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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
身分低い弱者であった足軽・雑兵、人足、小者は、マルクス主義の階級闘争史観における搾取される哀れな人民ではなかった。
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戦国時代。渡り足軽や武士らは、味方する大将・戦国大名への忠誠心はなく、領地持ちの武士の身分にも興味がなく、強者に味方してその役得として戦場で乱取り働きをする事であった。そして、敗れれば別の大将や戦国大名に仕官すか、さもなくば元の盗賊に戻って農村を襲撃して殺人と強奪を繰り返した。
それ故に、百姓は落ち武者狩りとして敗れた武将と共に足軽・小者・人足を見つけ次第に惨殺した。
乱取りで捉えられた日本人は、中世キリスト教会・イエズス会伝道所群の仲介で白人キリスト教徒商人に売られていった。
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戦国大名は、合戦に備えて兵力を増強する為に、限られた家臣や領民だけではなく戦場から戦場を渡り歩く足軽や武士らを多く賞金・俸禄で雇っていた。
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2021-11-11
⚔5)─2・A─応仁の乱。乱取りを始めた足軽。新兵器の鉄砲「三目銃」と槍。~No.24
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2024年11月9日 YAHOO!JAPANニュース 原田ゆきひろ歴史・文化ライター「【雑兵物語】足軽たちは何を思い戦っていたのか?雑兵への指南がつづられた“合戦のハウツー本”を読み解く
人によって好みの違いはあると思いますが、私たちが戦国時代のドラマや映画を観る時、人気となるのは華々しい合戦シーンです。
「者どもひるむな、ゆけい!」などと大将が号令をかけると、大勢の兵が敵陣へ突撃して行くシーンは、この上ない迫力があります。
何とも勇ましい姿ですが、現代の演技でなく当時のリアルな戦場において、最前線の雑兵たちは何を思って臨んでいたのでしょうか。
それらが伺い知れるひとつが、徳川家が天下統一を果たした後に出回った「雑兵物語(ぞうひょうものがたり)」という書物です。
タイトル通り数十名の雑兵が登場し、口語体で話し合う内容となっているのですが、合戦のときは「こうするべき」というアドバイスに加え「ああしたら上手く行った、失敗した」などの体験談が語られています。
現代でいうところの"ハウツー本"とも言える内容で、この記事ではいくつかの内容をピックアップし、雑兵たちのリアルに迫って行きたいと思います。
戦闘部隊の心得
【槍足軽】
合戦において槍とは突くだけのものではない。敵勢が近づいたら全員で息をあわせて穂先を揃え、上から一斉に叩くのだ。目安としては、敵兵の背中に差された旗を、叩き落とすつもりでやるといい。
ただ敵が1人2人など少数のときは、突いて攻撃しても構わない。また馬に乗った敵と相対するときは、先に馬の胴を突くといい。馬がはねて敵が落馬したところを、仕留めるのだ。
【弓足軽】
敵が遠いうちは、腰につけた矢入れの矢はまだ射てはならない。別の矢を先に渡すから、それを先に射るべし。そして、いよいよ敵が近くなった時に、矢入れの矢を使うのだ。また命令された距離よりも、遠くを射てはならない。
そして、いちど引き絞ったならば練習で的を射る時よりも、2倍の時間を使うつもりで射るべし。勢いに任せて、当たりもしない無駄矢を撃ってはならない。
もし弓も撃てないほど敵に近づかれたら、弓の先につけた「はず槍」で、鎧の隙間を狙って刺せ。
※『弭槍(はずやり)』矢を射つくした時や弦が切れたとき、あるいは近接戦になった時に、弓の端に刃先を付けて、槍の代わりとして使ったもの
そのあとは刀でも脇差でも抜いて、敵の手足を狙って切りつけるしかない。ちなみに正面から兜を切ってはならない。そんな所を狙っても斬れないし、刃が欠けてしまう。
サポート部隊の心得
【馬取(馬の世話をする雑兵)】
少しの間でも馬から目を離すときは、逃げ出さないように用心せよ。もし逃げ出して陣中が大騒ぎになり混乱に陥ったならば、戦ってもいないのに負け戦と同じになる。これだけは念には念を入れよ。
このような話がある。むかし最前線の陣中でハツカネズミを捕まえ、くくりつけていた者がいた。しかし逃げ出してしまい「どっちに逃げた」などと2~3人で騒いでいるうちは、まだ良かった。
だが急な騒ぎに後続部隊が「敵が攻めかかってきた」と勘違いして、動揺し始めたのだ。それは次々に別の部隊へも波及して、あっというまに崩れてしまった。全体としては5~6万もの大軍だったにも関わらず、そうして行軍してきた道の10日分も退却する羽目になったのだ。
ネズミ1匹でこうなるのだ。まして馬が放たれようものなら、西の果てから蝦夷地までも逃げなければならなくなる。それくらい、つねに馬を鎮めておくことの重要さを忘れてはならない。
合戦中の過ごし方
大事な場面でどうしても喉がかわいた時には、梅干しを取り出して眺めるべし。だが実際に舐めてはならない、そうすれば余計に喉がかわくだけだ。眺めて出て来る唾で、かわきを癒すべし。
また、胡椒の実はいくさに出る日数分だけ、持って行った方がいい。夏でも冬でも、胡椒をひと粒ずつかじっていれば、寒さにも暑さにもあたらなくなる。
それから寒い日には、唐辛子をすりつぶして尻から足の先まで、全身に塗っておくと凍えないで済む。手にも塗って良いが、そのまま間違って目をこすったら、大変なことになるので気を付けるべし。
荷物をくくる縄は、里芋の茎をよく干して縄にするように。味噌で味をつけ、刻んで水に入れ、火にかければ味噌汁の具になる。もし薪が手に入らなければ、乾いた馬の糞も使える。とにかく合戦の間は乞食になったつもりで、何でも利用して生き延びることが大切である。
それから冬場の合戦で勝利し、敵が逃げた跡地で、霜のおりていない地面があれば掘り返してみるといい。敵が咄嗟に埋めて隠した、食べ物や道具が得られるかも知れない。
当時の合戦のリアル
ここまで、いくつかの項目を抜粋してご紹介しましたが、これらは全体のほんの一部分です。しかし、それでもフィクションとは違う合戦の一部が、伝わって来る気がします。
現代の私たちが昔の合戦を見るとき、兵力や地形や、武将の才覚で判断しがちです。しかし軍勢を構成する一人一人は私たちと同じ人間であり、戦いの前に食べ物や寝る場所はどうするのか、用意を考えなくてはなりません。
現代の旅行と違い行き先にホテルもなければ、どこで何日過ごすのかも決まっていません。完全なサバイバルであり、敵と出会う前に戦場へ行くまでが、一大事です。
また合戦が始まってからも矢の節約や、槍隊が突き合いの前に“せーの”で、敵兵を叩く戦法など、指南は地道さや泥臭さにあふれています。
馬を逃がして敵襲と勘違い、自己崩壊するという話も、そこだけ切り取ると情けない軍隊にも思えてしまいます。しかし兵士も勇敢な人ばかりではなく、まして臨時に集められた雑兵となれば、怖がって逃げ出す人間もいて当然のように思えます。
これら大勢を率いる大将ともなれば、戦術や武勇の実力以外にも、人をまとめる才能や仕組みが、いかに重要になるかが伺い知れます。
誰が何のために書いた?
雑兵物語が書かれた時期は江戸時代の初期、天草・島原の乱が鎮圧された後くらいになります。徳川幕府の成立後、最も大規模に起こった反乱も集結し、本当の意味で太平の時代に突入しようとしていた頃です。
もう合戦も無いとなれば、多くが平和ボケしてしまうところ、戦場の緊張感や知恵を広めて、引き締めようとしたのかも知れません。
時代的には戦国時代より何十年も後であり、伝言ゲームのように尾ひれがついた可能性もあります。そうはいっても、当時の生きた感覚に近い書物で、現代の専門家からも貴重な資料とされています。
なお、この雑兵物語を執筆、あるいはまとめた人物は京都所司代などを務めた、松平信興(のぶおき)と言われています。しかし、そうではないという見方も存在するなど、諸説あります。
いずれにしても、大名や武将の視点だけでは窺い知ることのできない、末端の実態に触れることができる、たいへん面白い書物です。
「雑兵物語」というタイトルそのままで、現代語訳されている書籍も出ていますので、もし興味のある方は是非いちど読んでみて下さい。
原田ゆきひろ
歴史・文化ライター
■東京都在住■文化・歴史ライター/取材記者■社会福祉士■古今東西のあらゆる人・モノ・コトを読み解き、分かりやすい表現で書き綴る。趣味は環境音や、世界中の音楽データを集めて聴くこと。■著書『アマゾン川が教えてくれた人生を面白く過ごすための10の人生観』
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2020年9月4日 YAHOO!JAPANニュース「賊・悪党を従えて応仁の乱で活躍した「足軽大将」骨皮道賢とは?
「歴史人」こぼれ話・第4回
足軽大将・骨皮道賢とは何者か!?
西軍に対陣した東軍細川勢。『絵入名将百史伝』(中央出版社)中村金水著/国立国会図書館蔵
応仁の乱で大活躍したのは足軽だった。足軽には「足軽く駆け回る者」という意味があり、文字通り戦場を駆け回り、放火や後方撹乱などを行った。そして、略奪行為も平気で行っていた。足軽を束ねていたのが足軽大将で、骨皮道賢(ほねかわどうけん)もその一人である。
道賢の出自は不明。生年すら明らかではない。名字の骨皮の所以は、①骨と皮ばかりの痩せた姿、②皮革業を営んでいた関係という2つの説がある。しかし、現時点ではどちらが正しいとは言えないようである。
道賢は東軍を率いた細川勝元、あるいは近江京極氏の配下にあった室町幕府侍所所司代の多賀高忠に従っていた。なお、名字が骨皮で、名の道賢は史料によって「道源」「道元」「道見」とも記す。いずれにしても、謎多き人物である。
骨川道賢が大将に仰いだ東軍・細川勝元の肖像。『本朝百将伝』/国立国会図書館蔵
侍所所司代の被官で目付でありながら、盗賊を従える
道賢は侍所所司代の被官であり、目付という職にあったと言われている。目付とは、京中の盗賊などの動静を探る職務である。道賢は、京中および南山城に多くの者(盗賊や悪党)を従えていたという。
したがって、道賢は盗賊や悪党らと昵懇(じっこん)の関係にあり、彼らを足軽として編成していたのである。細川勝元はそうしたマネージメント能力に目を付け、呉服や太刀を与えて応仁の乱に動員したという。道賢が足軽大将に登用されたのは、その才覚が評価されたからだろう。
応仁2年(1468)3月、東軍に属した道賢は、京都下京の焼き討ち作戦に従い、稲荷山(京都市伏見区)に陣を取った。率いた手勢は、300余だったと言われている。しかし、戦いは東軍の不利なまま展開した。
道賢が率いる軍勢は、西軍に攻め込まれ窮地に陥った。道賢は女装して板輿(いたごし。屋根と左右両側を白木板で張り、前または前後に簾を掛けた輿)で逃亡しようとしたが、西軍の者に討ち取られて戦死したのである。
なお、その死は「昨日まで 稲荷廻し 道賢を 今日 骨皮と 成すぞかはゆき」と和歌で皮肉られたと言われている。
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2024年6月12日 YAHOO!JAPANニュース 山内琉夢歴史プレゼンター「戦国時代で敗戦したらどうなる?足軽に背負わされた過酷な運命とは
鎌倉時代から存在した足軽は、庶民出自の雑兵(一般兵)のことを指します。
戦国時代には「集団主戦力」として重宝されましたが、一方で個人戦力としては「使い捨ての駒」のような存在でした。
今回は、そんな足軽についてみていきましょう。
□御貸具足
福山自動車時計博物館の展示物 足軽のイメージ画像(筆者撮影)
武家出身の武士と違って、庶民出身の足軽には武具を購入するお金もままならない者が多くいました。
甲冑を自前で用意できない彼らは、所属する組織のボスが用意した「御貸具足」というレンタル武具を借りることになります。
御貸具足は大量生産を目的に製造された簡素なもので、胴体には「合印」とよばれる家紋が刻印されていました。
集団行動で戦う足軽にとって、敵と仲間を瞬時に判断できる合印は非常に重要なものだったといいます。
□「遅れをとるな」の真意
小倉城の展示物(大阪夏の陣) 合戦のイメージ(筆者撮影)
戦国時代のドラマや映画でよく耳にする「遅れをとるな」という台詞は足軽を鼓舞するものですが、疲労が蓄積した足軽に鞭を打つ残酷なシーンに感じる方が多いかもしれません。
しかし、実際の戦場で遅れをとった足軽は無力。孤立した者から狙われ、簡単に殺されてしまうのです。
「遅れをとるな」という台詞は合戦の陣形を乱さないためのものですが、ひいては足軽の命を守ることにも繋がっています。
□死刑宣告!「殿(しんがり)」
小倉城の展示物 殿様のイメージ(筆者撮影)
戦場で敗走が確定した際、足軽の部隊には「殿」の役目が回ってくることがありました。
殿とは、殿様や将軍を逃すために戦場に踏みとどまり、囮として犠牲になる役目のことです。
死亡率は驚異の80%超えといわれており、まさに死刑宣告。「軍監」が殿部隊を監視しており、逃げ出したものは打首に処されます。
奇跡的に助かった足軽には、さらなる地獄が待ち受けていました。
□落武者狩りの盗賊
小倉城の展示物(大阪夏の陣) 合戦のイメージ(筆者撮影)
合戦後、逃げ遅れた者に待ち受けていた地獄とは、敵兵や落武者狩りとの遭遇です。
戦場に散乱する死体や重傷者の武具を狙った追い剥ぎといった落武者狩りの盗賊が潜んでいたため、周囲を警戒して山の奥深くで身を潜める必要がありました。
空腹時には麓の村と交渉して食料を分けてもらったり、周囲で悪事を働く野党を捕まえて差し出して食料と交換してもらったりしたそうです。
これほど過酷な生と死の境界線を走り続けた足軽たち。
彼らは何を望んで戦場へ出陣していたのでしょうか。
山内琉夢
歴史プレゼンター
歴史ライターとしての活動経験を持ち、今までに32都府県の歴史スポットを巡ってきました。実際に現地へ行くのが難しい方に向けて、取材した歴史スポットについて紹介します。また、歴史に興味をもったことがなかった方にも楽しんでいただけるよう、歴史偉人の意外な一面や好きな食事・おやつの紹介など、ワクワクするような内容をお届したいです。
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2021年11月13日 YAHOO!JAPANニュース「【戦国こぼれ話】応仁の乱で活躍した足軽は、戦争の変化によって誕生した画期的な存在だった
足軽の出現により、甲冑はより軽く、実用的になった。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)
テレビの歴史番組を見ていると、足軽を取り扱っていた。足軽といえば、軽装で戦場を駆け抜けたことで知られているが、それは戦争の変化によって必然的に誕生したものであった。その経緯を確認することにしよう。
■平安から鎌倉時代の甲冑
平安時代以後、武将が主に着用した甲冑は、騎射戦に適した大鎧である。その構造は、短冊形に裁断した鉄の薄金板や革の小札(細長い小板で鉄または革製)を革または組糸で威して製作した。
威すとは、「つづり合わせる」という意味である。威し色目は色が豊富で、要所に打った据文金物などの装飾性が高く、武門の趣致を示すために赤糸威、黒革威などと称された。通常、大鎧には星兜を具足していた。
平安時代から鎌倉時代の初期にかけては騎射戦が多く、丈夫な大鎧は適した防具だった。ところが、鎌倉時代中期以後、騎射戦の衰退とともに大鎧は形式化し、室町中期頃には用いられなくなった。
■戦術の変化
大鎧は、実用に向かなくなったのだ。騎射戦の代わりに増えたのが徒歩戦である。以降、戦争の変化とともに防具は進化を遂げる。
平安時代の戦争は、さほど将兵は動員されず、数百人程度の小規模な戦闘が多かった。戦国時代になると、数千から数万の大軍同士が戦うことも増え、武器も槍や鉄砲などの新兵器が用いられるようになる。
戦闘員が増えるということは、防具を短期間に製作する必要が生じる。さらに、機能性や素材の軽量化・簡略化、あるいは新しい素材の採用などで、これまでの大鎧にこだわる必要がなくなった。
鎌倉時代後期から南北朝時代に掛けて騎射戦が減り、代わりに徒歩戦が増えた。そのような事情から、重たい大鎧は機動性に欠けるという欠点があったので、軽い胴丸・腹巻にとって代わられたのである。
■新しい時代の防具
南北朝時代以降に徒歩戦が増えたので、軽量な胴丸が着用されるようになった。胴丸は、古代に用いられた挂甲という鎧に似ており、平安・鎌倉時代には徒武者が着用していた。
胴丸の形態は、胴回りがひと続きで右脇に引合せ、裾の草摺(甲冑の胴の裾に垂れ、下半身を防御する部分)は八間に分かれて歩きやすくなっている。また、主に筋兜と大袖を着用するようになった。
腹巻は胴の前と左右脇から背面両側が続いて背中で引合せ、その隙間に背板をつけた。裾の草摺は七間五段下がりとなっており、胴丸よりも簡便な防具で、鎧の下や衣の下にも着込むことがあった。
■足軽の登場
こうした軽装で出陣したのが足軽だ。足軽は「足軽く駆け回る者」という意味で、その存在は鎌倉時代から確認できる。騎射戦や個人戦が多かった時代から、歩戦による集団戦闘が主流になる鎌倉時代末期以降、その姿が顕著に見られるようになった。
足軽は武士身分だけでなく、さまざまな階層によって構成されていた。なかには、農村で食いつぶしてしまい、足軽に転身する農民すら存在した。
もっとも足軽が活躍したのは、応仁元年(1467)からはじまった応仁の乱である。彼らは放火略奪をも辞さず、目的は己の懐を潤すことにあったという。戦国時代になると、足軽は弓足軽、鉄砲足軽などに進化を遂げた。
■その後の展開
戦いの変化とともにあらわれたのが、「当世具足」である。当世には「今の」という意味があり、戦国時代における最新の具足だった。旧来の具足に対し、あえて当世具足と称したが、のちには単に具足と呼ぶようになった。
当世具足は従来の胴丸を鉄板製とし、槍や飛び道具から身を守る機能を備えた。また、全身を覆うため、籠手・脛当て・佩楯(草摺と臑当との間の大腿部の防御具)・面具などの小具足を新たに付け加えたのである。
渡邊大門
株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。
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足軽 (あしがる)
日本中世を通じてゲリラ戦術に駆使された身分の低い兵士。また〈足軽に出立〉〈足軽を懸ける〉というように,その装備や行動をもいう。もと足軽にすばやく行動する者の意。平安末期の《平家物語》や南北朝期の《太平記》に散見する足軽は,戦いに先立ち敵方の市中に放火してまわる〈足かる共〉や,犬を使い暗闇に働き,夜半に“歩立(かちだち)”で敵城に忍び入る〈足軽ノ兵〉など,いずれも戦場の裏面で放火・忍びなど敵背のかく乱工作に従うゲリラ集団として描かれている。しかしその多くは訓練された特殊部隊ではなく,その戦場に詳しい〈案内知タル兵〉とされるように,地元の宿・村から集められた悪党的な傭兵であった。応仁の乱期になると,都の貴族たちは〈このたびはじめて出来れる足がるは超過したる悪党なり〉と特筆し,略奪・放火・空巣など暴貪をこととする〈疾足の徒〉とみなし〈亡国の因縁〉と断じた。このように足軽が乱世を象徴する新たな存在と見られ支配層に深い危機感を抱かせた理由は,足軽が〈ただ一剣をもって敵陣に突入〉する〈精兵の徒〉とされたように,身ひとつで敵陣に白兵戦をいどむ精強な歩兵集団として,戦いの前面に現れてきたことにもよるが,何よりも足軽が〈土民蜂起の如く一同せしむ,是近来土民等足軽と号して雅意に任す〉とされたとおり,この時代に大きい土一揆の高まりを示す惣村や農民と不可分のつながりをもつ集団として立ち現れてきたことに求められよう。戦国時代,諸大名は足軽を忍び・放火・言戦など多彩なゲリラ工作に駆使したほか,《上井覚兼日記》に〈彼浦に足軽など勧候する為〉とみえるように,領内の村々で農兵による足軽の組織化にのりだし,伝統的な騎馬武者中心の中枢軍団とは別に,新来の鉄砲をはじめ弓・鑓(やり)など兵器種別に戦闘足軽集団の編制を推し進め,農民支配の深化,戦術の革新につとめるに至った。足軽はその行動から蔑視され低い身分の兵士とみなされた。
執筆者:藤木 久志 近世には武家奉公人の一種をいう。将軍,大名,直参,陪臣の諸家中にあって,武士階級の最下層〈侍・徒士(かち)の下位,中間(ちゆうげん)・小者の上位〉を形成し,士分に対して軽輩と称された。その存在形態はさまざまであった。世襲を認められ苗字帯刀を許された徒士同様の者から,一代限りで帯刀はもちろんのこと苗字さえも許されない,なんら庶民と変わらぬ者までがあった。後者は多くは農民の出身であった。これを身分上武士に加えてよいかどうかは疑問がのこる。大名,直参,陪臣の諸家では,年に金5両二人扶持程度の給金で領分や知行所などから召し抱え,それを足軽組に編制して諸役の下役に配属し,門番などの雑役に使役した。足軽は,近世初頭に歩兵として槍・弓・鉄砲の各部隊に編制されて足軽大将に率いられ,主力戦闘集団を形成していた。江戸幕府では先手(さきて)弓組・鉄砲組,鉄砲百人組,持弓組・持筒組をはじめ諸役所属の同心がその系譜を引くという。いずれも30俵二人扶持程度を支給され,一代限り(現実には世襲)を原則とする抱席(かかえせき)であった。ちなみに幕府には足軽の称はなかった。明治維新をむかえて,足軽はすべていったんは卒族に編入されて士族とは区別された。だが,のちに譜代の者は士族に加えられ,他は平民に編入されたのである。
執筆者:北原 章男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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足軽 あしがる
中世において出現した軽装歩兵の呼称で、戦国時代以後組織化され、近世になって武士の最下層に位置づけられた身分。中世では、疾足(しっそく/はやあし)ともよばれた。『平家物語』『太平記』などには、敵方を攪乱(かくらん)するための兵として描かれている。南北朝内乱期に活躍した野伏(のぶし)の系譜を引くともいわれる。足軽の活動が顕著となるのは、応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱(1467~1477)のころで、『樵談治要(しょうだんちよう)』では「超過したる悪党」「ひる強盗」と記され、武士・公家(くげ)階級を脅かす存在であった。足軽の戦法は「甲ヲ擐(かん)セズ戈ヲトラズ、タダ一剣ヲモツテ敵軍ニ突入ス」(『碧山日録(へきざんにちろく)』)ともいわれるが、武士と異なり逃げることを恥とせず、集団戦を得意としていた。当時、足軽は傭兵(ようへい)的性格が強く、多様な階層より構成され、京都、奈良の近郊荘園(しょうえん)村落が主要な供給源の一つであり、土一揆(つちいっき)、徳政一揆の武力とも重なるところがあったと思われる。また、京都市中では足軽の放火、略奪行為も目だち、東寺が、足軽に加わることを禁じているように、社会問題化した現象でもあった。戦国時代、戦国大名は足軽の組織化を図り、郷村(ごうそん)支配の進展に伴って農兵の徴発を強化した。一方、織田信長の足軽鉄砲隊に代表されるように、鉄砲の普及によって常備軍化する傾向も強く、足軽の武器別編成も生まれた。近世、足軽は武士の最下層に身分として固定され、平時には雑役をも務めた。なお、明治維新後は卒(そつ)族と呼称され、廃藩置県後には士族に編入されている。
[小島 晃]
『三浦周行著「戦国時代の国民議会」「土一揆」(『日本史の研究 第1輯』1922・岩波書店・所収)』▽『鈴木良一著『応仁の乱』(岩波新書)』▽『中村通夫・湯沢幸吉郎校訂『雑兵物語・他』(岩波文庫)』
[参照項目] | 野伏
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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足軽【あしがる】
中世以後の雑兵(ぞうひょう)の称。南北朝期以後,従来の騎馬戦から歩兵の集団戦への移行に伴い活躍。《太平記》などではゲリラ集団として描かれるが,その多くは特殊部隊ではなく,村落などからの傭兵(ようへい)であった。応仁・文明の乱の時期には,無統制で乱暴狼藉(ろうぜき)などを行ったと都の貴族らに評されたが,戦国大名のもとで弓足軽,鉄砲足軽などに編成された歩卒となった。特に武田軍を破った織田信長の足軽鉄砲隊は有名。江戸時代には武士の最下層に位置し,明治維新後は卒族に編入され,一部は士族に加えられた。
→関連項目樵談治要|大名行列|中間|野伏|碧山日録|渡部斧松
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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ウィキペディア
足軽(あしがる)は、平安時代から江戸時代の日本に存在した歩兵の一種。
戦国時代
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出典検索?: "足軽" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2015年3月)
これまで足軽は戦闘の主役ではなかったが、戦国時代を迎え集団戦が本格化・大規模化していくと、訓練された長槍・弓・鉄砲の足軽隊が組織され備の主要な部隊として活躍するようになり、足軽の兵力が戦を大きく分けると言われるまでとなった。戦国時代後期には地位も向上して足軽大将の家禄は、200石から500石程度で中級の武士として認められる存在になった。兵卒の身分は依然として武士と農民の間に位置して低かった。
戦国期には歩兵の大集団による集団戦が確立されており、足軽の兵装もそれに沿ったものになっていた。一般的には皮革、あるいは和紙を漆でかためた陣傘(後に鉄板を切り抜き笠状に形成したものにかわった。)、鉄の胴鎧、籠手、陣羽織を装着し、そのほか水筒、鼻紙、布にくるんだ米など(例:糒、握り飯、芋がら縄)を携帯していた。胴鎧に関しては、稀に和紙や皮革、竹でできたものも見ることができるが、現存しているのはほとんどが重量4kg前後の鉄製のものである。
足軽部隊は、槍組足軽、弓足軽、鉄砲足軽などに分類され、多くは集団で隊を編制して小頭の指揮に従った。『雑兵物語』で詳しく当時の生活や操典、心得などを知ることができる。戦国期の足軽は非常に重装備であり、大型の手盾をもたないことを除けば重装歩兵とも比較できる装備を整えていた(ただし、後期になると一部足軽は足軽胴を着用せず、代わりに羽織を用いるようになる)。四国では、足軽のやや上位に一領具足などが存在した。足軽は歩兵だが、一領具足は乗りかえ馬をもたないものの、乗馬をしていたことが『土佐物語』において記述されており、一領具足は歩兵の上位である騎兵としての役割がみられる。
概念によっては、雑兵(雇い兵)と混同されることが多いが、足軽は正式に登録された下級武士であり、雑兵は戦いがあるたびに金銭で雇われる軍兵のことである。
戦国期における足軽による分捕り行為については、海外の資料にも残り、ルイス・フロイスの『日本覚書』1585年6月に「我らにおいては、土地や都市や村落、およびその富を奪う為に戦いが行われる。日本での戦はほとんどいつも小麦や米や大麦を奪う為のものである」と記述され、西洋との行動の違いについて比較している。
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