☳16〕─1─初代大統領・李承晩に歴史ねじ曲げた大罪。67年前に橋上の市民を爆破した。~No.54 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 歴史的事実として、日本は被害者であり、朝鮮は加害者である。
 日本は、朝鮮に対して復讐権・報復権平安時代・統一新羅時代から持っていた。
 歴史的事実からすれば、日本は中国はもちろん朝鮮に謝る必要はない。
 つまり、日本には1500年近い朝鮮に対する怨み辛みがこびり付いている。
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 日本民族にとって朝鮮半島人は、何時の時代でも、心許せる友・友人ではなく、信用できる親友ではなく、安心できる知人ではなく、まして命を託せる戦友でもなかった。
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 2021年10月7日号 週刊新潮「変見自在 高山正之
 丸投げを恥じよ
 朝鮮が日本統治から離れて5年。南北に別れたとはいえ、日本が作った水豊ダムも鉄道も水田もしっかりと機能していた。
 ただ朝鮮の人は物覚えが悪い。日本人が教えた『和を以て』の心根などころっと忘れてしまった。
 それで北朝鮮が1950年6月、38度線を越えて韓国に攻め込んだ。
 侵攻3日目にはもうソウルを落としていた。
 李承晩は『王はまず逃げよ』の伝統に倣って釜山まで逃げ落ちた。それでも危ないと見て山口県に一族郎党6万人で亡命を図ろうと打診したが、山口県知事田中龍夫にその怯懦(きょうだ)を嗤われ、難民申請も断られた。
 腹立たしい李は共産党員ら政治犯110万人の処刑を命じ、韓国軍はそれに忙殺されて北朝鮮軍まで手が回らなかった。
 米軍が見かねて韓国の代わりに戦った。
 朝鮮人は南北ともにえらが張り、釣り目で後頭部は絶壁でよく似ている。
 味方だと思ったら北だったりして捕まった米兵41人が全員虐殺された。残忍さも南北区別がつかなかった。
 李は日本で暮らす60万在日に『米兵が我々のために血を流している。祖国のために立ってくれ』と義勇兵を募った。671人が集まった。
 こんな難局を打開したのはやはり日本人だった。
 1,200人が掃海艇を操って機雷を除去し、干満の差7メートルに及ぶ難所、仁川に舟艇を乗り入れ、米軍を逆上陸させた。
 戦況は一変し、米軍優勢となると毛沢東が出てきて戦線は一気に拡大した。
 米軍は『強い日本軍』を投入することにし、日本占領を解く講和条約の準備を始めた。
 李承晩は手を打って喜んだ。講和条約戦勝国として参加して、日本から莫大な賠償を取ろう。
 しかしマッカーサーは『お前がなんで戦勝国か』とにべもない。勿論(もちろん)、講和会議出席も拒否された。
 で、彼は李承晩ラインを思い付いた。日本漁船を拿捕、漁船員を人質にして日本から賠償を取る日韓会議の開催を目論んだ。
 韓国海軍は今や北との戦争を完全に放り出して日本漁船拿捕に没頭した。抑留漁船員4,000人、死傷者は44人にのぼった。
 53年1月、李は吉田茂と会談した。吉田は李を徹底して嫌い、答礼の訪韓すらしなかった。
 それでも米国の仲裁で同年2月から日韓会議が始まった。日本側が韓国の非常識を諭(さと)す展開が続いた。
 韓国側は聞く耳を持たない。カイロ会談に言う日本の『朝鮮奴隷支配』の謝罪と賠償を要求し、おまけに日本人が残した85億ドルの資産の放棄も求めた。
 日本はその要求に何の根拠もないことを説明し、久保田貫一郎代表は『日本は禿山を植林し、鉄道を敷き、水田を増やし、教育を普及させた』ことを思い出させた。
 逆上した韓国側代表は会談を打ち切ったが、日本側は痛痒(つうよう)も感じなかった。
 実はこの日韓交渉の背景で、朝鮮戦争の方にも動きがあった。
 戦況は膠着状態で、米国では意味もない『第2バイオリン戦争』とまで評され、韓国人のための戦争にうんざりしていた。
 ただ米軍に戦争を丸投げした李承晩は違った。休戦になれば頼る味方の米軍がいなくなる。『休戦協定を結べば国土の分断の固定化につながる』とか訳の分からない主張で反対した。
 しかし米国はもう限界で『元の38度線を境界にする』ことで53年7月、反対する韓国を除く北朝鮮支那と米軍代表が板門店で休戦協定に調印。文書は国連軍総司令官を通して金日成彭徳懐に送られた。
 そんなわけで休戦協定に韓国は入っていない。
 文在寅が先日の国連総会で演説し、休戦状態が続く朝鮮戦争を当事者が集まり終戦にしちと言った。
 そしたら金正恩がお前は当事者かと笑った。
 白村江の戦い以来、朝鮮人は戦争を他国に丸投げする悪弊がある。恥ずかしい自国史を直視して反省してみるといい。」
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 2017年12月26日 産経新聞「目を覚ませ韓国 初代大統領・李承晩に歴史ねじ曲げた大罪 反日を国民に強制
 韓国で、今日のような「反日感情」が生まれたのは戦後のことである。初代大統領、李承晩(イ・スンマン)が史実を捻じ曲げ、反日歴史観を国民に強制したことが大きい。(夕刊フジ
 彼が歴史を歪曲(わいきょく)した理由は3つある。
 1つは、「政権の正当性」の確保だ。本来、日本から独立するなら、日本と併合条約を締結した大韓帝国が復活すべきである。だが、戦後最高権力を握った李承晩氏は李王朝の復活を許さず、韓国は共和国となった。そのままでは「朝廷への謀反」となるため、つじつまを合わせるべく歴史を改竄(かいざん)する必要があったとされる。
 2つ目は、国民の「日本時代への郷愁」を断ち切ることだ。
 戦後、日本と分断された韓国は世界の最貧国へ没落し、日本時代を懐かしむ雰囲気が国中にあふれていた。日本時代が「地獄」だったことにしなければ、新政権の存在意義が薄らいでしまう。
 3つ目は、朝鮮戦争前後の李政権による自国民虐殺事件を糊塗(こと=取り繕う)するためだ。
 1948年に済州島で発生した「四・三事件」では、3万人近くの罪のない民間人が共産ゲリラ幇助(ほうじょ)の疑いで、政府軍に虐殺された。朝鮮戦争が始まると、左翼からの転向者を再教育するために組織した「保導連盟」の加入者を「敵性分子」として虐殺した。少なくとも10万人以上が殺されたという説もある。さらに、北朝鮮ゲリラ討伐の過程で、全羅道慶尚道の山村では、女子供を多数含む民間人を「共産ゲリラ協力者」と見なして数百人から千人単位で虐殺している。
 これらの虐殺事件をめぐる政府批判をかわすため、李承晩は歴史を歪曲して、国民の「恨み」を日本に向けさせることにしたようだ。
 李氏は歴史を次のように塗り替えた。
 「日本は李朝を亡ぼし、朝鮮を植民地化して残虐な支配を行った」「上海に亡命した独立運動家が『大韓民国臨時政府(臨政)』を立ち上げ、『光復軍』を組織して朝鮮解放に貢献した」「その臨政を引き継いだのが李承晩政権である」
 このように自己政権を正当化したうえで、「朝鮮戦争で同族同士が殺し合うことになったのも、すべて南北分断をもたらした日本統治に原因がある」ことにしたのだ。彼は日本時代の真実を語る者を「政治犯」として徹底的に弾圧し、強烈な反日教育で国民に日本への憎悪を植え付けた。
 その後の歴代政権も、国民の反日感情を利用してきた。今や統治時代の真実を知る者はごく少数となり、反日感情自家中毒して、日本の立場を考慮するだけで「売国奴」となる国になってしまったのだ。=おわり
 ■松木國俊(まつき・くにとし) 朝鮮近現代史研究所所長。1950年、熊本県生まれ。73年、慶応大学を卒業し、豊田通商に入社。直後から韓国担当を務め、80〜84年、ソウル事務所に駐在する。2000年に退社。韓国問題を長く研究しており、「慰安婦の真実国民運動」前幹事長。著書に『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』(ワック)、『日本が忘れ韓国が隠したがる 本当は素晴らしかった韓国の歴史』(ハート出版)など。」
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 PRESIDENT Online
 67年前に橋上の市民を爆破した韓国大統領
 有事に真っ先に逃げ出すトップの罪
 宇山 卓栄
 1950年6月にに突如勃発した朝鮮戦争は、数々の歴史的教訓に満ちた凄惨な戦いだった。今回のテーマは、北朝鮮軍の戦車部隊が、ソウルをめがけ殺到する中で起きた驚愕のエピソードだ。市民や自軍兵士を置き去りにし、われ先に逃げ出した大統領の姿は、2014年のセウォル号事件の悲劇を思い出させる――。
 北朝鮮軍の突然の侵攻に打つ手なしだった李承晩・韓国大統領(左)。右はダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官(写真=AFP=時事)
 当てにならない責任者
 2014年、韓国のセウォル号が沈没した際、避難誘導の任にあたるべき船長が真っ先に逃げました。船長は「船室で待機するように」との船内放送を流しており、この指示に従って船室にとどまった乗客は水が船室に流れ込み、出られなくなってしまいました。その結果、修学旅行生ら293人の若い命が失われました。
 1950年の朝鮮戦争の際、李承晩大統領はラジオで「国軍が北朝鮮軍をよく防いでいる。落ち着いて行動するように」という放送を流します。ソウルに北朝鮮軍が迫っていましたが、ソウル市民はこの放送を信じて、避難行動をとりませんでした。
 ソウル北郊の住民たちが大挙、ソウルへと避難し、大砲の音が間近に聞こえた時、ようやくソウル市民は「これはタダ事ではない」と気付きはじめたのです。この時、李承晩大統領は既にソウルから脱出していました。
 ソウル市民は北朝鮮に対し、「同族」の意識が強くありました(今でもある)。同じ民族どうしで、殺し合いなどできるはずがないと。民族を分断する戦争というものへの実感がほとんどなかったのです。そのため、市民の多くは大砲の音が間近に聞こえても、血に飢えた敵軍が迫っていると理解できなかったのです。
 ソウルは3日で地獄と化した
 一方、「逃げ遅れれば殺される」と危険を感じ取ったソウル市民は避難しはじめました。ソウルから南へ逃れるには漢江(ハンガン)を渡らなければなりません。市民は漢江大橋に殺到し、付近は大混乱でした。
 1950年6月25日、北朝鮮軍が38度線を越えて侵攻を開始して3日後、北朝鮮軍はソウル市内に突入します。韓国軍は北朝鮮軍の南下を食い止めるため、漢江大橋を爆破する計画を李承晩大統領に報告します。
 ほとんどのソウル市民はまだ、市内から避難していません。橋を爆破するということは彼らを見殺しにするということです。李承晩はそれをわかっていながら、橋の爆破を許可しました。
 午前2時30分、夜中でしたが漢江大橋の付近に、押すな押すなと市民が詰めかけていました。軍が市民を制止しようと試みましたが現場はパニック状態でもはや統制不可能でした。約4000名の市民が橋の上を徒歩で渡っている最中、橋は爆破されました。橋の上にいた市民約500~800名がこの爆破で死にました。
 漢江北岸には多くの市民が取り残されました。この時、市民は自分たちが政府に見捨てられたのだと実感しました。
 政府が見捨てたのは市民だけではありません。韓国軍の数千人に及ぶ部隊も、まだ取り残されていました。彼ら軍人は1000両にも及ぶ車両やおびただしい武器を持っていましたが北朝鮮軍にそれらを接収された上、殺されました。
 市民は警官、役人、地主などから順番に、北朝鮮軍に殺されていきました。北朝鮮軍が軍事侵攻をしてからわずか3日、ソウルは地獄と変わり果ててしまいます。3日前まで、こんなことが起こるとは、ソウル市民は誰も想像しなかったでしょう。
 逃げに逃げた李承晩
 漢江大橋は爆破された一般橋(人道橋)と、それとは別に、少し離れたところに鉄道橋が掛かっていました。軍はこの鉄道橋の爆破に失敗しました。そのため、北朝鮮軍はこの鉄道橋を通って、戦車部隊を南に送り込むことができました。
 一般橋の爆破で、多くの市民が渡河できず、犠牲になりましたが、鉄道橋が破壊されなかったため、結局、北朝鮮軍を足止めすることはできませんでした。とんでもない失態です。当時の韓国軍の管理体制が、いかにずさんなものであったかがよくわかります。政府は爆破の失敗を現場の実行者のせいにして、彼らを処刑します。
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 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がない為に、事実の、本当の歴史が理解できない。
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 親日・知日王朝は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日・敵日王朝は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国そして韓国、北朝鮮
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行が草薙剣を盗んで新羅に逃げるが捕まる。
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 668年~780年 新羅朝貢の為の日本に遣新羅使を派遣し、遣日本使が30回以上。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年)および894年 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
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 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
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 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗連合軍による日本侵略。
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 1419年 応永の外寇李氏朝鮮軍による対馬侵略。
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 中国や朝鮮にとって日本は、負けて難民となって逃げ込む避難地・亡命地であった。
 古代から、日本は難民受入れ大国であった。
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 日本の朝鮮統治において、日本は朝鮮を搾取・収奪したのではなく投資したのである。
 急速に近代化していた日本にとって、中国同様に近世もなく近代化以前の古代・中世のままの朝鮮から奪うものは何もなかった。
 つまりは、耕作する前の原野と同じで、生産する為には未開地に手を入れて計画的に開墾し、田畑を造成し土を肥えらせ、種を撒き、収穫までの重労働の野良仕事をしなければならなかった。
 日本が朝鮮を併合した時、朝鮮は中国同様に「商う・働く事を卑しい馬鹿な小人の生業」と否定する儒教原理主義朱子学に毒されて、近代化の要素がない未開地に近かった。
 儒教原理主義朱子学では、教養ある人間は金儲けの商いや汗水垂らして働く事を偏見を持って軽蔑していた。
 日本の儒教と中国・朝鮮の儒教は別物であった。
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