🎍4〕─2・A─学校で習った中国の歴史書はデタラメばかり。~No.9 

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 正史と信じられた日本書紀も中国の歴代王朝史書もデタラメである。
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 2023年11月4日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「学校で習った「中国の歴史書」はデタラメばかり…日本書紀に「卑弥呼」も「邪馬台国」も出てこない本当の理由
 ※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Taku_S
 中国の歴史書魏志倭人伝」(3世紀末)には、邪馬台国の女王・卑弥呼の名前が記されている。憲政史家の倉山満さんは「歴史の授業では『中国の歴史書が事実』と刷り込まれるが、実際は不正確な記述が多い。『魏志倭人伝』を聖典の如くありがたがる必要はない」という――。
 【図表】倭の五王
 ※本稿は、倉山満『嘘だらけの日本古代史』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。
■「中国の歴史書に書かれてあることが事実」なのか
 仁徳天皇を教科書で教えないなど、けしからん。
 仁徳天皇といえば世界最大の古墳を造ったと私などの世代では習ったものですが、今は誰のお墓か分からんという理由で、「大仙古墳」とのみ記されます。三十代で塾講師を始めた時、「なんじゃこれは? 仁徳天皇陵は、どこに行った?」と絶句したのを思い出します。
 こういう「科学」を名乗れば何をやっても許されると信じている連中を、私は「素朴実証主義者」と呼んでおちょくっていました。「素朴」と書いて「クソ」と読みます。
 高校の日本史教科書は、「地球に原始人が出てきて、外国には文明があり、日本は縄文時代の後に弥生時代があって、ムラからクニに大きくなる過程で、王様が中華皇帝に使いを出して……」と始めます。
 確実な事実だけを取り出そうとしている気なのでしょうが、物語(ストーリー)が無いので、何を言っているかわかりません。歴史(ヒストリー)は物語なのですから、「何を基準に事実を描くか」が無く、思い付きで事実を羅列しても何もわかりません。
 こんな教科書で習っていたら、「中国の歴史書に書かれてあることが事実」と刷り込まれるのは確かでしょうが。
■「魏志倭人伝」は単なる参考資料
 その中国の歴史書で有名なのが、邪馬台国の女王・卑弥呼が出てくる「魏志倭人伝」です。その「魏志倭人伝」自体が卑弥呼から五十年後に書かれた、近代史家なら参考資料にもしないような、五次資料くらいの代物なのですが。
 しかし、それしか残っていないなら、使うしかない。
 実は『日本書紀』は誠実に取り組んでいます。しかも、「魏志倭人伝」の引用を、よりによって「神功皇后紀」にぶっ込んでいます。「あっちの国では、こういうふうに記録されているんだけど……」という戸惑い炸裂の紹介の仕方です。
 『日本書紀』の、神功皇后三十九年、四十年、四十三年の記事を、ご紹介しましょう。

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 三十九年、この年太歳己未(つちのとひつじ)。――魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢をもってきた。太守の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。
四十年、――魏志にいう。正始元年、建忠校尉梯携らを遣わして勅書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。
 四十三年、――魏志にいう。正始四年、倭王はまた使者の大夫伊声者棭耶ら、八人を遣わして献上品を届けた。(前掲『日本書紀(上)全現代語訳』二〇一~二〇二頁)

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■正史・日本書紀には卑弥呼も、邪馬台国も書かれていない
 これが、『日本書紀』で触れられている「魏志倭人伝」のすべてです。
 神功皇后の統治の年数をあちらの年代に合わせて計算して「三十九」「四十」「四十三」としていますが、「○○天皇は百歳まで生きた」なんてのを史実と認めない限り、どう計算しても神功皇后卑弥呼は年代が合いません。
 身も蓋も無いことを言うと、ヤマト王権とは何の関係も無い北九州の族長が魏に「私が倭の王様です」と名乗って、向こうが真に受けて信じた、とすれば筋は通ってしまうのですが。
 これ、何の根拠もない妄想でもなく、足利幕府と持明院統の朝廷に楯突いて九州を占拠していた後醍醐天皇の皇子である懐良親王が明に使いを送って、「私こそ日本の支配者だ」とかナントカ嘘八百億を並べたら、マヌケにも皇帝も政府も信じたという、明確な史実が残っているのです。
 ちなみに、明の国書の宛所は「良懐」です。西暦一三六九年にもなってこんなことをやっているのが中華皇帝、自分たちの歴史はともかく、外国の歴史を真面目に記述する気があるとは思えません。
明智光秀は「阿奇知」、秀吉の記述もデタラメ…
 魏志倭人伝どころか、例えば戦国時代の記述にしても中国の記述はメチャクチャです。
 明智光秀と同一人物だと思われるのですが、「阿奇知(あけち)」という謎の人物が別途に登場するのが、『明史』(一七三九年成立)の日本編です。次のように書かれています。

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 信長の参謀に阿奇知という者がいたが、あるとき信長の機嫌を損ねるようなことをした。信長は秀吉に命じ、兵を率いて彼を討伐させた。ところが、信長は家臣の明智の不意討ちにあって殺された。秀吉はその時、阿奇知を攻め滅ぼしたところだったが、変事が起こったことを聞くと、武将小西行長らとともに、勝ち戦に乗じて軍を引き返して明智を誅殺した。秀吉の威名はますます天下に轟いた。(『倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本』藤堂明保・竹田晃・影山輝國、講談社、二〇一〇年、四三一~四三二頁)

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 豊臣秀吉朝鮮出兵で明と戦っています。その秀吉に関して、この杜撰な記述。もはやインテリジェンス以前の問題です。明史の成立は江戸時代ですが、同時代の日本人の歴史家でこんな不正確な記述は許されません。
■人や地域の名称は音にあてこまれているだけ
 中華帝国の正史は「皇帝の歴史」ですから、皇帝から周辺に行けば行くほど不正確と呼ぶのもおこがましいほど、不真面目になっていきます。
 「魏志倭人伝」とか、後から出てくる「宋書倭国伝」「隋書倭国伝」を必要以上に、ましてや聖典の如くありがたがる必要はありません。
 ただし、だからといって「魏志倭人伝」が百パーセント嘘だということにはなりません。漢字表記は、特に人や地域の名称は音にあてこまれているだけですから、解釈の可能性は広いのです。
 我が国の正史である『日本書紀』には、「邪馬台国」も「卑弥呼」も登場しませんが、「邪馬台国(やまたいこく)」と「倭国(やまとこく)」は音が似ていますし、「卑弥呼(ひみこ)」と「姫御子(ひめみこ)」も音が似ています。
 完全に嘘ではなく、魏志倭人伝に登場する人物に相当するような誰かが日本列島にはいたかもしれない、という、そのくらいの仮説は立てることができるでしょう。
日本書紀を無視して、「中国の歴史書」を絶対視する違和感
 受験生が丸暗記させられる用語を羅列します。

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 通説
漢書地理志 =漢の時代。楽浪郡の向こうで倭は百くらいの国に分かれていた。
後漢書東夷伝=後漢の時代。光武帝に挨拶に来た倭奴国王に金印をあげた。
魏志倭人伝 =三国時代。倭の邪馬台国の女王卑弥呼親魏倭王の金印をあげた。
宋書倭国伝 =南北朝時代。宋に五人の倭王が次々と挨拶に来た。
・隋書倭国伝 =隋の時代。倭の多利思比孤(タリシヒコ)が生意気な挨拶をした。

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 二九頁に『漢書地理志』の内容は書いておきました。一応、「後漢書東夷伝」もおさらいしておきましょう。
 五世紀に成立したとされる『後漢書』の東夷列伝の中の倭について書かれた、一般的には「後漢書東夷伝」と呼ばれている記事は、一世紀から二世紀頃の日本について書かれたもので、特に次の内容が有名です。西暦五七年のことです。

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 建武中元二年、倭の奴国の使者が、貢ぎ物を奉げて後漢光武帝のもとに挨拶にきた。使者は大夫と自称した。倭の奴国は倭国の一番南の地である。光武帝は倭の奴国の王に、印章と下げ紐を賜った。(前掲『倭国伝』三二頁)

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 ふう~ん。飛ばして次。
 三国時代の中国は、魏・呉・蜀に分かれていました。日本列島から一番近いのが、魏です。「魏志倭人伝」には、魏の明帝が卑弥呼に対して「汝を親魏倭王として、金印・紫綬を与えよう」という勅を発したということが書かれています。
 これも何回か紹介しましたので、次。さっさと本節の主題です。
■江戸時代から繰り返される「倭の五王」の議論
 五世紀成立の「宋書倭国伝」では、五世紀の日本について、「讃・珍・済・興・武という五人の王様が次々に挨拶に来て、朝鮮を征服したので称号をくれと言うから役職を任命した」といったことが書かれています。
 日本の歴史学者は、「讃・珍・済・興・武」がどの天皇にあてはまるかを必死になって研究しています。別に戦後歴史学の弊害でも何でもなく、江戸時代からあんまり進歩せず。 どうみても、系図が合いません。さすがにこればかりは、『日本書紀』の系図は間違いだと言い出す愚かな学者がいないところが、古代史学者の良識でしょう。近代史だとそのレベルのやらかしが日常ですから。
 ただ、雄略天皇が「武」に当たるのは間違いないとして、逆算してその前の時代を考察しているのです。
 たとえば、江戸時代前期の国学者である松下見林(まつしたけんりん)は、讃は履中天皇のことだ。理由は本名のイサホワケの「サ」を「讃」と記したに違いないと主張していました(『異称日本伝』一六八三年)。
 明治大正の歴史学者の吉田東伍は、讃は仁徳天皇のことだ。理由は本名のオホササギの「サ」を「讃」と記したに違いないと主張していました(『日韓古史断』冨山房、一八九三年)。
■「倭王武=雄略天皇」と言われているけど…
 一事が万事続きますので、これくらいで。別にふざけてこじつけている訳ではありません。特に吉田さんは超真面目な歴史学者で、この本の続編があったら特筆大書したいくらいの真人間です。こういう仮説を積み重ねていくしかないのが、古代史なのです。詳細はバカバカしいので、省略。専門家にお任せします。
 では、中国の史書絶対視の歴史観が完全否定する、『日本書紀』ではどう書かれているでしょうか。讃・珍・済・興・武のいわゆる「倭の五王」にあてはまると考えられている第十五代応神天皇から第二十一代雄略天皇までの記述です。人によりずれるので、候補は七人になります。

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応神天皇=後継者選びで依怙贔屓、争乱に。
仁徳天皇=民の竈はあっさり。浮気話を特筆大書。
履中天皇=弟が皇后予定者を強姦(ごうかん)、兄弟で争乱に。
反正天皇=兄の履中天皇に忠誠を尽くして兄弟継承。世渡り上手。
允恭天皇=皇后の妊娠中も浮気をやめず。皇太子が実妹と近親相姦で大問題に。
安康天皇=勘違いで旦那を殺し、人妻を我が物に。その息子に殺される。
雄略天皇=趣味が殺戮としか思えない天皇だった。

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 特に、第二十一代雄略天皇は超狂暴な天皇として描かれます。雄略天皇が大粛清をして次から次へとライバルになりそうな皇族を殺したので、仁徳天皇の子孫はほぼ途絶えたと考えられます。
 本当でないなら、何のためにこんな話を書くのでしょうか。
■「わからない」に向き合う態度が欠けている
 別に『日本書紀』と中国の史書、どちらかが百パーセント信用できて、もう一方を無視して良いなどとは言っていません。
 本当の事は「わからない」に向き合う態度が必要なのではないか、と言っているだけです。これは日本古代史だけではなく、すべての歴史学者のあるべき態度でしょうし、歴史学以外のいろんなことでも大事な心構えだと思っています。

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 倉山 満(くらやま・みつる)
 憲政史家
 1973年、香川県生まれ。中央大学大学院文学研究科日本史学専攻博士課程単位取得満期退学。在学中より国士舘大学に勤務、日本国憲法などを講じる。シンクタンク所長などをへて、現在に至る。『並べて学べば面白すぎる 世界史と日本史』(KADOKAWA)、『ウェストファリア体制』(PHP新書)、『13歳からの「くにまもり」』(扶桑社新書)など、著書多数。

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