🌋12〕─2─南中国は日本によく似ている。もうひとつの中国。中国の南北対立。〜No.45No.46 

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 日本民族日本人と漢族中国人・朝鮮半島人は、別系統のアジア人である。
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 2023年1月28日 YAHOO!JAPANニュース 講談社選書メチエ「じつは日本にめちゃくちゃよく似ていた…! 「北京」や「上海」とは違う「南中国」の言葉と文化
 飯田 一史ライター
 日本人には「中国」と言えば中国東北部(旧満洲) や北京、上海などの寒い地域のイメージが強いかもしれない。しかし実は温暖な「華南」(南中国)のほうが意外なまでに日本に近い文化や言語を持っているという。香港や台湾などを含めた南から眺めると、北京や上海を中心とした中国とは違った姿が見えてくる。『越境の中国史 南からみた衝突と融合の三〇〇年』(講談社選書メチエ)を著した、中国近代史を専門とする菊池秀明・国際基督教大学教授に訊いた。
 日本と南中国には「古い中国」が生き続けている
――日本人にとって「南から見た中国」を知る意味やおもしろさには、どんなことがあるでしょうか。
 菊池 実は南中国は日本と近い言葉や文化を持っています。たとえば広東語や客家語の発音は、北京語、普通話(標準語)よりもはるかに日本語に近い。客家語で私の名前は「キッチー」と読みますが、こんな日本語に近い漢字の読み方をする方言はほかにありません。あるいは香港で使われている広東語では「世界」が「セイガイ」、「街道」は「ガイドウ」と聞こえます。北京語ではそれぞれ「シージエ」「ジエダオ」と全く違う発音になります。文字もそうで、「飲」や「食」という漢字は現代中国語では死語ですが、広東語では「飲茶(ヤムチャ)」という習慣があるように日本同様に今も使われています。
 どうしてこういうことが起こるのか。漢字が日本に伝わってきたのは遣唐使以前、古代中国からですよね。日本はずっとそれを使っている。ところが中国ではモンゴルなど北方民族の影響を受けて劇的に言語や文化が変化し、漢字の読みも変わっていきました。そんななかで、戦乱や人口爆発によって北から南へ移り住んでいった人たちは、日本同様に古代中国の言語や文化を保持し続けている部分がある。つまり日本や南中国のような周縁にこそ、かつての中国が残っている。だからお互いに似ているわけです。
 台湾の人をはじめ、いま南にいる人たちは「北から逃げてきた自分たちの文化こそが本来の中国なのだ」というプライドを持っていることが多いんですね。
 私が調査でよく訪れた広西(こうせい)には人口約1500万人のチワンというタイ系の民族がいます。彼らはいまのタイ人と祖先が同じで、タイ人がモンゴル帝国に追われて東南アジアへ逃れたとき、中国に残った人々だと言われます。だから彼らがバンコクでゆっくり話すと言葉が通じるそうです。また別のタイ系民族であるミャオ族は、もともと中国の長江流域に住んでいましたが、漢人によって南の貴州(きしゅう)に追いやられた歴史があります。
 たいへん興味深いことに、中国から伝えられた日本の稲作文化は実は彼らが源流だという説があります。というのも、稲作だけでなく日本と決定的に似ているところがあるんですね。中国では戦乱が多かったこともあり、漢人は堅牢なレンガで住宅を作ることが普通です。万里の長城を作った人たちですから、「木の家なんて危なくて住めない」と考えるわけですね。しかしタイ系民族の人々は通気性の良い木造住宅に住んでいる。それからお茶っ葉を使って「緑茶」を飲むのも同じです。このように日本人と中国の西南の少数民族、南中国の文化は実は近いんですね。
――なるほど。柳田國男が『蝸牛考』で言っている「方言周圏論」――「文化の中心部は次々新しいものが入ってきて変わっていく一方、文化が伝播していった先では遠いところほど古い言い方が残る」という話といっしょですね。
 菊池 そうですね。日本でも古い京都の文化の痕跡が東北の日本海側までに点々と残っていたりするのと同じです
――そう考えると、ビジネスでも日本人が「中国進出」と言うと上海や北京をまず対象にしますが、むしろ南の方が文化的、感覚的に近く、受け入れてもらいやすいかもしれないですね。
 菊池 中国はトップダウンの社会で、経済の中心は上海、政治の中心は北京、日本と関わりが深かったのは満州ですから、東北部の方がイメージしやすい。でも、中国の北は基本的に麺や餃子を食べる小麦の文化ですが、今言ったように南はお米文化であるなど、実は近くて入りやすいのは長江以南だと思います。
 また、香港だけでなく、東南アジアの華人世界でも広東語が使われていますが、彼らは「自分たちだけがこの言語、文化を持っている」と思っていますから、簡単な言葉でも広東語を少し使うだけでものすごくガードが緩みます。香港やシンガポールでビジネスする際には華人相手でも英語で話すかもしれませんが、覚えておいて損はありません。
 多民族社会の抱擁力
――戦前の日本と東アジアとの関わりでは、韓国併合と比べて「台湾統治は良かった」的なことがしばしば語られますが、菊池先生の本を読むと、原住民の高砂族を博覧会に生態展示したり、『武士道』で知られる新渡戸稲造が日本の植民政策を『桃太郎』にたとえて「文明の伝達者」たる日本=桃太郎が、総督府の強制栽培政策に従おうとしない鬼=台湾の農民や原住民を淘汰する、といった植民地主義丸出しの講演をしていたりと、ロクなもんじゃないなと感じました。日本人がその過去を忘れてはいけないですね。
 菊池 当時の日本は食い詰めてハワイやブラジルに移民を送り出していた国ですから、良くも悪くも「いいことをしてあげる」ような余裕はなかったと思います。「常夏の島で豊かだ」と喧伝され、台湾だけでなく東南アジアにも多くの人が出稼ぎに行きましたが、結構強引なことをして現地の人たちに呆れられています。
 ただ台湾をはじめ南中国が日本と違うのは、もともと多民族であり、すぐ隣に異質な他者がいてもオッケーなことです。漢族もいれば原住民もいる、同じ漢人でも言葉が違ったりする。意思疎通ができなくても当たり前だ、なんとかなるという抱擁力がある。いま日本人が行っても、とてもフレンドリーですよね。台湾ではインドネシアやフィリピンから来た中国語のわからない人たちを平気で家庭のお手伝いさんとして雇っています。香港人はフィリピンから英語が使える人たちを雇っていますが、台湾人は言葉が通じなくても「問題ない」と言う(笑)。そのくらい異質な他者への拒絶反応や警戒心が薄い。
 おそらくかつて日本人が台湾に入植したときもそうだったのだろうと思います。そう考えると、日本人が統治時代に特別いいことをしたというより、もともと自分たちと異なる相手がいても普通である社会だから、日本人や日本の文化もおおらかに受け入れ、また、今も好意的にしてくれるということなんだろうと。もちろん、何かを押しつけられることは嫌がりますが、異質な存在でも積極的に手を差し伸べてくれる。それがアジアの多民族社会の魅力だと思います。
――最近「多様性」と言われますが、日本人にとっては欧米よりも身近で具体的な、ある種のお手本かもしれないですね。
 菊池 「ダイバーシティ」という言葉は、近代ヨーロッパの「一民族一国家」という枠組みを前提にしているところがあって、イスラム教徒などのマイノリティーをどこまで包摂し、尊重できるかという考え方ですよね。日本人もそういう発想に馴染んでいる。でも南中国では多様なものがいくらでもあって、そこでは「その先」が問題になっている。たとえばそういう環境下でお互いにどこまで影響を受け合うのか、といったことです。その中で越境や衝突、融合が日々実践されているのが多様性の現場です。
――中国共産党が言う「中華民族の偉大な復興」的な中国観とは全然違う人々の姿があると。
 菊池 日本のニュースで語られる中国は、中央の政治の話です。「上に政策あれば、下に対策あり」と言われるように、それと庶民の姿は違います。いまコロナ禍もあって日中間の民間交流が途絶えてしまっていますが、台湾のように大陸から一歩離れたところ、あるいは香港のように本来別のものが容認されていた社会に赴いて初めて、政治ニュースで語られる中国とは違う姿が見えてきます。
 日本では香港や台湾の対中国の姿勢は、民主化をスローガンにした運動であるといった政治的な文脈で受け取られています。でも実はそれだけではなく、中央の文化に対する対抗文化の表出という面もあります。たとえば香港デモでは「香港に栄光あれ」(願榮光歸香港)という歌が作られ、そのミュージックビデオが拡散されましたが、それを観ると参加者が着ているTシャツには広東語で卑猥な言葉が書かれていたりする(笑)。
 広東語はもともとスラングですが、香港人はそこに北京の上品で政治的な文化に対する、少しお下劣だけど庶民的な生活感覚と結びついた意味を見いだしている。実は香港は英国から返還される以前には、こうした文化的な対抗意識は希薄でした。英国統治時代は、あれはあれで押さえつけられていたのであって、返還後に広東語特有の漢字が街の看板や広告に溢れるようになったんです。返還されて「中国化」が進行するのかと思ったら、中央からの力にも抗うようにして、現地の人々が本来持っていた文化が表出してきた。そしてそれが文化に留まらず「自分たちのことは自分で決めたい」という動きに広がり、デモにまでつながった。
 現在の中国とその周辺を巡る軋轢は、いま「標準語」「正統な文化」を謳う中国政府が、ローカルで生命力をもった南中国の人々の文化を圧殺しようとしている状況とも言えます。今日は「日本語と客家語の発音が似ている」とか「広東語を使うとガードが緩む」といった言葉の話から始めましたが、人々が使う言葉に込めている意味、孕む文脈は大きいです。そこから南中国を眺めてみるのもいいかもしれません。
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 2月1日 YAHOO!JAPANニュース 講談社選書メチエ「中国の「南」の民が「北」の民に抱く“警戒と反骨”…日本人が知らない「もうひとつの中国」を解明する
 安田 峰俊ルポライター
 中国の社会も歴史も、「南」から見なければわからない――。
 『越境の中国史 南からみた衝突と融合の三〇〇年』(講談社選書メチエ)で、歴史学者の菊池秀明氏は、福建・広東・広西などの華南地方こそが中国世界のフロンティアであり、ここに生きる人々の「越境のエネルギー」こそが中国近代史と経済発展の原動力だった、という。
 日本人には見えていない、「もうひとつの中国」とは? 言語・民族から歴史まで、「南の中国」を知るルポライター安田峰俊氏が、その現状と台湾・香港問題の背景を解説する。
 中国の”標準語”を音声入力する難しさ
 近年、私と中華圏の友人との連絡はもっぱらメッセンジャーアプリを使っている。中国大陸の人は微信(WeChat)、白紙運動に加わるなどした反体制系の中国人はTelegram、在米華人はWhatsAPP、香港人や台湾人はFacebook MessengerかLINE……と、プラットフォームは違うが、操作方法やマナーはあまり変わらない。通知が来たら素早く返事をしたほうがよく、ぶっきらぼうな返信ではなくそれなりの「会話」をする必要もある。
 だが、スマホの小さな画面で中国語のピンイン(発音を表記したアルファベット)を打ち込むのは骨が折れる。そこでiOSの音声入力を使うのだが、これが曲者だ。私の中国語は教科書的な発音から離れているらしく、普通に喋ると言葉をきれいに拾ってくれないのである。仕方なく、語学の授業の音読のようにゆっくりした読み方で、一音一音「標準的」な発音で喋ることになるのだが、その姿はわれながら間抜けであった。
ところが、最近になり福音が訪れた。音声入力のモードを、北京の「普通話」ではなく台湾の「國語」にすればいいと、香港在住の友人に教えてもらったのだ。結果、これまでは自分の発音がヘタだから反映されない思っていた音声入力が、なんと「國語」モードに切り替えた途端にびっくりするほど正確に文字を表示するようになった。おかげで中国語のメッセージが書きやすくなり、日々の効率性が大幅に改善した。
 ちなみに、私の中国語には南方系の訛りがある。ジャーナリズム系の「中国屋」にはめずらしく、北京で長期滞在した経験がなく、中国語を覚えた初期の段階で台湾の台南や広東省で学んでいたからだ。大学院時代の研究対象も、中国南部(華南)の歴史や文化だった。その後も広東省周辺と縁が深かったので、それが言葉にも反映されている。
 中国語は南北ですこし違う
 普通話と國語はいずれも、清朝時代までの宮廷言葉「官話」がベースだ。両者のコミュニケーションに支障はなく、基本的には同じ言語である。ただ、文法や発音・語彙がすこし違う。英語(English)に置き換えて説明すると、北京の普通話はロンドンのイギリス英語、台湾の國語はカリフォルニアの米語に相当する感覚だろうか。
 現在の普通話は、もともとの漢語に、北方のモンゴル族満洲族の言語的特徴や単語が入って形成された、北京方言をベースに整えられた言葉である。北京を首都とする中華人民共和国の標準語で、北京のメディアの発音を事実上の規範とする。ゆえに、発音や文法・語彙にも、長江以北の「北の中国」の言葉としての特徴を持つ。
 中国の内モンゴル自治区シリンゴル盟にあるモンゴル帝国の都・上都の跡。モンゴル高原満洲の異民族は、歴史上しばしば北京を支配した。筆者撮影
いっぽう、「國語」もその根は普通話と同じだが、こちらはかつて南京に首都を置いた中華民国の言葉である。中華民国は、台湾に政権を移して70年以上が経っていることもあって、現在の國語は閩南語などの南方方言の影響をかなり強く受けている。
たとえば、國語は普通話と比べると、いわゆる「r化」やそり舌音をあまり使わず、「n」音と「ng」音の区別が曖昧だ。しかも全体的にペースがゆっくりしていて響きが甘ったるい。福建系住民が多いシンガポール公用語「華語」の性質もこれに近い。台湾や香港の場合は、漢字も中国大陸と異なる繁体字を使う。
 「南の中国」の共通語
 國語や華語っぽい南方訛りの中国語は、台湾だけではなく中国南部(華南)の広東省福建省広西チワン族自治区とその周辺地域、さらに華南出身者の移民が多い香港(広東語ではなく國語を話した場合)やシンガポール・マレーシア、さらにアメリカのカリフォルニア州やカナダの華僑社会など、相当広い範囲の人たちに話されている。いわば「南の中国」の共通語であり、もうひとつの標準中国語だ。
 この言葉は、広東語・潮州語・福州語・閩南語(台湾語)・客家語など相互に通じない各種の漢語方言、さらにチワン族をはじめとした少数民族の言語がマダラのように存在する「南の中国」の社会を覆うようにして、彼らの相互のコミュニケーションの必要から形成された言語(リンガ・フランカ)でもある。
 サンフランシスコのチャイナタウンにはためく大量の青天白日満地紅旗中華民国の国旗)。海外の華人社会は、過去の歴史をタイムマシンのように保存していることがある。 南北のふたつの中国には互いに距離感があり、特に南方の北方に対する忌避意識は強い。たとえば華南の各省や香港・台湾では、北京式の発音の普通話を話すとなんとなく心に壁のある態度をとられがちないっぽう、國語や華語っぽい喋り方をすると打ち解けてもらえる。
 逆に北方で南方訛りの言葉を話したときは、「地方の人」扱いはされるものの、そこまでは嫌がられないため(東京で関西訛りの言葉を話すような扱いになる)、より多くの中国人から本音を引き出したい場合は、汎用性が高い南方系の中国語を話すほうが「得」ですらある。
 中国の中心は北京とは限らない 
 「南の中国」は、中国の華南地域と香港・台湾、さらに東南アジアや北米の華人世界までを含む。すなわち数億人の人口と、日本を上回る経済規模を持つ巨大な世界である。いっぽう、今世紀に入り中華人民共和国がいちじるしく強大化するまで、「南の中国」の世界は政治的には北京の権力の影響を受けづらく、独立性が高かった。
 南方の視点から見た場合、中国の中心は決して北京ではない。まずは広州から香港にかけての珠江デルタ都市圏、さらに場合によっては台北(20世紀後半以降)が、「南の中国」の中心である。ほかにアモイや潮州など、人によっては別の小さな中心を持つ場合も多くある。
 華南の土地は、華北から南下した漢人のフロンティアだった歴史がある。ゆえに、根の部分で移住民の価値観を残している世界だ。なので、人々は暮らしにくさを感じた場合は住んでいた土地を捨て、海外を含めた他の土地に移る。また、常に社会的な地位を上昇させたいと考えているので、商売による貨殖や科挙を通じた立身出世にも、他の地域の人たちに増して熱心だった。
 香港の新界、天水囲付近にある鄭氏の宗廟。香港の郊外にはこうした大宗族の宗廟がいまなお多数残る。筆者撮影
 とはいえ、開拓も移民も科挙の受験勉強も、一人だけの力では到底できるものではない。そこで華南では自分たちの血縁を活用して一族を成功に導くべく、相互扶助をおこなう「宗族」という父系の血族集団が発達した。また移住先では、故郷が同じ者同士で助け合う拠点として「会館」も盛んに作られた。さらに地縁や血縁を持たない人は、これらのかわりに秘密結社を作って団結した。
 「北の中国」の征服への反発
 「南の中国」から北京の権力に対する警戒感と不信感は、伝統的に極めて強い。なぜなら、「北の中国」の支配者たちはモンゴル高原満洲からやって来た異民族を多分に交え、常に南方を征服の対象として見ている。しかも彼らは、北方の言語や価値観や生活習慣を、それがさも全中国のスタンダードであるかのようにして南方に押し付け、同化を図ってくる。
 事実、北による南の征服は過去の歴史になかで何度も繰り返されてきた。宋朝南宋)は1279年にモンゴル帝国に追い詰められ、現代でいう広東省や香港の近海で起きた崖山の戦いで滅んでいる。明朝も1644年に北京が陥落してから中国南部に亡命政府をいくつか作ったが、いずれも満洲族清朝に滅ぼされ、明朝の遺臣である鄭成功の子孫が拠った台湾南部(鄭氏政権)も、やがて1683年に征服された。
 台湾、台南市内にある赤崁楼。17世紀に鄭氏政権の本拠地が置かれた。建物は再建したもの。筆者撮影
 もっとも、19世紀中盤以降は、上記のような征服の歴史に反感を抱いた「南の中国」の巻き返しのほうが大きくなる。南方の民の社会では、北京の野蛮な征服者たちから遠い自分たちこそが「真の中華文明」の継承者なのだと考える、屈折した自己認識も生まれた。
 太平天国の乱や黄花崗反乱(辛亥革命前夜の反乱)、国民革命軍の北伐といった近代中国の反乱や革命は、いずれも広東(太平天国は広西)からはじまった。これらを率いた拝上帝会・興中会・中国同盟会・中国国民党中国共産党といった革命結社の根にも、華南の秘密結社のカルチャーが息づいている。
 サンフランシスコのチャイナタウンにて、広東起源の秘密結社・五洲洪門致公総堂の本部を取材したときの筆者(安田)。左は五洲洪門の代表の「盟主」趙炳賢さん。筆者撮影
20世紀後半になると、「南の中国」の民の移住民気質と商業ネットワークが、アジアNIESの経済発展や、華南の経済特区(当初は広東省の深圳・珠海・汕頭と福建省のアモイ)を中心に進んだ中国の改革開放政策を生み出していく。
 経済的先進地になったこの地域からは、香港映画の傑作の数々や、台湾出身のテレサ・テンや香港でデビューしたフェイ・ウォンの音楽が生まれ、一時は全中華圏を席巻した。19世紀後半から現代にいたる中国の歴史は、政治にせよ経済にせよ文化にせよ「南の中国」抜きでは語れない。
 日本人が知らないもうひとつの中国
 いっぽう、私たち日本人が抱く中国のイメージは、大部分が「北の中国」のものである。外交機関や日中友好諸団体によるオフィシャルな交流も、中国の深刻な政治問題を伝える報道や論説も、「反中」か「親中」かを問わず常に北京に顔を向けている。大学の第二外国語で習う中国語も、通常は北京の普通話であり、中国人のネイティブ講師も北方の出身者が多い。
 対して、「南の中国」の存在とその重要性は、中国近現代史に目配りのある東洋史研究者や、華南を対象にした地域研究者、さらに一部の勘のいいビジネスマンの間では、数十年前から感覚的に知られてきた。しかし、こちらの中国は明確な「国家」の形をとっておらず、水のようにつかみどころがない。ゆえに、一般社会では必ずしも理解されてこなかった。
 サンフランシスコのチャイナタウンにて。ブルース・リーアメリカの広東系華僑の社会に生まれ、香港で映画スターとして成功した「南の中国」を象徴する人物の1人だ。筆者撮影
 2022年12月に講談社選書メチエから刊行された菊池秀明氏の『越境の中国史 南からみた衝突と融合の三〇〇年』は、この「南の中国」の視点を一貫して提示し続けている。一般向けの書籍としては、稀有な本である。
 中国近代史には「南からの風」が存在する
 菊池氏は1980年代に広西チワン族自治区に留学し、フィールドワークを通じて現地の言い伝えや族譜(宗族の歴史書)の記述を収集、太平天国の乱の勃発前夜における現地の社会構造の解明を試みた、行動力の高い歴史研究者だ。
 2005年に刊行した概説書「中国の歴史」シリーズ第10巻『ラストエンペラーと近代中国』(講談社)では、中国近代史を通じて存在する「南からの風」の存在を指摘した。2020年の著書『太平天国』(岩波新書)も、この視点から太平天国の乱の全容を描いた書籍だ(刊行前年に発生した香港デモの性質を考えるうえでも、同書は非常に参考になる)。
 2019年秋、香港デモの現場に残された落書き。太平天国から香港デモに至るまで、「南の中国」の反乱の底流には北京への反発が存在する。筆者撮影
 今回の記事は『越境の中国史』の書評だが、内容にはあえて詳しく触れない。ただ、私は読者諸氏が同書を手にとってみたくなるよう、その背景の解説、いわばチュートリアルを書いたつもりである。「南の中国」の存在が、もっと広く日本人に知られてほしい。
 「北からの征服者」としての清朝中国共産党
 ここから余談を書く。現在の中国を支配する中国共産党は、上海で形成されて南昌で蜂起し、江西省の井崗山や瑞金に拠点を作り、指導者の毛沢東湖南省出身で周恩来浙江省出身で……と、本来は長江以南の「南」の空気のなかでできあがった政党だ。
 だが、長征を通じて北方の陝西省の延安(そのすぐ北は内モンゴルのオルドス地方だ)に根拠地を建設し、習仲勲習近平の父)をはじめとした陝甘寧系の党幹部を多く重職につけたことで、中国共産党は後天的に「北の中国」の政治勢力としての性質を身につけた。
 彼らは戦後の国共内戦のなかで、まず満洲を占領して関東軍が残した軍事力を吸収し、北方から攻め寄せて北京を陥落させた。1644年に満洲清朝が山海関を突破して中国本土に侵入したときと酷似した構図である。
 やがて北京を首都として南進し、鄭成功なり蒋介石なりの旧政権の残存勢力を台湾に追い払って中国大陸を統一した点も、両者はよく似ている。ちなみに清朝は降伏させた北元(元朝の後身)をはじめモンゴル勢力を軍事力として取り入れていたが、いっぽうで中国共産党モンゴル帝国の西方の後継者であるロシア(ソ連)の協力を得た。
 国共内戦当時、ソ連は国民党と共産党を天秤にかけて日和見的な態度を取ってもいた。だが、すくなくとも「南の中国」の目から見た共産党政権は、万里の長城の「北」から異民族の武力を借りてやってきた、擬似的な征服王朝なのである。
 「南の中国」への目配りを持たない習近平
 もっとも、中国共産党はその後もおおむね長江以南の出身者が歴代のトップに就き、文化が異なる「南の中国」への目配りを残した。トウ小平が決めた香港の一国二制度や台湾との対立の棚上げ、華南の各都市の経済特区指定といった政策は、その価値観を反映したものだろう。
 だが近年、香港の国家安全法施行や台湾に向けた大規模な軍事演習の実施からもわかるように、中国共産党の南方政策は大きく変質している。広東省をはじめとした華南の各省に対する、中央の政治的・文化的なコントロールも大幅に増大した。
 香港の新界・西貢の上窰民俗文物館。かつての客家の農民の住宅を博物館にしたもの。筆者撮影
 背景として興味深いのは、現在の指導者である習近平が、陝西省に祖籍(祖先のルーツ)を持ち北京で生まれ育った経歴を持つことだろう。彼は中華人民共和国のリーダーにはめずらしく、「北の中国」の体現者なのだ。
 中国の中心は北京以外にはなく、普通話があらゆる中国人の標準語であるべきだと考える北方の支配者にとって、華南の各省や香港・台湾のような「変な地域」は、修正と標準化の対象でしかない。習近平は若いころに福建省で長く勤務し、実は福州語や閩南語もすこし解するらしいが、近年の政策を見る限り、残念ながら過去の経験はあまり反映されていないようだ。
 習近平政権の10年間で進行したのは、単なる政治の強権化や監視社会化のみならず、文化や社会のありかたにおける中国全土の「北方化」でもある。現代中国でひそかに進む断絶の深まりを正しく理解する上でも、「南の中国」への理解は欠かせないだろう。
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 2022年12月12日 YAHOO!JAPANニュース 講談社選書メチエ「昔も今も、華南は中国中央政府を脅かす――中国の〈南北対立〉とは?
 移民社会のエネルギーは統制困難である
 菊池 秀明国際基督教大学教養学部教授
 「中華民族の偉大な復興実現」、「一つの中国」を唱え、対外拡張路線を進める中国。
 それは今になってはじまったわけではない。
 なんと歴代王朝もまた中華世界の拡大を図っていたのだ!
 そのはじまりは南にある辺境の地・華南の統合であり、それを担ったのは移民たちだった。
 だが、移民たちは中央政府に従順な、単なる良民ではなかった……。
『越境の中国史』は、移民たちの壮絶な歴史と、彼らが築いた社会の姿を教えてくれる。移民者たちの〈フロンティア・スピリット〉を知れば、もうひとつの中国の姿が見えてくる!
 (※本稿は、菊池秀明『越境の中国史』一部再編集の上、紹介しています)
 台湾からアフリカまで拡大する中国の脅威!
いま中国の周辺世界は大きく揺れている。「中華の復興」を唱えて強国化を進める中国に対して、近隣の諸国および地域が抱く警戒心はかつてないほどに高まっている。
 2020年6月に中国政府は香港で国家安全維持法を施行し、それまで一つの国内に資本主義と社会主義という異なる二つの制度が存在する「一国二制度」の原則のもとで認められていた自由な言論に禁圧を加えた。
 また中国は台湾の民進党政権を、大陸と台湾が「一つの中国」として不可分の関係にあるという考えを受け容れない勢力として批判し、外交および軍事面で厳しい圧力を加えている。
 いっぽう中国国内ではウイグル人に対する統制が強化され、国家の安全を脅かすと見なされた人々の拘束や迫害が行われている。それはモンゴル人やチベット人など他の民族も例外ではなく、彼らの言語や文化を否定した同化政策が進んでいるという。
さらに中国は「一帯一路」と呼ばれる広域経済圏構想のもと、圧倒的な経済力を背景として東南アジア、アフリカなどで影響力を強めた。政府間で交わされた債務の返済に苦しむこれらの国々では、中国系企業の利益重視の姿勢がともすれば貧困に苦しむ現地の人々の反発を招いている。
 こうした中国周辺地域が直面している問題を読み解くためには、華南に視座をおいた中国の歴史をきちんと振り返る必要がある。
 民族の衝突、そして融合の地、それは華南!
 現在中国の主要民族となっている漢民族(歴史的には漢人)の歴史は、大きく見れば北方から南へ向けての越境の歴史だった。漢人の移民は中国王朝の版図に属しながら、先住民族が多く住んでいた東南、西南の各省へ入植した。
 やがてそれらの地域が飽和状態になると、移民はさらなる辺境へ向かい、海を越えて東南アジアに広がった。
 中国中心の視点に立てば、移民は周辺地域を内地化することで中華世界の拡大に貢献したのであり、現在世界に散らばる華人はこの移民の後裔にあたる。
 いっぽう辺境の諸民族にとって、中華世界の拡大は中国王朝の軍事侵攻と向きあう苦難の歴史だった。彼らは王朝政府の苛酷な統治に加えて、漢人の移民による激しい搾取と差別に苦しんだ。
 また漢人の移民も厳しい競争のなかで互いにぶつかり合い、中には政府の統制を嫌ったために弾圧を受ける者がいた。辺境の統治に貢献しながら、成功を収められず切り捨てられた者たちは、王朝政府に強い不信感を抱いた。
 現在の香港、台湾で見られる中国政府に対する反発は、こうした長い歴史的背景を持った現象だと言えるかも知れない。
 このように中国は、古くから多様な民族が衝突と融合をくり返しながら形成されてきた社会であった。それは政治的、文化的に強い統合圧力をかかえながら、同時に地域や民族の境界を越えて移動する人々によって不断に「創り出された」社会でもあった。
 この中国社会の特質は、華人の故郷である福建、広東の二省やそれと隣接する地域──華南に最もよく表れた。中国の南端に位置する華南の歴史は、いまの中国を理解するうえで焦点となる場所なのである。
 華南が歴史を動かした!
 華南の歴史はこれまで日本人にあまり知られてこなかった。
 日本人にとって馴染みのある中国史はまず遣唐使など日本の使節が派遣され、黄河流域を中心に多くの王朝が興亡をくり返した古代の歴史、あるいは騎馬遊牧民族が進出して王朝をうち立てた北方の歴史が中心だったからである。
 しかし中国の歴史は北方だけを中心に展開してきた訳ではなかった。
 10世紀に成立した宋朝以後、長江下流域にあたる江南地方(華中あるいは広義の華南と呼ばれることもある)の開発が進み、貨幣経済が浸透して華北すなわち北方各省とのあいだに南北の経済的格差が生まれた。
 それは14世紀に成立した明朝の首都を江南に置くか、モンゴル人の王朝だった元の首都で北方の軍事的要地である北京に置くかという論争となって表れた。
 明の永楽帝が首都を南京から北京へ移して以来、近代にいくつか短命の政権が南京を首都にしたのを除くと、中華人民共和国に至るまで首都は北京に置かれ続けた。
 いわば政治的必要が経済的な合理性を圧倒したのである。
 この間も華南は政治の表舞台に立つことはなかった。発展を遂げた江南に代わるフロンティアとして、移民の入植と開発のただ中にあったからである。北京の王朝政府から見れば、華南は江南のさらに南にある辺境の地だった。
 だが近代に入るとこうした情況は一変した。もともと海外交易の窓口である泉州、広州を抱えていた華南では、近代ヨーロッパとの出会いをきっかけに新しい時代を担う動きが始まった。
 太平天国洪秀全[こうしゅうぜん]、辛亥革命孫文など後に「革命」と評価される運動の指導者や、改革派と呼ばれる人材の多くはこの華南の出身者だった。
 革命であれ、改革であれ、中国史上初めて南から北へ向かって変革の風が吹いた時代――それが中国近代史なのだ。
 宋の初代皇帝 宋泰律 photo by iStock
 華南VS.中央政府
 新たな時代の担い手としての華南の役割は、1978年に始まった改革開放政策に受け継がれた。植民都市として建設された深センなどの経済特区がこの政策の牽引車の役割を果たしたことは良く知られている。
 1992年にトウ小平が南方の諸都市を視察して、外資導入による経済建設を大胆に進めるように指示した南巡講話も華南の発展を加速させた。
 ただしそれは数百年間続いてきた中央政府による政治重視の姿勢を排除するものではなかった。北の政府や人々にとってみれば、華南は江南に代わって台頭してきた新興勢力だった。
 それまで上海の頭を押さえつけていれば良かったものが、新たに広東という異質な文化と向き合わなければならなかったのである。
 しかも西側諸国との窓口だった南の世界がもたらした価値観には、資本主義的な消費文化に加えて国内の民主化に関する政治的要求が含まれていた。共産党内の保守勢力はこれを精神汚染とみなして危機感を持ち、1989年の天安門事件で弾圧に踏み切った。
 近年こうした国家による統制がとみに強化されていることは、中国で唯一天安門事件について語ることが可能だった香港で、事件の追悼集会が事実上禁止されたことによく表れている。
 現在の習近平による権威主義的な統治は、中国における南北の対立や国家と社会の緊張関係という歴史的背景を持った産物なのである。
 中央政府は南からのエネルギーを統御できるのか?
 華南経済圏の発展を支えたのは、越境する人々のエネルギーであった。
 中央政府の眼が届きにくかったこともあり、華南には中国社会の中でも相対的に「自由」な空間が生まれた。
 天安門事件後に国家の統制が厳しくなった時でも、華南では「上に政策があれば、下には対策がある」という言葉が示すように保守的な中央の意向に必ずしも従わない自律性が見られた。
 近年中国が強大化する中で国家の統制が強まり、メディアや知識人に対する言論の弾圧がくり返される中で、こうした空間は急速にしぼんでしまったように見える。
 だが中国は日本人が考えるほど一律で規格化された社会ではない。水面下に隠れながらも、越境することで様々な圧力を乗り越える行動力は今なお生きている。
 台湾に対し「一つの中国」をとなえ強硬姿勢を崩さない中国共産党。けれど、そもそも中国本土が「一つ」ではないことを華南の存在は示していた。それどころか、華南はさまざまな民族のるつぼなのだった。そこから生まれる融合と衝突のダイナミズムを中央政府は統御できるのか? 中国拡張路線のいく末を考えるうえで、華南の歴史、そしてそこに生きてきた人びとを知ることは、けっして無駄ではないはずだ。
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