🪁9〕─2─中国南北朝。鮮卑の北魏王朝皇太子の母は死なねばならない。~No.24No.25 

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 2023年5月15日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「皇太子の母は死なねばならない⁉ 中国・北魏に実在した驚きの皇位継承ルール
 司馬金龍墓漆画屏風
 遊牧集団・鮮卑の一部族、拓跋部が4世紀末に創始し、その後130年余りにわたって中国の北半分を支配した王朝が、北魏だ。五胡十六国の分裂を平定し、その後の「新たな中華」を拓いたこの王朝の皇位継承には、現代では考えられない残酷なルールが存在していた。初めての「鮮卑拓跋部の通史」として好評の『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』(松下憲一著、講談社選書メチエ)から見ていこう。
 【写真】騎馬遊牧民鮮卑拓跋の世界
 生母が死を賜る「子貴母死」
 拓跋部が本拠とした中国・内モンゴル自治区の包頭市近辺の遊牧民。松下憲一氏撮影
 世界史上のあらゆる権力者や王朝にとって、「後継者選び」は最も悩ましい問題だ。強く、優秀な後継者をどうやって決めるか。しかも、前任者や先祖への敬意を忘れず、血筋も良く、誰からも文句が出ない者でなければならない――。
 そこで、北魏で採用されたのは、「子貴母死(しきぼし)」と呼ばれる方式である。『中華を生んだ遊牧民』の著者で、愛知学院大学教授の松下憲一氏が解説する。
 「子貴母死は、後宮の女性が子を産み、その子が後継者に選ばれると、生母は死を賜うというルールでした。ただし、後継者が即、皇太子になるわけではなく、その後さらに選抜を経て皇太子に立てられるのです。特に北魏の前半に行われており、中国の研究者の間でも、比較的最近になってクローズアップされてきた制度です」(松下氏)
 なんとも残酷な話であるが、どうしてこのようなルールができたのか。その理由を、北魏初代皇帝の道武帝は、息子の明元帝に次のように説明している。
 ――むかし前漢武帝が子を皇太子とするときにその母親を殺し、母親がのちに国政に参与し、外戚が政治を乱さないようにした。お前は跡継ぎになるのだから、わしも前漢武帝と同じようにして、長く続くようにしておく――。
 外戚つまり母方の実家が政治に口をはさむというのは、古今東西で見られる政治混乱のパターンだが、それを防ぐために先に生母を殺しておく、というのだ。
 しかし、この理不尽なルールに納得できない明元帝は、悲しみのあまり日夜号泣した。嘆き続ける息子の不甲斐なさに激怒した道武帝は、明元帝を呼びつけたが、側近たちは不測の事態を怖れて明元帝を押しとどめた。これに対し道武帝は、明元帝が後継者になることを拒否したと思ったのか、明元帝の腹違いの弟、紹を後継者にするため、今度は紹の生母を幽閉した。すると紹はなんと、宮中に乗り込んで道武帝を暗殺したのである。
 予想外の展開に戸惑う官僚たちは、誰についてよいかわからずにいたが、一部の官僚が都・平城を離れていた明元帝を呼び戻し、明元帝が紹を倒して、皇帝に即位した。道武帝の思いとは違って、波乱の皇位継承となってしまった。
 後継者選びを神聖化
 道武帝は、「前漢武帝にならって、母親とその一族が政治に関与できないようにする」と言っているが、北魏の前に拓跋氏が建てた代(だい)国でも、同様の事態はしばしば起きていた。道武帝の判断は、その「反省」に基づいていたのである。
 初代皇帝である道武帝には、さらにもう一つ狙いがあった。
 〈それは後継者をあらかじめ選ぶということである。代国時代の後継者は、能力・年齢・母親の出身などをもとに、部族長たちが選んでいた。拓跋氏のなかから選ばれるとは言え、継承の仕方に定まった順番はなかった。そのため必ずしも直系子孫に引き継がれていなかった。そこで道武帝は、自分の子供、さらに孫と直系子孫に確実に継承されるよう、あらかじめ後継者を決めることにした。その際に母親を殺すという代償を払うことで、後継者選びを神聖化したのである。〉(『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』p.88)
 苛酷なルールに嘆き悲しんだ明元帝だったが、みずからの後継選びにあたっては、躊躇なく子貴母死を採用している。皇帝が後継者を指名することで、これまでの部族長たちによる推戴という形式を排除し、道武帝の直系子孫の絶対性を確立したのである。
 この子貴母死は、いつまで行われたのか。漢化政策を取ったことで知られる第6代の孝文帝はこの制度の廃止をめざしたが、祖母にあたる文明太后の反対にあって断念したという。
 しかし7代・宣武帝のとき、例外が生じた。なかなか後継ぎに恵まれなかった宣武帝後宮は、妃たちの不穏な争いの場となっていたが、側室の一人、胡氏が懐妊したのである。
 〈北魏では、後継者の生母は殺される子貴母死があるため、後宮の妃たちは長子を生むのを嫌がった。しかし胡氏は懐妊すると、おなかの子が男の子でかつ長子になることを願った。そのために自分が死ぬとしても。そして孝明帝を生んだ。〉(同書p.187)
 この時、宣武帝は唯一の皇子を生んでくれた妃を殺すに忍びなかったのか、胡氏は死を免れる。515年、8代目の孝明帝が6歳で即位したとき、生母の胡氏は皇太妃となった。これが霊太后である。
 しかし、初代道武帝が怖れたように、霊太后はまもなく政治の実権を握り、528年には実子の孝明帝を毒殺し、同年、霊太后自身も殺される。政治は混乱し、6年後、北魏は東西に分裂することとなるのである。
 ※鮮卑拓跋とはそもそも何か? 〈待望の「鮮卑拓跋」本、登場! 中国史のカギを握る「忘れられた部族」とは? 〉もぜひお読みください! 
 学術文庫&選書メチエ編集部
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