🗻28〕─1─古墳が集中する能登は古代の海上交易の要地、大伴家持が詠んだ「大和の風」。~No.89No.90No.91 

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 古代日本海は、縄文の海であり、東アジアの主要航路であった。
 古代日本海を主に航行していたのは、航海術に長けていた海の民・縄文人であった。
 日本海は日本の海であって、韓国の東海ではないし、ロシアの内海でもなかった。
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 2026年3月15日 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞オンライン「古墳が集中する能登は古代の海上交易の要地、大伴家持が詠んだ「大和の風」
 【能登はやさしや土までも・3】
 縄文時代から海を介した交流が見られた能登半島。古代になると能登人の目は列島各地、そして大陸へと向けられた。遺跡の発掘成果などから、「豊かな自然に恵まれ、静かな漁村が続く半島世界」という牧歌的なイメージと異なる、躍動的な姿が浮かび上がる。(読売新聞文化部記者・多可政史)
 海にゆかりのある古墳が2000基
 南北100キロ・メートルの能登半島でも、西側の「外浦」は大陸から吹く北西の季節風の影響を受ける。石川県志賀町の「千浦二子塚(ちのうらふたごつか)古墳群」では、12基の円墳が築かれた海岸段丘に激しい波が打ち付けていた。北陸を襲った記録的寒波の影響もあり、強風と寒さが能登の冬の厳しさを実感させる。
 (写真:読売新聞)
 1月27日、同古墳群で石川県内の考古学者らによる現地調査が行われた。石川考古学研究会副会長の伊藤雅文さん(66)は、「縄文時代から海に依存した生活をしてきた能登には海上交通の技術の蓄積があった。海を望む場所に築いた古墳にも被葬者と海との強いつながりが感じられる」と話す。
 能登は意外にも古墳が集中する地域だ。県立歴史博物館の三浦俊明・資料課長によると、県内で確認された3000基を超える古墳のうち約2000基が能登に集中する。能登では最大規模の首長墳である「雨の宮古墳群」(中能登町)も海を見渡せる場所にあるなど、海にゆかりのある古墳が多いのが特徴だ。
 古墳時代の活発な交流を示すのが七尾湾岸にある万行(まんぎょう)遺跡(七尾市)だ。3世紀半ば~4世紀頃の倉庫跡とみられる国内最大級の大型掘立柱建物群が発見され、「日本海の物流拠点」として大きな注目を集めた。7世紀に築かれた「須曽蝦夷穴(すそえぞあな)古墳」(同)は、一つの墳丘に二つの石室を持つ「双室墳」という特徴的な形態で、朝鮮半島との関わりが指摘される。
 千浦二子塚古墳群も北部九州の影響を受けた7世紀の石室に加え、須曽蝦夷穴古墳と同じ「双室墳」も見られる。伊藤さんは「近くの遺跡からは大陸由来とみられる移動式カマドも出土した。外来の要素を受け入れる素地が古墳時代の能登にはあった」と見る。
 日本海の海上交易の源流をたどる上で重要な能登の古墳は、2年前の能登半島地震で大きな被害を受けた。千浦二子塚古墳群では伊藤さんらが崩落の進行を防ぐため石室に土嚢(どのう)を積むなどの処置を施したが、修復が手つかずの古墳も多い。
 大陸からの玄関口
 海上交易で力を蓄えた能登の集団は地域の有力豪族となった。正史の「日本書紀」には、能登が中央政権に帰属しない、東北・北海道の蝦夷(えみし)などに対する北方政策の前線基地として組み込まれた様子が記される。
 千浦二子塚古墳群は石室の天井石が崩落(左)。土嚢で崩落の進行を食い止める処置が行われた(右)(石川考古学研究会の報告書から)
 飛鳥時代の660年。斉明天皇の命を受けた阿倍比羅夫による北方遠征で、従軍した能登の豪族・能登臣馬身竜(のとのおみまむたつ)が戦死したとある。淑徳大の森田喜久男教授は「その死が正史に特筆されたことは、斉明朝における東北経営において能登半島が重要な役割を果たしていたことを示す」と指摘する。
 北方政策に伴い、人の移動も活発化。能登の主産業だった塩や須恵器、鉄の生産技術が8世紀以降、東北の日本海側や新潟、佐渡などに波及した痕跡が考古学の成果からうかがえる。金沢学院大の小嶋芳孝名誉教授は平安時代の説話集「今昔物語集」に能登から金掘り集団が佐渡に行ったという話がある点に注目。「能登は塩・鉄・須恵器などの工人を北方に供給する生産技術の発信地だった。今昔物語集にもこうした工人移動の記憶が反映されたのだろう」
 能登は大陸文化が流入する玄関口にもなった。冬の季節風が大陸から船を運び、春先になると南からの風に乗って帰国する。時に難破した船もあったが、荒々しい日本海を乗り越えて大陸との往来は活発化した。
 唐と新羅の連合軍に滅ぼされた高句麗人が、北方民族の靺鞨(まっかつ)人とともに中国東北部に建国した渤海(ぼっかい)国は、日本に向け727年から919年の間に計34回「渤海使」を派遣。志賀町の福浦港周辺には帰国前の使節をもてなす「客院」があったとされ、船の製造や修理で大木の伐採が禁止されたとの記録もある。
 「海東の盛国」と称された渤海からは中国の暦など最新知識がもたらされた。一方、七尾市の小島西遺跡や羽咋市の寺家遺跡などで見られる祭祀(さいし)の痕跡は、外界との往来による疫病対策によるとの見方もある。小嶋名誉教授は、朝廷が能登一の宮の気多大社(羽咋市)を厚遇したのも「『境界神』としての役割を期待してのものだった」とみる。海を介した交流は現代につながる能登の信仰にも息づく。
 大伴家持、和歌に詠み記録
 古代の能登の姿について和歌で記録した大伴家持の万葉歌碑(左)の横に、万葉集研究者で元号「令和」の考案者としても知られる中西進さんの歌碑も立つ(石川県羽咋市で)
 当時の能登の姿について和歌で記録したのが、日本最古の歌集「万葉集」の編纂(へんさん)者・大伴家持だった。越中国(現在の富山県)国守だった家持は748年、当時同国の領内だった能登を巡行。造船用の木が切り出された「能登の島山」などを題材に歌った。
 家持は「之乎路(しおじ)」と呼ばれる山道を越え、羽咋の海に到着した。
 之乎路から 直(ただ)越え来れば 羽咋の海 朝凪(なぎ)したり 船梶もがも
 この歌にちなみ、船梶をデザインした歌碑が羽咋市の千里浜海岸にある。2011年には同じ場所に「大伴家持卿(きょう)に和す」と題し、新たな歌碑が建てられた。
 靺鞨の 凍風(いてかぜ)去りし 海原に 漲(みなぎ)りわたる 大和の真春
 この歌を詠んだのは万葉集研究の第一人者で元号「令和」の考案者としても知られる中西進さん(96)だ。令和の一文字にもある「和す」には家持の心情に思いを寄せた歌という意味が込められる。自身も夜間に訪れた月下の海岸を眺めながら作った歌だという。
 「家持が山道を越えて発見したのは朝凪した海だった。大陸から吹く冬の凍風が去り、春への季節の変化を感じ取った家持は、穏やかでハーモニアスな風こそが母国である大和の風なんだと実感したことでしょう」
 千里浜海岸を夕方に訪れると、曇り空の中に一瞬、晴れ間がのぞき、家持の歌碑に光が差した。航海に明け暮れた古代の能登人も、海を照らした光の方向に希望を見いだしただろう。
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