🗻4〕─3・E─崇神天皇陵の堀の水、160年前から水田潤す。世界かんがい施設遺産認定。~No.13 

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 2026年9月1日 YAHOO!JAPANニュース 朝日新聞「天皇陵の堀の水、160年前から水田潤す 世界かんがい施設遺産認定
 行燈山古墳(伝崇神天皇陵)の堀。右は行燈山古墳の墳丘=2026年8月21日午後4時7分、奈良県天理市柳本町、安河内敬志撮影
 宮内庁が「崇神天皇陵」として管理している行燈山(あんどんやま)古墳(奈良県天理市)の墳丘を囲む堀が、「世界かんがい施設遺産」に登録されることになった。堀を江戸時代に改修して農業用水に転用し、今も利用している点と、その功績を次世代に伝える活動が続いている点が評価されたという。市によると、県内の登録は初という。
 【写真】行燈山古墳(伝崇神天皇陵)=2016年3月29日、奈良県天理市、朝日新聞社ヘリから、筋野健太撮影
 登録名は「崇神天皇陵堀」。世界かんがい施設遺産は、地域の農業に貢献した歴史的・技術的価値のある施設を、国際かんがい排水委員会(ICID)が認定し登録する制度。ダムやため池などの貯水施設、せき・分水施設、水路、排水施設、古い水車などが対象となる。国内最古のダム式ため池とされる狭山池(大阪府)など、国内では56施設(2025年10月現在)が認定されている。
 行燈山古墳は古墳時代前期(4世紀前半)に築かれた前方後円墳で、墳丘の長さ約242メートル。堀が巡らされており、それを含めると全長は360メートルほどになる。
 堀は幕末に改修された。天皇を国家の中心に据えるべきだとする勤王思想が高まったこの時期に、幕府は荒れた陵墓の改修を積極的に行った。行燈山古墳がある柳本藩は、元治(げんじ)元(1864)年に自費で堀を拡張。幕府の規定よりも規模を大きくし、農業用水の権利を得た。柳本の地区は慢性的な水不足で悩んでいたが、水田約140ヘクタール分の水が確保できたという。地元の専行院(せんぎょういん)では、大正8(1919)年から現在まで、この功績をたたえる「藩主祭」が催されている。
 堀の水は12万1500立方メートルあり、宮内庁が管理している。柳本土地改良組合が放流を願い出て、組合が分配している。柳本地区は現在、吉野川分水の水を主に使っているが、それでも30ヘクタールほどは堀の水も使っているという。山岡勇組合長(73)によると、今年は水不足で苦労しており、「あの堀がなかったら、農業やっていけなかったと思います。ものすごく感謝しています」と話した。
 並河健市長は「財政が厳しい中で知恵を絞って、堀を整備しつつ地域にも利益をもたらした。優れた公共事業だ。『あるものを生かす』という発想は、現代においても通じる意義のあるもので、我々もその思想を受け継いでいきたい」と話した。
 26年10月12日からフランスで開かれるICIDの会合で登録される。葛西用水(埼玉県)▽小笠地域かんがい用水群(静岡県)▽日根荘大木のかんがい用水群(大阪府泉佐野市)も同時に登録される。(安河内敬志)
■先人の功績、祭りで伝承
 世界かんがい施設遺産に登録が決まった「崇神天皇陵堀」。地元の奈良県天理市柳本町の住民から喜びの声が上がった。
 柳本町にある専行院(せんぎょういん)では、藩主の子孫や住民らが参列して「藩主祭」を催している。松村順雅住職(48)によると、田植えが終わった7月に、堀を修復した藩主・織田信成(のぶしげ)らをしのび、感謝と喜びを捧げているという。境内には功績をたたえる石碑「修陵餘潤之碑(しゅうりょうよじゅんのひ)」が明治29(1896)年に建てられた。松村住職は「地元にこういうものがあるということに気づいていただけるのはありがたい」と話した。
 申請は住民らが主体となって準備した。柳本校区区長会が中心となり、柳本土地改良組合や柳本郷土史会などが協力。1年半ほどかけて資料を集め、提出書類などをまとめあげた。区長会の沢田昌久会長(70)は「先輩たちの功績がそのまま受け継がれたことが世界的に評価されたのがうれしい」と語った。(安河内敬志)
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 2026年9月1日 YAHOO!JAPANニュース ABS秋田放送「【特集】陸羽地震から130年 県内で200人余りの犠牲者が出た“明治以降最大の自然災害” 地形に刻まれた痕跡から考える次の自信への備え 秋田
 1か月余り前に発生した熊本地震では断層が地表に現れたとみられる世界的にも珍しい瞬間が映像に収められました。
 同じように地面を大きく隆起させ、県内で200人余りの犠牲者が出た地震がありました。
 8月31日で発生から130年となった陸羽地震です。
 地形に刻まれた痕跡から次の地震への備えを考えます。
 今年7月28日、震度6強を観測した熊本県八代市の防犯カメラの映像です。
 激しい揺れの数秒後、地面が一気に盛り上がりました。
 NNN取材団・小鍛治孝志記者
 「田んぼですが、断層がずれて数十センチほどの段差ができてしまっています」
 地震の影響で断層の一部が地表面に現れたとみられています。
 これと同じような現象が130年前の秋田でも起きていました。
 藤丸覚記者
 「130年前に地震で地面が隆起し、断層が地表に現れたとみられる痕跡です。身長177センチの私を大きく超える高さです」
 かつてあった村の名前が由来の、美郷町の千屋断層です。
 1896年、明治29年8月31日に発生した陸羽地震で、その姿を現したといわれています。
 断層は最大約3.5メートル隆起。
 当時、地震の揺れの大きさは微、弱、強、烈の4段階で報告されることになっていました。
 しかし陸羽地震の記録は…「大烈震」。
 最も強い「烈」を大きく超える激しい揺れだったとされています。
 被害状況などから、地震の規模を示すマグニチュードは7.2、最大震度は7だったと推定されています。
 1995年の阪神・淡路大震災や10年前の熊本地震とほぼ同じ規模です。
 5,000棟以上の建物が全壊し県内では205人が犠牲になりました。
 秋田大学・水田敏彦教授
 「地震だけではなく、明治期以降、 200人以上の人的被害が発生した自然災害は秋田県ではこれ以外ないですから、秋田県では明治以降では最大の自然災害と人的被害の観点からは言っていいと思います」
 自然災害のメカニズムに詳しい秋田大学の水田敏彦教授です。
 陸羽地震の文献研究を行っています。
 発生から130年の今、2つの教訓を学んでほしいと強調します。
 秋田大学・水田敏彦教授
 「秋田県でも内陸直下で非常に大きな地震が起きるということを認識することが1点、そして犠牲者のほとんどが住宅の倒壊による犠牲者だったことが非常に大きな教訓だと私は考えています」
 陸羽地震では、原因がわかっている犠牲者のうち、9割以上が倒壊した家屋の下敷きになって亡くなりました。
 南北に36キロ続く千屋断層。
 犠牲者は現在の美郷町だけでなく大仙市や仙北市、横手市でも出ました。
 悲惨な記憶を次の世代にどうつないでいくのか、難しい局面を迎えています。
 地元の住民(94)
 「当時、私のうちも地震でつぶれて火事になった」「どこのうちでもつぶれてるから何の援助も…隣から仮設の家をつくるための長木一本もらうことができなかったと」「人にもよるけれどもほとんど知られていないのではないでしょうか」
 地元の住民(29)
 「実際友達とかにも自分の家の近くにこういう断層あるんだよって言っても知られていないのは事実です。地元民ですらオレんち千屋断層の所にあるよって言ってもハテナみたいな顔されます」
 過去の災害を他人ごととして考えている人が少なくないかもしれない。
 それは数字にも表れています。
 県の推計では住宅の耐震化率は昨年度末の時点で86.4%。
 目標としていた95%を大きく下回りました。
 県内では約7戸に1戸は耐震性が十分でない可能性があり、県は「極めて憂慮すべき事態」と報告しています。
 秋田大学・水田敏彦教授
 「活断層がある所だけ危険だというわけでは決してないことを改めて指摘させていただきたい」「過去に秋田県内いろんな所で内陸直下地震も発生していますので、いつ、どこで起こっても不思議ではないということで大きな揺れに対して備えることが非常に重要だと思います」
 大地に刻まれた大地震の傷跡。
 その教訓を命を守る備えにつなげられるかが、問われています。
 ※9月1日午後6時15分のABS news every.でお伝えします
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☶76〕─1─中国共産党は社会主義の大義から天皇のような世襲制度を否定している。~No.554 

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 2026年10月号 Hanada「朝鮮半島通信 重村智計
 北朝鮮の抱える難題、見通しの悪い将来
 ……。
 『社会主義』削除の意味
 北朝鮮の憲法の名称は『朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法』であり、自国を『輝かしい社会主義国家』と言ってきた。だが今年3月に、憲法のタイトルから『社会主義』を削った。それ以外でも、以前ほどには社会主義を強調しない。
 なぜ、『社会主義』名称をやめたのか。世襲独裁を継続するためである。
 『社会主義には権力世襲はない』──これはかつて鄧小平が金日成に言った言葉だ。金日成は息子を後継者にするために、中国の鄧小平の了解を得ようとし、鄧小平は一度は『社会主義に世襲はない』と拒否したが、『朝鮮は儒教の国だから、一回だけは認めよう』と述べた。
 北朝鮮が『社会主義』を掲げる限り、『社会主義には世襲はない』との批判や疑問が生まれる。それを避けて世襲独裁を続けるには、憲法から社会主義の看板を下ろすしかない。
 中国の習近平主席は、北朝鮮のこういった事情を十分に理解している。中国はマルクス・レーニン主義だが、北朝鮮はマルクス・レーニン主義を取らず、集団指導体制ではない。これが中国には不満だった。
 今年6月に習近平は平壌を訪問し、訪問当日に北朝鮮の労働新聞に論文を掲載した。そこで強調されていたのは、『中朝はともに社会主義の国である』との言葉であった。
 これは鄧小平の『社会主義には世襲はない』という言葉につながる。中国は、北朝鮮が中国のような集団指導体制ではないのをよく理解しているはずなのに、『同じ社会主義』とわざわざ書くのだから、相当の嫌味だ。
 言い換えれば、中朝関係が決して良好でない事実を物語っている。
 北朝鮮は、国際政治の加害者として記憶されている。1953年に朝鮮戦争を始めたのは北朝鮮であったし、日本人など多くの国から国民を拉致してきた。明らかな主権侵害で、国際犯罪である。また、核開発を推進し、核兵器を保有している。」
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☷71〕─1─韓国大統領は統帥権を持った超実権大統領で戒厳令を発令した。~No.155No.156 

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 韓国大統領は、国民の直接選挙で選ばれた統帥権を持った政治家である。
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 伊藤博文ら明治の元勲・重臣等は、尹錫悦大統領・レーガン大統領・プーチン大統領のような野心的で独善独裁的政治家の出現を恐れた。
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 2026年10月号 Hanada「隣国のかたち 室谷克実
 112 レームダック化、近しか」
 ……。
 外遊は人気取り手段だった
 『大統領制』と言っても、その実態は様々だ。実権を持たない形式元首もいるし、外交安保のみ把握する大統領もいる。条文規定と運用の実態が違う場合もある。
 韓国の大統領は行政府の長であり、軍の統帥権を持つ。最高裁と憲法裁判所の判事の三分の一の推薦権を持つ。しかし国会に対しては、可決された法案に対する拒否権のみで、解散を命じる権限はない。法案拒否権も、三分の二以上の再可決があれば無効になる。
 何だが弱そうな大統領に思えるが、実態は違う。与党は国会議席の三分の二以上を占める。与党議員の大部分は『李在明系』だ。李在明が党代表として、文在寅系の現職議員の公認を外して自分に忠誠を誓う候補を公認したからだ。つまり、与党国会議員の大部分は〝李在明の私兵〟なのだ。
 さらに『国民により選出された権力は、偽善者から任命された権力の上に立つ』、つまり国民により選出された大統領と国会は司法府の上に立つとの独善的な政治哲学を振り回して、司法府を完全に押さえ込んでいる。
 韓国の大統領とは、実態として『超実権大統領』なのだ。
 独裁者と紙一重の『超実権大統領』は頻繁に外遊する。
 ……。
 2つの理由が考えられる。
 1つは、国内で左傾化政策を進めるためだ。『あの国は左翼政権だ』と言われないために、日本を含む自由陣営と友好関係にあることを世界に示す必要があるのだ。
 もう1つは、国内での人気取りのためだ。日本でもかつては『首相の外遊』は人気取りの効果があった。今日でも天皇外遊は、皇室の人気を高める。それに似ている。
 韓国大統領の場合は、まず空港に政府・与党要人が並び、送迎式典がある。多くの場合、財閥総帥が同行し、経済協力の実が上がったように演出する。前から決まっていた契約を、大統領訪問の時に調印して大統領の手柄にするぐらいは当たり前だ。
 ……。それでも、大統領外遊は『支持率上げ』の材料であってきたのだ。
 ……。
 韓国人は昔から、外国人による賛辞を『お世辞』とは受け取らない。『著名な外国人は韓国をこう褒めた』と別の外国人に伝えて、同様の賛辞を引き出して悦(えつ)に入る。本当に不思議な国民性だ。
 ……。」
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 2024年12月4日 朝日新聞「「慎重さ欠いた独断政治」が招いた非常戒厳 元駐韓国日本公使の見方
 有料記事
 韓国の尹錫悦(ユンソンニョル)大統領が3日夜、非常戒厳を敷きました。韓国国会は無効を決議し、尹氏はわずか6時間で非常戒厳を解除しました。なぜ、このような事態に至ったのか。韓国で44年間暮らした町田貢・元駐韓国日本公使(89)は「慎重さを欠いた独断政治の結果」と語ります。
 尹大統領、突然の「非常戒厳」に至った背景 韓国政界に何があった?
 【連載】読み解く 世界の安保危機
――町田さんは1964年から99年にかけ、日本の外交官として韓国に断続的に勤務しました。
 韓国は過去、1948年の建国から80年に「粛軍クーデター」で政権を握った全斗煥(チョンドゥファン)大統領の時代にかけ、計16回の戒厳令を敷いたと記憶しています。今回の「非常戒厳」は当時の戒厳令とあまりに違うので、非常に戸惑いました。
――何が違うのでしょうか。
 過去の戒厳令は、国内が騒乱状態になり、警察力で抑え込めなくなった際に、軍を投入するために布告されました。
 過去、戒厳令が布告されると、大通りの交差点や駅、市役所前などに軍部隊が戦車と共に配置されました。人々は発砲の危険を感じ、自然とデモや集会の動きが止まりました。
 戒厳令は長くて1カ月ほどで、騒乱状態が収まるにつれ、戦車や部隊の数も減っていき、最終的に解除されました。
 しかし、私の印象では、今回…
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 2024年12月4日 BCC「【解説】 なぜ尹大統領はいきなり非常戒厳を宣布したのか……翌朝には解除
 韓国の国会前に出動した多数の警官画像提供,Reuters
 画像説明,韓国の尹大統領による非常戒厳の宣布を受け、ソウルの国会前には多数の警官が出動した(4日未明)
 フランセス・マオ、ジェイク・クォン
 韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が3日夜、「非常戒厳」の宣布を発表した。これを受けて大勢が国会議事堂の周りに集まり、戒厳令に抗議。国会は素早く、解除の要求を議決した。
 このため大統領は4日朝、戒厳令を解除すると表明した。あまりに突然の出来事に、国民はあっけにとられた。尹氏はなぜこのような行動に出たのか。
 大統領はどんな立場にいたのか
 尹大統領は3日夜に「非常戒厳を宣布する」と発表した際、北朝鮮の脅威や「反国家勢力」から韓国を守り、自由な憲法秩序を守るためだと説明した。しかし、尹氏が韓国で40余年ぶりに戒厳令を発動する本当の理由は、外部からの脅威ではなく、本人が政治的に追い詰められているからだというのは、間もなくはっきりした。
 尹氏は2022年の大統領選挙で保守強硬派の候補として勝利し、同年5月に大統領に就任した。だが、今年4月の総選挙で野党が圧勝。以来、レームダック(死に体)状態となっている。
 政府として国会で法案を通すことができず、リベラルな野党が通過させた法案に拒否権を発動する程度のことしかできない状況だ。
 加えて尹氏は今年、いくつかの汚職スキャンダルに見舞われてきた。妻をめぐっては、高級ブランドのディオールのバッグを受け取ったとされる疑惑や、株価操作に関わったとされる疑惑が浮上した。
 このため支持率も低下し、17%前後という低水準で推移している。
 尹氏は先月、テレビの全国放送で謝罪。ファーストレディー(大統領夫人)の職務を監督する事務所を設置すると述べた。だが、野党が求めていた本格的な捜査については拒否した。
 そして今週、野党は政府予算案の大幅減額を提案した。大統領は予算案には拒否権を行使できない。
 野党は同時に、複数の閣僚と、政府監査機関のトップを含む検察幹部らについて、大統領夫人に対する捜査を怠ったとして弾劾に動いた。
 Play video, "「国と自由な憲法秩序を守る」 韓国大統領は非常戒厳の宣布で何を述べたのか", 所要時間 0,22
 動画説明,「国と自由な憲法秩序を守るため」 韓国大統領が非常戒厳を宣布
これからどうなるのか
 尹氏による非常戒厳の宣布に、多くの人はあっけにとられた。国民は6時間にわたり、非常戒厳が何を意味するのかをめぐって混乱した。
 しかし野党は素早く集結し、与党議員と共に必要な票数を集め、国会として非常戒厳の解除要求を議決した。軍と警察が多数出動していたものの、軍が首都を掌握する事態には至らなかった。
 韓国憲法は、国会が戒厳令の解除要求を決議した場合、政府はそれに応じなくてはならないと定めている。戒厳司令部が議員を拘束することも禁じている。
 これからどんな展開があり、尹氏がどうなるのかは、はっきりしない。3日夜に国会前に集まった抗議者らからは、「尹錫悦を逮捕しろ」という声も上がっていた。
 いずれにしても、尹氏の性急な行動が韓国をあぜんとさせたことは確かだ。国民は自分たちの国を、独裁政権の時代から大きく進歩した、繁栄した近代民主主義国家だとみなしている。
 ソウルの国会前では3日夜、多くの市民が集まり、突然の非常戒厳に抗議した画像提供,Reuters
 画像説明,国会前では多くの市民が集まり、突然の非常戒厳に抗議した(3日夜)
 定数300の韓国国会で、4日未明に集まった与野党議員190人全員が非常戒厳の解除要求に賛成した。議員たちは議決後も政府による議会解散強行を警戒し、議席にとどまっていた画像提供,Reuters
 画像説明,定数300の韓国国会で、4日未明に集まった与野党議員190人全員が非常戒厳の解除要求に賛成した。議員たちは議決後も政府による議会解散強行を警戒し、議席にとどまっていた
 その民主主義社会にとって、今回の出来事は、ここ数十年で最大の挑戦だと見られている。
 専門家らは、民主主義国家としての評判を落とすという意味では、2021年1月6日に起きた米議会議事堂襲撃事件よりも大きなダメージを、韓国にもたらすかもしれないとしている。
 ソウルにある梨花大学のレイフ=エリック・イーズリー教授は、尹氏の非常戒厳の宣布について、「法的に無理し過ぎで、政治的にも判断ミスだったと思われる。韓国の経済と安全保障を不必要に危険にさらすものだった」と分析。
 「彼の発言は、四面楚歌の政治家のようだった。増え続けるスキャンダルや、組織的な妨害行為、弾劾の要求などに対して懸命に対処しようとしているが、それらはすべて、今後ますます強まっていくだろう」と述べた。
 (英語記事 Why South Korea's president suddenly declared martial law)
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 2024年12月13日 EduA「非常戒厳により韓国が大混乱 → 戒厳令って何なの?
 一色 清
 日々のニュースの中に「学び」のきっかけがあります。新聞を読みながら、テレビを見ながら、食卓やリビングでどう話しかけたら、わが子の知的好奇心にスイッチが入るでしょうか。ジャーナリストの一色清さんがヒントを教えます。
 ※写真は、韓国での「非常戒厳」をめぐる事態を受けて、国旗を振りながら抗議の意思を示す男性=2024年12月4日、韓国ソウル
 韓国で突然出された45年ぶりの「戒厳令」
 韓国の尹錫悦(ユンソンニョル)大統領は12月3日夜、緊急談話を出して「非常戒厳を宣布する」と述べました。非常戒厳は一般的に戒厳令といわれるものです。戒厳令とは、行政や司法を軍が掌握し、国民の言論や集会の自由などの基本的人権を制限することができるものです。発令されるのは、戦争の時、クーデターやテロのおそれのある時、大災害が起こった時などが想定されています。
 そうした想定される事態ではなかった韓国で突然、戒厳令が出されたことに世界中が驚きました。中でも驚いたのが韓国国会で、国会議員が深夜の国会に駆けつけて4日未明には解除要求決議案を可決しました。戒厳令は6時間ほどで解除されましたが、尹大統領をやめさせる弾劾(だんがい)訴追案は国会で可決に必要な3分の2以上の賛成が得られず、尹大統領がいつまで大統領にとどまるのかはまだ決まっていません。一方、尹大統領には死刑もある内乱罪の疑いがかかっていて、捜査が始まっています。韓国の政治の混乱はまだ当分は続きそうです。
 尹大統領が戒厳令を出した理由については、尹大統領の説明を待つしかありません。ただ大方の見方は、尹大統領が所属する政党「国民の力」が国会議員選挙で敗れて少数与党となって、にっちもさっちもいかなくなり、その事態を打開するために発動したというものです。それでは大統領がクーデターを起こすために戒厳令を使ったということになり、法律が想定している事態とは真逆です。それが本当なら、「何を血迷ったか」というしかありません。今回は各国の歴史を振り返り、どういう時に戒厳令が出され、行く末はどうなったかを見ようと思います。そうすると、今回の戒厳令がいかに異例なものかもわかると思います。
 韓国で戒厳令が出たのは、45年ぶりになります。韓国は第2次世界大戦後に建国されましたが、長く軍事政権が続きました。1980年には軍人だった全斗煥(チョンドゥファン)氏が大統領に就き、激しくなっていた労働争議や学生デモに対処するためとして戒厳令を出しました。そして人気のある野党政治家だった金大中(キムデジュン)氏(のちの大統領)らを逮捕し、独裁体制を築こうとしました。
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 東京弁護士会
 第36回 古くて新しい憲法のはなし⑭
 「戒厳令・緊急事態と憲法~韓国の戒厳令発令と解除から学ぶ危険性~」(2024年12月号)
 弁護士 津田二郎(東京弁護士会憲法問題対策センター副委員長)
 戒厳令・緊急事態と憲法~韓国の戒厳令発令と解除から学ぶ危険性~
 2024年12月3日夜、韓国の尹(ゆん)大統領は、突如戒厳令を宣言し、軍隊が国会に押しかけるなどしました。封鎖された国会前には多くの民衆が集まり、軍隊の国会への侵入を阻止するため、何十もの「盾」になり抵抗しました。戒厳令の宣言から約6時間後には、議会の過半数を占める野党「共に民主党」が主導し戒厳令を解除する投票を行い、集まった議員の全員一致で戒厳令の解除が議決されました。
 韓国でのこの出来事を踏まえて、「日本でも戒厳令や緊急事態条項の整備をして権力の暴走を防ごう」との意見があるので、この点を検討します。
 さて「戒厳令」とは、「戦時または異常な事態が国内に発生したとき,立法権・司法権・行政権の全部または一部を軍の支配下にうつすことを宣言する命令」と定義されています(学研「キッズネット辞典」より)。一方緊急事態条項は、「戦争やテロ、それに大規模な災害などの非常事態に対処するため、政府の権限を一時的に強化する規定のこと」と説明されています(NHKウェブサイト「ねほりはほり聞いて!政治のことば」より)。
 つまり、戒厳令も緊急事態条項も「異常な事態」に対応するための制度である点は共通していますが、戒厳令は軍の権限が拡大するもの、緊急事態条項は政府(内閣)の権限が拡大するものとの違いがあります。戒厳令は、憲法で軍隊が認められていない日本では、そもそもその前提がないことになります。緊急事態条項は、内閣の権限を強めるので、憲法改正によって創設すること自体は検討されうることになりますし、実際に自民党や国民民主党、日本維新の会などは憲法改正によって緊急事態条項を創設しようという主張をしています。
 今回韓国で戒厳令が速やかに解除されたのは、議会の議決があったからです。ここは、大統領制をとっている韓国の特質と直前の総選挙の結果を考える必要があります。大統領は、国民の直接選挙で選ばれます。韓国は直近であった総選挙で大統領を支える与党が大敗北し、野党が勢力を伸ばして過半数を獲得しましたが、大統領が直ちにその地位を失うことはありません。韓国で戒厳令の解除が速やかに行われたのにはこのように野党会派が議会の多数派であったという偶然が作用していたように思います。
 日本では議院内閣制をとっており、基本的には議会の多数派の与党から内閣総理大臣が指名されることになります。議会の多数党派から内閣総理大臣が選ばれるため、議会の勢力分布と内閣の関連性はより深くなります。そのため内閣が緊急事態を宣言した場合には、議会のチェック機能が働かない可能性が高くなります。
 一方、少数であっても野党が理屈を通せば与党からの賛同も得られるのではないか、との指摘もありますが、可能性の指摘に留まります。実際憲法違反ではないかとの指摘が弁護士会を始め各方面から多くなされた安保法制は充分に国会で議論されることなく与党によって強行採決されてしまいました。
 そもそも尹大統領が戒厳令を宣言したのは、客観的な状況ではなく、総選挙での与党の大敗北と自身に対するスキャンダルの追及を封じる目的があったのではと指摘する声もあります。
 このように韓国の事態は、戒厳令という権力の暴走を許す制度があったために、これが濫用されたのであって、速やかに解除されたのは偶然の産物であったと考えるべきです(市民が軍隊の国会への侵入を阻止したことは重要で、議会による戒厳令の解除の議決を尹大統領が受け入れたことも幸いした)。憲法改正をして緊急事態条項を創設する必要性を示したのではなく、むしろ権力を誰かに集中させる制度の危険性が浮き彫りになった事件であったと考えるべきだと思います。
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 古代から半島人は、大陸人・大国人の一員になりたいという強い願望を持っていた。
 その証拠が、蒙古襲来における高麗人、応永の外寇における朝鮮人、ベトナム戦争における韓国人の非人道的虐殺行為である。
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 慶応3(1867)年の明治維新から明治22(1898)年の大日本帝国憲法(明治憲法)発布まで、国内では不平士族による反乱・暴動そして反政府自由民権運動、農民による血税一揆など不安な情勢が続き、国外にはロシアによる軍事侵略という脅威に連動した清国(中国)と朝鮮の不穏な動きがあった。
 明治新政府は、ロシアとの大陸戦争に勝利する為に作られた軍国主義政権であった。
 伊藤博文ら明治の元勲・重臣等(旧武士)は、日本帝国憲法(明治憲法)を作成するにあたり、軍の統帥権・開戦権・軍令を天皇の大権として天皇に委託し、政府、官庁(陸軍省・海軍省)、国会、政治家、官僚から切り離し国家予算における軍政のみを許した。
 将来、忠君愛国の武士の素養が消え愛国心も忠誠心も持たない庶民出の政治家が総理大臣となり、私益で軍隊を動かし、私欲で国権を壟断する事を恐れたのである。
 つまり、人間不信から庶民差別として日本帝国憲法(明治憲法)を作成した。
 国内の治安維持の警察権は政府が持ち裁判権は司法が持つが、国外に対する安全保障の軍隊の統帥権を誰に持たせるかであった。
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☰⚊42〕─1─日本の世界遺産推進で強制動員問題が再燃。軍艦島・佐渡金山に続き足尾銅山。~No.85No.86 

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   ・   ・   {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本が国内の歴史的鉱山を世界遺産に登録申請をすれば、韓国はその全てに対して容赦なく強制動員問題を告発する。
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 2026年9月14日 MicrosoftStartニュース 中央日報「軍艦島・佐渡金山に続き足尾銅山でも…日本の世界遺産推進で強制動員問題が再燃
 栃木県日光市の足尾銅山。[写真 日光市観光協会ホームページ]
 日本が朝鮮人約2400人が強制動員された足尾銅山の世界遺産登録を推進する中、韓国政府も現地調査に乗り出すなど、植民地時代の強制労働の歴史が両国間の争点として再び浮上する見通しだ。軍艦島、佐渡金山に続き、また別の強制動員現場の世界遺産登録問題が浮上した形だ。
 足尾銅山は栃木県日光市にある銅鉱山だ。1610年に銅が発見された後、江戸幕府時代から開発され、明治時代には日本の産業化を支える主要鉱山へと成長した。
 日光市はすでに2007年から日本の文化庁に世界遺産暫定一覧表への追加記載を提案するなど、足尾銅山の世界遺産登録を推進してきた。特に先月30日に開かれた「足尾銅山の世界遺産登録を推進する会」創立20周年行事には、内閣官房参与通商政策担当・産業遺産情報センターの加藤康子センター長が講演者として参加し、力を添えた。この席で加藤氏は、足尾銅山の世界史的価値と公害発生・克服の歴史を正確に伝える必要性を強調したという。
 ただ、まだ国連教育科学文化機関(ユネスコ)に正式に登録を申請した段階ではない。
 足尾銅山は、すでにユネスコ世界文化遺産に登録された軍艦島や佐渡金山と同様、太平洋戦争当時、労働力不足を補うため朝鮮人を動員し、過酷な環境で働かせたとの指摘を受けている。
 日帝強制動員被害者支援財団によると、1940年8月から1945年5月まで足尾銅山に強制動員された朝鮮人は2416人と把握されている。1944年9月以前は政府機関のあっせんという形で、それ以降は徴用方式で動員された。朝鮮人労働者は主に危険な作業に投入され、日本人より賃金が少なかったり、きちんと受け取れなかったりする被害があったという。
 栃木県朝鮮人強制連行真相調査団は1997年、足尾銅山地域で死亡した朝鮮人が73人に上ると発表した。死因には肺炎や腸チフス、落盤事故などが含まれていた。死亡者の中には1歳未満の乳児22人もいた。
 登録推進過程の争点は、産業化と公害克服の成果を強調する中で、朝鮮人強制動員の歴史をどれほど忠実に扱うかだ。東北アジア歴史財団のヒョン・ミョンホ研究委員は2024年の学術会議で「足尾銅山については、公害防止技術の卓越性を浮き彫りにして登録を推進しようとする戦略とみられる」と分析した。
 すでに現地の展示でも強制動員の歴史が抜け落ちているとの指摘が出ている。共同通信は昨年、足尾銅山記念館が産業発展と公害克服の歴史を紹介する一方、強制労働に関する内容は展示していないと報じた。軍艦島と佐渡金山に続き、足尾銅山でも強制労働を含む「全体の歴史」の説明をめぐる問題が繰り返される可能性があるとの懸念が出ている背景だ。
 韓国政府関係者も先月末、栃木県日光市の足尾銅山一帯で実態調査を行うなど、対応策を模索しているという。
 一方、12日に新潟県佐渡市で開かれた日本側の佐渡金山追悼式では、今年も朝鮮人労働の強制性には言及されなかった。日本政府代表は追悼の辞で「朝鮮半島の労働者の方々は戦争中、坑内という危険で過酷な環境の下で困難な労働に従事された」と述べた。しかし「強制労働」という表現は使わなかった。2024年の初開催以来、3年連続だ。
 韓国政府は強制性に対する認識の違いなどから日本側と合意に至らず、今年も追悼式に出席しなかった。追悼式は2024年、佐渡金山の世界遺産登録をめぐる協議過程で日本が約束した措置だ。
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🎍24〕─1・②─初代現御神(あきつみかみ)になった持統天皇。持統女帝の地方行幸。~No.71 

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 2026年9月9日 YAHOO!JAPANニュース MANTANWEB「<藤原京と持統天皇>ついに世界遺産! 謎多き女帝が巨大な都をつくった理由、実像に迫る 今夜「歴史探偵」で
 9月9日放送の「歴史探偵『藤原京と持統天皇 “世界遺産”をつくった謎の女帝』」 (C)NHK
 NHKの歴史番組「歴史探偵」(総合)では、9月9日午後10時から「藤原京と持統天皇 “世界遺産”をつくった謎の女帝」を放送する。ついに世界遺産となった奈良・藤原宮(藤原京中心部)跡。今回は“幻の都”藤原京と、それをつくった“謎の女帝”持統天皇の特集だ。
 【写真特集】最新調査に基づく藤原京のCG! これが“幻の都”!? 写真を一挙公開!!
 ほんの90年ほど前まで正確な場所さえ不明だった、いわば“幻の都”藤原京。近年、平城京もしのぐ巨大な都だったことがわかってきた。完成させたのは、古代6人8代にわたって日本を治めた女性の天皇の一人、持統天皇。謎多き女帝が巨大な都をつくった理由とは……。
 最新調査に基づく藤原京のCGと「天上の虹」作者・里中満智子さんへの取材も交え、藤原京と持統天皇の実像に迫る。
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 持統女帝は「初代現人神」となり、民族神話に基づく神聖不可侵の権威を確立し、皇族による骨肉の争いを避ける為に有力豪族推薦の天皇即位システムを改め、実力豪族による皇位簒奪を避ける為に神話を根拠とする正統性男系父系天皇制度を定め、万世一系天皇制度を確立した。
 民族神話は、唯一で不変で、不磨の物語である。
 憲法・法律は、イデオロギーで可変で、不磨の大典は存在しない。
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 奈良時代までの天皇即位は、皇位継承権を持つ皇子が有力豪族の推薦を受け群臣の総意で即位するか、蘇我氏のような実力豪族が操り人形的な皇子を即位させていた。
 その為に、皇子や豪族等による皇位継承を巡り骨肉の争いが絶えず、政争に敗れた有能な皇子は例外なく殺害されるか自裁を強要された。
 聖徳太子の一族である上宮王家滅亡。
 持統天皇は、天皇即位を平和的に安定させる為に即位仕組みを代え、有力豪族の推薦と群臣の総意ではなく、先祖の天皇霊・天の神々に天皇の正統性を固定化して天皇即位に有力豪族や群臣の政治的介入を排除し、天皇は神々から日本統治の委任を受けた唯一の尊い存在と定め、神である天皇が次期天皇になる皇子を日嗣の御子(皇太子)に指定して幼く病弱であっても群臣に守らせた。
 この後、500年間、壬申の乱のような軍隊を集めた皇族と有力豪族によるる骨肉の争いはおきなかった。
 天皇が日本の神々によって即位した事で、中国帝国や朝鮮諸王朝の政治・軍事による内政介入を排除した。
 持統天皇の英断によって、日本の天皇家における万世一系が守られた。
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 中国帝国・中華皇帝の政治介入を、臣下として受け入れた朝鮮国王、拒否した日本天皇。
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 殺し合いを避ける日本の皇室(血統主義)は、殺し合いを当然の権利とするイギリスの王家(皇統主義)とは違う。
 日本の皇道には、争いを避ける和の論路があっても、殺し合うという力の論理は存在しない。
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 天皇の権威・正統性は、西洋の君臣の社会契約論、キリスト教の王権神授説とも違うしマルクス主義階級闘争とも無縁であり、中国や朝鮮の儒教の天論・天帝論とも関係ない。
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 戦後民主主義教育における歴史教育を受けた現代日本人には、戦前までの皇国史観や愛国教育を彩った先人達の念いは理解できない。
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 反宗教無神論のマルクス主義者、キリスト教原理主義者、イスラム教過激派は、民族神話を根拠とする人神の天皇を否定し消滅させようとしている。
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 奈良県
 持統天皇ストーリー
 目次
 夫の遺志を受け継ぎ、前へ
 夫、愛息との思い出を胸に、道なき道をいく
 律令国家の確立を目指して
 年表
 「引き継がれた夫の遺志、そして「日本」が生まれた。
 ~持統天皇の物語~
 夫の遺志を受け継ぎ、前へ
 兄・天智天皇でさえなし得なかった律令国家への歩みを、一歩ずつ確実に進めていた天武天皇の死。
 吉野の盟約で皇位継承者と認められていた草壁皇子(くさかべのみこ)は、何度も葬儀の場に訪れている。
 その間、皇后である鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は姿を見せない。あくまでも、草壁皇子が皇位継承者として人々に周知されることを願っていた。
 天武天皇のもと、「たとえ母親は違っても、互いに助け合い争いはしない」と誓い合った。皇后は皇室全体の母として、ほかの子どもたちを見る機会も増えた。だからこそ、早くに亡くなった姉・大田皇女(おおたのひめみこ)の子である大津皇子(おおつのみこ)が気になる。大津皇子は、体もたくましく、度量も広く博学、有能だった。その大津皇子があろうことか謀反を計画しているとの情報が入り、即刻処断。彼女の脳裏に、壬申の乱で先手を取った天武天皇の動きがあったかどうかはわからない。が、天武天皇のすぐそばで、皇后は多くのことを学んでいた。
 草壁皇子と歳も近く、ライバルと目されていた大津皇子は消えた。将来の抗争の芽を速やかに摘んだのだ。愛息をようやく皇位継承者として天皇の座につかせることができると思った矢先、草壁皇子は病死してしまう。夫についで、息子までも……。
 しかし彼女には、道なかばで潰えた夫の果たせなかった夢を現実に変える使命に燃えていた。そして、即位し持統天皇となった。
 持統天皇
 夫、愛息との思い出を胸に、道なき道をいく
 持統天皇は即位すると、次々と天武天皇が生前進めていた律令国家を具現化していく。皇親を冠位制度の中に序列化する皇親政治の推進、「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」施行など、天武天皇が目指していた律令制度を確立、また、飛鳥宮以前から更なる発展をとげた、大和三山<香具山(かぐやま)・畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)>を内包する新しい都、藤原京を誕生させた。譲位によって皇位を孫の軽皇子(後の文武天皇)へ譲る太上天皇制の創始、そして現在も続く伊勢神宮の式年遷宮も持統天皇が始めたとされている。
 持統天皇は、たびたび行幸を行った。中でも、天武天皇との思い出の地・吉野行幸は特に多い。譲位して数か月後の6月、吉野への行幸。翌年には、東国へも行幸し、行幸から帰ると病床についた。まるで、夫婦ともに人生が変わった壬申の乱の足跡を辿るように……。
 長らく途絶えていた遣唐使を派遣。それまでは「倭国」と称していたが、この時初めて中国に対し「日本」の国名を用いた。遣唐使が出発した半年後、持統天皇は亡くなった。遺体は天皇として初めて火葬され、夫と同じ墓に埋葬された。
 持統天皇2
 橿原市提供
 律令国家の確立を目指して
 蘇我入鹿(そがのいるか)が暗殺された大化元年(645)に生を受けた持統天皇(幼名 鸕野讃良皇女)。
 まるで波乱に富んだ生涯を生まれながらにして負っていたようだ。夫の天武天皇、息子の草壁皇子の早すぎる死の悲しみを乗り越え、自ら舵をとり果敢に歴史の荒波を乗り越えてきた。
 持統天皇は譲位後、天武天皇が『古事記』『日本書紀』の編纂を命じたように、日本最古の歌集『万葉集』の編纂を発意した。夫と生きた時代の息づかいを歌に託して……。
 即位からわずか13年。
 夫・天武天皇の夢を引き継ぎ、
 さらに高みを目指した妻・持統天皇。
 冷静でいて、なおかつ熱い思い。
 日本の礎を形作った夫婦の物語が、この地に眠る。
 ゆかり地へ
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 持統天皇(645年〈大化元年〉 - 703年1月13日〈大宝2年12月22日〉)は、日本の第41代天皇(在位:690年2月14日〈持統天皇4年1月1日〉 - 697年8月22日〈持統天皇11年8月1日〉)。天武天皇の皇后(天智天皇の娘、天武天皇の姪にあたる)、のちに持統天皇となり史上3人目の女性天皇となった。
 諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)であり、これは娑羅羅馬飼造が養育したからであると考えられる[3]。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』巻30の冒頭に記された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは巻1・冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。確実ではないが伊勢神宮に参拝し「日本」国号を定めた可能性が高い天皇である(後述)。漢風諡号「持統天皇」は、『釈日本紀』によれば日本書紀に収められた歴代天皇とともに淡海三船により選ばれたとされる。森鷗外は『帝諡考』において、『薛瑩漢紀』(薛瑩の著した『後漢記』か)、『宋書』、『白虎通義』、『北堂書鈔』を出典の候補として挙げている。この中で最も古い『白虎通義』の「禘祫及遷廟者何、以其能世世継君之体、持其統而不絶」を他書が牽いており、いずれも「宗廟が場所を遷しても系統は続き途絶えることはない」と説くものである。

 持統天皇の称制と即位
 690年の持統天皇の即位の儀式の概略は、天武天皇の葬礼とともに、『日本書紀』にかなり具体的に記されている。ただし以前の儀式が詳しく記されていないので正確なところは不明だが、物部麻呂朝臣が盾、矛を立てた例は前にもあり、神祇官中臣大嶋朝臣が天つ神の寿詞を読み上げることと、公卿が連なり遍く拝みたてまつり、手拍つというのは初見である。また前代にみられた群臣の協議・推戴はなかった。全体に古式を踏襲したものとみなす見解もあるが、新しい形式の登場に天皇の権威の上昇を見る学者が多い。
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 2019年10月15日 YAHOO!JAPANニュース「大津皇子謀反事件と第41代・持統天皇の即位
 持統天皇
 知っておきたい皇位継承の歴史
 令和改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は持統天皇をお届けします。
 ※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
 ※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
 ※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
 皇位継承事典
 第41代・持統天皇
 世系31、即位46歳、在位11年(称制期間を含め)、宝算58歳
 皇紀1305年=大化元年(645年)、中大兄皇子(天智天皇)の第二皇女として誕生された鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・蘇我遠智娘(そがおちのいらつめ)である。
 皇紀1317年=斉明3年(657年)、13歳で、叔父の大海人皇子(後の天武天皇)の妃となられた。また中大兄皇子(天智天皇)は鸕野讚良皇女(第二皇女)の他に、大田皇女(第一皇女)、大江皇女、新田部皇女の4人を弟の大海人皇子の妃とされた。兄・天智天皇の皇女4人を弟・天武天皇の妃とされたのである。いずれも大海人皇子にとっては姪に当たる。
 皇紀1322年=天智元年(662年)、筑紫の娜大津(博多湾)で鸕野讚良皇女は草壁皇子を産まれ、翌天智2年には天智天皇の第一皇女の大田皇女が大津皇子を産まれた。しかし天智6(667年)2月、妃・大田皇女が薨去され、鸕野讚良皇女が大海人皇子の妃の中で最も地位が高くなった。
 皇紀1331年=天智10年(671年)12月3日、兄の天智天皇が崩御される。
 天武天皇は、即位された翌天武2年の2月27日、妃・鸕野讚良皇女を皇后に立てられる。皇后は夫・天武天皇の良き助言者で、政治面でも輔弼の任を果たされた。
 皇紀1339年=天武8年(679年)5月5日、夫・天武天皇と吉野へ行幸される。
 そして吉野で、天皇は草壁皇子を次期天皇と決められ、6人の皇子(草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子)に、「これから草壁皇子を助けてお互い相争わない」ことを誓わせられた(「吉野の盟約」)。
 皇紀1341年=天武10年(681年)2月、「吉野の盟約」から2年後、草壁皇子(20歳)が予定通りに立太子される。
 皇紀1345年=天武14年(685年)、天武天皇がご不例となられ、皇后・鸕野讚良皇女は皇太子・草壁皇子と共に天皇に代わって朝政を執られる。
 翌皇紀1346年=天武15年(686年)7月15日、天皇は「天下の事は大小を問わず、悉く皇后及び皇太子(草壁皇子)に報告せよ」と詔され、持統天皇・草壁皇子が共同で朝政を執られるようになる。この年7月20日、元号を朱鳥と定める。
 そしてこの年朱鳥元年(686年)9月9日、天武天皇が崩御され、皇后は即位式を催行されないまま称制して政務を執られる。持統天皇称制元年とし、元号の朱鳥はまた使用されなくなった。
 吉重 丈夫
 大津皇子謀反事件
 天武天皇崩御の翌月、川島皇子(天智天皇の皇子)の密告により、大津皇子(天武天皇の第三皇子で草壁皇子の1歳年少)の謀反が発覚して捕縛される。密告した川島皇子は天智天皇の第二皇子で吉野の盟約にも参加しておられた。関係者30余人も捕らえられた。皇太子・草壁皇子の異母弟であり、川島皇子の6歳年少ではあるが、天武12年2月1日条には「大津皇子が初めて朝政をお執りになる」とある。
 皇位継承にまつわる実に悲しい出来事であった。具体的にどのような謀反の計画があったか、謀反の実行行為として、どこまで準備がなされていたかなどは定かではない。大津皇子は鸕野讚良の同母姉である大田皇女を母とする皇子で、後嗣とされた草壁皇子に次ぐ皇位継承候補者であった。
 翌10月3日、大津皇子は自害させられる。24歳であった。捕らえられた翌日のことで過酷な運命といわざるを得ない。妃の山辺皇女(天智天皇の皇女)は殉死された。
 10月29日、事件に関与した者のうち大津皇子の家臣・礪杵道作(ときのみちつくり)伊豆に、新羅の沙門行心は飛驒に流されたが、他は全て詔により許された。行心は新羅の優れた僧で、大津皇子の謀反に与したが、死罪一等を許されて、飛驒の伽藍に移された。
 11月16日、伊勢神宮の斎宮であられた大来皇女は同母弟・大津皇子の罪に連座し、任を解かれ都に帰された。
 皇紀1349年=持統3年(689年)4月13日、先帝・天武天皇の第二皇子である皇太子・草壁皇子(28歳)が薨去された。異母弟の大津皇子が自害されて3年後のことで、これで天武天皇の意図された皇位継承の目論見が実現不可能となった。
 2人目の女性天皇が誕生
 天武天皇が崩御されてから、皇后として称制して政務を執っておられた鸕野讚良皇女が、皇太子・草壁皇子の薨去を受けて、皇紀1350年=持統4年(690年)春1月1日、急遽46歳で即位される。推古天皇に次ぐ2人目の女性天皇(女系天皇ではない)である。
 天武天皇の在位中から、皇后は常に天皇を助け、側近として政務について助言しておられたので、即位に当たってはさして混乱はなかった。即位前、吉野に随行され、さらに壬申の乱の最中も常に夫・大海人皇子に付き従っておられた。
 天武天皇には、草壁皇子以外に異母の皇子が多数おられ、彼らが草壁皇子の薨去後皇位に就くことを期待しておられたとしたら、持統天皇の即位によってそれが阻まれたことになる。
 皇后としては皇太子・草壁皇子亡きあとは、その王子の軽皇子(天武天皇の皇孫)を即位させようと思われ、そのためには数おられる他の皇子たちを抑える必要があった。
 ところがこの時、軽皇子はまだ7歳であったため、皇后・鸕野讚良皇女が自ら即位された。天智天皇の皇女であり、先帝・天武天皇の皇后であるから異論の出ようはずはなかった。
 持統5年11月、大嘗祭(即位後最初の新嘗祭)を催行される。
 持統8年12月6日、大和国の藤原宮(藤原京)に都を遷される。
 皇紀1356年=持統10年(696年)7月10日、太政大臣・高市皇子が薨去(43歳)される。
 高市皇子は天武天皇の第一皇子で、草壁皇子の8歳年長の異母兄に当たり、吉野の盟約がなければ皇位継承候補の筆頭であられた。ただ、母が筑紫宗像郡の豪族・胸形徳善の娘・尼子娘であり、身分が低かったからか、後嗣にはされなかった。
 高市皇子の薨去を受け、持統天皇は皇族・公卿・官人らを召して皇太子の擁立について諮問された。群臣はそれぞれ自分の意見を言い合い、議論は紛糾した。この時、大友皇子(弘文天皇)の皇子・葛野王(かどののおおきみ)が直系による皇位継承を主張された。
 「日本では神代から親子間での皇位継承が行われており、兄弟間での継承は争いのもとである。どの皇子が最も皇太子に相応しいかとの天意を議論しても、その天意を推し測れる者などいない。血筋や長幼から考えれば、皇嗣は自ずと定まる」と。
 実際には履中天皇の弟の反正天皇、允恭天皇の即位以来、兄弟間での皇位継承の実例は多く、それについて弓削皇子(天武天皇の皇子)が葛野王に問いかけようとしたが、葛野王は弓削皇子を一喝し、弓削皇子は何も言えなかったといわれている。これで数ある天武天皇の皇子たちはすべて退けられ、前皇太子・草壁皇子の王子で、天武天皇・持統天皇の孫でもある軽皇子(文武天皇)が皇太子に定められた。
 壬申の乱で敗れたとはいえ、大友皇子(弘文天皇)の皇子で天智天皇の孫王である葛野王の存在は大きかった。従って、軽皇子の立太子にはこの葛野王の発言が大きく影響している。
 皇紀1357年=持統11年(697年)2月16日、軽皇子が15歳で立太子される。
 第一皇子・高市皇子が前年薨去され、軽皇子も15歳になられ、前述の議論で葛野王の発言もあり、他には異論は出なかったものと思われる。
 8月1日、7年の在位、称制の期間を含めて11年の在位で、皇太子・軽皇子(文武天皇)に譲位され、持統天皇は太上天皇となられた。推古天皇に次いで2人目の女性天皇の誕生であったが、孫・軽皇子に皇位を引き継ぐための中継ぎの役を果たされたことになる。
 この時期、大江皇女(天智天皇皇女)を母とする長皇子と弓削皇子、新田部皇女(天智天皇皇女)を母とする舎人親王、五百重娘(いおえのいらつめ 中臣=藤原鎌足の娘)を母とする新田部親王、大蕤娘(おおぬのいらつめ 蘇我赤兄の娘)を母とする穂積皇子、宮人・かじ媛娘を母とする忍壁皇子がおられたが、皇太子・軽皇子が皇位を継がれることとなった。
 皇位継承資格のある皇子が多数おられただけに、中継ぎとしての持統天皇の存在は大きく、また天皇はその中継ぎとしての役目をよく果たされた。
 皇紀1362年=大宝2年(702年)12月22日、退位されて5年後、58歳で崩御された。
 持統天皇の後は、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙(称徳)天皇、淳仁天皇と、天武天皇の直系皇子女と、六方七代が即位される。そして8代目に天智天皇の皇子である志貴親王の王子・白壁王が光仁天皇として即位され,皇位は天智天皇の系統になる。
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 2017年11月12日 YAHOO!JAPANニュース BEST TiMES「自分の血をひく者をなんとしても天皇に……持統天皇の執念
女性天皇君臨の系譜の謎④
 高森 明勅
 日本にかつて存在した女性天皇。なぜ彼女らは女帝として立つにいたったのか? 女性天皇君臨の系譜の謎に迫る、集中連載。
 山田高塚古墳/大阪府南河内郡太子町大字山田にある古墳。古墳時代末のもので、推古天皇の古墳とされている。
 前代未聞! わずか15歳の
 幼帝を誕生させた持統天皇
 持統天皇は夫と自分の血をひく草壁皇子がやがて即位することを、強く願っていたはずだ。そのことは、天武天皇が亡くなると、たちまちライバルの大津皇子が謀反を企てたとして死に追いやったことからも、容易に想像できる。だが草壁皇子の早逝によって、それもかなわぬ夢に終わった。
 そこで持統天皇が希望を託したのは、草壁皇子の第2子の珂瑠皇子(文武天皇)だ。だがこの皇子は天武12年(683)の生まれ。即位にふさわしい30代以降になるまで、自分の寿命がつづかないことは当然、自覚していた。その年齢の制約を越えるのが、皇太子の制度だった。
 持統天皇の治世を太政大臣として支えてきた高市皇子が持統10年(696)7月に亡くなると、天皇は直ちに次の皇位継承者を選定する会議を催した。そこで天皇の意をうけた葛野王が「直系」継承によるべきことを主張し、異論をはさもうとする者を叱りつけた。これよって、草壁皇子の子の珂瑠皇子が次代の継承者として定まった。
 そこで翌年2月、早速、珂瑠皇子はわずか15歳で皇太子に立てられ、そのまま同年8月には持統天皇から皇位を譲られて天皇になる。第42代文武天皇だ。
 これ以前、第35代皇極天皇が譲位した例がある。だがそれは、宮中での蘇我入鹿暗殺という異常事態に直面して、退位を余儀なくされたものだった。次の継承者に自発的に皇位を譲ったのは、この時が最初だ。
 持統天皇は譲位後も幼い文武天皇の後見にあたった。その地位は、自らも関与した『大宝令』に「太上天皇」として制度化される。こうして持統天皇の執念によって、それまでの皇位継承のリスクは大きく後退した。
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 日立グループTOP
 日本の土台をつくった女帝
 持統天皇
 この国のかたちを決めたのは女帝だった...。1300年以上前に「日本」という国号、「天皇」という称号を確立するなど国の基礎を固め、日本古代史上最強の天皇といわれてきた持統天皇。その波瀾万丈の人生を辿りながら、現代まで脈々と受け継がれてきた女性パワーの根源を見つめ直します。
 政略結婚からはじまった運命
 出展:東京新聞Web「<女性に力を>2020年女性幹部30%達成遠く一橋大学教授・佐藤文香さん/ジェンダー専門家・大崎麻子さん」
 出展:東京新聞Web「<女性に力を>2020年女性幹部30%達成遠く
 一橋大学教授・佐藤文香さん/ジェンダー専門家・大崎麻子さん」
 イギリスの経済誌「エコノミスト」は毎年、女性の働きやすさについて主要29カ国を評価してランク付けをしていますが、2021年3月8日に発表されたデータでは、日本は下から2番目の28位でした。
 世界経済フォーラムでも毎年各国の「ジェンダーギャップ指数」を発表していますが、2019年12月の発表では世界153カ国のうち、日本は121位でした。2018年の110位からさらに後退しています。ランクを下げている原因は、政治・経済の分野のスコアが低いためで、政治は144位、経済は115位でした。「日本はもともと政治・経済に女性の参画が少ない国だったから仕方がない。」果たしてそうでしょうか。日本の歴史を遡ると、この分野でめざましい功績を残した女性が少なからずいます。
 持統天皇(出典:百人一首之内)乙巳の変(出典:談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』)
 上:持統天皇(出典:百人一首之内)
 下:乙巳の変(出典:談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』)
 その代表ともいえるのが、飛鳥時代の女帝、持統天皇です。かつて日本には推古天皇にはじまり、8人の女性天皇がいました。なかでも持統天皇は、夫である天武天皇の後を継ぎ、現代の日本のかたちをつくった、日本古代史上最強の天皇ともいわれています。1300年以上も前の時代の話ですが、現在のジェンダー問題を考えるうえで、何らかのヒントをもたらしてくれるのではないでしょうか。
 持統天皇が誕生したのは645年。当時の権力者だった蘇我入鹿(そがのいるか)が暗殺された乙巳の変(いっしのへん)が起こった年でした。持統天皇はその事件の中心人物であった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/のちの天智天皇)と、遠智娘(おちのいらつめ)の娘として生まれました。鸕野讚良皇女(うののさららひめみこ)が即位前の名前です。
 大海人皇子(のちの天武天皇)肖像(大和国矢田山金剛寺蔵)
 大海人皇子(のちの天武天皇)肖像
 (大和国矢田山金剛寺蔵)
 その人生はちょっと辿るだけでも驚きの連続です。シェークスピアの戯曲以上にドラマチックかもしれません。
 5歳のときに祖父の蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)が謀反の疑いをかけられ自害し、母の遠智娘がそのショックで亡くなってしまいます。祖父と母を死に追いやったのは、なんと父である中大兄皇子でした。そして13歳で父の弟である大海人皇子(おおあまのみこ/のちの天武天皇)の妻に。このとき姉の大田皇女(おおたのひめみこ)も一緒に嫁ぎ、姉妹で叔父の妃となりました。中大兄皇子が大海人皇子の離反がないようにと布石を打った政略結婚でした。大海人皇子にはすでに複数の妻があり、そのなかに歌人として名高い額田王(ぬかたのおおきみ)がいました。中大兄皇子は娘たちを嫁がせた代わりに額田王を妻に欲しいと要求します。大海人皇子はそれを受け入れざるを得ませんでした。いわば略奪愛とパワハラで、現代ではすぐさま炎上しそうなジェンダー格差の連続ですが、鸕野讚良皇女はそれを克服する強さと才覚を備えていました。
 大海人皇子の窮地をサポート
 現在の白村江
 鸕野讚良皇女が10代の後半になったとき、日本を揺るがす大きな戦争がありました。「白村江(はくそんこう/はくすきのえ)の戦い」です。朝鮮半島で関係の深かった百済が唐と新羅によって滅亡の危機に陥り、その窮状を救うべく出兵しますが惨敗。この戦いの過程で斉明天皇(さいめいてんのう)が崩御し、その子である中大兄皇子こと天智天皇が即位します。唐が攻めてくるのを恐れ、天智天皇は各地に城を築くなど防衛を強化しますが、これが国の財政を逼迫することとなり政権は弱体化します。そして天智天皇の健康状態も次第に悪くなっていきます。
 壬申の乱
 天智天皇は死の間際に、大海人皇子に後を託しますが、皇子は後継者となることを辞退し、僧となって吉野に隠居します。天智天皇の本心は子の大友皇子(おおとものみこ)に後を継がせることにある。そう考えた大海人皇子は命が狙われると察し、しばらくは吉野に隠れて力を蓄え、時期を見て大友皇子を討つという戦略を練ります。これが古代日本で最大の内乱「壬申の乱」に発展します。672年のことです。
 このとき大海人皇子の妻のなかで唯一、行動を共にしたのが鸕野讚良皇女でした。大海人皇子にとっては妻であるとともに戦友。プロジェクトチームを共同で運営するパートナーのような存在だったと考えられています。鸕野讚良皇女は学習意欲が旺盛で占星術や陰陽道、兵法にも通じていたといわれています。まだ呪術的な世界観が残る社会のなか、先進国の中国からもたらされた学問はいわば現代の先進テクノロジーのようなもので、その幅広い知識と明晰な頭脳が大海人皇子をよく補佐したといわれています。
 瀧浪 貞子著「持統天皇-壬申の乱の「真の勝者」」 (中公新書)
 僧となり吉野に向かう大海人皇子を見送りながら、朝廷の官人たちが「虎に翼をつけて野に放つが如し」と述べたという記録があります。日本古代史の研究者である瀧浪貞子氏は『持統天皇 -壬申の乱の「真の勝者」』(中公新書)のなかで、「虎のように勇猛な大海人皇子に、さらなる飛躍をもたらす翼とは鸕野讚良皇女を指す」という説を取り上げています。鸕野讚良皇女の政治における才覚が、それほど世の中に広く知れ渡っていたとする解釈です。
 戦がはじまると、大海人皇子は前線に出向き、鸕野讚良皇女は幼い皇子たちを守りながら後方支援のロジスティクスを受け持ち、陣営を勝利に導きます。そして673年、大海人皇子は天武天皇、鸕野讚良皇女は皇后となります。27歳のときでした。
 現代のビジネス社会では夫婦で経営する企業が増えていますが、成功の秘訣は目標とモチベーションを共有して2人が常に同じ方向を向いていることだといいます。大海人皇子と鸕野讚良皇女は、まさにそうした関係で、白村江の戦いでの敗戦を踏まえて、中国と対等に向き合える中央集権国家を築かなければならないという目標を共有し、必ず実現したいという強いモチベーションをもっていました。男女共同参画などという言葉が存在していない時代から、ジェンダーの壁を超えた強力タッグを組んでいたのです。
 天下のことはすべて皇后に伝えよ
 藤原鎌足肖像(菊池容斎画)飛鳥宮跡 石敷井戸 (飛鳥浄御原宮期の復元遺構)
 上:藤原鎌足肖像(菊池容斎画)
 下:飛鳥宮跡 石敷井戸
 (飛鳥浄御原宮期の復元遺構)
 参考:日本遺産ホームページ
 即位後、天武天皇は飛鳥浄御原(あすかのきよみはらのみや)に都を移し、鸕野讚良皇后とともに数多くの政策に取り組みました。10人いた妻のなかで、政務に関わったのは彼女だけでした。天智天皇は藤原鎌足を側近として重用し、さまざまな相談をしながら政治を行ってきましたが、天武天皇の場合、鎌足に相当する相談相手が皇后だったといわれています。天武天皇は一人の大臣も置かず、ほとんどの政務を皇后と考えながら行いました。
 天武天皇が最初に着手したのが官人登用の制度化でした。人材を国内から広く集めることを目的としたもので、女性の宮廷への出仕も促進されました。女性は家にいるべしという観念はなく、夫の有無や年齢に関わらず、働く気のある女性は広く採用されたといわれます。伊勢神宮の社殿の整備、中国の律令制度を取り入れた法典「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」の公布、日本最古の流通貨幣といわれる銅銭「富本銭(ふほんせん)」の鋳造、『古事記』や『日本書紀』につながる歴史書の作成、新しい都の建設など、さまざまな事業を天皇と皇后のチームは推進していきます。
 吉野の盟約に参加した皇子
 天武天皇は皇室のガバナンスにも重きを置き、壬申の乱のような後継者をめぐる骨肉の争いが起きないよう、679年「吉野の盟約」を行います。天武天皇と皇后は天武の子4人と天智の子2人とともに吉野宮に赴き、天皇と皇后は6人を父母を同じくする子のように接し、皇子たちはともに協力するという誓いを立てたのです。皇子の序列は、草壁皇子(くさかべのみこ)が最初、大津皇子(おおつのみこ)が次、最年長の高市皇子(たけちのみこ)が3番目としました。
 やがて天武天皇は病に伏せがちになり、天下のことは皇后と皇太子の二人にまかせると公式に発表します。皇太子の草壁皇子はあまり有能とはいえず、実質的には鸕野讚良皇后が政治を取り仕切るようになります。そして686年、天武天皇は崩御します。56歳(一説には57歳)でした。
 後継者の草壁皇子は25歳で当時は30歳にならないと天皇として認められないという慣習があり、皇后は「称制」という制度で皇子の後見人として政務を行います。その後まもなく大津皇子に謀反の疑いがあり、やむなく皇子は死罪に。天皇と皇后、6人の皇子たちと交わした「吉野の盟約」が破られてしまいます。大津皇子は皇后の姉ですでに亡くなっていた大田皇女の遺児であり、武芸に優れ、才能も人望もあり、草壁皇子の補佐役として大いに期待していただけに皇后の悲しみは大きかったようです。さらに689年、草壁王子が27歳の若さで亡くなってしまいます。皇后はさらに大きな悲しみに襲われ、わが子を天皇にという願いもはかなく消えてしまいました。
 日本のグランドデザインをつくる
 草壁皇子の急死によって、鸕野讚良皇后はついに自ら即位します。690年、持統天皇の誕生です。自分の子を天皇にする願いは断たれましたが、草壁皇子には珂瑠皇子(かるのみこ)という子があり、この孫に天皇の座を受け渡すことを新たなよりどころとします。草壁皇子、大津皇子を失いましたが、第3の皇子である高市皇子は存命で彼を太政大臣に任命し、ともに政務を行います。高市皇子は天武天皇の長男で有能な人でしたが、母親の尼子娘(あまこのいらつめ)が皇族ではなかったため、天皇の後継者になる資格がありませんでした。ですが、壬申の乱のときからよく働き、天皇と皇后を支えました。高市皇子に限っては「吉野の盟約」はしっかりと守られたといえます。
 藤原不比等(菊池容斎画)
 さらに持統天皇を支える大きな存在となったのが藤原不比等(ふじわらのふひと)です。天智天皇の重臣だった藤原鎌足の次男で、草壁皇子に仕えていたときに能力が認められ、珂瑠皇子の後見人としての役割も託されています。天智天皇の娘である持統天皇としては、父の参謀役の子孫ということもあり、高い信頼を置くようになりました。中国の法や文書に精通していた不比等は、やがて持統天皇が推進する国家事業の中心的人物となります。
 現在の伊勢神宮
 持統天皇より前の女帝、推古天皇や皇極天皇(斉明天皇)は次の天皇が決まるまでのつなぎ役として、時の実力者に委譲された天皇でしたが、持統天皇は自らの意志で即位した天皇です。自らが最高権力者であり、自らが国を守らなくてはなりません。
そこで行ったのが儀礼の強化でした。天皇を神とし、民の心をまとめることが国家安定の基盤になるという、現在の日本の起源といえるような国のかたちを決めたのです。三種の神器を用いた即位の儀礼によって、天皇は神に選ばれた天子であると表明し、新しい皇位継承のかたちをつくりました。「日本」という国号や「天皇」という称号は持統天皇が確立させました。藤原京の建設、伊勢神宮の整備、日本書紀や万葉集の編纂など、多くの事業が持統天皇の治世においてほぼ成し遂げられました。
 ドイツのメルケル首相、デンマークのメッテ・フレデリクセン首相、ノルウェーのエルナ・ソルベルグ首相、フィンランドのサンナ・マリン首相、エストニアのカーヤ・カラス首相、ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相、台湾の蔡英文総統など世界の各地で女性リーダーの活躍を目にします。そうした姿を見るにつけ、日本は遅れていると思ってしまいがちですが、1300年以上前に持統天皇のような女性がいたことを考えると、かつては進んでいたところもあったように思われます。
 LinkedIn(リンクトイン)ジャパンが2020年9月に日本女性を対象に行った調査では、「もし自身が男性だったら、今よりもキャリアの立ち位置は良かったと思うか?」という質問に対し、43%もの女性がそう考えていると回答しています。ちょっと深読みすると、43%の人が何らかの制約のせいで、本来の自分の能力がちゃんと活かせていないとも受け取れます。持統天皇のような能力を発揮するのはむずかしいかもしれませんが、もし日本の女性たちが自分の才能を十分に活かせる環境が整えば、日本のポテンシャルは極めて高く、日本の国のかたちはガラリと変わるのではないでしょうか。
 持統天皇から学ぶこと
◎自分の能力を認めてくれる人に出会うべし。
◎同じビジョンを共有できる仲間がいると強い。
◎どんな困難に直面しても折れない心が大切。
◎前例のないことも自分で切り拓く気概をもつ。
   ・   ・   ・   
 2017年5月28日 歩きを楽しむ「神社仏閣、古跡歩き / 歴史歩き
 持統天皇行幸(ぎょうこう)の道を辿る
 吉野ビジターズビューロー主催の「見聞悠学之旅2017」に参加した。
 飛鳥を舞台に、波乱に満ちた生涯をおくった女性が天智天皇の娘・鸕野讃良皇女
(うののさららひめみこ)である。
 大海人皇子(天武天皇)の妃となり、のちに持統天皇となる。持統は、夫・天武の亡きあと
 その遺志を継ぎ、行政機能も十分に整っていない時代に、自ら律令による国政を図り、
わが国で初めての計画された都市・藤原京を造りあげた。
 この偉大な女帝の軌跡を求めて、「持統天皇行幸(ぎょうこう)の道」を辿る。
 持統天皇
 藤原宮から飛鳥川を遡り、芋峠を越えて吉野町宮滝に至る道。大海人皇子(後の天武天皇)と
 鸕野讃良皇女が壬申の乱の直前、近江から飛鳥嶋宮を経て吉野入りした際もこの道を通ったで
 あろうとされている。
 鸕野讃良皇女(持統天皇)は実に34回も吉野の宮滝に通っている。
 鸕野讃良皇女時代に2回、持統天皇時代に31回、上皇時代に1回である。
 持統天皇は夫天武天皇没後、自らの政権を維持する間、ことあるごとに飛鳥から南へ一山越えた
 吉野の宮滝に通っている。
 季節を問わず行われた宮滝への行幸は、輿(こし)で飛鳥川をさかのぼり、標高500メートルの
 芋峠を越えたと思われる。
 第41代持統天皇の陵に治定されている。『日本書紀』には「大内陵」と記される。
 今回のテーマは「持統天皇行幸(ぎょうこう)の道を辿る」主役のお墓にお参りする。
 墳丘は現在東西約58メートル、南北径45メートル、高さ9メートルの円墳状である。
本来の墳形は八角形・五段築成、周囲に石段をめぐらすとされる。
 2室からなる切石積みの石室があり、天武天皇の夾紵棺と持統天皇の金銅製骨蔵器が納められている
 とされている。
 本古墳は、天皇が埋葬された古墳として考えてよく、被葬者の実在性も問題がない。
治定が信頼できる数少ない古代の陵墓である。
 しかし、本古墳は1235年(文暦2年)に盗掘にあい、大部分の副葬品が奪われた。
その際、天武天皇の棺まで暴かれ、遺体を引っ張り出したため、石室内には天皇の遺骨と 白髪が散乱
 していたという。
 持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺も奪い去られ、無残な事に中の
 遺骨は近くに遺棄されたという。
 『日本書紀』には、天武天皇の死後、687年(持統元年)10月壬子条に「始めて大内陵を築く」
 との記事がある。688年(持統2年)11月には誅が終わり、天武天皇が埋葬されている。
702年(大宝2年)に崩御した持統が703年(大宝3年)12月癸酉に飛鳥岡にて火葬され、同月壬午に
 「大内山陵に合葬」された。
 いつ見ても何回見ても心落ち着く明日香の景色
 南淵 請安(みなぶち の しょうあん)
 飛鳥時代の学問僧。大和国高市郡南淵村(現在の奈良県の飛鳥川上流の明日香村稲渕)に住んだ
 南淵漢人(みなみぶちのあやひと)と称される漢系渡来氏族出身の知識人。
 608年(推古天皇16年)、遣隋使小野妹子に従い高向玄理、僧旻ら8人の留学生、留学僧の一人
 として隋へ留学する。
 32年間、隋の滅亡(618年)から唐の建国の過程を見聞して、640年(舒明天皇12年)に高向玄理と
 ともに帰国。隋・唐の進んだ学問知識を日本に伝え、開塾した。
 中大兄皇子と中臣鎌子は請安の塾に通う道すがら蘇我氏打倒の計画を練ったと伝えられる。
 請安が伝えた知識が大化の改新に与えた影響は大きいが、彼自身は新政府に加わっておらず、
 これ以前に死去したものと思われる。
 南淵請安の墓は、鎌足の祠の後ろ側にる。
 墓は別の場所にあったそうだが談山神社の境内に改葬され、神明塚とも呼ばれる。
 教え子の鎌足と背中合わせにある。
 この場所を「談山(かたらいやま)」と称されることもある。
 入鹿討伐の密談を行ったから談山(かたらいやま)は、多武峰談山神社の裏手にも「談所の森」と
 呼ばれる場所がある。
 今日本の歴史が大きく動いた場所に居るのだ。
 吉野宮(よしののみや)
 大和国・吉野川の側に置かれた古代日本の離宮。
 『日本書紀』には応神天皇や雄略天皇の吉野行幸の記事が見られるものの、確実に離宮が存在した
 と言えるのは、斉明天皇2年(656年)にある吉野宮造営の記事以降のことになる。
 斉明天皇は吉野宮から南に見える青根ケ峰を神奈備山(かんなびやま)として祭祀を行っていた。
 奥の三角形の山が青根ケ峰 手前の山は象山(きさやま)
 その後、天智天皇崩御の際に弟の大海人皇子(後の天武天皇)は妃の鵜野皇女(後の持統天皇)や
 子供の草壁皇子ともに吉野宮に隠棲した。
 この時大海人皇子は大勢の妃の中から鵜野皇女一人を伴い、皇子草壁と親子水入らずの
時間を過ごしたのである。
 鵜野皇女にとって吉野は愛する夫と息子との思い出の地となったのである。
 後に弘文天皇(大友皇子)と対立してここで挙兵した(壬申の乱)。
 乱に勝利後天武天皇は同8年(679年)に皇后となった鵜野皇女や草壁皇子ら六人の息子を招集し
 吉野宮に行幸して「吉野の盟約(めいやく)」を行っている。
 その後持統が、我が子草壁を天皇にするため遠謀深慮の腕前を発揮したのか、後継者争いの強敵
 である大津皇子と高市皇子を封じ込めることに成功する。
 持統が吉野に出向いたのは、問題が起きたときか、起こそうとしたときが多い。
心の動揺を鎮めるためか、吉野行きは持統にとって必要不可欠なことであった。
天武の温もりが恋しかったのか、力を借りたかったのか。
 その後、天武天皇および皇太子となっていた草壁皇子が相次いで没し、やむなく鵜野皇女が即位して
 持統天皇になったが、在位中に31回、孫の文武天皇に譲位後の大宝元年(701年)にも行幸しており、
 通算して34回の吉野宮行幸を行っている。
 ただ、孫の軽皇子(文武天皇)への譲位後四年間はぴたりと止まっている。
 その後、死の前年に最後の吉野行きをするが、この時はひとりの未亡人として亡夫を偲ぶ
 安らかな旅であったといえよう。
 吉野の盟約(よしののめいやく)
 第40代天武天皇と皇后の鸕野讚良皇女(後の持統天皇)がその間にもうけた草壁皇子を次期天皇
 であると事実上宣言した盟約。吉野の誓いとも。
 天武天皇
 当時の天皇。6皇子のうち、4人が彼の子。2人が甥(兄・天智天皇の子)。
 鸕野讚良皇后
 天武天皇の皇后。6皇子のうち、草壁皇子のみか彼女の子。
 6人の皇子
 草壁皇子(くさかべ)17歳 天武天皇2男 母鸕野讃良皇后(天智天皇2女)
 大津皇子(おおつ) 16歳 天武天皇3男 母大田皇女(天智天皇1女)
 高市皇子(たけち) 25歳 天武天皇1男 母尼子娘(宗像一族出身・嬪)
 忍壁皇子(おさかべ) ?歳 天武天皇4男 かじ媛娘(宮人)
 川島皇子(かわしま)22歳 天智天皇2男 忍海造色夫古娘(宮人)
 志貴皇子(しき)   ?歳 天智天皇7男 道君伊羅都売(夫人)
 文武天皇・元正天皇・聖武天皇によってその後も吉野宮への行幸が行われ、吉野宮の管理のために
 芳野監という官司が設けられたことが知られている。
 吉野宮がどこにあったかについては過去において様々な説が行われてきたが、吉野川の右岸(北側)
 にある宮滝遺跡(奈良県吉野郡吉野町)の発掘調査によって複数期にわたる建物群の遺構および瓦や
 土器などの出土品が発見され、同遺跡が吉野宮の遺跡であることが確実なものとなった。
 飛鳥・奈良時代の遺構は、3期に分かれる。吉野宮との関係では、Ⅰ期が天武・持統朝のもの、
 Ⅱ期は聖武朝前後のもの、Ⅲ期は昌泰元年(898年)の宇多上皇の行幸に関連するという。
 万葉集 天武天皇歌
 天皇の、吉野の宮に幸(いでま)しし時の御製歌(おほみうた)
  ”よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見つ”
 巻一(二十七)

                                                                                            • -

 昔のりっぱな人が、よき所としてよく見て「よし(の)」と名付けたこの吉野。
りっぱな人である君たちもこの吉野をよく見るがいい。昔のりっぱな人もよく見たことだよ。

                                                                                            • -

 歌が詠まれた場所は現在の奈良県吉野町宮滝のあたりにあった吉野宮。
 このとき天武天皇は自分の子や甥である6人の皇子たちを集め、みなが結束する事を盟約させた。
   ・   ・   ・   
 2026年7月28日 大阪と京都の神社とその神社に祀られている神様のご利益を解説するブログ「神様について記述されている書物の中には「現人神(あらひとがみ)」について記されているものもあります。
 この現人神とはどういう意味なのでしょうか?
 その意味について、日本書紀・万葉集などで記されている例から紹介します。
 目次
 現人神とは?
 「日本書紀」に記載されている現人神①:日本武尊(ヤマトタケル)と景行天皇
 「日本書紀」に記載されている現人神②:雄略天皇と一言主神
 「万葉集」に記載されている現人神:柿本人麻呂の和歌
 明治維新以後、天皇の神格化により、戦争のシンボルとして使われる
 現人神とは?
 現人神(あらひとがみ)とは、「人間の姿で現れた神様」のことを言います。
 別名、現御神、現神、現つ御神、現つ神、明神とも言います(別名の読み方はあきつみかみ・あきつかみ)。
 現人神は日本書紀や万葉集などの古くからある書物に実際に記載されています。
 以下に「日本書紀」の例を2件、「万葉集」から例を1件記載していますが、このような内容から見て「神様が人として姿を現したもの」と考えられています。
 「日本書紀」に記載されている現人神①:日本武尊(ヤマトタケル)と景行天皇
ヤマトタケル(日本武尊/倭建命)
▲大鳥大社の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)像
 日本書紀ではヤマトタケル(日本武尊/倭建命)の言葉として「吾は是現人神の子なり(吾是現人神之子也)」と載っています(景行天皇紀)。
 ※日本武尊(ヤマトタケルノミコト)=倭健命
 この言葉をわかりやすく言い直すと「私は神様の子供だ」と語っています。
 参考:竹水門はどこだ!(1)JapanKnowledge
 参考:「日本書紀」(日本古典文学大系67・岩波書店)のヤマトタケル「竹水門」
 では日本武尊の親と言えば、第12代天皇・景行(けいこう)天皇になるので、ここでの現人神とは父の「景行天皇」のことを指しています。
 「日本書紀」に記載されている現人神②:雄略天皇と一言主神
 もう一つ日本書紀に現人神について記載されています。
 第21代天皇・雄略天皇は、葛城山にでかけた時に自分と全く同じ姿の人(一言主神)と出会います。
 自分と瓜二つの人(神様)が「現人之神なり、葛城之一言主之大神(ひとことぬしのかみ)」と語っています(雄略天皇紀)
 雄略天皇は「畏れ多いことです。神様とは気づきませんでしたと言い、刀や弓矢、衣服を献上しました。
 参考:日本書紀巻第十四「雄略天皇紀」、雄略天皇(JapanKnowledge)
 ※一言主神(一事主神)はオオクニヌシの子供「八重事代主命(ヤエコトシロヌシノカミ)」と同一神とされています。
 「万葉集」に記載されている現人神:柿本人麻呂の和歌
 万葉集の第三(0235)に柿本人麻呂が和歌を詠んでいます
 「大君は 神にしませば 天雲の 雷(いかづち)の上に 廬(いほ)りせるかも」
 この和歌は「大君は神でいらっしゃるので、雷の上に仮宮をお造りになっていらっしゃる」という意味です。
 ここでの大君とは天武天皇だと考えられています。小さな丘「雷丘」のことを「天雲の 雷(いかづち)」と表現しています。
 万葉集にはこのような和歌がたくさんあります。
 明治維新以後、天皇の神格化により、戦争のシンボルとして使われる
 昭和天皇と日本国旗
 「大日本帝国憲法」第1章第3条に「天皇は神聖にして侵すべからず」と記されており、天皇を中心とした国家体制に移ります。
 これが切っ掛けに天皇の神格化が進み、第二次世界大戦(太平洋戦争)へと突き進んでいくことになります。
 第二次世界大戦後は、天皇は「人間宣言」をし、架空のものであると話されたことから、現人神という表現は戦後なくなりました。
 神格化とは?その意味や人物など実例を紹介。①豊臣秀吉や徳川家康、②昭和天皇は現人神に、③乃木希典、広瀬武夫、東郷平八郎など太平洋戦争で軍神として神格化された人物が多い。
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 ウィキペディア
 現人神(あらひとがみ、旧字体: 現人神󠄀)は、「この世に人間の姿で現れた神」を意味する言葉。現御神、現つ御神、現神、現つ神、明神とも言う(読みは全て「あきつみかみ」又は「あきつかみ」のどちらかである。)。荒人神とも書く。 「人間でありながら、同時に神である」という語義でも用い、主に第二次世界大戦終結まで天皇を指す語として用いられた。後述する「人間宣言」では「現御神」の語を使用している。また、江戸時代末期まで存在した諏訪大社上社大祝も諏訪大明神の依代である現人神と見なされ、後継者が神の位を継ぐ事も天皇と同等に「職位」あるいは「即位」と称された。なお、人間ではなくても住吉の神や北野の神(天満大自在天神)など霊威をよく顕すとされる神もこう呼ばれた。
 日本古来の神概念については神 (神道)を参照のこと。
 天皇
 その起源は古く、日本書紀の景行紀において日本武尊が蝦夷の王に対して、「吾は是、現人神の子なり」とのたまうとあり、万葉集にも天皇を現つ神として歌い奉る物は数多く存在する。柿本人麻呂は「大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも」、「やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす…」と歌い、田辺福麻呂は「現つ神 我が大君の 天の下 八島の内に…」、山部赤人は「やすみしし 我が大君の 神ながら 高知らせる 印南野の…」、石上乙麻呂が土佐国に流罪となった際に家族は「大君の 命畏み さし並ぶ 国に出でます はしきやし 我が背の君を かけまくも ゆゆし畏し 住吉の 現人神 船舳に…」と歌っている。
 その成立にあたって王政復古の形式をとった明治新政府は、大日本帝国憲法第3条において「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と定めるように、神格化された天皇を国民統合の精神的中核とする国家体制を形成した。一方で、国体明徴運動の時期においても、国産み神話なども含む記紀と地質学などとの齟齬に関しての大きな政治問題は発生しておらず、現人神概念は実証主義と切り離された観念論的な概念として扱われていた。この点は欧米におけるキリスト教根本主義の状況と対照的である。
 →「国家神道」および「国体」も参照
 第二次世界大戦敗戦後、天皇の「人間宣言」によって、公の場で「現人神」と言う呼称を用いられる事は無くなったが、現人神であることは否定していない。
 右翼・保守派、宗教者の一部は、現在でも天皇を「現人神」として神聖視している者もいる。
 →詳細は「人間宣言 § 一般的解釈に対する疑義」を参照
   ・   ・   ・   

🏹18〕─2─なぜ北条時宗はフビライを無視した為に元寇を招いた。~No.54No.55No56 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 鎌倉幕府は、宋から渡来した数多くの禅僧から元・モンゴルの情報を得ていた。
   ・   ・   ・   
 2026年9月8日 YAHOO!JAPANニュース WEB歴史街道「なぜ北条時宗はフビライを無視した?元寇を招いた若き執権の無知
 歴史作家の河合敦氏が著書『日本史人物 死ぬほど痛いかすり傷』にて、元寇を引き起こした北条時宗の手痛いミスについて解説
 元軍の侵攻を跳ね返した英雄として知られる鎌倉幕府の8代執権・北条時宗。しかし、そもそも「元寇」を引き起こした要因は、当時18歳だった時宗や幕府が、世界情勢に対しあまりにも無知だったことにありました。結果的に「鎌倉幕府滅亡の遠因」となった重大事件の真相に迫ります。
 【写真】フビライの肖像画
 ※本稿は、河合敦著『日本史人物 死ぬほど痛いかすり傷』(三笠書房)より一部抜粋・編集したものです。
 フビライの国書に書かれていたものは
 突然、高麗(朝鮮の国家)の使者が、文永4年(1267)11月に博多にやってきた。彼らは、モンゴル帝国(元)の皇帝・フビライの国書を携えていた。当時、高麗は元の属国で、フビライから厳命を受けて来日したのである。
 翌年正月、鎮西奉行(鎌倉幕府の九州の統率機関)の少弐資能(しょうにすけよし)は、大宰府で高麗の使者たちと対面し、国書を受け取って鎌倉幕府へ届けた。
 幕府は、それを京都の朝廷に送達した。当時、外交は朝廷が担っていたらしい。これを受け取って貴族たちは閉口した。まずは国書の内容から、相手の意図を探らなくてはならない。フビライの国書には、こんなことが書かれていた。
 「元の属国である高麗と隣接する日本は、昔から中国に使いを遣わしてきた。しかし、私の時代になってから一度も音沙汰がない。きっと元という国家を知らないのだと思い、私は使いを派遣した。ぜひ今後は互いに訪問し合い、親睦を深めよう」
 要するに、修好を求める内容だった。ただし、問題だったのがその文末だ。「兵を用ふるに至るは、夫(そ)れ孰(いず)れか好む所ならん。王其れを図れ」と認められていたのである。
 現代語にすると「私は兵力を用いたくはない。どうかそのことをよく考えてくれ」という意味だ。交際しないなら武力で服属させるぞ、という脅しにも取れる。
 貴族たちが、どのような議論をしたかは不明だが、最終的には無礼なので返事をしないことに決めた。使者は5カ月も大宰府で待たされた挙句、追い返された。
 当初は日本を侵略する意図はなかった
 ところが、翌文永6年(1269)にも、高麗の使いがやってきた。今度はさすがに、礼儀として返事を出さないとまずいだろうと考えた朝廷は、元に対する返書を作成した。そこには、次のように書かれていた。
 「天照大神が、天皇家の血統を輝かしてから、今の天皇に継承されるまで、天皇の徳のおよぶところは、いずれも属さないことはなく、祖霊・神霊、絶対の盟約、百王の鎮護がはなはだ整っていて、四周の夷狄(いてき)の統治も乱れることはない。そのため皇土をもって、長い間にわたって神国と名づけている」(千田稔著『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』中公新書)
 このように、日本はアマテラスが守る神国であり、その血統を有する天皇がいることを誇り、国交を拒否したのである。だが、朝廷が返書を送ると知った鎌倉幕府が、これを差しとめた。やはり最終的な外交権は、幕府が握っていたことがわかる。
 しかし、懲りずにフビライは、文永8年(1271)にも高麗の使いを送ってきた。元の国書には、「これまで何度も使者を送ったのに返事がない。同年11月になっても返書をよこさないなら、兵船を送る」と書かれてあった。
 驚いた朝廷や幕府は、各寺社に怨敵退散の祈祷を命じるとともに、各国の武士たちにも警戒をするよう通達した。元は強大な国家である。モンゴル平原を制したチンギス・ハンがモンゴル帝国を築き、西夏、西遼、ホラズム・シャー帝国、金を滅ぼして、その子供の代にユーラシア大陸にまたがる広大な領土を征服し、孫フビライの時代に北京に首都を移して、南宋(中国)への侵略を始めた。
 フビライが日本に遣いを送ったのは、そんな南宋と親しくしている日本を引き離し、南宋の経済力などを削いでしまおうと考えたからだ。
 この時点で、日本を征服する意図はなかったという。なのに、度重なる使節を鎌倉幕府が黙殺したことから、ついにフビライは、日本の征伐を決めたのである。
 国際情勢をまったくわかっていなかった
 それにしてもなぜ幕府は、こんな強大な国家からの国交要求を黙殺し続けたのだろうか。南宋に対する配慮なのか、それとも無礼な国書に対し、戦争覚悟で毅然とした態度を見せたのか。
 じつは、そうではなく、単に無知だったのである。
 1259年に高麗は元に服属したが、高麗の精鋭部隊である三別抄が珍島や済州島を拠点に長年元に抵抗し続けていた。1271年には、日本に援軍を求める使者を派遣している。だが、当時の幕府や朝廷は、隣国であったにもかかわらず、全く半島の情勢を知らず、三別抄の意図を理解できなかったことがわかっている。
 幕府の最大実力者は、執権の北条時宗だった。初めて元の国書がもたらされた文永5年(1268)に執権となったが、このときまだ18歳。この若き執権を指導者とする鎌倉幕府が、世界情勢に無知ゆえに元との通交を拒絶し続けたのである。
 こうした外交音痴については、研究者の新井孝重氏も「この時代の為政者はまったく国際情勢にうとく、また諸国間の接触経験については、なきに均しい状態であった。いわば無知と外交の未経験が国書を前にして、かれらを硬直させてしまったのである。なにしろ、これまでの外交の経験がないのであるから、仕方のないことであるが、外交上の技術にも暗かった」(『戦争の日本史7 蒙古襲来』吉川弘文館)と述べており、これが学界の定説になっている。
 もし当時、現在のような世界地図があって、時宗ら幕府の要人たちに日本と元の国土の大きさの違いを提示したら、さすがに馬鹿ではなかろうから、巨大帝国である元からの使者を無視することはしなかったろう。
 素直に国交に応じていれば、フビライもあえて危険を冒して2度も大軍を派遣することもなかったはず。遣唐使のように、定期的に日本が朝貢すれば満足したはず。
 ただ、一説によれば、時宗らは意図的に情報を操作されたともいわれる。
 鎌倉時代に栄西が宋から臨済禅をもたらすと、北条政子など幕府の要人の保護により、臨済禅は大いに繁栄し、宋からも続々と外国僧が鎌倉に入ってきた。
 こうした禅僧たちを、幕府はブレーンとして重用した。ゆえに、元に侵略されつつある祖国のため、宋の僧侶たちが怪しい情報を流し、日本を元と対立させようとした可能性も考えられているのである。
 元寇が幕府滅亡の遠因に
 つれない日本に対し、激怒したフビライは文永11年(1274)、3万を超える大軍を渡海させた。元軍はモンゴル人と高麗人の混合軍だったが、対馬、壱岐(いずれも長崎県)の人びとを虐殺しながら突然、博多(福岡市)に上陸してきた。
 ある程度、準備を整えていたものの、元軍の戦闘能力など一切知らない御家人たちは、ひどい苦戦を強いられた。そもそも戦いのルールが全く違うのだ。
 周知のように日本の武士は、一対一の騎馬戦が基本形だった。武士たちは敵陣に近づき、よき敵を見つけると、相手に名乗りを上げて近づいていく。
 しかし、元の兵士たちは、その武士を取り囲んで馬から引きずり降ろして殺したり、集団で矢を射かけたりした。しかも、元軍の矢には毒が塗ってあり、皮膚が傷ついただけで毒が回って戦えなくなった。それだけではない。陶器に火薬を詰めて爆発させる「てつはう」が武士や馬を驚かせた。当時の日本には火薬がなかったからだ。
 さらに銅鑼(どら)の音、これも人馬を仰天させた。結局、ほとんど戦いにならず、日本軍は博多湾から大宰府へと撤退することになった。
 元軍も夜は船へと戻っていったが、翌朝、そのまま姿を消した。この撤退については諸説あるが、日本側は命拾いしたわけだ。これを文永の役と呼ぶ。
 翌年、再びフビライは使者として杜世忠(とせいちゅう)らを送り、鎌倉幕府に服属を要求した。だが時宗は、杜世忠らを鎌倉に連行し、ことごとく処刑した。断固抗戦する姿勢を明らかにしたわけだ。その後もフビライは使者を送ったが、皆殺しにしている。
 1279年、フビライはついに南宋を滅ぼし、2年後の弘安4年(1281)、準備を整えたうえで再び博多へ大軍を送った。弘安の役である。しかも今度は14万人という想像を絶する数だった。朝鮮半島からは、高麗軍を中核とする東路軍3万。寧波(中国東部)からは、旧南宋軍を従えた江南軍10万が押し寄せてきた。
 ただ、このときは相手の戦法を研究していた幕府軍が善戦し、上陸を阻止しているうち大型台風が襲来、元軍は壊滅的な打撃をこうむって退却していった。
 「なんだ。結局、元に侵略されなかったから、使者を無視してよかったじゃないか」
そう思うのは誤りだ。この元寇が、鎌倉幕府滅亡の遠因となったからである。
 元寇では、警備や戦の費用は全部自分持ちで、死傷した御家人も少なくなかった。
なのに、外国軍が侵攻してきたのを防戦しただけなので、幕府から新たな土地など十分な恩賞が与えられることはなかった。そのうえ、3度目の元軍襲来にそなえ、御家人たちは交替で博多周辺など北九州沿岸の防備にあたらせられた。
 一方、北条氏は、有事を利用して権力を強め、多くの守護職や幕府の要職などを独占するようになった。このため御家人たちの幕府に対する忠誠心が薄れ、結果として鎌倉幕府滅亡の遠因となったのである。
 河合敦(歴史作家)
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 2月17日 YAHOO!JAPANニュース WEB歴史街道「鎌倉幕府を滅ぼした「モンゴル帝国の貨幣経済」 宋銭の流入による社会の変動
 出口治明(立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授)
 鎌倉幕府が北条氏を中心に体制を固めていた13世紀、大陸ではモンゴル帝国が急成長していた。その頂点に立ったのが、チンギス・カンの孫、クビライだ。
 クビライは、中国全土を支配下に収めた後、征服によって生じた官僚や軍人をどう処遇するかという難題に直面する。その対応として進められた政策は、日本にも思わぬ影響を与えていく。本稿では、出口治明氏の著書『一気読み日本史』より、鎌倉幕府を滅亡させた真因について解説する。
 ※本稿は、出口治明著『一気読み日本史』(日経BP)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
 モンゴル帝国のクビライが官僚と軍人の失業対策に着手
 鎌倉幕府の初代執権となった北条時政と2代目の北条義時の親子が力をつけていたころ、大陸では、日本はおろか世界を揺るがす大きな動きが起こっていました。モンゴル帝国の登場です。
 1206年、モンゴルの部族長のテムジンが、クリルタイという部族集団の会議で、皇帝に推され、チンギス・カンとなりました。それからわずか20年あまりで、中国北部から今のウズベキスタンのあたりまで広がる大帝国を築きます。1227年にチンギス・カンが没した後、いろいろあった末に、中国周辺を支配することになったのが、その孫の一人のクビライでした。
 クビライは、今の北京に大都を建設し、1271年、国号を大元ウルスと改めます。大都は内陸でありながら港があり、運河で外港の天津と結ばれていました。海上交通を強く意識してつくられた都でした。
 そのころの中国は、南北に分かれていましたが、1276年、南宋の首都が無血開城され、モンゴル軍の手に落ちます。南宋は滅びました。
 その後の処理にクビライの政治力が光ります。
 南宋の官僚や軍人は残りましたが、放っておけば、反乱の火種となります。そこで、クビライは大出版事業を始め、南宋の官僚たちに仕事を与えます。しかし、反乱の火種としてより厄介なのが軍人で、こちらにも仕事を与えて、反乱を起こせないようにしなくてはなりません。そこで、周辺諸国と戦争を始めます。日本を攻めたのも、その一環と考えられます。
 しかし、不思議なことに、戦争をしている間も、モンゴル帝国と日本の間の貿易量は、むしろ増えていたという話があります。
 どういうことでしょうか。
 クビライの「銀の大循環」政策で、日本にベンチャー起業家が登場
 クビライは「銀の大循環」という経済政策を実施しました。中国の大帝国には、昔から周辺諸国が朝貢に訪れます。朝貢に来た使節に、クビライは銀錠という銀の塊を与えました。銀は、当時の世界通貨です。銀錠をもらった人は、それをイスラム商人に貸して、利息を得ます。借りたイスラム商人はというと、お茶や絹、陶磁器など、中国の特産品を買いつけ、それを銀で決済します。結局のところ、銀は中国に還流するわけです。その銀で、中国の人々は税金を支払い、クビライがまた朝貢した人に銀錠を与える。これが、銀の大循環です。
 その結果、銅でできていた宋銭が大量に余ります。それが周辺諸国に輸出されるようになりました。日本で最初に宋銭を輸入する大英断を下したのは平清盛でしたが、宋が滅んで、ますます大量に流入するようになりました。そして、日本でも貨幣経済が始まります。
 当時の日本は、土地本位制でした。それは、キャッシュがなくても、経済が回るということです。
 しかし、宋銭による貨幣経済が始まると、貨幣を使った商売で一旗揚げようという人たちが出てきます。ベンチャー起業家のような人たちが、金融業や製造業、流通業などを立ち上げます。金融業を営んだのが土倉、酒を製造したのが酒屋、流通業や倉庫業を手掛けたのが問丸です。こうした鎌倉時代の起業家たちは、悪党などと呼ばれました。ライブドア事件ではありませんが、ベンチャー起業家は、今も昔も怪しい目で見られがちです。
 このような銀の大循環から始まる社会の変動が、やがて鎌倉幕府を滅ぼすこととなりました。
 交易を求める使者をスパイと誤解して殺した?
 海上交通と経済政策を重視したモンゴル帝国は、日本に国書を届けにきます。「おい、つきあおうぜ」と。中国では鉄砲が普及しつつあった時代です。火薬の材料となる硫黄が日本にあったので、興味を持ったのでしょう。
 当時の鎌倉幕府は、警察権と軍事権は持つものの、政治や外交は朝廷に任せるスタンスでした。しかし、朝廷にしてみれば、承久の乱で幕府にボコボコにされてから、まだ間もないころです。国防にも関わるので「幕府のご意見は?」と、伺いを立てます。幕府はといえば、御家人の支配にしか興味がなく、「そんなもん、ほっといたらええ」といった感じです。幕府にしてみれば、そもそも管轄が違うと、深く考えなかったのでしょう。
 モンゴル帝国は、日本へ攻めこむまでに、実に6回も使節を派遣し、国書を届けようとしています。けれど、返事は一度ももらえませんでした。
 その間に、朝鮮半島から、日本宛てに「モンゴルはやがて日本に攻めこむから、連帯して戦おう」という手紙が届きます。さすがに幕府も、まずい空気を感じたのか、御家人に輪番で西国を警護させる制度をつくります。そして1274年、いよいよモンゴル軍が襲来しました。文永の役です。このときは小手調べだったのでしょう。モンゴル軍は、わりとすぐに帰っていきましたが、幕府は今度こそ仰天して、防塁を沿岸に築きます。
 最初の襲来の半年後、クビライは7回目の使節を送り、8回目の使節も送ります。これだけ使節を送ったということは、やはり交易がしたかったのだと思います。しかし、幕府は、使節の首を斬ります。おそらく「お前ら、攻めてきたばかりやないか!スパイやろ」ということでしょう。
 それで1281年、モンゴル軍が、再度、襲来します。弘安の役です。このとき、モンゴル軍は暴風雨に見舞われました。しかし、それだけで撤退したわけではなく、暴風雨で混乱したところに日本軍の猛攻撃を受け、撤退したというのが、正しいようです。「神風」は、やはり神話でした。
 モンゴル軍の襲来は鎌倉幕府の力をむしろ強めた
 モンゴル軍の襲来で、鎌倉幕府が弱体化したと考えるのは間違いです。むしろ、これを機に、幕府の力は強まりました。
 モンゴル軍の襲来は大きな危機で、幕府は、戦闘や防塁の構築に、御家人でない人たちまで動員しました。武士は武士でも、王家や有力貴族、寺社の荘園の武士たちで、非御家人とも呼びます。これらの武士たちを幕府が動員するのは、武家権門が、公家権門や寺家権門に挑戦することになります。ときの8代執権、北条時宗にとっては勇気の要る決断でした。
 さらに寺社に対しては、異国降伏の祈祷も命じています。このような、いわば戒厳令をへて、幕府は、御家人の政権から、全国政権に成長します。武家権門が、ほかの2つの権門より抜きん出たわけです。
 鎌倉幕府が衰退した一番の理由はマネー経済の襲来
 鎌倉幕府の力をむしろ強めました。しかし、鎌倉幕府は衰退に向かいます。なぜでしょうか。
 いろんな理由がありますが、一番の理由はやっぱりモンゴル帝国にあったと思います。銀の大循環の余波です。モンゴル帝国から襲来したマネー経済(貨幣経済)が幕府の力を弱めました。
 最初のモンゴル襲来から遡ること7年前の1267年、幕府が初めて、所領売買の禁止令を出しています。荘園公領制のこの時代、幕府は領地を保証することで、御家人を支配し、農民も支配していました。土地本位制です。
 ところが、御家人がついつい自分の土地を売ってしまうので、禁止令を出したわけです。この後、幕府は何度も、土地売買の禁止令を出します。
 御家人が土地を売ってしまうのにも、いろいろな理由がありました。例えば、この時代の相続が分割相続だったのも理由の一つです。子どもが多いと相続のたびに土地が小さくなり、それが困窮を招きました。
 しかし、一番の原因は、中国から宋銭がどんどん入ってきて、貨幣経済が始まったことだと思います。土地ではなく、貨幣ベースの世界を生きるベンチャー起業家のような人たちが登場してきて、悪党と呼ばれたのでしたね。新しく力をつけてきた、この人たちを、幕府はうまく統治できません。なぜなら、土地本位制だからです。
 1297年、幕府は、永仁の徳政令を出します。要するに「これまでの土地の取引はチャラにするで」という宣言です。土地を売ったり、質に入れたりして、土地を失った御家人たちを救おうとしたのです。しかし、マネー経済に突き進む奔流は止められません。時代の奔流に抗うように、土地本位制にしがみついてしまったことが、鎌倉幕府滅亡の一番の原因だと思います。
 プロフィール
 出口治明(でぐち・はるあき)
 立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授
 1948年、三重県生まれ。京都大学法学部卒業後、72年、日本生命保険相互会社に入社。企画部や財務企画部にて経営企画を担当したのち、大蔵省を担当して金融制度改革に取り組む。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て06年に退職。同年、ライフネット企画〔株〕を設立し、代表取締役社長に就任。08年、免許取得に伴いライフネット生命保険〔株〕に社名を変更。13年、代表取締役会長。17年に代表取締役を退き、18年1月、立命館アジア太平洋大学(APU)学長に就任(ー2023年12月)。
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🏹20〕─5─残虐な元軍はモンゴル人ではなく高麗人(朝鮮人)と中国人であった。~No.66 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本人の朝鮮人に対する偏見と差別には理由があった。
 朝鮮人は、自分の非を認めず、日本の非のみを平常心を捨てて半狂乱となって騒ぎ立てる。
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 2026年9月10日6:12 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「「元軍」にモンゴル人はほとんどいなかった? 今村翔吾が元寇を調べて驚いた“意外な実像”
 元寇と聞いて、「神風が吹いて日本が助かった」という印象を持つ人は多いだろう。
  『海を破る者』 を書いた今村翔吾さんが調べてみると、その前から激しい外交戦があり、鎌倉武士たちは想像以上に奮闘していたという。(全3回の第1回)
 ◆◆◆
 「日本最古の国難」のわりに、知られていない
 今村翔吾さん(左)
――元寇を題材にしようと思ったきっかけを教えてください。
 今村 まず大前提として、日本が外国に攻め込まれた戦いというのは、そもそもほとんどないじゃないですか。この規模でいうと、元寇の次は太平洋戦争まで飛ぶ。
 そう考えると、日本最古の国難のわりに、「神風が吹いてちゃんちゃん」みたいなイメージで終わっている。どういうものなんだろうと調べていく中で、面白い人物を見つけたんです。
 それが主人公の河野六郎通有で、彼から物語がバッと広がった感じですね。
――河野六郎通有とは、どんな人物だったのでしょう。
 今村 すごく簡単に言うと、源氏・北条に次ぐ家といわれるくらいの名門に生まれながら、少し前の承久の乱で一族の大半が朝廷側についてしまったせいで、一気に没落している。
 さらに没落しているところに、一族が揉め始める。「貧すれば鈍する」じゃないけど、やっぱり揉めるんですよね。
 その最中に生まれたのが六郎という、言うたら最悪の状況の名家の子です。
――しかも家族間の争いも、かなり激しいですね。
 今村 そうなんですよ。六郎のお父さんとお兄ちゃんが揉めていて、史料によると女性をめぐって揉めたということが書かれている。
 しかも、そこにお父さんとおじさんとおじいちゃん、六郎の身内3人が1人の女性をめぐってなんかごちゃごちゃしている。
 最初に見たとき、「ほんとうに昼ドラみたいな家族やな」という印象を受けましたね。
 鎌倉武士は「相当奮闘していた」
――「神風が吹いて勝った」というイメージとは、実際の元寇はどう違うのでしょうか。
 今村 これは最近でも知られてきていることですが、鎌倉武士が相当奮闘していたということがあります。世界レベルで見ても、かなり上位の奮闘ぶりを見せていた。
 さらにもう一歩進めると、元が突然来た、というわけでは全くなくて、その前から元と外交戦を何回か繰り返しているんです。
 日本からはスパイとしてお坊さんを送り込んだり、向こうも何かしらのスパイを入れたりとか。そのときの日本の外交の対応が、超強硬姿勢だったというのが、元からしたら結構驚きだったようで。これは後で読んで、僕もびっくりしましたね。
――どんな強硬姿勢だったのでしょう。
 今村 当時の中世だからというのはありますが、使者が来たら問答無用で殺して追い返すという、現代だったらあり得ないような対応をしている。
 一方で、朝鮮が攻められているときに援軍要請されても日本は無視している。
 ほんとうの鎖国主義みたいなことをしていて、江戸時代以上に鎖国しているようなイメージですね。
 島国は侵攻されたときの「アレルギー反応がえぐい」
――そんな日本が、世界の覇権を握っていたモンゴルに対して、あれほど戦えたのはなぜだと思いますか。
 今村 やっぱり島国って、侵攻されたときのアレルギー度合いがちょっと強いんじゃないかなと思うんですよね。
 大陸の国はもともと国境がつながっているから、往来も交易もあって文化の行き来もある。
 でも島国は、敵から攻撃を受けたときのアレルギー反応がえぐい。イギリスもそうで、ドイツに空襲を受けたときの抵抗が凄まじいでしょう。
 本土防衛になると、いきなり本気度合いがバッと上がる。
 それは武士だけじゃなくて、国民も含めてそうで、作中でも農民のような人たちが炊き出しをして戦場を支えています。
 「元軍」にモンゴル人はほとんどいなかった
――「元軍」と一口に言いますが、実はモンゴル人がほとんどいないというのも驚きでした。
 今村 おかしな話ですが、元軍の中にモンゴル人は多分100人ぐらいしかいなくて。指揮官の何人かと下士官だけがモンゴル人で、あとは今で言う中国人と韓国人、上海あたりの江南地域の人と高麗の人が主体です。
 迎え打つのは日本人がいて、「何のために戦っているんやろ」って、互いにふっと我に返る瞬間があるはずだなとも思いましたね。
 ※本記事は「文藝春秋PLUS」で配信した今村翔吾さんのインタビューを、文庫刊行にあわせて再構成したものです。
「異国の人とは分かり合えるのに、なぜ兄弟とは分かり合えないのか」今村翔吾が描いた“人間の不思議” へ続く
 今村 翔吾/文春文庫
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 9月10日6:12 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「「異国の人とは分かり合えるのに、なぜ兄弟とは分かり合えないのか」今村翔吾が描いた“人間の不思議”
 〈「元軍」にモンゴル人はほとんどいなかった? 今村翔吾が元寇を調べて驚いた“意外な実像”〉 から続く
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 見た目も言葉も違う相手とは、少しずつ分かり合える。なのに、同じ血を引く家族とは分かり合えない。
 今村翔吾さんは、その人間の不思議を 『海を破る者』 に描いた。(全3回の第2回)
 ◆◆◆
 なぜ元寇の物語に「ウクライナの少女」が登場するのか
 「異国の人とは分かり合えるのに、なぜ兄弟とは分かり合えないのか」今村翔吾が描いた“人間の不思議”
――主人公の脇に、今でいうウクライナ出身の少女・令那と、高麗出身の青年・繁が登場しますね。なぜこの組み合わせだったのでしょうか。
 今村 一つは、元寇がいかに世界規模の出来事だったかを伝えたかったからです。
 モンゴル帝国は一番東側の日本から、一番西側はポーランドまで攻め込んでいる。統治していた一番西の国は今の東欧やウクライナ地域なので、一番東と一番西の地域にまたがっている世界的な出来事だということをまず知っていただきたかった。
 だから東と西で土地を追われた人がいる、戦った人がいるということです。
――現在のウクライナ情勢を受けて考えた設定ではないんですよね。
 今村 この物語の基礎を文藝春秋に最初に見せたのが2016年頃で、ウクライナ侵攻よりはるか前なんです。
 もっと言えばクリミア半島の併合ぐらいの頃から、このウクライナを舞台に書いていた。
 連載中にキエフからキーウに表記が変わったりとか、タイムリーすぎて正直、複雑な気持ちになりましたね。
 「なんで兄弟とは、こんなに分かり合えないんだろう」
――六郎が、見た目も言葉も違う令那や繁と心を通わせていく過程が、この小説の肝だと感じました。
 今村 六郎は愛媛県の人たちから「変人奇人」と思われている人物なんですが、あの昼ドラみたいな家に生まれたからこそ、子どものころから「人って何なんだろう」をすごく考えるような子だった。
 だからこそ、逆に見た目や言葉の違いはすんなり受け入れられた。
 一方で、見た目が違って言葉もなかなか通じないものとでも、ちょっとずつ分かり合っていけるのに、「なんで兄弟とかおじさんと、こんなに俺たちは分かり合えないんだろう」となる。
 この対比が、この物語の一つのポイントですね。
 ただの元寇小説じゃなくて、家族とか人のつながり、愛や人種、いろんなテーマをここに込めたつもりでいます。
 「どこからが差別で、どこからが区別なのか」
――今村さんは、ストーリーとテーマではどちらが先に生まれるのでしょう。
 今村 テーマが先ですね。
 これに関しては、人種差別とか区別とかいったことへの問いかけが根底にある。
 最近は外国人の方も多い中で、差別・区別についていろいろ言われるけれど、じゃあどこからどこが差別で、どこからが区別かということを明言できる人って絶対いないし、できるはずもない。
 人の数だけあるから。
 差別につながる区別は良くないとも思うし、でも文化の違いで分かり合えないところもある。
 答えを出すというよりは、読者にも一回立ち止まって考えてほしいという願いと祈りを込めたつもりです。
――では、この作品の一番核にあるテーマを言葉にすると?
 今村 ただ、ほんとうの核にあるテーマというのは、言葉にいまだにできないんですよ。
 一文字で言えないから、一冊で伝えるしかなかったという答えかもしれないですね。
 編集者と話したのは「どうすれば面白くなるか」ではなかった
――この作品を書くにあたって、担当編集者とはどのような対話をされていましたか。
 今村 どっちかというと、物語をどうすれば面白くなるかというより、「令那はこのとき六郎に対してどう思っているんですか」とか、人間に対してのディスカッションが多かった気がします。
 人物の感情を掘り下げる対話が中心だったんです。そういう意味では助けてもらったなと思っています。
 ※本記事は「文藝春秋PLUS」で配信した今村翔吾さんのインタビューを、文庫刊行にあわせて再構成したものです。
 「十何万人が同時に夢から覚めたら、戦はやめられるはずなのに」今村翔吾が考える“戦うという病原へのワクチン” へ続く
 今村 翔吾/文春文庫
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 9月10日6:12 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「「十何万人が同時に夢から覚めたら、戦はやめられるはずなのに」今村翔吾が考える“戦うという病原へのワクチン”
 〈「異国の人とは分かり合えるのに、なぜ兄弟とは分かり合えないのか」今村翔吾が描いた“人間の不思議”〉 から続く
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 十何万人が同時に「何のために戦っているのか」と気づけば、戦争は終わるはずだ。
 それでも人は戦い続ける。今村翔吾さんは、その理由を小説の中で考えてきたという。(全3回の最終回)
 ◆◆◆
 元寇で「日本人」であることを知ってしまった
 「十何万人が同時に夢から覚めたら、戦はやめられるはずなのに」今村翔吾が考える“戦うという病原へのワクチン”
――元寇以前の鎌倉時代の人たちは、「外国」をどう見ていたのでしょうか。
 今村 今の県民性が、もっともっと色濃い時代だったと思います。
 四国の愛媛の人は高知の人とは一緒にやりたくない、讃岐の人は計算高くて苦手、みたいな。
 それが四国が近畿と戦うときは「オール四国」になるように、初めて海外という敵を見たときに、「日の本、日本という国があるんだ」と認識したんだと思う。
 それまで彼らは愛媛県人だったんですよ。
 幕府というのも、今で言えば国連みたいな、ちょっと遠い存在くらいだったんじゃないかな。
 それがこの元寇を経て、日本という単位で考えられるようになっていった。
 元寇で日本人であることを知ってしまった――良いも悪いも、それがここから始まったんじゃないでしょうか。
 十何万人が同時に夢から覚めたら、戦はやめられる
――「何のために戦うのか」という問いが、この作品のもう一つの核心にあると感じました。
 今村 元軍を見ていると、十何万人がみんな会ったこともないチンギス・ハンのために戦っているわけじゃないですか。
 その十何万人がハッと同時に夢から覚めたら、戦はやめられるはずなのに、それが難しい。
 僕は、人は「戦う」という概念を知ってしまったから、もう止まれないと思っているんです。
 戦うという文字があって、戦うという概念が生まれた瞬間に、中毒性のある何かになってしまっている。
 「戦うという病原に対するワクチンは何なんだろう」
――収録したのは、終戦の日の翌日でした。
 今村 この8月、「なぜ人は争うのか」と毎年同じことを言い続けているじゃないですか。
 戦争を根絶することはもうできないかもしれない。
 でも、1%、0.1%と少なくしていくことはできるはずだと思っていて。
 その「戦うという病原に対するワクチンは何なんだろう」ということを、常に小説の中で考え続けています。
 14代前の先祖に恥をかかせない
――鎌倉時代の人たちと現代人で、一番大きく違うと感じたことは何でしょう。
 今村 「家」という感覚じゃないかな。
 手柄が欲しいとか承認欲求とかいろいろ言いましたけど、家に恥をかかせないという概念が結構あったと思う。
 作中の少弐家なんてもう、自分たちが最前線の指揮官もやれば乗り込んでいって、70歳を超えるようなおじいさんまで上陸して戦って、少弐の一族が死にまくっても島を奪還しようとする。
 「少弐の力を見せろ」という感覚というのは、現代人にはなかなかないですよね。
 第二次世界大戦でもまだ若干分かる感覚かもしれないけれど、この鎌倉時代の人たちは14代前ぐらいの先祖に恥をかかせないくらいの気合で戦っているわけで、この概念は現代人には難しい。
――今村さん自身が「家」という感覚を感じた瞬間はありましたか。
 今村 最近、自分の先祖伝来の土地を去って、墓じまいなどをしたときに、なんかふっと思うものがあったんですよね。
 ずっとこの地に今村の家があって、大した家でもないけれど、仏壇を畳んだりしたときに「家」という概念がちょっと頭をよぎった。
 会ったこともない先祖に、あまり恥ずかしくないように頑張ろうぐらいのことは思っていたから――これも日本人を探る上での一つのポイントかもしれないと思いましたね。
 「日本人の真の美しさってグレーのところにある」
――今村さんの作品には、白黒つけずに「グレー」を描くという姿勢が一貫しているように感じます。
 今村 グレーってなんか汚いもの、中途半端、どっちつかず、みたいなイメージを持つ人も多いと思うんですけど、日本人の真の美しさってグレーのところにあるような気がするんですよ。
 美しさというか、日本人の強さや美しさ――ある意味それは弱さかもしれないけれど――やっぱりこの中間色のところにもっともっと目を向けていきたい。
 池波正太郎先生がエッセイで「これから世の中のグレーという塩梅の色がどんどんなくなっていく」と予言されていたような記憶があるんですが、まさに今の日本というのは、特にAじゃなければBという、白黒がつきすぎている。
 SNSで敵か味方か二分されていく感じというのも、そうですよね。
 どの問題も、そんな簡単に語れるものかなということは常に考えています。
 「前期今村翔吾の最後であり、後期の最初」
――『海を破る者』は、今村さんご自身にとってどんな位置づけの作品ですか。
 今村 前期今村翔吾の最後であり、後期の最初の作品かなという感じがしています。
 踊り場と言えば踊り場かもしれない。
 直木賞をいただいた『塞王の楯』と連なるようなテーマをずっと書いてきた、そのある意味最後の作品が『海を破る者』だと思っていて。
 若造今村翔吾として考えてきた「人とは何なのか、戦うとは何なのか」への答えであり、もう一回考えていくスタートの作品にしたいという思いがありました。
 今村翔吾を初めて読むなら「ここから」
――最後に、本作をどんな読者に手に取ってほしいですか。
 今村 今村翔吾の本をどれから読んでいいか分からないという方は、ここから入ってもらえると良いかな、と思っています。
 西域からの少女や高麗の青年が登場することで突拍子もないと感じる方もいるかもしれないけれど、これは全部事実に基づいている。
 日本人も意外と海外に出ていたし、本当にこういうことが起こったかもしれないという限界値を、人を描いた作品として書きました。
 歴史が好きな方にも、歴史が苦手な方にも、ぜひ読んでいただけたら嬉しいです。
 ※本記事は「文藝春秋PLUS」で配信した今村翔吾さんのインタビューを、文庫刊行にあわせて再構成したものです。
 今村 翔吾/文春文庫
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 YAHOO!JAPANニュース BOOKSTAND「関ヶ原の戦いも元寇も「天気」が左右した? 気象から読み解く驚きの日本史
 『「天気」が動かした日本史: 歴史を変えた戦い、飢饉、未解決事件……のカラクリ (知的生きかた文庫 さ 63-1)』斎藤 義雄,金谷 俊一郎 三笠書房
 日本の歴史を大きく塗り替えた戦いや事件の数々。「もし〇〇が××だったら、歴史は変わっていたかもしれない」と想像するのは、歴史好きな人にとって楽しいひとときなのではないでしょうか。
 今回紹介する『「天気」が動かした日本史: 歴史を変えた戦い、飢饉、未解決事件......のカラクリ』は、日本史上のできごとの数々を「天気」から読み解くというユニークな一冊。本書を読むと、これまで知っていたはずの歴史がまったく別の顔を見せ始めるかもしれません。
 たとえば、おそらく誰もが学校で一度は習ったことがある「元寇(げんこう)」。鎌倉時代中期、モンゴル民族が中国大陸に建国した「元」が二度にわたって九州に侵攻した事件のことで、神が日本を守るために起こした「神風」により、元軍は撤退したと言われています。
 この暴風とはいったいなんだったのでしょうか。天気の面から見てみると、一度目の襲来である「文永の役」では、「低気圧に伴う寒冷前線が通過して西高東低型の気圧配置になった」ことが考えられるそうです。これは11~3月頃までにときどき現れる気圧配置で、寒冷前線が通過する前は南西風が吹き、通過後は北西からの強風が吹くのが一般的とのこと。そのため、「南西風に乗って博多湾を出た元軍の船団が、しばらくして北西の大暴風に見舞われたと考えると大きな矛盾がなく説明できる」(本書より)といいます。
 そして、二度目の襲来「弘安の役」での暴風雨は、台風だった可能性が高いそう。近年、元寇の際に沈没したと思われる船が発見されていることから、本書では、元の船団が強風をともなう「危険半円」に入ったのではないかと指摘されています。「神風」と聞くと、なにやら神秘的なイメージがありますが、本書ではこうした二つの気象現象により鎌倉幕府は救われたと読み解いています。
 そこから少し時を経た戦国時代、今も有名な戦の一つが、織田信長が今川義元を倒した「桶狭間の戦い」です。このとき、義元軍が信長軍の奇襲に気づかなかった背景にも、「雷雨」という気象現象が大きく影響していた可能性があると考えられるといいます。また、その信長を裏切った明智光秀が羽柴秀吉(豊臣秀吉)に討ち取られた「山崎の合戦」では、梅雨の天候や日付の巡り合わせで秀吉側が有利になったという見方が紹介されており、知らない人も多いかもしれません。
 このほかにも、壇ノ浦の戦いや関ヶ原の戦いなど有名な戦いから、赤穂浪士の討ち入りや桜田門外の変といった江戸時代の事件、さらには東京大空襲や三億円事件など、比較的現代に近いできごとまで、天気という視点から歴史を読み解いている本書。どれも「この日がこの天気じゃなければ......」と思わせられるケースばかりで、非常に興味深く感じられます。「天が味方した」とはよく聞く言葉ですが、「天"気"が味方した」ことで運命が大きく変わったとみられる局面が歴史には多々あることを、本書は教えてくれます。
 [文・鷺ノ宮やよい]
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