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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
別冊宝島 古代史15の新設「『魏志倭人伝』の新たな読み方 新藤 豊
『3世紀の現代人』が抱いた生活感覚を重視し、当時の地理観・政治情勢を踏まえつつ対極的に歴史の真実に迫る。
邪馬台国所在地と地理観
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『魏志倭人伝』方位の読み方
3世紀の農業と卑弥呼の鬼道
農業には太陽の恵みが不可欠である。
『3世紀現代人』は未熟な農業技術で、日照不足、あるいは旱魃(かんばつ)等々、天候の不順は生命の維持に直結していたのである。
日頃から相当頻繁に卑弥呼にはさまざまな祈?(きとう。お願い、お伺い)を行っていたのであろう。
『魏志倭人伝』には『鬼道に事(つかえ)、能(よ)く衆を惑わす』と。
卑弥呼には相当に鋭い霊感があったのであろう。
天候の予測から種蒔きの時期のアドバイス(お告げ)から日照り解消の祈?等々、邪馬台国の民には実に貴重で有難い『神のお告げ』であったであろう。
当時は長い緩慢な寒冷期に入っていた、と思われる。
倭国乱の原因も、さらには『黄巾(こうきん)の乱』に至る中国大陸(後漢)で頻発した農民一揆も、この寒冷化による農業不振・凶作が原因であったろう、と申し上げておきたい。
寒冷化は世界規模で発生していた。
欧州では北方の遊牧民族(フン〈Hun〉族)は家畜を養うために新しい草原を求めて西進し、玉突き的にゲルマン民族の大移動を引き起こし、強大なローマ帝国が東西に分裂する原因となるのである。
ここでは詳細に触れる余裕はないが、黄巾の乱は最終的に後漢の勝利で決着するが、後漢は衰退し、献帝(けんてい)の西暦220年に滅亡、三国時代の到来を迎えることになる。
後漢の庇護を受けて大きな勢力を誇っていたであろう『奴(な)国』は、後漢の衰退により邪馬台国連合に攻め込まれ、滅亡することになった、と推定している。
倭には出雲、邪馬台国、さらに朝鮮半島南部から北部九州を抱含していた奴国の3大勢力が鼎立(ていりつ)していたが、倭国乱という時期に出雲は邪馬台国に併合され、そして奴国も邪馬台国(連合)に滅ぼされたのではないか。
『奴国』の王は光武帝より賜った大事な金印を持って逃げるが、遂に志賀島(しかのしま)で滅亡することになる。
最後まで金印だけは渡すまい、と地中に隠したのであろう。
江戸時代に農民により偶然に発掘される。
時間軸を整理しておきたい。
『魏志倭人伝』には『倭国の乱れ、お互いに攻撃し合うようになり、何年か過ぎた』と時間軸に関してはかなり曖昧な表記に留まっているが、『後漢書』巻85には、『桓帝(かんてい)・霊帝の治世の間、倭国が大いに乱れ、さらにお互いに攻め合い、何年も主がいなかった』。
さらに『梁書(りょうしょ)・諸夷伝』には霊帝の光和(こうわ)年間(西暦178〜184年)に『倭国乱』、と記されている。
桓帝の在位は西暦146〜167年。
霊帝の在位は西暦167〜189年。
そして東アジアを揺るがす大事件であった『黄巾の乱』が西暦184年である。
もう一度だけ申し上げておきたい。
『倭国乱』と『黄巾の乱』はほぼ同時代に基本的に同じ原因=寒冷化による天候不順による凶作が原因と申し上げておく。
この時期に類稀(たぐいまれ)なる霊感を有していた卑弥呼を推戴して『出雲』を包含した『邪馬台国連合』が成立し、黄巾の乱を引き金に衰退した『後漢』の力に依存してきた『奴国』は滅亡したのではないか。
『魏志倭人伝』には既に『邪馬台国連合』に吸収された『奴国』しか登場しないので、おそらく西暦190年から200年前後に『(旧)奴国』は滅亡したのではないか、と推測する。
そしてその『奴国』の跡に邪馬台国に従属する『新・奴国』とでも称する自治(国)地域ができたが、その監視(検察)も一大率の大きな役割ではなかったか。
陳寿と帯方郡使者の報告書
本稿では触れる余裕がないが、朝鮮半島南部には西暦663年の『白村江(はくそんこう)戦い』で唐と新羅の連合軍に完敗するまで、倭に属する地域が存在したことは厳然たる時事実である。
陳寿の手許には多くの帯方郡使者の報告書が残されていたであろう。
……
邪馬台国までの里程問題
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日食に卑弥呼が一身を犠牲に
太陽の申し子、日御子(ひみこ、卑弥呼)様として多くの民の崇拝を得ていた卑弥呼に試練が訪れる。
『日食』である。
西暦247年3月24日と西暦248年9月5日に『日食』が発生したことが古代天文学でシミュレーション(……)されている。
漆黒の闇の中で人々は恐れおののき、卑弥呼の許に参集して祈りを捧げたことであろう。
卑弥呼の祈りは霊験あらたかで、翌朝太陽がいつもと同じく光り輝く様子を見て、人々は深く安堵したことであろう。
その衝撃的な出来事は語り継がれるなかで、『天岩戸』の抒情詩に昇華して行ったのではないか。
そして運命の西暦248年9月5日。
まだ日の出前、薄明の午前4時51分頃から日食は開始し、日の出の直後午前5時47分頃に太陽はほぼ欠けた、と推定されている。
纏向(まきむく)の民の恐怖はいかばかりであったろう。
卑弥呼も当然一心不乱に祈りを捧げるが太陽は益々欠けて行く。
人々の悲鳴にも似た叫び声の中で、卑弥呼は自らを生贄(いけにえ)に、と宣言し、短刀で自害したもではなかろうか。
すべて筆者の『推理・推測』である。
しかし、卑弥呼の自害と同時に太陽はまた輝きを取り戻し、午前6時47分頃には元の太陽にもどったのである。
……」
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農耕漁労民であった日本民族日本人が、命の危険や生存に影響する自然現象や気象変化を恐れた為に太陽を中心とした自然を八百万の神々として崇拝した。
ムラを襲い、農作物を破壊し、人々の命を奪う自然災害や天候不順を、神々の怒りと恐れた。
奪い去る神々の「荒魂」を鎮め与えてくれる「和魂」に戻って貰う為に、神々こい願う祈りを捧げ為に「鬼道」を執り行っていた。
神に対する鬼道といっても、大陸の人対応の鬼道と日本の自然対応の鬼道とは全く異なる。
日本民族日本人にとっての自然災害は、日本神道と日本仏教による科学ではなく八百万の神々による怒りであり、自分の心の内に潜む「邪(よこしま)」「卑しさ」「さもしさ」を「穢れ」として戒める、魂を浄める契機としてきた。
その自戒の精神があったお陰で、自然災害が起きても、暴動、強奪、殺人など社会崩壊に繋がる、人間が本来持つていた闘争本能は抑圧された。
自戒の精神が、場の空気である。
場の空気は日本だけの特異な現象ではなく、生物が集団で生活する所には必ず存在し、日本の場の空気と大陸の場の空気とは異なる。
日本の「場の空気」とは、人対応ではなく自然対応であり、人の言動よりも自然の運行に従うというものである。
大陸では、強力なリーダーシップと強烈なカリスマを持った優秀な独裁者が現れて民衆を指導して繁栄をもたらした。
日本には、そうした独裁者は現れなかった。
大陸の場の空気は、人対応として「政体」のみを形成した。
日本の場の空気は、自然対応として、「国體」と「政体」を生み出した。
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