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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本軍 陸軍人員 10,400名。増援 2,500名。海軍人員 1,947名。
戦死・戦病死 10,000名以上。生還者 520名。
アメリカ軍 30,000名。
戦死 471名。戦傷 2,433名。戦病 7,200名。
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軍国日本にとって太平洋戦争は四面楚歌の戦いであり、前門に虎(アメリカ軍などの連合軍)、後門に狼(ソ連・共産主義勢力)がいて、獅子身中の虫(朝鮮人・中国人)が存在していた。
日本人であれば兵士はもちろん一般人さえも、アジアや太平洋で絶望的な戦闘で倒れ、敗走して餓死や病死で屍を山野に晒していた。
逃げた日本国籍所有朝鮮人達。
日本国籍を持つ戦死者は、靖国神社の祭神として祀られている。
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2026年3月13日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「ペリリュー以上の地獄…!まさかの「戦死率96.1%」、日米戦争が集約された「ビアク島」の「過酷すぎる戦場」と「悲劇」
潮書房光人新社
戦死率96.1%――。太平洋戦争中、地獄と称されたガダルカナル島やペリリュー島よりも過酷な戦場といわれた「ビアク島」をご存じだろうか。日本から南に約4000キロ以上離れた赤道直下のジャングルに覆われた島での戦闘で、ニューギニア戦線の一つ。一時は善戦健闘をみせた日本軍守備隊も補給路が閉ざされ、やがて病気や飢餓などで大半が命を落とした。戦後の遺骨収集も遅々として進んでいない。そんなビアク島での戦闘を描き切った「(新装版)玉砕ビアク島」(田村洋三著、光人社NF文庫)が話題になっている。なぜ戦死率がこれほど上がったのか。指揮官たちは何を誤ったのか。同書から一部抜粋・再構成してお届けする。
ペリリュー以上の地獄…! まさかの「戦死率96.1%」、日米戦争が集約された「ビアク島」の”過酷すぎる戦場”と”悲劇”
© 現代ビジネス
地獄のニューギニア作戦、2000人が山中に行き倒れ
(日本軍輸送船団が壊滅させられた)“ダンピールの悲劇”に打ちひしがれた第五十一師団はラバウルで再起を計り、一ヵ月後、舟艇や駆逐艦輸送でラエ、サラモアに上陸した。兵力は第二十、第四十一両師団からの増援部隊を加えて約一万人だったが、相次ぐ空襲、マラリア、赤痢、食糧不足が重なって、戦闘に耐えうる者は二千五百八十人にすぎなかった。
その弱小兵力を包囲して、百倍の火力を持つ米豪連合軍の二個師団、二個旅団、一個連隊が襲いかかった。八月、師団の戦死、戦病死者は千六百人に達し、ラエ、サラモアの命運は尽きた。中野第五十一師団長は玉砕を覚悟したが、安達第十八軍司令官は撤退を命令、マダンの第二十師団にフィンシハーフェンまで約四百キロを踏破しての増援を命じた。
第五十一師団の残存将兵約八千四百人は四千メートル級のサラワケット山系を越え、北岸のキヤリまで百キロの山岳撤退を強行した。熱帯とはいえ、富士山より高い山である。寒さと飢えと疲労で途中、約二千人が山中に行き倒れた。
ニューギニア戦は敵との戦闘のほかに、飢えと病魔と長行軍とも戦わねばならない四重苦の戦いだった。そして連合軍の猛攻に追われての四重苦は、さらに続く。
連合軍は九月、フィンシハーフェンに上陸、兵力の約半分・六千人を失った第二十師団は、キヤリで第五十一師団と合流、またもや西約三百キロのマダンまで二千~三千メートル級のフェニステル山脈縦断の途につき、途中約四千人が死亡した。
さらに連合軍は四四年一月、マダン方面に上陸、三たび第五十一師団はマダンから北西三百キロのウエワクへ、第二十師団は同四百八十キロのアイタペへ、第四十一師団はウエワクの東百キロのハンサへと歩き、やがてさらにホーランジャ(現・ジャヤプラ)まで七百キロの死の彷徨を続けるのである。
敵弾幕の中で絶体絶命
敵の火線は、濃密だった。それも曳光弾をふんだんに使用することで、威力は倍加されているように思われた。しかし、味方の手榴弾も爆発するたびに敵の陣地を明るく映し出し、それが力を奮い立たせた。佐々木がさらに力を振り絞って投げようと、上半身を起こした時である。
「激しい衝撃と共に、仰向けに投げ出されました。何も見えなくて、目の前が真っ赤でした。目をやられた、と直感しましたが、実は目ではなく、左頰の二ヵ所の傷から噴き出す血が目に流れ入ったのです。その時、突然、泣くような異様な叫びが、すぐ左後方でしました。やはり手榴弾の破片を浴びた兵が、動転して発した悲鳴でした。『敵の前で泣くなーッ』と怒鳴ったものの、自分の状態も尋常でないことに愕然としました」
腹這いになろうとするが、それが出来ない。肝心の右手、右足が利かない。これでは潔く敵に突っ込むことも出来ない。さればといって、敵の眼前から脱出できようはずもない。敵の迫撃砲弾はいよいよ激しく、前後左右に降ってくる。夜はもう白々と明け始めていた。もう一刻の逡巡も許されない状況であった。その時、左前方にいた安藤大尉の声が、銃砲声にかき消されながらも、重々しく響いた。
「負傷者を収容して、撤退する。麓の線まで下がれ」
「自分でも不思議なほどに、冷静な心境でした。まことに無念ではあるが、俺の運もこれまで、と自然に覚悟も決まっていました。ようやく左手で腰の拳銃を抜き出すことが出来ました。仰向けになった顔の上を、猛烈な敵の弾幕が光と音の急流となって走り、これほどの弾が当たらないのが不思議に思われました。私は拳銃を左のこめかみへ持って行きました」
その時、不意に拳銃をもぎ取った者がいた。
「まだ早いです。早く一緒に降りましょう」
それは大村徳蔵曹長(戦死後、准尉)の声であった。
「俺は無理だ。構わないで早く行ってくれ、と言う私の言葉には耳を貸さず、彼は強引に私の右脇下に左肩を入れて立ち上がり、担ぎ起こしてくれました。否応なく私は左手の刀を杖にして、よろよろとリーフの急な斜面を何度か転びながら、よろめき降りました」
ふらふらと歩む二人を格好の目標と、敵は撃ちまくって来たが、どの弾も避けて通るように思われた。
地獄を招いた司令部の相次ぐ誤判と逡巡
陸海軍守備隊は米軍を一時たじろがせるほどの善戦健闘を示したが、上級司令部の相次ぐ誤判、逡巡のまにまに死地に追いやられ、じつに九十六・一パーセント、一万二千六百九十四人が非命に倒れた。相も変わらぬ兵力の逐次投入、科学兵器の粋を尽くした敵陣に対する無謀とも言える斬り込み、分散持久という名の敗走、そしてお決まりの飢餓地獄。〝学ばざる軍隊〟──日本帝国陸軍の集約とも言える戦いだった。そのわりには他の激戦地ほどには知られておらず、書いておかねばならないテーマだった。
しかも戦後、国の遺骨収集で故国に帰った遺骨は、わずかに二千七百六十五柱。戦没者遺族、生還者がビアク島に寄せる思いはまことに切ないものがあった。
それは九六年二月、同島を襲った大震災に対する草の根の救援活動、国際交流となってほとばしり出た。現地へのお見舞い訪問に始まり、義援金──チャリティー絵画展──救急車を送る運動へと発展。それが機縁になって七六年から日本政府が手をこまねき、中断していた遺骨収集と帰還を九九年九月、民間主導で遂に実現、新たに五十九柱がビアク戦終結以来五十五年ぶりに懐かしい故国へ帰った。
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COURRiER Japon
NIPPON 2022.1.23
「ビアク島の戦い」の地で、戦争の遺物採集に人生を捧げる男たち
日本兵の遺骨と思われるものも…
ニューヨーク・タイムズ(米国)ニューヨーク・タイムズ(米国)
Text by Dera Menra Sijabat and Richard C. Paddock Photographs by Ulet Ifansasti
インドネシアのビアク島は、第二次世界大戦で激戦の地となった。一部の地元住民はこの歴史を守ろうと、米兵や日本兵が残していった遺物の採集に情熱を注いでいる──。
インドネシアのビアク島は、第二次世界大戦で激戦の舞台となった。ダグラス・マッカーサー率いる連合軍が、日本軍から西太平洋を奪還する作戦を展開し、両軍に何千人もの死傷者が出たのだ。現在、12万人の島民の多くは、農業と漁業をして生計を立てている。
海岸で開かれるビアク島の魚市場
地元の歴史愛好家アルバース・ワクム(58)は、戦争の遺物を探しにジャングルに分け入る。いつか自分が発見した遺物の博物館を開くのが夢だという。彼は、人生のほとんどを過ごしてきた島の歴史の証拠が消えてなくならないよう、保護しているのだ。ときには人骨を見つけることもある。彼は言う。
「周りからは『ドッグタグ(米兵の個人識別に使用される認識票)の男』と呼ばれています」
周囲からは「戦没者の霊を呼び覚ますな」
残り: 3004文字 / 全文 : 3497文字
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ウィキペディア
ビアク島の戦い( Battle of Biak, 1944年5月27日 - 8月20日)は、太平洋戦争中のニューギニア戦線における戦闘の1つ。
アメリカ軍は、マリアナ諸島への進攻に先立ち、飛行場確保などを目的としてニューギニア北西部のビアク島へ上陸した。これに対して日本軍の守備隊は「北のアッツ、南のビアク」と呼ばれるほどの抵抗を続け、1か月以上も飛行場の使用開始を許さなかった。しかし第101燃料廠によるクラモノ油田開発は撤退を余儀なくされ、この戦いは1944年6月のマリアナ沖海戦の結果に繋がった。
背景
ビアク島はニューギニア島北西部ヘルビング湾(現在のセンデラワシ湾)内の最大の島で、東西は約90キロ、南北は約40キロ。南緯1度の赤道直下に位置し、全島が熱帯雨林に覆われている。地表は石灰岩質の岩石で広く平坦な飛行場適地を有し、日本軍から見ればフィリピンから東部ニューギニアの最前線へ至る飛行経路上の、連合軍から見ればパラオとフィリピン南部とを爆撃圏に収める要衝であった。日本軍は1943年以降ビアク島に「モクメル飛行場」の設営を進めていた。同飛行場は第一から第三まであった。
1943年9月、日本軍はビアク島を含む豪北方面(インドネシア東部)を絶対国防圏の一角に指定し、この地域の守備に第2方面軍(方面軍司令官:阿南惟幾中将)及び第2軍(軍司令官:豊島房太郎中将)をあてた。西部ニューギニアへは12月に第36師団(師団長:田上八郎中将)が進出し、うちビアク島には歩兵第222連隊を基幹とするビアク支隊(支隊長:葛目直幸大佐)が分派された。ビアク支隊は海岸線の後方、飛行場を見下ろす台地に東西2つの巨大な鍾乳洞を発見し、西洞窟に司令部を定めた。
日本軍はさらに北支から第35師団(師団長:池田浚吉中将)をビアク島へ転用し、玉突きでビアク支隊をニューギニア本島へ合流させる計画を立てていた。しかし1944年4月、第35師団の輸送作戦である「竹輸送」は潜水艦攻撃を受けて手痛い打撃を被り、ビアク島には到達できなかった。
→詳細は「竹一船団」を参照
アメリカ軍の上陸までに日本軍がビアク島へ配備できた兵力は陸軍10,400名、海軍1,947名を数えたが、その過半は飛行場設営隊や海上輸送隊、開拓勤務隊など後方勤務部隊が占め、戦闘部隊は歩兵第222連隊を中心に、海軍陸戦隊を加えても4,500名に過ぎなかった。
連合軍の反攻進路
その頃ダグラス・マッカーサー大将の率いる南西太平洋方面連合軍は、西部ニューギニアを経てフィリピンへ向かう反攻作戦を推し進めていた。
連合軍は4月22日にニューギニア島北部のホーランジア(現在のジャヤプラ)へ、5月17日にサルミへ上陸し、次の照準をビアク島に定めた。
6月中旬にチェスター・ニミッツ大将指揮下の部隊のサイパン進攻が予定されており、それまでにビアク島の飛行場を確保して支援するよう期待がかかっていた。
4月28日以降、アメリカ軍は占領したホーランジアの飛行場を拠点に、ビアク島に対して連日の空襲を加えた。
日本では大本営陸軍部が、ホーランジア失陥によって絶対国防圏をニューギニア島西端のソロンまで引き下げる方針を決定したが、第2方面軍阿南司令官はこの措置を不満とし、大本営海軍部の構想に乗ってビアク島を死守する方針を持っていた。
海軍の構想とは、アメリカ軍のビアク島進攻に応じて海上機動第2旅団(旅団長:玉田美郎少将)を増援に送り込む「渾作戦」を実施し、アメリカ太平洋艦隊主力をパラオ近海へ誘い込み、機動部隊と基地航空隊によって撃破するという「あ号作戦」である。
結局、大本営陸軍部も阿南中将の方針を追認する。5月25日、連日の激しい空襲の中を第2方面軍参謀長沼田多稼蔵中将がビアク島を訪れ、この作戦について葛目大佐らと打ち合わせた。27日早朝、沼田中将の乗機がビアク島から離陸しようとしたそのとき、連合軍の大船団が沖合いに現れた。
影響
アメリカ軍によるビアク島の飛行場の使用開始はモクメル第1が6月22日、同第2が8月1日、同第3が8月12日となり[7]、マリアナ沖海戦に間に合わせることはできなかった。太平洋戦争後期の島嶼での戦闘で、日本軍がアメリカ軍の上陸から1か月以上も飛行場の使用開始を許さなかった事例はビアク島のみである。だがビアク支隊の奮戦も空しく、マリアナ沖海戦は日本軍の完敗に終わった。
ビアク島に投入されたアメリカ軍の兵力は約30,000名であった。それを1個連隊強の兵力で1か月以上防ぎ続けたビアク支隊に対しては、昭和天皇からたびたび嘉賞があり、寺内寿一南方軍総司令官も感状を授与した。葛目大佐は死後特旨をもって陸軍中将に任ぜられた。アメリカ軍もビアク島の日本軍の抵抗をニューギニア作戦中最大と評している。
ビアク島の日本軍はその後、アメリカ軍の掃討作戦と飢餓によって逐次消耗していった。千田少将は12月25日に戦死したとみられる。日本軍の将兵は終戦までに434名が捕虜となり、終戦後に砲兵第2中隊長松山静雄中尉を長とする86名が収容された。日本軍の生還者はこれら合わせて520名のみであった。アメリカ軍も、戦死者471名、戦傷者2,443名を出し、加えて感染症の罹患者が6,811名、戦場神経症患者が423名にも上った。
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