☲45〕─1─世界的な舞姫「崔承喜」誕生のルーツに日本との関わり。~No.170No.171 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2026年3月29日 YAHOO!JAPANニュース All About「韓国がスポーツ・文化で躍進を遂げた理由とは? 世界的な舞姫「崔承喜」誕生のルーツに日本との関わり
 スポーツやカルチャーで世界的な有名人を多数輩出している韓国ですが、その歴史は日本統治下の朝鮮時代にさかのぼります。日本が韓国の文化にどのような影響を与えたのか、そのルーツを振り返ってみましょう。※サムネイル画像:PIXTA
 © All About, Inc.
 オリンピックの表彰台や音楽配信サービスのランキングなどで、韓国人のアスリートやアーティストを見かけることはめずしくありません。そこで韓国がスポーツや文化面で躍進を遂げた背景を遡ると、日本との関わり合いが見えてきます。
 井沢元彦さんの著書『真・韓国の歴史 なぜ「反日」を捨てられないのか』では韓国の文化が発展した理由を詳しく解説。今回は本書から一部を抜粋し、朝鮮時代における日本と韓国の歴史をひもといていきましょう。
 【TOP5】人気の「K-POPガールズグループ」ランキング
 スポーツ・芸能にスターが生まれる
 1876(明治9)年に日朝修好条規が成立して以来、朝鮮から日本へは、留学生や、朝鮮修信使と呼ばれる使節団がたくさんやってきていた。皆若い両班の息子たちだが、彼らは階段を自分の足で上がろうせず、臣下の者2人に抱えられて上がったという。イザベラ・バードが「両班(ヤンバン)はキセルすら自分では持たない」と報告していたことを思い出していただきたい。
 朝鮮民族にとってずっと「ご主人様の国」であった中国では、清朝末期に次のような話が伝えられている。ある時イギリスの外交官が清国の高官と話していたおりに、テーブルの脚がずれているのを見て自分で直した。ところがそれを見ていた清国高官は「こいつは身分が低い奴に違いない」と考え、以後相手にしなかったという。これが朱子学社会だ。
 ところが、日本統治下の1936(昭和11)年、日本人選手としてべルリンオリンピックの男子マラソンに出場し見事金メダルを獲得したのが、半島出身の基孫禎(ソンキジヨン)選手だ。この時銅メダルを取った南昇龍(ナムスンニヨン)選手も半島出身だ。
 これも冷静に論理的に考えればわかることだが、日本が韓国を併合し朱子学的悪習を破壊しなければ、彼らは身分の低い下層民のままで、オリンピックに出るどころか社会の表舞台に出ることもできなかっただろう。「三・一独立運動」が万一成功していたとしても結果は同じだ。
 そもそもソウルオリンピックの開催も、そうした朱子学的悪習の破壊がなければ絶対に不可能だったことである。
 冬季オリンピックで活躍し、バンクーバーでは金メダリストとなったフィギュアスケートのキム・ヨナ選手も現在の韓国でこそ英雄だが、もし閔妃や5万ウォン札肖像の申師任堂が現役時代の彼女を見たら何と言うか。「いい年をして嫁にもいかず、人前で半裸に近い姿で踊る朝鮮民族の恥さらし」だろう。朱子学的にはそれ以外の評価はない。ひょっとして閔妃なら、金玉均にしたように刺客を差し向けたかもしれない。
 「半島の舞姫」こと崔承喜の存在
 日本がそうした朱子学的悪習を次々に破壊していったため、戦前の朝鮮半島から女性の大スターが生まれた。「半島の舞姫」こと崔承喜(チエスンヒ)だ。エキゾチックなダンスでその名を日本だけでなく、アメリカ、南米、ヨーロッパにまで広め、川端康成、ジャン・コクトー、ピカソ、ロマン・ロランといった一流の芸術家を魅了した国際的大スターだった。
 日本の教育を受け、日本でダンサーの修業をした彼女は、世界的ダンサーとなり、崔承喜舞踊団を旗揚げした。彼女が日本で修業したのは、そもそも朝鮮半島ではダンス自体が「妓生の余技」として見られており、当然ながらダンサー自体が認められる職業ではなかったからである。
 彼女は天才的な才能を持っていた。1937(昭和12)年のアメリカ公演で大成功を収め、翌々年には活動の本拠をパリに移し、全ヨーロッパの公演旅行も実現した。フランス留学中の周恩来がステージを見てファンになったのは有名な話だ。日本でも1944(昭和19)年に東京・帝劇を借り切っての25日間ロングラン公演を成功させている。
 しかし彼女を目の敵にしたのが、李承晩など当時はアメリカにいて日本を攻撃していた「在外朝鮮人」だった。そのこともあったのだろう。日本の敗戦後、彼女は夫とともに北朝鮮に渡ったが、最終的には「親日分子」とされ消息を絶った。
 日韓併合がもたらしたもの
 おわかりだろう。もし日韓併合、つまり李完用ら真の改革派が策していた「日本への弟子入り修業」が行われずに高宗の独裁が続いていたら、「朱子学的悪習」いや「朱子学の毒」はまったく除去されず、朝鮮民族の中から世界一のマラソンランナーが出ることも、世界的な女流ダンサーが生まれることも、決してなかったということだ。
 走ることも踊ることも汗をかくことも女性が表舞台に出ることも、朱子学の世界ではすべて悪なのだから。
 これが日本統治時代の真実である。つまり真実の歴史だ。そして真実の歴史を知ってこそ、本当の意味での未来への改革ができる。
 井沢 元彦(いざわ・もとひこ)プロフィール
 昭和29年、名古屋市生まれ。早大法学部卒。TBS入社後、報道局放送記者時代『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞受賞。その後退社し執筆活動に専念。歴史推理・ノンフィクションに独自の世界を開拓。
 関連記事
◆【あわせて読む】日本の教育が「エリートバカ」を生んでしまう?世界で活躍する人材の創出方法とは
◆韓国の近代化を進めた日本の功績とは?朝鮮半島に鉄道を作りインフラを整備した日本の技師たち
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 崔 承喜(さい しょうき、朝: 최 승희、チェ・スンヒ、1911年11月24日 - 1969年)は、1930年代から日本で活躍した朝鮮半島出身の舞踊家で、石井漠などにモダンダンスの技術を学びながら朝鮮古典舞踊の近代化に大きく貢献した。川端康成をはじめ多くの文人・知識人が彼女の舞いを絶賛、広告や映画などでも絶大な人気を博して、戦前期の日本で最も知られる舞踊家の一人となった。
 3年におよぶ欧米・南米での公演旅行を通じて芸術性が国外でも高く評価された[2]が、戦後、政治活動家の夫にともなって北朝鮮へわたり、のちに夫の政治失脚に巻き込まれて行方不明となった。近年[いつ?]、その生涯の悲劇性と舞踊の先進性が再注目されて韓国・日本で研究が進んでいる。

 北朝鮮へ
 1945年、中国滞在中に出産のため入院していた病院で日本の敗戦を迎える。その後、一度ソウルへ渡るが、共産主義に共鳴していた夫の強い意向で日本へは戻らず、翌1946年7月に北朝鮮へわたる。ここでも彼女は国際的な舞踊家として厚遇を受け舞踊研究所を主宰。のちに中国へも派遣され、パリで彼女の舞台を見たという周恩来の支援を受けて、北京の中央喜劇学院にも崔承喜の名前を冠する訓練班をたちあげて後進の育成、さらには京劇の近代化に大きな業績を残した[2]。このころ娘の安聖姫(アン・ソンヒ)も舞踊家となり、母とともに指導にあたっている。1948年8月に最高人民会議の代議員に当選。
 しかし後に北朝鮮で高位にのぼっていた夫が失脚。崔承喜自身も1967年「ブルジョワおよび修正主義分子」と名指しされ、娘とともに軟禁されたとする短報が出た後、消息不明となっている。
 2003年2月9日に、1969年に亡くなったこと、遺体が愛国烈士陵に葬られ墓碑に「舞踊家同盟中央委員会委員長、人民俳優」と刻まれていることが公式筋より公表され、「人民俳優」として名誉回復されたことが明らかとなった。しかし、失脚理由や死因は公式発表されておらず、公式発表の没年月日ですら正確な物なのかどうか、未だに疑問がもたれている。
   ・   ・   ・   
 2021年1月1日 民団新聞「時代に翻弄された朝鮮舞踊の先駆者…伝説の舞姫、崔承喜
 崔承喜(チェ・スンヒ/さい・しょうき/1911年~1969年)、「半島の舞姫」のニックネームで、朝鮮、日本のみならず、世界を魅了した舞踊家である。また、古典舞踊と現代舞踊を融合した「新舞踊」という新しいジャンルを確立させ、朝鮮舞踊の発展に尽くした先駆者だ。彼女の華やかな舞踊家としての人生と、日帝による植民地時代、そして祖国分断による越北と、時代に翻弄された激動の人生を振り返ってみる。
世界で公演 多くの著名人も魅了
 音楽学校に進めず
 崔承喜は、1911年11月14日、京城府(現在のソウル、江原道洪川郡生まれの説もある)の裕福な家で生まれる。父の崔ジュンヒョンは、漢学者で家に漢文書堂を設置し、洞内の子どもたちに漢文を教える朝鮮時代の典型的なソンビ(学者)だった。
 そのような父親の影響を受けた承喜は淑明女学校普通科と淑明高等女学校を卒業した。だが、順調だった生活は淑明女学校時代には家計が傾き、奨学金を受けながらようやく学校に通うばかりか、その日の食事にも事欠くほど貧しいものとなった。
 淑明女学校を卒業した後、教師は承喜に音楽の才能があることから、東京の音楽学校に進学するように勧めるが、年齢に達していないという理由で、入学許可が下りなかった。
 すると、承喜は貧しい家庭を助けるために教師として就職しようと京城師範学校の入学試験を受け合格をするが、やはり入学年齢に達していないという理由で合格が取り消されてしまう。
 韓日往復し新しい形作る…映画など幅広く活動
 承喜は、この知らせを聞き大きく落胆したが、兄、承一の勧めでモダンダンスの第一人者である石井漠の門下に入るため日本に渡る。石井漠の舞踊団に入団した崔承喜は、めきめきと才能を発揮し、次第に頭角を現す。しかし、石井漠の舞踊団は経営が悪化しきたことから、承喜は舞踊団をやめて京城に「崔承喜舞踊研究所」を開設し舞踊活動を始める。
 そのようななか、承喜の夫である安漠(アンマク)が日本の警察に拘束され、また、承喜は、妊娠、出産後の後遺症で、急性胸膜炎まで患い、経済的に困窮すると、最終的に師匠石井漠の元に戻り日本で再度活動することになる。
 その後、石井漠から独立し、1932年には日本で初の単独公演を行う。その同時期に安漠の手腕により、「崔承喜後援会」を結成。後援会には独立運動家の呂運亨、朝鮮最初の児童寓話作家の馬海松、作家の川端康成らの大物も名を連ねるなど、朝鮮舞踊の近代化という志向を持った彼女の踊りは、朝鮮人だけではなく多くの日本人も魅了した。
 承喜は地方の舞踊家や妓生(キーセン)から伝統舞踊を熱心に学ぶ程の熱意があったという。そして伝統舞踊と現代舞踊を融合させた新しい舞踊形式の「新舞踊」を確立する。今日の韓国と北韓、中国の舞踊界に、彼女が及ぼした影響は至大であり、事実、韓国の本格的な現代舞踊は崔承喜から始まったと言っても過言ではない。
 承喜は舞踊活動の傍ら映画にも出演した。特に1936年の舞踊映画「半島のダンサー」は、監督・俳優も日本人という日本映画。劇映画の評価は低かったものの承喜のアイドル的な人気のおかげで、4年にわたるロングラン上映となり、興業的には大成功だった。
 同年には自伝「私の自叙伝」を出版、さらには「イタリアの庭」というアルバムを出すなど、幅広い活動を展開していく。
 1930年代後半からは、米国、欧州、南米などで巡回公演を行うなど、活動の舞台を世界に広げていく。アーネスト・ヘミングウェイ、ゲーリークーパー、チャーリー・チャプリン、パブロ・ピカソ等の著名人が、彼女の公演を観覧する程の人気だった。
 また、承喜は音楽にも造詣が深く、特にリズム感覚が非常に敏感で優れていた。舞踊の練習中に伴奏の伽耶琴奏者がミスをすると、踊るのを止め、演奏者にミスの部分を指摘するほどだったという。
 独善的な性格と批判も
 一方で、承喜は舞踊家として成功した後、金銭的な問題においては「ケチ」という言葉を聞くほどお金に非常に細かく、これにより兄弟たちの間でもお金の問題でもめ事がよく起こったという。
 その半面、承喜本人は、過度なほど贅沢をし、夫や周りの人たちが自制するよう何度忠告してもその習性は絶対に変わらず、北韓に渡った後も治らなかった。
 承喜は本人の実力と、その名声に比べ、人間性は日本植民地時代当時や、解放後に渡った北韓でも、非常に独善的であると多くの批判を受けた。
 あるインタビューで、「ファンレターは適当に見て投げ捨てる」と平気で言ったり、当時の公演観覧マナーに慣れていなかった朝鮮人の観客が、公演観覧の間に音を出すと、踊りを中断して、静かにするよう怒鳴ったなどの逸話があるほどだ。
 北へ渡りVIP待遇…一転失脚
 1946年5月、米軍占領下の朝鮮南部(現在の韓国)へ戻った承喜は戦争中、日本軍の部隊慰問公演へ協力したことなどをあげつらわれ、思わぬ批判を浴びてしまう。 承喜本人は、自分の親日行為をそれなりに反省したものの、国内で自分への世論がここまで悪化しているとは全く想像していなかった。
 そのころ夫の安漠は、平壌へ越北している。安漠は日本統治時代、左翼色が強い「朝鮮プロレタリア芸術同盟」のメンバーとして活躍。中国で地下活動をしていた朝鮮独立運動組織ともつながっていた。越北した安漠は、密かに韓国に降りてきて承喜に越北を勧めるが、承喜は越北について懐疑的であった。
 安漠は「ここにいれば、あなたが行く所は刑務所しかない。私と一緒に北に行くと女王のようにもてなしを受け取る」と脅迫まがいに承喜を説得した。
 承喜は、安漠の続く説得と脅迫、そして、自らの「親日派」容疑を打ち消すために、最終的に心を変えて越北する。
 結論として承喜の越北は、自分が親日民族反逆者に断罪されることに対する恐怖と、より良い条件で活動したい欲求に起因するものであったのが正確だといわれる。
 粛清? 57歳の最期は不明
 越北した承喜に対し、金日成は、これまでの功績を称え功勲俳優称号を贈る。また、「崔承喜舞踊研究所」を平壌に建て、彼女を所長に据えた。さらには研究所の収入を全て承喜がもらうなど、VIP級の待遇を与えた。
 承喜はこのような待遇に応えるため、朝鮮民族の舞踊を体系化し、金日成の意向に沿うような作品も創作した。そしてやがては北韓の文化芸術全般を仕切る立場にまで昇り詰めてゆく。
 だが、栄光は長くは続かない。承喜ほどの大スターであっても、所詮「日本とつながりがあった人物」が信用されることはないのだ。礎さえ築いてくれれば後は邪魔者になる。
 1958年、夫の安漠が米国の固定スパイとして逮捕される。安漠の逮捕後、家宅捜索をしたときに、金、銀、宝石、美術品、骨董品等の贅沢品がたくさん出てきたことから、承喜はブルジョア的な舞踊家と批判される。
 そしてこの時、安漠は、米国のスパイという濡れ衣を着せられ、粛清されたと推定される。
 同年10月、金日成は、論文の中で、承喜のことを「個人英雄主義」と厳しく批判する。背景には金日成による政敵粛清の嵐に巻き込まれた夫、安漠の失脚の影響もあった。
 要職から外された承喜が命じられたのは、1959年から始まった朝総連による北送事業で北韓へ着いた在日朝鮮人の歓迎委員だった。そこでは広告塔としての「崔承喜」の名前もまだ利用価値があったからであろう。
 そして、決定的な失脚が伝えられる1967年までに、承喜は「文芸総中央委員」、「舞踊家同盟中央委員会委員長」などの肩書で活動したが、すべて実権がない名誉職であり、1960年代以降、舞台出演は目に見えて減少した。
 そして、1969年、57歳で死去した。粛清されたとみられるが、どのように最期を迎えたのかはよくわかっていない。
 2003年、北韓で突然、一般人として最高の栄誉である「愛国烈士陵」に葬られていることが発表された。前年には小泉総理の訪朝によって日本人拉致を認めたことから、北韓による対日宣伝だった可能性もある。
 さて、北韓はなぜ崔承喜を粛清したのか?
 崔承喜が粛清された時期は、北韓が文化芸術分野で復古主義と封建主義の残滓を根絶させるための一大粛清と取り締まりを強化していた時期と同じである。
 さらに、金正日は労働党宣伝扇動部において文化芸術部門を指導しながら、後継者としての地位を確立した時期でもあった。また、共産主義に関心を持って北韓に来た韓国で有名な多くの芸術家も粛清を迎えた。
 承喜もこの粛清の激しい風を避けることができなかったのではないだろうかと考える。
 さらに、承喜は、1954年に北で人気を呼んだ舞踊劇「使徒性の話」をはじめとする全ての作品に赤い思想が殆ど入っていないことからも粛清の対象になったのではと考える。
 時代に翻弄された「伝説の舞姫」、崔承喜。今日の韓国舞踊にもたらした影響は多大である。
 崔承喜の主な作品
「草笠童」「花郎舞」「チャンゴチュム」「天下大将軍」など。
娘(右)と北韓で撮影された写真
(2021.01.01 民団新聞)
■文化・芸能・スポーツ リスト
 在日本大韓民国民団
   ・   ・   ・   
 2014年10月20日 産経新聞「(29)「北」に粛清された「半島の舞姫・崔承喜」
 【挿絵で振り返る『アキとカズ』】(29)「北」に粛清された「半島の舞姫・崔承喜」
 オールド・ファンならば、「半島の舞姫・崔承喜」(チェ・スンヒ=日本読み、さい・しょうき)の名を懐かしく思い出すことであろう。
 東洋人ばなれした抜群のスタイルと、類いまれなる美貌で「半島の舞姫」「東洋のイサドラ・ダンカン(20世紀を代表するアメリカのモダンダンサー)」と絶賛された。世界の舞台で活躍し、ピカソやコクトー、川端康成など超一流の文化人に愛された不世出の舞姫である。
 産経新聞の連載小説『アキとカズ』は双子の妹、カズと、テナー歌手、長田健次郎(モデルは永田絃次郎)の一家が帰国事業で北朝鮮の清津へと渡り、苦難の生活が始まる場面を描いている。VIP待遇で帰国した長田を港に出迎えた北朝鮮の芸術家の中に、その崔承喜がいた。
 日韓併合の翌年である1911年に朝鮮半島中東部、江原道で生まれた崔は16歳のとき、内地(日本)から公演にきたモダン・ダンスの石井漠と出会う。17歳「セレナーデ」でデビュー、京城(現韓国ソウル)に崔承喜舞踊研究所を開き、モダン・ダンスに伝統的な民族舞踊の要素をミックスさせた新しいスタイルで世界を席巻する。
 作家の西木正明が書いた『さすらいの舞姫』(光文社)には川端康成が崔を、まるで自分の女のように自慢するくだりがある。《どうです。綺麗(きれい)でしょう。(略)戦前戦後を通じて日本に、いや世界レベルで見ても、これほどのバレリーナはめったにいませんよ》
 戦後、ソウルに戻った崔が北へ渡ることになったのは、夫の安漠(後に北朝鮮文化省次官が、北朝鮮の共産主義者とつながっていたこと、そして、「親日派」と同胞から批判されたからである。
 芸術家好きの金日成(北朝鮮初代最高権力者)にとって、崔はまさに「掌中の玉」であった。
 首都・平壌を流れる大同江のほとりの1等地に、周囲を圧倒するような瀟洒(しょうしゃ)な崔承喜舞踊研究所を建ててプレゼント。1、2階が300人にも及んだという団員の宿舎、3階が事務室、4階がけいこ場にあてられ、金日成もよく訪ねてきた。
 崔の権勢はすさまじく、北朝鮮の文化芸術全般を仕切る立場にまで上り詰める。そして、希望することや気に入らないことがあったときには、党の幹部らの頭越しに、直接、金日成へと話を持ちかけ、周囲を困惑させてしまう。
 ところが、崔の運命は突然暗転する。1958年10月、金日成が述べた「作家、芸術員の中にある古い思想に反対する闘争に力強く取り組むことに対し」という論文の中で、名指しこそされなかったものの、「舞踊大家」の名で、崔の行状を「個人英雄主義」とする批判が行われたのだ。
 直接のきっかけは、直前に予定されていた中国公演内容を巡って、崔と労働党幹部が激しく対立したことであったが、「崔承諾粛清」の最大の理由は、金日成の「政敵」であった朴憲永(元副首相、1956年スパイ容疑で処刑)のラインに崔の夫が連なっていたことにあった。
 崔はすべての肩書きを剥奪され、1年間の自己批判を命じられてしまう。長田(永田)を港に出迎えたときの崔は、こうした「厳しい立場」に置かれていたのである。
 挿絵で振り返る『アキとカズ』(25)日本人より韓国人に厚い摩訶不思議な日本の支援
 崔は長田の帰国から7年後の1967年、完全に粛清・失脚してしまう。崔の「寂しい最期」については、今後、小説の中で改めて描いてゆきたい。
 (『アキとカズ』作者、喜多由浩)
   ・   ・   ・