🎌93)─2─天明の大飢饉と天保の大飢饉。庶民がキリスト教とマルクス主義(共産主義)を嫌った本当の理由。~No.193/  * ⑪

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・   
 日本では、キリスト教の宗教革命もマルクス主義共産主義)の人民革命も絶対に起きなかった。
   ・   ・   ・   
 日本国は武士・サムライの国だが、日本人は武士・サムライの子孫ではない。
 武士・サムライは、天皇の子孫という系図を持っている。
 天皇の子孫という系図を持たないは、乞食に近い素浪人か、ヤクザの用心棒で犯罪者の浪人である。
 素浪人・浪人は、武士・サムライではない。
   ・   ・   ・   
 当時の日本人は、現代に日本人に比べて逃げ惑う事なく事態の悲惨さを素直に受け入れ、生きるか死ぬかの関頭で真剣に生き、飢えに苦しむ1人でも多くの庶民を助けるべく奔走していた。
 それが、本当の武士・サムライであった。
 幕府や諸大名は、武士として、飢餓民・被災民を助けていた。
   ・   ・   ・   
 武士・サムライは、現代の高学歴出身知的エリートとは違う。
 高学歴出身知的エリートは武士・サムライではない。
 リベラル派・革新派・エセ保守派そして一部の保守派も、武士・サムライではない。
 右翼・右派・ネットウヨクも左翼・左派・ネットサヨクも、武士・サムライではない。
 彼ら全ては、例外なく素浪人・浪人である。
 素浪人・浪人である現代の日本人が、武士・サムライの真似をする事ほど「猿回しのサル」に瓜二つである。
   ・   ・   ・   
 飢饉対策として「鎖国を止め、海外から食糧を大量に買い込めば良かった」と発言する日本人を信用しはならない。
 何故なら、彼らには歴史を理解する能力が全くないからである。
 彼らよりも、武士・サムライの方が賢く、優れている。
   ・   ・   ・    
 政治家、官僚、学者、メディア関係者は、全て武士・サムライではない。
   ・   ・   ・    
 現代の日本では、武士・サムライが消え、素浪人・浪人が増えている。
   ・   ・   ・   
 武士・サムライは、義に背く嘘や詭弁や見苦しい言い訳はしないし、益なき配慮・気遣い・忖度はしない。
 そして、守るべき時は死を覚悟して戦い、責任を持って敵を斬り殺した。
 中国・朝鮮・ロシアなどから、祖国・母国や故郷、家や家族、友人や仲間を守る為に戦場へ赴いた。
 百姓・町人でさえ、祖先からの土地(家屋と田畑)や仕事を守る為に命を捨てて戦った。
   ・   ・   ・   
 武士・サムライと百姓・町人は、命を捨てても守るモノを持っていた。
 素浪人・浪人は、守るモノを持ったず、命欲しさに逃げ回った。
   ・   ・   ・   
ウィキペディア
 小氷期(英:Little Ice Age, LIA)とは、ほぼ14世紀半ばから19世紀半ばにかけて続いた寒冷な期間のことである。小氷河時代、ミニ氷河期ともいう。この気候の寒冷化により、「中世の温暖期」として知られる温和な時代は終止符を打たれた。当初、小氷期は全球的な現象だったと考えられていたが現在はその規模に疑問の声が投げかけられている。例えば、過去1,000年間の北半球の気温の推定値は明白な寒冷期を示してはいない[要出典]。気候変動に関する政府間パネルIPCC)は、小氷期を「期間中の気温低下が1°C未満に留まる、北半球における弱冷期」と記述している。なお、氷河学的にはこの間や現在なども含めて氷期の中でも比較的温暖な時期が続く、間氷期にあたる。

 北半球
 小氷期の間、世界の多くの場所で厳冬がもたらされたが最も詳細な記録が残っているのはヨーロッパと北アメリカである。17世紀半ば、スイス・アルプスの氷河は徐々にその版図を低地へと広げ谷筋に広がる農場を飲み込み村全体を押し潰していった。氷河が河川を塞き止め、決壊による洪水に襲われた村も多い。テムズ川やオランダの運河・河川では一冬の間完全に凍結する光景が頻繁に見られ[1]、人々はスケートや氷上縁日(フロスト・フェアー)に興じている。1780年の冬にはニューヨーク湾が凍結し、マンハッタンからスタッテンアイランドへ歩いて渡ることが可能であった。アイスランドでは海氷が何マイルにもわたって島を取り囲んで長期間に渡って港湾を封鎖し、漁業や交易に打撃を与えた。
 この厳冬の到来は、大なり小なり人々の生活に影響を与えている。飢饉が頻繁に発生するようになり(1315年には150万人もの餓死者を記録)、疾病による死者も増加した。アイスランドの人口は半分に減少し、グリーンランドヴァイキング植民地は全滅の憂き目を見た。また、小氷期の影響をこの時代の芸術にも見ることができる。例えば、フランドルの画家ピーター・ブリューゲルの絵の多くは雪に覆われた風景を呈している。
 日本においても東日本を中心にたびたび飢饉が発生し、これを原因とする農村での一揆の頻発は幕藩体制の崩壊の一因となった。

 南半球
 南極大陸やその周辺で採取されたコアの解析により、南半球でも小氷期の影響がみられることが分かってきた。例えば南緯62度・西経56度の南極半島沖、南緯82度・西経149度のシプルドーム、南緯66度・東経113度のロウドーム、南緯78度・東経158度のテイラードームなどが挙げられる。単純に温度が下がったというわけではなくシプルドームでは夏季の融氷が増えていて、テイラードームでは「中世の温暖期」より温度が上昇していた。一方ロウドームでは16世紀半ばから18世紀にかけて寒冷化していて、1836年にオーストラリアのシドニーで西洋人の入植以来唯一の降雪が観測されているという例もある。
 珊瑚の調査から17世紀中ごろに非常に強いエルニーニョ・南方振動現象が数多く生じたことも報告されていて、小氷期との関連が議論されている。

 原因
 科学者は、海洋/大気/陸地システムの研究を通して小氷期の原因を2つ同定している。それは太陽活動の衰弱と火山活動の活発化である。研究は気候システムの内部不安定性や人類の活動による影響など比較的不確定性の高い作用を基に進められており、黒死病が蔓延した時期におけるヨーロッパの人口減少とその結果生じた農業生産の低下は小氷期を長引かせたと推測する向きもある。

 太陽活動
 小氷期の中頃の1645年から1715年にかけては太陽黒点が示す太陽活動は極端に低下し、太陽黒点が全く観察されない年も複数年あった。太陽黒点活動が低下したこの期間をマウンダー極小期という。太陽黒点活動の低下と気温の寒冷化を結びつける明確な証拠は提示されていないが、小氷期の中でも最も寒さの厳しかった時期とマウンダー極小期が一致する事実は因果関係の存在を暗示している。この期間における太陽活動の低下を示す他の指標としては、炭素14(14C)とベリリウム10(10Be)の存在比が挙げられる。

 火山活動
 小氷期の全体にわたって、世界各地で広範な火山活動が記録されている。火山が噴火した時にその火山灰が大気上層に達し、地球全体を覆うように広がることがある。この灰のベールが日射をある程度遮り、噴火後2年にわたって全世界の気温を引き下げる。さらに火山ガスの成分であるSO2が噴火の際に大量に放出されるとこのガスが成層圏に達したときに硫酸の粒子に変化し、太陽光線を反射して地表に届く日射量をさらに縮小させる。1815年に起きたインドネシアのタンボラ火山の噴火は大気中に大量の火山灰をばら撒き、翌年の1816年は「夏のない年」として記録されている。このときニューイングランド北ヨーロッパでは、6月と7月に降霜と降雪が報告されている。

 小氷期の終わり
 1850年代が始まると世界の気候は温暖化に転じており、小氷期はこの時点で終了したと述べることができるだろう。何人かの科学者[誰?]は地球の気候は未だ小氷期からの回復の途上であり、この状況が人間のもたらした気候変動に関連する諸問題に寄与していると考えている。
   ・   ・   
 天明の大飢饉とは江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では最大の飢饉とされる。

 経緯
 東北地方は1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、すでに農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。天明2年(1782年)から3年にかけての冬には異様に暖かい日が続いた。道も田畑も乾き、時折強く吹く南風により地面はほこりが立つ有様だった。空は隅々まで青く晴れて、冬とは思えない暖気が続き、人々は不安げに空を見上げることが多くなった。約30年前の宝暦年間(1751年-1763年)の4年、5年、13年の凶作があったときの天気と酷似していた。
 被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えているが、死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と記されている[2]。しかし、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしたため、実数はそれ以上とみられる。被害は特に陸奥でひどく、弘前藩の例を取れば死者が10数万人に達したとも伝えられており、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓とともに疫病も流行し、全国的には1780年から86年の間に92万人余りの人口減を招いたとされる。
 農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安が悪化した。それ以前の1786年には異常乾燥と洪水が起こっていた事も重なり、1787年(天明7年)5月には、江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、江戸では千軒の米屋と八千軒以上の商家が襲われ、無法状態が3日間続いたという。その後全国各地へ打ちこわしが波及した。これを受け、7月に幕府は寛政の改革を始めた。

 背景
 幕藩体制の確立とともに各地で新田開発、耕地灌漑を目指した事業が行われた。しかし行きすぎた開発は労働力不足を招き、強引に治水した河川が耕作地に近接しすぎることで、 洪水を頻発させ生産量低下の原因にもなった。
さらに当時は、田沼意次時代で重商主義政策が打ち出され「商業的農業の公認による年貢増徴策」へと転換され、地方の諸藩は藩財政逼迫の折に、稲作の行きすぎた奨励(結果的に冷害に脆弱であった)や、備蓄米を払底し江戸への廻米に向けるなどの失政が重なった。大凶作の一方で米価の上昇に歯止めがかからず、結果的に飢饉が全国規模に拡大することとなった。これは、国内における飢餓輸出と同様の構造である。
 またコメを作物として見た場合、本来温暖な地域で生育する作物を寒冷な地域で作付けしたため、気温低下の影響を受けやすく、減作や皆無作などの危機的状況を招きやすかった。さらに栽培技術や品種改良技術も未熟であったため、安定した収穫は困難であった。
 弘前藩
 杜撰な計画が原因で天明初年の新産業政策が失敗し藩財政は困窮していた。この失敗の穴埋めのために天明2年から年貢増徴、備荒蓄米と称する米の供出、農民が万一のために貯蔵していた米すらも強制買上などが行われ江戸への廻米をし、京阪の商人への借財の返済、藩財政の穴埋めに回したが、藩内の米は領民の一冬の必要量には足りず餓死者が続出した。藩からは秋田藩領へ逃散する者が続出し、一冬で8万人を超える死者を出した。

 盛岡藩
 南部藩はそもそも生産性が低く気候条件も悪く、藩の治政も歴代目立ったものはないため、江戸時代230年間を通して約50回の凶作・飢饉があったと記録されている。これほどの飢饉を経験しながらなお、盛岡藩の飢饉対策はお粗末なままであった。 天明3年、土用になっても「やませ」によって夏でも気温が上がらず、稲の成長が止まり、加えて、大風、霜害によって収穫ゼロという未曾有の大凶作となり、その年の秋から翌年にかけて大飢饉となり、多くの餓死者を生じた。また、気象不順という自然災害だけに原因があるわけでなく、農村に対する年貢収取が苛烈であり、それが限度を超え、農業における再生産が不可能な状態に陥っていた。結果、7万5千人を超える死者を出した。これは盛岡藩総人口30万人の4分の1に相当する。飢えた領民は野山の草木や獣畜を食べ尽し、領内各所で人肉食の記録が残されている。

 八戸藩
 南部藩支藩であり、南部藩領よりも北方に位置し、小藩である八戸藩は本藩よりも深刻で、天明3年の収穫は実高から9割5分以上の減、翌4年も8割を超える減となった。南部本藩も困窮しており援助は期待できず、天明5年の調査で藩人口6万5千あまりのうち、3万人が餓死していることが判明。その直後に伝染病が蔓延し、さらに数千人が死亡した。

 仙台藩
 宝暦の飢饉の影響が回復する前に国役普請の莫大な負担が加わり、極度の財政窮乏状態を生じていた。そのため天明元年に「買米仕法」を復活し、年貢米だけでなく上層農民の余剰米をも低価格で買い集めて江戸への廻米をし藩財政の穴埋めに回した。買米仕法に伴い「郡留」が施行されたが、役人の汚職と密移出が横行し、藩内の米流通が混乱し米価格の高騰を発生させていた。天明4年には藩札(銀札)を発行し強制的に幕府正金との引き換えを計ったが藩札は暴落し、領民の困窮が進んだ。応急措置として他藩(尾張や最上など)からの米買入を行おうとしたが実現できず飢饉を拡大した。

 米沢藩
 1767年(明和4年)より上杉鷹山による改革が開始され、宝暦の飢饉などの経験から1774年に備荒貯蓄制度を進め、飢饉時の事前・当事・事後の対応策が執られた。中でも天明3年8月には救荒令により麦作を奨励した。同時期の近隣他藩は江戸への廻米を強行していたが、越後と酒田から11,605俵(領内人口約10万人が1日2合として約90日分に相当する量)の米を買入れ領民に供出した。

 白河藩
 当時の藩主松平定信江戸幕府8代将軍徳川吉宗の孫であり、凶作が明らかになり打ち壊しなどの事態が起き始めると、余裕のあった分領の越後から米を取り寄せ、また会津藩や江戸、大坂から米、雑穀などを買い集めた。藩内の庄屋や豪農などからも寄付を募り、領民に配給した。定信は農民に開墾を奨励するなど重農主義を取り、町民に対しては自らも質素倹約を説いた。藩を挙げての対策が功を奏し、領民から餓死者は一人とも出さなかったとの言い伝えが残っている。その一方で、吉宗の孫で御三卿の一族でもあった定信には、幕府からの援助があり、彼ひとりの手柄とは言えないという見解もある。[誰?]
なお定信はその手腕が買われ、後に幕府の老中に任ぜられることとなる。

 異常気象の原因
 異常気象の原因は諸説あり完全に解明されていない。有力な説は火山噴出物による日傘効果で、1783年6月3日 アイスランドラキ火山(Lakagigar)の巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)と、同じくアイスランドグリムスヴォトン火山(Grimsvotn)の1783年から1785年にかけての噴火である。これらの噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、膨大な量の火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を生起し、天明の飢饉のほかフランス革命の遠因となったといわれている。また天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が噴火、浅間山天明大噴火は8月5日から始まり、降灰は関東平野や東北地方で始まっていた飢饉に拍車をかけ悪化させた[8]。なお、ピナツボ火山噴火の経験から、巨大火山噴火の影響は10年程度続いたと考えられる。 しかし異常気象による不作は1782年から続いており、1783年6月の浅間山とラキの噴火だけでは1783年の飢饉の原因を説明できない。
 大型のエルニーニョ現象が1789年 - 1793年に発生して、世界中の気象に影響を与え、天明の飢饉からの回復を妨げたとの説もある。[誰?]

 史跡
 餓死萬霊等供養塔(がしばんれいとうくようとう)」と「戒壇石(かいだんせき)」
 当時の詳細を後世に伝える為に記した石碑(昭和63年1月16日青森県史跡指定)が、西暦1785年(天明5年)青森県八戸市内の対泉院に建立された。両碑の裏面には、天明の大飢饉に於ける当時の八戸領内の天候や作物の状況、食生活、餓死者や病死者の数、放火や強盗といった治安悪化の様子、飢饉で得た教訓を後世に伝える内容が記されている。かつて人肉を食す様子を記した部分が存在したが、意図的に削られている。削られた時期は「当時の八戸領領主に対して配慮し、建立後間もなく」とも、「明治時代」とも言われているが、正確な時期は不明。

 放生池
 天明大飢饉における等順大僧正の民衆救済を伝える放生池
 信州善光寺(長野市)大勧進表大門の手前にある放生池は、時の第79世貫主・等順大僧正が天明の大飢饉において、善光寺貯蔵の米麦を放出して民衆を飢餓から救済、等順の恩に感謝した人々が集まり、極楽への道筋を可視化するために掘った池と伝えられている。

 参考資料
 江戸時代の日本の人口
 (江戸幕府「人別調べ」、関山直太郎による)
 1774年(安永3) 2,599万人
 1780年(安永9) 2,601万人
 1786年(天明6) 2,509万人
 1792年(寛政4) 2,489万人
 1798年(寛政10)2,547万人 
    
 東北地方の人口
 1750年(寛延3) 268万人
 1786年(天明6) 237万人
 1804年(文化1) 247万人
 1828年(文政11)263万人

 八戸藩の収穫
 1782年(天明2) 7,243石(表高2万石)
 1783年(天明3)19,236石
 1784年(天明4)16,457石(耕作しない)
   ・   ・   
 御所千度参り(ごしょせんどまいり)は、天明7年6月7日 (1787年7月21日)に発生した、京都御所の周囲を多数の人々が廻り、千度参りをした事件。
 この御所千度参りは、天明7年6月7日頃から始まった。初めは数人だったが、その数は段々増えて行き、6月10日には3万人に達し、6月18日頃には7万人に達したという。御所千度参りに集まった人々は、京都やその周辺のみならず、河内や近江、大坂などから来た者もいたという。
 京都は人であふれ、後桜町上皇からは3万個のリンゴ(日本で古くから栽培されている、和りんご)が配られた。他にも、有栖川宮一条家などでは茶が、九条家鷹司家からは握り飯が配られた。
 この事態を憂慮した光格天皇京都所司代を通じて江戸幕府に飢饉に苦しむ民衆救済を要求する。これは、禁中並公家諸法度に対する明白な違反行為であった。そのため、天皇の叔父でもある関白鷹司輔平も厳罰を覚悟して同様の申し入れを行った。これに対して幕府は米1,500俵を京都市民への放出を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。
 この背景には、天明の大飢饉や、同年4月に徳川家斉が将軍に就任した事から徳政を求める意味もあったと思われる。また、朝廷の行動が実際の救済行動に結びついたことで、尊王論の興隆の一因となった。
   ・   ・   
 天保の大飢饉は江戸時代後期の1833年(天保4年)に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化した飢饉である。1839年(天保10年)まで続いた。1836年(天保7年)までと定義する説もある。
 寛永享保天明に続く江戸四大飢饉の一つで、寛永の飢饉を除いた江戸三大飢饉のひとつ。単に天保の飢饉とも言う。
 
 概要 
 主な原因は天保4年(1833年)の大雨による洪水や冷害による大凶作であった。東北地方(陸奥国出羽国)の被害が最も大きく、特に仙台藩の場合は盛んに新田開発を行い、実高で100万石を超える石高を有していたが、米作に偏った政策を行っていたため被害が甚大であった。50年前の天明の飢饉と比較して、凶作対策が行われたため死者の数は少なかった。商品作物の商業化で農村に貧富の差が拡大したため、貧困の百姓が多く餓死した。各地で餓死者を多数出し、徳川幕府は救済のため、江戸では市中21ヶ所に御救小屋(5,800人収容)を設置したが、救済者は70万人を超えた。米価急騰も引き起こしたため、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、天保7年6月に幕府直轄領である甲斐国一国規模の百姓一揆となった天保騒動や、天保8年2月に大坂で起こった大塩平八郎の乱の原因にもなった。特に大阪では毎日約150人-200人を超える餓死者を出していたという。
 一方、犠牲者を一人も出さなかったと伝えられる藩もある。たとえば田原藩では、家老の渡辺崋山が師であった佐藤信淵の思想をもとにした「凶荒心得書」を著して藩主に提出し、役人の綱紀粛正と倹約、民衆の救済を最優先すべきことと説き、給与改革や義倉の整備を実行して成果をあげた。また米沢藩でも天明の大飢饉の教訓を生かして義倉の整備や「かてもの」という救荒食の手引書を作成して配布するなどの事前対策が取られていた。 当時の日本の推計人口は1833年からの5年間で125万2,000人減少しており(後述の参考資料参照)、人口減少幅の規模としては天明の大飢饉に匹敵する。

 大飢饉の名残
 主に東北から北陸や山陰の日本海側や、近畿から四国などまで広い地域で、「てんぽな」または「てんぽ」という形容動詞・形容詞が用いられる。大変な、とんでもない、とてつもない、途方もないなどの広い意味を表す。天保の飢饉に由来するともいわれ、現代まで言葉に残る大飢饉の名残と言える。まれにさらに強調した意味で「天明天保な」とも使われる。
 鳥取藩では「申年がしん」としてこの飢饉の悲惨さが伝説となって近年まで語り継がれていた。また飢饉の犠牲者を慰霊するための叢塚(くさむらづか)が東北地方を中心に現在も残っている。
 
 参考資料
 当時の日本の推計人口
 (「江戸後期から明治前期までの年齢別人口および出生率・死亡率の推計」高橋 眞一)
 1833年(天保4) 3,198万人
 1838年(天保9) 3,073万人
 1843年(天保14)3,177万人   


   ・   ・   ・   

天明の飢饉と諸藩の改革 (歴春ふくしま文庫)

天明の飢饉と諸藩の改革 (歴春ふくしま文庫)

🎌195)─1─日本天皇とは、民族文化と民族宗教の唯一の保護者であり、良心と道徳と教養の唯一の体現者である。万葉集。キリスト教排除の理由。~No.399No.400/ *

水子―“中絶”をめぐる日本文化の底流

水子―“中絶”をめぐる日本文化の底流

   ・   ・   ・
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 第45代聖武天皇は、繰り返される内乱と相次ぐ甚大な自然災害を憂慮し、御仏に救いを求め、国家鎮護を祈願して大仏建立の詔を発した。
 仏教は、家の中の一室で個人が信仰する私的宗教から、公の場で全ての人々が一緒に信仰する国家的宗教に引き上げられた。
 仏教の御仏は、日本天皇と並ぶ日本の支柱となった。
   ・   ・   ・   
 反天皇反日的日本人は、日本天皇を否定し、天皇制度を廃絶し、日本皇室を消滅させようとしている。
 新しい日本には、天皇など必要はないとしている。
 外国人移民が増加すれば、天皇廃絶支持者が急増する。
 西ローマ帝国領に移住した異文化・異宗教の異民族によって、ローマ皇帝は殺害され、西ローマ帝国は滅亡し、ローマ市民は大虐殺された。
   ・   ・   ・   
 日本神道は、男尊女卑の儒教と違って、男系より女系の方がやや優位であった。
   ・   ・   ・   
 気の弱い日本民族日本人は、大陸や半島の地獄に恐怖して列島に逃げ込んだ。
 中国大陸や朝鮮半島は、日本列島に比べて世にも恐ろしい地獄であった。 
   ・   ・   ・   
 生き物は、死を避ける事ができない。
 人は死ぬ前に、やり遂げる仕事、果たすべき使命がる。
 人の価値を決めるのは、生きているうちに何を成したかである。、 
   ・   ・   ・   
 空海「御経は、死者には届かない」
 墓を作って葬られる者は皇族や有力豪族のみで、それ以外の者は自然葬として野晒にされた。
   ・   ・   ・   
 文藝春秋 2013年6月号「山折哲雄保阪正康の対談」
 「山折 日本の歴史をみると、長きにわたる平和な時代が二度あったことが分かります。まず平安時代の350年間。次に江戸時代の250年間です。これは驚くべきことです。
 では、なぜこうした長期的な平和が現出したか。政治的、経済的条件や四方を海で囲まれているという地政学的な条件などもあったと思いますが、最大の要因は〝権威〟と〝権力〟が分立し、互いの調和がとれていたからではないか。うまり宗教的・文化的な権威を体現する皇室と、藤原氏徳川幕府といった政治権力とが互いに補完し、時に牽制しながら社会を安定させていたのではないかと私は考えています。……
 平安期、江戸期のもう一つの特徴は、大規模な宗教戦争が起きていないことです。日本でも戦国時代は一向一揆など宗教戦争が頻発していましたが、江戸初期の島原・天草の乱を最後にして、200年以上の安定が続きました。この理由を考察する上で、日本特有の『神仏習合』を外すことはできません。仏教という外来の宗教と、神道という土着の信仰が共存する。その神輿の上に乗り、両者のバランスを取る役割を果たしてきたのが天皇の存在だったと思うのです。……
 かって正月に行われていた宮中祭祀をみると、この共存関係が見事にシステム化されているのがわかります。まず正月の第一週に『前7日の節会』として四方拝からはじまる神道祭祀を神職が執行する。それが切り替わって、次の週には仏教僧が『後7日の御修法』をとりおこなう。これが平安時代最澄空海の時代から明治にいたるまで続いていたのです。
 また京都には泉涌寺という天皇家菩提寺があります。じつに天武天皇から孝明天皇までの1200年間、朝廷では仏式の葬儀が行われていました。現在も泉涌寺には歴代の天皇皇后の位牌がならび、仏教式の祭祀が行われています。……
 このことが示すように、本来、皇室は多神教的で、懐の深い存在でした。
 このバランスを崩されたのが、明治維新でした。明治政府は西欧キリスト教国家に対抗するため、日本でも精神的な軸をつくろうとしました。そのために万世一系天皇を中心に据え、仏教分離で仏教を排除して、天皇を神格化しようとしました。その帰結が戦前の国家神道です。
 さらに戦後は政教分離によって、大嘗祭などの重要な祭祀が、天皇家のプライベート、私事に追いやらえてしまった。こうした流れの中で、皇室の宗教的・文化的なありようが狭められ、重心となる機能を失っている。私はここに今の皇室の危機の淵源があると思う。なぜなら皇室の本質とは何かを突き詰めて考えていくと、必ず古代からの祭祀という宗教的伝統にいきつくからです。……
 政治権力が権威を尊重しなくなると、社会のバランスは大きく崩れます。最近の例でいえば、民主党政権の時、天皇習近平の会見が強引に設定されたことがありました……
 諸外国の日本研究者と話していると、しばしば聞かれる質問があります。それは、『日本にはなぜいまだに天皇がいるのか?』。彼らに言わせると、『今の日本は民主主義が非常にうまく機能している。だから天皇制なくてもいいのではないか?』というわけです。私は彼らにこう答えることにしています。『フランス革命でも、ロシア革命でも、どれだけの血が流されたか。天皇の下で繁栄し、民主制を実現している日本にそんなリスクを取るだけのメリットがどこにあるのか』と。
 しかし、現在の世界を見ていると、この問いは、新たな別の意味で重要になっているように思えます。
 現在、世界的にデモクラシーが機能不全を起こしているケースがたくさんあります。たとえばEUの金融危機でも、放漫財政を引き締めなければ共倒れになるのに、国民が強く反発して、身動きが取れなくなってことがありました。そうした状況に陥ったときに、天皇制は何かポジティブな役割が果たせるのではないか。……
 明治維新がそうでしょう。先ほどは薩長による政治利用として論じましたが、歴史の見方は一つだけではありますん。逆に言えば、国内で深刻な対立が起きたとき、その『最後の調停者』ないしは『裁定者』としての役割を担いうるだけの権威を、天皇という存在は歴史的に育んできともいえるのです。……
 日本の文化的・精神的伝統を深く理解し、その体現者たろういと心掛けていることでしょう。いずれにせよ、そのとき皇室のあり方と、それを受け入れる国民の姿勢が問われることは間違いありません」
   ・   ・   ・   
 万葉集。日本人は、古代から心の中の最も大切な思いを和歌・大和歌の形で表した。
 上は天皇から下は詠み人知らずの庶民に至るまで、和歌・大和歌を詠っていた。
   ・   ・   ・   
 1994年4月14日 週刊新潮山本夏彦「……古いことは悪いこと新しいことはいいことと親子ともども小学校から教わっている。
 古い言葉と新しい言葉があったら古いほうをとれ、歴史のある言葉は使い方ひとつで天地(あめつち)を動かす。私が言葉を大切にと言うのは、震災と戦災で日本中まる焼けになったからで、衣食住が焼けうせたら残るは言葉だけである。言葉をたよりに過去にさかのぼるよりほかにない。いま歴史ある言葉を一つ失うのは歴史を一つ失うことになるのである。
 古いことは悪いこと知らなくていいことと教えたのは学校では教師であり、家庭では父兄である。3月24日号で私は文部省は家永説を一蹴すればよかったと書いたが、これもまた一蹴すればおかったのである。
 教育は過去の財産を今に伝えるものだから、本来保守的なものである。昭和23年『ブラリひょうたん』は分かったのである。今は分からないのである。
 小学4年生の国語の時間は大正7年14時間、大正8年から昭和15年までは12時間あった。今は6時間だそうである」(『夏彦の写真コラム。国語の時間が減るばかり』)
   ・   ・   ・   
 天皇は、政治権力でも、宗教権威でもなく、生きる指標としての良心と道徳であり、文化・生活・精神の具現者である。
   ・   ・   ・   
 国際社会で、民族中心宗教を国教的に扱っているのは日本だけである。
 そして、同じ祖先神・氏神信仰を持っている国家は地球上には存在しない。
 人は人として理解し合えるのではなく、同じ価値観・同じ認識を持つが故に理解し合えるのである。
 日本の価値観と世界の価値観が違う以上、世界の非常識として理解されづらくて当たり前である。
 現代日本のグローバル教育は、世界的非常識な日本を国際社会で理解されやすくする為に、生活の全ての場所から日本的価値観を排除し国際的価値観を子供達に教えている。
   ・   ・   ・   
 中華世界は、厳格な男尊女卑として、男系絶対社会である。
 陰陽の東洋思想において、「祖先の気」は男の骨の中だけに宿り、女性は血や肉を授かっても祖先の気は受け継がないと考えられた。
 中国社会は、血族関係と言うより、「気血族関係」である。
 そして、重要なのは、血縁ではなく「気縁」である。
 ゆえに。女性が結婚しても、家族の一員・一族の一員とは認めず、気血がつながらない赤の他人として同姓にはしなかった。
 女性が持っている気とは、一族をまとめる偉大な祖先の気ではなく、自分が生きる為だけの価値の低い「個人の気」とされた。
 祖先の気を持つ男は「陽」として、一族を背負って立つ存在として大事した。
 祖先の気を持たない女性は「陰」として、政略結婚の道具、権力者への貢ぎ物、奴隷として売る道具として大切に育てた。
 夫婦別姓の本質は、女性を尊重するのではなく、その正反対で女性蔑視の性差別である。
 敵を滅ぼす時は、敵の気血を絶やす為に乳児から老人まで全ての男を皆殺しにしが、祖先の気を受け継がない女性は奴隷として売り飛ばした。
 男女関係や夫婦関係に対する考えは、日本と中国・朝鮮では異なる。
   ・   ・   ・   
 儒教は、中国に統治する為の政治と礼節をもたらし、朝鮮に隷属する為の道徳と節度をもたらした。
 神道は、日本に和合する為の祈りと恋愛をもたらした。
   ・   ・   ・   
 2015年10月15日号 五木寛之「生き抜くヒント!
 新しい物語を求めて
 人は何によって動くのか。
 たぶんそれは道徳によってではない。なんとなくそんな気がする。
 私たちの日常の行動は、常識によるものが多いのではないだろうか。常識、というより通念といったほうがいいのかもしれない。
 『嘘をついてはいけない』
 と、教えられているから嘘をつくのが気になるのではない。
 『嘘をつくと、地獄で閻魔さまに舌を抜かれるんだよ』
 と、子供の頃からおばあちゃんにいわれて、昔の人はそれが体にしみこんでいたのである。
 地獄、というのも一つの物語である。閻魔さんというのもそうだ。三途の川というのも、極楽浄土というのもそうだ。物語というのは、思想ではない。もちろん道徳でもない。
 思想や道徳は、時代と体制によってどうにでも変わる。いつの頃とも知らず、世間の泥沼から湧きだしたボウフラのような物語は、ながく生きて、なかなか変わらない。
 物語は、いろんな形で世の中に広がっていく。芝居や、音曲をともなった芸能や、説教や、その他もろもろの大衆娯楽となって人びとの心にしみわたる。説教というのは、いわゆる説教ではなく、仏教的芸能の一ジャンルとして確立された芸である。新聞記事も、小説も、テレビも、SNSも、ニュースも、みな物語だと私は思っている。
 ……
 『人は死んだら・・・』
 ……
 『人は死んだらどこへ行くのか?』
 という問いに、いまの私たちは答えるすべを持たない。体にしみこんだ物語を失ってしまっているからだ。
 世間で右翼といわれる人びとは、おおむね『大義』という物語を持っている。人が死ぬのはの『大義に殉ずる』である。では左翼と目される人びとの物語は何か。思想から物語が生まれるのではあるまい。その逆ではないだろうか。
 戦前の修身の時間に教わった道徳的な訓話は、ほとんど忘れてしまった。ただ、その中に出てくるさまざまな人物のエピソードだけは、なぜかしっかりと記憶に残っている。新しい物語は、今後はたしてどこから生まれてくるのだろうか」
   ・   ・   ・   
 平安中央末期。天災による凶作、栄養失調による餓死と病死、権力者同士の内乱や盗賊の横行、嘘偽りや裏切りが当たり前の世、世は乱れに乱れ、真に「生きるも地獄、死んでも地獄」という末法の世になっていた。
 か弱い衆生は、生きているのが辛いから、せめて死んだ後のあの世だけでも救われたいと願い、多くの神仏に救いを求めた。
 「はかなきこの世を過ぐすとて 海山稼ぐ(卑しい稼ぎ)とせしほどに よろずの仏に疎まれて 後生わが身をいかんせん」
 生きる為に悪行と知りながら、嘘を付き、騙し、殺し、奪い、娼婦となって身体も売った。
 悪人達は、仏にも神にも見放されたと嘆き悲しんだ。
 日本仏教の法然親鸞道元栄西そして日蓮ら高僧らは、そうした悲嘆に暮れ絶望する衆生を救う為に、御仏にすがって安心してあの世に「逝ける」ように引導を与えた。
 日本の「生き方」とは、あの世への「逝き方」である。
 死から逃げることなく、死を見詰めながら生きる。
 それが、逃げる事ができない、自然災害多発地帯の死生観である。
 人の力でどうにか出来る事は人が対処すれば良いが、人の力ではどうにもならない事は神仏にすがるしかない。
 人の力で、田畑を耕して農作物を作る事は出来るが、日光や雨といった天候はどうにもならない。
 天候は自然の巡りであるが、好天に恵まれて凶作を免れて豊作になる様に神仏に祈るしかなかった。
 日本の自然崇拝は、そこから自然発生的生まれたがゆえに、教祖がいなければ、経典や聖典もない。
 法然親鸞道元日蓮等は、イエス・キリスト仏陀マホメットのように独自の宗教を開いたのではなく、外来宗教の仏教を独自に解釈して一つの宗派を起こしたに過ぎない。
 日本人は、運の悪さを嘆き悲しみ、神仏に救いを求めた。
   ・   ・   ・   
 日本が、インドで誕生した大乗仏教を受け容れ、中華で創作された正統派儒教を拒否したのか。
 正統派儒教とは、天子・中華皇帝を絶対君主とし古典典籍丸暗記の科挙による官僚選抜機構とする古代的中央集権制度を理想体制とする、発展及び進歩を完全否定する閉塞と硬直した不寛容な教条的観念思想であった。
 故に、祖先崇拝と道徳規範を受け容れたが政治制度や道徳的価値観は拒否した。
 物事を相対化し、多種多様を好み、知らない事を知りたい好奇心から、唯一の絶対価値観で身動きできないように雁字搦めにする正統派儒教を毛嫌いした。
 朝鮮は、正統派儒教を受け容れ、反論異論を徹底排除する頑迷固陋な道徳的観念形態を打ち立てた。
 仏教には、如何なる俗世もなかったが故に、日本は邪推する事なくすんなりと信じて受け容れた。
   ・   ・   ・    
 日本が、キリスト教を拒絶したのは、正統派儒教同様に、絶対神が定めて唯一の不寛容的価値観で他者を排除し、神聖な教理・教義に基づく神の王国を築き、法的価値観、政治体制、社会風俗、道徳規範で人々を服従させようとしたからである。
 多神教の日本では全てを相対化して、神聖不可侵の教義的価値観を持たず、変わる事なき理念的な核を消し去り、有無を言わせぬ道徳規範や掟も定めなかった。
 明確な輪郭を持ち個性を発揮して自己主張する代わりに、自分を小さくし未完成未熟のままにして、他者や外から絶えず学ぼうとした。
 日本民族日本民族としてまとめていたのは、目の前に存在する神の裔で「生き神」である日本天皇と、手の届かない遙か彼方の天竺にあって救い導いてくれる「御仏」である日本仏教であった。
 日本史の宗教・精神には、生き神と御仏という二重信仰が争う事なく相互補完共生しながら均衡よく息づいている。
 一方に生き神の日本天皇という御柱があり、正反対の一方に御仏の日本仏教という御柱があって、その真ん中で見えない両者から出ている霊力という磁力でバランスよく宙に浮いているのが日本である。
 普遍的絶対価値観を打ち立てようとするキリスト教も正統派儒教も、この神霊二重構造に合わなかった。
 神霊二重構造は、多発する甚大なる災害と四季折々の恵みをもたらしてくれる変化の激しい日本の自然という錦・羽衣に覆われている。
 ゆえに。日本人の精神は、心を空にし、無に帰し、一点に偏らず囚われない事で、自由となって安定する。
   ・   ・   ・   

   ・   ・   ・   

戦死者霊魂のゆくえ―戦争と民俗

戦死者霊魂のゆくえ―戦争と民俗

🎌180)─1─天皇と国民(民族)及び帰化人との切断できない強い絆。仁徳天皇。~No.366No.367/ *   

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 国民と民族は、100%同じではない。
 帰化人と渡来人は、別人である。

   ・   ・   ・   
 2018年10月号 正論「君は日本を誇れるか  竹田恒泰 
 ……
 国民は『負担』と思っていない
 このように、皇室関係の議論で度々現れる『国民生活への負担』という言葉に、私は違和感を覚える。なぜなら『国民生活への負担』を憂慮なさるのは陛下なのであって、メディアや評論家ではないからだ。日本書紀に記された逸話を一つ紹介したい。
 第16代仁徳天皇hs、経済が疲弊して国民が生活に困窮している惨状を知り、税を3年間免除すると発せられた。3年後、まだ経済の復興が半ばであることをお知りになると、あと3年税を免除すると仰った。しかし、長い間税を徴収していなかったため、天皇の御生活は困窮を極めていた。皇居は荒れ放題で、雨が降る度にひどい雨漏りがあり、乾いた所を探してお眠りになる有様だったという。
 苦しい時に税を免除して下さった仁徳天皇に対して大きな恩を感じていた国民は、自分たちの生活は改善したにもかかわらず、天皇の御生活が困窮していることに疑問を持ったことと思われる。国民は不満をあらわに宮廷に乱入し、天皇のために御殿を新築して差し上げたというのだ。
 天皇が『国民生活への負担』を憂慮なさり、国民は『天皇への御負担』を心配するというのが、本来の天皇と国民の関係性ではなかったか。評論家などの『国民』が、皇室による『国民生活への負担』を語ってどうするのか。彼らは、自らが天皇の視点でものを語っていることに気付くべきである。天皇陛下が『国民生活への負担』を憂慮なさったら、国民としては『いえいえ、負担とは思っていませんので、ご心配に及びません』と答えるのが正しい振る舞いであろう。
 無論、天皇がひどい浪費をするのであれば、この構図は成り立たない。しかし、周知のように、天皇陛下は質素倹約に努めていらっしゃるし、歴代天皇も同様であった。中国や西洋の王や皇帝には、浪費の逸話はつきものだが、歴代天皇の浪費の話は伝わらない。天皇陛下が倹約に努めていらっしゃる以上、国民が、皇室による『国民生活への負担』に言及するのは、筋違いというべきであろう。
 『掛けた恩は水に流し、受けた恩は石に刻む』というのが日本人の精神性ではなかったか。天皇が『こんなに国民のことを思っているではないか』と、また国民が『天皇の生活を支えているのは国民ではないか』と言い立てるような日本であれば、とっくに滅びていたに違いない。天皇が国民を我が子のように愛してその幸せ本当の親のように慕って国を支えてきたというのが我が国の国柄である。このような天皇と国民の関係性の上では、皇室による『国民生活への負担』を国民が提起することはないはずだ。
 御意思に従わなかった忠臣
 このように『国民生活への負担』という言葉は、皇室の伝統を簡略化し、あるいは変更する切り札として使われてきたように思う。まして、それが陛下のお考えとなれば、それに対して『反論』する人などいるはずもない。そのため、議論されることなく、粛々と皇室の伝統行事が変更されてきた。」
   ・   ・   ・   

 現代日本に蔓延るの忖度や配慮という媚び諂い。
   ・   ・   ・ 
 現代日本人は、本当の意味での、相手に対する思い遣り・気遣いを捨てている。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は、本当の忖度や配慮が理解できない。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は、自己愛と自己満足を優先し、他人の事を一切考慮しない。
   ・   ・   ・   
 天皇と国民(民族)の紐帯とは、時代で異なる。
   ・   ・   ・   
 高学歴出身知的エリート、特に出世・天下りを気にするエリートに、媚び諂いという忖度や配慮が根付いている。
 そして、ウソと詭弁と見苦しい言い訳。
 そこには、空虚な言葉が氾濫して言霊は死んでいる。
   ・   ・    ・   
 天皇・皇室に対する忠誠心や畏敬の念が最も強かったのは、非人・エタ・河乞食などの賤民や山の民・海の民・川の民などの部落民達であった。
 日本の天皇制度を支えていたのは、政治権力から切り捨てられ、宗教権力から見捨てられていた、貧民・賤民・卑民などの下層民達であった。
 事実、江戸幕府末期・幕末に勤皇派・尊皇派として活躍したのは下級武士と庶民からサムライになった浪人達である。
 彼らが忠良なる臣民として、外敵(ロシア・中国・朝鮮・その他)の侵略から天皇と国土と民族を命を捨てて守ってきた。
 現代日本人は、彼らとは違う。
   ・   ・   ・   
 キリスト教会とマルクス主義共産主義)は、日本民族日本人の美徳を無価値・有害として圧殺している。
 キリスト教会とマルクス主義共産主義)は、国民を天皇から切り離し、国民を味方にし、国民を使って天皇を攻撃しようとしてきた。
   ・   ・   ・   
 民族には、民族固有の宗教色のある物語が必要である。
 国民には、国民の物語は不要であり、国民の宗教は有害である。
 特に、外国人移民を増やす為には、国民意識を強め、民族意識を弱める必要がある。
 つまり、国民の為に民族を消す事である。
 外国人移民1,000万人計画が成功するかどうかは、日本人が日本民族への愛着を捨てる事にある。
 つまり、ナショナリズムの破棄である。
 その影響として、新生日本国から日本民族所縁の全てが形骸化し、消滅する。
   ・   ・   ・   
 現代日本人には、昔ほどのナショナリズムは存在せず、民族へのノスタルジーも希薄となっている。
 つまり、金にもならないものは無価値・無用として切り捨て始めている。
 金になるのであれば、中国資本や外国資本に惜しげもなく売って利益を上げている。
 事実。中国共産党系中国軍系中国資本は、日本国内で土地や建物、企業や工場を買い漁っている。
 中国共産党の対日戦略は二つ、西太平洋を支配する為に尖閣諸島・沖縄・沖ノ鳥島及び小笠原諸島を領有若しくは影響下に置く事、一帯一路構想における北極海航路確保及び北太平洋航支配の為に北海道に準軍事的拠点を築く事、である。
 中国共産党は、反日派敵日派として、日本との友好など本心から望んではいない。
   ・   ・   ・   
 『国體の本義』
 「我が国民の生活の基本は、西洋の如く個人でもなければ夫婦でもない。それは家である。家の生活は、夫婦兄弟の如き平面的関係だけではなく、その根幹となるものは、親子の立体的関係である。この親子の関係を本として近親倚(よ)り相扶(たす)けて一団となり、我が国體に則とつて家長の下に渾然(こんぜん)融合したものが、即(すなわ)ち我が国の家である」
 「我が国は一大家族国家であつて、皇室は臣民の宗家にましまし、国家生活の中心であらせられる。臣民……宗家たる皇室を崇敬し奉り、天皇は臣民を赤子として愛(いとお)しみ給ふ」


   ・   ・   ・    

真実の仁徳天皇―倭歌が解き明かす古代史

真実の仁徳天皇―倭歌が解き明かす古代史

🏓68〕─1─ポジティブなアメリカ。ネガティブな欧州。両面の日本。~No.151 ㉔

   ・   ・   ・   
 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2019年10月25日 週刊朝日「パテカトルの万脳薬 池谷裕二
 悪いニュースの数が年々増している理由
 自然災害、殺人事件、経済停滞、児童虐待、国際不和、政治不信、貿易摩擦。気がめいるニュースが連日のように飛び込んできます。どうして醜悪なニュースが続くのでしょう。実際、悪いニュースの数は年々増えています。世間は徐々に劣化しているのでしょうか。人類は滅亡に向かっているのでしょうか。
 ミシガン大学のソロカ博士らが先月の『米国科学アカデミー紀要』に発表した研究を紹介しましょう。この論文の結論をあえて大胆に解釈すれば『ヒトが悪いニュースを好むから悪いニュースがメディアで選択される』となりかす。誤解を避けるために、もう少し正確に説明しましょう。
 ヒトが悪いニュースに反応しがちなことはよく知られています。『ネガティブバイアス』と呼ばれる心理で、動物一般に見られます。危険を察知して警戒することは厳しい自然を生き抜くうえで必須です。嫌悪すべき状況や不快な情報に敏感であることは、いわば利点となります。
 ヒトのネガティブバイアスはどれほど普遍的でしょうか。文化や宗教によって異なるでしょうか。ソロカ博士らは『世間にはアメリカ人は楽天的で、日本人は悲観的だという印象がある』と指摘していますが、実際はどうでしょうか。
 博士らは世界六大陸にまたがる17の国に住む1,156人を対象に、様々なニュースを聞いたときの反応を調べている。BBCの番組から7種のニュースを聞かせ、皮膚の抵抗や心拍のゆらぎを計測しました。その結果、ネガティブなニュースを聞いたときほど皮膚抵抗が下がり、心拍のゆらぎが大きくなることがわかりました。つまり、より揺らすのです。どの国でも似た結果が得られましたから、ネガティブバイアスは人類に普遍的な現象であることが確認できます。
 たとえば、このページの冒頭の段落を再度読んでみてください。わざとネガティヴな表現で綴(つづ)ってみました。このような厭世的(えんせいてき)な記述に接すると平静でいるのは難しいものです。一方、幸せで明るい記事は心地よくはあるものの、感情の動きは、悲観的な記事を読んだときに比べて平坦で落ち着いたものです。
 結局のところ『脳はネガティヴな記事に注意を向けるようにデザインされている』ために、報道関係者は(視聴率や販売部数の観点から)脳への訴求力の高い悲観的なニュースを選定するようになるわけです。同時に、報道関係者自身の脳もまた生まれながらにしてネガティブなニュースに敏感であるという点も見逃せません。二重の要素でネガティブなニュースは増えてしまいます。
 今回の研究から、さらに重要なことが2つわかりました。1つは個人差が非常に大きいということです。平均するとネガティブバイアスの傾向が見られますが、意外なほど多くの人々が、逆の傾向を示し、むしろポジティブなニュースを欲しているのです。これは今後のマスメディアの報道のある方に1つの示唆を与える結果でしょう。
 もう1つは国による差異です。アメリカより日本のほうがネガティブバイアスが強いのは予想通りでしたが、意外なことに、底抜けに明るく前向きな印象のラテンの国々、たとえばイタリア、フランス、ブラジルは、日本よりもさらにネガティブバイアスが強かったのです。何らかの反動なのでしょう。イタリア映画を代表する作曲家ニーノ・ロータの哀愁を帯びた感傷的な旋律が、ふと、頭に響きました」
   ・   ・   ・   
 人類は、ネガティブとポジティブの二本並列の螺旋で進化してきた。
 人類は、誕生した揺り籠のアフリカを絶望し泣きながらネガティブに脱出し、不毛な大地や大海に向かって希望を持ちポジティブに旅立った。
 人類の一部が放浪の末に流れ着いた先が、陸の端、地の果て、地と海の狭間にあった絶海の孤島とも言うべき日本列島であった。
 日本民族日本人は、その裔(まつ)えである。
 不毛に向かって旅立つ者は、若い強者・勝者ではなく、病弱・年老いた弱者・敗者だけである。
 勇気ある冒険者や不屈の開拓者とは、そうした後者である。
 日本民族日本人は、その子孫である。
 歴史的民族大移動をした、ゲルマン民族は後者で、モンゴル人は前者である。
   ・   ・   ・   
 昔の日本民族日本人は、極端な怖がり・臆病であったが、喜怒哀楽を隠さず能天気なほどのポジティブであった。
 現代の日本国民日本人は、時に異常なほど怒りっぽいが極度のネガティブで、そのネガティブを誤魔化す為に怒りに身を震わせ攻撃的に振る舞う。
 戦後の現代教育は、日本民族日本人的な気質を子供の内から消し去る為に行われ来た。
   ・   ・   ・   
 自然災害や人災である大火で生き延びた江戸時代の庶民は、昼、人前では空元気で陽気に笑っていたが、夜、寝静まってから亡くした家族を想い残された寂しさから声を殺してすすり泣いた。
 怒りを鎮める為に、誰かに責任を押し付け、誰かを吊し上げ、誰かを呪い、誰かを罵り、暴れる、という事をしなかった。
 それが本当の日本民族日本人である。
 日本民族日本人は、諦める民族であって、怒る民族ではなかった。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、太陽=お天道様(女性神天照大神天皇霊・母性神)を崇めていた。
   ・   ・   ・   
 怒る民族とは、キリスト教文化圏、イスラム教文化圏、儒教文化圏などの諸国家の諸民族である。
 その中でも、自殺を禁止するキリスト教文化圏では銃乱射による多数の犠牲者を出す凶悪事件が多い。
 現代日本人は、キリスト教文化圏のアメリカ化ではなく儒教文化圏の中国化へと変貌しようとしている。
   ・   ・    ・   
 日本は地理的条件からいえば、地球の裏側に栄えている西洋キリスト教文化圏の一員になる事はありえない。
 日本には、中華儒教の毒が少なからず存在する。
 聖徳太子菅原道真などの先人は、日本を中華思想の毒で汚染させない為に中華儒教を日本儒教に作り変えて受け入れた。
 日本民族日本人は、「論語読みの論語知らず」として論語を愛読したがそれ以外の儒教五経には魅力を感じず興味も関心もなかった。
   ・   ・   ・    

🎌72)─1─幕府は、天皇を京都御所に軟禁し、皇室資産を制限し、皇室を支配した。〜No.141Mo.142No.143   * 

江戸時代の天皇 (天皇の歴史)

江戸時代の天皇 (天皇の歴史)

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 サムライ・武士は、忠実な天皇・皇族の臣下で、勇敢な天皇家・皇族の番兵である。 
   ・   ・   ・   
 江戸時代の非人・エタ・賤民と現代の部落民・同和民とは、全く異なる下層民である。
 非人・エタ・賤民などは、天皇を信奉し、敬愛し、畏敬し、天皇制度を守り、皇室の弥栄と永遠の存続の為に。命を犠牲にして戦っていた。
 部落民・同和民は、天皇・皇室を敵視し、天皇制度を廃絶しようとしている。
 非人・エタ・賤民こそが、正真正銘の日本民族日本人であった。
 部落民・同和民は、必ずしも日本民族日本人ではなかった。
 非人・エタ・賤民は帰化人であり、部落民・同和民は渡来人であった。
 帰化人は天皇家・皇室の味方であり、渡来人は天皇家・皇室の敵であった。
   ・   ・   ・   
☆自己犠牲で皇室を守るのがサムライである。
 徳川幕府は、朝廷の力を削ぐ為に皇族の数を減らし、有栖川、伏見、閑院、桂の四家のみを皇位継承権を持つ親王家と認め、それ以外は名目だけの宮家とした。
 天皇を皇居内に監禁して自由を奪い、皇室や公家の過分な私有財産を没収し、最低限の捨て扶持のみをあてがって飼い殺し状態に置いた。
   ・   ・   ・  
 天皇・皇族・公家は、格式だけは高いが、一般民衆よりも極貧生活を強いられていた。食べて生きる為に、伝統的文化芸能や作法や儀礼を独占し、趣味人として興味を持つ町衆に稽古料をとって教えた。それが、日本独自の家元制の始まりである。
 町衆は、天皇や公家等のあまりの貧しさを目の当たりにするや、義侠心からたまりかねて、幕府の監視に見付からない様に、こっそりと食べ物や日常の品を差し入れていた。
   ・   ・   ・   
 天皇即位式や節分・節句などの四季の祭事や禁中の能狂言雅楽などを公開する為に、京で町触れを行って告知した。京や大坂などの近畿の庶民で、拝見したいと思った者は切手札を入手して観覧した。
 天皇・皇室は、御所に入る者の身分や階級で差別せず、全てを公平・平等に大御宝・百姓として受け入れた。
 観覧できなかった者は、尊王の心から、天皇が祀られている各地の神社に多額の寄付金を寄進した。
 皇室に対する、庶民の信頼と尊敬によって「一君万民」という雰囲気か醸し出された。こうして、「国體」が強化された。庶民は、天皇をカルト的な神としてではなく、権力者・独裁者としてでもなく、ただただ神の裔として畏敬の念で安心して眺めていた。
   ・   ・   ・   
 天皇・皇室と庶民の間には、対立を伴う様な身分や階級は存在せず、神聖不可侵の冒し穢してはならない、象徴としての聖域・神域があるのみであった。
 神話に生きてきた昔の日本人は、八百万の神々の御心を鏡として分別を持ち、八百万の神々の御心で自分自身を律して生きていた。それが、日本人の宗教観であり信仰心であった。
   ・   ・   ・   
 地方のムラでは、豊作と家内安全と無病息災を祈って、伊勢神宮御師が売り歩く護符や神宮暦を購入した。そして、ムラの神社に御利益のありそうな天皇を神とし、そして鎮守様として祀った。
 神社には、教祖も、教典・聖典も、戒律・律法も、布教もない。あるのは、「神の子孫」である神の裔・男系天皇(直系長子相続)を御祭神とした拝殿のみである。
 神社は、氏子が自分らの氏神・祖先神を祀る特殊な宗教施設である。
 全ての神社は、「神の命と血」を引く男系天皇を御祭神として祀っているが、参拝者に「ああせい、こうせい」とお説教をたれてはいないし、信者となって信仰すれば特別に救ってやるとも云ってはいない。
   ・   ・   ・   
 神社の神格は、天皇霊の「大御心」「御稜威」を受け継ぐ神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を中心とした日本神話の中にある。
 天孫降臨神話を否定した神社は、日本の神社ではなく、神を持たない単なる建造物である。
 神社に「神の裔」である男系天皇を祀るから、庶民は、ただただ「ありがたく」「かたじけなさ」の純真無垢な「まごころ」で神社に参拝するのである。それが、日本の神道的信仰心、大和心である。
   ・   ・   ・   
 町衆やムラ人には、臣民という意識はなかったが、雅ではあったが極貧に耐え、艶やかであったが慎ましやかに、ひっそりと厳かに生活する皇室に愛情ともいえる愛着を持っていた。
 神の裔・万世一系男系天皇制度(直系長子相続)は、特権を有した専制君主制ではなかった。
 庶民は、中国的皇帝を認めなかったし、朝鮮的国王であれば見捨てていた。
 庶民は、基礎的漢学の素養や、短歌や俳句を創作する文学的才能や、歴史書や神話物語の読解能力があった為に、正しい天皇像を持ち天皇との精神的絆『皇道』を感じていた。
   ・  ・   ・   
 日本には、欧州はもちろん朝鮮や中国の様な、下層階級から搾取してゴージャスな生活を満喫する特権を有した上流階級は存在しなかった。
   ・   ・   ・  
 新井白石「天子の号令、四海の内に行はるるは、ひとり年号の一事のみこそおはしますなれ」(『折たく柴之記』) 
   ・   ・   ・   
 人間宣言に基づく非宗教的女系天皇擁立論は、宗教的神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)による外圧や外敵の侵略から神国日本を守り、中国化を避け独自の国風化を維持しようとした業績を歴史上から抹消する意図がある。
 中国を中心とした正統派儒教価値観による東アジア正史の闇に葬り、世界文明である中国文明の辺境に位置する非文明の蛮族・倭族として地位を与えることである。
 つまりは、八百万の神々による多種多様を認めるという柔軟な日本価値観の否定であり、神の裔・男系天皇(直系長子相続)を中心とした日本文明の抹殺する事である。
 そして、中国文明圏の一員として、「平和と発展」という未来志向で、中国や朝鮮との友好関係を築こうとする外交方針でもある。それが、現代版のアジア主義である。
 そこには、日本の独自性も国益も主権も存在せず、すべてアジアの盟主である中国の意向次第である。
 事実。近年、日本の政治家や企業家やマスコミ・評論家・知識人らによる中国訪問、中国詣でが急増している。新たな、朝貢貿易の始まりである。
   ・   ・   ・   
 現代日本は、東アジアの一員として、中国化あるいは韓国・朝鮮化しつつあるのかもしれない。
   ・   ・   ・   
 今や、神の裔である宗教的万世一系男系天皇(直系長子相続)制度は消滅しようとしている。
 その元凶は、皇室への特別な思い入れを捨てた現代日本人にある。
 現代日本には、サムライは存在しない。
 当然、武士道も現代の日本にはない。
 左翼・左派のマルクス主義者やキリスト教徒には、武士道はないし、サムライでもない。
 彼らは、日本の系図を無価値として棄てた人間である。
   ・   ・   ・   
 日本共産党と反天皇反日的日本人は、反宗教無神論から、神の裔の天皇制度を廃絶し、祭祀王の天皇家・皇室を消滅させようとしている。
 彼らは、息を吐く様にウソを吐く。



   ・   ・   ・   

天皇とキリシタン禁制―「キリシタンの世紀」における権力闘争の構図

天皇とキリシタン禁制―「キリシタンの世紀」における権力闘争の構図

天皇はなぜ滅びないのか (新潮選書)

天皇はなぜ滅びないのか (新潮選書)

江戸開幕 (講談社学術文庫)

江戸開幕 (講談社学術文庫)

徳川将軍と天皇 (中公文庫)

徳川将軍と天皇 (中公文庫)

💮394)─2・D─徳川家康は政治権力を天皇の権威より上位に置く為に元号制定権力を利用した。~No.929/  *⑩  

   ・   ・   ・
 関連ブログを6つを立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 神と神話を信じていた昔の日本は、俗世が神聖を支配する社会で、俗世は神聖の暴走を抑え込んでいた。
 例えれば、原子力発電所の核燃料が神聖であり、核燃料の熱エネルギーを制御している混じりけのない真水が俗世である。
 俗世に生きていた日本は、神聖の暴走を怖れ、その怖れを荒魂・和魂、御霊・怨霊と表現していた。
 神聖の暴走を言霊・音と和歌・文字で見える化したのが、元号の詔であった。
   ・   ・   ・   
 現代日本では、言霊・音と和歌・文字の力が弱まり、暴走は神聖ではなく俗世で起き始めている。
   ・   ・   ・   
 天皇は、儒学者が中国漢籍から考案した元号江戸幕府に提出し、徳川将軍の許可を得てから公布した。
   ・   ・   ・   
 2019年5月2・9日号 週刊新潮「夏裘(かきゅう)冬扇(とせん) 片山杜秀
 将軍様と『万葉集
 令和から、元和(げんわ)という元号を思い出した。字面(じづら)が似ているせいもある。だが、二文字目が和なら、天和(てんわ)や昭和など、他にもたくさんある。字面よりも決め方なのだ。そこに連想されるものがある。
 元和は慶長の次。慶長5年が天下分け目の関ヶ原。勝利した徳川家康が江戸に幕府を開くのは8年。大坂城豊臣氏は20年5月に滅ぼされた。
 その頃の元号は、明治以降のように一世一元ではない。天変地異や政治的重大事があれば変わった。改元を決め新元号を選定するのは、武家の時代になっても、相変わらず朝廷だった。
 ところが家康は、徳川の威光が日本のすべてに及ぶべきだと考えた。徳川の力が、応仁の乱以来の戦国乱世をついに終わらせた。日本を平和は『徳川の平和』。天皇元号、何するものぞ。
 家康は豊臣を滅ぼしたのち、ただちに禁中並(ならび)公家諸法度を作った。その第8条は改元について。元号は、原則として中国で既に使用された元号から選ぶべしと定めた。ただし、もしも条件が揃えば、将来は日本独自の元号であっても可とするとも記してある。
 とにかく家康は慶長20年に、『徳川の平和』をこの国に強く印象づけるため、すぐ改元したかった。中国で使用済みの元号を優先せよと定めたのは、意中の元号がそこにあったからと思われる。元和だ。中国では唐代に使われている。徳川を大元(おおもと)に平和が定まるとの含みだろう。新元号禁中並公家諸法度の制定作業は、並行して行われた。慶長20年7月、元号は元和に。天皇を律する法度も効力を持った。
 こうして家康は、言わば『元号制定権力』を朝廷から取り上げることで、天皇よりも将軍が偉いというイメージを、この国に作り上げた。
 以来、『元号制定権力』は、江戸幕府から明治維新後の新政府に受け継がれ、現在に至っているのだろう。大正や昭和も平成も、そして令和も、政府の責任で考案され、制定された。その意味では同じである。だが、今回の令和は、新元号の見せ方が明らかに違っていた。
 大正と昭和と平成は崩御とリンクした改元。国全体が喪に服していた。お祭り騒ぎには決してならない。為政者が嬉々として新元号の意味を語り、『私が決めました』と言わんばかりに露出するということは、ありえなかった。
 でも、今年の4月1日は祭りだった。
 『元号制定権力』の派手なパフォーマンスがあった。『天皇元号』というよりも、『政府の元号』であるかのように感じられた。
 この国に『第二の江戸幕府』や『第二の徳川家康』が現れた。令和は強力な幕府的政治の時代になるのではないか。私のひとつの妄想です。
 ……」
   ・   ・   ・   
 徳川家康は、日本や中国の歴史に詳しく、西洋の国際情勢や世界の経済事情にも関心があり、自分が知り得た知識を政治に応用した。
 後の、歴代将軍は、徳川家康の実績を祖法として護り治世にあたった。
 徳川幕府は、オランダから海外情報を得て、世界の事情をある程度は知っていた。
   ・   ・   ・   
 江戸時代の日本を重苦しく支配したのは、仏教でも神道でもなく儒教であった。
 儒学者達は、幕府に朱子学を正学・官学と認めさせ、陽明学など諸派儒教を私学・邪学として表舞台から追放した。
 儒学者山鹿素行は、朱子学を批判してた事を幕府に咎められ、江戸から追放された。
 儒学者達が目指す理想的聖人君主国家とは、中華世界・中華文明圏に組み込み、中華帝国・中華皇帝に臣下の礼をとる道徳国であった。
 故に、儒学者達は中国への憧れが強かった。
 つまり、日本を朝鮮国や琉球国のような国家にするする事であった。
 儒学者は、中華皇帝と対等を主張する日本天皇を認めてはいなかった。
   ・   ・   ・   
 日本では、政治権力者や宗教権威者が代わっても、時の支配者万世一系男系天皇家・皇室だけであった。
 日本に於ける時の支配者とは、農耕漁労の生業を司る生命の守護者でもある。
 ゆえに、日本では、政治権力者や宗教権威者による敵対者への虐殺は起きず、金を使った裕福者による貧者の奴隷化もなかった。
 時の支配者・生命の守護者である天皇・皇室を守ったのは、身分低き庶民(百姓や町人)、蔑まれた民(芸能の民や職人)、虐げられた賤民(非人や穢多)、差別された部落民(山の民・川の民・海の民)達であった。
   ・   ・   ・   
 世界における時の支配者・生命の守護者とは、宗教的な天地創造の唯一絶対神だけであり、人でもなければ、法律・憲法でもなかった。
 時の支配者・生命の守護者の正統性は、唯一絶対神にだけ存在する。
 何故なら、人は永遠の命を持たながゆえに必ず死ぬからでり、憲法や法律などいとも簡単に書き替えられるからである。
 つまり、私欲・個人欲の強い傲慢な人間など信用できないからである。
 人を殺しモノを奪うのは、神ではなく人であるからである。
 それは、共産主義者マルクス主義者)が行った歴史的な残虐行為を見れば明らかである。
   ・   ・   ・   
 共産主義革命暦=人民暦は、宗教を否定する事で正統性としている為に、命溢れ満ち足りた幸せな神の天国暦・仏の極楽暦ではなく、死と暴力が支配する恐怖の地獄暦であった。
 共産主義マルクス主義)は、各地で大虐殺を行い、死体の山と血の池を作ってきた。
 共産主義マルクス主義)は、宗教的な死後の世界を否定する、虚無の思想である。
   ・   ・   ・   
 戦前までの日本は、天皇制度廃絶、天皇家・皇室消滅を暴力的人民革命で実行しようとした共産主義マルクス主義)勢力と、一人孤独に戦っていた。
 つまり、日本の戦いは共産主義者マルクス主義者)との冷戦ではなく熱戦であった。
   ・   ・   ・   

💮202)203)204)205)─2・C─西暦がグローバル・スタンダードになったのは1752年頃からである。~No.929/ *   

   ・   ・   ・
 関連ブログを6つを立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 中世ヨーロッパの年代記は、キリスト教会では教皇の在位年数で、各王国や諸領主の領内では君主や領主の在位年数で、それぞれ記載されていた。
   ・   ・   ・   
 西暦。キリスト教世界における時の支配者は、キリスト教会の総本山・バチカンであり、コンクラーベで選ばれるローマ教皇である。
 イスラム暦イスラム教世界における時の支配者は、アラーである。
 時の支配者は天地を創造した唯一の絶対神であったが、地上の人間社会では絶対神の代理と称する聖職者であった。
 世界における、時の支配者とは唯一絶対神であり、時の番人はその僕(しもべ)である祭祀者であった。
 宗教が、正統な時の支配者として認めるのは、天地創造の創り主である唯一絶対神だけであって、人間や法律・憲法ではない。
   ・   ・   ・   
 時の支配者は命の支配者でもあり、異端者や異教徒の虐殺を正当化する。
   ・   ・   ・  
 革命暦=人民暦。非宗教の時の支配者は、反宗教無神論マルクス主義者、神殺しの共産主義者である。
   ・   ・   ・   
 元号問題の真の目的は、時の支配者という地位の争奪戦である。
 つまり、日本の時をめぐる、日本民族のローカルと世界のグローバルの争いである。
 歴史的事実として、世界のグローバルは地球上にかつて存在していた数多くの地域のローカルを絶滅・根絶させてきた。
 何れは、世界基準であるグローバルな時の支配によって、ローカルな時の支配である日本の元号も消滅する運命にある。
   ・   ・   ・   
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人とアフリカ人を奴隷として売買して金お受けをしていた。
 日本人を奴隷として売ったのは、日本人である。
 「人の命は金で自由に買える」という考え方は、現代日本人の中でも一定の支持を得ている。
   ・   ・   ・   
 政教分離の原則に従い「元号政令で定める」日本国憲法は、神の支配を排除し、宗教を否定している。
 日本国家及び日本国民は、宗教を否定し、社会・生活・教育から宗教を排除している。
 日本国憲法は、反宗教無神論として、神の上に存在し、宗教を支配している。
 その象徴が、靖国神社問題である。
 日本で、宗教差別・対立、宗教騒動・暴動、宗教テロなどが起きないのはその為であって、多神教による寛容だからではない。
   ・   ・   ・   
 元号否定論とは、特定宗教による宗教弾圧ににている。
 敬虔なキリスト教徒は日本教区内で宗教弾圧を行い、神社仏閣を破戒し、僧侶・尼僧、神主・巫女らに改宗を強要し、拒否すれば暴行を加えて教区外へ追放した。
 キリスト教徒は、時の支配として天皇元号を廃してイエス・キリストの西暦を採用しようとした。
   ・   ・   ・   
  鈴木洋仁 『「元号」と戦後日本』(青土社
   ・   ・   ・   
 2019年6月号 Voice「元号は『つくられた伝統』か
 『近代日本の歴史をどう見るか』のリトマス試験紙
 鈴木洋仁
 令和元年が始まりました。
 4月1日に政府が発表したこの新しい元号については、すでにさんざん論じられています。
 本稿著者もまた、浅学を顧(かえり)みず、テレビや新聞等でコメントする機会をいただいたので、ここでは繰り返しません。ただし、こうして、元号を多くの人たちが語ることそれ自体が、とても興味深いと感じている。つまり元号を語ることによって、日本という国は『奇妙』に安定して、一体感を保っているかにみえるのです。これは言い換えると、元号国民国家といての纏まりをつくるツールとして、機能しているかのように映ります。
 本稿では元号そのものをダイレクトに論じる、というわけではありません。それよりも、元号を語るときに何を語っているのか。あるいは、元号を語るとき、どういうことなのか。こういった点から、新しい元号をきっかけに考えてみたいのです。
 元号は日本唯一の存在か
 まずはその前に、『元号を使っているのは日本だけである』という、しばしば使われる決まり文句について確かめておきましょう。
 元号は、周知のとおり、古代中国に始まったとされています。皇帝が時間を支配する、という考え方に基づき、漢の武帝の時代(西暦紀元前140年)の『建元(けんげん)』が、史上初めての元号とされています。
 この考え方を取り入れた日本では、645年の『大化』が最初の元号といわれており、今回の令和が248個目です。今上陛下が126代目ですので、元号はその約2倍に当たります。慶応から明治への改元とともに、『一世一元』、すなわち一代の天皇に一つの元号を限定しています。現在では、天皇陛下の御世替(みよが)わりの際にだけ元号を改めますが、江戸期までは、吉兆(きっちょう)や自然災害からの復興祈願、あるいは政治状況といった、さまざまな理由によって、改元されてきました。
 そして、大化から昭和に至るまでの246の元号は、最終的にはすべて天皇が決めてきました。たとえ武家の力が強い時代であっても、最後には天皇元号を決めてきたのです。それこそが、『時の支配者』たる天皇の力の源泉だとも捉えられるでしょう。たとえば、明治天皇の父・孝明天皇は、その短い35年の生涯のなかで、弘化から慶応まで6回もの改元を行っています。
 そして、元号は、朝鮮半島や現在のベトナムといった漢字文明圏、すなわち、中国の影響力が及ぶ範囲の国や地域で広く使われていました。
 しかし、その『発祥国』である中国でも、清朝の終わりとともに元号を使わなくなります。このため現在では、少なくとも『一世一元』を制度として定めている国は世界中でにほんだけです。
 世界の紀元年
 ただし、台湾には、中華民国建国を元年とする『民国』という紀年法がありますし、北朝鮮にもまた故金日成の誕生年から数える『主体』という暦があります。ほかにも世界を見渡せば、『年代』や『時代』によって世界を捉えようとする習慣は、いくつか挙げられます。
 『時代を区分けする』という営みは、『元号』に限らず、さまざまに行われてきました。ジュラ紀白亜紀といった、恐竜の進化に基づく区分や、縄文、弥生といった、土器の様式をベースとする数え方もあります。もしくは、イギリスにおけるヴィクトリア朝時代、フランスにおけるアンシャン・レジームといった、政治体制に基づく区分もあります。
 そして、何よりも元号と比べられるのは、いわゆる西暦でしょう。キリスト教紀年に基づくこの数え方はあたかも『グローバル・スタンダード』であるかのように語られます。しかし、歴史学者の佐藤正幸氏が述べるように、この西暦は、世界の歴史のなかでは、そこまで古いものではありません。
 イエス・キリストの体現を起点とするこの年の数え方は、現在でも復活祭を中心に回っています。他方で、1年のサイクルは、紀元前753年を起点とするローマ建国記念=ローマ皇帝の即位記念で数えられていました。その後、3世紀末から4世紀初めにかけて、ローマ皇帝ディオクレチアヌスが、キリスト教徒を強く迫害。ここでキリスト教徒のあいだから、迫害者の在位に基づく数え方ではなく、主イエス・キリストの誕生をベースに年を数える方法を選ぼうと試みたところに始まるのです。
 とはいえ、キリスト教徒全体に正式に提案されたのは6世紀半ばです。さらに、それから200年を経った8世紀ごろに、ようやく、キリストの生まれる前=紀元前という概念が生まれます。つまり、このときになって、キリストの生誕を境にした区分が明確になります。
 それだけではありません。この区分そのものは、12世紀までほとんど忘れ去られてしまいます。『キリスト教紀年』が、フランスの神学者ボシュエの議論をきっかけにヨーロッパ全体に広まるのは、18世紀のことです。実際、大英帝国がこの暦を正式に使用するのは1752年のことです。
 このように、世界各地にはいろいろな年の数え方があり、そして、その使い方は長年同じではありません。紀年法としての元号は日本にしかなく、その発祥の地である中国にもありません。これに対して西暦は、世界中で使われている『グローバル・スタンダード』だから、こうした『ガラパゴス』的な元号は止(や)めるべき。そんな主張があります。
 この『ガラパゴス』的という形容は、イメージをつかむために便利ですが、佐藤俊樹氏が近著『社会科学と因果分析 ウェーバーの方法論から知の現在へ』(岩波書店)で述べるように、ガラパゴス諸島の動植物に、とても失礼な言葉であり、日本の元号をめぐる表現としてもまた、最適ではありません。
 なお、本稿の著者自身、『東洋経済オンライン』に寄稿した記事のタイトルに、編集者によって『ガラパゴス』と付けられた経験があります。不適当だと考えるなら、本気で断(ことわ)ればいい話です。
 しかし少なくとも、この『ガラパゴス』は元号に関するイメージを表しています。つまり、『元号を使っているのは日本だけ』という、しばしば使われる決まり文句と通底しているのです。西暦という『グローバル・スタンダード』があるのにもかかわず、わざわざ日本だけで元号を残している、それは時代遅れな『ガラパゴス』的状況だ、という語り口が元号について語られるときにみられるでしょう。
 元号をめぐる語り口
 では、そもそもなぜ、こうした語り口がみられるのでしょうか。
 それは、元号や西暦を時代区分のインデックスとする、その捉え方が、紛れもなく近代、とりわけ戦後という時代区分と関係しているからです。
 順を追って説明します。
 元号をめぐる語り口には、この小論で取り上げた型のほかに、大きく二つに分けられます。それは、『解体論』と『つくられた伝統論』という図式です。
 前者は、元号の存在が、近年に至るにつれてますます希薄になっていると捉え、後者は、『元号』は、近代になって、為政者たちによってつくり出された、と捉えるものです。
 『解体論』は次のような理屈です。
 元号には長い歴史があります。これを重視すれば、現在、元号の存在感は薄い、と感じられる。すなわち、元号は青土として残っています。にもかかわず、たとえば日本史や世界史のテストでは、出来事について西暦を使って覚えています。あるいは、普段の生活でも元号よりも西暦を使うほうが多くなっています。実際、今回の改元を機に、運転免許証は、元号と西暦が並んで記載されます。
 すると、元号は形骸化しているようにみえます。いわゆるグローバル化の影響により、世界に通用する時間の尺度が必要とされ、元号は日本でしか流通しておらず、どんどん使われなくなっているのではないか・・・。あるいは昨今、しばしば使われる『昭和くさい』『昭和っぽい』『昭和を感じ』といったかたちで使われるに『昭和』ついても、同じような説明ができます。
 『昭和』を含めて、元号という存在は、すべて古さや昔を表すフラットなインデックスになったといえます。普段、西暦を使えば使うほど、わざわざ元号を使うのは、昔話に限定されているのではないか・・・。こうした議論を『解体論』と呼ぶことができます。以前は使われていた元号は西暦に取って代わられ、もはや衰退していった、との考え方です。元号の位置が『壊れてしまった』『解体してしまった』との捉え方ともいえましょう。
 元号は長い歴史をもっていますから、古来、日本人に定着して隆盛を誇っていたと考えることもできます。そして、この数十年のうち、とりわけ、平成以降、元号の存在感が薄くなり、やがて消えていってしまうのではないか、という理路はたしかにありえるのかもしれない。
 こうした『解体論』に対して、また別の立場もありえます。それが『つくられた伝統論』です。
 誰もが自ずと受け入れている
 これは、天皇の在位期間と、元号の長さを一致させる一世一元に着目すれば、現在の『伝統』はつくられたものだ、という説明です。
 たしかに、現在の元号は、慶応から明治への改元とともに発せられた『一世一元の詔』に端を発しています。歴史上初めて、一世一元を明文化しました。その後、1889年(明治22年)の大日本帝国憲法の発布、おとび同年の旧・皇室典範と登極令の制定によって、法律的な基盤を固めます。
 ところが日本国憲法下において編(あ)み直された現行の皇室典範では元号は規定されず、法的根拠を失います。そこで政府は、元号を『事実たる慣習』として辛(かろ)うじて維持します。そして1979年(昭和54年)に、ようやく元号法が成立するのです。
 同法では元号政令で定めること、ならびに皇位の継承があった場合に限り改元すること、の二点のみを定めます。ここに至って、現在の日本国憲法下で初めて法的根拠を与えられます。さらに、『事実たる慣習』として続けてきた昭和という元号については、元号法の附則をもって成立したとする、みなし規定を法的根拠として与えます。
 こうした経緯に鑑みれば、なるほど元号の歴史、少なくとも、現在の元号をめぐる法律上の制度は、どれだけ長く見積もっても明治以降に『つくられた』と捉えられます。しかし、この『つくられた伝統論』には、もどかしさが付きまとういます。『つくられたものだ』といって切り捨てられず、元号が、ある種のイメージをつくっている状況をまた認めざるをえないからです。
 たとえば思想家の故・鶴見俊輔氏は『時代が元号によって区分されることは、日本人の歴史把握を相当にまどわせてきた』と批判しました。けれどもその上で、『現代の日本人にとって、大正時代の文化は、大正天皇の顔かたちとダブって、一つのまとまりあるイメージをつくっている』とも述べています(引用は、いずれも鶴見俊輔「大正期の文化」『鶴見俊輔集 第5巻』筑摩書房、1963~1991年、413ページ)。
 鶴見氏ほど『リベラル』の考えの持ち主であってもなお、元号による時代区分を批判しつつも、同時に『大正文化』と題した議論を展開しています。『歴史把握を相当にまどわされきてた』と、元号による時代区分の恣意性を咎(とが)めるいっぽうで、『大正時代』という区分の『イメージ』を基に議論しているのです。
 元号は、近代日本において『つくられた伝統』であり、そして、なおかつ終身御在位の天皇陛下と連動しているため、その生死と機を一(いつ)にします。それゆえ、天皇の表情・身体とともに、『元号』を、とある時代として『一つのまとまりあるイメージをつくっている』ことは、受け入れるほかありません。
 鶴見氏がそうであるように、たとえ、『つくられた伝統』としての元号=一世一元に批判的な論者であっても、その拘束力から出発せざるをえません。『天皇元号を軸に区切られた時代区分は一定の強い力をもつ尺度として成り立っていた』とみていました。
 先に触れた『解体論』と『つくられた伝統論』の両者の関係は、元号の『歴史の長さ』を重視すれば『解体論』を描くことができ、逆に、その『歴史の短さ』を重視すると『つくられた伝統論』を描けます。
 リトマス試験紙としての元号
 こうした点で、元号を論じる二つの語り口は、近代日本の歴史をどう見るか、のリトマス試験紙です。では、そのリトマス試験紙とは、どのようなものでしょう。
 米国の日本研究者ケネス・ルオフ氏の議論を補助線にして考えてみましょう。
 ルオフ氏は、先ごろ『天皇と日本人 ハーバード大学講義でみる「平成」と改元』(朝日新書)を出版されました。米国において、近代日本における天皇に関して研究する第一人者です。
 そのルオフ氏は、『国民の天皇 戦後日本の民主主義と天皇制』(木村剛久・福島睦男訳、岩波現代文庫、2009年)のなかで、『元号の使用は天皇が在位する期間に沿って、ものごとを考えるように日本に捉するものである』とのべています(同書283ページ)。
 鶴見氏と同じくルオフ氏もまた、とりわけ一世一元のもとでの元号が、時の支配者天皇という位置付けを固めている、とみています。加えてルオフ氏は、『西暦の訳語にはふさわしく、日本人にとって「西暦」は世界に通用するスタンダードだった』とのべています(同書283ページ)。
 元号は近代日本のナショナリズムを示し、西暦は近代日本のグローバリズムを表している、とルオフ氏の講義を解釈できます。しかしながら、こうしたルオフ氏の講義それ自体が、近代日本を見る上での縛りになっているのではないでしょうか。
 その理由は、二つあります。一つは先に確かめたように、西暦そのものが近代の産物である点です。二つ目は、元号による時の支配は、西暦導入以前から続いていたからです。
 歴史学者藤田覚氏は、江戸時代においても『天皇による時間の支配を意味し、天皇による国土と人民の支配・統治を象徴する元号が維持されたことは、現代に至るまで大きな意味を持ち続けた』(『江戸時代の天皇講談社、2011年、220ページ)と述べています。
 『元号は、政令で定める』、すなわち元号を内閣が決めるとしている現在の元号法は、その歴史のなかでは異質だというます。平成と令和という直近の二つの元号は、その歴史のなかでは決め方が異なります。
 ですから、こうした現時点から見ると、一世一元と終身御在位という明治以降の『つくられた伝統』のなかでの元号は、二重に、近代日本に縛られています。
 一つは、『天皇が在位する期間に沿って、ものごとを考える』という点で近代日本が生み出した仕組みであることです。もう一つは、その『つくられた伝統』すら、もはや制度上は残っておらず、政令、というこれもまた近代以降につくられた制度に基づいて決められて居ることです。
 そして、今回の改元をきっかけにして、あらためて考えたいのは、本稿で述べてきた二項対立の相対化です。
 元号と西暦、あるいは『解体論』と『つくられた伝統』といった、二者択一にこだわるのではなく、逆にそうした図式を、いかにして捉え直せるのか、という思考の胆力が求められているのではないでしょうか。
 もちろん、求められるのは本稿著者です。あるいは読者の皆さんはすでに、こうした図式から自由なのかもしれません。
 ただし、どのように歴史を捉えるにしても、もしくは今回の改元が、どのように演出されているにしても、歴史をどう受け止めるのかをめぐる絶好の機会であることに間違いはありません。
 具体的には、元号とは何であり、そもそも必要か否かといったテーマをめぐる思考こそ、従来の語り口から離れたところで考えるに値するテーマにほかなりません。」
   ・   ・   ・   
 江戸時代。日本が西洋に抱いた恐怖・脅威・危機感は、キリスト教による宗教侵略であった。
 徳川幕府は、一向一揆などの苦い宗教騒乱を経験してきただけに、宗教を敬して政治から遠ざける宗教政策をとっていた。
   ・   ・   ・   
 無宗教現代日本人の知力では、普遍宗教であるキリスト教の「隣人愛信仰」の真相が理解できない。
 理解能力がない日本人は、高学歴出身知的エリートに多い。
   ・   ・   ・   
 日本の元号を否定しキリスト生誕紀年の西暦を使用すべきと主張する日本人は、中世キリスト教が行った異端審問や魔女狩り宗教裁判、カトリック教とプロテスタントの虐殺や戦争、異教徒との虐殺や戦争をどう咀嚼するのか。
 さらに、中世キリスト教会や白人キリスト教徒商人が行った、非人道犯罪行為である日本人やアフリカ人の奴隷交易をどう正当化するのか。
 が、日本人を白人キリスト教徒商人に奴隷として売ったのは同じ日本人である。
   ・   ・   ・   
 西暦には、その暗黒史が秘められている。
 元号には、そうした悲話が折り込まれている。
 元号を否定する反天皇反日的日本人は、日本民族日本人が味わった悲話を無意味・無価値として葬り去ろうとしている。
 西暦を受け入れると言う事は、西洋が日本で犯した非人道的犯罪を無効にして許すと言う事である。
   ・   ・   ・   
 元号を護り維持するという事は、日本民族が辿ってきた苦難の歴史をしっかりと受け止める、受けた悲嘆を忘れずに抱きしめるという決意の表れである。
 歴代天皇が定めた元号には、悲しみを怒りや恨みに変えず受け入れ、過去は過去として忘れず、子孫の為・未来の為に前を向いて歩いていこうという決意が含まれている。
 元号が、日本に残って中国や朝鮮・韓国で廃止されたのはそういう事である。
 ゆえに元号は、民族主義天皇主義に繋がり、将来的に歴史を書き替えるという歴史修正主義を正当化する恐れがある。
   ・   ・   ・   
 バチカンローマ教皇は、キリスト教に改宗した日本人を奴隷にする事を禁止した。
 ポルトガル及びスペイン国王は、日本人を奴隷として売買する事を禁止した。
 白人キリスト教徒商人は、ローマ教皇ポルトガル及びスペイン国王に対して、日本人の奴隷交易できるように商売にならないとして禁止を解除するよう幾度も嘆願した。
 つまり、日本人の人権・自由そして命よりも自分達の金儲けの方が優先される、と。
   ・   ・   ・   
 ローマ教皇は、イエズス会など全ての宣教師に対して、日本人を奴隷にしない為に一刻も早く日本人をキリシタンに改宗させ、日本国をキリスト教化し、異教の神々=悪魔を聖なる炎で焼き滅ぼすように命じた。
 豊臣秀吉徳川家康江戸幕府は、キリシタン弾圧で対抗した。
 スペインは、徳川家康に対して、南蛮貿易を望むならキリスト教布教を認めるように求めた。
 徳川家康は、三浦按針の忠告に従い、キリスト教布教を拒否して南蛮貿易を断念した。
   ・   ・   ・    
 熱烈なキリスト教徒は、日本人キリシタン(40万人~70万人)を教皇庁直属の神聖騎士団に編成して、日本をキリスト教化する為の聖戦を考えていた。
   ・   ・   ・   
 英蘭戦争 イギリスとオランダの3次に渡る戦争。1652~54年、66~67年、72~74年。オランダは制海権を失った。イギリスは、日本との交易を断念し、新大陸アメリカの植民地開発に国力を回した。
 七年戦争(1756~63年) プロイセンは、イギリスの財政支援を受けて、オーストリア、ロシア、フランス及びその同盟軍と戦争をした。
 西洋諸国は、東アジア交易から撤退していった。
   ・   ・   ・