🌋13〕─2─邪馬台国。『韓伝』『倭人伝』『魏志倭人伝』。狗奴国。向遺跡。第四代新羅国王は倭人だった。146年~No.50 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 古代中国の史書において。各王朝は、日本の大王家゠皇室は臣下とされたが、皇族以外で貰える最高クラスの称号と金印紫綬の印綬を贈った。
 対して。朝鮮は、日本とは違って統一国家ではなく分裂地帯として、百済新羅高句麗には村長である邑君の称号と木印印綬のみが渡された。
 中国から見た古代アジア史では、日本は統一国家と認められ、朝鮮は国家の体をなさない単なる村の集合体と見なされていた。
 日本は、独立国家として、中国の影響を排除しながら、独立独歩で独自の道を歩んだ。
 朝鮮は、中国の属国として、中国の影響を受けて独自の道を放棄してひたすら恭順した。
 『隋書』「百済伝 そこの人は新羅高句麗百済、倭などが混在しており、また中国人もいる」
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 前漢の高祖(劉邦)の皇后・呂后(紀元前241〜紀元前180年)は、嫉妬に狂った虐待行為で中国三大悪女の一人とされている。
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 王充(27〜?)の『論衡』に、周の成王の時代に日本人(倭人)が香草を貢ぐという記述があると言われている。
 『漢書』(82年成立)「楽浪の海の中に倭人がいる。百余国に分かれており、年中行事を記し記録を持って来て見せているという」
 朝鮮人とは、中国から移住した中国人であった。
 前漢は、朝鮮に出先機関として「楽浪郡」(楽浪国)を設置して文化度の低い小王国群を支配した。
 中国人が古代朝鮮の大半を支配し、残りを朝鮮人が王国を築いて細々と支配していた。
 中国皇帝は、朝鮮人の王国を地方の属国と見下し、弱小国として王侯より格下の「邑君」の称号を受け、「木印黄綬」を授けられていた。
 57年 『後漢書』「東夷伝後漢光武帝は、日本の国力を認めて倭の奴国王に「漢委奴国王」の称号を与え、皇族に次ぐ宰相クラスに与える「金印紫綬」を授けた。
 中華皇帝は、実力のある強国だけに金印を授け、授けた国は数ヶ国しかなかった。
 204年 『韓伝』「韓は帯方郡の南にあり、東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する」
 百済は、倭国のように邪馬台国で統一される事なく、50程ある国の一つに過ぎない。
 『三国志「魏書・東夷伝倭人条(通称・魏志倭人伝)」 』「帯方郡から倭に行くには、船出して、漢族の地を南や東に進むと、その北岸である狗邪韓国に至る。海を渡ると1,000里ほどで対馬国に着く」
 狗邪韓国は、朝鮮半島南部の沿岸地域で、漢族と倭人が共生する土地であったが、倭人が支配する国であった。
 中華帝国は、倭人が半島に土地を所有している事を確認していた。
 対馬国は、倭人の国とされていた。
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 宮城谷昌光趙雲馬謖とでは、将としての格がちがう。それは勝ったときではなく、負けたときによくわかる」(『三国志』)
 諸葛孔明は、清廉潔白で、学識豊かで、頭脳明晰で、そつなく全ての実務をこなす有能な人格者を後継者として育成し失敗した。
 諸葛孔明が育成しようとした理想的後継者は、平時の将であって戦時の将ではなかった。
 それが、馬謖であった。
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 239年 『魏志倭人伝』魏皇帝は、敵の呉国と倭・邪馬台国が同盟を結ぶのを避ける為に、卑弥呼親魏倭王の称号と金印を授けた。
 魏は、倭国の実力を認めて、臣下であっても一族の一員として遇し、皇帝の藩屛とした。
 同様の処遇を与えられたのは、インドのクシャン朝のみであった。
 中華皇帝は、邪馬台国の国力を認めて、東夷の野蛮人の中でも文化度は高いと認めていた。
 朝鮮は、殷の王族の箕氏が移り住んだ国であるとされ、倭国よりも下に見られていた。
 朱蒙は、中国東北部にあった北方騎馬民族鮮卑人の扶余王国から独立し、東明王と称して高句麗を建国したとされている。だが、それは神話の世界で歴史的事実とは限らない。
 朱蒙の子・温祚は、内紛を避け、半島を南下して百済王国を建国したと言われている。
 高句麗と扶余は、激しい戦いを繰り広げたと言われている。
 そして両国内部に於いても、王位をめぐる内紛が絶えなかった友言われている。
 朝鮮は、古代から現代に至るまで、統一されても王位や権力をめぐる陰惨な内紛が絶えず起きていた。 
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 魏皇帝は、朝鮮南部の狗邪韓は倭人が住む土地で有り、対馬倭国の一部であると認めていた。
 狗邪韓の倭人は、金官加羅の族長達と姻戚関係を結び朝鮮半島の一部を支配し、半島の支配権をめぐる戦いに参加し、たびたび北上して周辺の族長を臣下としていた。
 魏皇帝は、倭人の軍事力を高く評価していた。
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*弥生の大乱(146年〜189年)。
 弥生に入るや、大陸や半島での動乱で逃亡した鉄器を持った弥生人朝鮮半島渡来系の祖先)が、未開の日本に逃げ込んできた。
 西方系アジア人難民が大量に流れ込み、日本の人口は600万人以上に膨れ上がった。
 中国や朝鮮の東アジア人は、自然を破壊して、天然資源を食い潰し、残りの資源を奪い合う為に鉄を武器として使用した。
 生存競争に負けた敗者は、日本に逃げ込み環濠集落や高地性集落を作り、さらに戦いを続けた。
 代表的なものに、三内丸山遺跡(縄文期)、吉野ヶ里遺跡、唐古遺跡、池上・曽根遺跡などである。
 最初。縄文人達は、命辛々逃げ来てか渡来人を温かく迎え入れた。渡来人らが始めた、弥生の大乱に巻き込まれて多数が殺された。
 非日本人は、勝者生存、弱者必滅の大陸的「強者の論理」から各地に100以上の小王国を造り、勝者となって全てを独占する為に殺し合いを始めた。
 世に伝わる、弥生の大乱である。
 彼らは、列島的対等関係を否定し、大陸的上下関係を確立する為に、殺戮を繰り返し、自然を破壊した。
 棲み分けて生きてきた縄文人は、戦争を是とする渡来系弥生文化を拒否し、沖縄(貝塚時代)と北海道(擦文文化、オホーツク文化)に逃げ込んだ。縄文人は、生活を維持する為に、日本海沿岸と東南アジア地域との海上交流を深めていった。
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 朝鮮には硬質のヒスイ、水晶、メノウを加工する技術がなかった為に、倭国から勾玉などの輸入していた。
 日本で生まれ育った脱解(タレ)は、朝鮮に渡り、新羅の2代目王の娘と結婚し4代目の国王となった。
 倭系脱解王は、日本・糸魚川産勾玉を新羅王の権威の証とし、忠誠を誓う貴族や豪族に下賜した。
 そして、勾玉を櫃(ひつ)の上に載せる宝物として使用した。
 新羅第四代国王・昔脱解は日本生まれの倭種と、高麗時代の編纂された正史『三国史記』は記載している。
 「多婆那国の生まれで、その国は倭国の東北一千里にある」
 民間の歴史書である『三国遺事』においても、古代新羅に於いて朝鮮系朴氏と日本系昔氏が交互に国王を輩出した事を認めている。
 ただし。出身国を多婆那国ではなく、日本にあった龍城国あるいは正明国などと幾つかの候補を挙げている。
 第9代から第12代と第14代から第16代の国王は、倭種系昔氏の出とされている。
 第9代の昔伐休王は、飢饉に苦しむ新羅雲南で栽培されていた稲作を導入したと言われている。
 当時の朝鮮半島は、地球全体が寒冷期にあった為に栄養豊かな農作物が育たず、特に北部は稗などの雑穀を栽培して飢えをしのいでいたと言われている。
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 『魏志倭人伝』において、卑弥呼が統治する邪馬台国などの朝貢使を送ってきている日本人を倭人と記し、それ以外の日本人は中華の徳が及んでいない倭種と区別していた。
 海洋民族である倭種は、優れた航海技術を持ち、沖縄から中国や東南アジアまで航海して交易していた。また、鍛冶技術を活かして、朝鮮半島南部の「任那伽耶韓国)」に住み着き、鉄鉱石を採掘して鉄製品を生産して日本各地に送っていた。
 日本で出土する朝鮮産鉄製品は、任那にいた倭種が作った物が大半であった。
 中国の文化や技術の多くは、任那に住む倭人や倭種によって日本に伝えられたとも言われている。
 三世紀の西晋の正史『三国志』は、海洋的な倭と大陸的な韓を別の蛮族であると区別し、自給自足の独自性を持つ倭を中国への依存性が強い韓よりも上位と見なした。
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 紀元1世紀頃 温暖な気候が続いて、稲作漁労で安定した食糧を確保し、弥生社会は順調に発展し、人口も増えていた。
 気候変動で、冷涼と多雨で稲をはじめとした農作物の不作と動物が移動して狩りができなくなった。
 食糧が確保できなくなった大集落は、離散し、食べ物を求めて移動した。
 新天地の集落に受け入れられれば一緒に住んだが、拒否されれば他の土地へ流離うか、食べ物を巡って殺し合った。
 弥生人の移動に伴う戦いで、大集落は更に大きくなり国へと発展した。
 2世紀後半 地球規模の異常気象で、ローマ帝国は衰退し、後漢王朝は滅亡した。
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 邪馬台国が誕生する弥生後期には、大陸の弱肉強食を信条とする渡来人による殺戮によって、人口は約250万人に激減したといわれている。
 人口減により戦乱は下火となり、各部族王国は中国皇帝の臣下となり朝貢して国王の金印を授かる事で平和を取り戻し、人口も回復した。
魏志倭人伝」は、当時の倭国・日本などの小国群を書き記している。但し、周辺諸国儒教価値観で人としてではなく獣として軽蔑し侮蔑し差別している。けっして、好意を持って対等関係で書き記した公文書ではない。
 魏に使節を送っていた国は、100ヵ国中30ヵ国であった。
 奴国の人家約2万戸。
 伊都国の家族は約1,000家族。
 188年 倭国は宗教的権威の下で、各部族王国は「力の均衡」を保ち、紛争や係争は話し合いで解決し流血事態を回避していた。
 宗教がバラバラで政治がまとまらなければ、社会は落ち着かないと考えられた。
 宗教と政治を分けて、祭祀的最高権威者に鬼道を操る女性をあて、政治的最高権力者に男弟を据えた。
 鬼道の神は、稲作の農耕神である。
 230年頃 沼津市前方後方墳は、駿河一帯を支配していた古代王家「スルガの王」の由緒ある貴重な墳墓である。 
 238年 邪馬台国卑弥呼は、敵対する狗奴国の9ヵ国への抑えとして、魏の皇帝に朝貢使を送り、男女の奴隷などの貢ぎ物を献上した。
 魏は、敵対する呉を牽制する為に邪馬台国を厚遇し、「親魏倭王」の金印と銅鏡100枚を受け取った。た。
 卑弥呼が女王として即位し、女王が倭国を支配する事で弥生の大乱は収まって平和が訪れた。
 倭国は、女性が統治することで安定した。
 卑弥呼とは、人の名前ではなく、役職名であった。
 邪馬台国は、対馬国など28ヵ国を束ねていた倭国の盟主国であった。
 邪馬臺(台・たい)国ではなく、正式には「邪馬壹(壱・いち)国」と書き、「ヤマイチコク」と読む。
 人口は約7万戸で、社会として身分秩序が厳しく定められ、国家として刑罰や租税の仕組み等が定まっていた。
 240年末 公平の象徴であった女王の死亡によって「力の均衡」は破られた。各部族王国の男王は、問題を簡潔に解決するべく大陸的解決方法である戦争を起こした。権力志向の強い野性的な男性による、新たな戦乱時代の始まりである。
 248年頃 卑弥呼が死亡した。 
 卑弥呼の埋葬に、100人あまりの奴隷が生きたまま埋められた。
 女王の死によって、男王が乱立して倭国に戦乱が起きた。
 倭国の男達は、戦いを好んだ。
 世界文明の諸王国で、先王を埋葬するとき時に、死後の世界でも不自由しないようにとして多くの奴隷が殺害された。
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 卑弥呼は、女王の名前ではなく、地位であったという説もある。
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 266年 各部族王国は、絶望的な殺し合いを食い止める為に、話し合いによる解決を模索した。
 13歳の少女壱与(イヨ)が新たな女王となって、列島の戦乱は収まった。男王らは、少女の前にかしずき、その命令に従った。
 壱与女王は、交易と防衛の為に晋に朝貢使を派遣した。
 農耕社会の列島は、権力欲の旺盛な男性が強くなると戦争が起き、賢い女性がまとめれば争いは収まり平和になった。
 民衆は、男王よりも女王に好意をよせ、女王を新たな指導者に選んだ。民衆が選んだのは、敵を皆殺しにし奴隷を作り富をもたらす優れた指導力よりも、か弱いが穏やかで親しみやすさを求めた。
 だが、女王は戦争を嫌ったわけではなく、戦う時は全軍を指揮して将軍達を引き連れ、勇猛果敢に敵陣に切り込み、兵士の前に立って敵を斬り殺した。
 そうして、大勝利を収めて凱旋した。
 だが、女系王国は跡取りを持てず消滅した。
 女系国王は、王家滅亡の道である。
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 230年頃 邪馬台国の女王・卑弥呼と同時代。、駿河地方を支配していた有力豪族は、自分の墓である前方後円墳を現代の静岡県沼津市に建設した。高尾山古墳である。
 同時代の古墳として、東日本では最古で最大級の歴史的に貴重な古墳である。
 東海地方に、卑弥呼古(ヒミココ)が治める狗奴国らしい古代王国が存在していた。
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 2015年6月末 沼津市市議会は、交通量を分散して慢性的な渋滞を解消する為に高尾山古墳を取り壊して道路建設する予算案を可決した。
 日本が歴史を大事にするというのは、嘘である。
 日本人が好きなのは、史実の歴史ではなく架空に近い時代劇である。
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 3世紀頃 東海地域の伊勢湾沿岸に、強力な勢力が存在していたという。
 東国の北陸・関東から北海道にかけて、続縄文文化という西日本とは違う文化が栄え、独自に発展していた。
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 3世紀中頃の箸墓古墳は、卑弥呼か壱与の墓ではないかといわれている。
 箸墓古墳から西山古墳までの古墳群は、龍王山を拝するように存在すると言われている。
 古代人は、朝日が昇る龍王山の山頂を「始祖霊の住む所」と崇拝し、豊穣の祀り執り行っていたらしい。
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 邪馬台国女王の卑弥呼やイヨらは、神に祈りを捧げて天意を受ける巫女として政治と軍事を行う巫(ふ)女王であった。結婚しなかった為に治世は一代限りで、王権の継承は禅譲であった。そこには、世襲制は存在しない。
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 邪馬台国ヤマト王権になるのか、歴史的資料が残っていない為に不明である。
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 2世紀後半 纏向(まきむく)には、日本各地の王国から人々が集まってきていた。
 埋葬スタイルが、九州から関東まで、纒向型の初期前方後円墳前方後方墳に統一された。
 纒向遺跡の建物配置は、吉野ヶ里遺跡の影響を受けていると言われている。
 時代は、弥生時代から古墳時代に移り、石器から鉄器に代わった。
 日本は、青銅器ではなくいきなり鉄器が大陸から伝えられた。
 鉄は、朝鮮半島から運ばれてきていた。
 朝鮮に於ける大型王墓が出現したのは、高句麗で3世紀、百済で4世紀、新羅で5世紀とされている。
 高句麗百済は方形積石塚で、新羅は双円墳である。
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 箸墓古墳周辺から出土した土器は、年代測定器によると240〜260年頃と言われている。
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 統一政権を持たなかった時代。
 各地にあった諸王国は、朝鮮半島や中国大陸と独自に交渉し、周辺諸勢力と領地をめぐって殺し合いを繰り返していた。
 倭国は、国内戦争をなくす為に、信用・信頼をもとにして早く統一を進めた。
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 朝鮮は、日本とは違って統一政権を作ろうという意思が希薄であつた為に、騙し合い、殺し合い、奪い合いなど何時終わる事もなく続いていた。
 半島や大陸は、たえず他人の裏を掻く事を考えている人間不信の社会である。
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 日本と朝鮮の違いは、此処にある。


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