☵12〕─5─韓国の左傾化した歴史教科書。南朝鮮労働党(南労党)の済州4・3事件を美化。~No.84No.85 

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 2021年4月11日 MicrosoftNews JBpress「韓国でもしっかり起きている歴史認識と教科書の歪曲
 © JBpress 提供 哨戒艦「天安」沈没事件の追悼式で演説した文在寅大統領(写真:YONHAP NEWS/アフロ)
 (金 愛:フリージャーナリスト)
 文在寅政権下でさらに左傾化した韓国教育界が露骨な「従北」態度を見せている。1948年に済州島で起きた「済州4・3事件」について、韓国の歴史教科書8種類のうち3種類が暴動を主導した南朝鮮労働党(南労党)について記載していないことが判明したのだ。
 日韓史を捏造、歪曲し、日韓関係が悪化する素因を作り出してきた韓国教育界。左派・進歩学者や全教組教師が韓国史教科書を執筆して反日を扇動、北朝鮮に追従する教育の左傾化を推し進めている。
 朝鮮日報は4月5日、韓国教育部の検定を通過し、2020年から高校で使われている韓国史教科書8種類のうち、3種類の教科書で、4・3事件の記述から武装暴動の主体だった「南労党」(南朝鮮労働党)で省かれていると報じた。
 最も多くの学校が採択している「未来N」教科書を見ると、済州4・3事件を「1948年4月3日に武装隊が蜂起して以来、1954年9月21日まで済州島で発生した武力衝突と鎮圧過程で多くの住民が犠牲になった事件」と定義づけるだけで、武装隊が南労党だったという事実を明示していない。別の教科書、金星と東亜も南労党を「済州島左翼勢力」などと記載している。
 共産主義の南労党という名称を明示しない一方で、右翼団体については「警察と西北青年会を動員した弾圧」などとして具体的な名称を記載している。 暴動事件を起こした南労党を武装隊という正体不明の団体に変質させた歴史歪曲と言える。
 済州4・3事件を美化した文在寅大統領
 済州島の住民と専門家で構成された「済州4・3真実究明のための道民連帯」が発刊した「済州4・3真実道民報告書」によると、南労党は1946年に結成された共産主義団体で、1948年4月3日、南労党中央部の指令を受けた済州島共産主義者たちが韓国政府の樹立を阻止して暴動を起こした事件である。
 韓国国防部軍史編纂研究所が発刊した『韓国戦争史(1)』には「反乱軍に虐殺された民間人は1200余人、負傷した民間人1150余人、焼失・破壊された家屋1538棟、行方不明者3500余人、被災者9800余人」と書かれている。国民同士が銃を向け合った大虐殺だった。
 韓国の学界も「済州4・3事件」は、1948年、南労党が国連の監視下で行われた5・10総選挙を妨害し、大韓民国の建国を阻止するために起こした武装暴動という解釈を示している。
 李承晩政府の樹立を図ろうとした韓国を金日成北朝鮮政権の統治領域に含めるため、南労党人民解放軍が起こした暴動と鎮圧は1957年4月2日に最後のパルチザンが逮捕されるまで続いた。北朝鮮共産主義者が9年にわたって、組織的犯罪を行い、済州島を混乱に陥れたのだ。
 歴史歪曲は文在寅大統領の演説にもみられる。文大統領は2020年と2021年の「済州4・3犠牲者追悼式」で、南労党に触れることなく「済州が分断を越えて平和と統一を熱望した場所」と美化する発言を行った。南労党を済州や済州道民と言い換えて、北朝鮮の蛮行を覆い隠したのだ。
 文大統領の従北疑惑はたびたび噴出している。2018年平昌冬季五輪のレセプションで「尊敬する韓国の思想家、申栄福(シン・ヨンボク)先生」に言及した。
 申栄福は韓国の代表的な金日成主義者で、朴正熙(パク・チョンヒ)政権時代の「統一革命党事件」に関与したスパイ容疑で約20年間の獄中生活を送った。
 18年9月19日には、韓国大統領として初めて訪れた平壌北朝鮮市民に向かって「南大統領の文在寅」と韓国を卑下する自己紹介を行った。南朝鮮北朝鮮が韓国を見下して使う表現である。
 歴史教科書を“歪曲”している人々
 北朝鮮軍の魚雷で沈没したとされる天安艦沈没事件や、北朝鮮が挑発した延坪島砲撃事件から間もない2011年12月17日、北朝鮮金正日総書記が亡くなった。当時、盧武鉉財団理事長だった文大統領は弔問団として訪朝を画策した。文大統領は弁護士時代から対北朝鮮工作を想定した「国家保安法」の廃止を主張、「従北論争」を引き起こしてきた。
 文大統領が側近を務めた盧武鉉政権は、2003年の「済州4・3事件真相究明及び犠牲者名誉回復委員会」の真相報告書に「共産武装反乱勢力の暴動と虐殺」と明示した。武装隊は「南労党済州道党軍事部傘下組職で、予備部隊である遊撃隊とこれを補助する防衛隊や特攻隊などで編成」と明らかにしている。
 一方、韓国の教科書と文在寅大統領の演説からは、盧武鉉左派政権が指摘した南労党の記述は完全に消えており、韓国社会が急速に左傾化したことを示している。
 韓国の「高校韓国史教科書」は、幾度となく左寄りという議論を巻き起こしてきた。 2011年には「自由民主主義」を「民主主義」と書き換えた教科書が多数登場した。2013年には8種類の検定教科書のうち、5種類が北朝鮮の侵攻で始まった朝鮮戦争を「南北共同責任」に書き換えた。韓国の教科書執筆者は、多くが左派系教授や全国教職員労働組合(全教組)の教師である。
 全教組は韓国教員団体総連合会(教総)と並ぶ二大教員団体の一つで、「左派教師労働組合」と呼ばれている。戦闘的組合として悪名高い全国民主労働組合総連盟傘下の労働組合だ。
 全教組は1960年から1961年に広がった教員労組運動の流れを引く法外労組だったが、金大中政権時代に合法的な地位を取得した。続く盧武鉉政権は教員労組運動で刑事処罰を受けた組合員を赦免し、「民主闘士」という栄誉を与えて教師集団を特権化させた。
 全教組は創立宣言で真の教育を「民族・民主・民衆教育」と定義している。全教組の民族教育は米軍撤収、民主教育は階級闘争教育、民衆教育は連邦制統一教育で、全教組は公には認めていないが、所属教師らは左寄りの反米・反日行動を繰り広げてきた。
 韓国社会が左傾化する元凶
 朴槿恵李明博と2代続いた保守政権は「国定歴史教科書」を採択しようとしたが、左派陣営の反発で頓挫した。左派が日本の右翼による教科書歴史歪曲に対抗すべきという反日扇動理論を掲げて「国定教科書」に反対したのだ。その後、韓国教科書の左傾化と歴史歪曲がさらに深刻化した。
 全教組は、慰安婦、徴用工、日韓併合日帝による強制動員と侵奪した犯罪と教えている。一方、何千人もの無実の命が失われた4・3事件や朝鮮戦争を引き起こした北朝鮮の犯罪は覆い隠す。こうして今も、韓国の学校では左寄りの歴史歪曲教育が行われている。」
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🗻83〕─1─平安時代は地獄。平安京は群盗が横行するダークサイドシティであった。~No.212No.213 

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 武士は、群盗が横行し治安が悪化した平安時代に生まれた。
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 平安時代は、数多くの自然災害が複合的に多発していた。
 平安京は幾度も大火が発生し、疫病による病死者や飢餓による餓死者が路上に捨てられ放置され死臭が漂う、生き地獄の有様であった。
 生き地獄の平安時代の生き方は、自己責任・自助努力・自力救済であった。
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 浄土教の鎌倉仏教は、救いのない地獄のような平安時代の絶望の中から生まれた。
 葬式仏教である日本仏教は、インド仏教はもちろん中国仏教や朝鮮仏教とは違う。
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 NHK 歴史探偵
 今夜も歴史の謎が解き明かされる
 「平安京ダークサイド」
 鳴くよウグイス平安京。しかし、ホントの「平安京」はそんな穏やかな町ではなかった!「災害」「犯罪」渦巻く1200年前のダークサイドシティに、歴史探偵が迫る!
内容
 俳優・佐藤二朗ひきいる「歴史探偵社」。今回探偵が調査するのは1200年前の京都――「平安京」。最新の科学機器を投入する徹底調査から見えてきたのは、「平安」のみやびとはまったく真逆なイメージ!町中で洪水を繰り返す川、凶悪犯罪集団と平安警察の対決、そこは「やられたらやり返す」暗黒都市だった。しかし、そのダークサイドから日本史を動かした「集団」が誕生する……明と暗が交錯する歴史のダイナミズムに迫る。
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 寛平・延喜東国の乱(かんぴょうえんぎとうごくのらん)は、平安中期に東国で発生した群盗による乱。889年(寛平元年)、強盗首物部氏永(もののべのうじなが)等が蜂起し発生した。
 概要
 8世紀末から9世紀にかけて軍団が廃止され、常置の国家正規軍がなくなったことから地方の治安は悪化し、国衙の厳しい調庸取り立てに反抗した群盗の横行が全国的に常態化するようになっていた。特に東国では9世紀半ばから後半を通じて俘囚の反乱が相次ぎ、群盗の活動の活発化と相まって、治安悪化が顕著であった。朝廷はこれらの鎮圧のために軍事貴族層を国司として派遣するとともに、国衙検非違使等を設置するなどの政策をとっていったが、群盗の活動は収まらず乱が発生したものである。
 乱の詳細は不明であるが、その鎮圧には10年余りかかったことが『扶桑略記』や『日本紀略』に記載されており、鎮圧後も、東国では「僦馬の党」の横行が顕著であるなど安定しなかった。
 これらの鎮圧過程で延喜年間に軍制の改革が進められ、国衙の軍事動員に対する規制が緩和された。従来は中央政府に発兵権があったが、国毎に警察・軍事指揮官として押領使を任命し、中央からの「追討官符」を受けた受領の命令で押領使が国内の武士を動員して反乱を鎮圧する体制に移行したとする説がある。
 また、坂東平氏の東国支配の要因ともなった。
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 僦馬の党(しゅうばのとう)は、平安時代に坂東で見られた自ら武装して租税等の運輸を業とする「僦馬」による集団で、馬や荷の強奪を行った群盗。
 概要
 律令制下において、地方から畿内への調庸の運搬を担ったのは郡司・富豪層であった。主に舟運に頼った西日本及び日本海沿岸に対し、馬牧に適した地が多い東国では馬による運送が発達し、これらの荷の運搬と安全を請け負う僦馬と呼ばれる集団が現れた。特に東海道足柄峠東山道碓氷峠などの交通の難所において活躍したと見られている。
 一方で8世紀末から9世紀にかけて軍団が廃止され、常置の国家正規軍がなくなると地方の治安は悪化し、国衙の厳しい調庸取り立てに反抗した群盗の横行が常態化するようになっていた。僦馬は、これら群盗に対抗するため武装し、また自らも他の僦馬を襲い荷や馬の強奪をするようになった。この背景には当時の東国における製鉄技術の発展を指摘する見解がある。また、現在の東北地方から関東地方などに移住させられ、9世紀に度々反乱を起こした俘囚(朝廷に帰服した蝦夷)と呼ばれる人々も、移住先にて商業や輸送に従事しており、僦馬の先駆的存在であったと指摘する見解もある[2]。彼らは徒党を組んで村々を襲い、東海道の馬を奪うと東山道で、東山道の馬を奪うと東海道で処分した。特に寛平から延喜年間には、昌泰2年(899年)に足柄峠碓氷峠に関が設置されたことが示すとおり僦馬の横行が顕著であった。
 これらの僦馬の党の横行を鎮圧したのは、平高望藤原利仁藤原秀郷らの下級貴族らであった。彼等は国司押領使として勲功を挙げ、負名として土着し治安維持にあたった。
 近年、武士の発生自体を、東国での僦馬の党、西国での海賊の横行とその鎮圧過程における在地土豪武装集団の争いに求め、承平天慶の乱についても、これらを鎮圧した軍事貴族の内部分裂によるとする見解が出されている。
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 平安群盗と原初の武士達(自衛武力)
 平安期に到って貴族武人に代わって登場を始めた「武士」と言う名の存在は、「平安群盗」と呼ばれる武装集団の発生に対抗する下級貴族の自衛武力から始まっている。
 凡(おおよ)そ九世紀頃から、平安期の坂東(関東)に於いて国家の支配下に服属した降伏蝦夷族が反乱(レジスタンス)を起こした「貞観年間の俘囚(奴婢身分)の反乱」、同じく降伏蝦夷族(奴婢身分)の反乱「寛平・延喜年間東国の乱」が頻発する。
 古墳時代は勿論、平安時代に入っても坂東(関東)やその先奥州まではまだまだ開拓原野が残る未開の地だった。
 まだ開拓原野が残るからこそ、平将門(たいらのまさかど)の新田開墾や源義国(みなもとのよしくに)と長男・源義重(みなもとのよししげ)が上野国に新たに田地を開拓し新田荘と為すなど時代だった。
 つまり平安群盗の出現には、米国開拓史に於けるインデアンの襲撃と同じような意味と情況が在ったのかも知れない。
 この現実は、被占領下での蝦夷族に拠る民族抵抗テロだった可能性が強いのだが、こうした弾圧の歴史はどの国に於いても隠蔽される傾向にあり、正史上は群盗に拠る騒乱である。
 つまり平安期の坂東(関東)に於ける原初の武士達(自衛武力)は、文字通り鎮守府将軍と呼ぶ占領軍であり、抵抗テロ鎮圧部隊で在った。
 また、この頃に僦馬の党(しゅうばのとう)と呼ばれる群盗が坂東で見られ、これは自ら武装して租税等の運輸を業とする赴任後そこに土着してしまった富豪層の一部、「僦馬の党(しゅうばのとう)」の集団に拠る運京途中の税の強奪と言う馬や荷を狙った群盗行為が横行し始めていた。
 これらの事象についても、当時の坂東(関東)の「法秩序が乱れた」と言う見かたよりも、まだ坂東(関東)は大和朝廷支配が本格的に及び始めたばかりの「未整備の無法地帯だった」と解するべきかも知れない。
 つまり平安の雅(みやび)は、その一部を先住縄文人蝦夷/エミシ)からの搾取システムが支えていた。
 この群盗の活動は九世紀を通じて活発化して行き、朝廷は群盗鎮圧の為に東国などへ軍事を得意とする貴族層を国司として派遣するとともに、従前の軍団制に代えて国衙に軍事力の運用権限を担わせる政策を採った。
 これらの僦馬の党の横行を鎮圧し盗賊の取締りで名を上げたのは、平氏流・平高望(たいらのたかもち)、藤原北家魚名流・藤原利仁(ふじわらのとしひと)、藤原北家魚名流・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らの下級貴族らで、この軍団制政策が結実したのが九世紀末~十世紀初頭の寛平・延喜期であり、この時期の勲功者が武士の初期原型となった。
 彼らは自らもまた名田経営を請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪と受領の確執の調停者として地方に勢力を扶植して行ったが、彼ら同士の対立や受領に対する不平が叛乱へ発展したのが、藤原忠平(ふじわらのただひら)執政期の九百四十年前後に発生した平将門(たいらのまさかど)と藤原純友(ふじわらのすみとも)の承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱である。
 朝廷の側に立ち、反乱側に立った自らと同じ原初の武士達を倒して同乱の鎮圧に勲功の在った者の家系は、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)勲功者、すなわち貴族とは一線を画す正当なる武芸の家系と認識された。
 当時、成立した国衙軍制に於いて、「武芸の家系」は国衙軍制を編成する軍事力として国衙に認識され、このように国衙に拠って公認された者が家業武士へと成長して行った。
 詳しくは【鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】に飛ぶ。
 【源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)と酒呑童子の物語】に続く。
 【豆まき・「鬼は内」に隠された歴史の真実】に飛ぶ。
 【俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)】に戻る。
 【日本の伝説リスト】に転載文章です。
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 平安京犯罪都市だった?平安時代の強盗たちの犯行記録から見えてくる人々の姿
歴史・文化角田晶生(つのだ あきお)
 @2021/02/17
 古来「職人気(しょくにんっけ。創作意欲)と泥棒気(どろぼうっけ)のない者はいない」と言われるように、いけないと分かっていても他人のモノを盗んでしまう難儀な人物が、残念ながら社会の中で一定数はいるものです。
 とうぜん平安時代にも泥棒や強盗は横行していたのですが、彼らがどんなモノを盗んでいたのか、また被害額(犯人にとっての稼ぎ)はどれくらいのものだったのか、実に興味深いところです。
 そこで今回は、当時の記録から平安時代の犯罪事情について紹介したいと思います。
 平安京を騒がせた、10人の犯行データ
 時は平安時代の長徳2年(996年)12月17日、京都洛中・左京の獄舎にこんな囚人たちがいたそうです(これで全員という訳ではなく、この日に判決が出た者とのこと)。
・大春日兼平(おおかすがの かねひら)
 生年:天暦元年(947年。50歳)
 出身地:山城国(現:京都府東部)
 罪状:強盗
 盗品:7種類
 被害金額:銭730文(※)相当
 量刑:布6反4丈を盗んだ罪に換算
 判決:流刑
 盗品内訳:
 一、弓×1張(銭30文)
 一、胡籙(やなぐい。矢入れ)×1腰(銭50文)
 一、抜手綿(ぬきでわた。上着や布団から抜いた綿)×1領(かたまり。銭30文)
 一、麦×5斗(=500合。銭250文)
 一、麻布×2反(銭150文)
 一、手作布(自家製の布)×3丈5尺(銭250文)
 一、用紙×50帖(半紙にして1,000枚。銭50文)
 (※)内訳と合計が合わない。誤記か?
・岩松(いわまつ)
 生年:天徳3年(959年。38歳)
 出身地:讃岐国(現:香川県
 罪状:強盗
 盗品:4種類
 被害金額:銭4貫200文相当
 量刑:布2反2丈を盗んだ罪に換算
 判決:流刑
 盗品内訳:
 一、絹×2疋(疋≒2反。銭4貫)
 一、菊色単衣(きくいろのひとえ)×1領(1着。銭50文)
 一、白単衣(しろのひとえ)×1領(銭50文)
 一、麦×2斗(200合。銭100文)
・清原延平(きよはらの のぶひら)
 生年:天禄3年(972年。25歳)
 出身地:山城国
 罪状:強盗
 盗品:2種類
 被害金額:銭5貫200文(※)相当
 量刑:布31反3丈6尺4寸(細かっ!)を盗んだ罪に換算
 判決:流刑
 盗品の内訳:
 一、白布帯×1腰(本。銭50文)
 一、銀銚子(しろがねのちょうし。酒器)×1口(銭5貫200文)
 (※)これも合計が内訳と違うが、白布帯は(銀銚子に比べ)安すぎてカウントから抜け落ちた?
・藤井国成(ふじいの くになり)
 生年:天徳4年(960年。37歳)
 出身地:大和国(現:奈良県
 罪状:強盗
 盗品:3種類
 被害金額:銭7貫500文相当
 量刑:布60反1丈3尺3寸(※)を盗んだ罪に換算
 (※)14反3丈と追記されている。後から何か発見されたか?
 判決:流刑
 盗品の内訳:
 一、銀造太刀(しろがねづくりのたち)×1腰(銭5貫)
 一、馬×1疋(頭。銭1貫500文)
 一、米(よね)×1石(1,000合≒約150㎏。銭1貫)
・田辺延正(たなべの のぶまさ)
 生年:康保4年(967年。30歳)
 出身地:左京(現:京都市左京区
 罪状:強盗
 盗品:7種類(原文は「漆種」。漆は七の別記)
 被害金額:銭76貫300文相当
 量刑:布613反2丈&14反3丈(追記)を盗んだ罪に換算
 判決:流刑
 盗品の内訳:
 一、絹×137疋(銭37貫)
 一、綾(あや。高級な絹)×7疋(銭28貫)
 一、直垂(ひたたれ。武士の平服)×1領(銭3貫)
 一、褂(うちき。肌着)×11領(銭5貫500文)
 一、胡籙&箭(や=矢)×3腰分(銭1貫500文)
 一、黒作太刀(くろづくりのたち)×1腰(銭500文)
 一、手作布×2反(銭800文)
・津守秋方(つもりの ときかた)
 生年:康保4年(967年。30歳)
 出身地:山城国
 罪状:強盗
 盗品:1種類
 被害金額:銭100文相当
 量刑:布4丈2尺3寸を盗んだ罪に換算
 判決:徒刑(ずけい。懲役)4年
 盗品の内訳:
 一、釜×1口(銭100文)
能登観童丸(のとの かんどうまる)
 生年:康保4年(967年。30歳)
 出身地:山城国
 罪状:窃盗
 盗品:1種類
 被害金額:銭10貫相当
 量刑:布80反1丈5尺&50反(追加)を盗んだ罪に換算
 判決:流刑を加役(追加。あるいはグレードアップ)
 盗品の内訳:
 一、銀仏(しろがねのほとけ。仏像)×1体(銭10貫)
・大神福童丸(おおみわの ふくわらわまる)
 生年・出身地:ともに不明
 罪状:窃盗
 盗品:4種類
 被害金額:銭15貫700文(※)相当
 量刑:布125反5尺を盗んだ罪に換算
 判決:流刑を追加
 盗品の内訳:
 一、白褂(しろのうちき)×1領(銭700文)
 一、蒔絵櫛筥(まきえのくしばこ)×2合(銭10貫)
 一、紫檀念珠(したんのねんじゅ)×1連(銭3貫)
 一、綿×2屯(かたまり。銭300文)
 (※)これも合計が合わない。誤記?あるいは念珠が本当は「五貫」?
・菅野並重(すがのの なみしげ)
 生年・出身地:ともに不明
 罪状:強盗
 盗品:3種類
 被害金額:銭12貫500文相当
 量刑:布190反3丈を盗んだ罪に換算
 判決:記載なし
 盗品の内訳:
 一、馬×2疋(銭2貫)
 一、銀造太刀×1腰(銭10貫)
 一、胡籙×1腰(銭500文)
・紀重春(きの しげはる)
 生年・出身地:ともに不明
 罪状:強盗
 盗品:1種類
 被害金額:銭2貫相当
 量刑:布16反3尺を盗んだ罪に換算
 判決:流刑
 盗品の内訳:
 一、絹×2疋(銭2貫)
 【参考】
 通貨:1貫=1,000文(1文の価値は時代によって大きく異なる)
 布類:1疋=2反≒4丈(時代や素材によって異なる)
 長さ:1丈=10尺=100寸≒3.03m(1寸≒3.03cm)
 穀物:1石=10斗=100升=1,000合(1合≒150g)
 以上10名を比べてみると、盗品も金額もさまざまですが、高価なものを効率的に盗む者がいる一方で、あれこれと欲張ってはみたものの、金額的には大したことのない「骨折り損」な者もいたようです。
 その極めつけは津守秋方。彼に至っては逮捕や返り討ちのリスクを冒してまで強盗に及んだのに、奪ったモノは釜一つ(銭100文相当)という残念さ。
 一方、大神福童丸は蒔絵櫛筥(銭10貫)や紫檀念珠(銭貫)などと言った高価で持ち運びやすいものを選んで奪っており、犯行前の下調べなど充分に行っていたであろうことが推測されます。
 銀の仏像(銭10貫)を盗み出した能登観童丸もそうですが、名前から分かる通り彼らは寺院に仕えており、自分の身近に高級品がたくさんあることに気づき、欲に目が眩んでしまったのかも知れません。
 他にも気の利いた者は多額(たいていは重くて多量)なものと同時に輸送&逃走手段として馬も奪っており(あるいは予め用意してあり)、こうした犯罪においても「仕事ができるorできない」の差は顕著に表れるようです。
(※)当時の50歳と言えばもう老人、基本的に強盗は体力勝負の荒事であり、今回のデータでも大半が30代(年齢不詳の者もおそらく40代以下)です。
 ちなみに、兼平が盗んだ中には用紙50帖(半紙にして1,000枚)なんてものがあり、現代人なら紙なんて見向きもしないでしょうが、当時は紙が非常に貴重でした。
 他の生活物資を切り詰めてでも確保していたところを見ると、兼平が強盗に入った家の主は、学問を生業とする下級貴族だったのかも知れません。
 それはそうと、古来「窮すれば鈍する」という通り、生活が苦しければ充分な下見や計画を立てる余裕がなく、切羽詰まって麦を主食にするくらい貧乏な家へ強盗に入ってあえない末路を辿るのでした。
 もちろん他の者たちも結局逮捕されてはいるのですが、こういう要領の良し悪しは日ごろの仕事≒生活ぶりにも反映されるもので、それまでの人生においても兼平が色んな意味で苦労していたことは想像に難くありません。
 終わりに
 人間、極限状況になるとその本質がよく現れると言いますが、欲望がむき出しになる犯罪データからは、盗んだ人間のそれはもちろん、盗まれた側の暮らしぶりなど、さまざまな様子が浮かび上がってくるもの。
 平安時代と言えば『源氏物語』のようにやんごとなき平安貴族たちの雅やかな暮らしばかりがイメージされがちです。
 しかし、こういう地の底を這いつくばるように生きていた者たちの狡猾さや困窮ぶりにも思いを馳せてみると、歴史を学ぶ楽しみも、より深く味わえることでしょう。
 ※参考文献:
 繫田信一『平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職』文春新書、2020年10月
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 検非違使(けびいし、けんびいし)は日本の律令制下の令外官の役職である。「非違(不法、違法)を検察する天皇の使者」の意。検非違使庁の官人。佐と尉の唐名は廷尉。京都の治安維持と民政を所管した。また、平安時代後期には令制国にも置かれるようになった。
 概要
 平安時代弘仁7年(816年)が初見で、その頃に設置されたと考えられている。当時の朝廷は、桓武天皇による軍団の廃止以来、軍事力を事実上放棄していたが、その結果として、治安が悪化したために、軍事・警察の組織として検非違使を創設することになった。当初は衛門府の役人が宣旨によって兼務していた。官位相当は無い。五位から昇殿が許され殿上人となるため、武士の出世の目安となっていた。
 寛平7年(895年)、左右衛門府内に左右の検非違使庁(役所)を置くようになったが、天暦元年(947年)に効率化、迅速化のために統合されて左庁だけに検非違使庁が置かれるようになった。
 司法を担当していた刑部省、警察、監察を担当していた弾正台、都に関わる行政、治安、司法を統括していた京職等の他の官庁の職掌を段々と奪うようになり、検非違使は大きな権力を振るうようになった。
 平安時代後期には刑事事件に関する職権行使のために律令とはちがった性質の「庁例」(使庁の流例ともいわれた慣習法)を適用するようになった。また、この頃から検非違使庁における事務は別当の自宅で行われるようになった。
 平安時代末期になると院政の軍事組織である北面武士に取って代わられ、更に鎌倉幕府六波羅探題を設置すると次第に弱体化し、室町時代には幕府が京都に置かれ、侍所に権限を掌握されることになった。
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🗾25〕─1─朝鮮半島の地質学的先史時代。石器時代。朝鮮半島の古代人出現は紀元前4万年。~No.75  ⑨ 

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 日本出土の朝鮮産土器・陶器
 -新石器時代から統一新羅時代まで-
 出典:『日本出土の舶載陶磁』(2000)
 目次
 第1章で本稿の基本方針を述べている。第2章と第3章は,先史時代を扱っているが, 第2章は既存研究の紹介にとどまった。
 第3章では,無文土器と弥生土器の編年対比に関する私見を述べているが,高知市で開催された埋蔵文化財研究会での所感に基づいて一気に書き上げたもの。弥生研究では韓国での研究成果が意外に応用されておらず,改めて学史をたどると関係論文はさほど多くない。
 第3章末を中心に,衛氏朝鮮の歴史的位置を重視する見解も述べた。なお,滑石混和土器については,従来「滑石混入土器」と呼ばれていたものだが,混和材として意図的に混ぜていることから,異なった用語を用いている。(15/Apr/2002)
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 1.はじめに
 本稿では、新石器時代から統一新羅時代までの朝鮮産土器・陶器が現在の日本国内からどのように出土しているか、概説する。
 近年、朝鮮半島での考古学的成果は朝鮮各地の特色ある地域史の実態を明らかにしつつあり、また、日本各地での朝鮮産土器・陶器の出土傾向をみると、朝鮮産土器・陶器の存在が、それを出土した地域の歴史に大きな意味を持っている場合もあるように見受けられる。そこで本稿では、年代別に細分して叙述することは諦め、朝鮮半島における土器・陶器の地域性を重視し、それぞれについて日本国内での出土傾向を明らかにする、という構成とした。ただし、朝鮮産土器・陶器の出土傾向にいくつかの大きな画期が認められるので、それらにより4つの時代に分けておいた。各時代の詳細は次章以下に譲るとして、時代区分と大まかな内容をあらかじめ述べておこう。なお、日本列島も大きく分けて北の文化、中の文化、南の文化があり、それぞれ独自の時代区分がなされているが〔藤本1988〕、とりあえず朝鮮半島に最も近い中の文化、特に西日本の編年に対比しておいた。
 朝鮮半島新石器時代-日本列島の縄文前期~後期(紀元前4~2千年紀)は、漁撈などの生業に伴う土器の移動がみられる時期である。
 朝鮮半島の青銅器・初期鉄器時代-日本列島の縄文晩期~弥生中期(紀元前1千年紀)は、稲作農耕や金属器生産など新技術の渡来に伴う土器の移動が想定されている時期である。
 朝鮮半島の原三国・三国時代-日本列島の弥生後期・古墳時代(紀元前1世紀~紀元後6世紀)は、楽浪建郡から南山新城までであり、朝鮮半島でも日本列島でも、地域の独自の動きが目立つ。割拠と興亡の中で国家形成に至る時代であり、朝鮮産土器の出土傾向も特色にあふれている。
 朝鮮半島の三国抗争期・統一新羅時代-日本列島の飛鳥時代~平安前期(591~935年)のうち、その当初の三国抗争期-飛鳥時代は、三国時代の最終段階ともいえるが、朝鮮産土器・陶器の出土傾向などからみて、それ以前とは交渉の内容が異なると考え、むしろ統一新羅時代-白鳳時代~平安前期との対比を主眼においた。国家間交渉の時代であるが、徐々に民間の交易なども目立つようになっていく。本稿は統一新羅の滅亡(935年)をもって叙述を終えるが、奈良・平安時代の民間交易によると思われる新羅土器出土傾向が、以後の高麗青磁などの出土傾向に連なっていくのであろう。
 2.新石器時代-縄文前期~後期
朝鮮半島新石器時代、日本の縄文時代は、ともに採集・漁撈・狩猟を主な生業とした時代である。一部に植物利用を発達させていたとしても、本格的な生産経済は次の青銅器時代弥生時代に確立したと考えられる〔今村1999〕。
 朝鮮陶磁の始まりは,いまだ不分明であるが,新石器時代早期には隆起文土器が現れ、日本の縄文前期に並行する。この時点から日本と朝鮮の交流がみられ、隆起文土器も日本での出土が知られている。李相均によると、アカホヤ火山灰の降下後、九州の轟式土器の担い手が山陰・山陽、さらに朝鮮半島南部で活動し、屈曲型器形や胴張型器形の土器がそれらの地に影響を与えているという〔李相均1994〕。
 隆起文土器は、瀛川洞式土器を経て櫛目文土器(水佳里式)に変化する。一方、九州の轟式土器も西唐津式を経て曽畑式土器に至る。櫛目文土器(図4)は、縄文前期後葉の曽畑式土器との類似性が論議されており、曽畑式土器が櫛目文土器の影響下で作り出されたとも考えられている。
 その後、櫛目文土器は新石器時代終末まで存続し、一方で縄文土器は多様な器形変化を示すようになるが、日本出土の櫛目文土器もいくつか知られている。
 木村幾多郎の整理を参考にしつつ、具体例をみていこう〔木村1997〕。
 まず、隆起文土器は長崎県上県郡対馬)上県町・越高遺跡(図1)、同町・越高尾崎遺跡、同県南松浦郡五島列島有川町頭ヶ島白浜(かしらがじましらはま)遺跡B6グリッド6層〔古門(編)1996:9-10〕にみられる。特に対馬の2遺跡は、朝鮮半島に面する海岸沿いに位置し、同時期の縄文土器をほとんど含まず、漁撈を生業とする朝鮮半島南海岸の人々が活動した痕跡と考えてよい。これに対し、長崎県壱岐郡勝本町・松崎遺跡、佐賀県東松浦郡鎮西町・赤松海岸遺跡採集品〔明瀬(編)1989〕などの壱岐・北部九州では、形態は隆起文土器に類似するが胎土が在地の縄文土器に等しい土器が出土しているという〔木村1997:20〕。
 このうち頭ヶ島白浜遺跡では、轟B式の文化層から隆起文系の赤彩土器が出土しており、河仁秀はこれを東北朝鮮の雷文土器の影響下に成立したものと捉えている〔河仁秀1996〕。
 櫛目文土器もやはり対馬に多いが、長崎県上県郡対馬)上県町・越高尾崎遺跡、同町・夫婦石遺跡(図2・3)、同郡峰町・佐賀(さか)貝塚、同県下県郡対馬)豊玉町・ヌカシ遺跡、同県壱岐郡勝本町・松崎遺跡など、やや分布を広げる、晩期には、佐賀県東松浦郡呼子町・小川島貝塚の出土例がある。
 また、地理的には大きく離れるが、青森県八戸市・売場遺跡で南朝鮮系の尖底深鉢形櫛目文土器が出土しているという〔定森1999:10〕。
 このように、新石器時代の朝鮮産土器は極めて限られた分布を示す。これは、木村がこれらの土器の存在を漁撈具や貝製品における類似性とともに論じたように、生業を同じくするものたち同士の交流であったことを示している〔木村1997:32〕。
 3.青銅器・初期鉄器時代-縄文晩期~弥生中期
 朝鮮半島は紀元前1000年ごろから青銅器時代に入ると考えられ、紀元前1千年紀後半には初期鉄器時代に移行する。この両時代を特徴づける遺物の一つが、いわゆる無文土器である。無文土器は大きく西北朝鮮・西朝鮮・東北朝鮮南朝鮮の地域性があり、日本列島で多く出土するのは南朝鮮の無文土器である。その日本出土例は、すでに検討の対象となっており、詳細な分析も公にされている。さらに、最近では西朝鮮の無文土器の出土も知られるようになってきた。
 かつて南朝鮮の無文土器編年は前期(孔列土器)と後期(粘土帯土器)に二分されていた。忠清南道扶余郡・松菊里遺跡〔姜仁求ほか1979〕の報告が刊行されると、藤口健二は松菊里型土器が前期と後期の間に位置づけられると考え、松菊里型土器に代表される無文土器中期を設定し、これを夜臼(ゆうす)式から弥生前期前半に並行すると考えた〔藤口1986〕。この編年は、後藤直が「弥生文化成立期に平行する時期を中期として限定できる点で評価できるが今後の検証が必要である」〔後藤1987:356〕と評したように、弥生文化成立過程の重要な段階である「弥生早期」の認識に深く関わっていた。この無文土器中期に松菊里型土器、松菊里型住居、大陸系磨製石器という、弥生文化の成立を象徴する文化要素が揃うと期待されたのである。
 しかし、後藤が松菊里型住居と松菊里型土器に前後の時間差があることを指摘した〔後藤1992〕ため、むしろ松菊里型住居の登場する夜臼式土器が松菊里型土器以前となり、松菊里型土器直前の無文土器に関する認識が必要となった。家根祥多は藤口の編年を「欣岩里式と松菊里式とのヒアタスに気付かずに両者を連続して捉え」た結果〔家根1997:43〕とし、忠清南道瑞山市・休岩里遺跡〔尹武炳ほか1990〕、同道保寧市・館山里遺跡〔尹世英・李弘鍾1996〕などの資料がこれを埋めるとみて、「欣岩里式→大坪里式→休岩里式→館山里式→古南里式→松菊里式→校成里式」という無文土器編年を提示した〔家根1997〕。松菊里型土器の登場過程を示した編年として、評価しうるものであるが、松菊里式と校成里式の関係に不明確なところがある。
 従来の編年は、資料の不足から、南朝鮮の範囲内での地域性が充分考慮されぬまま土器型式の単純期が想定されていた、いわば“輪切り編年”であった。ここには、弥生文化の成立過程を説明する考古資料を求めていた日本考古学側の事情と、一方、新羅土器と加耶土器の分立以前に地域性の不明確な時期があり、その状況が無文土器後期にまで遡る、と考える韓国考古学側の事情があった。しかし、従来の編年観では、日本列島での無文土器出土傾向を充分に理解しえないと考える。そこで本稿では、南朝鮮の無文土器について、従来の編年を捉えなおすことにする。
 まず、文化のまとまりとして認識しにくくなった「中期」を解消する。松菊里型住居や、孔列土器以後の無文土器(ほぼ、家根の休岩里式から古南里式に相当するであろう)に特徴づけられる時期を前期後半無文土器とし、孔列土器は前期前半無文土器とする。前期後半無文土器を「中期」として残すことも、その文化内容や歴史的意義からみて一案であるが、中期=松菊里型土器という図式から脱却する意味でも、ひとまず中期は設定しない。
 後期は松菊里型土器と粘土帯土器によって構成されることになるが、両者の関係には不分明な部分があり、地域性を想定して一部並行とみなす藤口と、単純期をなして推移すると考える武末純一の意見がある〔藤口1986;武末1987〕。筆者は、両者の型式差の大きさや、それぞれ主たる分布地域が異なること、また、朝鮮半島東南部地域では前期無文土器にも後期無文土器(粘土帯土器)にも底部穿孔の甑(こしき)がみられるのに対し、西南部の松菊里型土器にはそのような甑が明確でない〔白井1997b〕、などの文化的な差から、必ずしも単純期をなして一方から他方に推移したとは考えない。そこでひとまず、松菊里型土器に代表される無文土器を後期西南類型の無文土器、粘土帯土器に代表される無文土器を後期東南類型の無文土器としておく。
 (1) 前期前半の無文土器-孔列土器
 孔列土器は東北朝鮮に由来すると考えられる前期前半無文土器であり、欣岩里式などに代表される。口縁部の下に円孔が開けられていることが特徴であり、器形は単純な逆円錐形で、底部は狭い平底である。日本列島では中の文化の縄文晩期・南の文化の貝塚文化中期に並行する。
 これまで、日本列島でははっきり舶載といえる孔列土器は知られておらず、南九州のいわゆる孔列土器も、“他人の空似”とみる意見がある。最近、片岡宏二により日本の「孔列土器」出土例が整理された〔片岡1998b〕が,それによると、島根県八束(やつか)郡鹿島町・佐田講武(さたこうぶ)貝塚包含層、同県松江市・タテチョウ遺跡包含層〔前島ほか(編)1979〕、同市・西川津遺跡包含層〔内田(編)1989〕、同県飯石(いいし)郡頓原(とんばら)町・板屋III遺跡第1地点旧河川〔角田(編)1998〕などの島根半島地域に孔列が半貫通のより古い例が、佐賀県唐津市・高峰遺跡包含層〔内田(編)1994〕、福岡市早良(さわら)区・田村遺跡溝状遺構SD1000(突帯文土器段階)〔二宮ほか(編)1989:12、13〕、同市南区・野多目遺跡水路SD-02下層〔山崎(編)1987〕、北九州市小倉南区・貫川遺跡包含層〔前田(編)1988〕、同区・長行(おさゆき)遺跡B地区包含層〔宇野(編)1983:49〕、福岡県小郡(おごおり)市・津古土取遺跡包含層〔片岡(編)1990〕などの北部九州地域に、孔列が貫通するやや後続の事例が集中しているという。これらは互いに初現地の系統を異にするとも想定されているが、いずれも舶載品とはいえず、在地の縄文晩期土器に孔列が加えられたとみなされるものである〔片岡1998b:190-193〕。
 さらに最近、沖縄県宜野湾市・宇地泊砂丘遺跡で孔列土器の出土が知られている〔任孝宰2000a〕。
 一方、「孔列土器」として取り扱われている土器について、無文土器に詳しい後藤直が「孔列土器(欣岩里式)との関係は疑わしい」と断じていることも、付記しておくべきであろう〔後藤1987:356〕。
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 朝鮮の先史時代は、人類が朝鮮半島に現れた時代のうち文字が存在しない時期を言う。朝鮮半島の先史時代は、ヨーロッパの地中海地域とは別にクリスチャン・トムセンが定義した「三時代体系」に区分するのが難しく、考古学的、地質学的、古生物学的研究に依存する。一般的に歴史及び考古学の時代区分によると、石器時代に該当し、石器時代は発掘される遺跡の性格により旧石器時代、中石器時代新石器時代に分かれる。その領域は朝鮮半島を中心にして、その起源及び伝播と関連があるロシア、シベリア、満州遼寧省、中国東部の文化も一緒に研究されている。
 地質学的先史時代
 朝鮮の新石器時代の石斧
 地質学的先史時代は朝鮮半島の過去から最も長い時代である。朝鮮半島で最も長い時代は、先カンブリア時代までさかのぼる。歴史の浅い地質システムが、これに該当し、ソウル周辺から北東方面の漣川郡に広がっている。そうした上下に分かれて、角閃石石英-長石片岩と大理石、石灰-硅酸塩、珪岩、黒鉛片岩、雲母-石英-長石片岩、雲母片岩、珪岩、眼球片麻岩、柘榴石、花崗岩で構成されている。朝鮮半島新生代に活動的な地質学的先史時代を経験していて、新生代になると次第に安定していった。中生代に形成された主要な点に慶尚道を含め、黒雲母花崗岩、頁岩、砂岩、礫岩質の安山岩玄武岩流紋岩、そして今日の慶尚道地方を覆っている凝灰岩で構成されていた。
 朝鮮半島人類の先史時代
 旧石器時代
 この時期の起源を比べてみると、原始人類が朝鮮半島に現れ始めていて、紀元前50万年前に遡る。最も早い出現が、旧石器の最初期まで遡る点については、懐疑的である。旧石器時代は土器の生産が始められる紀元前8000年頃に終了する。放射性炭素測定によると朝鮮半島で古代人の出現は、紀元前4万年あたりから3万年あたりを示している。古代人が紀元前50万年頃まで広がるとなると、ホモ・エレクトス朝鮮半島に存在したことを意味している。
 しかしながら、我々「新人類」のアフリカ大陸での出現は20万年前で、その一部が「出アフリカ(Out of Africa)」を果たし世界中に広がったのが、6万年前というのが、現在定説であるので、新人類が朝鮮半島に到着した時点は、せいぜい6万年よりかなり後とすべきである。これは上記の「放射性炭素測定」の結果が適切であることを示唆する。
 忠清南道光州市近辺の石壮里遺跡から旧石器時代初期の特徴を特徴を持つ遺跡が、最も低い層から発掘された。両面を削った石器と削る道具も、発見された。後期の時代に該当する遺物と思われる手斧とクリーバーも発掘された。
 旧石器中期には古代人たちは洞窟での居住を始め、堤川市のチョンマル洞窟と清州市のトゥルボン洞窟などが、その遺跡である。この2つの遺跡で犀の化石とハイエナと様々な種類の鹿など、絶滅した種の化石が発掘されている。
 チョンマル洞窟で狩りに使用した道具に見られる石器は、古代人の骨で作ったもので、動物の骨の骨角器と共に狩りをする際に飲食をした道具と見られる。栄養補給のための動物の皮も発掘されている。
 忠清南道公州付近の石壮里遺跡と他のカンアンの遺跡に旧石器の伝統を持つ石器時代の遺物が発見されて、付近に珪岩が、例を挙げれば、珪岩、斑岩、黒曜石などが旧石器前期のアシュリアン(Acheulean)やルバルアン(Levallois)の特性を持つ。このような石器は、模様が単純で、石英花崗岩(ペグマタイト)から取った物である。石壮里の中期層には投擲用のボーラ (武器)と投擲用の石が発掘されている。
 朝鮮の旧石器時代は、初期、中期、後期に分けられる。この内ヒトが残した遺跡は、主に旧石器後期以後の遺跡に現れている。
 旧石器時代の代表的な遺跡地には咸鏡北道先鋒郡屈浦里や平壌の祥原郡コムンモル、京畿道漣川郡全谷里、忠清南道公州市石壮里、忠清北道清原郡マンスリを指折ることができる。こうした遺跡地の発生年代は、今日の考古学会では約50余万年頃に遡ると推定されている。
 旧石器時代人は洞窟ではなく岩陰または川縁に家を作るのに僅かな群衆生活をしたものと見られる。その生活は大体獣の狩りと果実などの植物採集に依存したものとみられ、集団生活できる動機は、世界の異なる地域の全ての石器時代の人々のように効率的な狩りをするためのものと見ている。
 中石器時代
 中石器時代は1万年余り前に氷河期が終わり気候が暖かくなり、自然環境が入れ替わり旧石器時代の主要な狩りの対象物のマンモスや水牛などの大きな獣がいなくなり小さい獣が現れた。このような獣を殺すための武器である弓や鏃などが登場した。
 中石器時代の遺跡地
 ピルレモッ洞窟
 櫛目文土器時代
 詳細は「櫛目文土器時代」を参照
 朝鮮の新石器時代は約1万(中石器を含む場合)-8000年前から始まり、新石器時代の主要な指標となるものは、磨製石器と櫛目文土器に代表される土器である。こうしたものは主に海や川の岸辺にこの時代の家を造り暮らしながら漁労や狩りをし、新石器時代後期になると初期の農耕段階に転換するところもあった。また石鍬と石犁で畑を耕し、石鎌で穀物ばかりか穂を刈り挽き石で挽き皮を剥ぎ粉にして食べた。
 朝鮮半島において、櫛目文土器は6000年前から現れるようになる。最古の櫛目文土器は遼河文明から発見されており、当時の朝鮮半島はウラル系民族(ハプログループN (Y染色体))が担う遼河文明圏にあったことが示唆される。
 無文土器時代
 詳細は「無文土器時代」を参照
 朝鮮の青銅器時代は銅と錫または亜鉛を少しずつ混ぜて作った青銅器を使用した時代である。この時代には一般的に無文土器と孔列文土器が主に用いられた。新石器時代のように石鍬を使用して田畑を開墾して穀物を植え、半月状の石刀で収穫した。
 水稲栽培をもたらしたハプログループO1b2 (Y染色体)が江南より到達したと考えられる。
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 韓国の考古学は、朝鮮半島に原始人類が現れたのは紀元前50万年と主張しているが、それはウソである。
 朝鮮半島の開国は紀元前2333年とする檀君神話は、朝鮮民族漢民族だけに通用するファンタジー物語である。
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 檀君神話
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 古朝鮮の建国神話。天孫檀君古朝鮮を開き、その始祖になったというもの。『三国遺事(さんごくいじ)』(紀異巻1)によると、天帝桓因(かんいん)の子桓雄(かんゆう)は、天符印(てんぷいん)3個を父より授けられ、徒3000を率いて太伯(たいはく)山頂の神檀樹(しんだんじゅ)という神木の下に降臨した。そして洞穴にいた虎(とら)と熊(くま)が人間に化すことを祈っていたので、蓬(よもぎ)と蒜(にんにく)を食べて忌籠(いみごも)るよう告げると、熊だけが女となり(熊女(ゆうじょ))、桓雄と婚して檀君を生んだ。檀君は平城に都を開き、1500年の間国を統治したという。この神話の前半の部分は、日本の天孫降臨神話に対応するものである。また、この神話のおもな登場人物である桓雄、虎、熊はそれぞれ主権、軍事、豊穣(ほうじょう)の機能を代表するもので、東アジアにおけるインド・ヨーロッパ諸族神話的な社会的三機能体系の一例である。他方、檀君神話でことに興味深いのは熊と虎の問題であり、熊女の忌籠りは巫女(みこ)の成巫(せいふ)過程に比例するものである。さらにこの神話は、北方ユーラシアの熊信仰と深い関係があり、ツングース系諸族、ことにアムールランドのツングース人の間に普遍的に分布している熊祖神話や、熊や虎と人間の女との交婚譚(たん)ときわめて深い親縁関係を示し、その一異伝と考えられる。したがって、これは朝鮮文化とツングース文化との密接な関係を物語っている。また歴史的にみると、支配者層に支持された箕子(きし)神話に対し、檀君神話は13世紀以降モンゴルなどの侵入に対する民衆の義兵闘争を契機として広まった、朝鮮の被支配階級の民族主義的神話である。
  なお、韓国では独立後の1948年から61年まで、檀君紀元(西暦の紀元前2333年を元年とする)を使用していた。
 [依田千百子]
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 朝鮮の歴史では、朝鮮および朝鮮半島における歴史を述べる。
 概説
 朝鮮半島では、石器などの発見から、数万年前から人が住んでいたと思われるが、現在の朝鮮民族との繋がりは明らかでない。約10万年前の最終氷期から紀元前8000年頃まで現在より海面が約130mも低かったため、東シナ海の大部分は陸地であったが、紀元前4000年ころにかけての海面上昇により当時の沿岸部は海中に没しているとされている。最終氷期に日本列島とは対馬海峡で短期間漂砂によって陸橋が形成され繋がっていた可能性を指摘する研究がある。伊藤俊幸によると、紀元前1万年以前の旧石器時代の遺跡は50か所程度しか発見されておらず、紀元前1万年から前5000年までの5千年間は韓国国立中央博物館の年表では空白となっており、ほとんど遺跡が発見されていない。
 大阪市立東洋陶磁美術館名誉館長の伊藤郁太郎は、「1969年から1971年にかけて、東三洞貝塚での櫛目文土器の下層から、尖底・円低無文土器や平低流線文土器が発見され、先櫛目文土器と名付けられた。これらの土器は、東三洞の他、慶尚南道真岩里や咸鏡北道西浦項貝塚などからも発見されており、最古の土器文化が広い地域にまたがっていたことが推測される。それらの中に含まれていた豆粒文土器が、日本の長崎県泉福寺洞窟遺跡や福井洞穴などから発見される豆粒文土器と類似している」としている。朝鮮半島南部の煙台島貝塚から発見された古人骨(紀元前4000年)は縄文人の特徴と多くの点で一致しており[5]、東三洞の対岸にある対馬の腰高遺跡からは7000年前の隆起文土器が発掘されていることと併せて、長浜浩明は、縄文人が7000年前から対馬を経由して無人朝鮮半島へ渡り、半島北部まで進出したとしており、最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だったとしている。金両基監修、姜徳相、鄭早苗、中山清隆編集の『韓国の歴史』によると、旧石器時代人は現在の韓(朝鮮)民族の直接の先祖ではなく、直接の先祖は紀元前約2000年前の新石器時代人からと推定されている。
 紀元前4000年頃に櫛目文土器が出現する。櫛目文土器の最古のものは遼河地域の興隆窪文化(紀元前6200年-紀元前5400年)の遺跡で発見されていることから、遼河文明の担い手であるウラル系民族(ハプログループN (Y染色体))が朝鮮に櫛目文土器をもたらしたことが考えられる。
 東三洞貝塚は3つの文化層からなり、最下層の1期層からは、隆起文・押引文・無文土器や磨製石器が、2期層からは櫛目文土器や黒曜石が、3期層からは無文平底土器が発掘されており、櫛目文土器にまじって九州の縄文土器片や、西北九州型の釣針・黒曜石が出している。東三洞貝塚で大量の縄文土器と九州産黒曜石が出土しており、縄文人がやってきた確かな証拠といえる。朝鮮半島では銛や鏃に最適な黒曜石が産出されない 。
 紀元前1500年頃から無文土器が出現し同時に支石墓が多数建造されるようになる。これに先駆けて紀元前2000年から紀元前1500年頃、朝鮮半島より北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化で、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現しており、これらが北方から流入した可能性を示唆している。
 山海経には、紀元前1000年から前300年の朝鮮半島の様子が「蓋国は鉅燕の南にあり、それは倭の北であり、また倭は燕に属している」とあり、燕は遼東半島から南満洲辺りを指し、その南の蓋国とは北朝鮮辺りと考えられ、今の韓国辺りは縄文人の子孫である倭人が住んでいた。
 紀元前500年頃から水稲栽培が開始される。水稲の栽培は中国から北方周りの陸伝いではなく、海を越えて半島南西部にもたらされたというのが定説となっている。この水稲文化をもたらしたのはハプログループO1b2 (Y染色体)の集団と考える学者がいる。
 朝鮮半島南部の勒島から弥生時代中期(紀元前100年)と推定される73基に及ぶ墓が見つかり、甕棺墓や北部九州の弥生土器の出土、骨格の特徴や抜歯風習などから西北九州と密接な関係を示唆している。
 朝鮮半島において文献に登場する最初の国家は伝説的な箕子朝鮮であり、その後衛氏朝鮮が成立したと伝わる。衛氏朝鮮は前195年頃に燕人の衛満が箕子朝鮮の王・準王を追い出して建国したという。衛氏朝鮮は三代衛右渠の時、漢の武帝に滅ぼされ、領地は楽浪郡真番郡・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡として400年間直轄支配(植民地ともいわれる)されたが、移転や廃止により最後は楽浪郡のみが残った。
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🗾24〕─2─日本に最古の石器を残した旧人デニソワ人。~No.73No.74 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 縄文人は、デニソワ人などの旧人のDNAを受け継いでいても、現生人類の東アジア人であった。
 デニソワ人とネアンデルタール人は、約40万~50万年前に現生人類ホモ・サピエンス(Homo Sapiens)とは別に枝分かれした系統。
   ・   ・   ・    
 日本旧石器学会
 日本列島の旧石器時代遺跡
 岩宿遺跡 Iwajuku site
 ■後期旧石器時代 前半~後半 35,000年前 ~ 25,000年前
 1位置
 岩宿遺跡は、群馬県みどり市笠懸町阿左美地内の琴平山・稲荷山という小さな丘陵が接する部分に位置し、現在国史跡として指定されている。両毛線岩宿駅より岩宿遺跡・博物館まで歩いて25分である。
 1946年、岩宿遺跡の切り通しの道となっていた部分に露出していた赤土(関東ローム層)から民間考古学者相沢忠洋により石器が採取され、その後の発掘へとつながった。
 2発見の経過
 太平洋戦争が終わる頃まで、日本列島には一万年以上前の関東ローム層中の石器文化、すなわち旧石器時代に相当する縄文時代以前の文化はないと考えられていた。しかし、1949年9月11日、さきの発見をもとに相沢と明治大学岩宿遺跡の発掘調査を実施したところ、関東ローム層の中から石器が出土し、日本列島にも旧石器時代が存在することがわかった。岩宿はその記念すべき最初の遺跡としてよく知られている。
 3石器群の概要
 岩宿遺跡では、発掘によって二つの石器文化が確認された。下層のものは、岩宿Ⅰ石器文化と呼ばれ、基部を加工したナイフ形石器と刃部を磨いた局部磨製石斧を含む石器群で、3万5000年前の後期旧石器時代初頭のものである(写真)。上層の岩宿Ⅱ石器文化は切出形ナイフ形石器などを含む後期旧石器時代後半(2万5000年前)の石器群である。 岩宿遺跡の地層は岩宿ドームとして保存され、見学できる。また、出土石器は明治大学博物館および岩宿博物館に展示されている。相澤忠洋の業績は、相澤忠洋記念館で知ることができる。
 (小菅将夫)(写真提供 岩宿博物館 明治大学博物館)
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 長野県、熊本県岩手県などの遺跡から3万8000年前の磨製石器が数多く発掘された。
 中国で発見された最古の磨製石器は1万5000年前のもので、世界では1万年前であった。
 朝鮮半島では7000年前であった。
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 酒々井町役場
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 〒285-8510 千葉県印旛郡酒々井町中央台4丁目11番地
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 窓口開庁時間 平日 8:30~17:15
 (毎月、休日窓口開庁日を設置しています。詳しくはお問い合わせ下さい。)
 旧石器時代とは 2019年7月2日
 旧石器人達の暮らし
 旧石器時代とは今から約3万8千年前から1万6千年前の約2万2千年間をいいます。人々はまだ土器を持たず、主に打ち欠きによって作られた石器(打製石器)や動物の骨や角を用いて作られた骨角器(こっかくき)を使い、狩猟や採集活動を行っていました。定住はせずに、テントのような軽易な住居によって食料となる獲物(今では絶滅して見られない大型哺乳類など)や木の実等を求めてたえず移動を行いながら生活をしていた時代です。しかも当時は氷河期という寒冷な気候であり、また火山活動も活発で頻繁に火山灰が降り注ぐ非常に厳しい環境下での暮らしでもありました。
 ○後期旧石器時代前半期(想像図)_RGB.jpg
 【後期旧石器時代前半期(墨古沢遺跡の頃)の風景(想像図)】
 年間平均気温は7~8度低く、台地上には針葉樹を中心とした森林帯が広がり、現在でいえば標高約1500mの風景が広がっていたと考えられます。
 墨古沢遺跡でも発掘調査で出土した炭化材の樹種同定やプラント・オパールの分析などから、周辺に針広混交林が広がっていたと推察されています。
 (図は2004『印旛の原始・古代-旧石器時代編-』印旛郡文化財センターより引用)
 ○旧石器時代に生きていた大型哺乳類_RGB.jpg
 【旧石器時代に生きていた大型哺乳類】
 陸続きとなった大陸から、現在では絶滅して見られないマンモス・ナウマンゾウ・オオツノジカなどの大型獣が渡ってきて生息していました。これらの動物は重要な食料源であったばかりではなく、骨や角は加工して道具として使われました。
 (図は2004『印旛の原始・古代-旧石器時代編-』印旛郡文化財センターより引用)
 墨古沢遺跡の時代、後期旧石器時代前半期
 墨古沢遺跡に旧石器時代の環状ブロック群があった時代は、気候が寒冷化に向かい年ごとに大きく変動していました。海抜は現在よりも約80mほど低く、本州・四国・九州は地続きになり一つの島を形成していましたが、この島は大陸や北海道とは海で隔てられていました。
 そして、この時代こそ、私たちの祖先ホモ・サピエンスが海を越え日本列島に到来・定着した時代なのです。ホモ・サピエンスは30万年~20万年前にアフリカで誕生し、8万年~5万年前にアフリカから世界中へ拡散を開始します。約4万5千年前にはヨーロッパや中央アジア・オーストラリアへ到達し、約3万8千年前に朝鮮半島から海を越えて日本列島へ到来しました。(なお、ホモ・サピエンスの拡散については今日も精力的な研究が続けられており、これからの年代についても今後の研究成果により大きく変わることが予想されます。)
 (図は印旛郡文化財センター 2004 『印旛の原始・古代-旧石器時代編-』、国立科学博物館編 2016 『世界遺産ラスコー展』、NHKスペシャル「人類誕生」制作班編 2018 『人類誕生』をもとに作成)
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 総  説
 日本における旧石器時代研究の枠組みと現状
 小 野   昭 *
 明治大学黒曜石研究センター
 (平成 23 年 4 月 24 日受付,平成 23 年 5 月 14 日受理)
 要  約
 日本における旧石器時代研究の枠組みには多様な局面がある。しかし,2000 年 11 月 5 日に暴露された前期・中期旧石器時代遺跡の捏造事件以降,日本列島における最初の確実な人類の居住が関心の焦点となってきた。まず日本の旧石器時代研究の現状を規定している歴史的経緯を示し,次にヨーロッパで立てられた旧石器時代の 2 分法,3 分法にふれ,最後にその日本での展開に言及した。日本列島への最初の人類の居住時期については様々な説があるので,実際的には「酸素同位体ステージ 3 の考古学」として多様な議論を保証する必要がある。ただ筆者は,日本列島への人類の確実な居住は ca. 40 ka 以降であるとする立場から枠組み問題の論点を整理した。後期旧石器時代を遡る石器群の存在の証明のためには,諏訪間(2010)が提起したように,1)石器に残された明確な加工痕,2)偽石器の含まれる可能性のない安定した遺跡立地,3)層位的な出土,4)石器の複数出土,のすべての条件を満たす必要がある。しかし現在これを満足させる資料は無い。日本の立川ローム層最下部 X 層の段階を日本列島における最初の居住と位置づけることを骨太の仮説として提出し,この仮説は,追証よりも,今後反証条件を整えることで仮説をテストすることが有効であることを示した。
 キーワード:日本列島,旧石器,枠組み,酸素同位体ステージ 3,仮説の反証
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 東京大学教員の著作を著者自らが語る広場
 日本列島における旧石器時代から縄文時代への移行は、自然環境と人類文化の両側面に見られた列島史上最大の歴史的画期と言うことができる。この変化は、全球的な大規模気候変動期である更新世 (氷期) / 完新世 (温暖期) 移行期に相当し、農耕の発生や文明・都市の勃興といった世界史的事件を引き起こす契機となった。
 後期旧石器時代 (38,000~16,000年前) の列島は、氷期の海面低下によって、本州・四国・九州はひとつの陸塊 (古本州島) をなして大陸から独立していたが、対照的に北海道は、大陸からサハリン・千島列島南部まで連接するひとつの半島 (古北海道半島) を形成した。後期旧石器時代の列島は大陸性の寒冷・乾燥気候が支配しており (公文論文)、東半部は針葉樹を主とする植生帯が、西半部は針広混交林が主体を成していたため (高原論文)、主要食糧としての植物資源に乏しかったことに加えて、ダンスガード・サイクルと言われる短周期で変動する不安定な気候 (公文論文) は、資源構造の動揺と資源獲得の予測可能性の著しい低下を招来した。そのため旧石器時代人は、移動によって自然環境の変動に適応可能な中大型動物 (高橋論文) を食糧資源の主体にすえ、狩猟を生業の柱とした。
 氷期末の15,000年前になると、晩氷期 (15,000~11,700年前) と呼ばれる全球的な気候激変期が始まる。列島最古の土器 (青森県大平山元I遺跡、16,000年前) はこの晩氷期の開始よりも古いので、縄文時代草創期 (16,000~11,700年前) は氷期末に開始される (工藤論文)。現在東・北アジアで土器の起源が更新世に遡ると報告されている地域は、ザバイカル・アムール中流域 (内田論文)、中国東部・南部 (大貫論文)、日本であり、現状では中国南部を除き、ほぼ同時に多元局所的に出現していると評せざるを得ない。
 縄文的な生活構造は、いち早く温暖化が開始された南九州から始まり、次第に北上した (馬籠・秋成論文)。土器使用が早く安定する南九州では草創期に入ると植物資源の利用が活性化し、定着的な生活行動が促進されるようになる。しかしながら、道具 (橋詰論文・及川論文) やその材料獲得法 (芝論文)、集落の出現と安定化等は草創期を通じて徐々に発達する (森先論文) が、北海道では依然として旧石器時代的な遊動生活が継続し (夏木論文)、縄文社会の本格的な登場は縄文早期以降となる (福田論文)。
 完新世初頭の縄文早期になると、湿潤温暖な気候の下で森林植生が発達し、水産資源も豊富になるため、狩猟・採集 (佐々木論文)・漁撈 (小笠原論文) からなる多角的な定着的生活構造が安定する本格的な縄文社会が列島全体で成立する (谷口論文)。縄文文化の外来起源の可能性はほとんどない (安斎論文)。
 (紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 佐藤 宏之 / 2016)
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 宇都宮の歴史と文化財
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 歴史を知りたい
 旧石器時代
 日本列島ができるまで
 今から約1500万年前、地質年代でいう新生代第三紀中新世のころは、地殻変動が活発で、はげしい火山活動があった時期で、栃木県は、足尾や八溝山地を除いて大部分が海に沈んでいました。大谷石として全国的に有名な緑色凝灰岩は、このころのはげしい海底火山の噴火によってふき出した火山灰が、海底に堆積してできた岩です。
 大谷石層の堆積に続き、横山・長岡・山本・大曽に見られる薄緑色から茶白色のやわらかい岩が堆積します。八幡山公園あたりは、今から1200万年前のものと考えられる砂岩・泥岩層がみられますが、二枚貝やサメの歯、クジラ(?)の骨が発見されていることから、このころは、まだ比較的温暖であったと考えられます。人類が誕生するはるか以前の地層です。
 旧石器時代の宇都宮
 人類の祖先がこの地球上に現れるのは、約500万年前とされています。また、日本人の祖先がこの日本列島に渡ってきた時代は、約3万年前、新生代第四紀更新世氷河時代で、非常に寒い気候がつづいており、最も寒い時期には、地球上の3分の1が氷でおおわれていたようです。
 氷河期の終わりころは、海面が今より100~150mも下がっており、日本と大陸は地続きでした。このため、大陸に住むナウマンゾウやオオツノジカなどの動物が日本に渡ってくるのを追いながら、人類も移り住んできたのだろうと考えられています。また、現在のインドネシア付近から、東アジアの人々の祖先となった人々も黒潮の流れに乗って北上し、日本列島にやってきたと考えられています。
 旧石器人は優れた狩人でした。関東ローム層と呼ばれる赤土の中からは、頁岩や黒曜石などで作られた石器が発見されることがあります。これらは、広い原野に動物を追って山や野を移動しつづけた人の生活を物語ってくれます。
 大谷石地層国指定史跡飛山城跡の発掘調査では、約3万年前につくられた、けものをとるための落とし穴の跡が発見されました。宇都宮にも、旧石器人の生活のあとが残されているのです。
 以前は、旧石器人は洞くつとか岩かげなどを利用して生活していたと考えられていましたが、決してそうではありません。宇都宮市内の遺跡の発掘調査では、台地の上や山の斜面に小屋を建てて住んでいたことがわかっています。
 氷河時代がおわると、気候が温暖化するのにしたがって海面が上昇し、今から約1万2千年前には、おおむね現在の日本列島が形成されました。また、これと時期をほぼ同じくして、火山の噴火活動もおさまってきたようです。
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 日本経済新聞
 現生人類はいつ日本列島に 鍵握る石器、長野で出土
 社会・くらし
 2020年12月14日 9:36
 香坂山遺跡で出土した大型石刃(左半分)と尖頭器(国武貞克氏提供)
 日本列島ではどのように人類の歴史が始まったのか――。長野県の山中の遺跡でこの夏、考古学や人類学の一大テーマに関わる貴重な発見があった。アフリカを出て、ユーラシア大陸を東に移動した現生人類に特有の、旧石器時代の石器のセットが国内で初めて出土。謎解明の鍵を握る石器の年代が焦点となっている。
 群馬県境に近い、標高約1100メートルの香坂山遺跡(長野県佐久市)で8~9月、奈良文化財研究所の国武貞克主任研究員が発掘調査を実施した。地表から約3メートルを掘り、3万年前の火山灰層のさらに下から、約800点の石器が出土した。
 特徴的なのは、幅3センチ、長さは10センチを超え、鋭い刃を持った短冊形の「大型石刃」、カミソリ刃のような「小石刃」、三角形の「尖頭器」の3点。1万カ所以上ある日本の旧石器時代の遺跡で、3点そろう出土は初めて。国武氏は「ユーラシア大陸の各地で見つかった、初期の現生人類が持つ石器の組み合わせと共通する」と説明する。
 現生人類は20万年前ごろまでにアフリカに出現。6万年前には各地に拡散する「出アフリカ」が起き、ユーラシア大陸を西から東に移動したとされる。中央アジア、南ロシア、中国などでは5万~4万年前にかけての、香坂山と同様の石器群が見つかっている。国武氏自身、タジキスタンのフッジ遺跡などの発掘で確認。香坂山と比べ「混ざれば見分けがつかないほど」と話す。
 香坂山遺跡での発掘調査=8月、長野県佐久市(国武貞克氏提供)
 類似点は遺跡の立地にも及ぶ。大陸の遺跡も標高千メートル程度に位置し、石器の材料が付近で採取できる。似た気候や環境で暮らし、移動した可能性があるといい、国武氏は「こうした人類が初めて入ってきた痕跡が、香坂山遺跡と言えるのではないか」と指摘する。
 焦点は石器の年代だ。一般に日本列島では、後期旧石器時代の3万8千年前から人類の痕跡が明確になる。2000年に発覚した旧石器捏造事件以降、さらに古い石器の報告例もあるが、石器かどうかの判断や年代を巡っては研究者でも意見が分かれている。
 香坂山では過去に3万6千~3万5千年前の大型石刃が出土したが、列島に近い朝鮮半島では4万1千年前のものが確認されるなど、大陸との年代には開きがある。
 調査では、石器とともに数百点の炭化物も採取。今後、高精度の放射性炭素年代測定で、石器の年代を特定する。国武氏は現生人類による西から東への移動を、「パレオ(いにしえの)・シルクロード」と表現。「終着点でもある列島の状況を明らかにしたい」と意気込む。〔共同〕
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 ウィキペディア
 石器時代とは先史時代の区分のひとつで、人類が石材を用いて道具や武器をつくっていた時代を指す。
 旧石器時代
 詳細は「旧石器時代」を参照
 旧石器時代は、200万年前から紀元前1万年の間とされている。地質学的にいうと、人類が絶滅した動物と共存していた更新世に属する。また、ホモ・ハビリスが石で道具を作り始めた時期でもある。考古学的にいうと、打ち欠かれた石の道具である打製石器という単純な石器を使用して狩猟・採集生活を営んでいた時代でもある。
 旧石器時代をさらに前期、中期、後期に区分する時代区分が行われる。
 弓矢が無かった為、石を削り獲物に投げつけて狩をしていた。
 前期旧石器時代
 地域によって異なるが、約200万年前~約10万年前の期間とされている。ヨーロッパ・中近東・中央アジアでは、ホモ・ハビリスホモ・エレクトスが生息していた。アジアではホモ・エレクトスの一種、北京原人・藍田(らんでん)原人・ジャワ原人がよく知られている。25万年前には、現生人類であるホモ・サピエンスが誕生した。同時期に、ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)も誕生している。この時期にはすでに、礫石器や打製石器の制作のほか、火の使用や言語の使用が始まったと考えられている。
 この時代には、日本列島に人類は住んでいなかったと推測されている。
 中期旧石器時代
 中期旧石器時代の年代は、地域によって異なるが、約10万年前~約3.5万年前の期間とされている。ヨーロッパ・中近東・中央アジアでは約9~7.5万年前から約3.5万年前まではネアンデルタール人が有名。また、約7万年前にはホモ・エレクトスが絶滅している。およそ200万年前に始まる更新世氷河時代とも呼ばれ、人類が居住するには過酷な気候であった。採集狩猟生活であったこの時期の人びとの食料源となる動物群・植物群が充分植生していなかったので、人類が居住するのにマイナス面が多かった。この時期には打製石器がより発達し、石核石器と剥片石器が登場したほか、死者の埋葬が始まったと考えられている。
 後期旧石器時代
 後期旧石器時代の年代は、地域によって異なるが、約3.5万年前~約1.2万年前の期間とされている。西ヨーロッパでは、「発展した旧石器時代(アドバンスト・パレオリシック)」とも呼んでいる。約3万年前から2万4000年前にはネアンデルタール人が絶滅し、ヒト属に属する生物は現生人類のみとなった。このころ打製石器はさらに精巧なものとなり、石刃技法を用いたナイフ形石器が普遍的に生産されるようになった。また骨角器の制作や衣服の着用、装身具の使用、洞窟壁画の登場やこれに代表される呪術的な行為の発生が認められている。
 この時代から、日本列島に人類が住んだ遺跡や遺物が多く発見されている。北海道から九州までの遺跡の数は5000箇所にのぼっている。
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 日本列島の旧石器時代は、人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6000年前と考えられている。無土器時代、先土器時代、岩宿時代ともいう。
 終期については青森県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着した炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法では1万6500年前と出たことによる。
 日本列島での人類の足跡も12万年前(島根県出雲市多伎町砂原 砂原遺跡)に遡る。この時代に属する遺跡は、列島全体で数千ヵ所と推定されている。
 地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終末から完新世初頭までである。ヨーロッパの考古学時代区分でいえば後期旧石器時代におおむね相当する。
 概要
 日本列島の形成
 日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ1500万年前で、現在のテクトニクスは約300万年前にほぼ出来上がった。更新世氷期間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。
 しかしながら、従来の学説では氷期に日本列島は大陸と陸続きになり日本人の祖先は獲物を追って日本列島にやってきたとされてきたが、近年の研究では氷期の最寒期でも津軽海峡対馬海峡には海が残り陸続きにならなかったことが分かってきた。また舟を使わないと往来できない伊豆諸島・神津島産の黒曜石が関東地方の後期旧石器時代の遺跡で発見されていることなどから、「日本人の祖先は舟に乗って日本列島にやってきた」という研究者の発言も新聞で報道されている。しかし、この時期には船の遺物は発見されていないため少数の意見である。
 一方、約4万年前の後期旧石器時代早期より黒曜石の採掘が続けられた栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では知的で効率的な作業の痕跡も確認されている。
 また、4万年〜3万年前には世界最古の磨製石器が製作されており、すでに日本では独自の文化が形成されていたことがうかがえる。

 後期旧石器の特徴
 後期旧石器時代の石器群を概観する。日本列島の後期旧石器時代は、約35,000年前に始まり、縄文時代へと移行する約15,000年前までの約20,000年間続いた。遺跡は樺太から沖縄まで約10,000ヵ所以上が確認されている。これらの遺跡で出土する遺物のほとんどは石器であり、遺構は礫群以外が出土することは極めてまれである(他に陥し穴などがある)。石器ばかりが発見されるのは有機質の材料で作られた道具が土中で分解されて残りにくいためであり、遺構についてもその可能性が高い。ただし遺構はおそらく大変簡素な作りだったと推測されている。

 人類学的見地から
 現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前に出アフリカを果たし、それ以前にはアフリカ外には分布していなかった。従って、日本列島最古の石器(砂原遺跡の12万年前)を遺したのはデニソワ人などの旧人である。日本列島に現生人類が現れるのは4〜3.5万年前と考えられており、これは日本固有のハプログループD1a2a (Y染色体)の起源年代とおおむね一致する。
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 デニソワ人(Denisova hominin)は、ロシア・アルタイ地方のデニソワ洞窟(ロシア、中国、モンゴルの国境に近い地域)に、約4万1千年前に住んでいたとされるヒト属の個体および同種の人類である。デニソワ洞窟は、アルタイ地方の中心都市バルナウルから約150km南方に位置する。2020年現在、正式な学名は存在しないものの、ホモ・サピエンスの亜種とされることが多く、暫定的にホモ・サピエンス・デニソワ(Homo sapiens ssp. Denisova)や、ホモ・サピエンス・アルタイ(Homo sapiens Altai)とも呼ばれる。
 ネアンデルタール人と並んで、我々現生人類であるホモ・サピエンス・サピエンス (Homo sapiens sapiens) とは、遺伝的に非常に近い化石人類である。また現生人類の一部(メラネシア人など)と遺伝子情報を部分的に共有する可能性が高いとされている。
 発見史
 2008年にロシアの西シベリアのアルタイ山脈にあるデニソワ洞窟で子供の骨の断片が発見され、放射性炭素年代測定により約4万1千年前のものと推定された。また、同じ場所で、大人の巨大な臼歯も発見されている。
 2010年3月25日付のイギリスの科学雑誌『ネイチャー』(Nature)において、マックス・プランク進化人類学研究所の研究チームは、発見された骨のミトコンドリアDNAの解析結果から、デニソワ人は100万年ほど前に現生人類から分岐した、未知の新系統の人類だったと発表した。DNAのみに基づいて新種の人類が発見されたのは、科学の歴史上初めての事である。
 2019年4月11日付けで学術誌『Cell』に発表された論文によると、デニソワ人には独立した3つのグループが存在し、このグループの内の一つは、ネアンデルタール人とデニソワ人の違いくらい、他の2グループのデニソワ人と異なっていることが示唆されている。
 他の人類との遺伝的関係
 2010年12月23日、マックス・プランク進化人類学研究所などの国際研究チームにより『ネイチャー』に論文が掲載された。見つかった骨の一部は5 - 7歳の少女の小指の骨であり、細胞核のDNAの解析の結果、デニソワ人はネアンデルタール人と近縁なグループで、80万4千年前に現生人類であるホモ・サピエンスとの共通祖先からネアンデルタール人・デニソワ人の祖先が分岐し、64万年前にネアンデルタール人から分岐した人類であることが推定された。デニソワ洞窟は、ネアンデルタール人化石発見地のうち最も近いイラク北部シャニダール遺跡から、約4000 kmの距離を隔てている。メラネシア人のゲノムの4-6%がデニソワ人固有のものと一致することから、現在のメラネシア人にデニソワ人の遺伝情報の一部が伝えられている可能性が高いことが判明した。この他、中国南部の住人の遺伝子構造の約1%が、デニソワ人由来という研究発表も、スウェーデンのウプサラ大学の研究チームより出されている。ネアンデルタール人と分岐した年数も、35万年ほど前との説も浮上している。ジョージ・ワシントン大学の古人類学者のブライアン・リッチモンドは、デニソワ洞窟で見つかった巨大臼歯からデニソワ人は体格はネアンデルタール人と同じか、それよりも大きいとみている。
 ネアンデルタール人やデニソワ人はその後絶滅してしまったが、アフリカ土着のネグロイドを除く現在の現生人類遺伝子のうち数%はネアンデルタール人由来である。中東での現生人類祖先とネアンデルタール人との交雑を示す研究成果は2010年5月に発表されているが、2010年12月にアジア内陸部におけるデニソワ人とも現生人類祖先は交雑したとする研究結果が出たことから、この結果が正しければ、過去には異種の人類祖先同士の交雑・共存は通常のことだった可能性が出てきた。
 なお、アジア内陸部でデニソワ人と交雑した現生人類祖先は、その後、長い期間をかけてメラネシアなどに南下していったと考えられる。また、中国方面に移住したグループは漢民族となり、高地に移住したグループはチベット人となったともされる。
 発見された化石が少ないことから、現生人類との関連などは今後の研究により変更される可能性もある。デニソワ人の体格などの外形、生活様式、人口などはこれからの研究が待たれる点である。ただ、巨大臼歯からはがっしりした顎を持っていたことが推定されている。
 2018年8月22日、古遺伝学者のビビアン・スロンは2012年にロシアで発見された10代の少女の化石が母がネアンデルタール人、父がデニソワ人であったと科学誌「ネイチャー」で発表した。
 2019年9月、ヘブライ大学やスタンフォード大学で研究をしているデビッド・ゴクマンにより、DNAのメチル化を調べて骨格に関する32の特徴を抽出し、デニソワ人の骨格を提案するという研究結果が発表された。この研究によると、デニソワ人の外見は、狭い額やがっしりした顎などを持ち、ネアンデルタール人によく似た特徴を持っていた可能性がある。一方、頭頂骨の幅が広いなど、ネアンデルタール人とも異なる特徴も、見て取れるという。
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🗻30〕─1─韓国内にある倭人(日本人)の墳墓らしき巨大な日本式前方後円墳群。〜No.71No.72 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・     
 日本式前方後円墳は、ヤマト王権の領地・支配地・影響地、同盟国・友好国の証しである。
   ・   ・   ・   
 親日派知日派王朝は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日派・敵日派王朝は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国
   ・   ・   ・   
 2021年4月1日 MicrosoftNews 東スポWeb「「これ倭人の墓じゃね!?」韓国が朝鮮半島最大の古墳を発掘直後に埋めたワケ
 © 東スポWeb 日本の前方後円墳は3世紀からある(写真はイメージ)
 外務省の船越健裕アジア大洋州局長と、韓国外務省の李相烈(イ・サンリョル)アジア太平洋局長は1日、東京都内で対面による局長協議を開催。元慰安婦らの訴訟や日本の高校教科書の記述内容などを巡る2国間問題などが議題になりそうだ。様々な歴史問題で衝突する日韓だが、とんでもないことが起きていた。
 韓国紙「ハンギョレ」(電子版)は先日、「朝鮮半島最大の古代の墓 開けた直後に閉じた理由は」とのタイトルで「朝鮮半島で最大の古代の単一の墓が、新年の始め(日本語版原文ママ)についに開かれた。考古学者らは5~6世紀の日本の古墳とそっくりな墓の構造に驚き、すぐに土で覆われ再び埋められてしまったことにがっかりした」と報じた。
 全羅南道にある韓国最大の古墳「長鼓峰古墳」を発掘したら、日本の前方後円墳とほぼ同じだったため、埋めてしまったというのだ。
 今回の古墳は6世紀前半のものと推定されるという。日本の前方後円墳は3世紀からあるので、これは倭人(日本人)の墳墓の可能性がある。
 韓国事情に詳しい文筆人の但馬オサム氏はこう語る。
 「『日本書紀』に出てくる、古代朝鮮にあったヤマト政権の出張政府である『任那(みまな)日本府』の存在を肯定する材料になりかねません。韓国の歴史観からするとそれは我慢ならないことです。だからといって現実に存在する古墳を埋めて、なかったものにするというのは、かの国は学術よりも“かくあれ”という願望が優先するということです」
 韓国メディアなどでは、日韓併合だけでなく、豊臣秀吉朝鮮出兵、果ては鎌倉時代倭寇まで持ち出して、「日本はそんな昔からわが国を侵略、蹂躙してきた」と非難する傾向がある。
 但馬氏は「いっそ、もっとさかのぼり、任那日本府やあるいは神功皇后三韓征伐を日本の朝鮮半島侵略行為といって非難するかと思えば、これに関しては絶対否定します。『われわれの偉大な先祖が、文明も文化もない古代の倭人に支配されるわけがない』というのが彼らの言い分です」と指摘している。」
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 西野法律事務所
 2013年バックナンバー
 韓国の前方後円墳
 私たちの年代の教科書には、朝鮮半島に「任那(みまな)日本府」があったと記載されていました。
 厳密にいえば、「日本」という国名ではなく「倭」と呼ばれていたでしょうし、日本の学界ではかつては「任那」という呼称にかえて、昭和60年ころから、より広く「伽耶諸国」あるいは「加羅諸国」と呼ばれることが一般的となっているそうです。
 「伽耶加羅)諸国へのヤマト王権」ということになりますね。
 古墳時代に、日本(倭国)の朝鮮半島への進出を示す史料は「結構」あります。
 歴史書としては、宋書倭国伝に記載されています。
 宋書倭国伝には、倭王済が「使持節都督・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を受け、倭王武に「使持節都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の受けたと記述されています。
 つまり、中国の文献に記載されています。
 高句麗の広開土王碑(韓国の学者が、日本による改ざんを唱えていましたが、中国で拓本が発見され、改ざんなしとわかっています)には「倭が新羅百済を臣民とした」と記されています。
 韓国は「改ざん」と主張していましたが、後日、中国で拓本が発見され、「改ざん」説は否定されています。
 高句麗を朝鮮とみれば、朝鮮の石碑に記載されています。
 日本書紀の「雄略紀」や「欽明紀」などにも、朝鮮半島南部の伽耶の一部を含む任那倭国の出先統治機関があったと記載されています。
 日本の歴史書に記載されています。
 韓国からの「クレーム」で、現在は「任那日本府」は教科書に掲載されなくなったようです。
 1983年に、韓国に「前方後円墳」が発見されました。
 1983年に発見された「慶尚南道(韓国の行政区分)の松鶴洞一号墳」は、結局、時代の異なる複数の墳墓が重なったものであると後に判明するのですが、それ以降、全羅南道(韓国の行政区分)に11基、全羅北道(韓国の行政区分)に2基の前方後円墳が確認されました。
 韓国は、前方後円墳を隠しませんでした。
日本の学者と共同調査もしました。
 韓国の政府と学者は、前方後円墳は、韓国から日本に「伝来」したものと思いこんでいたようです。
 朝鮮半島前方後円墳は、いずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、伽耶諸国の勢力圏であった地域に存在にしていました。
 日本の前方後円墳が3世紀から6世紀のものなのに対し、朝鮮半島前方後円墳は、いずれも5世紀後半から6世紀中葉、どう考えても日本が先です。
 それだけなら、前方後円墳は、3世紀以前に、韓国から日本に「伝来」したと「強弁」できないでもありません。
 ただ、そうもいかなくなりました。
 朝鮮半島前方後円墳から、翡翠でできた勾玉(まがたま)が出てきました。朝鮮半島翡翠は出土しません。また、朝鮮半島前方後円墳から、埴輪らしきものが出てきました。埴輪は日本の墳墓などからしか出土されません。
 「日本人(倭人)の墓やないか!」ということですね。
 韓国は、だまって埋戻しました。韓国のいつものやり方です。
 韓国では、韓国国内で出土する「前方後円墳」については、新羅百済が、倭人を傭兵としていて、傭兵である倭人が死んだときに、「前方後円墳」をつくり埋葬することを、「褒美として」「許し与えた」ということになっているそうです。
 韓国の「前方後円墳」の付近に、王侯貴族の大きい陵墓があるわけではありません。
 王侯貴族は小さい陵墓、家臣である傭兵の陵墓は大きい「前方後円墳」ということですが、素直な解釈でしょうか。
 素直に考えれば、韓国の前方後円墳は、倭が、伽耶加羅)諸国だけでなく、一時期は(少なくとも、前方後円墳が築造された時代)、新羅百済の版図を支配していたことの裏付けとなりそうですね。
 弁護士的な発想からすれば「新羅百済が、倭人を傭兵としていて、傭兵である倭人が死んだときに、『前方後円墳』つくり埋葬することを、『褒美として』『許し与えた』」と無理な主張をした段階で、その訴訟は敗訴確定です。
 嘘をつきとおすなら、いっそのこと「朝鮮半島の政権が倭を支配していた」とすれば、まだ「勝訴」の目があります。
 ただ「朝鮮半島の政権が倭(ヤマト政権)を支配していた」と主張してしまうと、「もともと同一の国だから」「日韓併合は正当だ」という反論が怖いということになります。
 もちろん、そんな主張はされていません。
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 デイリーBOOKウオッチ
 韓国になぜ「前方後円墳」があるのか
 2019/10/ 6
 日本独自と言われてきた前方後円墳が、韓国にもあることが近年しだいに明らかになった。なぜ朝鮮半島にあるのか。日本の前方後円墳とはどんな関係になっているのか。本書『「異形」の古墳――朝鮮半島前方後円墳』(角川選書)はこの問題について研究者が分かりやすく解説したものだ。日韓両国の学者によるこれまでの研究成果や、様々な推論を丁寧に紹介している。
 栄山江流域に14基
 著者の高田貫太さんは1975年生まれ。岡山大学文学部、同大学院を経て韓国の慶北大学校大学院考古人類学科博士課程修了。現在は国立歴史民俗博物館研究部准教授・総合研究大学院大学文化科学研究科准教授。著書に『古墳時代の日朝関係』、『海の向こうから見た倭国』などがある。
 韓国で前方後円墳が見つかっているのは、南西端に位置する栄山江流域。古代の百済に隣接するとみられるエリアだ。1980年代から正確な測量図の情報が伝わるようになり、90年代に入ってさらに学術調査が進んだ。少なくとも14基あるという。墳丘長は数十メートルのものがほとんどだ。築造されたのは5世紀後半から6世紀前半にかけてとされており、日本の前方後円墳の出現よりは相当遅い。
 日本以外でも見つかったということの意外性に加え、前方後円墳が日本では単なる墓にとどまらないことが問題を複雑にした。著者は以下のようにまとめる。
 {「前方後円墳は日本列島独特の墳墓である。それがきずかれた範囲は、ヤマト政権の支配する範囲、東アジア世界では倭とよばれていた範囲とおおむね一致する。それなのになぜ、朝鮮半島の西南部、栄山江流域にまで前方後円墳がひろがっていたのか。それがきずかれた栄山江流域は、ヤマト政権の支配下にあったのか。倭の一部だったのか」}
 日本列島の前方後円墳(をはじめとする古墳)は、墳形や規模で当時の政治秩序を象徴するとされている。ヤマト政権は、最大規模の前方後円墳が営まれた近畿地方の勢力によって形成された、というのが教科書的な理解だ。ゆえに「栄山江流域」という飛び地のようなところから見つかったことに、多くの学者が頭を悩ましてきたと言える。
 韓国では「前方後円形古墳」という呼称も
 本書はまず、この栄山江流域の「前方後円墳」について、どのような名称にすべきかという議論が韓国内で続いていることを教えてくれる。結論から言うと、「前方後円墳」と、「前方後円形古墳」という呼称が半々だそうだ。「前方後円形古墳」を主張する韓国の学者の見解は次のようなものだ。
 {「前方後円墳という用語は、ヤマト政権によって形成された政治的統合の産物という意味合いから使用されており、前方後円墳という用語を栄山江流域の古墳に使用することは適切ではない。なぜなら栄山江流域に倭系統古墳が築造されたといっても、栄山江流域が倭のヤマト政権の支配を受けていたのではないからである」}
 では、日本の学界の理解はどうなのだろうか。著者によれば、「日本考古学の枠組みで、栄山江流域が倭王権を頂点とする広域な政治秩序に組み込まれていた、と明言する日本の研究者はほぼ皆無」だという。「倭の境界領域における例外的で特殊な現象」と把握されることが多く、「日本の学界では、朝鮮考古学や日朝関係史の枠組みの中で議論されている内容を参考としながら、栄山江流域の前方後円墳は当時の倭と百済・栄山江流域との政治経済的な関係の中で営まれた、という把握の仕方が一般的」なのだそうだ。
 というわけで、名称問題は別として、少なくとも日韓の学者の間では、この地域の前方後円墳の理解についてそれほど深刻な違いや対立はなく、長年の学術交流の中で、冷静な議論が行われているという。
 稲作は朝鮮半島から北部九州へ
 本書は「序章 なぜ研究するのか」、「第一章 前方後円墳が出現するまで」、「第二章 前方後円墳を歩く」、「第三章 栄山江流域社会と前方後円墳」、「終章 いま、前方後円墳からみえること」に分かれている。
 「第一章」で著者はこの問題を考える前段として、まず朝鮮半島と日本列島との長い交流を振り返る。現在の考古学的知識によれば、日本列島で最初に水田耕作が始まったのは北部九州。それは朝鮮半島からもたらされたものだという。このことを示す考古学的な証拠は多数あるそうだ。しかも単なる農工具や技術だけでなく、新しいタイプの土器や住居や墓、武器、防御施設、農耕に関する儀礼なども含めた、水田耕作を生産基盤とする農耕文化の総体――学術用語では「文化複合体」――が朝鮮半島から渡来人の手によって伝えられたという。それが日本列島の弥生文化をつくったそうだ。
 確かに、それに類することは、BOOKウォッチで紹介した「ヤマト王権誕生の礎ろなったムラ唐古・鍵遺跡」(新泉社)にも出ていた。奈良の唐古・鍵遺跡は弥生時代最大級の「ムラ」として有名だが、成立させたのは、縄文人ではなく、稲作農耕の技術と文化をたずさえて新たに来た人であり、渡来系の可能性が高いことを、著者の藤田三郎・奈良県田原本町埋蔵文化財センター長は示唆していた。
 つまりかなり古い時代から朝鮮半島と日本列島は濃厚な交流を繰り返していた。栄山江流域に前方後円墳が出現するに至る相当以前から、双方の人々は行ったり来たりしていたというわけだ。それは朝鮮半島各地で、「倭系」とみられる考古遺物が見つかっていることからも明らかであり、そのあたりについても本書は詳しい。
 そして高田さんは、栄山江流域に前方後円墳が出現した5世紀とは、朝鮮半島から須恵器や鉄器、金工品、馬の生産、カマドなど新しい情報が渡来人を通して伝わった時代だったと強調する。これらの渡来人が残した日常使いの土器には、栄山江流域や周辺に系譜を求められるものも数多いという。この地域と倭との関係が双方向だったことをうかがわせる。
 がっちり握手
 「第二章 前方後円墳を歩く」では著者が、まるで考古学ガイドのように丹念に現地を歩き回り、詳細な地図を掲載している。写真も付いているので、考古学ファンで実際に現地を見たい人にとっては大いに参考になるだろう。これらの前方後円墳や、現地に残る「倭系墓」などの造営主体はだれだったのか。高田さんは、その地域に生活基盤を持つ現地集団であり、倭人が、それまで人びとのあまり住まなかった「無主」の地にやってきて、勝手にきずいたというのではないと断言する。
 「第三章」では、なぜ前方後円墳がきずかれたか、短期で消えたか、被葬者はだれかということに踏み込んでいる。本書のポイントでもあるので、種明かしは避けて実際に読まれることを勧めたい。
 本書で痛感するのは、古代のもろもろのことを「朝鮮」とか「日本」とか言って単純に区分けすることの難しさである。今の日本人が思っている以上に、古代においては双方の関係が深かった。日本側でも韓国側でも、遺物から双方の「雑居」をうかがわせる遺跡が少なくないそうだ。
 著者は5世紀を朝鮮からもたらされた「技術革新の世紀」と書いている。つづく6~8世紀は、漢字や仏教伝来で寺院建築、合金製の仏像づくりなどが加速し、さらに関係が緊密になっていたはずだ。聖徳太子の仏教の師は高句麗僧だったと言われるが、太子はおそらく複数言語に通じていたはずだ。田中史生氏の「渡来人と帰化人」(角川選書)によれば、平安時代初期に京や畿内に住んでいた氏族の名前の30%が中国や朝鮮をルーツとする人たちだったという。当時編纂された『新撰姓氏録』(815年)から分かるそうだ
 本書は「謎の前方後円墳」について、最新の研究成果をもとに、歴史的視野を広げて分析した良書と言える。加えてそれ以上に印象に残ったのは、日韓の学者間で実に緊密な連携と交流がおこなわれているということだ。高田さんは韓国に留学しているが、韓国側でも日本留学者が少なくない。高田さんと共同研究している日韓13人の研究者は、いずれも「気心の知れた」人たち。旧知の学者に会うと、「満面の笑み」であいさつを交わし、「ガシッと握手」、「酒を酌み交わしながら議論に花が咲く」というのだ。日韓関係がごたついている時だけに、両国の政治責任者には伝えたい光景だと思った。
 BOOKウォッチでは関連で 『古代韓半島倭国』(中公叢書)、『戦争の古代史─好太王碑、博そうから刀伊の入寇まで』(講談社現代新書)、『古代─近世「地名」来歴集』(アーツアンドクラフツ)なども紹介している。 (BOOKウォッチ編集部)
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 本項では朝鮮半島南部の前方後円形墳、すなわち朝鮮半島南部の大韓民国(韓国)全羅南道全羅北道に分布する、日本列島の前方後円墳と同じ墳形の古墳について解説する。
 これらの古墳は、日本側では「前方後円墳」・「前方後円形墳」、韓国側では「前方後円墳(전방후원분)」のほか楽器のチャング(チャンゴ/장고/長鼓)になぞらえ「長鼓墳(チャンゴブン/장고분)」などと表記される。日本列島の前方後円墳との間には類似点・相違点が存在することから、以下本項では「前方後円形墳」の表記で区別して解説する。
 概要
 朝鮮半島西南部の栄山江流域では、日本列島に特徴的な前方後円形(円形の主丘に方形の突出部が付いた鍵穴形)の墳形を持つ10数基の古墳の存在が知られる。これらは5世紀後半から6世紀前半(朝鮮半島三国時代、日本の古墳時代中期-後期)の築造とされ、3世紀中頃から7世紀前半頃にわたって展開した日本列島の前方後円墳の手法を基にしたと見られることから、当時の日本列島と朝鮮半島の政治的・経済的・文化的関係を表す事例として注目される。
 古墳の構造は、前方後円形という概形こそ各古墳で共通するものの、墳形の寸法や外表施設・埋葬施設の点では個々で相違し画一的ではない。発掘調査では、外表施設として一部の古墳に周堀・段築・葺石・埴輪・木製品が存在することや、埋葬施設として一部に九州系横穴式石室の要素が存在することが判明し、これらは日本列島の前方後円墳とも共通する。しかしそれら墳丘・施設は列島のものの模倣に近く、また副葬品には倭(日本)系・百済系・大加耶系の文物が混在する点で、特定地域に限らず様々な地域との交渉を反映した多義的な様相が認められている。
 前方後円形墳の分布する栄山江流域は、文献史学的には史料が乏しく当時の情勢が不明な地域になるが、考古学的には当時の倭・百済加耶のいずれとも異なる独自の在地系勢力(馬韓残存勢力)が存在した地域とされる。そしてこの在地勢力が百済支配下に入る時期(6世紀中頃)の前段階において、在地系の高塚古墳と列島系の前方後円形墳の2つの墓制が展開した。しかし栄山江流域は日本列島と連続する地域ではないほか、一帯では列島からの大量移住の形跡もなく、各前方後円形墳自体も1世代のみで築造を終焉するため、このような列島系の墳形が築造された背景は依然詳らかでない。現在も、被葬者としては在地首長説・倭系百済官人説・倭人説の3説に大きく分かれて議論が続くトピックになる。
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「異形」の古墳 朝鮮半島の前方後円墳 (角川選書)

🗾13〕─1─韓国人・朝鮮人のDNA解析。〜No.25No.26 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代人類の共通祖先である現生人類(ホモ・サピエンス)はアフリカで誕生し、自然環境の悪化に伴いアフリカを出て地球上に広がった。
 東に向かった現生人類(ホモ・サピエンス)が、朝鮮、中国、中国そして南北アメリ大陸に住み着いた。
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 2011年9月8日10:29 中央日報「韓国人にだけ存在する6万個のDNA、クラウド利用で発見(1)
中央日報/中央日報日本語版
 韓国人に特徴的に現れる遺伝子変異がクラウドコンピューティング技術で明らかになった。KTは非営利研究法人のゲノム研究財団、バイオ企業のテラジェンイーテックスと共同で、韓国人20人の遺伝子解読と分析に成功したと7日に明らかにした。ゲノム研究財団とテラジェンイーテックスが進める「韓国人個人ゲノムプロジェクト(KPGP)」の一環として20人の韓国人ゲノムを分析するのにKTがクラウドコンピューティング技術を提供した結果だ。
 人間の遺伝子は30億個の塩基で構成されており、今回のプロジェクトを通じて876万個の遺伝子変異を発見した。このうち184万個は既に発見されたものと違い今回新たに発見された変異だった。その中でも6万3000個余りの変異は20人のうち13人から共通して発見されたもので、韓国人特有の遺伝子変異と解釈される。
 こうしてわかった韓国人特有の変異は、病気に関連した遺伝子から身体特性に関するものまで多様だった。代表的なものが辛い味を好む韓国人の特異的変異だ。20人中6人から共通で発見された変異で、唐辛子の辛さの成分のカプサイシンによって活性化するたんぱく質と関連があることが明らかになった。この変異によって機能が変わったたんぱく質が辛い味を好む韓国人の食生活習慣を説明する端緒になると予想される。また、味噌・キムチのように醗酵食品が好きな韓国人の特異な趣向遺伝子も出てきた。
 テラジェンイーテックスのパク・ジョンファ博士は、「世界的に300件余りのヒトゲノム解読結果が公開されているが、大部分が西洋人やアフリカ人、一部東洋人のもので、韓国人に対する遺伝情報は不備だった。今回6万個余りの韓国人共通変異を発見したことにより韓国人のためのゲノム解読が可能になった」と説明した。」
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 9月8日10:29 中央日報「韓国人にだけ存在する6万個のDNA、クラウド利用で発見(2)
 ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
 韓国人に対するゲノム分析結果は2008年12月から始まった。嘉泉医大のキム・ソンジン教授が韓国人ゲノムを初めて完全解読し、7月にはマクロジェンが韓国人18人のゲノムを分析して英国の著名学術誌の「ネイチャージェネティクス」に発表した。今回行われた韓国人20人のゲノム分析はこれまでに行われたプロジェクトで最多人員だ。
 今回のプロジェクトの特徴は韓国人遺伝子変異を明らかにするのにクラウドコンピューティング技術を初めて導入した点だ。ヒトゲノムに存在する30億個の塩基配列情報量は120ギガバイトに達するが、通常1人の塩基配列情報を分析し結果を保存するのに8コア級サーバー10台を1週間稼働させなければならない。しかしクラウドコンピューティングサービスを活用すればハードウェアを増設しなくても大規模コンピューティング資源をいつでも必要なだけ利用することができる。2008年に6カ月かかった作業を今回は40日で終わらせたのが目立った成果だ。
 KTとテラジェンイーテックスはさらに多くの韓国人ゲノム分析のため現在70人の血液サンプルを確保した状態だ。KTのオ・セヒョン新事業戦略担当常務は、「多数のゲノムデータが集まってこそ個人オーダーメード型医療に必要な情報を知ることができ、これを調べるのにクラウドコンピューティングのようなシステムは重要な道具だ」と話した。
 ◆クラウドコンピューティング=多様なソフトウェアやデータを個人や会社のコンピュータ保存装置に入れずウェブ空間に置いたまま必要な時に呼び出すインターネットコンピューター環境。費用を節約し業務の効率を上げることができる。」
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 朝鮮半島は、日本列島と中国大陸とを繋ぐ廻廊であったが、中国から日本に向かう人の流れが大半で、日本から中国に向かう人の流れは少なかった。
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 日本から中国に向かう人の流れた、朝鮮半島を素通りする、舟で海を渡る道であった。
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 朝鮮半島は、西の農耕民帝国と北の遊牧民帝国からの侵略を受け、征服され占領される度にその影響を強く受けた。
 朝鮮民族とは、大陸の強大国に対して屈辱的服従を強制され続けた被征服民・隷属民で自立した自由民ではなかった。
 その象徴が忠良な「礼法の民」という呼び名である。
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 2019年11月21日12:10 中央日報「DNA分析で先祖探し…韓国生まれの韓国人記者、韓日中の混血だった(1)
 ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
 DNA分析で先祖探し…韓国生まれの韓国人記者、韓日中の混血だった
 単一民族はなかった。倍達の民族も、檀君の子孫も…。韓国生まれの韓国人という人たちの血統は韓国・日本・中国、3カ国の混血だった。ここにすべてではないが、モンゴルの血統もそっと混ざった。中国人と日本人も大きく異ならない。血統構成比の中心はやはり韓日中だ。独島(ドクト、日本名・竹島)、慰安婦、韓日軍事情報包括保護協定(GSOMIA)問題で、高高度防衛ミサイル(THAAD)問題などで、それぞれ韓日間、韓中間の現実対立は続いているが、「チャンケ(韓国語で中国人に対する蔑称)」「チョッパリ(韓国語で日本人に対する蔑称)」「チョーセンジン」の正体はこうだった。
 記者が直接DNA分析を通した「先祖探し」をしてみた。保健福祉部で実施しているDTCパイロット事業に選ばれた民間企業のEDGCを通じてだ。簡単だった。サンプル収集キットの中に入っているプラスチックチューブに唾液を入れればそれだけだった。必要な量は1ミリリットル。検査結果は1週間後に出てきた。「韓国47.89%、日本25.14%、中国26.97%」。気分は妙だった。代々慶尚南道慶州(キョンサンナムド・キョンジュ)の南山(ナムサン)のふもとで暮らしてきた地元生まれの慶州崔氏、統一新羅時代の大学者崔致遠(チェ・チウォン)から32代目のDNAに韓国と中国、日本がすべて入っているとは…。
 ◇中国人もDNAには韓日中のルーツ共有
 もしや、とんでもない想像だとからかわないでほしい。韓国人のDNAを分析すればほとんど例外なく韓日中3カ国の遺伝子が入っている。EDGCのペ・ジンシク研究所長は韓国46.26%、日本26.54%、中国26.01%、モンゴル1.19%だ。モンゴルのDNAはさらにモンゴル0.82%、キルギスタン0.27%、カザフスタン0.11%に細分された。先祖探しサービスの責任者であるクォン・ヒョクチュン首席研究員もペ所長と似ていた。韓国48.61%、日本30.39%、中国19.95%、モンゴル1.04%(モンゴル0.73%、キルギスタン0.24%、カザフスタン0.07%)。ペ所長は忠清北道報恩(チュンチョンブクド・ポウン)が、クォン首席研究員は全羅北道井邑(チョンラブクド・チョンウプ)が代々暮らしてきた故郷だ。
 中国人も大きく変わらなかった。北京出身の中国人スタッフは「中国62.66%、韓国17.82%、日本6.94%」となった。韓国人との違いといえば韓日中以外にも東南アジアのDNA(ベトナム9.88%、ミャンマー1.75%、フィリピン0.93%)が混ざっているということだ。
 ペ所長は「韓国人のDNAを分析してみるとほとんどが韓国を中心に中国と日本の血統が混ざっており、構成比は小さいがモンゴルなど北方民族の血統も入っている。韓国人・日本人・中国人の先祖をさかのぼってみれば大きな幹で出会うことになるという話」と話した。高麗時代の蒙古侵入と朝鮮の壬辰倭乱(文禄慶長の役)の際の影響も一部なくはなかったものと推測されるというのがEDGCの判断だ。
 クォン首席研究員は「来年上半期中にミトコンドリアY染色体の中のDNA分析を通じ、検査を受ける人の母系と父系がどこからきたのか教えるサービスも始めるだろう」と話した。細胞の中のミトコンドリアDNAは母系を通じてだけ遺伝し、Y染色体はその特性上父系だけで遺伝するため、この2種類を分析すれば母系と父系の先祖がどこからきたのかがわかる。彼は「中国人のDNAも現在は漢族中心だが、来年中に50余りの少数民族に対する遺伝子データを確保して詳しい分析ができるだろう」と話した。」
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 11月21日12:12 中央日報「DNA分析で先祖探し…韓国生まれの韓国人記者、韓日中の混血だった(2)
 ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
 ◇外国では自由だが韓国はまだパイロット事業
 記者が受けた検査は「DTC(消費者直接依頼)DNA分析サービス」だ。医療機関を通じず企業が直接消費者のDNA分析ができるという意味でDTCと呼ぶ。DNA先祖探しは韓国ではまだ一般の人たちにはできない。生命倫理と安全に関する法律告示により現在としては12種類の項目だけ検査できる。許可された12種類の項目は、肥満指数、中性脂肪コレステロール、カフェイン代謝、血圧、血糖、皮膚の老化、皮膚の弾力、色素沈着、ビタミンC濃度、脱毛、毛髪の太さなどだ。韓国政府は当時12種類の項目の選定基準として、▽疾病診断など医学的決定と連結されないよう医療領域を最大限排除▽生活習慣改善、疾病予防が可能な検査▽消費者への危害性が少なく科学的根拠が確保された検査――の3種類を挙げた。
 まだ韓国ではDNA検査を自由にできないが、それでも方法がないわけではない。先端バイオ産業では国境がなくなって久しい。韓国人でもインターネットを通じて外国企業がするDNA分析を申請すればよい。郵便で送られてきたキットに唾液を入れて送りさえすればよい。価格も100ドルに満たない。「メルティングポット」という表現のように多民族国家である米国では数年前から先祖探しブームが起きている。ベンチャー企業「23andme」のおかげだ。この会社は2007年からDNA分析を通じた先祖探しサービスをしている。カラーゲノミクスというスタートアップは同様のDNA検査を通じ乳がんなどの疾病の可能性まで教えてくれる。
 これほどになれば逆差別と言わざるを得ない。外国企業は韓国人を相手にサービスでき、韓国企業はそのようにできない状況だ。韓国政府が国境のない競争時代に生命倫理と医療専門性と関連した規制を強調して自国企業の足を縛っている格好だ。
 ◇遺伝子の影響は30%、環境・習慣がもっと重要
 韓国バイオ協会のシン・ヒョンホ政策協力部門次長は「韓国の遺伝子検査関連規制は生命倫理と関連したものもあるが、既存の規制を守ろうとする医療界の立場が強く作用する側面もある。医療機関が患者を対象にした遺伝子分析を進める時も実は民間遺伝子専門分析会社に依頼するケースがほとんど」と話した。
 このため保健福祉部は9月からEDGCなど12社を対象にDNA検査項目を既存の12項目から57項目に大幅に増やしたDTCパイロット事業を始めた。パイロット事業過程を通じて基準をクリアした企業には57項目までDNA検査ができるよう告示を改定する計画だ。57項目は12項目に筋力運動、有酸素運動、持久力運動など分野別運動適合性と、筋肉発達能力、短距離疾走能力、運動後の回復能力、日光露出後のタンニング反応、若白髪、アルコール分解能力、睡眠習慣、不眠症、肥満・体脂肪率、退行性関節炎症感受性など45項目が加わった。
 ペ・ジンシク研究所長は「分析結果は57項目に対する敏感度が持って生まれたDNAに刻まれているという意味。こうした持って生まれた遺伝子が実際に成長する過程で影響を及ぼすのは30%程度であり、残りは育ってきた環境や食習慣などによっていくらでも変わることがあるので、持って生まれた遺伝子を絶対的に信じる必要はない」と話した。ペ所長はしかし「米国女優アンジェリーナ・ジョリーのように乳がんを引き起こすBRCA遺伝子の場合発現の可能性が80%以上なものもある。韓国政府がDTCDNA分析で認めたものはほとんどが疾病と直接的関連がないもので残念な部分がある」と付け加えた。
 韓国のバイオ業界は当初120項目にわたりDTCDNA分析を許容するよう要請したが、2月にまず57部門だけでパイロット事業をするものと結論が出た。
 ◇急成長する世界の遺伝子検査市場
 保健福祉部関係者は「パイロット事業に参加した12社のうち現在7社が残った状態。来年からはパイロット事業の検証を最終通過した企業が57項目に対し韓国では初めてDNA分析サービスをすることになる。今後の事業推移を見守り、委員会を通じてDTCDNA分析項目を増やす方針」と話した。
 一方、生命工学政策研究センターによると、世界の遺伝子検査市場は2015年の5兆6402億ウォン規模から年平均10.6%ずつ成長し、2024年には13兆7658億ウォン規模に達すると予想される。」
   ・   ・   ・   
 韓国人・朝鮮人は、恨と怒である。
 大陸は、罪と罰である。
 日本民族は、恥と穢れである。
   ・   ・   ・   
 2021年2月12日 中央日報「【中央時評】「恥のDNA」がない政権=韓国
 ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2021.02.12
 チョ・グク・尹美香(ユン・ミヒャン)・秋美愛(チュ・ミエ)問題の暗いトンネルを過ぎると、今度は金命洙(キム・ミョンス)問題だ。恥を知らないというのが共通点だ。全国民が見守る中、当然のように嘘をつき、実体が露呈すると言い逃れに汲々とする。あの時は知らなかった、記憶が確かでない、私がやらせたわけではない。ダ・カーポのように繰り返されるくだらない釈明は退屈なばかりだ。
 「国会弾劾問題で林成根(イム・ソングン)釜山(プサン)高裁部長判事の辞表を受理することができないと言ったことはない」という答弁書が嘘だということが露呈した日、金命洙大法院長(最高裁長官)は自身の「おぼろげな記憶」のせいにした。「9カ月前の不確かな記憶に頼った」と。覚えていないだけで嘘ではない?チョ・グク(元法務部長官)問題のデジャヴだ。
 娘の東洋(トンヤン)大学総長の表彰状は「総長が発行を委任してくれた」と言っていた嘘は妻のチョン・ギョンシム教授の偽造劇と判明した。甥の私募ファンド介入の事実も露呈した。それなのに「私募ファンドについてほとんど何も知らずに、コリンクから受け取った通りに回答したもの」であって「嘘ではない」と弁解した。秋美愛元法務部長官は、補佐官に軍幹部の電話番号を渡し、「(息子の)休暇問題を対処した」という報告まで受けても「電話番号は渡したが、指示したわけではない」という詭弁を述べた。横領の疑いで起訴された尹美香議員(民主党)は流用されたお金は米国留学中の娘に渡ったという疑惑に反論し、「子供は質素で、学校まで歩いて通った」という武侠小説レベルの荒唐無稽な言い訳を並べ立てた。
 恥を知らない厚顔無恥のような行動だ。人間が犬・豚と区別されるのは恥を知っているという点だ。法を犯し道徳から外れた逸脱行為が他人に、特に公衆にさらされたときに恥を感じるのが自然な感情だ。『菊と刀』の著者である文化人類学ルース・ベネディクト西欧文化のルーツが神や人間の内面に対する罪悪感にある反面、東洋文化のルーツは体面を失うことに対する羞恥心にあると分析した。羞恥心の受け止めきれない重さに押しつぶされたとき、往々にして極端な選択(自死)につながる理由だ。だから、体面を整え恥を知る心こそ、他人にもまれて共同体を構成して生きて行かなければならない人間社会の形成の要なのだ。
 それだけではない。春秋時代の斉の名宰相・管仲は「過ちを隠さず恥ずかしいと思う心」が国を支えるために重要な徳目とした。国家を永続させる4つの縄(礼・義・廉・恥)があり、そのうち1本が切れると国が傾き、2本切れると危うくなり、3本切れると覆り、4本切れると滅亡すると警告した。
 しかし、キャンドル革命で生まれた文在寅ムン・ジェイン)政府の執権勢力には「恥のDNA」がないようだ。「私が辞表を受理したら国会で何を言われることか」。耳を疑うこの衝撃発言の主人公が、裁判所の独立性の確保を第一の使命とする大法院長という事実も驚きだが、嘘がばれた後も恥知らずの図々しさが国民を驚愕させている。検事が善悪を判断する職業ならば、裁判官は嘘を見分ける職業だ。権力とは宿命的に緊張関係だ。三権分立の発明者モンテスキューが説くように、「権力を持つ者は皆、それを濫用するようになっている」ためだ。だから、法で大法院長の任期を決め、立法・行政権力の濫用と誘惑から裁判所の独立性を保つように安全装置を置いたのだ。金命洙大法院長は、この神聖かつ厳重な使命に背いた。保身に汲々とし、裁判所を与党の「庇護」を受ける奉公人の身分に貶めたという非難を買う理由だ。こんな屈従はない。これは法治が回復し、裁判所が司法の正義を守る最後の砦となることを信じてキャンドルを手にした、「文在寅保有国」を誕生させた国民に対する裏切り行為だ。
 誰もが過ちを犯す可能性がある。政治も同じだ。しかし、恥を知れば、悔い改めるようになる。恥を知らなければ、反省も謝罪もない。この政権がとりわけ謝罪を渋る理由だ。「辞任せよ」という野党議員の面前で、金大法院長は「より良い裁判所のために頑張る」と言ったという。欠乏した「羞恥心」代わりに「貪欲」で満たされている。「背負った荷をむやみに下に置くことができない」(チョ元長官)、「揺るぎなく責任を全うすることが私の運命的責務だ」(秋元長官)、「(慰安婦の)おばあさんの意志を実現できるよう、より一層努力する」(尹議員)。何度も見てきためまいのするデジャヴだ。
 体面と恥を知る心があってこそ、信頼が芽生える。信頼があってはじめて、大きな仕事に挑戦できる。政も同じだ。ところが今、この国は指導層という執権勢力が先頭に立って信頼を崩している。法を犯し嘘をついても羞恥心を感じない。むしろ長官・国会議員のような高位職に就く。きらびやかなレトリックと化粧術で大衆の目を欺き、権力を得ることはできるかもしれない。しかし、国民の心を得ることはできない。信頼がなければ国は一歩も未来に進まない。それが観衆の警告だ。
 イ・ジョンミン/論説室長
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 民族を区別するのは、伝統的民族言語で、公用語は日常語を駆逐する。
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 朝鮮民族および 韓民族は、朝鮮語母語とする民族。
 遺伝子的系譜
 Y染色体・mtDNA
 現在の朝鮮民族が持つY染色体ハプログループの大まかな分類では、割合の多い順に、O2-M122(東アジア全域に多い)、O1b2-M176系統(日本列島琉球列島及び朝鮮半島に多い)、C2-M217(北アジアに多い)、である。
 最も多い O2-M122 系統は朝鮮民族で約41%の割合で確認されており、中国人など東アジアで多く見られる。
 次に多い O1b2-M176 系統は約31%の割合でそれに続く。サブクレード(細分岐)まで分類すると朝鮮民族と、日本人(大和民族琉球民族)には特徴的な違いがあり、朝鮮民族では約22%:約9%の割合で確認されるものが、日本国内では約8%:約24%の割合で確認されており比率がほぼ逆転する。
 三番目に多い C2-M217 系統は約14%の割合で確認されている。この系統は中央アジア及び北アジアのカザフ人、モンゴル人、ブリヤート人エヴェンキ人、ニヴフ人、コリャーク人や北アメリカのナ・デネ語族などに多く、漢民族・京族、ベトナム・キン族など、東アジアでは広域にわたって約10%の割合で確認されている。日本列島では北海道・日高のアイヌ民族と九州の住民がそれに準じ、日本全国では3%〜6%ほどである。なお、C2-M217保有朝鮮民族男性のほとんど(84/89 = 94.4%)が東アジアに多いC-Z1338に属し、北アジアおよび北アメリカに多いC-L1373に属すものはC2-M217保有者の5.6%(5/89)に止まる。
 その他に、少数ながらも朝鮮民族男性はフィン人、リトアニア人、ヤクート人など、極北ユーラシアに多いN-M231(約4%)、台湾の先住民である高砂族やその他の東南アジア島嶼部に多いO1a-M119(約3%)、東アジア広域にわたり低頻度で見つかっているO1b-P31(xM95, M176)(約2%)、アメリカ大陸の先住民やインド、ヨーロッパなどに多いP-M45(約2%)、そして日本人固有のD1a2 (D-M64.1)系統(日本列島起源、日本では約35%存在)の保持が2%ほどの割合で確認されている。このD1a2 (D-M64.1) は、中国の正史「三国志」「後漢書」に登場する狗邪韓国や新羅時代に活躍した日本人の一部がそのまま帰化したものとみられる。その他の少数ハプログループについては、東アジアないし北アジアが起源と考えられており、朝鮮民族以外の民族でも同じ頻度以上で確認されているので、とりわけ朝鮮民族を特徴づけるものと言い難い。
 その他の遺伝子
 カトリック医学大学のキム・ドンウック[要曖昧さ回避]教授と慶應義塾大学の岡本真一郎教授がHLA(ヒト白血球型抗原)を分析した結果、日本人と比較すると遺伝的な同質性が低いという結果が出ている。大阪医科大学名誉教授松本秀雄は著書『日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く』で、「朝鮮民族は強く漢民族などの影響(混血)を受けており、これは中国と朝鮮との間の、相互移民や侵入などによって、北方少数民族漢民族との混血の機会が多く、これが民族の形成に影響した」と述べている。HLA遺伝子による調査で朝鮮民族満州族中国東北部漢民族と近い。HLAハプロタイプは、満州や日本の日本海沿岸に特徴的なB44-DR13、B7-DR1がよく見られる。
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☴6〕─5・B─金丸訪朝団。盧泰愚政権「日朝進展を制止」。~No.28 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・     
 自民党社会党合同の金丸訪朝団は、北朝鮮による拉致事件情報がある中で北朝鮮を訪問した。
 リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、左翼・左派、反米派・反安保派、反自衛隊派、護憲派人権派、反天皇反日的日本人達は、北朝鮮による拉致事件情報はウソで、韓国の謀略であると否定していた。
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 2019年9月14日 日本経済新聞「金丸元副総裁の次男団長の訪朝団、北朝鮮入り
 【北京、平壌=共同】日朝関係改善に取り組んだ故金丸信・元自民党副総裁の次男、信吾氏(74)を代表とする訪朝団約60人が14日、北京から空路、北朝鮮平壌に到着した。19日まで滞在。金丸信氏生誕105年となる17日には祝賀会を予定しており、朝鮮労働党や外務省の高官と面会する可能性もある。
 信吾氏は、北京国際空港で記者団に対し「日朝の懸案事項は多くあるが、解決には国交正常化が一番の近道だ」と強調。前提条件なしで日朝首脳会談開催を目指すとの安倍晋三首相の提案に対する北朝鮮側の評価も聞きたいと語った。政府や自民党からのメッセージは預かっていないとした。
 代表団は地元山梨県の関係者や在日本朝鮮人総連合会朝鮮総連)関係者ら。金丸信氏は1990年に超党派で訪朝し、故金日成主席と会談した。信吾氏は秘書として当時の交渉にかかわった。信吾氏は昨年10月に訪朝した際には宋日昊・朝日国交正常化交渉担当大使と会い、意見交換した。〔共同〕」
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 2021年3月29日 JIJI.COM 時事ドットコムニュース「盧泰愚政権「日朝進展を制止」 90年の金丸訪朝で警戒強める―韓国外交文書
 北朝鮮を訪問し、金日成主席(中央)と握手する自民、社会両党訪朝団の金丸信・元副総理(左)と田辺誠社会党副委員長(右)=1990年9月、平壌
 【ソウル時事】韓国外務省は29日、1990年前後の外交文書を公表した。それによると、90年9月に自民・社会両党のいわゆる「金丸訪朝団」と北朝鮮金日成主席が発表した「3党共同宣言」に基づき日朝国交正常化交渉が始まったことを受け、韓国の盧泰愚政権(当時)は警戒を強め、交渉を遅延させる内部方針を策定していた。
 3党共同宣言は、早期の国交樹立や補償をうたった。韓国側が日本に慎重な対応を求めたことは知られているが、政府方針として日朝進展を制止しようとしていたことが裏付けられた形だ。
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 3月30日 MicrosoftNews 時事通信盧泰愚政権「日朝進展を制止」=90年の金丸訪朝で警戒強める―韓国外交文書
 © 時事通信 提供 北朝鮮を訪問し、金日成主席(中央)と握手する自民、社会両党訪朝団の金丸信・元副総理(左)と田辺誠社会党副委員長(右)=1990年9月、平壌
 【ソウル時事】韓国外務省は29日、1990年前後の外交文書を公表した。それによると、90年9月に自民・社会両党のいわゆる「金丸訪朝団」と北朝鮮金日成主席が発表した「3党共同宣言」に基づき日朝国交正常化交渉が始まったことを受け、韓国の盧泰愚政権(当時)は警戒を強め、交渉を遅延させる内部方針を策定していた。
 3党共同宣言は、早期の国交樹立や補償をうたった。韓国側が日本に慎重な対応を求めたことは知られているが、政府方針として日朝進展を制止しようとしていたことが裏付けられた形だ。」 
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 2014年8月10日 産経新聞マスゲーム高麗人参酒で“接待”攻勢 金丸訪朝団、24年目の真実
 【山本雄史のだんじり正論】
 約2万人のマスゲームで「人文字」をつくり、列車の座席にはあらかじめ酒とつまみを用意しておく。突然のスケジュール変更で最高指導者に会えるという「特別感」を演出する-。
 今から24年前の平成2年9月。自民党社会党の国会議員団、外務、通産などの各省庁の担当者、新聞やテレビの報道陣ら約90人が、日本航空の特別チャーター機北朝鮮を訪問し、盛大な“歓待”を受けた。自民党訪朝団の団長だった金丸信元副総理の名前を取って、後に「金丸訪朝団」と呼ばれることになる一行は、謎のベールに包まれた北朝鮮の実態を目の当たりにした。
 筆者は先日、本紙オピニオン面の企画「ニッポンの分岐点」の取材で、金丸訪朝団参加者から当時の体験談や目撃談を聞くことができた。8月2日付で記事化されているが、盛り込めなかった部分を紹介する。
 そもそも、なぜ与野党の国会議員がこぞって北朝鮮を訪問したのか。それは、当時と現在とでは時代背景や国際情勢が全く異なっているからだ。
 平成2年当時の日本国内では、北朝鮮による日本人拉致事件の認知度は極めて低く、政府も国会も世論も全くといっていいほど関心を示していなかった。政府が初めて具体的に拉致事件に言及したのは昭和63(1988)年。梶山静六国家公安委員長参院予算委員会で「おそらく北朝鮮による拉致の疑いが濃厚」と答弁したが、大きなニュースにはなっていない。
 むしろ、北朝鮮との国交正常化を歓迎する空気が国内にはあった。時は東西冷戦の末期、国際情勢が激変する中、ソ連との関係が悪化し、中国とも疎遠となった北朝鮮は、東アジアでの孤立を恐れ、日本に接近しつつあった。日本と早く国交を結び、「戦後賠償」という名の経済援助を得ようというのが北朝鮮の目的で、日本の政治家たちも、その機運、流れに乗った節がある。
 そもそも、金丸訪朝団の最大の目的は、北朝鮮に拘束されていた漁船「第18富士山丸」の日本人船長らの解放だった。この交渉は最終的に金丸氏ら訪朝団が道筋をつけ、船長らは翌10月に無事に解放されることになる。
 だが、実はそれ以上の大きな動きが訪朝団の滞在中に起こる。金丸氏と社会党訪朝団の団長だった田辺誠副委員長の2人が、金日成主席と会談し、日朝の国交正常化を前提とした政府間の交渉開始で電撃的に合意したのだ。友好親善を目的とした議員外交が、いきなり政府間の国交正常化交渉にまで発展するという前代未聞の出来事だった。
 繰り返しになるが、北朝鮮は「戦後賠償」という名の「経済援助」を日本から引き出そうとしていた。北朝鮮の狙いは最初から明確だった。自分たちの「土俵」で訪朝団を歓待して好印象を持ってもらい、国交正常化に向けた地ならしをする。何よりも、自民党最大の実力者である金丸氏を徹底的に籠絡(ろうらく)する-というものだった。
 案の定、北朝鮮の術中に金丸氏ははまってしまう。訪朝団が平壌に着いた翌日の夕方(平成2年9月25日)、金日成スタジアムには約2万人が集まり、壮大なマスゲームを披露する。「金丸信先生と田辺誠先生の引率する日本使節団を熱烈に歓迎する!」という人文字の迫力はすさまじく、一行の心は、徐々に北朝鮮に寄っていってしまう。マスゲームの人文字はすぐにできるものではない。北朝鮮は、事前に入念な練習を重ねていた。
 産経新聞政治部記者として、金丸訪朝団に同行取材した自民党北村経夫参院議員の証言によると、金丸氏はマスゲームにいたく感動し、涙を流し続けたという。
 北朝鮮滞在2日目の夜。マスゲームの興奮が冷めやらぬまま、宿泊先に戻った一行は突然、平壌から遠く離れた北朝鮮有数の観光地・妙香山へ連れていかれる。
 「偉い人に会えるかもしれません」
 北朝鮮側は国会議員らにこうささやいた。この局面で「偉い人」といえばただ1人、最高指導者で最高権力者の金日成主席である。
 ともあれ、移動は突然で、一部の議員以外はよく事情のわからないまま、役人も報道陣もまとめて列車に押し込められ、妙香山へ向かった。だが、土壇場でのスケジュール変更は何か特別なことが起こるではないかという期待感を持たせるには効果的だった。しかも、列車内の座席には酒やつまみが載せられていて、いつのまにかあちこちで酒盛りが始まったという。
 当時、運輸省の国際航空課長として訪朝団に同行した笹川平和財団の羽生次郎会長は「今思うと、訪朝団全体が(誘拐や監禁された被害者が、犯人に好意を持ったり、同情したりする)ストックホルム症候群のような状況だった」と振り返る。
 平壌から遠く離れた、通信手段がほとんどない環境に連れていかれ、事実上の“監禁”状態にあった一行は疲れ果てて眠りにつく。冷静に考えてみると、この時点ですでに一行は北朝鮮の術中にはまっている感がある。そして翌朝、一行はついに金主席と面会することになる。
 首に大きな丸いこぶがあり、声は田中角栄元首相を彷彿(ほうふつ)とさせるダミ声だった。78歳ながらも血色はよく、180センチほどある大きな身体。東アジアの独裁国家の最高権力者の迫力は満点だった。
 国会議員ら一行は昼食会(午餐会)に招かれた。金主席は、朝鮮料理が並ぶ円卓を回っていく。羽生氏はその時の様子をよく覚えていた。
 「金日成の声は『ゲラゲラ、ゲラゲラ』ってというダミ声でね。われわれのテーブルまできて、1人1人高麗人参酒を注いでいった。私がちょっとだけ口をつけると、金日成は真横でニコニコしてるんだけど、随行役が怖い顔をして、『ぐっと飲め』という動作をするんだ。酒はまずいんだけどね(笑)」
 昼食会が終わると、ほどなくして一行は平壌に向かった。
 だが、金丸氏の姿が見当たらない。北朝鮮側が「金主席がゆっくりお話をしたいと言ってます。1人で残ってくれませんか」と金丸に打診していたのだ。金丸氏はその申し出に自分の判断で応じ、妙香山にもう1泊した。
 これが、後に日本外交史上、大きな問題となる「金・金会談」である。
日本側の通訳も、外務省の担当者もいない中、金丸氏と金主席は密室で計5時間近くも会談した。記録が全く残っていないため、会談の詳細な中身はいまだに明らかになっていないが、金丸氏が金主席にほれ込んだのは明らかだった。訪朝団の滞在最終日の9月28日にに発表された自民党社会党朝鮮労働党の3党による共同宣言には、日本の「償い」という言葉が盛り込まれた。後世に大きな禍根を残したこの言葉には、金丸氏の意向が反映されていた。 訪朝団の事務総長だった石井一前参院議員は「金日成なりのジェスチャーだった。要は、社会党は信用していない、あんた(金丸氏)を信用しているんだと。金丸氏はそれでファンになってしまった」と回顧する。北朝鮮は、政治家の心をくすぐるのがうまかったといえる。
 今回の取材では、金丸訪朝団の滞在中に「喜び組」が登場したという証言はなかった。ただ、金丸訪朝団前に平壌入りした自民、社会両党による先遣議員団のメンバーの一部は、ひそかにゴルフやカラオケを楽しんだという。
 日朝関係は、拉致被害者の安否再調査をめぐり、厳しい交渉が続いている。北朝鮮核兵器を開発して国際社会を敵に回し、弾道ミサイルを頻繁に撃ち、東アジアの安全保障を常に脅かしている。こんな国とかつて国交正常化が近づいたという事実にただ驚くばかりの取材だった。」
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