🌋13〕─3─後漢書。卑弥呼よりも100年以上前の倭国の王「帥升(すいしょう)」。~No.51 

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 2023年5月5日 YAHOO!JAPANニュース 佐賀新聞「中国歴史書に登場、最初の日本人「帥升」 弥生時代の吉野ケ里の王か 邪馬台国論争に一石
 九州唯一の古墳時代の陵墓「都紀女加王墓」=三養基郡上峰町
 中国の歴史書に名前が登場する最初の日本人、倭国(わこく)の王「帥升(すいしょう)」は弥生時代、吉野ケ里のクニの王だったとする説を、佐賀城本丸歴史館の七田忠昭館長が発表した。邪馬台国卑弥呼(ひみこ)よりも100年以上前の時代の王で、邪馬台国九州説を裏付ける意味もあり、長年の論争に新たな一石を投じそうだ。
 新説は新たに発刊された「上峰町史」に掲載した。七田館長は根拠として、吉野ケ里周辺に残る地名や、出土した中国鏡の存在などを挙げている。
 「後漢書」には「倭面土(わめと)国王帥升」は西暦107(永初元)年、後漢の第6代皇帝・安帝(あんてい)に対して160人を献上し、謁見(えっけん)を願い出たと記されている。
 「面土(めと)」(面土国)の位置には諸説あるが、七田館長は古墳時代の行政区分に用いられた「米多(めた)」に通じるとして、現在の上峰町米多(めた)や、吉野ケ里の「目達原(めたばる)」に引き継がれたと推測する。
 出土遺物では、吉野ケ里遺跡周辺の複数の首長墳墓から、中国の鏡や鉄製の刀剣などが副葬品として見つかった。このうち、帥升後漢と外交を行った107年までに作られた中国鏡は、上峰町の二塚山古墳と五本谷遺跡から出土しており、いずれかが帥升の墓だった可能性もある。
 七田館長は「いずれも中国王朝の権威を帯びた品であり、この土地が長期間にわたって対中国外交に関わっていたことを示す」との見解を示す。
 「魏志倭人伝」でも、倭国では邪馬台国の女王卑弥呼を周辺のクニグニが共立する以前について、「男子を以って王となす、とどまること七、八十年」と、男性の王の時代を伝える。
 吉野ケ里遺跡周辺で発見されている首長墳墓は時代によって集落の位置が異なり、七田館長は「都市に当たる吉野ケ里を治めた王は周辺の有力な集落から選ばれ、役割を終えると出身集落に葬られた」と指摘する。
 また、卑弥呼が239年に魏へ送った外交官トップの名は「難升米(なしめ)」で、倭面土国王帥升の名から「升」と「面(米)」を引き継いだ一族だったと推定できるという。
 これらに加えて、上峰町には古墳時代としては九州で唯一、宮内庁が管理する「陵墓」が存在する。応神天皇のひ孫に当たる「都紀女加(つきめか)」を葬ったとされる前方後円墳(上のびゅう塚古墳)で、都紀女加は大化の改新以前にこの地域を治めた「筑紫米多国造(めたくにのみやつこ)」の始祖とされている。
 帥升の出身地の特定は、邪馬台国九州説の補強につながる。七田館長は「倭国帥升から卑弥呼の時代へと引き継がれた。倭国を構成したクニの一つである邪馬台国の位置を考える手がかりになる」と話す。(古賀史生
 古賀史生
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