関しては考古学的な裏付けが乏しく仮説の域を出ないとされている。
 西方由来説
 セレンガ川やバイカル湖畔の周辺から来たとする仮説を2人のソ連人(ロシア人)学者が唱えた。
 太古土着説
 1960年代にソ連人学者 から出された仮説、文化の独自性から数千年に渡り外部から隔絶していたとする。古い年代の考古物の中に南方地域と類似する物が見られる点と、急激な寒冷化が起きた時期に人口増加によると思われる出土物の増加が確認される点から、主流とはなっていない。
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 朝鮮民族(朝: 조선민족)は、朝鮮語をそのアイデンティティー・母語とする民族。大韓民国における自称は韓民族(朝: 한민족) 。
 歴史
 「朝鮮の歴史」も参照
 先史時代の朝鮮半島は櫛目文土器(ウラル語族に関連)を有する遼河文明圏[7][8]に属していた。このウラル系民族が、朝鮮民族の基層にある可能性が高い。古代の朝鮮半島は現代と比べ人口も少なく諸種族が点在しており、半島南部には倭人、北部には沃沮(よくそ)、濊(わい)、扶余(ふよ)などの濊貊(わいはく)系、挹婁、扶余、を中心に定住していた。
 その中の中国の満州南部から渡来した夫余から発展した高句麗が南下しながら半島に勢力を拡大し、これに連動するように半島中部で北部の馬韓諸国を統合した百済、半島東南部では辰韓諸国を統合した新羅が成立し、3国が鼎立するに至った。三韓時代を代表する百済新羅高句麗の各国はそれぞれ種族の偏りはあれど国である。その後、半島東南部を根拠地とする三韓系の国家である新羅が、百済高句麗などの扶余、濊貊系国家を打ち破って半島中南部を占拠し、半島北部と満州をつなぐ扶余系国家はなくなった。統一新羅の時代に新羅は旧百済高句麗の一部の領域を支配し、これを治めていたが、住民の旧国家への帰属意識は依然と残り、統一新羅が弱まり後三国時代に入る。高句麗系住民が建国した渤海と対立したが、渤海の滅亡以後、新しく建国された高麗が帰順してきた一部の流民を受け入れた。こういったながれの中で、現在の民族意識の確立は13世紀頃とみられる。三国時代新羅高句麗百済を指す)から民族集団としての歴史は受け継がれたとされるが、モンゴルに支配された13世紀に入り『三国史記』の編纂や民族の啓発や統合が活発となり、13世紀後半に、現在の民族としての自己独自性の熟成と遺伝子的な一致がほぼ完成されたとみられる。
 遺伝子的系譜
 Y染色体・mtDNA
 現在の朝鮮民族が持つY染色体ハプログループの大まかな分類では、割合の多い順に、O2-M122(東アジア全域に多い)、O1b2-M176系統(日本列島琉球列島及び朝鮮半島に多い)、C2-M217(北アジアに多い)、である。
 最も多い O2-M122 系統は朝鮮民族で約41%の割合で確認されており、中国人など東アジアで多く見られる。
 次に多い O1b2-M176 系統は約31%の割合でそれに続く。サブクレード(細分岐)まで分類すると朝鮮民族と、日本人(大和民族琉球民族)には特徴的な違いがあり、朝鮮民族では約22%:約9%の割合で確認されるものが、日本国内では約8%:約24%の割合で確認されており比率がほぼ逆転する。
 三番目に多い C2-M217 系統は約14%の割合で確認されている。この系統は中央アジア及び北アジアのカザフ人、モンゴル人、ブリヤート人エヴェンキ人、ニヴフ人、コリャーク人や北アメリカのナ・デネ語族などに多く、漢民族、京族(ジン族)、ベトナム・キン族など、東アジアでは広域にわたって約10%の割合で確認されている。日本列島では北海道・日高のアイヌ民族と九州の住民がそれに準じ、日本全国では3%〜6%ほどである。なお、C2-M217保有朝鮮民族男性のほとんど(84/89 = 94.4%)が東アジアに多いC-Z1338に属し、北アジアおよび北アメリカに多いC-L1373に属すものはC2-M217保有者の5.6%(5/89)に止まる。
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🪁6〕─1─中国の伝統的統治システムを作ったの漢民族中国人ではなく遊牧民族であった。~No.14No.15No.16 

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 2022年6月19日 MicrosoftNews 現代ビジネス「中国の統治システムを作ったのは、漢民族ではなくモンゴル系だった 律令制も、「科挙」も、均田制も
 宇山 卓栄
 日本の教科書が教えてきたアジア史は、いわば中国中心の見方だった。「殷、周、秦、漢、三国、晋…」と、紀元前からの中国の王朝名を中学一年生で暗記させられた経験は誰でもあるだろう。しかし、それではアジア全体の歴史のダイナミズムを感じ取ることはできない。アジア史はもっと雄渾で、さまざまな民族が闘争を繰り広げてきた。彩り豊かなその歴史を、民族・宗教・文明に着目して世界史を研究する宇山卓栄氏の新刊『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社+α新書)から、おもに日本と中国、朝鮮半島との関係について連載でご紹介する。今回はその二回目だ。→ 一回目はこちら
漢民族はいつも亡国の民だった
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 学校教育などで、我々の多くは強大な中華帝国東洋史の「中心」で、その周りの国や地域、民族は「周辺」であると無意識に植え付けられています。それもそのはず、世界史の教科書では、東洋史のほとんどのページが中国史に割かれ、近隣は「その他」として付属的に扱われているため、中国が中心というイメージを誰もが持ってしまいます。しかし、こうした「中国中心史観」なるものが歴史の実像を見る上で歪んだ先入観を我々に与えています。
 中国の統一王朝で、漢字を使う漢民族が作った王朝は秦、漢、晋、明の4つしかありません。中国の主要統一王朝は「秦→漢→晋→隋→唐→宋→元→明→清」と9つ続きますが、そのうちの5つが異民族の作った王朝です(本来、北方遊牧民を「異民族」と表現すること自体が適切ではありません。遊牧民からすれば、漢民族が異民族であるからです)。秦、漢、晋、明の4つのうち、秦と晋は短命政権で、わずか漢と明の2つだけが実質的な漢民族の統一政権でした(秦の建国者のルーツはチベット系の羌族であるとする見解もあり)。
 漢民族はそのほとんどの時期において、異民族に支配されている亡国の民であり、自分たちの国を自分たちの意志で統治することができなかったのです。その漢民族を「中心」とし、北方遊牧民を「周辺」とするのが教科書や一般的概説書の捉え方ですが、歴史のほとんどの時期において支配を被っている者を、本当に「中心」と呼べるでしょうか。
 本来、支配をする者が「中心」であり、その意味において、中国北部の遊牧民エリアにこそ力の中心軸があり、その中心軸が南方にも及び、中国王朝は形成されてきたと考えるべきです。北方遊牧民を「周辺」とする見方では、中国や東アジアの歴史の実態は決して見えてきません。
 また、「周辺」という言い方には、「中心」よりも野蛮であることが言外に含まれています。実際に漢民族は自分たちを文明(華)の中にいる存在として「中華」と位置付け、その近隣の異民族を文明の外にいる野蛮人と蔑んでいました。漢民族ら農耕民族がその文明の洗練ゆえに軟弱化し、一方、粗野な北方遊牧民が厳しい環境下で屈強さを失わず、ついには農耕民族を征服するのだという一見もっともらしい理由付けに多くの人が納得しているかもしれませんが、それは間違っています。
 隋と唐の建国者はモンゴル人の出身
 北方遊牧民には高度な文明の創造力があり、漢民族にはそのような創造力がなかったため、征服されたのです。北方遊牧民は確かに略奪者であったかもしれませんが、粗野で文明化されていない野蛮人であったわけではありません。北方遊牧民に対する先入観を捨てて中国史やアジア史を見直さなければ、その本来の姿が見えてきません。
 歴史の実態として、中国はほとんどの時期において北方遊牧民のもので、彼らこそが中国王朝の推進者であり、漢民族はそれに付随していただけの周辺的な存在に過ぎません。北方遊牧民の優れた発想や進歩的思考がどのように中国を変えたのかという視点について、検証してみましょう。
 隋(581~618年)や唐(618~907年)は中華帝国ではありません。隋や唐をつくったのは漢民族ではないからです。隋の建国者の楊氏も唐の建国者の李氏も、鮮卑族というモンゴル人の出身です。隋や唐という中国を代表する王朝が漢民族の王朝ではないということに対し、中国人史家の中には、これを否定する見解を持つ人もいますが、日本の中国史家の宮崎市定氏が隋・唐が鮮卑系であるとの見解を戦時中に発表して以降、この見解が世界の学界の定説となっています。いくつかの高校世界史教科書でも、この見解を取り上げています。
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 また、隋や唐は自分たちが異民族の出身者であることを隠そうとしたこともあり、彼らの出自に関する詳細な記録を残していませんが、その系譜から見て、彼らが鮮卑族であることは否定することのできない事実です。
 3世紀の三国時代から中国は戦乱が続き、疲弊していました。4世紀にはモンゴル人やチベット人などの異民族が中国に度々、侵入していました。モンゴル系の鮮卑族が386年、華北(中国北部)に北魏を建国します。これ以降、華北のモンゴル人王朝と江南(中国南部)の漢民族王朝が並行して存在する南北朝時代となります。約200年間、華北を支配し続けた鮮卑族から隋や唐を建国する人物が出て、中国を代表する強大な王朝を形成するのです。
 「家柄」よりも「実力」が強さの秘訣
 隋は中央集権的な官僚制を整備し、律令制を完成させます。三省六部制という行政機関の役割分担とともに、その権限や責任が明確に規定されます。また、これらの官僚制を担う人材を科挙というペーパーテストで選抜しました。それ以前の漢民族王朝では、九品官人法という官吏登用制により、家柄に基づいて人材が登用されており、世襲の貴族政治が横行していました。隋はこうした人事の閉塞を打破するために、試験の結果によってのみ、人材を選抜する公正な制度を発案したのです。
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 遊牧民の共通の文化的特徴として挙げられる最大の点が実力主義です。定住生活をしない彼らは敵対部族との接触も頻繁であり、さまざまな状況に流動的に対処しなければならず、能力のある者が指導的な地位に選出されました。能力があれば、異民族でも受け入れて厚遇したのです。
 遊牧民の部隊は細かく分けられ、部隊長に現場での権限が振り分けられ、同時に責任も負わせます。刑罰がきわめて厳格に適応されるのも、遊牧民の特徴です。こうした権限と責任の明確化の中で、有能な人材がつねに輩出されていたことが彼らの強さの秘訣でした。遊牧民のこうした実力主義の伝統が漢民族の貴族政治を打ち壊し、科挙に基づく組織主義的な律令国家を形成していく基盤になります。
 また、遊牧民は土地に縛られることがないため、農耕民族のように所有権に執着することがありません。一部の人間が独占的に土地を囲い込み、富を蓄積させるようなことはなく、富の配分が均等になされました。
 北魏の時代に創始された均田制は隋や唐にも継承されましたが、この均田制に遊牧民の伝統的な特徴を見出すことができます。均田制により、富裕な貴族や豪族が領有していた大土地を取り上げ、民衆に均しく田を配り、民衆のための政策を推進し、一部の者の富の独占や所有権の固定化を許さなかったのです。遊牧民ならではの発想です。この均田制に基づいて、租庸調制、府兵制など唐の律令が固められていきます。
 隋や唐を建国した鮮卑族による、これらの社会統治の抜本的転換と律令体制の構築は、その後の中国の歴史を根底から規定するものであり、各王朝の統治体制の基礎となります。これは鮮卑族が築き上げたものであり、漢民族がつくったものではありません。漢民族には、このような高度な統治体制を構築する能力はありませんでした。
 漢は北方遊牧民の属国だった
 漢王朝の建国者の劉邦は、白登山の戦いで北方遊牧民匈奴に敗退し、屈服しました。漢王朝は大量の貢物と一族の娘を人質として匈奴に嫁がせることになります。漢王朝は50年間、匈奴の属国だったのです。最初の本格的な統一王朝の漢が北方遊牧民の属国としてスタートしたということは、その後の中国王朝の性格を表す象徴的な出来事でした。
 劉邦を屈服させた匈奴はモンゴル系民族とされますが、トルコ系民族とする見方もあります。はっきりとわかっていないことが多いものの、モンゴル系を中心にトルコ系も交ざっていたと見るのが実態に近いかと思います。匈奴の支配領域の中心部がモンゴル高原であったことからもそのことがうかがえます。
 モンゴル系はモンゴル高原(現在の内モンゴルモンゴル国、南ロシア)に居住し、トルコ系はその西方のモンゴル高原西部、アルタイ山脈沿いの地帯、カザフ草原タリム盆地に居住していました。つまり、この地域の遊牧民は東方のモンゴル系、西方のトルコ系に大別できます。匈奴は東方と西方の2つの領域に跨がっていた複合国家であり、民族や部族の名を示すものではありません。
 匈奴に続き、モンゴル系は古代から中世にかけて、北魏、遼、元を建国します。同じモンゴル系でも部族や居住領域が異なり、考え方も異なります。匈奴はかつてモンゴル高原全体を支配しましたが、その東部から鮮卑族が台頭し、匈奴は南方(現在の内モンゴル)へと追いやられ、最終的には鮮卑族に吸収されます。鮮卑族内モンゴル東部から満州西部に居住していました。匈奴漢民族と直接対立していたのに対して、鮮卑漢民族と連携することが多く、中国文化を受け入れていました。
 こうした伝統もあり、鮮卑北魏を建国した時、6代目孝文帝が徹底した中国化政策を行い、モンゴル人の文化・風習を捨て、漢字などの中国文化を取り入れ、漢民族との婚姻を進め、わずか100年で華北に侵入したモンゴル人は中国化されました。
 宋は契丹族の国の属国に
 遼を建国した契丹族鮮卑族から派生した亜種です。鮮卑族の居住エリアよりも東方の、遼東半島北部を流れる遼河水系上流のシラムレン川流域(現在の内モンゴル自治区東部)に居住していました。
 かつて契丹鮮卑突厥に従属していましたが、トルコ系の突厥モンゴル高原を去り、西方へ移動すると急速に勢力を拡大し、10世紀に満州からモンゴル高原に跨がる強大な王朝を建国します。さらに、唐滅亡後の中国の混乱に乗じて、万里の長城の内側の領域である燕雲十六州を獲得しています。また遼は宋に攻め入り、1004年、澶淵の盟を結び、宋に莫大な貢物を毎年送らせるよう約束させました。宋は事実上、遼の属国となります。
 しかし遼では、中国文化を受容しようとする親中派契丹の独自風習を守ろうとする保守派との間で派閥争いが続きます。この争いの結果、遼は華北漢民族に対して中国的な州県制で統治し、北方の遊牧民族を部族制で統治するという二重統治体制を敷き、折衷主義的な妥協策を採用しました。文字においても、彼ら独自の文字文化に漢字を取り入れ、折衷主義的な契丹文字を制定しました。
 しかし、遼は財力の豊富な宋により籠絡され、政権内部の親中派の数が増え続けます。いつの時代にも、カネで国を売る人間が政治の世界には蔓延るものです。こうして遼は腐敗していき、女真族の金により滅ぼされます。
 このように、中国史においては、北方遊牧民のダイナミックな動態が本流としてあり、漢民族はほとんどの時代において、その流れに抗うことができず、翻弄され続け、自らの足で立つことさえできなかったのです。」
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🎍40〕─1─清和・陽成・光孝の三代が日本史・平安時代の大転換点となった。~No.126No.127No.128 

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 天皇三代実録。
 第56代清和天皇
 第57代陽成天皇
 第58代光孝天皇
   ・   ・   ・   
 平安時代とは、朝廷が庶民に重税を課し貧困に追い込んで苦しめ、巨万の富を手にした皇族や公家達は贅沢に優雅に遊びながら暮らし、宮中では権謀術数を駆使した権力闘争が繰り返されていた、とは半分ウソである。
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 天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説。
   ・   ・   ・   
 2022年6月23日号 週刊新潮「夏裘冬扇  片山杜秀
 平安王朝衰退史 清和・陽成・光孝の巻
 源頼朝義経清和源氏清和天皇の孫が臣籍降下して源氏姓を名乗った。はて、清和天皇とは?第56代。父の文徳天皇崩御に伴い、平安2(858)年、9歳で即位。平安京に遷都して65年目のこと。翌年に平安は貞観(じょうがん)に。そこから日本は大変だった。貞観5年、咳逆(がいぎゃく)病が大流行。新型インフルエンザだろう。同年、越中・越後で大震。6年、富士山大噴火。同年と9年に阿蘇も噴火。10年、播磨・山城で大震。都も大揺れ。そして翌11年5月26日。東日本を大地震と大津波が襲う。規模も範囲も11年前の震災とダブる。翌6月には『貞観の入寇』。新羅の海賊が九州を荒らす。外敵侵入!朝廷は国防に大わらわになった。
 変事は続く。貞観13年に鳥海山大噴火。翌年には、渤海使が新型ウイルスを大陸から運んだらしく、またも咳逆病が大流行。太政大臣藤原良房もどうやらこの病で没した。それから4年後の貞観18年、清和天皇はまだ20代半ばだというのに退位。幼い皇子が陽成天皇となる。なぜかくも早く?儒教の天譴(てんけん)論に従って責任をとったのかもしれない。皇帝に徳が足りないと天罰が下り、地震や台風や疫病や外国勢力が襲うというのが天譴論。貞観はあまりに密にそうなった。天皇の立場はない。清和天皇は、諸国を巡り、苦行し、祈り、心身を追い詰め、31歳で崩御した。
 さて、清和から陽成に代替わりし、列島に平穏が戻ったか。違った。元慶2(878)年9月29日、マグニチュード7.4と推定される相模・武蔵地震が発生。規模も範囲もまるで関東大震災。元慶4年には出雲で巨大地震。さらに奇ッ怪事が!元慶8年2月、陽成天皇はまだハイティーンなのに突如退位。理由は不明。しかし、嵯峨源氏の系で、天皇の乳兄弟(ちきょうだい)にもなる源益が宮中で撲殺されたのと、退位の時期が連動する。天皇が事件に深く関わった説も有力だ。とにかく天皇家に何らかの乱れがあったらしい。
 陽成の後を継いだのは?清和天皇の叔父の光孝だ。『百人一首』でおなじみ。『君がため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ』と詠んだ天皇。即位したとき50代半ば。今度こそ日本は平和になったか。そうは問屋が卸さない。仁和3(887)年7月30日、仁和地震。近年の研究は、南海トラフ震源とする東海・東南海・南海の連鎖巨大地震であったと推定する。いちばん警戒されている地震が、その日に起きたらしい。都も揺れに揺れた。大きな余震が何十日も続く。その最中に何と天皇崩御。理由は伝わぬ。地震発生前は元気だったのに。清和同様、天譴論に苛まれてか。ともかくあまりに急。皇太子が居ない。しかも光孝の皇子はみな臣籍降下して源姓になっていた。その中のひとり、源定省が皇族に復帰して天皇に。宇多天皇という。例外も例外の緊急対応だ。今日風に言うと、旧宮家からまさかの皇族に復帰して即位したようなものだろう。
 20年と少しの間に、疫病に外国の侵略に宮中の混乱に、飢饉も富士山噴火も関東大震災もあった。東日本の大震災の18年後に南海トラフの大地震が起きた。三代の天皇のうち、ふたりは地震と関係するかのように崩御した。
 仁和地震の混乱の渦中で即位した宇多天皇は、菅原道真らを重用して皇威の回復に努める。が、清和以来の天譴乱れ打ち状態の前にはもう戻れに。藤原氏の力は強まるばかり。権力はいよいよ私(わたくし)され、天皇は、形骸化する。目立たぬが極めて重い日本史の大転換点であったろう。
 平成から令和へと、天変地異のことも人の世のことも、何だが妙に平仄(ひょうそく)が合うのが、とても気になるのです。」
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 朝日日本歴史人物事典「清和天皇」の解説
 清和天皇
 没年:元慶4.12.4(881.1.7)
 生年:嘉祥3(850)
 平安前期の天皇文徳天皇藤原良房の娘明子の子。名は惟仁。水尾帝とも。嘉祥3(850)年11月,兄の3親王(惟喬,惟条,惟彦)を超え,生後8カ月で皇太子に立てられるが,紀名虎の娘静子の生んだ惟喬親王については,その悲運がさまざまな伝承を生み,良房と名虎が相撲で勝負を決めた(『平家物語』)とか,それぞれ真言僧の真雅と真済に加持祈祷させた(『大鏡』『江談抄』)といった話が伝えられる。天安2(858)年8月,9歳というそれまでの天皇としては最年少で即位,これを後見した良房が事実上の摂政となった。しかし『貞観格式』の編纂など制度の整備や学問の振興には積極的にかかわっており,その治世が評価されている。貞観18(876)年11月,27歳で譲位,清和院(平安左京北辺四坊)に移ったが元慶3(879)年5月に出家(法諱は素真)してからは近畿の諸寺を巡礼し,酒や酢を断って精進生活を送った。藤原基経の粟田山荘(のち円覚寺に改む)で没。臨終の際,西方に向かって結跏趺坐し,定印を結んだまま往生したが,なお生きているようであったという。遺詔により山陵は作らず,火葬したが(左京区黒谷の金戒光明寺裏山に火葬塚があり,経塚と称される),生前自ら終焉の地と定めた嵯峨水尾山に葬られた。ちなみに『続拾遺往生伝』には,清和の前世が僧侶であったという話を収める。なお賜姓源氏のうち武士化した者は清和天皇の子孫に多い。(瀧浪貞子)
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「陽成天皇」の解説 
 陽成天皇 ようぜいてんのう
 (868―949)
 第57代天皇(在位876~884)。清和(せいわ)天皇第一皇子。母は藤原基経(もとつね)の妹高子(たかいこ)。諱(いみな)は貞明。藤原良房(よしふさ)の邸染殿第(そめどのだい)に生まれ、3か月にして皇太子となり、そのまま染殿第で育った。9歳で清和天皇の譲位を受けて即位し、基経が前代に引き続いて摂政(せっしょう)となった。しかしその後数年にして天皇は乱行多く、881年(元慶5)ころから基経と対立が続いた。883年には天皇の乳母(めのと)紀全子(きのまたこ)の産んだ源益(みなもとのみつ)を殺したり、馬を愛好して宮中でひそかに飼わしめるなどのことがあった。ここに至って天皇と基経との対立は極に達し、翌年2月天皇は自ら病気を理由に譲位した。陵墓は京都市左京区神楽岡(かぐらおか)東陵。 [福井俊彦
 『目崎徳衛著『平安王朝――その実力者たち』(1965・人物往来社)』
 小倉百人一首(13) 歌人陽成天皇(…
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「光孝天皇」の解説
 光孝天皇 こうこうてんのう
 (830―887)
 第58代天皇(在位884~887)。仁明(にんみょう)天皇第3皇子。母は従(じゅ)五位上紀伊守(きいのかみ)藤原総継(ふさつぐ)の女(むすめ)沢子(たくし)。諱(いみな)は時康。文徳(もんとく)、清和(せいわ)、陽成(ようぜい)の歴代3帝に仕え、一品式部卿(いっぽんしきぶきょう)となっていたが、宮中の乱脈粛正の意図をもって陽成天皇が廃されたあと、藤原基経(もとつね)の推挙により即位した。基経とは外戚(がいせき)関係になく、才識、人品を見込まれた擁立であり、基経の公正な態度に世人が感服したという。天皇は基経の推戴(すいたい)の功に報いるため、「奏すべき事、下すべき事、必ず先(ま)ず諮稟(しりん)せよ」との勅書を下し、関白の文字はないものの、事実上関白の職を命じた。皇嗣(こうし)についても基経にゆだねたが、基経は天皇の意をくみ、源定省(さだみ)(宇多(うだ)天皇)を推薦した。[森田 悌]
 小倉百人一首(15) 歌人光孝天皇
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 『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)は、日本の平安時代に編纂された歴史書六国史の第六にあたり、清和天皇陽成天皇光孝天皇の3代である天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間を扱う。延喜元年(901年)に成立。編者は藤原時平菅原道真、大蔵善行、三統理平など。編年体の漢文で書かれた。全50巻。
 編纂
 『日本三代実録』の序文によれば、本書の編纂は寛平5年(893年)頃、宇多天皇源能有藤原時平菅原道真、大蔵善行、三統理平に編纂を命じたことにより始まった。具体的な開始年には諸説ある。記された各人の官位からの推測では、寛平5年(893年)4月から寛平6年(894年)8月となる。『日本紀略』には寛平4年(892年)5月1日とあるが、この時期に関する同書の記述には誤記が多く、信頼度は高くないという。寛平9年(897年)に源能有が没し、翌898年に宇多天皇が譲位すると、編纂作業は中断した。
 次の醍醐天皇の勅を受けて編纂を再開し、事実上、延喜元年(901年)8月に完成した。途中、菅原道真が失脚して大宰府に左遷され、三統理平は転任して編纂から外れた。完成を報告したのは、藤原時平と大蔵善行の2人であった。編纂の実質的中心は、菅原道真と大蔵善行の2人と推測される。
 内容
 編集方針は「序」を示し、国家儀礼慶事、災異(災はウ冠の下に火)は全て載せるとしている。六国史の中で最も精緻な記述を持ち、後世の史書の規範となった。詔勅や表奏文を豊富に収録し、先例のできあがった慣行を記載するなど、読者たる官人の便宜を図った。節会や祭祀など年中行事の執行をも記す。
 現存する写本は、叙位任官や詔勅・上表の本文、薨卒に関する記述に脱文や省略が多い。これを誠実な態度の表れとみる者もいるが、その部分に編者が故意に隠した事実があるのではないかと疑う者もいる。江戸時代、松下見林や狩谷棭斎などが補訂作業を行った。
 巻15と、巻19から巻48、すなわち貞観10年(868年)と貞観13年(871年)1月から仁和元年(885年)12月には、ところどころ写本の省略箇所があり、全文が伝わらない。
 災害の記録
 29年間の記録の中で、地震は300以上記録されている。主な災害は以下に示す通り。
864年(貞観6年) - 駿河国甲斐国に被害を出した富士山の貞観大噴火
869年(貞観11年) - 陸奥国貞観地震肥後国の大風雨
887年(仁和3年) - 仁和地震南海トラフ巨大地震の一つ)
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 貞観地震の1100年前はどんな時代? 動乱に揺れた平安貴族
 2011/4/18
 869年の貞観地震津波東日本大震災と類似するという(写真は津波で壊滅的な被害を受けた宮城県女川町)
 東日本大震災と類似するとされる869年の貞観(じょうがん)地震津波貞観11年)。大地震平安京(現・京都)を舞台に都会的な貴族文化を享受していた人々の安全意識を一掃した。さらに政治面でも藤原氏中心の摂関制が確立されるなど貞観(859~877年)期は波乱の時代だった。
この時代は空海最澄らが中国から持ち帰った仏教文化が花開き「弘仁・貞観文化」と呼ばれる。中国の文学などを学ぶ紀伝道漢詩集の編さん、曼荼羅(まんだら)といった密教文化、豊満で神秘的な仏像などが特徴。仏教への帰依による安心感から「安全神話」も広がっていたという。
 官僚試験に「地震」の問題
 しかし、保立道久・東京大学史料編纂所教授は「9世紀は天地動乱の時代」と位置づける。若き菅原道真が受験した貞観12年の高等文官試験には「地震を論ぜよ」という問題があったほど。「前年の地震に対する朝廷の動揺の大きさが分かる」(保立氏)。
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 新・信長論、相次ぐ 目指したのは「東アジアの王」か
宗教面でも、「安心」を与える仏教とは異なる思想を誕生させた。保立氏によれば、「忌み」の思想と言われる神道が「火山・地震という自然の猛威を再認識した中で生まれた」という。
 政治の分野でも大きな変化が起こった。貞観8年の「応天門の変」だ。大内裏にあった応天門が焼失した事件で朝廷の権力争いが複雑に絡んでいく。犯人捜しは二転三転、真相は現在も不明だが、最後は名門・伴一族の失脚で決着した。ライバル氏族を朝廷から追放し藤原氏トップの良房が摂政の座に就き、藤原氏の政権独占が始まった。
富士山・阿蘇山が噴火
 自然災害も止まらなかった。貞観5年に越中越後(富山・新潟)地震。同6年には富士山が噴火し溶岩が流れ出て青木ケ原樹海の原型ができた。同10年には播磨(兵庫県)で地震。京都での体感地震も20回を超えた。
 同11年には貞観地震後に肥後(熊本県)・大和(奈良県)で地震が起きているという。この時期には阿蘇山鳥海山開聞岳の噴火のほかたびたびの疫病も記録されている。貞観3年には現在の福岡県直方市に「直方隕石(いんせき)」が落ちた。世界で最も古い落下記録のある隕石だ。
 貞観地震を研究・調査してきた産業技術総合研究所活断層地震研究センターの宍倉正展・海溝型地層履歴研究チーム長は東日本大震災を「貞観地震の再来」とし、東北地方の火山活動には今後も注意が必要と見る。ただ当時頻発したその他の地域の噴火には「相関性があるとは言い切れない」といい、過剰な反応は不要と話す。
 祇園祭の起源も
 ところで同5年には、初の朝廷主催による「御霊会(ごりょうえ)」が行われている。相次ぐ天災を受け、怨霊を鎮める祭りとして始まったものだ。疫病が流行すると民衆が主体の御霊会も頻繁になり、現在の祇園祭貞観期の祇園御霊会が始まりという。
    (電子整理部 松本治人)     
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 1100年前「貞観 地震」不気味な共通点-大地震・大津波後も続いた天災
 2011年05月19日13時22分
東日本大震災は「1000年に1度」の災害といわれるが、1100年前に同じような巨大地震があった。869年に起きた貞観地震である。「けさ単」コーナーで取り上げた。
 東日本大震災震源地・規模・被害そっくり
 平安時代の歴史書「日本三大実録」に記録が残されている。井上貴博アナが東日本大震災との共通点を上げる。①は震源地。ともに三陸沖。研究によれば、ごく近い場所という。②は規模。貞観地震マグニチュードは8.4以上と推定されている。東日本大震災はM9.0だった。③は被害者。貞観地震の死者は1000人といわれる。当時の日本の人口は500万人なので、今に換算すると2万人となる。
 ……
 その時の様子を「日本三大実録」は次のように伝える。現代文に直すと、「夜にもかかわらず、発光現象が起きて昼のように明るくなった。家の倒壊や地割れで生き埋めになり、多数の被害者が出た。荒れ狂う海は渦巻きながら膨張し、巨大な波はまたたくまに城下を襲った」(2011年5月18日の読売新聞を参考)
 今回の被害とそっくりではないか。さらに調べると、貞観地震の前後、日本各地で地震や噴火が頻繁に起きている。年表風にまとめてみると――
863年(6年前) 今の富山県から新潟県にかけ大地震
864年(5年前) 富士山、阿蘇山が噴火
868年(前年)  いまの兵庫県で大地震(M7以上)
869年貞観地震
871年(2年後) 鳥海山が噴火
878年(9年後) 関東地方で大地震
887年(18年後) 南海地震(M8.0~8.5)
 他の巨大地震や噴火誘発
 さて、これを今と比較するとどうか――。
1995年(16年前)阪神淡路大震災
2004年(7年前) 新潟県中越地震
2008年(3年前) 岩手宮城内陸地震
2009年(2年前) 浅間山噴火
2010年(昨年) 桜島噴火
2011年(今年) 新燃岳噴火
2011年(今年) 東日本大震災
 なんとも、不気味な類似である。今後どうなるのか。貞観地震の何年後かに噴火や大地震が続いている。産業技術総合研究所地震履歴研究チーム長の宍倉正展氏はこう話す。
 「大きな地震が火山や活断層を刺激し、他の地震や噴火を誘発する可能性はある。過去を詳しく調べることで、今後起こることを想定内にできるはず」
 実は、東京電力福島第1原発と第2原発について、専門家から「プレート間地震の検討において、869年貞観地震を考慮すべきではないか」と指摘を受け、回答した文書がある。2009年7月13日付の「コメント回答」で、「検討を行った結果、策定した基準地震動を下回る結果になった。しかし、今後も引き続き適宜必要な検討を行っていく所存」と回答している。
 今となってはどうしようもないことだが、「ここで何らかの対策を取れていたかもしれない。想定外を想定内にできたかもしれない」と井上アナ。
 司会のみのもんたとコメンテー
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 日本で発生する甚大な被害をもたらし夥しい犠牲者を出す自然災害・疫病・飢餓は、科学ではなく宗教とされ、神々が何らかの原因で和神から荒神に豹変して荒れ狂うからである、と考えられていた。
 その全ての厄災を自分の不徳が原因であると引き受け反省し謝罪の言葉を述べるのが、正統な天皇の最重要な役目だった。
 日本において、普遍的信仰宗教(キリスト教)の絶対神や科学至上主義のイデオロギー共産主義)は百害あって一利なしの無用の長物、ハッキリ言って有害であった。
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 仁徳天皇「私はすっかり富んだ。民が 貧しければ私も貧しい。民が豊なら私も豊ななのだ」(かまどの逸話)
 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。
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 その重責ゆえに、誰も天皇の代わりができない。
 それ故に、藤原氏、北条氏、足利氏、織田氏豊臣氏、徳川氏などの実力者は、天皇の地位を簒奪する事はしなかった。
 日本中心の民族神話で例えるなら、天皇は滅ぶる事のない・死ぬ事のない高天原天孫族の天つ神であり、実力者は何れは滅んで消える・死んで黄泉国に落ちる出雲系国つ神である。
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 国と世界の平和と繁栄、民草と全ての人々の安寧と幸せ、自然の平穏と厄災の鎮静を神々に祈る資格があるのは、日本に住む全ての人の中で唯一天皇だけである。
 日本に住む如何なる聖職者・宗教家、俗欲に塗れた政治家・役人、権威を持った学者・思想家では、不可能である。
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 天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇制度である。 
 天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
 現代日本の国民世論の90%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
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 日本民族が崇拝してきた八百万の神々が正統な神である事を保証しているのは、最高神・女性神の血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇の神性である。
 つまり、民族宗教、神話物語でる天皇神話である。
 近代の憲法や法律の宗教法人法が認定する神仏には、合憲・合法に基づいた正当性がっても、神性・神聖の正統性はない、つまり金儲けの為に作られたウソの神仏である。
 当然、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇には神仏を認め保証する神力はない。
 日本の八百万の神々は天皇家の祖先神である伊邪那岐命イザナギノミコト)と伊邪那岐命イザナミノミコト)から生まれた、それが天皇神話である。
 八百万の神々の正統な神性は、天皇神話は保証している。
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 現代の日本人は、昔の日本人・日本民族とは別人のような日本人である。
 戦後民主主義教育を受けた高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、特にマルクス主義者・共産主義者といわれる日本人の多くは民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいかない為に、日本民族の歴史・宗教・文化が嫌いである。
 現代の国際常識、世界正義は、男女平等、女性権利の向上、フェミニズムジェンダーで、正統性男系父系天皇制度は悪とされている。
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 日本の天皇制度は、閉じた王家として、即位する正統必須条件は、日本民族であり、民族宗教、神話物語で語られる最高神・女性神からの血筋を神聖不可侵の絶対根拠とする血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇家・皇室の家族・一族のみである。
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 神の裔・祭祀王の天皇が行う国事行為の「まつりごと(政)」とは、宮中祭祀の神々に祈りを捧げる事と、言霊・言挙げ文化で歌を詠む事であった。
 現代の反宗教無神論・科学万能思想を信奉する日本人には理解できない。
 まして、天皇否定、天皇制度廃絶の反天皇反民族反日本的日本人にはその能力がない。
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 歴史的事実として、中国人や朝鮮人は日本に逃げて来たが、日本人が中国や朝鮮に逃げ出した事例はない。
 多分、今後の日本では、多くの日本人が日本から中国、朝鮮、東南アジアあるいはアメリカ、オーストラリア、やカナダなどへ逃げ出す事になる。
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 中国人や朝鮮人は度々日本を襲撃したが、日本人が中国や朝鮮を襲撃した事はなかった。
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 日本は建国物語として、世界のいずれの国とも違い、特殊・特別で、1,神の民族神話、2,人類の文明発展・進化・進歩、3,人間の英雄伝説の3つを持っている。
 神の宗教的民族神話とは、古事記日本書紀を正統根拠とする天皇神話、つまり天皇の祖先である女性神最高神として崇める高天原神話・天孫降臨神話・諸神話である。
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 神代の民族固有神話を持っている国家や国民は、古代の古層を受け継ぐ日本以外に存在しない。
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 日本民族は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住んでいた。
 天皇家・皇室は、数千年前の弥生時代古墳時代に、内戦や争いを避け平和と安定を取り戻し、幸せと豊かさを求めたムラ論理で、古代の有力豪族達による長老者会議において衆議の結果として「天皇下駄論」・「天皇人身御供説」・「天皇生け贄説」で作られた、責任を押し付けて逃げるという無責任な生存論理である。
 その神聖不可侵の裁可者・天皇という地位を護る為に考え出されたのが、「政治的無答責の君主」、つまり政治権力も宗教権威も持たない天皇の権威つまり「天皇の御威光」である。
 祖先と国と民族に対して重い責任を負うのは、益荒男・日本男児の責務であって、手弱女・大和撫子ではなかった。
 故に、日本天皇は、最高神の女性神による民族神話、神話宗教、血筋・血統の家世襲万世一系で受け継ぐ事で正統性を与えられていた。
 民族神話で正統と認められた宗教的万世一系の男系父系天皇制度とは、いつ終わるか分からない弥生の大乱に辟易とした古代日本民族が、争いを避け、起きた争いを短期間で終わらせ、偽りでもいいから平穏無事を維持する為の歴史的叡智である。
 つまり、白黒を、善悪を、正邪を、ハッキリ区別しない為の宗教的正統な万世一系の男系父系天皇制度であった。
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 天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説とは、日本民族にとって面倒な事や厄介な事を困った事を「否応もなく」天皇と皇族に引き取って貰う事である。
 つまり、押し付けられる損な役回り・貧乏くじを嫌だと言わず拒否せず無条件に「引き受けて貰っている」、「やって貰っていただいている」、という事である。
 それが、天皇の御威光、天皇の権威、天皇の御稜威・大御心である。
 日本民族天皇・皇族・皇室を護ったのは、「責任逃れをする為に犠牲を強要していた」からである。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 徳川幕府は、目の見えない視力障害者・検校が行う高利貸しを保護していた。
 検校の中には、御家人株を買って子供を武士にし、上司や同輩に賄賂を贈っていた幕臣にしていた。
 百姓や町人も、金を使って武士の身分を手に入れ、才覚で町奉行勘定奉行などの役職について出世した。
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 数千年前の弥生時代古墳時代から、日本国・日本民族を1つにまとめている3つの力が存在している。
 1つ目が武力の政治権力、2つ目が経済力の宗教権威、3つ目が文化力=畏れの天皇の御威光・権威・御稜威・大御心であった。
 日本の歴史において、政治権力と宗教権威は人間の強欲・私欲・個人欲で栄枯盛衰を繰り返し目まぐるしく入れ替わっていたが、その中で文化力の天皇の御威光だけは変わらなかった。
 そんな文化力の天皇の御威光を滅ぼうと忍び寄ってきたのが、キリスト教の宗教とマルクス主義共産主義イデオロギーであった。
 そして、現代日本人は日本のグローバル化の為にローカルな日本の文化力をゴミのように捨てようとしている。
 反天皇反民族反文化的行動を行っている日本人の多くが高学歴な知的インテリや進歩的インテリ達である。
   ・   ・   ・   
 世界の王侯貴族は他国からの軍人征服者であったが、日本の天皇は民族の伝統・文化・宗教の権威者であり保護者であった。
   ・   ・   ・   
 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
   ・   ・   ・   
 日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
  地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教(啓示宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の甚大な被害をもたらす破壊的壊滅的自然災害は種類が多く、年中・季節に関係なく、昼夜に関係なく、日本列島のどこでも地形や条件に関係なく、同時多発的に複合的に起きる。
 それこそ、気が休まる暇がない程、生きた心地がない程であった。
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 仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
 神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
 神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 日本の宗教とは、人智・人力では如何とも抗し難い不可思議に対して畏れ敬い、平伏して崇める崇拝宗教である。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、科学、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本民族は、命を持って生きる為に生きてきた。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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 昭和・平成・令和の皇室は、和歌を詠む最高位の文系であると同時に生物を研究する世界的な理系である。
 武士は文武両道であったが、皇室は文系理系双系であった。
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 徳川家康は、実理を優先し、読書を奨励し、経験を重視し、計算の数学と理・工・農・医・薬などの理系の実利で平和な江戸時代を築いた。
 が、馬車や大型帆船は便利で富をもたらすが同時に戦争に繋がる恐れのあるとして禁止し、江戸を守る為に大井川での架橋と渡船を禁止した。
 つまり、平和の為に利便性を捨てて不便を受け入れ、豊よりも慎ましい貧しさを甘受した。
 それが、「金儲けは卑しい事」という修身道徳であったが、結果的に貧しさが悲惨や悲劇を生んだ。
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 日本で成功し金持ちになり出世するには、才能・能力・実力が必要であった。
 日本で生きるのは、運しだいであった。
 日本の運や幸運とは、決定事項として与えられる運命や宿命ではなく、結果を予想して自分の努力・活力で切り開く事であった。
 それは、自力というより、神か仏か分からない他者による後押しという他力に近い。
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 左翼・左派・ネットサハ、右翼・右派・ネットウハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者には、日本民族ではない日本人が数多く含まれている。
 彼らには、数万年前の石器時代縄文時代と数千年前の弥生時代古墳時代から受け継いできた日本民族固有の歴史・文化・伝統・宗教はない。
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 日本の自然は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境を生きてきた。
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 日本民族は、石器時代縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
 それ故に、狂ったように祭りを繰り返して、酒を飲み、謡い、踊り、笑い、嬉しくて泣き、悲しくて泣き、怒って喧嘩をし、今この時の命を実感しながら陽気に生きていた。
 「自分がやらなければ始まらない」それが、粋でいなせな江戸っ子堅気の生き様であった。
 江戸時代は、自助努力のブラック社会であった。
 田代俊孝(仁愛大学学長)「『人は死ぬ』という厳然たる事実を、誰しも普段の生活では見て見ぬふりをしているものです。しかし、自分がいずれは『死すべき身』だということを意識すれば現在の生への感謝が生まれ、生きる気力が湧いてくる。つまり天命、死というものを知ることによって人生観が変わる。祖父母、父母、そして自分と、連綿と続く流れのなかで思いがけず命をいただいたのだ、と気づくのです」
 植島敬司(宗教人類学者)「人生は自分で決められることばからりではありません。不確定だからこそ素晴らしいのです。わからないなりに自分がどこまでやれるのか、やりたいことを追求できるのかが大事で、それが人生の豊かさにつながるのだと思います」
 平井正修(全生庵住職)「コロナ禍に襲われるずっと以前から人類は病に悩まされてきました。病気やケガで自由な身体が動かなくなり、人に介抱してもらうと、当たり前のことのあるがたさに気づきます。何を当たり前として生きていくのか、それは人生でとても大切なことであり、すべての人に起こる究極の当たり前が、死なのです」
 「現代では死というものが過剰に重たく受け止められていますが、そもそも死はもっと身近にあるものです。考えようによっては、現世に生きているいまのほうが自分の仮初(かりそめ)の姿とさえ言える。
 最終的には、誰もが同じところへと生きます。みんなが辿る同じ道を、自分も通るだけ。そう思えば、死も恐れるものではありません」
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☲10〕─3─済州島・朝鮮人海女達の日本人悪徳業者排除デモ行進。海士潜女神社。昭和7年1月。~No.23No.24No.25 ⑤ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 水に潜る・素潜りといっても、川潜りと海潜りでは違う。
 泳ぐのと潜るのとは違う。
 大陸人は、川を泳いでも海を潜らない。
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 2022年6月15日 MicrosoftNews 東京新聞「 国際 知られざる韓国済州島の海女抗日運動から90年 日本の官製企業や漁協が搾取、海女の手取りは20%
 貝類や海藻を素潜りで採る「海女あま」が存在するのは、世界中で日本と韓国だけとされる。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録された韓国南部・済州島チェジュドの海女は有名だが、日本植民地時代の1932年に起きた「海女抗日運動」の認知度は高くない。90周年にあたる今年、現地で関連の展示や調査研究が活発化している。(済州島で、相坂穣、写真も)
◆のべ1万7000人以上、200回以上のデモ
 済州島中心市街地から東へ約35キロの海沿いの公園に、漁で使うカマや網を手にし、怒りの表情を見せる海女たちの像が立つ。地元の集落で、海女が決起したことを伝える「抗日運動記念塔」だ。
 海女抗日運動を伝える済州島の記念塔
 公園内にある済州海女博物館が今夏、90周年記念の特別展の開催を予定。夫龍植プヨンシク館長が「抑圧と搾取の対象だった済州女性が、新しい社会に変えるために闘った民衆抗争を知ってほしい」と準備を進める。済州出身で戦前に日本に渡った社会主義運動家、玄尚好ヒョンサンホ氏(1914〜71年)が執筆し、50年に発表した論文「済州島海女闘争の史実」の検証作業が展示の目玉になるという。
 済州海女博物館で4月、抗日運動90周年の特別展の準備を進める夫龍植館長
 海女たちの怒りの原因は、アワビやサザエ、テングサなどの漁獲物を日本の官製企業である「朝鮮海藻株式会社」を通じて販売させられていたことだった。売り上げの50%を同社に搾取され、日本から派遣された島司(知事に相当)が組合長を務める漁業組合に手数料名目で18%を徴収された。舟代などの経費を払うと、手取りは20%ほどしか残らなかったとされる。
 32年1月7日、300人の海女が市場に集まり、済州中心部に向けてデモ行進を開始。5日後の12日には、島司を乗せた車を600人以上で包囲し、未成年と40歳以上の海女の組合費免除や日本人悪徳業者の排除などを要求した。鎮圧に乗り出した武装警察官に、30人以上が逮捕され、拷問を受けたとされるが、延べ1万7000人以上が、200回以上のデモを続行。日本側に大部分の要求を受け入れさせたという。
 「済州記録文化研究所—HAGAN」の高暎子コヨンジャ所長(文学博士)は、「90年がたっても、発掘できる資料がある。外国語で書かれた文献なども翻訳し、海女たちが生存権を懸けた闘争について正確に知りたい」と語る。
 戦後に2万人いたとされる済州の海女は現在3000人台まで減ったが、70〜90代の女性らへのインタビューなど記録作業にも取り組んでいる。
   ◇   ◇
◆バブル期まで続いた搾取…大阪公立大・伊地知紀子教授に聞く
 大阪公立大の伊地知紀子教授は、1994年と97年に済州島の海女の家庭に住み込むフィールドワークをして以来30年近く、海女文化を研究してきた。現代の日本の市民が、抗日運動をどう考えれば良いかを語ってもらった。
 済州の女性に海女の仕事を見習う大阪公立大の伊地知紀子教授(右)=本人提供
 32年の抗日運動だけではなく、それ以前から現在までを通して見る必要がある。まず19世紀後半に日本の漁業者が朝鮮の海に進出した。素潜りではなく宇宙服のような潜水服を着て、アワビなどを缶詰用に採集した。20世紀に入ると日露戦争も起き、済州で火薬や医薬品の原料になるテングサなどの海藻類を採るために、地元の海女が動員された。日本人の海女に比べると、3分の1ほどの賃金で搾取された。済州の海は乱獲で荒れてしまい、海女たちは関西や三重など大日本帝国の勢力圏である各地に出稼ぎに向かった。
 戦後も、日本に就労ビザを持たずに不法に出稼ぎする海女は多くいた。90年前後のバブル期に、サザエなど高級グルメ食材の消費が増えた際も、済州の海女は低賃金で働いた。最近まで、植民地主義的な支配構造、搾取が継続されてきたことにも注目したい。
 【関連記事】産業「慰安所」の真実に光 戦時下の日本に存在、「国策としての性搾取、軍と同じ」
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 揚子江流域で盛んに行われていた海の素潜り漁を東アジア沿岸に広めたのは、海を手漕ぎの丸木舟を漕いで行き来していたヤポネシア人であった。
 ヤポネシア人(石器人)とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血の雑種である。
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2019-10-10
🗾31〕─1─素潜りの南方系海人。鵜飼と稲作の倭人。太平洋沿岸の根明な黒潮文化。日本海沿岸の根暗な対馬暖流文化。~No.140No.141No.142 * 
 2016年6月18日号 週刊現代「アースダイバー 中沢新一
 神社編
 古層Ⅱ 倭人
 アズミの神道(20)
 アースダイバーと旅して(1)
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 海女(朝鮮語: 해녀:ヘニョ、英語: Haenyo)は、大韓民国(韓国)において、海に潜って貝類や海藻を採集する漁をする女性である。
 概要
 済州島が韓国では最も海女登録者が多い。済州島での素潜り漁の記録は5世紀に遡るとの主張があり、その当初は男性の仕事であったとされる。朝鮮半島の女性による素潜り漁が一般化したのは17世紀に入ってからであり、18世紀には男性の海人を上回ったとされる。1879年に日本海女による朝鮮半島沿岸への出漁が始まっていたが、1895年には済州島海女も朝鮮本土へ進出、やがて出稼ぎ先は中国・ロシア沿海州・日本へと広がった。1970年には14000人を超えたが、高齢化で年々減少、2012年末で4574人となった。8割が60歳以上であり、男性の海人を含む潜水漁業従事者の所得向上や操業環境改善が計画されている。済州島の海女は三重県鳥羽市や石川県輪島市の海女を訪ねる日韓交流を続けており、また三重県の海女が済州島海女の祭典に参加したことが伝えられている。
 済州海女文化には、海女の技術をはじめ海の生態環境に適応して蓄積された長い経験や知識、海女の安全を祈願する儀礼などが含まれるとして、2012年に韓国の無形遺産として登録された。さらに、済州島を中心とする海女文化は韓国の代表的な無形遺産であるとして、韓国政府は2013年12月、国連教育科学文化機関無形文化遺産への登録を申請することを決め、2016年に登録。さらに国連食糧農業機関による世界農業遺産への登録も目指している。2015年の韓国のSBSスペシャルは韓国の海女の認識は過去の男性が主な経済社会活動の階層であった時代から学びと経済活動の機会がなかった女性の唯一の経済活動だったと認識されている一方、日本では海女を職業として見ることができると報道している。番組では経済的待遇でも日本に出稼ぎに行った海女は1日二時間の労働で500万ウォン収入の一方、韓国国内のみでは20万ウォンしか稼げないという現実から海女の認識と待遇が両国であまりにも違うとの韓国人海女の声を伝えている。
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 公益財団法人 フォーリン・プレスセンター
 日本と韓国が共有する「海女の歴史・文化」をユネスコ世界無形遺産に!(2012年12月25日)
 投稿日 : 2012年12月25日
 【ウォッチ・ジャパン・なう vol.35/FPCJ】
 2012年12月25日
 日本と韓国が共有する「海女の歴史・文化」をユネスコ世界無形遺産に!
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 世界経済フォーラムダボス会議)が発表した2012年の「グローバル・ジェンダー・ギャップ・レポート(世界男女格差年次報告書)」によると、世界135カ国の中で、日本は経済的男女格差が101位、昨年の98位から3位下がりました。男女雇用機会均等法が施行されて四半世紀が過ぎたにも拘らず、日本の女性の地位向上はいまだ進んでいません。その均等法施行後の1990年、 バブル景気を背景に経済的・精神的に自立して生きようとする20~30代の女性のリアルな生態を描いたノンフィクション「結婚しないかもしれない症候群」がベストセラーとなりました。その著者である作家の谷村志穂さんは、現在、三重県志摩半島を舞台に「海女」を主人公とする連載小説「いそぶえ」を執筆中です。「目の前に海があれば、身一つでできる生業。海を越えて(海外で)もできる。現代社会での自立を目指す女性にとって、特筆すべき生き方だと思います」
 からだ一つで海に潜り、魚介類や海藻を採取する女性の職業「海女」は、日本列島と済州島を中心とする韓国のみに存在し、少なくとも5000年の歴史をもつと言われています。しかし、高齢化と若い後継者不足により、海女の職に従事する人の数が年々減っており、その存続が危ぶまれるようになってきました。現在、日本では、三重県、石川県(輪島)、千葉県、静岡県をはじめとする18県に2174人(2010年 海の博物館調査)、40年前と比べて6分の1に減少しました。韓国は、済州島、釜山、泰安(テアン)などに4881人(2011年)、やはり約40年で5分の1となりました。
 三重県では今、973人が海女として働いています。その中の一人、鳥羽答志島出身の濱口ちづるさんは21歳の娘さんをもつお母さん、海女として16年のキャリアを持ちます。海に潜るのは一年のうち6月末から9月中旬の間の20日程度、主にアワビを採ります。「子どもの頃から遊んでいた海で、自分のペースで働き、自然のままに生きることを学んでいます」と語る濱口さんは7名いる地域の海女グループでは最年少、仕事の手練手管を教えてくれる82歳を筆頭とする先輩たちとのおしゃべりが「日々の成長の糧」となっています。東京でデザイン関係の仕事をしていた鈴木直美さんは4年前に転身、漁業権など外部の人間にとっての複雑な問題をクリアして千葉県白浜で海女として働き始めました。
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 写真:左から、
 濱口さん(鳥羽の海女さん)、
 海の博物館 石原館長、
 鈴木さん(千葉白浜の海女さん)
 (11月30日 多くのひとに「海女文化」を伝えるためのフォーラムにて)
 2007年から、韓国済州島の「海女博物館」と三重県鳥羽市の「海の博物館」が連携し、日韓両国に脈々と続いてきた海女漁とその文化を東アジアの価値ある資源と位置づけて、ユネスコ無形文化遺産への登録を目指す取り組みが始まりました。今年6月には三重県鳥羽市志摩市、漁業協同組合などの関係団体により「海女振興協議会」が設立され、日本側の中心的存在となっています。同会会長の「海の博物館」石原義剛 館長はその旗振り役、「海女文化は日韓が共有する海洋文化、しかもごく普通に働き暮らす人々の文化を存続、継承していかねばならない」との決意の下、精力的に活動しています。海女は、古来から自立した女性の職業であり、漁獲資源を獲り過ぎないよう守ってきた自然保護の実践者であり、更には漁村共同体の要=絆である、と訴えています。
 韓国の海女「潜女(ジャンニョ、済州の方言)」の海洋文化を研究する韓国海洋大学の安美貞(アン ミジョン)教授は、済州島「海女博物館」での韓日国際学術会議の開催が、済州と鳥羽市の国境を越えた地域ネットワーク形成の端緒となったとし、海女のような潜水漁法に基づいた海洋文化は国境に閉じ込められていない海洋文化であると言います。実際に、昔から、済州の潜女は韓国各地や日本の対馬や静岡に出稼ぎに、日本からは明治維新後、対外進出を図る国策に乗って志摩の海女が出稼ぎに赴いた(三重大学 塚本明教授)とされています。「海女文化」の世界遺産登録に向けた活動を通じて、安教授は、海女文化を各国の伝統・民族文化としてだけでなく、グローバル化の中の潜水漁業の観点から東アジアの「海洋文化」として捉え、そこに人類の普遍的な価値を見出し共有していきたいとしています。
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 今年夏以降、日韓関係は領土問題を巡って何度か緊張した局面を迎えましたが、7月の韓国ヨス万博、9月の済州島での第5回海女祝祭、10月の三重県志摩での海女さん大交流会などの催事は両国の関係者間の往来も途絶えることなく無事に開催されました。来年は、石川県輪島で海女サミット、10月には済州島で海女祝祭が開かれる予定です。日本と韓国の海女さんの交流は、彼女らの職場である海での紛争にも動じず、穏やかに着実に続いています。2002年サッカーワールドカップ日韓共催が実現してから、両国の交流は若者文化を中心に新たな方向に展開してきました。そして今「海女文化」の世界無形登録に向けた活動を通じて、古来より自然と共生し、環境と地域共同体を守る海女という「普通の人々の文化」を東アジアの海洋文化として、絶やすことなく未来につないで行くことは、日韓両国の多様で多重な歴史・文化の交流を世界で共有することにつながると思われます。
 日本全国の海女さんと韓国済州の海女さん
 *写真提供: 志摩市役所 商工観光部 観光戦略室
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 <関連リンク>
 海の博物館(三重県鳥羽市) http://www.umihaku.com
 三重県鳥羽市観光情報サイト(伊勢志摩国立公園)  http://www.tobakanko.jp/index.php
 「恋する鳥羽」ホームページ http://www.koitoba.com/enquete.php
 「恋する鳥羽」Facebook https://www.facebook.com/koitoba
 「恋する鳥羽」Twitter @koitoba
 三重県志摩市 http://www.city.shima.mie.jp/
 志摩市役所 商工観光部 観光戦略室Facebookページ
 三重県 http://www.pref.mie.lg.jp/index.shtm
 (Copyright 2012 Foreign Press Center/Japan)
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 おでかけ
 日本一海女が多い町へ!海と共に生きる文化と歴史に触れる旅【三重・鳥羽】
おでかけ 2020年9月11日 TABIZINE
 現役の海女(あま)が日本で最も多いという三重県鳥羽市相差(おうさつ)町。彼女たちとお話しできる「海女小屋」があると知り、急に興味がわいて旅行ついでに立ち寄ってみました。周辺には資料館や海女の信仰を集めるパワースポットの神社、ショップ、カフェなど、海女ゆかりのスポットが満載です!海女文化に触れる旅をしてみませんか?
 海女とは、海に潜って貝類や海藻を採集する漁を職業とする女性のことです。アワビとサザエを中心に、イワガキなどの貝類、ワカメやアラメなどの海藻類、イセエビ、ナマコ、ウニなどもとります。テレビドラマ「あまちゃん」や三島由紀夫の小説『潮騒』などの作品で記憶に残っている人も多いかもしれませんね。
 古くは『魏志倭人伝』や『古事記』にもその存在を確認できるという、歴史ある生業です。志摩半島の縄文・弥生時代の遺跡から、アワビオコシという道具が出土されているので、3,000年以上に渡り海女文化が継承されていることがわかります。
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 日本人は、聖人君主ではなく俗物の小人であり、武士ではなく庶民である。
 それ故に、いい日本人は2割と少なく、悪い日本人は3割と多く、残りの5割は悪い事をしなければいい事もしない無関心で我関せずの日本人である。
 日本人悪徳業者は、朝鮮人や台湾人だけではなく日本人さえも食いもにし、搾取し、命令に従わなければ右翼やヤクザを使って暴力を振るって虐げていた。
 日本は、何時の時代でも悲惨なブラック社会であってバラ色の明るい社会ではなかった。
 それは、現代日本でも変わらず同じである。
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 海士潜女神社(あまかづきめじんじゃ、あまくぐりめじんじゃ)は、三重県鳥羽市国崎町字鎧崎にある神社である。近代社格制度に基づく旧社格は村社。1869年(明治2年)までは海士御前(あまごぜん)と称した。
 伊勢神宮が所管する神社ではないが、伊勢神宮と深い関係を持つ。伝説の海女お弁を祀り、海女の厚い信仰を集める。
 神社の概要
 本殿は木造神明造、拝殿は木造流造で、瑞垣を有する。ほかに鳥居と常夜灯を2基ずつ備え、平屋建の社務所がある。境内は920坪(≒3,041m2)。
 主祭神は潜女神(かづきめのかみ)である。潜女神は伝説の海女、海女の始祖と言われるお弁のことであり、めまい除け、トモカヅキよけにご利益があるとされる。このため、地元の海女だけでなく、日本中のダイバーの信仰も集める。
 歴史
 垂仁天皇26年(紀元前4年)、倭姫命伊勢神宮への御贄地を求めて諸国を巡幸し、国崎を訪れた。そこで海女のお弁からアワビを献上され、美味であったことから伊勢神宮へ奉納するように言った。アワビは日持ちさせるために熨斗(のし)あわびに加工して伊勢神宮へ奉納された。その後国崎は伊勢神宮の神戸に選定された。外宮旧神楽歌に「ひめ社」として歌われている。1869年(明治2年)に海士御前から海士潜女神社に改称される。
 1906年明治39年)に14社を、翌1907年(明治40年)に3社を合祀した。翌1908年(明治41年)には専任の禰宜が置かれ、それまで祭祀を司っていた「御祭家」は役目を終えた。
 被合祀社
 海士潜女神社は以下の17社を合祀している。いずれも旧社格無格社であった。
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 熨斗あわび
 海女の発祥の地
 国崎神戸
 海女発祥の地国崎・海女の祖を祭る海士潜女神社(あまかずきめじんじゃ)
海士潜女神社(あまかずきめじんじゃ)
 海女の祖、倭姫の命に鰒を献上した伝説の海女『おべん』を祀るのがこの神社。祭神は潜女神、猿田彦神ほか26柱。昔から国崎の祭りごとの中心です。
 年の初めの漁が始まる前に海女達は必ずここを訪れ
一年の無事と大漁を祈願します。トモカズキメと呼ばれる海の魔物除け、潜水中作業中のめまい除けにご利益があるなど、最近では、ダイバーなど海に潜ることを仕事をされている方や趣味でダイビングをされている方々の参拝もあります。
 ※潜女(かつぎめ)は海女のこと
海士潜女神社例大祭
 伊勢神宮への献上を二千年以上受け継いできた国崎の祖先と、鰒をはじめとする豊富な魚介類を育んできた海へ感謝する祭りです。毎年7月1日には伊勢神宮より楽師と舞姫が来町し、舞楽奉納が行われます。
 多くの海女伝説や民話が語り継がれる海女のふるさと国崎
 海女の祖 おべんさん
 国崎の歴史は古く、倭姫の命(やまとひめのみこと)が国崎を訪れた際に、海女『おべん』から鰒を差し出され、そのあまりの美味しさに感動。それ以来、伊勢神宮に献上するように命じられたのが始まりとされます。
 おべんさんは海女の元祖ともいわれ、今でも 年初めの漁が始まる前に海女たちは必ず、『おべん』を祀る海士潜女神社を訪れ、一年の無事と大漁を祈願します。
◇写真は伝説の海女“おべん”の子孫の辻さん
 ※「あわび」は一般的には「鮑」、「蚫」と書きますが、神宮では『延喜式』に則って「鰒」と書きます。
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 発祥の地コレクション
 海女発祥の地 鐘崎
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 調査: 2015年06月28日(写真 福岡神社参拝帳)
 2018年1月14日 公開
 福岡県 織幡神社(宗像市鐘崎)境内にはいろいろな石像等が並べられているが、その中に、筑前鐘崎海女の像と題された石像がある。海女の装束を纏った女性像であり、その足元には海女発祥の地を示す石板が設置されている。
 鐘崎は、魏志倭人伝でも伝わる頃からとくに漁が上手だったということだが、漁場が狭く、次第に出稼ぎに出るようになり、五島列島対馬壱岐朝鮮半島から、輪島・舳倉島までの日本海の広範に広がったといわれている。そして各地で漁を教え、住みついていき、江戸時代には300人ほどいた海女も、大正には200人、戦前で100人あまり、戦後は30人足らずと衰退してしまった。
 しかしこのことから、日本海の海女の発祥の地と呼ばれた。
 宗像市民俗資料館には詳しい資料がそろっていた(予備.zip)ということだが、2010(平成22)年に閉館した。
 志賀島には、いくつかの万葉碑が建てられており、鐘崎周辺の海女について詠い込まれている。
 【リンク】福岡県神社巡り 福岡神社参拝帳、宗像むなかた市、広島ぶらり散歩・別冊
地図は、碑の場所ではなく神社を指し示しています。
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(目次)。個人情報関連緊急告知・No.2。補足・No.1、No.2。 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 当「nisikiyama2-14(栗山正博)」は、無料公開ブログですが、ひとり孤独に作成している有料ブログです。
 掲載記事の8割近くは、雑誌、新聞、Microsoft・News、ウィキペディア、インターネット・ニュース、インターネット・情報、その他、手に入る情報からのコピペ、つまり他人の説・論・話を集めてまぜこぜにしてした「練り物記事」に過ぎず、公開されている情報を無許可で掲載している「違法性のある如何わしい」記事で、作成者のオリジナル性は乏しい。
 そして、作成者は素人で専門家ではなく、深い考えのないまま興味本位で作成しています。
 その時の思い付きで書き殴り、読み返すいとまもなく、よって訂正・修正する事なく先へと暴走している為に誤字脱字、思い違いが各所に多く存在します。
 詳しくはプロフィールに。
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 緊急告知・No.2
 当ブログ作成者は来年2月に65歳で定年退職となり無職となります、人生100年時代を生きる為に再就職先を探しますが、運良く給料と就労時間の良い条件で再就職ができたとしても実際は忙しく仕事に追われてブログ作成の時間が得られないかもしれず、運悪く再就職ができなければ僅かな年金収入では高額な有料ブログを維持できなくなります。
 また、幾つかの持病を持つ身であり健康面にも不安を抱えていますので、今後ともブログ作成を続ける気力を保てるのかも分かりません。
 よって、6つのブログの中で1つでも新しい記事が、半月以上追加されない時は作成不能状態で、1ヵ月以上ない時は絶望状態で、3カ月以上ない時は死亡して終了と思って下さい。
 また、当ブログは有料ブログですので2~3年分の入金を絶やさずにしていますが、ブログ作成者の不慮の死により入金できなくなれば何年後にはブログ記事は崩壊します、どう崩壊するかは分かりませんが、後継者も共同作成者もいませんのであしからず。
 所詮は、家族なし、子供なしで、蛍光灯の下でひとり孤独と無縁でブログを作成している老人です。
 運良く新しい仕事が見つかりますように、神頼み。
 ブログは死ぬその時まで続けたいと思います。
 当ブログが、日本国と日本民族の役に立ちますように、心から願っています。
                   令和3年10月8日
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 補足2
 退職して約2カ月、65歳の壁、体力・気力に関する厳しい求人条件にもう阻まれ、依然として仕事が決まらず貯金を取り崩しながら再就職先を探しています。
 この間、訪問マッサージを経験したのですが、担当する患者さんは1日7人・8人と少なかったが、移動距離が半端なく電動アシスト自転車で1日20~30キロ。
 さすがに、体力、脚力の限界を感じて断念しました。
 筋肉の過度な運動による、筋肉痛、筋肉疲労、筋肉痙攣、他。
 訪問マッサージは、事務所を8時半ごろ出発し、9時から16時か17時ごろまで走り廻り、17時か17時半には事務所に帰り、19時までに施術を行った全ての患者さんの日誌を書き、その後全体ミーティングで院長が日報を読みその健康情報をから今後の治療方針を決め、全員が情報を共有し、20時まで医療知識と技量のレベルアップの為の勉強会を行った。
 そして、部屋に帰り着くのが21時半ごろ。
 わずか10日、実働7日間、歳にはかなわない事を痛感させられた。
 今、ブログを書きながらできる仕事を探しています。 
 給料も大事ですが、やはり優先すべきはブログ制作だと心に決めています。
 何とか、ブログを続ける条件での新しい仕事を見つめます。
 安易な気持ちではないのですが、「あと5年」何処かに良い仕事がないものか、と。
 65歳の梅雨空あるいは夕空を見上げて、悲しく空しいほどにせつない。
 しんどい。しんどい。
                平成4年6月9日
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 補足1
 職場が令和4年3月31日に別の場所へと規模を縮小して移転する事になり、職員の人員整理が行われ、ブログ作成者も解雇になり無職となります。
 ひっそりとブログを作成するには良い職場でしたが、残念です。
 失業が確定した今、再就職先を探しています。
 今年65歳になって年金受給世代になったのですが、年金だけでは老後生活が苦しく、その上、資料を買い漁り有料ブログを維持すると老後資金を圧迫するので、老後とブログの二頭の資金を稼ぐ為に何らかの仕事を見つけるしかありません。
 このご時世、今までのようにブログを作成しながら金を稼げる、そんな都合の良い職場はそうそうなく、その為に今後のブログ作成は今までのようには続けられなくなる可能性があります。
 何歳まで生きられるかわかりませんが、差し当たって70歳までの5年間働いて資金を貯める必要があます。
 運良く、好条件の職場に再就職できればよく、運悪く、条件が悪い職場であれば今までのようにブログを作成できなくなる可能性があります。
 そのさいはご理解をお願いします。
                  令和4年1月18日
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