🗻45〕─1─欽明天皇。日本人は、越国で難破した高麗使節船の乗組員を助けた。573年。〜No.102No.103No.104 ⑩ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本人は、遭難した人々を、人種・民族、国家・国民に関係なく、誰彼関係なく助けていた。
 人助けを望んでいたのは日本天皇であった。
   ・   ・   ・   
 何故、日本天皇、日本国、日本民族日本人が遭難した人々を分け隔てなく助けたのか、それは初代神武天皇が発した詔「八紘一宇(八紘宇)」にあった。
 日本書紀「六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)にせむ」
 八紘一宇とは、弱者救済であった。
 皇統は、神武天皇の男系男子を正統相続としている。
   ・   ・   ・   
 日本は天皇の詔に従い、朝鮮半島や中国大陸から逃げて来た数多くの難民や避難民を受け入れ、関東や甲信越など東日本に土地を与え生活できるようにした。
 歴代天皇は、大御心・天皇の御稜威で許した。
   ・   ・   ・   
 日本天皇や八紘一宇を否定する事は、日本が古代から行って来た人助け、人道貢献を無意味・無価値として踏みにじる蛮行・愚行である。
 そうした日本人が静かに増え始めている。
   ・   ・   ・   
 日本の最高神は、皇室の祖先神である女性神天照大神であった。
 女性神天照大神は、自分の血を引く直系子孫(血統・血筋)を正統相続として日本の統治を託した。
   ・   ・   ・   
弘仁新羅の乱、弘仁11(820)年。
 新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で反乱を起こした。
 天皇への忠誠を拒否した渡来人達は、地方の反大和・反天皇勢力と結びつき反乱を起こしていた。
 帰化人達は、渡来人達を滅ぼしていった。
   ・   ・   ・   
 昭和天皇は、日本へ逃げて来た数万人のポーランドユダヤ人難民を助けていた。
 キリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を殺そうと狙っていた。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 欽明天皇(きんめいてんのう、509年?〈継体天皇3年〉 - 571年5月24日?〈欽明天皇32年4月15日〉)は、日本の第29代天皇(在位:539年12月30日?〈宣化天皇4年12月5日〉 - 571年?〈欽明天皇32年〉4月15日)。
 和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)。別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(いずれも「しきしまのすめらみこと」と呼ぶ)。この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。
   ・   ・   
 越国(こしのくに)は、現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域の、大化の改新以前の日本古代における呼称である。その後、7世紀に設けられた地方行政区分としての「国」に引き継がれた。当時は高志国と書かれ、越国は8世紀以降の書き方である。のちに令制国への移行に際して分割され、越後国越中国能登国加賀国越前国となった。越州(えっしゅう)・三越(さんえつ)などの地域名称の語源である。

 日本書紀によれば欽明天皇5年(544年)12月、佐渡島に渡来する粛慎人のことが越から朝廷に報告され、その後573年に高麗使人が越の海岸に漂着、船が難破し多数の溺死をみたこと、翌年にも彼らの漂着が報告され、589年になると朝廷は阿倍臣を北陸道に派遣して越など諸国の境界を調べさせている。
  ・  ・  
 粛慎(しゅくしん、拼音:Sùshèn)は、満州(中国東北地方及び外満州)に住んでいたとされるツングース系狩猟民族。また、後にこの民族が住んでいた地域の名称ともなった。粛慎という呼び名は中国の周代・春秋戦国時代華北を中心とする東アジア都市文化圏の人々(後に漢民族として統合されていく前身となった人々)が粛慎人の自称を音訳したもので、息慎(そくしん、Xīshèn),稷慎(しょくしん、Jìshèn)とも表記される。 中国の周代の文献の中にしばしば見られ、後代の挹婁・勿吉・靺鞨・女真満州族)と同系の民族と考えられている。
 日本の歴史書に現れる粛慎(みしはせ)とは字が同じだが、年代に大きな開きがあり、両者の関係性は不明である。
  ・  ・  
 粛慎(みしはせ、あしはせ)は、日本の正史である『日本書紀』や『続日本紀』などの中に記述が見られる民族である。中国文献中の粛慎とは存在した時期にかなりの開きがあり、同一であるかどうかなど両者の関係性は不明である。

 概要
 『日本書紀』に粛慎が登場する箇所は、大きく分けて以下の3つがある。
 欽明天皇の時に佐渡島へ粛慎が来たこと
 斉明天皇の時の阿倍比羅夫の粛慎討伐
 天武天皇持統天皇の時の粛慎の来訪と官位を与えたこと
 これら粛慎について、どのような集団かという説はさまざまあるが、おおむね以下のようにまとめられよう。
 蝦夷(えみし)と同じであるとする説。粛慎と呼ぶのは中国の古典にも見られる由緒ある名前であるからとする。
 蝦夷とも「中国文献中の粛慎」とも違う民族であるとする説(ニヴフ、アレウトなど、もしくは現存しない民族)。
 「中国文献中の粛慎」と同じツングース系民族であるとする説。
また北海道のオホーツク海沿岸や樺太などに遺跡が見られるオホーツク文化人(3世紀〜13世紀)という説も有力である。
 粛慎の訓はみしはせとする説とあしはせとする説とがあり、未だに定まっていない。見の字を略したミの音を表す変体仮名が、片仮名のアと字形が似ているため、このような混乱が生じている。
 
 欽明朝の粛慎
 粛慎についての日本での最も古い報告は、欽明天皇5年(544年)12月のものである。そこでは、佐渡島に粛慎人が来着したと書かれている。
 ただ、このことが本当に起きたことかどうかはにわかには信じがたい。後の粛慎討伐の軍勢が、佐渡島の対岸の越(こし、今の北陸地方)の国から起こったことを考えると、後世の粛慎討伐の記録から後付けで作られたものであるとも考えられる。

 斉明朝の粛慎討伐
 斉明天皇の時に代は、さかんに蝦夷支配下に置こうとした政策が行われた。その一環として、越の国の国守・阿倍臣による数回の蝦夷・粛慎討伐がある。日本書紀には6件の阿倍臣による征討についての記事がある。
 斉明天皇4年(658年)4月 - 180艘の船を率いて蝦夷を討伐する
 斉明天皇4年(658年)是歳(詳しい月日は不明という意味) - 粛慎討伐とヒグマの献上

 参考原文・現代語訳
 斉明天皇5年(659年)3月 - 180艘の船を率いて蝦夷を討伐する
 斉明天皇5年(659年)3月分注 - 粛慎討伐と捕虜献上

 参考原文・現代語訳
 斉明天皇6年(660年)3月 - 粛慎討伐

 参考原文・現代語訳
 斉明天皇6年(660年)5月 - 粛慎の捕虜献上
 
 参考原文・現代語訳
 この記事に付されている、実際の『日本書紀』中の粛慎についての記述を見れば明らかだが、これらの記事は内容が酷似しており、例えば、討伐の期間はみな3月から4月になっている。このため、これらの討伐が実際に何回行われたかについては諸説ある。
 例えば、本居宣長は、もともと討伐は1回しかなかったとし、4年・5年・6年と3回行ったように書かれているのは、壬申の乱などによる記録の混乱で4年・5年・6年と3種類の伝承ができてしまい、日本書紀の編者がそれら3種の伝承を無批判に取り入れたからだとした。
 なお、阿倍臣が粛慎討伐に向かった場所は渡島(わたりしま)と書かれているが、それがどこであるかは定かではない。ただ、ヒグマは本州にはおらず、北海道にしかいない。そして、阿倍臣がヒグマを献上したとの記録があることから、渡島を北海道であるとする説もある。

 天武・持統朝の粛慎
 天武5年(676年)11月には、新羅使節が粛慎を伴って来訪したとの記録(参考原文・現代語訳)があり、持統8年(694年)には粛慎人に官位を与えたという記録(参考原文・現代語訳)がある。この官位が与えられた粛慎は新羅使節とともに来た者たちだと考えられている。また、持統10年(696年)には、蝦夷とともに粛慎への賜与の記録(参考原文・現代語訳)が残っている。

 『日本書紀』中の粛慎についての記述

 欽明天皇5年(544年)12月
 越國言。於佐渡嶋北御名部之碕岸有肅愼人。乘一船舶而淹留。春夏捕魚充食。彼嶋之人言非人也。亦言鬼魅、不敢近之。
 越(こし、今の北陸地方)の国からの報告によれば、佐渡島の北の御名部(みなべ)の海岸に粛慎人がおり、船に乗ってきて留まっている。春夏は魚をとって食料にしている。かの島の人は人間ではないと言っている。また鬼であるとも言って、(島民は)敢えてこれ(粛慎人)に近づかない。

 嶋東禹武邑人採拾椎子、爲欲熟喫。着灰裏炮。其皮甲化成二人、飛騰火上一尺餘許。經時相鬪。邑人深以爲異、取置於庭。亦如前飛相鬪不已。有人占云「是邑人必爲魃鬼所迷惑。」不久如言被其抄掠。
 島の東の禹武(うむ)という村の人が椎の実を拾って、これを煮て食べようと思った。灰の中に入れて炒った。その皮が変化して2人の人間になり、火の上を一尺ばかり飛び上がった。時を経て相戦った。村の人はいぶかしく思い、庭に置いた。するとまた前のように飛んで相戦うのをやめない。ある人が占って「この村の人はきっと鬼に惑わされよう。」と言った。それほど時間のたたないうちに、(占いで)言ったように、物が掠め取られた。

 於是肅愼人移就瀨波河浦。浦神嚴忌。人敢近。渴飮其水。死者且半。骨積於巖岫。俗呼肅愼隈也。
 そこで、粛慎人は瀬波河浦(せなみかわのうら)に移った。浦の神の霊力は強かった。人は敢えて近づかなかった。のどが渇いたのでその(浦の)水を飲んだ。死者は半分になろうとしていた。骨は岩穴にたまった。俗に粛慎隈(みしはせのくま)と呼ぶ。
   ・   ・   ・