🎍31〕─1─天平時代。平城京の窃盗事件。盗まれた品物は自己責任として自分で探した。~No.96No.97No.98 @ 

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 2017年12月2日 朝日新聞丸山裕美子の表裏の歴史学
 古代の窃盗
 盗難品は市で、自分で探す

 『安拝(あえの)さんの窃盗被害
 麻の朝服 葛布(くずぬの)の半臂(はんぴ、袖なしの胴衣) 帛(はく)の褌(こん、下着) 帛の被(ふすま、夜具) 調布の帳(とばり) 緑の裳(も) 青の裳 酒の器 赤漆真弓(まゆみ、少し削れていて端は黒漆) 幌(ほろ)など』

 今回は古代の窃盗事件を紹介しよう。被害者は、安拝常麻呂(あえのつねまろ)さん。安拝さんは左大舎人寮(ひだりのおおどねりりょう)という役所の少属(しょうさひん)で、大初位下(だいそいげ、下から3番目)の位をもっていた。
 事件発生現場は安拝さんの自宅で、住所は平城京の左京六条二坊である。発生日時は、天平7(735)年8月28日夜。
 被害届は、その日のうちに出されていたが、閏(うるう)11月5日になって、あらためて盗まれたもの13種について、左京職(さきょうしき)に正式なリストが提出されている。盗まれた品の数量・特徴が細かく記されており、これによって盗難品が見つかった時に照らし合わせ確認し、元の所有者に返すことができるのである。
 盗まれたのは麻の朝服(ちょうふく)などの衣類と、帳(とばり)などの調度、酒の器み赤漆(あかうるし)の弓である=表。安拝さんは位をもつ役人だったから、朝服を所有していた(ちなみに位のない役人の服は『制服』といって、朝服と区別された)。大初位下の安拝さんは、規定通りなら、薄い縹(はなだ)色(藍色)の服であったであろう。 事件は左京でおこっているので被害届を左京職に出したわけだが、受理した左京職はこれを東市司(ひがしのいちのつかさ)に回している。
 平城京には左京と右京にそれぞれ官営の東市と西市が置かれた。市には店舗が並び、市司が監督し、価格調整も行われていたが、店舗をもたず売り歩く商人も集まった。そうしたなか、盗品は市に出回ることが多かったのである。

 9世紀に編まれた『日本霊異記』の説話には、平城京の東市で盗品のお経を売るいやしい人の姿が描かれている。市の東の門から入り、『誰かお経を買わないか』と声をかけながら売り歩き、市の西の門から出て行った。盗まれた本人が気づいて、相手が盗人と知りつつ購入して供養したという話である。『日本霊異記』にはまた、?波の市に寺から盗んだ仏画を背負い籠に入れて持ち込んだ人もみえる。これも無事に元の寺の尼が市で見つけて取り戻している。
 正倉院文書には、他にも窃盗に関わる休暇願や欠勤届が3通残る。葛木豊足(かつらぎのとよたり)さんは盗まれたものの探索のため、5日の休暇を申請している。盗まれたものはまず自分で探すのだ。秦家主(はたのやぬし)さんは、9月16日の夜に自宅に盗人が入り、翌17日にすぐさま盗難品探索のための3日の休暇を申請している。18日から探していたが、結局1日遅れて21日に出勤している。探し物がみつかったかどうかはわからない。秦吉麻呂(はたのきちまろ)さんは4月28日に自宅のものを盗まれた。5月4日まで必死に探して空しく日々を過ごし、『大損だ』とこぼしつつ、あと2日休んで探したいと申し出ている。おそらくは仕事を休んで、市で盗品が売られていないか、探し回っていたのであろう。
 安拝さんも葛木さんも秦さんたちも、みな自宅に泥棒が入って物品を盗まれている。
 12月、師走になった。慌ただしくせわしない季節である。みなさん戸締まりは怠りなきように。よいお年を」

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