🏹60〕─4─李舜臣と亀甲船は、文禄・慶長の役で秀吉率いる日本軍を苦しめた。~No.193No.194 

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 日本民族は、成功例はもちろん失敗例からも教訓を導き出して家訓として子孫に伝え、絶えず新しい時代を迎え、新しい世の中を築いてきた。
 朝鮮人はもとより中国人さえも、成功例や失敗例からも学ばず、教訓を得ず、新しい時代を拒否し、新しい世の中を認めず、同じ事を繰り返していた。
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 李氏朝鮮王朝では、救国の英雄である李舜臣のような人物は二度と生まれなかったし、亀甲船のような軍船は二度と造られなかった。
 朝鮮の悲劇はそこにあった。
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 朝鮮の亀甲船は、日本の戦艦大和である。
 日本には世界の海戦史に記録される軍艦名が数多くあるが、朝鮮には亀甲船一隻のみである。
 が、現代日本はかっての朝鮮と似て、世界に誇れるモノ・日本製品がない。
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2023年 2023年4月26日 YAHOO!JAPANニュース 婦人公論.jp「なぜ陸で無敗の日本軍が、海では李舜臣率いる朝鮮軍に連戦連敗したのか?約16万もの兵を動員して秀吉が仕掛けた朝鮮出兵文禄の役」の流れを整理する
 日本史サイエンス弐
 播田 安弘 船舶設計技術者
 日本史 豊臣秀吉
 日本軍を迎え撃ったとされる李舜臣銅像。韓国・ソウルにて(写真提供:Photo AC)
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 2017年、世界最古の巨大建築物「クフ王のピラミッド」の内部構造を、素粒子によって画像観測したというニュースが話題になりましたが、科学技術はいまや考古学の分野にまでおよんでいます。一方、従来の歴史学では、科学や物理に反しているにもかかわらず「結論」「通説」としてまかり通っているものが少なからずあると話すのが、三井造船で船の設計に長くかかわり、著書『日本史サイエンス』シリーズがヒットしている播田安弘さんです。播田さんからすると、関白・豊臣秀吉が海を越えて二度にわたって朝鮮へ出兵した文禄の役慶長の役には特に疑問が多いそうで――。
 文禄の役慶長の役
 信長が進めた天下統一事業を継承した豊臣秀吉は、関白となって位人臣をきわめ、事実上の日本国王となりました。
 彼の施策には、大名の私戦を禁じた惣無事令や刀狩りなど、国内には平和をもたらすものであったと評価されていますが、朝鮮に対しては二度の侵略戦争を行いました。
 一度目は1592年の文禄の役(韓国では「壬辰倭乱」と呼ばれています)で、日本から朝鮮半島へ約16万の兵が送り込まれました。二度目は1597年の慶長の役(韓国での呼称は「丁酉倭乱」)で、日本は約14万人の兵を動員しました。
 通算7年におよぶ日本と朝鮮、さらには朝鮮の宗主国である明をも巻き込んだ戦いは、それまでの東南アジア史で最大にして、当時の世界最大規模の戦争であり、多大な戦死者を出す凄惨きわまるものとなりました。
 しかし結局、日本軍は戦果をあげられず、秀吉の死によって撤退を余儀なくされたのです。
 なぜ陸では無敗だった日本軍が海戦で連戦連敗したのか
 文禄の役では開戦当初から、日本軍は朝鮮軍や明軍を蹴り散らし、進撃を続けました。このままいけば、明に日本軍がなだれ込むのも時間の問題と思われました。
 ところが表1を見てください。これは文禄の役における海戦について、日本側からみた勝敗を記したものです。
 表1:文禄の役での日本水軍の勝敗(『日本史サイエンス〈弐〉―邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵日本海海戦の謎を解く』より)
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 なんと、陸では無敗の日本軍が、連戦連敗を喫しているのです。いったい何が起こったのでしょうか。ここからが、この原稿の本題です。
 秀吉の朝鮮出兵について、陸上での戦いは多くの書籍に書かれていますが、海戦について記されたものは非常に少なく、皆無といってもいい状態です。そこで筆者なりに、船の専門家としての知見も生かしながら検証していきたいと思います。
 全羅道水軍左水使・李舜臣
 1592年4月12日、 山に日本軍の一番隊700隻が上陸したとき、慶尚道水軍を率いていた朴泓(慶尚左水使)は戦わずして逃亡しました。もう一人の指揮官である元均(慶尚右水使)も、日本軍の勢いを見て勝ち目はないと思い、水軍の船をみずから沈めて逃げ出しました。
 『日本史サイエンス〈弐〉―邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵日本海海戦の謎を解く』(著:播田安弘/講談社
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 こうして慶尚道水軍は無抵抗のまま壊滅し、日本軍は労せずして制海権を確保しました。
 ところが、さらに逃走を続けようとする元均に対し、これではあまりにも情けない、全羅道水軍に救援を仰いで日本軍と一戦交えようと諫める部下がいました。元均もやむなくそれに従いました。
 救援要請をうけたのは、全羅道水軍で左水使をつとめる李舜臣(1545〜1598)でした。彼は釜山陥落の報に接して憤り、日記に以下のように書き記していました。
 ―4月15日慶尚右水使(元均)の報告によれば、倭船九十余がやってきて釜山浦の絶影島に駐泊した。慶尚左水使(朴泓)からも公文が届き、倭賊三百五十余隻が既に釜山浦の対岸に至った。16日には慶尚右水使から公文が来て、釜山の距鎮はすでに陥落したという。非憤に堪えない。
 ―4月18日東 府城もまた陥落し、梁山・蔚山も敗北、慶尚右水使は軍を率いて東 府城の後ろに来たが、釜山浦が陥落したのを聞き、怖れをいだき、外に出て倭賊を挟撃すると偽り、蘇山駅に逃げ、さらに兵舎に戻り、自分の妾を脱出させ、自らも逃げた。また、慶尚左水使も城を捨てて逃げた。憤懣やるかたなし。
 ―4月20日慶尚道観察史の公文に「倭賊の勢いは盛んであり、その矛先に敵するものなし。彼らは長駆して勝に乗じ、あたかも無人の野を行くようだ」という。「戦艦を整理して救援することを願う」という。
 若いころより勇猛果敢さを知られていた李舜臣は、上司や運に恵まれず、長い間、不遇をかこっていました。しかし、彼と同郷の幼なじみで、副首相の地位にあった柳成龍(のちに首相)がその才能を買って、全羅道水軍左水使に大抜擢したのです。それが文禄の役の前年のことでした。
 なお、ここで紹介した李舜臣の『乱中日記』は、1592年1月1日から死の直前の1598年11月までの戦闘をリアルタイムで記録したもので、非常に史料的価値があり、日本語版も出版されています(『乱中日記―壬辰倭乱の記録』北島万次訳注、東洋文庫
 停泊していた日本艦隊へ突入
 さて、李舜臣は元均からの救援要請をうけると、全羅にもいつ日本軍が攻めてくるかわからないのに、朝廷の命令もなく越境することはできないと、いったんは拒否しました。
 しかし信頼する部下から、ここは境界にとらわれず敵の先鋒を挫くじくことが全羅防衛にもつながると説得され、ついに出撃を決意します。こうして、李舜臣の戦いが始まりました(図2)。
 図2:日本水軍と朝鮮水軍の戦闘(『日本史サイエンス〈弐〉―邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵日本海海戦の謎を解く』より)
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 5月7日明け方、李舜臣率いる全羅水軍は日本水軍の停泊地・加徳島(釜山広域市)をめざして進んでいましたが、巨済島の玉浦に日本船が停泊しているとの報に接し、そちらを攻撃すべく転進します。
 玉浦に停泊中の日本艦隊は、藤堂高虎らを将とする水軍と輸送船団でした。
 朝鮮水軍の来襲を知った彼らは、数では劣っていたものの、逆に船を出して迎え撃とうとします。それに恐れをなした朝鮮水軍では戦う前に逃亡する船もありましたが、李舜臣は全軍を鼓舞し、突入を開始しました。
 火矢を打ち込まれて次々と炎上した日本水軍
 李舜臣の戦術は、敵船との距離を保って、弓矢による射撃と、火砲による砲撃で敵兵を圧倒するというものでした。接近戦になると日本刀をもった日本軍の斬り込みが脅威だからです。日本水軍は接近を試みては火矢を打ち込まれて次々と炎上していきました。
 逃げる日本水軍を朝鮮水軍は翌日以降さらに、合浦、そして赤珍浦へと追撃し、結果として、日本船を(諸説ありますが)数十隻も焼き払う戦果をあげました。
 このあとも李舜臣率いる朝鮮水軍は勢いに乗って、泗川海戦、唐浦の海戦、唐項浦海戦(第1次)、栗浦海戦、閑山島海戦、そして7月9日の安骨浦海戦まで連戦連勝でした。
 そのため日本軍は海上からの補給に支障をきたすことになり、明まで一気に攻め込むというわけにはいかなくなったのです。
 ※本稿は、『日本史サイエンス〈弐〉―邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵日本海海戦の謎を解く』(講談社)の一部を再編集したものです。
 『日本史サイエンス〈弐〉―邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵日本海海戦の謎を解く』(著:播田安弘/講談社ブルーバックス
 歴史とは、人と物が時間軸・空間軸の中をいかに運動したかを記述するものである。話題騒然の前作に続き、日本史の「未解決事件」に「科学」を武器に切り込む!
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 日本史サイエンス〈弐〉―邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵日本海海戦の謎を解く
 作者:播田安弘
 出版社:講談社ブルーバックス
 発売日:2022/5/19
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 紀伊國屋書店
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 出典=『日本史サイエンス〈弐〉―邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵日本海海戦の謎を解く』(著:播田安弘/講談社
 播田 安弘
 船舶設計技術者
 1941年徳島県生まれ。父は造船所経営、母の実家は江戸時代から続く船大工「播磨屋」の棟梁。艦艇の設計を夢見て三井造船(当時)に入社、大型船から特殊船までの基本計画を担当、半潜水型水中展望船、流氷砕氷船ガリンコ号2」、東京商船大学(当時)のハイテク観測交通艇などを開発、主任設計。東海大学海洋工学部で非常勤講師を8年間務め、この間、2008年、日本初の水陸両用バス「LEGEND零ONE号」の船舶部分を設計。定年後は船の3Dイラストレーションを製作する「SHIP 3D Design 播磨屋」を主宰。2019年公開の映画『アルキメデスの大戦』では製図監修を担当、戦艦の図面をすべて手描きで作成。
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 4月27日 MicrosoftStartニュース 婦人公論.jp「文禄・慶長の役で秀吉率いる日本軍を苦しめた「亀甲船」はどれだけ強かった?13門の大砲を装備したという戦闘力を技術的に解析する
 2017年、世界最古の巨大建築物「クフ王のピラミッド」の内部構造を、素粒子によって画像観測したというニュースが話題になりましたが、科学技術はいまや考古学の分野にまでおよんでいます。一方、従来の歴史学では、科学や物理に反しているにもかかわらず「結論」「通説」としてまかり通っているものが少なからずあると話すのが、三井造船で船の設計に長くかかわり、著書『日本史サイエンス』シリーズがヒットしている播田安弘さんです。播田さんからすると、文禄・慶長の役にて豊臣秀吉率いる日本軍が戦ったとされる朝鮮軍の亀甲船には、特に謎が多いそうで――。
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 【図】資料を基に、CGで復元した亀甲船がこちら
 日本軍相手に奮戦した亀甲船とは?
 文禄・慶長の役で日本を相手に奮戦した李舜臣は、現在でも韓国の国民的英雄となっています。しかしこの戦いではもう一人の、いやもう一隻のヒーローがいるのです。
 その船について、李舜臣の甥の李芬が著した『李舜臣行録』には、こう記されています。
 ――前方には竜頭をつくり、その口下には銃口が、竜尾にもまた銃口があった。左右にはそれぞれ6個の銃口があり、船形が亀のようであったので亀甲船と呼んだ。
 大きさは朝鮮水軍の主力艦だった板屋船と同じくらいのこの船は、上部を亀の甲羅のように堅い板で覆いつくされた異様な形をしていることから、亀甲船と呼ばれています。
 甲羅にはびっしりと刀が仕込まれていて、戦闘が始まると、その上にむしろをかぶせて隠し、船に飛び乗ってきた敵兵をそれで刺し殺したといいます。
 そして驚くべきことには、船首に1門、左右に6門ずつ、計13門もの大砲を装備していたともいわれているのです。
 李舜臣の『乱中日記』にも、3月27日と4月12日に亀甲船の大砲を10回試射したと記されています。大砲には、砲身が銅製の地玄銃筒(射程64mほど)と、砲身が鉄製の玄字銃筒(射程160mほど)の2種類があったとも記されています。
 日本水軍は相手船に接舷して兵士が乗り込み、日本刀を振り回して殲滅する接近戦を得意としていましたから、亀甲船のように刀を仕込んでおくのは、きわめて有効だったと思われます。
 さらに大砲が火を噴けば、日本水軍がおおいに苦しめられたのもうなずけます。亀甲船は韓国では李舜臣と並んで国民的人気を博していて、たくさんの模型や復元がつくられています。
 見つかった亀甲船の図面
 しかし、亀甲船については当時の船体が現存しているわけではありません。文献の記述も具体性に乏しいため、くわしいことはほとんどわかっていないようなのです。
 そもそも、これだけの異様な形の敵艦に大敗したのであれば、当然、日本側に記録が残っていると思われますが、そのようなものもないようです。
 『日本史サイエンス〈弐〉―邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵日本海海戦の謎を解く』(著:播田安弘/講談社
 © 婦人公論.jp
 また、李舜臣自身も、もし亀甲船によって圧勝したのであれば、その形状や、優秀性、戦闘の経緯などを日記に記録するはずと思われますが、前述のように「亀甲船」という名前こそ出てくるものの、形状などについての記述はありません。
 そのため残念ながら、亀甲船が本当に実在していたかは疑わしいという見方が多く、筆者自身もそう思っていました。
 ところが、非常に面白い資料が見つかったのです。
 前作『日本史サイエンス』に関心を寄せてくださったノンフィクション作家の山根一眞氏との対談がブルーバックス編集部で企画されました。その折に山根氏に、韓国で1976年に出版された朝鮮王朝の軍船についての研究書を見せていただきました。
 『朝鮮王朝軍船研究』(金在瑾著、韓国文化研究叢書)というその本には、筆者がこれまで見たことがなかった亀甲船の詳細な情報が載っていて、思わず興奮をおぼえました。
 古書店を探したところ運よく一冊入手することができ、そのことを山根氏に伝えると、日本でこの本をもっているのは私たちだけかもしれないと喜んでくださいました。
 『朝鮮王朝軍船研究』に収録されている亀甲船の図面には、非常にリアリティが感じられます。専門的には、櫓を漕ぐスペースを確保するためには上部構造の幅はもう少し広くなければならないなど、整合性に欠けるところもあるのですが、少なくとも、これまでになされていなかった亀甲船の性能や交戦力の推定は可能となりそうです(図1)。
 図1『朝鮮王朝軍船研究』に掲載されていた亀甲船の図(『日本史サイエンス〈弐〉』より)
 図1『朝鮮王朝軍船研究』に掲載されていた亀甲船の図(『日本史サイエンス〈弐〉』より)
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 そこでここからは、亀甲船が実在していたという想定に立って、その戦闘力を技術的に解析して、日本水軍との海戦はどのような戦いであったのかを再現してみることにします。
 亀甲船の形状を分析する
 まず『朝鮮王朝軍船研究』に記載されているデータをもとに、亀甲船の基本形状をCGに描いてみました(図2)。
 船型は四角いバージ状の平底船型です。蒙古襲来時の蒙古軍船と同じで、やはり船型上の進歩はまったくなかったようです。
 船首船底は側面を円形とし、スムーズに水が流れるようにはしているものの、この船型では速度が上がると抵抗が大きく、波の衝撃が船底を叩き、揺れて走れなくなります。もっとも朝鮮は中国との交易では渤海湾沿岸の静かな海を低速で航行するので、四角い船でも大きな問題はなかったようです。
 日本水軍の主力となったのは中型船(20mクラス)の関船でした。
 図3は筆者がCGで設計復元した関船です。復元にあたっては、江戸時代末期に実在した御座船の「天地丸」や、復元された約900石積の「浪華丸」などのデータを用いて検討しました。
 図3:関船のCG(作成:著者/『日本史サイエンス〈弐〉』より)
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 とくに浪華丸はサイズ、重量、帆の大きさが判明していて、試運転を行い帆走速度も確認されているので、関船の設計復元に際しては貴重なデータとなりました、
 では、亀甲船と関船が受ける抵抗を比較してみます。
 船が受ける抵抗は、おもに摩擦抵抗と造波抵抗というまったく違う二つの成分から成っています。摩擦抵抗は船と流体(この場合は水)との間での摩擦によって生じる抵抗で、造波抵抗は船が波を発生させてエネルギーを無駄づかいすることで起こる抵抗です。おおまかにいえば、これらを合わせたものを全抵抗といいます。
 亀甲船と関船の全抵抗が速度によってどう変わるかを次ページの図4に示します。
 速度3ノットくらいまでは、亀甲船も関船も抵抗値はあまり変わりませんが、4ノット以上になると、四角形の亀甲船は造波抵抗が大きくなるために全抵抗が急増します。これに比較して関船はスムーズな船型で、造波抵抗がそう大きくなりません。6ノットになると亀甲船の全抵抗は関船の2倍ほどになってしまい、実際にはこのような速度では走れません。
 針路保持性、保針性に問題も
 また、図3を見ると船尾に巨大な舵がついていることに気がつきます。これには、船の長さ(L)と船の幅(B)の比率L/Bという指標が関係しています。
 図4:亀甲船と関船の全抵抗の比較(『日本史サイエンス〈弐〉』より)
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 この値が大きいほど細長くてスマートで、小さいほど針路の保持性が悪くなり、まっすぐに進めません。通常の大型船では6以上が必要とされます。
 しかし、この亀甲船は見たところL/Bは3・2ほどと、非常に太短い形をしています。これでは船首が四角いこともあって、針路保持性がきわめて悪いと考えられます。このため、非常に大きな舵を船尾に設置しているのでしょう。
 なお、現代の船でいえばプロペラを2個装備する2軸船では、艦艇や客船、高速艇やタグボートなど、L/Bが4程度のものも多いですが保針性は問題がありません。
 さらに図3からいえることは、亀甲船は側面積がかなり大きいことです。風が強くなると風圧側面積が大きく、やはり保針性に問題が生じてきます。これでは2021年にスエズ運河で超大型コンテナ船が横風により針路がずれて座礁したようなことが起こりかねないのです。
 その意味では亀甲船は、強風下での保針性にも問題がありそうですが、推進は前半部の櫓が受けもち、後半部の櫓は舵取りに特化すれば、なんとか針路保持は可能と思われます。ただし、そのぶん速度は低下するでしょう。
 実験でわかった櫓の性能と船速
 ところで、昔の船の推進方法としては、帆と、櫓とオールがありました。しかし、16世紀当時の和船では、横流れを防止する深いキールやセンターボードがなく、帆は追い風専用で、現代のヨットのように風を受けて推進力を生みだすことはできなかったので、基本的には櫓やオールで推進し、帆で進むのは追い風のときだけでした。
 櫓とオールの違いは、櫓は揚力による推進で、オールは抗力による推進であるということです。
 櫓は推力を出す水中部分と、上部の漕ぐ部分に分かれ、中間に支持点があり、ロープで連結されています。漕ぎ手は立ったまま、体を前後に動かし、腕と全身の力で漕ぎますから、人力による推進装置としては工学的にもすぐれていて、一人でも長時間漕ぐことが可能です。
 オールも支持点で反力を受けますが、後ろ向きに座って腕と上半身の力で漕ぐため、推進効率が悪いうえに疲れやすく、櫓のように長時間の航行には向いていません。したがって、当時の船のほとんどはオールではなく櫓推進でした。
 ところがこれまで、かつての船の櫓の性能や推力については、あまり調査がなされておらず、文献も少なく、よくわかっていないことが多かったのです。
 筆者が『日本史サイエンス』で、秀吉は中国大返しで船を利用したという説を書いたところ、NHKの『歴史探偵』という番組からそれを検証したいとの申し出があり、当時と同じ小早船と呼ばれる小型船を使っての瀬戸内海の航行実験を、筆者が技術指導と監修を担当して行うことになりました(写真)。
 写真:実験に使われた小早船(写真提供:著者)
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 実験では、村上水軍の拠点だった能島において、櫓漕ぎテスト、曳航テスト、横揺れ周期の計測などを行い、当時の船の速力と抵抗、そして櫓の推力について、非常に貴重なデータが得られました。これをもとに、亀甲船の櫓の能力を推定してみましょう。
 実験に使用したのは小型の小早船で、全長10m、幅2m、深さ0・45m、満載排水量1・33tでした。この船の櫓漕ぎテストと曳航荷重テストの結果から、櫓1本の推力は、時速約4・5㎞(2・4ノット)で進んでいるときで、約11㎏と推定されました。これは亀甲船でも関船でも同じです。
 ここで、櫓の速力と推力は一定と仮定し、亀甲船と関船の櫓の本数を、どちらも16本と仮定します。それらすべての櫓から生みだされる推力は、11×16=176kgとなります。
 そこで、図4に示した速度と抵抗値の関係から、全抵抗176㎞のときの亀甲船と関船、それぞれの速度をみると、亀甲船は約3・9ノット(時速約7・2㎞)、関船は約5・5ノット(時速約10・2㎞)であることがわかりました。
 その差は1・6ノット、およそ時速3㎞と、かなり違います。その理由は、これまで述べてきた船の形状の違いにあるのです。
 ※本稿は、『日本史サイエンス〈弐〉―邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵日本海海戦の謎を解く』(講談社)の一部を再編集したものです。
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