☳41〕─4─地獄の ベトナム戦争派兵60年の記憶。韓国軍による虐殺の新たな証言。〜No.150 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本人は、罪を認めて謝罪し、反省し、要求される賠償金を支払った。
 朝鮮人や中国人は、罪を認めないし、謝罪しないし反省もしない、そして賠償金を払わない。
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 日本人による惨殺も、朝鮮人の虐殺も、中国人やロシア人の殲滅も、人類史からいえば五十歩百歩である。
 歴史的事実として自己犠牲による人道貢献や平和貢献をおこなったのは、日本人であって、朝鮮人、中国人、ロシア人にはないし、ましてやソ連中国共産党・国際的共産主義勢力にはない。
 歴史的な人道貢献や平和貢献をおこなった日本人とは、昔の日本民族であって現代の日本国民ではない。
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 2023年9月13日 YAHOO!JAPANニュース ハンギョレ新聞「母・弟・隣人の命日は同じ日…ベトナム戦争での韓国軍による虐殺の新たな証言
 [ベトナム戦争派兵、60年の記憶](1)「ビンタインの涙」
 韓国軍に銃撃され奇跡的に生存したトン・ティ・キム・ロアンさん(中央)が家族や村の住民らと共に銃撃された場所に立っている。左は韓国軍警戒所に唐辛子を一緒に持って行ったド・ティ・スオンさん、右はレ・バン・ヒエンさん=クァク・チンサン記者
 <59年前の1964年9月11日。医療部隊140人を皮切りに、9年間で青龍・猛虎・白馬部隊など34万6393人の韓国の軍人がベトナム戦争に派兵された。その後、1999年のハンギョレ21の報道によって、韓国軍がベトナムで犯した民間人虐殺が初めて世に知らされた。今年2月、韓国の裁判所は、韓国が虐殺の被害者に対する法的責任を負わなければならないとする判決を下した。だが、今でも大韓民国政府は「虐殺はなかった」と主張している。60年の歳月が流れ、ベトナムの韓国軍参戦地域には60基の慰霊碑と憎悪碑が建てられた。ハンギョレは、ベトナムの民間人虐殺の現場を訪ね、ふたたび60年前の記憶を呼び起こす。これまで知られていなかったビンタイン(ビンタン)虐殺とリーソン島の話をハンギョレが初公開する。>
 ティンティン、ティンティン。
 山では不思議な音がするという。ぴょんと飛び上がって落ちたり、重い石を投げると、ティンティンと大きく鳴るというのだ。ティンティン(Thinh Thinh)は擬声語だ。日本語の「トントン」に当たる。それでティンティン山と呼ばれた。
 ティンティン山に登った。乗用車に乗り、曲がりくねったアスファルトの道を20分以上走った。海抜168メートルのティンティン山の頂上に到着すると、クアンガイ省ビンタン村全体を一望できた。ティンティン山の頂上にはティンティン寺がある。1920年に建立された100年を超える寺だ。法事がある日だったため、信徒たちが多く来訪していた。
 ビンタン村は、韓国人が頻繁に訪れる観光地のダナンから南にわずか100キロメートルのところにあるが、韓国人はほとんど見かけない。ティンティン寺のティク・ドン・ロック住職(49)がお茶を出してハンギョレの取材チームを歓迎してくれた。住職は韓国人たちに何か言いたいことが多くありそうだった。
 「寺の前にある大きな井戸を見たでしょう。韓国軍もそこで水を汲んで、水浴びしたり飲んだりしたそうです」。ティンティン山の頂上の入口にあった井戸は、幅が2メートル以上もあった。金網の間から下を見下ろすと、底が見えないほど深かった。「小さくてみすぼらしかったのですが、韓国軍の兵士たちがセメントを塗って改善補修したそうです。その人たちが生きていれば、きっとその井戸のことを覚えているでしょう」。1994年に亡くなったティク・フエン・ダット僧侶は生前、韓国軍についての話を多く聞かせてくれたそうだ。
 「韓国軍の兵士たちには、仏教を信じる人が多かったそうです。時々来ては仏像を拝んだり、米を奉納したりしたそうです」。韓国軍はこの寺に切ない記憶を残したようだ。「昔はティンティン山の頂上につながる山道は一つしかなかったそうです。とても狭く、1人しか通れませんでした。韓国軍はその道を使って登っては来ませんでした」。韓国軍だとすれば青龍部隊(海兵第2旅団)だ。彼らはヘリコプターを利用してティンティン山の基地に出入りした。撤収の際、基地の構造物をすべて燃やし、使った物や文書を土に埋めたという。そして…
 「撤収直前、ある軍人がティク・フエン・ダット僧侶を訪ね、小さな金塊を与えたそうです。戦争後、寺をきれいに改修するようにと言ったそうです」
 ここで話が終われば感動ものだっただろう。韓国軍を覚えている人は、ティク・ドン・ロック住職だけではなかった。何人ものビンタンの住民がいた。意外なことに、その一部は「韓国軍憎悪碑」を準備しているといった。
 「私たちは唐辛子を採りました」
 8月5日、ベトナムクアンガイ省ビンソン県ビンタイン市で会ったトン・ティ・キム・ロアンさん(67)が語った。57年前、10歳の少女だったロアンさんは、祖父のトン・マイさんとともに、畑で唐辛子を採ったという。唐辛子畑での太陽の光は肌を刺すかのようだった。ベトナムの唐辛子は小さくて辛かった。韓国軍の兵士たちがベトナムの唐辛子を非常に好んだといううわさは知っていた。祖父と少女は、唐辛子を小さな袋に入れて、ココット基地の韓国軍を訪れたという。
 最初にビンタイン(ビンタン)市に駐屯したのは米軍だった。そして1966年8~9月のある日、米軍は消え去り、米軍より背が低く東洋人の容貌の軍人が目につき始めた。韓国軍だった。1965年10月にベトナムに上陸した韓国軍の青龍部隊は、フーイエン省トゥイホアを経て、北側のクアンガイ省に来た。住民たちは見慣れない軍人の登場に不安になった。
 ビンタインは、1964年に始まる韓国のベトナム戦争派兵史において、今回初めて名前が出てくる地域だ。国防部が1979年に出した『派越(ベトナム派遣)韓国軍戦史』にはビンタインはない。ビンタインの北側のビンホアは、430人あまりに達する大量虐殺とそれによる韓国軍憎悪碑で有名だが、そうした資料にもビンタンは出てこない。8月にビンタインで会った住民たちは、初めて韓国軍の虐殺に関する証言をハンギョレに語った。
 トン・ティ・キム・ロアンさんの祖父のトン・マイさんが韓国軍の警戒所を訪れた際、祖父の手にはベトナムの唐辛子と手紙が握られていた。祖父は同じ村に住むカオ・ポさん、マイ・カットさんと同行した。3人は村を代表し、韓国軍と初対面した。3人とも1890年代生まれの70歳を超えた老人だった。彼らが韓国軍に送った手紙は漢文で作成された。幼い時から漢文を読み書きできた彼らは、韓国人も当然漢文を読めると考えた。ビンタインの韓国軍部隊には専属の通訳がいなかった。手紙には老人たちの懇願が記されていた。「村の人々は全員良民です。決して危害を加えないでください」。手紙とプレゼントが渡された場で、幼いトン・ティ・キム・ロアンさんは祖父の手を握っていた。
 「発煙弾をさく烈させた後、短機関銃を乱射しました」
 ロアンさんと祖父が唐辛子を捧げた1カ月後、今度は韓国軍の兵士たちがトン・ティ・キム・ロアンさんの村を訪れた。彼らは銃を所持しており、人々に向けて銃を乱射した。韓国軍は、朝食を食べる前の6~7時頃にロアンさんの家を訪れた。彼らは家族に全員外に出るよう言った。母親のマイ・ティ・エンさん(30)、弟のトン・プオンさん(7)、トン・フオンさん(6)と一緒に出た。同じ村に住むおじさんの家族6人が連れられてきた。全部で10人だった。
 まず軍人たちは食べ物を分け与えた。缶詰だった。おそらく「Cレーション」(軍支給の戦闘食糧)だったのだろう。大きな木の下に短機関銃を置く光景を見た。しばらくした後、突然、「パン」と何かがさく烈して煙が上がった。前がまったく見えなくなった。発煙弾だった。天地を揺るがす銃声で鼓膜が破れそうになった。ロアンさんは母親にしがみついて後ろに隠れた。悲鳴をあげて人々が倒れ、ロアンさんは一番下に押しつぶされた。銃声が止まった。人々のうめき声も止まった。
 母親と弟2人は動かなかった。おじさんの家族もみな同じだったた。トン・ティ・キム・ロアンさん以外は、全員血を流して息をひきとった状態だった。気がついて起き上がった。「軍人たちも自分たちの銃で倒れる人たちの姿を見るのが恐ろしく、発煙弾を投げたのだろうか」という疑問を感じた。軍人たちは遺体を確認せず帰った。運がよかった。腹に小さなやけどを負っただけだった。今でもよく、弾丸が腹をかすめたぞっとする感覚を思いだす。
 母親と弟の命日は、陰暦で1966年9月12日、陽暦では10月25日だ。国防部の『派越韓国軍戦史』によると、青龍部隊は1966年8月18日にトゥイホアを離れ、チュライとクアンガイ省に来た。大部隊が移動したため、9月15日まで1カ月かかった。派越戦史にはその期間の詳しい記録はない。11月8日までもない。「部隊の整備と並行して、9月24日から現地住民の収穫の保護のための黄金作戦を行い、それが終わった後、米軍と南ベトナムの協力を得て飛鳳作戦を敢行し、地域内の敵を撃破することによって戦術責任地域を安定させ、中隊戦術基地の一部を再配置した」とだけ記されている。地域内の敵をどのように撃破したのかは不明だ。
 逃げていた父親が夜に帰ってきて、村のおじさんたちとともに遺体を収拾した。母親の墓にはバナナの木を1本植えた。母親は臨月だった。妊娠すると、祝いの意味でバナナの木を植える村の伝統があった。出産の際には木に実ったバナナを食べ、新しい生命の誕生を祝った。母親はバナナを食べて祝いを受けることができなかった。
 「唐辛子を持って行った老人たちは、全員死にました」
 レ・バン・ヒエンさん(76)が言った。レ・バン・ヒエンさんはパソコンで作成した名簿を見せ、一番上の1、2、3番を示した。そこには順に、トン・マイ、カオ・ポ、マイ・カットという名前が記されていた。韓国軍の警戒所に唐辛子の袋と漢文の手紙を持って行った、まさにあの老人たちだ。1番のトン・マイさんは、トン・ティ・キム・ロアンさんの祖父でもある。レ・バン・ヒエンさんは「韓国軍は唐辛子だけを受け取り、その後に老人たちを全員殺した。軍人が村の捜索する過程でトン・マイさんを先に殺し、後にカオ・ポさんとマイ・カットさんを同時に殺した」と述べた。彼が見せた文書は、1966~1967年に韓国軍に虐殺されたビンタインの住民名簿だった。
 1966年当時、20歳の武装遊撃隊員だったレ・バン・ヒエンさんは山で生活をしていた。村にいた彼の父親のレ・ソアンさんは1966年9月26日、次兄のレ・タオさんはその年の10月17日に韓国軍に殺されたという。
 ビンタイン市の韓国軍基地と警戒所は、ビンヒエプ市のジョンチャイン、ココット・チャインホイ、ドンプオク村のドンホア、ティンティン山の頂上の4カ所だったというのが、レ・バン・ヒエンさんをはじめとする住民たちの証言だ。ビンタイン市の中央に位置するティンティン山の頂上に中隊規模の部隊がいたとすれば、トン・ティ・キム・ロアンさんが訪れたココットには少数の小隊がいたという。韓国軍は1967年12月21日にそこを去った。
 レ・バン・ヒエンさんは、ビンタイン地域の人民がどのように外部勢力に対して戦ったのかについての歴史を記録してきた。1930年から1975年までの歴史はすでに著書として出版した。そのなかには、韓国軍に殺された人たちの話がある。彼は最近ようやく、住民の証言を収集して名簿の作成を始めたと言い、もう1枚の文書を見せてくれた。50人が書かれたワードの文書ではなく、ボールペンで書かれた紙だった。追加の証言を確保した12人の名簿だった。現時点では、ビンタイン地域で集計された韓国軍による民間人虐殺の犠牲者の総数は62人という話だ。レ・バン・ヒエンさんは、資料の調査が完了すれば、犠牲者のための追悼施設を作ることを提案すると述べた。
 1975年4月の解放後、韓国軍によって人命被害を受けた村ごとに慰霊碑が建てられた。ビンホアやフーイエンのような場所には、憎悪碑が建てられた。戦争直後だけでなく、50年を経て建てられた場所もある。2019年に碑を建てたクアンナム省ディエンバン市のクァンホウだ。韓ベ平和財団の統計によると、そのようにして建てられた慰霊碑はベトナムに60基ある。だが、ビンダインには慰霊碑がない。
 レ・バン・ヒエンさんは「慰霊碑でなく憎悪碑を建てることを提案する」と述べた。犠牲になった人たちは全員、無力な老人や女性、子どもだったためだという。彼はベトナム政府のスローガンである「過去を閉ざし未来を志向する」という言葉を口にすると、無言で首を横に振った。そして言った。「それでも憎まざるをえません。こうしたことは、永遠に憎まなければなりません」
 クアンガイ・ビンタイン/コ・ギョンテ記者、クァク・チンサン記者、通訳:グェン・ゴック・トゥエン(ダナン大学韓国語科教授) (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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