🌋16〕─1─弥生時代の壮絶な倭国大乱の真相。日本のブラック社会の原点。~No.62No.63No.64 

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2024-08-06
🗻21〕─1─沼津市の東西最古級の高尾山古墳で“東海勢力”。古代王国による弥生の大乱。~No.68No.69No.70 
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 邪馬台国と弥生の大乱の中からヤマト王権が生まれた。
 ヤマト大王は日本を統一し、民族中心神話(古事記日本書紀)は平和統一理論として創作された。
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 2024年9月19日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「弥生時代は壮絶なデスマッチ時代だった? 激闘を繰り広げた「倭国大乱」の真相とは!?
 長く続いた縄文時代の遺跡からは、殺傷能力のある武器やそれに対応する防具などは出てきません。つまり1万3千年間続いたと考えられている縄文人の社会は穏やかだったというわけです。しかし弥生時代になると、一挙に人間同士の争いが始まります。弥生時代とはいったいどんな時代だったのでしょうか?
■謎に満ちた「倭国」で起きた壮絶な争い
 中国の史書後漢書』などに「倭国大乱」という記述があります。この「倭国」が日本列島内を指すのか、朝鮮半島南部やそのほかの地域も含めて指すのかは不明ですし、いつ頃何年間続いたのかもさまざまな記述があるのではっきりしませんが、倭人の住む地域で2世紀の後半、約10年から数十年にわたって激しい戦いが続いたようです。
 皆さんもご存じの通り、弥生時代になると生活空間を頑丈に守る環濠集落が出現します。そして対人兵器や防具が出土し始めます。
 私は素直に、「稲作が始まると富めるところと飢餓に苦しむところで争いが始まったのだろう。水田耕作のための水争いもあっただろう・・・。」と感じていました。ですから弥生時代は初めのころからじわじわと争いが各地で勃発していたとは思っていました。
 しかし実際に各地の弥生遺跡や資料館を訪ねているうちに、「そんな生易しいことではなく、自分たちの存亡をかけた、食うか食われるかの大いくさが続く、まるで古代の戦国時代だった!」と感じるようになりました。つまり大いなる覇権争いが始まったのだと考えざるを得なくなりました。
 新たな支配者が乗り込んできて村々を屈服させて領土領民を獲得する、国盗り合戦が始まったのだと思います。各地でくすぶっていた騒動が大きくなるのが2世紀後半の「倭国大乱」ではなかったでしょうか。
 私には戦国時代のきっかけになる応仁の乱のような権力闘争があったのだろうとしか思えなくなりました。おそらくそれ以前から、弥生時代全般がすでにバトルロイヤルのような様相だったと思います。つまり弥生人は海路陸路を駆使して国盗り活動をしていた、と私は考えるようになりました。
 様々な地域から渡来した弥生時代の人々の文化を知るには、遺跡から出土する生活用具や祭祀具、そして墓制の研究が重用です。時代をあまり考慮せずに例を挙げると以下のようになるでしょう。
 九州北部の板付遺跡から出土した土器の研究で、縄文女性と渡来系弥生人の男性が一緒に暮らしていたであろうと推測されています。そして吉野ヶ里遺跡に顕著な甕棺墓式の墓制が、地域性として挙げられます。九州に隣接する本州最西端の山口県の弥生・古墳時代の墓は、石棺墓式が目立ちます。
 そして何といっても重要なのは、島根県から山陰日本海側を北東に広く分布する「四隅突出型墳丘墓」です。分布は島根県東部の出雲地域から富山県付近まで東西に広がり、南北は広島、岡山の一部内陸にまで広がりを見せます。出雲の王国が突出して広大な地域を支配していたとしか思えませんし、墳墓形式を同じくするということは、埋葬儀式や死後世界観も同じ文化である可能性は極めて高いと思えます。
 なぜ四隅突出型墳丘墓が広がったかというと、次世代の前方後円墳型の広がりと同じ理由だと思います。つまり開墾増産のための最新の土木技術や工事用具を求めた同盟国との連携を示す結果だと考えられます。当時重要な物資は金属器で、それは祭祀用の青銅と実用具としての鉄です。
 出雲地域の遺跡や遺物から大胆に推理をすれば、良質の砂鉄が手に入ることや海外からの材料の輸入で鉄器の生産にも優れていたであろうこと、青銅器を各地に供給するほど生産できたことが、強大な中心的国家だった理由ではないでしょうか。
 古代出雲地域に強大な王国があったことは『記紀』も認めています。その王国は日本海沿いを中心に、北陸にまで広がる四隅突出型墳丘墓文化の連合国家だったのです。しかし『出雲神話』にあるように出雲王国は、天孫族に国を奪われます。これはおそらく3世紀の事でしょうか…。
 実力で国を奪いに来た天孫族の軍団は天から山に降りたのではなく、「稲佐の浜(いなさのはま)」という砂浜に上陸します。それは合理的に考えれば何も不思議ではないし、逆に当然のことだといえるでしょうが、「高天原」という天照大神の本拠地が日本海の対岸にあったということを言っちゃっているわけです。
 そして出雲は王権を奪われますが、出雲王国の試行錯誤を繰り返して育まれた列島文化は、簒奪した大和王権にも実に大きく影響しています。
 このような大きな覇権争いは列島内で繰り返され、それはまさに戦国時代の国盗り物語とよく似た様相だったのではないでしょうか?環濠集落という構造は、戦国期の砦や城と同じ機能と目的を持っています。
 この時代が「倭国大乱」の時代で、『魏志倭人伝』によれば女王卑弥呼の登場で乱は一旦収まるとされています。しかし卑弥呼も晩年は霊力が衰えたのか、狗奴国との激しい戦が始まったようで、戦闘時には男王を立てて戦うわけですがこのままでは敵味方お互いに損だということで、再び卑弥呼の宗女を女王に立てるというストーリーですね。
 『魏志倭人伝』は弥生末期の様子を見聞録のように伝えるので弥生時代の象徴のように感じられるのかもしれませんが、それは終末期のほんの一部の時代、一地域のことでしかありません。そこに至る数百年間の激動史があったのです。
 弥生時代は、一言で済ますわけにはいかないほど激しい時代だったと思われます。簡単に想像するわけにはいかないほど複雑で激しい覇権争いが続いていたようです。
 そして登場するのが大和王権には違いないのですが、この王権も東海西部地方の大きな影響を受けて誕生しているように思えてなりません。(詳細は本連載の「工事中に発見された高尾山古墳の謎 東西最古級の古墳から考える“東海勢力”が存在した可能性」をご参照ください)
 激動の弥生時代を今後もっと探って見たくなりますね。
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日本人の平均寿命
 縄文・旧石器時代は15歳前後。
 弥生時代は18~28歳。
 古墳時代は25歳前後。
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日本の人口。
 人口
 縄文時代は約27万人。
 紀元前2300年から紀元前1000年までの約1000年間で、8万人まで落ち込んだ人口はおよそ8倍の60万人
 弥生時代は約60万人、
 奈良時代は約550万人(公地公民で農地が急増)
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 邪馬台国卑弥呼ヤマト王権の大王は、先を見据えて積極的外交戦略から中国皇帝の権力・権威を利用して勝利を掴み、敗れた諸王達は目先の戦いの勝利だけに囚われ外交を疎かにしていた。
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 日本列島とは、春夏秋冬、季節に関係なく、広範囲に同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
 日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
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 日本民族人間性である価値観・人格・気質を作り出したのは、人間(他国・異民族・異教徒)の脅威ではなかったし、唯一絶対神(全智全能の創り主)の奇蹟と恩寵ではなく、自然の脅威と恩恵(和食)である。
 つまり、日本人と朝鮮人・中国人は違うのである。
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🎍48〕─2─『王朝貴族と外交: 国際社会のなかの平安日本』~No.151No.152 

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 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
 朝鮮の日本侵略史。
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 大和朝廷は、中華帝国朝鮮半島諸王朝との正式な国交を拒絶したが、太宰府の商人による私的な個人交易は認めていた。
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 中華帝国朝鮮半島諸王朝は、伝統的な海禁政策をおこない、日本を野蛮人の敵と軽蔑・見下して対等関係での友好など望んではいなかった。
 中国人海商は、皇帝・政府の命令を無視し、役人に賄賂を贈って日本との密貿易を行って金儲けをしていた。
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 一部の道教は、日本を仙人が住む神聖な島として崇拝していた。
 仏教の高僧や名僧の幾人かは、中華儒教による仏教弾圧から逃れて、仏教を保護している日本に政治亡命したが、中華帝国の属国・中華皇帝の臣下である朝鮮半島諸王朝を嫌って移住しなかった。
 日本には、中国大陸から仏教の僧侶や道教の道士が逃げてきたが、中華思想華夷秩序を説く高名な儒学者は移住してこなかった。
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 2024年9月17日 YAHOO!JAPANニュース しんぶん赤旗 「平安貴族たちも気にせざるを得なかった諸外国への対応。その五つのポイントとは―渡邊 誠『王朝貴族と外交: 国際社会のなかの平安日本』
 『王朝貴族と外交: 国際社会のなかの平安日本』(吉川弘文館
◆真剣で慎重 従来のイメージ一新
 本書のタイトルを見て、「王朝貴族も外交をしていたんだ」と意外に思われた方がいるかもしれない。平安時代の貴族と言えば、私利私欲にふけり、遊興に明け暮れ、恋愛にうつつを抜かすばかりで、政治や外交などはなおざりにしていたと考えている方も少なくないものと思う。遣唐使の廃止や、その後の、国交を持たぬ閉鎖的かつ消極的な外交政策も、そうした文脈で理解されているものと思う。
 しかし、本書は、平安王朝の貴族たちも、与えられた歴史的な環境・条件のもとで、真剣かつ慎重に外交に取り組んでいたことを、具体的な事例を取り上げて丁寧に解き明かしている。従来の平安貴族に対する否定的なイメージを一新させる内容である。よく知られている遣唐使の廃止も、実際には廃止されていなかったこと、先進的・開明的とされる平清盛日宋貿易も当時の枠組みに規定されていたことなど、実に分かりやすく説明されており、まさに目からうろこが落ちる思いがするだろう。
 著者は、平安貴族の外交政策や判断・対応に大きな影響を与えたものとして、1当時の政務のあり方、2対外的軍備(国防兵力及び外征軍)の欠如、3神功皇后による三韓征伐伝説を起点とする歴史認識、4海外情報の不足、5海に隔てられた地政学的な条件、を挙げている。
 2の対外的軍備の欠如は、桓武朝の軍団兵士制の解体によるものだが、これ以降、国際的な動乱を避けるため、国際的な政治からの離脱の道を取らせたという。3の三韓征伐史観は新羅に服属を強要する政治説話であったが、対外的軍事力を失ってからは、服属を逆恨みする新羅(後継の高麗)という恐怖心を生み、神明に加護を祈る神国思想につながったという。
 本書は、平安時代の日本と海外との関係性、国際社会のなかでの日本の立ち位置を明らかにしようとしたものだが、現代日本の外交や平和を考える上でも得るところが多いだろう。
 [書き手] 榎本 淳一(えのもと じゅんいち・大正大学教授)
 [書籍情報]『王朝貴族と外交: 国際社会のなかの平安日本』
 著者:渡邊 誠 / 出版社:吉川弘文館 / 発売日:2023年02月20日 / ISBN:4642059679
 しんぶん赤旗 2023年5月14日掲載
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☷49〕─1─慰安婦小説が英オックスフォード大の韓国学必修教材に採用された。~No.109 

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 2024年9月16日 YAHOO!JAPANニュース 朝鮮日報日本語版「韓国人気俳優・車仁杓の慰安婦小説 なぜ英オックスフォード大は韓国学必修教材に採用したのか【コラム】
 (写真:朝鮮日報日本語版) ▲「オックスフォード韓国文学フェスティバル」に招待され講演するタレントの車仁杓(チャ・インピョ)氏。6月撮影。/駐英韓国文化院
 タレントの車仁杓(チャ・インピョ)氏が小説を書く決意したのは除隊したばかりの1997年夏だった。その日テレビをつけると背が低い丸顔の老女が空港のゲートから出てくる様子がライブ中継されていた。16歳で日本軍慰安婦として連れ去られ、カンボジアの奥地で55年生きてきたという女性だ。「死ぬ前に一度は故郷に何としても来てみたかった」と語る70代の女性が入国ゲートで「アリラン」を歌った時、車仁杓氏は「針が胸を突き刺すような苦痛と怒りを感じた」と当時の思いを語った。
 【写真】韓国語もできないのに一体どうやって? 「日本人妻が準備した祭祀膳」にネット民感動
 しかし小説は簡単には書けなかった。車仁杓氏は「日本軍を暴風のように懲らしめ、痛快に復讐(ふくしゅう)するストーリーで書こうと思ったが、怒りだけでは話を進めることはできなかった」とも語る。
 一時は諦めていた原稿をもう一度手にしたのは、2人の子供の父親となった8年後のことだ。車仁杓氏は怒りと復讐を許しと和解に昇華する方向転換を見いだした。白頭山の麓の「ホランイ(虎の意)村」の住民と、その周辺に駐屯していた日本軍兵士たちが協力して倒れた稲穂を立てる場面がその典型だ。車仁杓氏は「私たちの悲しい歴史を子供たちにどう伝えるか悩んでいたら、単なる懲らしめや復讐を選択することはできなかった」と語る。
 この小説は2009年に出版されたが、誰も読まないので絶版になった。それから突然意外な連絡が来たのは今年6月だ。英オックスフォード大学がアジア中東学部の韓国学必修教材として車仁杓氏のこの小説「いつか私たちが同じ星を眺めるならば」を採択したのだ。選定された理由も注目を集めた。「ウクライナ戦争、イスラエル戦争など世界各地で銃声が鳴り響く今、許しと連帯の糸口を投げかけた」というのだ。アジア中東学部のチョ・ジウン教授は電話取材に「刺激的なストーリーと熾烈(しれつ)な復讐で終わる作品とは違い、『母の星』が必要な彼らに温かい共感と連帯を呼びかけるストーリーが文学的に響いてくるから」と説明した。オックスフォード大学はこの小説を大学の全ての図書館に置くため英語、ドイツ語、フランス語への翻訳を進めている。
 独立記念館長任命問題で今政界では再び親日問題が浮上しているが、それを横目で見ながら想像してみた。「竹やり歌」を歌い親日反日の区別に乗り出した政治家たちは車仁杓氏をどちらに分類するだろうか。北朝鮮住民の悲惨な実情を描いた映画「クロッシング」に出演し、脱北者の強制送還に反対するデモや抗議活動を行い、小説では日本軍を美化したから「ニューライト」になるのか? 息子と共に、慰安婦被害者女性が生活する「ナヌムの家」でボランティア活動に取り組み、統一を願う思いから小説の舞台を白頭山の麓の村に設定したから左派になるのか。 
 親日攻撃は明らかに時代に逆行している。生まれてみたら先進国で生活していた韓国の10代、20代は「スラムダンク」に夢中で、大谷翔平が宣伝する緑茶を飲み、「青い珊瑚(さんご)礁」を日本語で歌うことに何の違和感も罪意識もない。個人的に知り合いの日本経済新聞のソウル特派員から「KポップやKドラマに魅了された日本の若者は会話の中で『チンチャ』『チョルラ』『テバク』などの韓国語を普通に使っている」と聞いてつい笑ってしまった。日本と貿易しているある実業家も笑えないハプニングを教えてくれた。東京で出会ったある高校生が「ソウルに行ってみたら韓国は日本よりも豊かに見えたのに、なぜ日本に金をくれというのか」と聞いてきたという。韓国の1人当たり国民所得は昨年日本を上回った。
 問題は時代遅れの日本に対するコンプレックスにとらわれている大人たちと政界だ。世界10位の経済大国で生活しながら「韓国は弱小民族であり、今も収奪を受けている」という妄想から抜け出せないのだ。巨大野党はその妄想につけ込んでくる。1兆6000億ウォン(約1700億円)の血税を浪費した福島汚染水デマだけでは足りず、親日公職者を探し出す作業と独島抹消疑惑の真相解明まで始めた。それにより失墜する国格、国益に彼らは何の関心もない。北朝鮮・ロシア・中国の脅威を受け、安全保障と経済では同じ舟に乗っているはずの日本を敵対視して韓国が得られる実益などあるのか。
 地球上のあらゆる紛争がそうであるように、憎悪と恨みは報復の連鎖をもたらす。そこに勝者はない。許しは屈辱ではない。悲しみと苦痛を克服する最も勇気ある方法であり、勝者が敗者に施すことができる特権だ。だからこそ光復80年、韓日国交回復60年を前に、歴史に対する大転換点を迎えるべきという声が高まっているのだ。
 京都国際高校の甲子園優勝が感動を与えてくれたのは、甲子園球場に韓国語の校歌が響いたからではなく、この校歌を韓国と日本の生徒たちが一緒に歌ったからだ。つまり許しと連帯は双方を勝者とする最も実用的な代案だ。暴風で倒れた稲穂を生き返らせるため、ホランイ村の住民と日本軍兵士たちが一緒に腕をまくり汗を流したことは非常に現実的な対応だったが、そこから収穫された米はみんなを生かす糧になった。
 金潤徳(キム・ユンドク)記者
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 9月16日 MicrosoftStartニュース 東京新聞慰安婦問題「少女像」イタリアにも設置 世界中に置かれ続けるのはなぜ? 韓国「正義連」が答えた意外な意図
 旧日本軍の慰安婦問題を象徴する「平和の少女像」が6月、イタリアに建てられた。設置を支援した韓国の市民団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連)」は、近い将来に全ての元慰安婦が亡くなっても、被害の記憶を伝える活動を続ける方針を示している。日本政府が撤去を求める中、あくまで設置を続けるのはなぜか。李娜栄(イ・ナヨン)理事長(56)に聞いた。(聞き手=ソウル・木下大資)
 イタリア西部サルデーニャ島スティンティーノ市に設置された少女像=正義連提供
◆「建てたい」要請受けて支援
 ―イタリアに少女像を設置した経緯は?
 元教師でBTSK-POPグループ)ファンのイタリア人女性が韓国の歴史に興味を持ち、私たちに連絡してきた。性暴力への警戒心を喚起するため、地元に少女像を建てたいと考えたようだ。現地のスティンティーノ市長は人権弁護士出身で関心が深く、話が速く進んだ。最終的に正義連が同市に提案する形を取り、像の制作費と運送費も負担した。
 ―海外で少女像の建立を進めようとしているのか。
 その地域の要請を受けたときだけ支援するのであって、正義連がどこかに「必ず建てる」という意図を持って進めることはない。私が理事長に就いた2020年につくった内規で、海外の公共の場所に建てる場合に限り費用などの支援ができる。ドイツ・ベルリンの少女像などが該当する。韓国内に約140体ある少女像については、11年に前身の韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協)がソウルの日本大使館前に設置した1体を除き、まったく干渉していない。
 ソウルの正義連事務所で、少女像について語る李娜栄理事長=木下大資撮影
◆日本への攻撃意図はない
 ―日本では少女像に否定的な反応が強い。日本政府も世界各国への設置に抗議している。
 少女像は過去にあった痛みを記憶し、亡くなった方々を追慕し、現在も起きている戦時性暴力と、日常の性暴力に対する警戒心を喚起するものだ。日本への嫌がらせや、攻撃するような意味はない。日本政府が像を撤去しようとする過剰反応を続ければ、むしろ韓国人の敵対心を刺激する。実際、韓国内にある少女像の多くは、15年の日韓慰安婦合意で像の撤去問題が浮上してから建てられた。
 ―今後の正義連の活動方針は?
 少女像の建立を特別に重要な事業とは考えていない。最も重視しているのは慰安婦問題に関する資料の整理や保存、博物館の活性化だ。現在9人が生存している被害当事者が亡くなれば、運動の熱気は下がるかもしれないが、日本政府が責任を認めなければこの問題がなくなることはない。重要なのは、より良い世の中をつくるために(被害者の)記憶をどのように継承するかだ。
 ◇ ◇
◆碑文に「日本はホロコーストに劣らない犯罪を行った」
 8月21日、ソウルの日本大使館前で、正義連などが慰安婦問題の解決を訴える「水曜デモ」を実施する中、すぐ近くでは少女像設置に反対するグループ(手前)が撤去を求めていた=木下大資撮影
 今回の少女像設置を巡り、日本政府はスティンティーノ市に懸念を伝えた。像の傍らの碑文には「日本はアジア太平洋地域で数多くの少女と女性を拉致して軍隊の性奴隷にするなど、ホロコーストに劣らない極悪非道な反人倫的犯罪を行った」などと記されている。日本政府は「強制連行を直接示す資料はない。『性奴隷』という表現は事実に反する」との立場だ。
 日本政府は、世界各地に設置された少女像の撤去を働きかけており、ベルリンでは現地の区役所が像を設置した市民団体に9月までの撤去を促している。
 ソウルの日本大使館前の少女像に関しては、外国公館の品位維持を定めたウィーン条約に反するとして、韓国側に撤去を要求。2015年の日韓合意で「韓国政府は関連団体との協議を通じて適切に解決されるよう努力する」とうたわれたが、韓国世論の反発が強く、手付かずとなっている。
 少女像 元慰安婦の支援団体である韓国挺身隊問題対策協議会が2011年12月、ソウルの日本大使館前で謝罪と賠償を求める「水曜デモ」の1000回目に合わせて初めて設置した。チマ・チョゴリを着た10代の少女の姿をしている。16年に別の市民団体が釜山の日本総領事館前に設置すると日本は駐韓大使を一時帰国させるなど、日韓関係悪化の一因になった。制作者の彫刻家夫妻による同様の作品が19年の「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」で展示され、抗議や脅迫により開催中止に追い込まれた。
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 9月15日 YAHOO!JAPANニュース 朝鮮日報「「英国のMZ世代にとって韓国語はファンタジー」 オックスフォード大、12番目の外国語として韓国語を採択【独自】
 ▲オックスフォード大学アジア中東学部チョ・ジウン教授/チャン・リョンソン記者
 英オックスフォード大学が先日外国語教育機関ランゲージセンターの12番目の外国語として韓国語を採択したことが8月21日までに分かった。ランゲージセンターはオックスフォード大学の学生や教職員、一般人の学問やビジネス外国語能力向上を目指しており、毎年数千人が学んでいる。
【写真】韓国語もできないのに一体どうやって? 「日本人妻が準備した祭祀膳」にネット民感動
 同センターで指導される外国語は現在フランス語、ドイツ語、スペイン語など欧州8カ国語と日本語、中国語、アラブ語だが、これに早ければ10月から韓国語も組み込まれることになった。
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 2019日11月17日YAHOO!JAPANニュース 朝鮮日報「世界で韓国学を広めるには「日本学や中国学のように平凡な科目にすべき」
 世界で韓国学を広めるには「日本学や中国学のように平凡な科目にすべき」
 「他国の人たちが韓国語や韓国学に関心を持ったからといって喜んでばかりはいられません。日本学や中国学のように、学ぶこと自体が特別でない普通の学問にする必要があります」
 このように語るのは先日韓国を訪れた米ジョージワシントン大学東アジア語文学科のキム・ヨンギ名誉教授だ。小説家の故・韓戊淑(ハン・ムスク)氏(1918-93)の長女でもあるキム氏は、1963年に修士課程で学ぶため米国に留学し、その後50年近く米国で韓国語と韓国学を教えながら韓国学の普及に努めてきた。米国でも名門のジョージワシントン大学では韓国学研究所設立に力を尽くし、現在は韓国と米国の知識人による学術交流を行う「韓米ワシントン・フォーラム」の会長を務めている。
 キム氏が教授として韓国語を教え始めたのは、1983年にジョージワシントン大学が米国の大学で初めて韓国語を正式科目とした時からだが、実は彼女はそれよりも20年以上前から韓国語を教えていた。
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🛶15〕─3─アイヌの29%が差別経験 3割以上がSNS被害 北海道調査。~No.48No.49 

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 2024年9月11日 YAHOO!JAPANニュース 毎日新聞アイヌの29%が差別経験 3割以上がSNS被害 北海道調査
 北海道がアイヌの人たちを対象に2023年に実施した「北海道アイヌ生活実態調査」で、「差別を受けたことがある」と答えた人の割合が、前回17年の調査時から約6%増の29・0%に上ったことが判明した。特に顕著だったのが、新たに回答項目に追加されたSNS(ネット交流サービス)上での被害で、全体の30%以上を占めた。
 調査は、同化政策と差別にさらされたアイヌの生活を改善するため、所得や進学率、必要とする施策などを調べる目的で、1972年から数年ごとに実施されている。
 結果を受け、鈴木直道知事は10日の定例記者会見で「非常に残念だ」とした上で、初めて道民を対象にアイヌの人たちへの意識調査を今月から開始したことを表明。加えて「SNSによる偏見や差別は、全国の方々が正しい理解をされていない中で行われている可能性がある。国は全国調査を実行していただきたい」と意識調査を道外に広げる必要性を強調した。
 今回の生活実態調査で把握できたアイヌ民族の人数は1万1450人。約2万4000人だった06年から半数以上も減少しており、アイヌ政策課の担当者は「高齢化や都市部への流出などで市町村が把握できるアイヌの人口は年々減少傾向にある」と話す。
 また、同調査では差別経験の有無の他に、法律で初めて「先住民族」と規定したアイヌ施策推進法(アイヌ新法)の認知度などについても新たにアンケートを実施。「知らなかった」「制定されたことは知っているが内容はよく知らない」と答えた人の割合を合わせると80%を超え、当事者への認知が進まない現状が浮き彫りとなった。【金将来】
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🛶2〕─2─北海道の続縄文人(アイヌの祖先)と東北の弥生人(日本人)の交流。~No.3No.4 

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 2024年9月11日 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞オンライン「北海道の続縄文人は東北の弥生人と交流…土器や石器出土、水稲農耕取り入れか
 土器片や木炭などが見つかった大中山13遺跡。左は遺跡見学会で説明する上條信彦教授(8日)
 青森県弘前大学北日本考古学研究センターは8日、北海道七飯町大川の大中山遺跡で、津軽海峡を隔てた東北北部の弥生人と密接な交流関係にあったことを示す土器や石器が出土したと発表した。同センターの上條信彦教授によると、もっぱら狩猟採集生活だったとされる続縄文人水稲農耕を取り入れていた可能性をうかがわせるもので、水稲農耕の北上や続縄文文化の解明につながると期待している。
 これまで、稲作は津軽海峡を渡らず、北海道は縄文時代の狩猟採集の生活が続いたとされる。そのため、北海道では弥生時代から古墳時代にかけてを続縄文時代と呼んでいる。今回の発掘調査が行われたのは、横津岳山麓の標高約80メートルの高台にある続縄文時代大中山13遺跡(七飯町大川)と縄文時代晩期の大中山3遺跡(同)、海岸線から近い低地にある下添山遺跡(北斗市常盤)の3か所。
 2日から発掘が始まった大中山13遺跡では、弥生文化の影響を受けたとみられる土器の破片や木炭などの遺物を多数含んだ地層を確認。大中山3遺跡でも、多数の土器や、石鏃(せきぞく)(石のやじり)などの狩猟生活を示す遺物、竪穴建物跡あるいは墓とみられる縄文晩期の土坑4基が見つかった(8日時点)。
 道南では稲作文化の影響を受けた土器など本州との交流を示す遺物が多数出土していることから、上條教授は「水稲文化が津軽海峡で終わり、北海道と交流関係がなくなったわけではない。函館平野の人たちは縄文時代からの精神性や交流を維持しつつ、一部の集落は弥生の新しい情報を取り入れて徐々に生活様式を変え、水稲農耕を営んでいた可能性が高い」と推測する。
 冷涼な気候のため北海道は稲作に不向きとされていたが、近年の研究からすると、縄文から弥生に移り変わろうとする約2400年前の温暖期に稲作が想定以上に北上、品種や技術の改良も進み、北限とされる津軽平野と似た地形の函館平野で稲作が拡大していたとしてもおかしくはないという。ただ、稲作文化の痕跡を示す炭化米や水田跡などは見つかっていない。
 上條教授は、東北最古の水田跡が発掘された砂沢遺跡(青森県弘前市)などを念頭に、「津軽平野では縄文から弥生への移行は重層的で、安定的に水稲を栽培していた地域と、縄文時代の伝統を受け継ぐ地域が併存していた。函館平野も同様の状況だったのでは」と話している。
 低地にある下添山遺跡の調査は17日から行われる。
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🗾9〕─3─まつろわぬ民が不服従の民として成敗されたのはなぜ。日本統一の事実。〜No.46 

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 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
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 敵の敵は味方
 天皇への忠誠心と日本国への愛国心から見ると、天皇を暗殺した渡来人はまつろわぬ民であり、天皇を守った帰化人は服従の民であった。
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 ヤマト王権・大和王朝は、中国大陸や朝鮮半島の敵の侵略から日本を守る為に国内のまつろわぬ民を滅ぼし地方の神として閉じ込め、一つの王権・一つの神権で日本を統一した。
 日本は統一される事によって、中国世界の戦争と大虐殺に巻き込まれる事なく、朝鮮社会のような亡国地獄と亡国の民から救われた。
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 古代から、日本国内には敵国(中国・朝鮮)に味方して日本を滅ぼうとする過激派反天皇反民族反日的日本人が存在していた。
 それは、数千年経った現代日本でも変わる事がない。
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 2024年9月3日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「地元では「神さま」なのに… ヤマト王権に迫害された「まつろわぬ民」の悲運とは 呪術廻戦にも登場する「両面宿儺」の正体【古代史ミステリー】
 岐阜県高山市丹生川支所の入り口にある両面宿儺像 /撮影藤井勝彦
 人気マンガ『呪術廻戦(じゅじゅつかいせん)』にも登場する両面宿儺。実は、『日本書紀』にもその名が記された実在の人物であった。2つの顔を持つ異形の人と恐れられる一方で、その実像は王権にとってまつろわぬ山岳民族であった。
■2つの顔と手足を有する異形の人
 両面宿儺(りょうめんすくな)といえば、今流行りの人気マンガ『呪術廻戦』に登場する、最凶最悪の「呪いの王」の「宿禰(すくね)」を思い浮かべる人が多いだろう。4本の腕と、両眼の下にもう一対の眼を持つという異形の呪術師で、女性殺害を嬉々として行う残虐な人間として描かれている。そのおぞましさはもちろん、極め付けである。
 ともあれ、この『呪術廻戦』に登場する宿儺、4つの腕と眼を有するなど、いかにも作り話めいている。そのため、この漫画独自のキャラクターと思われがちだが、実のところ、千数百年前に実在(?)したとされる歴史上の人物である。その名も様相も、かの『日本書紀』に、ちゃ~んと記されているのだ。それが、仁徳天皇65年の条。正確な年数は定かではないが、おそらく5世紀初頭のことと思われる。
 それによれば、飛騨国岐阜県北部)に、「体が一つで二つの顔」を持ち、「それぞれ手足がある」という異形の人間が現れたという。「力が強く敏捷」で、「剣と弓矢を駆使して人民を略奪するのを楽しみにしていた」とまでいうから、かなり豪腕な人物(あるいは勢力)だったのだろう。
 体の特徴として、「ひかがみ(膝の後ろの窪み)」や「かかと」が無いと記されているところから、これを「すね当て」や「草履(ぞうり)」に見立て、それを使用する山岳民族とみなされることもある。皇命に従わなかったため、「和邇氏(わにうじ)の先祖・難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)を遣わして殺させた」と締めくくっているところから鑑みれば、かの土蜘蛛(つちぐも)同様、王権にまつろわぬ地方勢力を、退治すべき賊あるいは鬼と見なして殺戮(さつりく)したものと推測できそうだ。
天孫族が海人族に指図して山岳民族を駆逐?
 一方、退治した側の武振熊といえば、応神天皇の対抗勢力であった忍熊王(おしくまのみこ/応神天皇の異母兄)討伐時にも登場する人物である。この時の摂政は神功皇后(実在したとすれば4世紀中~後半に活躍か)だから、神功皇后応神天皇仁徳天皇の3代にわたって仕えていたことになる。
 二倍年歴(春と秋に年が変わるとの見方)を考慮したとしても、半世紀以上、征夷大将軍として活躍し続けたという超人的な御仁ということになる。その真偽はともあれ、その先祖とされるのが、奈良県天理市和爾(わに)町あたりを拠点としていた和邇氏で、安曇氏(あずみうじ)と同族の海神族(かいじんぞく)と考えられている。となると、天孫族(てんそんぞく/ヤマト王権朝鮮半島から渡来か)が海人族(武振熊、中国江南から渡来か)に指図して、山岳民族(両面宿儺、縄文系の土着民か)を駆逐した…との図式が想定されるのだ。この辺り、日本民族の誕生そのものを暗示しているかのようで、興味深いものがある。
■不服従の民として成敗されたのはなぜ?
 その両面宿儺のことであるが、ヤマト王権によってまつろわぬ民として成敗されたとはいえ、地元での受け取り方は、当然のことながら、正史に記された人物像と大きく異なっている。伝承地とされる岐阜県高山市丹生川町では、「人々を世の苦しみから救う」救世観音の化身とまで讃えられているのだ。同町にある千光寺は両面宿儺が開山したとされる寺院で、江戸時代の仏師・円空が彫ったとされる両面宿儺像が祀られている。
 それにしても、なぜ仏として崇められるようになったのか? その理由の一つが、実は彼自身が退治される側ではなく、人々を苦しめていた鬼を退治した側であったことに由来する。高山市内西南にそびえる位山、ここを住処として、七儺(しちな)と呼ばれる鬼が人々に危害を加えていたという。これを天皇の命によって退治したのが両面宿儺であったというのだ。
 奇妙なことに、この位山を神体山とする高山市一之宮町の水無神社に、鬼として恐れられていたはずの七儺の頭髪が神宝として祀られている。神宝とは本来、祭神ゆかりの宝物のこと。それなのに、退治したはずの鬼の遺物をなぜ神宝として崇めるのか、首を傾げてしまうのだ。もしかしたら、同じ山岳民族の中でも、王権に従属的であった民と、あくまでも抵抗し続けようとした民がいた、その表れといえるものなのかもしれない。
 その内部抗争を考える上で、重要な役割を果たしてくれそうなのが、5世紀前半に築造されたと見られる亀塚古墳(直径70mの円墳)だろう。一説によれば、この古墳こそが、両面宿儺の埋葬地だったとされる。仁徳天皇の命によって征伐されたと思われる時期も、ほぼ一致している。
 この古墳からは、朝鮮半島で産出された鉄で作られた甲冑(かっちゅう)が出土しているが、鉄製の甲冑を所持しているところから、相当強大な勢力を有した支配者であったことがわかる。想像をたくましくすれば、強大な勢力を有していた両面宿儺なる地方豪族が、王権に征伐されて滅ぼされたのではなく、早くから王権側に与して、同族内の抵抗勢力を押さえつけていたのではないか? その抵抗勢力というのが七儺だったとすれば、この七儺こそが、鬼と蔑まれて征伐された悲運の民だったというべきなのかもしれないのだ。
 ちなみに、二人の人間が結合した状態で生まれてくることは、現実問題としてあり得る事象だ。結合双生児と呼ばれ、5~20万人に一人の割合で生まれるといわれている。とすれば、『日本書紀』に記された両面宿儺も、実在の人物だった可能性が高そうだ。
 また、現実にはあり得ないが、複数の顔を持つ仏像としては、観音菩薩の変化身(へんげしん)とされる十一面観音がよく知られている。正面に柔和な顔(柔和相)が三つ、左右に怒った顔(忿怒相/ふんぬそう など)がそれぞれ三つ、後ろに笑顔(大笑相/だいしょうそう)が一つ。そして頭上に仏の顔(仏相)が一つ、合わせて十一の顔を有している。
 なお、長野県安曇野に伝わる鬼伝説に魏石鬼八面大王(ぎしきはちめんだいおう)が登場するが、こちらは八つの顔を持つ鬼ではなく、多くの盗賊団を率いる首領のことを象徴的に言い表したもの。その妻・紅葉鬼神(もみじきしん)共々、田村利仁こと坂上田村麻呂に討伐されたことになっているが、もちろん、伝承の域を出るものではない。
 藤井勝彦
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 2021年2月8日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「虫けらのように扱われ、惨殺… ヤマト王権に従わなかった人々の蔑称・「土蜘蛛」
 藤井勝彦
 身丈が短く、手足が長かったという葛城の先住民の実像
 「源頼光の四天王土蜘蛛退治」一勇齋國芳筆/東京都立中央図書館
 『鬼滅の刃』に登場する鬼の中でも、特に奇怪な姿で登場するのが、那田蜘蛛山(なだぐもやま)に住む鬼一家の父である。顔そのものが蜘蛛という異形の姿で、父とはいえ、その実、末っ子の累(るい)に知性まで奪われて操られるという、悲しい運命に生きる鬼であった。また、累の兄は、胴体が蜘蛛という、これまた異形の鬼。姉に至っては、掌から繰り出す繭で獲物を仕止めて溶かして食べるという恐ろしさであった。一家の前世がどのようなものであったのかについてはあまり語られていないが、累自身、家族が元の姿に戻ることを嫌ったというから、幸せとはほど遠いものだったに違いない。
 それはともあれ、虫としての蜘蛛は、容姿の醜さもあって、古今を問わず忌避(きひ)される存在であったと思われるが、歴史を振り返ってみれば、生身の人間でありながらも、まるで虫けら(蜘蛛)のごとく蔑まれた者たちがいたことも事実である。
 実は、日本最古の歴史書とされる『古事記』や『日本書紀』に、土蜘蛛と呼ばれた不運な民のことが記されているのだ。ヤマト王権の黎明期の動向を記したとされる「神武天皇紀」や「景行天皇紀」「神功皇后紀」などに、その名が頻繁に登場する。天孫族(てんそんぞく)なる王権の支配者たちが各地を制覇するにあたって、まつろわぬ土族ばかりか、山中の窟などにひっそりと住まう民までこう呼び捨て、無慈悲な殺戮(さつりく)を繰り返したのである。
 大和国の高尾張邑(たかおわりむら・奈良県葛城市)をはじめ、碩田国(おおきたのくに・大分県)の鼠の石窟、直入県の禰疑野(ねぎの・大分県竹田市)、高来県の玉杵名邑(たまきなむら・熊本県玉名郡)等々、枚挙にいとまがないほど、その居処が記されている。いずれの民も、王権に従わなければ有無を言わさず殺されたわけだから、襲われた方としては、恨んでも恨みきれない思いがあったはずである。
 南方からやってきた縄文人
 ちなみに、前述の「神武天皇紀」に記された高尾張邑とは、葛城山(かつらぎさん)の麓に広がる地域であるが、そこに住む人たちのことを、「身丈が短く、手足が長かった」と記している。おまけに「侏儒に似ている」とも。この侏儒(しゅじゅ)とは、中国の歴史書魏志倭人伝」にも国名として登場する名で、倭国の南4千里にあったという。
 一説によれば、種子島のことと見られているが、それが正しいとすれば、葛城に住む人たちも、種子島同様、南方からやってきた人たちであったことがわかる。温暖な南の地(おそらく中国南方及びそれ以南)からやってきた縄文人も、身丈が低く手足が長かったと推測されているところからすれば、土蜘蛛と呼ばれた葛城の先住民も、この縄文人の特色をそのまま受け継いだ人たちだったのかもしれない。同地に鎮座する葛城一言主神社の境内に、彼らが埋められたという土蜘蛛塚なるものがあるが、幸せに暮らしていた彼らの怨念が渦巻いているような気がしてならない…というのは、考えすぎだろうか。
 「土蜘蛛退治」一勇齋國芳筆/国立国会図書館
 時を経るにつれておぞましい妖怪に進化
 さて、ここからは生身の人間ではなく、鬼(妖怪)としての土蜘蛛のお話である。史実として無念のうちに惨殺されてしまった人たちが鬼として生まれ変わったのかどうかは定かではないが、中世に流布された説話集や戯曲などに、鬼としての土蜘蛛(つちぐも)が登場する。代表的なのが、『平家物語』の「剣巻」である。そこでは、土蜘蛛ならぬ山蜘蛛の名で登場。全長4尺(約1.2m)もの巨大な蜘蛛の姿で現れる。日本を魔界にしようと暴れまくったということからすれば、王権に従おうとしなかった史実としての土蜘蛛のことを、王権側の視点から派手に書き換えたと見られなくもない。
 ともあれ、この妖怪退治にあたったのが、藤原道長などに仕えた源頼光(よりみつ)であった。頼光といえば、酒呑童子(しゅてんどうじ)退治でも活躍した武人。この勇猛な武人が、あろうことか、熱病に冒されて、ひと月も寝込んだという。床に伏していると、どこからともなく身長7尺(約2.1m)もの怪僧が現れて、頼光を縄で絡めとろうとしたとか。頼光がこれに気付いて、名刀・膝丸で斬りつけたものの、素早く逃げられてしまった。残された血痕をたどったところが、北野天満宮裏手の塚であった。早速これを掘り進むや、前述の巨大な蜘蛛が潜んでいたというわけである。頼光がこれを串刺しにして河原に晒すや、病もすっかり回復したとのことであった。
 ちなみにこの説話は、後世尾ひれが付いて、見上げるばかりの巨大な蜘蛛として語られるようになる。さらには、蜘蛛の首を刎(は)ねたところ、腹の中から何と1990個もの死者の首が転がり出たというばかりか、脇腹からも数えきれないほどの子蜘蛛が這い出してきたとの凄まじい話として語られるようになっていった。
 このように、時代が経るにつれて、その奇怪さが増していくものの、元をたどれば、単なる善良な民であったのではないかと思えてくるのだ。『鬼滅の刃』に登場する鬼たちも、もしかしたら元をたどれば、そんな人たちだったのかもしれない。体制に飲み込まれることを良しとせず、ただひっそりと暮らしていたかっただけなのに、蔑まれた挙句、命まで奪われてしまう。何とも、非情としか言いようのない話なのである。
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 西洋キリスト教文明国からすれば、日本人はアフリカ人同様に奴隷もしくは人間以下の家畜、自由に殺してかまわない獣であった。
 バチカンローマ教皇は、改宗した日本人キリシタンを奴隷にする事は禁止したが、改宗を拒む異教徒日本人を奴隷とする事は認めた。
 つまり、中世キリスト教会は日本人奴隷交易を「神の御名」によって容認・公認していた。
 心ある善意な宣教師達は、全知全能の神から与えられた「神聖な使命」として、日本人を奴隷から救う為に積極的に布教活動を行い、数十万人の日本人をキリシタンに改宗して「神に愛される自由人」に引き上げていた。
 それが、中世キリスト教会が説く「隣人愛の信仰」であり唯一絶対神の御言葉である「福音による救済・恩寵・奇蹟」であった。
 豊臣秀吉徳川家康江戸幕府は、その事実を知り、日本人奴隷交易を禁止する為に元凶となっているキリスト教邪教として禁教とし、非人道的なキリシタン弾圧をおこなった。
 が、その歴史的事実がハッキリしているにもかかわず、現代日本歴史教育は「日本人奴隷交易」を否定する事なく黙認している。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・野伏せり・悪党、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 少数の高学歴出身の裕福資産家・AI強者 vs. 多数の低学歴出身の貧困労働者・AI弱者。
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 近代日本の主敵は、白人キリスト教のロシアとロシア人であった。
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☱21〕─3・O─映画「福田村事件」は善良な村人を凶悪な殺人鬼に変えた。~No.48 

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 関東大震災における日本人・朝鮮人・中国人惨殺事件は、数千年前からの天災の歴史において一件のみである。
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 日本のヤクザは、自然災害被害者に炊き出しをして助けていた。
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 2024年9月12日11:02 YAHOO!JAPANニュース 千葉日報オンライン「「福田村事件」史実と異なる映画に憤慨 誤解を解くために語り続ける「この現場で起きたこと」
 事件から101年の追悼行事であいさつする市川さん=6日午前、野田市
 関東大震災直後の 1923年9月、福田村(現在の千葉県野田市)で起きた「福田村事件」。子どもや妊婦を含む9人が自警団に殺された。100年の節目を迎えた昨年は、同名の映画が公開されるなど事件が広く知られる機会となった。人権教育の研修などで現地を案内する同市の市民団体代表の市川正廣さん(80)は「関心が高まった」と歓迎する一方、「フィクションと史実の区別が付かない映画が誤解を生んだ」と史実を語り継ぐ難しさをかみしめる。保存会と遺族らは9月6日、101年目の命日に合わせ、事件現場近くに石碑を建て「未来に伝える」誓いを新たにした。(デジタル編集部・伊藤幸司)
 未来への伝言  石碑に刻んだ福田村事件
 碑文石碑を除幕する市川代表(左)と遺族関係者代表の中嶋さん=6日、野田市
 「過ちを繰り返さぬよう真実を伝え続けます」
 同市の市民団体「福田村事件追悼慰霊碑保存会」が開いた追悼行事。犠牲者が亡くなって101年となった6日、現場近くの霊園に新たな石碑が披露された。
 碑文には「社会不安の中、さまざまな差別が複合して事件は起こりました」との概要や、風化させない取り組みの必要性を訴える文言を刻んだ。
 遺族関係者10人を含む約40人が参列。市川さんは「私たちが事件を忘れず、真実を未来への伝言として伝えていく。そういう思いで建てることができた」と感慨深げに語った。
 霊園には21年前に建てた「関東大震災福田村事件犠牲者追悼慰霊碑(墓碑)」があるが、墓碑を兼ねているため、事件を説明する文はなかった。昨年の100年の節目を契機に慰霊碑を訪れる人が増えたこともあり、新設した。
 「福田村事件」映画が招いた"誤解"
 事件現場近くの霊園に立つ「関東大震災福田村事件犠牲者追悼慰霊碑(墓碑)」に線香を手向ける人たち=8月7日、野田市
 福田村事件は関東大地震から5日後の1923年9月6日に発生した。香川県から薬の行商で福田村を訪れ、茨城県側に向かおうとしていた男女15人が、同村と隣の田中村(現在の柏市)の自警団に襲われた。2歳、4歳、6歳の子どもや妊婦を含む9人が殺され、遺体は近くの利根川に投げ込まれた。
 市川さんは「100年の節目の昨年、映画の公開もあり多くの人が関心を持った」と振り返る。 一方、事件の周知は進んだが、真相を知る「認知」までは途上と課題も指摘する。
 昨年公開された事件と同名タイトルの劇映画「福田村事件」について、市川さんは企画段階で製作側に協力した。しかし完成した内容は「行商の人などの描き方がひどい」と憤慨する。
 具体的には、行商人らしくない服装や、効果のない薬を売りつける場面、自ら被差別部落出身であることを語る場面などが史実と異なるという。
 行商団は香川県が交付した証明書を所持して薬を販売していたほか、当時は現在よりも被差別部落への差別が厳しかったと指摘。
 「犠牲者、被害者の名誉を傷つけ、差別が広まってしまう描き方だ」
 「映画=史実」ではない 実名明かした遺族の覚悟
 行商団を描いたイラストを示し講演する市川さん=8月7日、野田市
 フィクションと史実の区別が付かないことで史実を伝える活動にも影響が出ているという。学習会で事件を説明した際、参加者から「映画の内容と違う。間違ったことを言っている」と詰められたことを紹介。「映画のストーリーが史実であるかのように広まっている。誤った内容が一人歩きして定着することを危ぶんでいる」と嘆く。
 6日の追悼行事に参列した遺族関係者も同じ思いだ。中嶋英喜さん(55)は「将来、映画を見た人が内容を史実と思ってしまうだろう」と懸念を示した。
 映画の負の影響も感じている。知人らから「犠牲者の親せきなのか」と電話を受けたり、地域で県外ナンバーの車や知らない人をたびたび見かけたりと「二次被害」にさらされている。
 谷生右京さん(47)は「子どもがまだ小さい。何が起こるか分からないのは不安」と述べた。一方、中嶋さん、谷生さんとも昨年の追悼行事では匿名で取材を受けたが、今年は実名で応じた。「名前を隠すことは先人に対し背を向けている感覚がある」「黙っていては差別の問題はなくならない」と思いを明かした。
 虐殺はなぜ起きた 背景に「複合差別」
 むごたらしい虐殺がなぜ起きたのか。市川さんが強調するのは、複数の差別意識が重なった「複合差別」が背景にあるという点だ。
 一行は被差別部落出身で地元で職を得ることが難しく、行商に生活の道を求めていた。震災直後の混乱で朝鮮人による略奪や放火を伝えるデマが広がり、各地で民間の自警団による朝鮮人に対する暴行、虐殺など殺傷事件が起きていた。福田村でも武装した自警団が警戒を強めており、そこに現れた行商団が不審者と疑われた。
 市川さんは講演で「押し売り」「浮浪人」とともに「不正行商人」の通報を呼びかける当時の警察ポスターを紹介する。だが「不正」かどうかは外見では分からない。社会が動揺する中、人々の警戒心が増幅され、自警団には行商団が「あやしい一行」と映った。
 「朝鮮人と誤認説」に一線画す 行商団の男性証言
 当時13歳で行商団の1人として事件に遭遇し奇跡的に助かった男性は、後の聞き取りに地域の警戒ぶりを以下のように証言している。
 福田村で薬を売るために戸別訪問すると「消防組とか警備員とかがずっとついて来て、家に入ると3人ぐらいが竹やりを持って『おまえ、どこから来たのか』と聞くので鑑札(薬の販売証明書)を見せ、信用してもらって奥で話をした。こうしたことが何回かあった」
 市川さんは、行商団が朝鮮人と誤認された説とは一線を画す。聞き慣れない讃岐弁で朝鮮人と間違われたというのが定説とされてきた。
 「裁判で被告は『朝鮮人と間違えた』と答えている。私は罪を軽減するための方便とみている。『朝鮮人であれば殺してもよい』との考え方につながらないか」
 香川県の遺族と交流を重ね遺族宅を訪ねると、仏壇にある位牌(いはい)に「殺されたり」「惨死す」などの記載があった。「遺族は今でもこのような位牌に線香を上げ拝んでいる。事件は終わった話ではない。今でも続いている」
 人権教育の題材
 研修に訪れた教員らを前に説明する市川さん(右)=8月7日、野田市
 市川さんは自ら語り部として現地での学習会のほかに県内外で講演を続けている。約20年間で案内した人は約3千人に上る。
 「人の命が奪われることはあってはならない。それがこの現場で起きた」
 8月7日、同市三ツ堀の香取神社。鳥居の下に小中学校の若手教員らが足を進めた。行商団のうち、助かった6人がいた場所だ。少し離れた場所にかつて水茶屋があり、その前の腰掛けにいた9人が犠牲になった。市川さんは消防活動などで使うとび口を手に「これらが凶器になり(犠牲者は)頭を割られ、体を刺された」と当時の様子を説明した。
 埼玉県から訪れた教員らは事件現場や近くにある追悼慰霊碑を巡り、市川さんの話に耳を傾けた。研修は人権教育担当者が対象で、20年ほど前から続いているという。今回の研修に参加した小学校長は「20年前にも研修でここに来た。市川さんはその間、地道な活動を続けている。正しい歴史を広めていると感じた」と感想を述べた。
 2市長が弔意
 100年の節目の昨年、地元自治体との距離も縮まった。野田市の鈴木有市長は6月の市議会一般質問で「被害に遭った人たちに謹んで哀悼の誠をささげたい」と答弁。柏市太田和美市長も9月の市議会一般質問で「亡くなった方々の命の尊さを思うと誠に心が痛む」と述べた。
 30年近く事件の真相究明などに取り組んでいる市川さんは「公の責任者が(公式の場で)弔意を示したのは初めて。市民運動などの活動が社会的な関心を高め、それが後押しした」と感慨深く語る。
 同時に、映画によって広がった誤解を解くため、後世に伝える活動を継続することの必要性を改めて感じている。
 20年前に追悼慰霊碑を建立する際は「福田村事件」と刻むことさえためらう状況があったという。地元にとっては負の歴史で触れられたくない空気があった。市川さんは「こうした考えを解放できるかが課題。乗り越えないといけない」と力を込める。
 ※この記事は千葉日報とYahoo!ニュースによる共同連携企画です
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 9月12日 YAHOO!JAPANニュース 千葉日報「福田村事件 生き残った少年を自宅に泊めた刑事 子孫が墓前で祈り 野田 命の大切さ学ぶ機会に 関東大震災100年
 祖父の栄太郎さんが眠る吉田家の墓前で手を合わせる龍二さん=野田市
 吉田栄太郎さん(吉田龍二さん提供)
 1923年9月1日に発生した関東大震災の5日後、東葛飾郡福田村(現在の野田市)で香川県からの行商団が同村や隣接する田中村(現在の柏市)の自警団に襲撃され、男女9人が殺された福田村事件。妊婦や幼児も命を落とす悲劇の直後、松戸警察署野田分署の刑事が、生き残った13歳の少年を自宅に泊め慰めた逸話が残る。今年は事件から100年の節目。「二度と起こしてはいけない」「命の大切さを学ぶ機会に」。刑事が眠る野田市内の墓前で関係者が手を合わせた。
 (デジタル編集部・伊藤幸司)
 当時少年だった男性は心に深い傷を負い、故郷の香川県に戻り老成した後も周囲に事件を語らなかった。行商団一行が被差別部落出身だった社会背景もあったとされる。86年、埋もれた歴史に光を当てる香川県の元高校教諭らの聞き取りに惨事を打ち明けた。
 男性の証言によると、仲間がすぐ目の前で殺されるのを目撃し「取り乱し意識がもうろうとした」。少年を含む生存者6人は同署に1週間ほど保護された。「吉田さんという刑事がいて『うちに同じ年ぐらいの息子がいるから家へ行かんか』と言ってくれた。二晩ほど泊めてもらい、息子さんと遊んだ」。
 男性は94年に84歳で死去。晩年、家族に「吉田さんが忘れられない。一言お礼が言いたい」と話していたという。 ・・・
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 2023年8月26日 YAHOO!JAPANニュース 千葉日報「善良な村人、なぜ加害者に 映画「福田村事件」 森達也監督(我孫子市在住)に聞く 関東大震災100年
 インタビューに応じる森監督=東京都渋谷区
 俳優の井浦新と女優の田中麗奈がダブル主演を務める映画「福田村事件」が9月1日から公開される。題材は100年前の関東大震災直後に東葛飾郡福田村(現在の野田市)で起こった虐殺事件。当時、朝鮮人による略奪や放火を伝えるデマが広がり、各地で自警団などが朝鮮人を殺害する事件が相次いでいた。メガホンを取ったのは、ドキュメンタリー作品を多く手がけてきた森達也監督(67)=我孫子市=。自身初の劇映画となる本作で、何を伝えようとしたのか。森監督に話を聞いた。(佐藤瑞妃)
──事件は震災5日後の1923年9月6日に発生。香川県から福田村を訪れた行商一行が、同村や隣の田中村(現在の柏市)の自警団に襲われた。15人のうち妊婦や幼児を含む9人が殺された。事件を知ったきっかけは。
 「野田市で慰霊碑を建立するという新聞の小さな囲み記事だった。朝鮮人虐殺に関わるけどよく分からないなと思って現地に行ったら、資料もないし、話してくれる人もいないし。なんとかアウトラインが分かって、テレビでドキュメンタリーを作ろうとしたら無理だった。ずっと諦めてたんだけど、劇映画だったらできるかなと」
 映画「福田村事件」より(C)「福田村事件」プロジェクト2023
──そこまで「福田村事件」にこだわった理由は。
 「僕にとっての原点はオウム真理教ドキュメンタリー映画。あのときびっくりしたのは、信者達が善良で穏やかで。でも彼らも指示されたらサリンをまいていたはず。なんでこんな邪気のない人がそんなことをするのかがテーマになっていた。ポーランドアウシュビッツ強制収容所)やカンボジアのキリングフィールド(虐殺現場)にも行ったが、やっぱり同じ。加害した人も結局普通の人。国へ帰れば父であり、息子であり。その観点が大事だと思っていたので、朝鮮人虐殺はずっと形にしたいなと思ってました」
──フィクションを織り交ぜたのは資料が足りなかったからか。
 「そう。そもそも、僕の最初(の作品)は劇映画。自主映画だけど、大学生のときに映研に入って ・・・
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
 日本を動かしているのは学閥である。
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 保守には、正統保守やエセ保守など数多くの保守が存在する。
 現代日本では、急速に新保守の守旧派とエセ保守が増えた。
 正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。

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