🗾7〕─4・B─縄文人(日本民族)バイカル湖畔起源説。〜No.32No.33No.34 

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 2012年11月1日 日本経済新聞「縄文・弥生人の「混血」 遺伝子解析で裏付け
 総合研究大学院大など発表
 日本列島の先住民である縄文人と、朝鮮半島から渡ってきた弥生人とが混血を繰り返して現在の日本人になったとする「混血説」を裏付ける遺伝子解析の結果を、総合研究大学院大(神奈川県)などのチームがまとめ、日本人類遺伝学会が編集する1日付の国際専門誌電子版に発表した。
 これまでも同様の研究結果はあったが、今回は1人当たり最大約90万カ所のDNA変異を解析し、結果の信頼性は非常に高いとしている。
 チームはこれまで公開されている本土出身者(主に関東居住者)、中国人、欧米人など約460人分のDNAデータに、アイヌ民族と沖縄出身者の計71人分を新たに加えて解析した。その結果、アイヌ民族と遺伝的に最も近いのは沖縄出身者で、次が本土出身者と判明した。本土出身者は韓国人とも近かった。
 この結果は、日本人全般が縄文人の遺伝子を受け継いでいる一方、本土出身者は弥生人との混血の度合いが大きく、混血しながら北海道や沖縄方面に広がっていったと解釈できるという。
 日本人の起源は縄文人がそのまま各地の環境に適応した「変形説」、縄文人弥生人が追い出して定着した「人種置換説」も知られているが、総研大の斎藤成也教授(遺伝学)は「研究結果は混血説のシナリオに一致した」と説明している。
 チームは今後、縄文遺跡で見つかる人骨のDNAを分析するなどし、日本人のルーツの解明を進める。〔共同〕
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 2021年9月18日 朝日新聞デジタル「日本人の「完成」は古墳時代だった? DNAを分析、ルーツに新説
 石倉徹也
 古墳人の男性の復顔像。群馬県渋川市の金井東裏遺跡で出土した頭蓋骨(ずがいこつ)から復元された=群馬県立歴史博物館提供
 写真・図版写真・図版写真・図版写真・図版
 金沢市で見つかった約1500年前の古墳時代の人骨のDNA解析から、縄文人弥生人にはなく、現代日本人に見られる東アジア人特有の遺伝的な特徴が見つかった。日本人のルーツは、土着の縄文人と大陸から渡来した弥生人の混血説が有力だが、さらに大陸からの渡来が進んだ古墳時代になって古墳人が登場したことで、現代につながる祖先集団が初めて誕生したことを示唆している。
 金沢大や鳥取大などの国際研究チームが18日、米科学誌サイエンス・アドバンシズに発表する。
 日本人の起源は、列島に住み着いていた縄文人に、大陸からの渡来集団が混血して弥生人となり、現代の日本人につながったとする「二重構造モデル」が定説とされてきた。1991年に東大名誉教授だった埴原和郎氏が唱えた。
 研究チームは、約9千年前の縄文人や約1500年前の古墳人など計12体のDNAを解読。すでに解読済みの弥生人2体のデータなどと比較した。親から子に遺伝情報が受け継がれる際に生じるわずかな違いの痕跡から、どの集団が遺伝的に近いのかを調べた。
 その結果、弥生人は、中国東北部の遼河流域など北東アジアで多く見られる遺伝的な特徴を持ち、縄文人と混血していることも確認できた。一方、古墳人は、弥生人が持っていない東アジア人に多く見られる特徴を持っていた。さらに、現代日本人と遺伝的な特徴がほぼ一致することも判明した。
 大陸からの移住、新技術持って次々に?
 大陸からの渡来人の大規模な移住は、約3千年前の弥生時代にさかのぼる。研究チームは、それ以降も漢民族などの集団が次々に渡来し、織物や土木などの新技術を伝えて古墳時代を築き、現代の日本人につながっていったとみている。
 古墳時代は3世紀後半~7世紀にかけて続き、弥生時代末ごろには邪馬台国が栄えたとされる。
 今回分析できた古墳人の骨は、金沢市で発掘された3体にとどまる。新説を裏付けるには、さらに分析数を増やす必要があるという。
 研究チームの金沢大古代文明・文化資源学研究センターの覚張(がくはり)隆史助教(考古科学)は「日本人が縄文、弥生、古墳の三つの祖先集団からなることを示す初めての証拠だ。今後、ほかの古墳人や弥生人のゲノムを広く調べることで、日本人の起源の謎に迫っていきたい」と話している。
 論文は以下のサイト(https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419別ウインドウで開きます)から読むことができる。(石倉徹也)
 古墳時代とは――大和政権が支配し、各地に前方後円墳
 縄文、弥生に続く3世紀後半~7世紀までの時代。農耕技術の発展や武器の普及などにより権力や富みが集中して階級社会が生まれ、大和地方を中心とする大和政権が成立。指導者たちを葬った巨大な前方後円墳が各地に造られ、武具や鏡などが副葬された。邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓との説もある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)や、世界文化遺産の大山古墳(伝仁徳天皇陵堺市)も有名だ。
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 DNA研究で「縄文人弥生人」が分かってきた
 東アジアの人びとと日本人は外見こそよく似ているが、DNAを見比べると大きな差がある。われわれの御先祖様たちはどんな人々だったのか。
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 2015年06月18日 21時10分 JST
 更新 2016年06月17日 JST
 2015年5月29日(金)、「NHKニュースおはよう日本」で、「分かってきた縄文人のDNA」なる特集が放映された。1万数千年前から2千数百年前まで繁栄を誇った縄文人のDNAが日本人の体にはしっかり刻み込まれており、東アジアの人びとと日本人は外見こそよく似ているが、DNAを見比べると大きな差があるという内容だ。
 古代史に興味ある人びとには、すでに広く知れ渡っていた学説だが、ようやく市民権を獲得したわけである。
 日本民族バイカル湖畔起源説
 これまでは、弥生時代の始まりとともに大陸や朝鮮半島から大量の渡来人(弥生人)が押し寄せ、先住民(縄文人)は圧倒され駆逐されたと信じられてきた。江上波夫騎馬民族日本征服説が戦後の史学界を席巻してしまった時期もあった。さすがにこの推論を支持する学者はいなくなったが、「日本に与えた朝鮮半島の影響力を大きくみなすことこそが進歩的」という風潮は、つい最近まで残っていたように思う。しかしそういった「これまでの常識」は、もはや通用しなくなった。
 まず、かつて盛んに唱えられていた日本人南方起源説が、否定された。人種の違いを識別できる「血液型Gm遺伝子」の分布から、日本人の先祖はロシアのバイカル湖から南下してきたことが判明したのだ。「日本民族バイカル湖畔起源説」である(松本秀雄『日本人は何処から来たか』NHKブックス)。さらに、DNA研究の進化によって、新人(ホモ・サピエンス)が15万年前にアフリカ大陸に生まれ、その後世界各地に散らばっていったことも証明された。
 それだけではない。人類の祖は大きく3つのグループに分かれてアフリカを旅立ったが、その3つの遺伝子すべてが、日本列島にやってきたという。このような例は、世界中見渡しても稀で、ここに日本人の特徴が隠されているという。
 さらに、父から息子につながっていくY染色体の研究が急速に進み、日本人のルーツ探しが一気に加速したのだ。ちなみに、Y染色体はA~Tの系統に分かれ、日本人に関わりの深かったのはDとOの系統だ。
 渡来人を受け入れた先住民
 では日本人は、いつ、どこからやってきたのだろう。『新日本人の起源 神話からDNA科学へ』(勉誠出版)の中で崎谷満は、次のように推察する。
 バイカル湖畔から南下し華北に暮らしていたD系統だが、漢民族の圧迫から逃れるためにさらに南下し日本列島にやってきて、縄文人の中核を形成した。かたや、弥生時代に渡来した人々は長江流域で水稲栽培をしていたO系統だ。やはり、漢民族に滅ぼされて逃れてきたという。また、朝鮮半島の人びともO系統である。
 現代の日本人の体の中に占めるD系統の割合は3割、O系統は5割と、渡来系の比率が高い。この数字だけ見れば、やはり渡来人に先住民が圧倒されたと思えてくる。 しかし、前回示した「少数渡来」「先住民との融合」「列島人の稲作民化」「継承された縄文文化」「稲作民の人口爆発」という有力な仮説を用いれば、謎はなくなる(2015年5月18日「『任那日本府』の何が問題か」参照)。
 弥生時代の始まりとともに、渡来人の血が少しずつ染みるように先住民の中に受け入れられ、先住民は率先して稲作を選択し、人口爆発をおこした。彼らの子孫は、日本の風土の中で育まれ、縄文時代から続く列島人の風習と伝統を捨てなかった。もちろん、その後も大陸や朝鮮半島の動乱から逃れて人々が日本にやってきたが、彼らが日本列島を征服し、支配したわけではない。
 縄文の力
 なぜわれわれは、縄文人を軽視してきたのだろう。
 教科書そのものが、かつての常識そのままに、「野蛮だから駆逐された縄文人」という歴史観を子供たちに押しつけていたように思えてならない。教科書には、「背の高い弥生人、小さな縄文人」の骨格写真が並べられていた。あれを見れば、縄文人弥生人は入れ替わったと信じてしまう。
 その一方で、遺跡の現場で泥にまみれ直接発掘に携わっていた考古学者の多くは、「本当に日本列島は渡来人に席巻されたのだろうか」と、疑問を抱き続けてきたのだ。なぜならば、たとえば、弥生早期の外来系の土器は、玄界灘の沿岸地帯(北部九州)の大きな遺跡から発見されるだけで、他の地域からはほとんど見つかっていない。これは、考古学者の常識だった。
 今から10年ほど前に訪ねた青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡(鳥取県鳥取市青谷町)で学芸員が、「弥生時代は渡来人が作り上げたと言うが、それは違う。発掘を長いことやっていると、縄文の力を、ひしひしと感じる」と、やや憤慨しておっしゃっていたのを思い出す。この遺跡から発見された遺物の中に木の枕があって、そこに人間の歯が埋め込まれていた。これは縄文人の抜歯の風習の名残だ。弥生人も呪術のために、歯を抜き、枕に埋めていたわけで、われわれ日本人は、そうした伝統を受け継いだ縄文人の末裔なのだ。
 われわれの御先祖様たちは「敗れ、渡り来たった者たち」を寛容に受け入れ共存し、豊かな感性を磨き、当時の中国や朝鮮半島の先進の文物を貪欲に学び取り、世界に冠たる文化を花開かせてきたのだ。その歴史を、われわれはもっと誇りにしてよいと思う。
 青谷上寺地で発見された、人間の歯が埋め込まれた木の枕(筆者撮影)
 関裕二
 1959年千葉県生れ。仏教美術に魅せられ日本古代史を研究。『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『物部氏の正体』(以上、新潮文庫)、『伊勢神宮の暗号』(講談社)、『天皇名の暗号』(芸文社)など著書多数。
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